第10話 王太子殿下、守るべき相手を間違えない
朝の教室というものは、本来ならば穏やかな場所です。
窓から差し込む柔らかな光。
机の上に置かれる教本。
友人同士の挨拶。
今日の授業についての小さなため息。
昨日出された課題をまだ終えていない者の焦った声。
そうした日常の音が重なり、学園の一日が始まります。
けれどその日、私の机の上に置かれていた一枚の紙は、そうした穏やかな朝の空気を、ひどく冷たいものに変えました。
『身の程を知りなさい。王太子殿下のおそばに立つ資格が、あなたにあるのですか』
整った文字でした。
震えも乱れもない。
感情を抑え、丁寧に書かれた筆跡。
けれど、その内容には明確な悪意がありました。
私はしばらく、その紙を見つめていました。
教室にはまだ人が少なく、窓際の席で令嬢が二人ほど話しているだけです。
彼女たちはこちらに気づいていません。
あるいは、気づいていないふりをしているのかもしれません。
貴族学園では、その違いを見極めるのも容易ではありません。
私は紙を折り、鞄の奥へしまいました。
破り捨てることはしません。
証拠になるかもしれないからです。
そして、深く息を吸いました。
大丈夫。
落ち着いて。
一人で抱え込まない。
エレナ様との約束を思い出します。
以前の私なら、きっと黙っていたでしょう。
面倒事を大きくしたくない。
ルイート家に迷惑をかけたくない。
自分さえ少し我慢すればよい。
そう考えて、紙を隠し、何事もなかったように過ごしたかもしれません。
けれど、今は少し違いました。
これは私一人の問題ではありません。
王太子殿下とナリア様の関係にも関わります。
私が脅しに怯えて身を引けば、殿下の恋愛更生計画は崩れるかもしれません。
かといって、私が無理をして前に出すぎれば、噂はさらに悪化する。
だからこそ、相談が必要です。
私は鞄を閉じ、背筋を伸ばしました。
「マリア様」
教室の入口から声がしました。
振り向くと、エレナ・バートン子爵令嬢が立っていました。
いつもの穏やかな微笑み。
けれど私の顔を見るなり、その目が少し細くなります。
彼女はすぐに何かを察したようでした。
「ごきげんよう、バートン様」
「ごきげんよう。……少し、外へ?」
「はい」
それだけで通じました。
私たちは教室を出て、人の少ない廊下の隅へ移動しました。
窓の外では、朝の光が中庭を照らしています。
花壇の花は昨日より少し開き、庭師が遠くで水を撒いていました。
そんな穏やかな景色とは裏腹に、私の胸の奥には重いものが沈んでいます。
私は鞄から折った紙を取り出し、エレナ様へ渡しました。
彼女は紙を開き、目を通しました。
その表情から、笑みが消えます。
「……これは」
「今朝、机の上に置かれていました」
「誰が?」
「分かりません」
「筆跡は……整っていますわね。わざと癖を消しているようにも見えます」
「はい」
エレナ様はもう一度紙を読み、静かに息を吐きました。
「マリア様」
「はい」
「隠さず見せてくださって、よかったです」
「少し迷いました」
「でしょうね」
「でも、一人で抱え込まないと約束しましたので」
そう言うと、エレナ様はほんの少し表情を和らげました。
「偉いですわ」
「子どものように褒められている気がします」
「今は褒められてくださいませ」
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けました。
けれど、状況は楽観できません。
エレナ様は紙を丁寧に折り直しました。
「これは、すぐに殿下とグラシア様にも共有しましょう」
「はい」
「ただし、廊下や教室では駄目です。放課後の学術研究会で」
「それまで黙っていた方が?」
「表向きは」
エレナ様は少し考え、続けました。
「でも、グラシア様には早めに短く伝えられるなら伝えた方がいいですわ。殿下が先に知ると、少し……」
「暴走しますね」
「ええ」
即答してしまいました。
エレナ様も否定しません。
殿下は優しい方です。
そして最近は、自分の言葉や行動の影響を考えようと努力しています。
けれど、ナリア様や私が傷つく可能性があると、感情が一気に揺れる。
そこで口が暴走すれば、さらに大変なことになります。
まずはレオン様。
それから、殿下。
順番が重要です。
「マリア様」
エレナ様は、少し低い声で言いました。
「怖くありませんか」
私はすぐには答えられませんでした。
窓の外の中庭を見ます。
陽光は明るい。
生徒たちの声も穏やか。
いつもの学園です。
けれど、この学園のどこかに、あの紙を置いた誰かがいる。
私の机に近づき、あの言葉を残した人がいる。
そう思うと、背筋に冷たいものが走りました。
「怖いです」
私は正直に言いました。
「でも、それ以上に腹が立っています」
「まあ」
「私だけならまだしも、これはナリア様を不安にさせるためでもあると思います。殿下とナリア様が少しずつ向き合い始めたところなのに」
エレナ様は静かに頷きました。
「ええ」
「邪魔されたくありません」
言ってから、自分でも少し驚きました。
思ったより強い声でした。
私は、いつの間にかこの件を自分のこととしてだけではなく、殿下とナリア様のこととして受け止めているのだと気づきました。
池に落ちた王太子殿下を見て、面倒なことになったと思ったあの日。
あの時は、こんなふうに本気で腹を立てる日が来るとは思ってもいませんでした。
エレナ様は私を見て、少しだけ笑いました。
「マリア様は、やはり優しい方ですわ」
「優しいというより、巻き込まれた結果です」
「それでも、です」
彼女は紙を私に返しました。
「放課後まで、いつも通りにしましょう。私もできるだけ近くにいます」
「ありがとうございます」
「それと、今日ナリア様には不用意にこの話をしない方がよろしいかと」
「はい。殿下と相談してからにします」
「よろしいですわ」
私たちは教室へ戻りました。
朝の鐘が鳴ります。
生徒たちが席へ着き、教師が入ってくる。
いつも通りの授業が始まりました。
けれど、私は鞄の奥にしまった紙の存在を、ずっと意識していました。
文字は見えません。
紙は折られています。
それでも、そこに冷たい視線があるような気がしてなりませんでした。
午前の授業の合間、私はレオン様へ短い伝言を送りました。
内容は簡潔に。
「机に匿名の警告文が置かれていた。放課後の研究会で共有したい。殿下には落ち着いて伝えたいので、事前に把握をお願いしたい」
伝言を受けた下級生は、不思議そうにしながらも丁寧に礼をして去りました。
しばらくして、レオン様から返事が届きました。
「承知しました。殿下には放課後、私から同席のうえ伝えます。紙は保管を」
さすがです。
短く、的確です。
私は少しだけ安心しました。
しかし安心したのも束の間、昼休み前の廊下で、またベアトリス様とすれ違うことになりました。
ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢。
今日も美しい金茶の髪を結い上げ、白い扇を手にしています。
取り巻きの令嬢たちを従え、廊下の中央を優雅に歩いていました。
彼女はこちらに気づくと、ゆっくり微笑みました。
「ごきげんよう、ルイート様」
「ごきげんよう、ダルモア様」
私は礼をします。
エレナ様も隣で静かに礼をしました。
ベアトリス様の目が、私の顔を探るように動きます。
「本日は少しお顔色が優れないようですわね」
「ご心配ありがとうございます。問題ございません」
「あら、そう。何か気にかかることでもおありなのかと思いましたわ」
胸の奥が、ほんの少しだけ冷えました。
この言葉。
偶然でしょうか。
それとも、紙のことを知っているのでしょうか。
ベアトリス様本人が置いたとは限りません。
取り巻きの誰かかもしれない。
あるいは、まったく別の誰かかもしれない。
けれど、彼女が何かを知っている可能性はあります。
私は微笑みを保ちました。
「お気遣い、痛み入ります」
「ルイート様は最近、注目されていらっしゃいますもの。お疲れになることもあるでしょう」
「そのようですね」
「目立つ立場に立つと、いろいろな声が届きますわ」
扇の奥で、彼女の目が細くなります。
「良い声ばかりとは限りませんけれど」
エレナ様の空気が少し硬くなりました。
私は、ゆっくり息を吸いました。
ここで動揺してはいけない。
相手が何を知っているにせよ、こちらから出す必要はありません。
「そうですね」
私は答えました。
「ですが、届いた声をどう受け取るかは、自分で決められますので」
ベアトリス様の笑みが、ほんの少し止まりました。
「……強いのですね、ルイート様は」
「そうありたいと思っております」
「まあ」
ベアトリス様は小さく笑いました。
「では、どうかその強さを保ってくださいませ」
「ありがとうございます」
彼女は優雅に礼をし、去っていきました。
甘い香水の匂いが廊下に残ります。
その背中を見送った後、エレナ様が小さく息を吐きました。
「今の反応、少し怪しいですわね」
「はい」
「ただ、確証はありません」
「分かっています」
「紙を置いた本人かどうかは別として、こちらが揺れているか確かめに来たように見えました」
「私もそう感じました」
私は鞄を持つ手に力を込めました。
今の会話で、確信しました。
これは偶然の悪戯ではありません。
誰かが意図を持って動いています。
そしてその誰かは、私がどう反応するかを見ている。
ならば、なおさら一人で抱え込んではいけません。
昼休み。
私は普段より食欲がありませんでした。
しかし、エレナ様に見張られるように食堂へ連れていかれ、きちんと昼食を取ることになりました。
「食べないと倒れますわ」
「倒れません」
「朝から顔色が悪いです」
「ダルモア様にも言われました」
「だから余計に食べてくださいませ。相手に弱ったと思われては損です」
「それは一理あります」
私は白パンを一口食べました。
味はします。
昨日よりは。
エレナ様は満足そうに頷きます。
「よろしいですわ」
「バートン様は、時々母のようですね」
「まあ。では、蜂蜜菓子も食べますか?」
「持っているのですか?」
「ありますわ」
本当に小さな包みを出され、私は思わず笑ってしまいました。
「なぜ」
「マリア様が疲れた時用です」
「準備がよすぎます」
「友人ですから」
その言葉に、胸が少し温かくなりました。
私は蜂蜜菓子を受け取り、一口食べました。
甘さが広がります。
殿下が最初に持ってきた高級蜂蜜菓子とは違う、家庭的な優しい味。
張り詰めていた気持ちが、少し緩みました。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
エレナ様は微笑みました。
「午後を乗り切りましょう」
「はい」
放課後。
学術研究会の時間になると、私はいつもより少し早く開放学習室へ向かいました。
扉は開け放たれ、机の上にはすでに資料が置かれています。
レオン様が準備してくれたのでしょう。
学習室には、殿下とレオン様がいました。
殿下は私を見るなり立ち上がりました。
その表情は、いつもより硬い。
すでにレオン様からある程度聞いているのでしょう。
「ルイート嬢」
「殿下」
「紙を」
声が低い。
怒りを抑えているようでした。
私はレオン様を見ました。
彼は静かに頷きます。
私は鞄から折った紙を取り出し、机の上へ置きました。
殿下はそれを開き、読みました。
沈黙。
学習室の外では、生徒たちの声が聞こえます。
けれど、この机の周りだけ空気が重くなりました。
殿下の指が、紙の端を握りしめます。
強く握りすぎて、紙が少し歪みました。
「殿下」
レオン様が静かに呼びました。
「紙を破らないでください。証拠です」
「……分かっている」
殿下は深く息を吸いました。
吐きました。
呼吸。
できています。
けれど、その瞳には怒りがありました。
「誰がこれを」
「分かりません」
「机に?」
「はい。朝、置かれていました」
「君は」
殿下の声が一瞬震えました。
彼は言葉を選び直すように、口を閉じました。
そして、もう一度言いました。
「君は、大丈夫か」
その言葉に、私は少し驚きました。
以前の殿下なら、怒りのまま「こんなもの気にするな」と言ったかもしれません。
あるいは、相手を探し出すことばかりに意識が向いたかもしれません。
けれど今、最初に私の状態を尋ねた。
成長です。
確かに。
「怖くないと言えば嘘になります」
私は正直に言いました。
殿下の顔が痛ましげに歪みます。
「ですが、一人で抱え込むつもりはありません」
「……そうか」
「エレナ様にもすぐ見せました。グラシア様にも伝言をお願いしました」
「よかった」
殿下は小さく呟きました。
「君が一人で抱え込んでいたら、僕はまた見落とすところだった」
「殿下」
「ナリアのことも、君のことも、周囲のことも。見落としてばかりだった」
「今は気づいておられます」
「遅い」
「でも、気づかないよりずっと良いです」
殿下は黙りました。
レオン様が紙を丁寧に確認します。
「筆跡は意図的に整えられていますね。差出人を特定するのは難しいかもしれません」
「ダルモア嬢か?」
殿下が低く言いました。
レオン様はすぐには答えませんでした。
「可能性はあります。ただし、本人が直接書いたとは限りません」
「取り巻きか」
「あるいは、彼女の意図を勝手に汲んだ者かもしれません」
「……」
殿下は紙を見つめました。
怒りがまだあります。
けれど、爆発はしていません。
私は少しだけ安堵しました。
その時、エレナ様が入ってきました。
「失礼いたします」
彼女は場の空気を見て、すぐに状況を察しました。
「紙は共有済みですわね」
「ああ」
殿下が答えました。
「バートン嬢、君も見たのか」
「今朝、マリア様から」
「そうか」
殿下は少し頭を下げました。
「ルイート嬢を支えてくれて感謝する」
エレナ様が目を丸くしました。
それから、ふわりと微笑みます。
「殿下、今の感謝は大変自然でしたわ」
殿下の耳が赤くなりました。
「今は茶化す場面では」
「いいえ。大切な場面です。こういう時に自然に感謝できるようになったのは、とても良いことですわ」
殿下は言葉に詰まりました。
私も、少し笑ってしまいました。
重かった空気が、ほんの少しだけ和らぎます。
レオン様も静かに頷きました。
「同感です」
「レオンまで……」
「事実です」
殿下は少し照れたように視線を逸らしました。
しかしすぐ、表情を引き締めます。
「対策を決めよう」
「はい」
レオン様が紙を広げました。
「まず、この警告文は保管します。教師へ届けるかどうかは慎重に判断しましょう」
「なぜすぐ届けない」
「今の段階では、差出人が不明です。大きく動けば、相手にこちらが動揺したと伝わる可能性があります」
「……なるほど」
「ただし、同様のものが再び届いた場合は、学園側へ正式に相談します」
「それでいい」
殿下は頷きました。
エレナ様が続けます。
「噂への対策としては、今日も学術研究会を通常通り行うべきですわ」
「何事もないように?」
「はい。ただし、マリア様を一人にしない」
「そうですね」
私も頷きました。
「移動時はできるだけエレナ様と一緒にいます」
「私もそのつもりです」
「レオン、殿下側は?」
「殿下とルイート嬢が直接接触する場面を減らします。必要な伝言は私を通しましょう」
殿下は少し苦しそうに頷きました。
「それがいい」
以前の殿下なら、自分が直接守ろうとしたかもしれません。
けれど今は、距離を取ることがマリアを守ることにもなると理解している。
これも、大きな変化です。
「ナリアには」
殿下が言いました。
その名が出ると、全員の空気が少し変わりました。
「ナリアには、どう伝えるべきだろう」
私は少し考えました。
「警告文の件をすぐ伝える必要はないかもしれません」
「なぜだ」
「ナリア様を不安にさせる可能性があります。ただでさえ噂で揺れておられます」
エレナ様も頷きました。
「ですが、完全に隠すのも難しいですわ。どこかから耳に入る可能性があります」
「なら、先に僕から」
殿下が言いました。
「詳しい内容までは言わない。ただ、ルイート嬢に関する良くない噂があるかもしれないこと、僕たちは学術研究会として形を整えていること、そしてナリアが不安を感じたら直接聞いてほしいことを伝える」
私は少し驚きました。
殿下が、自分でそこまで整理して言ったのです。
レオン様も一瞬目を細めました。
エレナ様は嬉しそうに微笑みます。
「殿下、素晴らしいですわ」
殿下は少し戸惑いました。
「そうか?」
「はい。相手の不安を先回りして潰すのではなく、聞いてほしいと伝える。とても良いと思います」
私も頷きました。
「殿下ご自身の言葉で伝えられるなら、それが一番です」
殿下は深く息を吸いました。
「分かった。今日、機会を作る」
「ただし」
私は言いました。
「重く言いすぎないでください」
「分かっている」
「『君を不安にさせる噂など僕がすべて焼き払う』など」
殿下が目を逸らしました。
レオン様が紙を取りました。
「重すぎる表現候補、追加」
「まだ言っていない」
「思いましたね?」
「……少し」
エレナ様が笑いを堪えています。
私は頭を抱えたくなりました。
危ない。
殿下は怒りや守りたい気持ちが強くなると、やはり言葉が重くなります。
「殿下、噂は焼き払えません」
「分かっている」
「そして焼き払うという表現は怖いです」
「言わない」
「お願いします」
こうして、本日の学術研究会は少し異様な緊張の中で始まりました。
表向きには、前回の続き。
地方貴族の席次と式典礼。
レオン様が進行し、エレナ様が資料を整理し、私が王国史の部分を補足する。
殿下も冷静に議論へ参加していました。
少なくとも、外から見れば真面目な研究会です。
しかし、机の下では別の緊張がありました。
匿名の警告文。
ベアトリス様の牽制。
ナリア様への伝え方。
それらが私たちの間に横たわっています。
しばらくして、ナリア様が学習室へ姿を見せました。
今日は一人でした。
手には礼法研究会の資料。
少し迷うように入口で足を止めています。
私と目が合うと、彼女は小さく微笑みました。
昨日より、少し自然な笑みです。
殿下が立ち上がりました。
「ナリア」
「ごきげんよう、殿下。皆様」
「ごきげんよう」
殿下は短く返し、少しだけ息を整えました。
そして、練習していない言葉を言いました。
「今日も来てくれて、ありがとう」
ナリア様の目が、ぱちりと瞬きました。
私も少し驚きました。
自然でした。
重すぎず、短く、穏やか。
ナリア様は頬を少し赤くしました。
「こちらこそ、お邪魔でなければ」
「邪魔ではない」
殿下は即答しました。
少し強めでしたが、冷たくはありません。
ただ、その後に続けようとした気配がありました。
私は小さく咳払いしました。
「こほん」
殿下は口を閉じました。
ナリア様が小さく笑いました。
この咳払いの意味に、彼女はもう気づいています。
でも、以前のような不安な顔ではありませんでした。
むしろ少し、親しみを含んだ笑みです。
「ルイート様、喉は大丈夫ですか?」
ナリア様が尋ねました。
エレナ様が横で微笑みを堪えています。
私は静かに答えました。
「大丈夫です。少し乾燥しているだけです」
「そうですか」
ナリア様はくすりと笑いました。
殿下はその笑みに見惚れかけました。
レオン様が静かに机の下で殿下の靴を軽く踏んだように見えました。
殿下がはっとして呼吸します。
連携が取れてきました。
ナリア様が席に着き、研究会が再開されました。
今日は前回よりも少し穏やかでした。
ナリア様も自分から資料を開き、礼法の例を説明してくれます。
殿下はそれを聞き、短く質問し、感謝する。
その流れは以前よりずっと自然です。
「この場合、王族側から地方家へ敬意を示す文言は必要か」
「必要です。特に復興や防衛に関わる式典では、王家がその功績を公に認めることが重要になります」
「なるほど。参考になる」
「はい」
「ありがとう」
ナリア様は少し微笑みました。
「どういたしまして」
このやり取りだけなら、本当に穏やかな学術研究会です。
けれど、私たちは知っています。
この穏やかさは、簡単に壊れます。
だからこそ、一つ一つ慎重に積み上げるしかありません。
研究会の終わり頃。
他の生徒たちが帰り、学習室には私たち五人だけが残りました。
扉は開いています。
廊下の声も聞こえます。
それでも、少しだけ話せる空気でした。
殿下が、ナリア様へ向き直りました。
「ナリア」
「はい」
「少し、話してもいいだろうか」
ナリア様は小さく頷きました。
「はい」
殿下は、一度息を吸いました。
吐きました。
言葉を選んでいます。
「最近、僕たちの周りでいろいろな噂がある」
ナリア様の表情が、少し硬くなりました。
けれど、逃げません。
「はい」
「ルイート嬢にも、迷惑をかけている」
私は黙っていました。
ここで口を挟むべきではありません。
「だが、僕が君に向き合いたいと思っていることは、噂とは関係ない」
殿下は、ナリア様をまっすぐ見ました。
「もし、不安に思うことがあれば、僕に聞いてほしい」
ナリア様の瞳が揺れました。
「殿下に……?」
「ああ」
「私が聞いても、よろしいのですか」
その問いに、殿下の顔が少し痛みました。
以前なら、ナリア様は聞けなかったのでしょう。
聞いても冷たくされると思っていたのでしょう。
殿下は、その事実を受け止めるように、一度だけ目を伏せました。
そして言いました。
「聞いてほしい」
短く。
はっきりと。
「僕は、まだうまく答えられないかもしれない。言葉を間違えることもあると思う」
殿下は少し苦しそうに続けました。
「でも、逃げずに答えたい」
ナリア様は、しばらく何も言いませんでした。
その沈黙は、重くもあり、温かくもありました。
やがて彼女は、小さく頷きました。
「……分かりました」
声が震えています。
「私も、すぐに何でも聞けるようにはならないかもしれません。でも……そう言っていただけて、少し安心しました」
殿下の顔が赤くなります。
けれど、口は開きません。
呼吸。
できています。
「ありがとう」
それだけ言いました。
ナリア様は微笑みました。
その笑みは、今日一番柔らかいものでした。
私は胸の奥が少し熱くなりました。
殿下は、守るべき相手を間違えませんでした。
私に向けられた悪意に怒りながらも、ナリア様の不安を置き去りにしなかった。
それは大きな成長です。
研究会が終わり、ナリア様が帰った後。
殿下は椅子に深く座り込みました。
「……疲れた」
「お疲れ様です」
エレナ様が穏やかに言いました。
「でも、とても良かったですわ」
レオン様も頷きます。
「今日の殿下は、感情的になりすぎず、必要なことを伝えられていました」
「そうか」
「はい」
私は言いました。
「ナリア様も、安心されたように見えました」
殿下は両手で顔を覆いました。
「よかった……」
その声は、心底ほっとしていました。
けれど、私は机の上の警告文を思い出します。
今日の殿下はよくできました。
ナリア様も少し安心してくださいました。
しかし、問題は解決していません。
悪意の主は、まだ分からない。
噂も消えていない。
これから、さらに何か起こる可能性があります。
殿下もそれを分かっているのか、顔を上げると真剣な表情に戻りました。
「ルイート嬢」
「はい」
「君への警告文の件は、必ず対処する」
「ありがとうございます」
「ただし、君の立場を悪くしない形で」
私は少し驚きました。
殿下は続けます。
「以前の僕なら、怒りに任せて犯人探しをしたかもしれない」
「……はい」
「だが、それでは君にもナリアにも迷惑をかける」
「はい」
「だから、レオンと相談して慎重に動く」
レオン様が静かに頷きました。
「お任せください」
エレナ様も微笑みました。
「私も噂の流れは見ておきますわ」
私は、三人を見ました。
もう一人ではありません。
そのことが、こんなにも心強い。
「ありがとうございます」
自然に言葉が出ました。
殿下が少し微笑みました。
「今の感謝は自然だったな」
「殿下に評価されるとは思いませんでした」
「僕も言ってからそう思った」
レオン様とエレナ様が笑いました。
私もつられて、少しだけ笑いました。
重い一日でした。
怖いこともありました。
でも、最後に笑えた。
それだけで、少し救われた気がしました。
翌朝。
私の机の上に、新しい紙はありませんでした。
それを見て、私は少しだけ息を吐きました。
けれど、安心するには早い。
教室の窓から外を見ると、中庭の向こうでベアトリス様が取り巻きたちと歩いているのが見えました。
彼女はこちらに気づいたのか、ほんの少し顔を上げます。
距離があるのに、目が合った気がしました。
白い扇が開きます。
優雅で、美しく、冷たい動き。
私はその姿を静かに見つめ返しました。
逃げない。
でも、無謀にぶつからない。
殿下が少しずつ言葉を覚えているように、私もまた、この状況での立ち方を覚えなければなりません。
ナリア様を傷つけないために。
殿下の努力を無駄にしないために。
そして、自分自身を守るために。
朝の鐘が鳴りました。
学園の一日が始まります。
王太子殿下の恋は、相変わらず危なっかしく、噂と悪意に囲まれています。
けれど、昨日の殿下は確かに成長していました。
守るべき相手を間違えず、怒りに流されず、ナリア様の不安へ言葉を渡した。
その一歩は、きっと無駄ではありません。
私は席に着き、教本を開きました。
そして心の中で、いつものように呟きました。
王太子殿下。
どうか今日も、口から出す前に一度止めてくださいませ。
そして願わくば。
その止めた言葉の中から、本当に必要なものだけを、大切な人へ届けてください。




