第11話 王太子殿下、聞かれる覚悟をする
誰かに何かを尋ねる、という行為は、思っているより勇気がいります。
特に、それが自分の心を傷つけるかもしれない問いならば、なおさらです。
聞かなければ、少なくとも今の不安は曖昧なまま置いておけます。
けれど、聞いてしまえば答えが返ってくる。
望んだ答えかもしれない。
けれど、望まない答えかもしれない。
だから人は、聞きたいことほど聞けなくなるのです。
そして、聞かれる側にも覚悟が必要です。
誤魔化さない覚悟。
怒らない覚悟。
相手の不安を「くだらない」と切り捨てない覚悟。
アルノルド・アルスード王太子殿下が今学んでいるのは、まさにそれでした。
「ナリア様が不安を口にした時、殿下は最後まで聞いてください」
放課後の開放学習室。
机の上には王国史と礼法の資料が広げられていました。
表向きは、いつもの学術研究会です。
けれど机の端には、殿下用の小さな紙が置かれています。
一、まず聞く。
二、遮らない。
三、言い訳から入らない。
四、否定より先に受け止める。
五、呼吸。
最後の項目だけ、相変わらず基本が過ぎます。
けれど必要です。
殿下はその紙を真剣に見つめていました。
隣にはレオン・グラシア侯爵子息。
向かいにはエレナ・バートン子爵令嬢。
そして私。
四人で机を囲み、今日の議題を確認しているところでした。
「否定より先に受け止める、とは?」
殿下が尋ねました。
「たとえばナリア様が『私は殿下に嫌われているのではないかと不安です』とおっしゃった場合です」
殿下の顔が痛ましげに歪みました。
「嫌っていない」
「はい。殿下はそうおっしゃりたいでしょう」
「当然だ」
「ですが、最初に『違う』と強く否定すると、ナリア様は自分の不安そのものを否定されたように感じるかもしれません」
殿下は黙りました。
レオン様が静かに補足します。
「殿下は事実を訂正しようとされます。しかし、相手が求めているのは事実訂正の前に、自分がそう感じてしまったことを受け止めてもらうことかもしれません」
「……難しいな」
殿下は小さく呟きました。
「では、どう言えばいい」
私は紙に例を書きました。
『そう思わせてしまったのは、僕の態度のせいだ。すまなかった。嫌っているわけではない。』
「この順番です」
殿下はじっと文字を見ました。
「まず、相手がそう思った理由を自分の態度に置く」
「はい」
「謝る」
「はい」
「それから、嫌っていないと伝える」
「はい」
殿下は何度か小さく頷きました。
「なるほど」
エレナ様が微笑みます。
「殿下、今の理解はとてもよろしいですわ」
「そうか?」
「はい。以前なら『嫌っていないと言っているだろう』とおっしゃりそうでしたもの」
殿下が少し青ざめました。
「……言いそうだ」
「言わないでくださいませ」
「言わない」
即答でした。
成長しています。
少なくとも、言ってはいけない言葉を自覚できるようになってきました。
「では、練習します」
私はナリア様役として、少し声を落としました。
「殿下は、私のことを嫌っていらっしゃるのですか?」
殿下の肩がぴくりと動きました。
顔が強張ります。
本人ではありません。
私です。
それでもこの反応です。
けれど、以前より持ち直しが早い。
殿下は息を吸い、吐きました。
「そう思わせてしまったのは、僕の態度のせいだ。すまなかった」
良いです。
少し声は硬いですが、言えています。
「僕は、君を嫌っているわけではない」
そこで止まりました。
完璧です。
余計な言葉がありません。
私は頷きました。
「良いです」
レオン様も頷きます。
「問題ありません」
エレナ様は少しだけ首を傾げました。
「ただ、殿下」
「何だろう」
「本番では『嫌っているわけではない』だけですと、少し弱く聞こえるかもしれませんわ」
殿下が固まりました。
私も少し考えました。
確かに。
ナリア様にとっては、「嫌っていない」だけでは足りない可能性があります。
もちろん、いきなり「愛している」と言うには早い。
殿下の口がどうなるかも分かりません。
けれど、否定だけではなく、少し前向きな言葉が必要な場面もあるでしょう。
「では」
私は慎重に言いました。
「『大切に思っている』はどうでしょうか」
殿下が完全に停止しました。
レオン様が紙を持つ手を止めます。
エレナ様は目を輝かせました。
「まあ」
殿下の顔が、ゆっくり赤くなっていきます。
「大切に……」
「はい。好き、愛している、よりは穏やかです」
「穏やかだろうか」
「かなり」
レオン様が静かに言いました。
「『世界中の何よりも君が尊い』よりは穏やかです」
「言っていない」
「思いましたね?」
「……少し」
レオン様が記録しました。
「重すぎる表現候補、追加」
「追加しなくていい……」
殿下は顔を覆いました。
私は咳払いしました。
「殿下、まずは練習です」
「分かった」
「言ってみてください」
殿下はしばらく沈黙しました。
呼吸。
吸って。
吐いて。
ようやく口を開きます。
「僕は、君を大切に思っている」
言えました。
資料室ではなく、開放学習室。
エレナ様とレオン様もいる場です。
かなり恥ずかしそうですが、言えました。
私は頷きました。
「良いです」
エレナ様が拍手しそうになり、途中で止めました。
「とてもよろしいですわ」
殿下は机に額をつけそうになりました。
「本人の前で言える気がしない」
「今すぐでなくても構いません」
「だが、聞かれたら?」
「その時は必要です」
「……」
「殿下」
「はい」
「ナリア様は、殿下からたくさん冷たい言葉を受けてきました」
殿下の赤みが少し引きました。
表情が真剣になります。
「はい」
「その傷を埋めるには、曖昧な態度だけでは足りない時があります」
「……分かっている」
「大切に思っている。今はそれくらいの言葉なら、伝えてもよい段階に来ていると思います」
殿下は紙に視線を落としました。
大切に思っている。
その文字を、何度も見つめます。
「ナリアは、信じてくれるだろうか」
「一度では難しいかもしれません」
「そうだな」
「でも、一度も言わなければ、ずっと届きません」
殿下はゆっくり頷きました。
「分かった。覚悟する」
その声は、小さくても確かなものでした。
学術研究会としての活動は、順調に見えました。
少なくとも表向きは。
王国史と礼法を扱う自主研究。
成績上位者たちが集まり、資料を検討し、意見を交わす。
その中にナリア様が時折参加することも、自然になりつつあります。
殿下と私が二人で会っているという印象は、かなり薄まりました。
代わりに、殿下がナリア様の意見を求める姿が目立つようになりました。
それは良いことです。
けれど、良い変化を面白く思わない者たちは、やはり存在します。
その日の昼休み、私は中庭へ向かう途中で、数人の令嬢たちの会話を耳にしました。
「最近、ナリア様は学術研究会に参加されているのですって」
「殿下が直々に意見を求められるとか」
「まあ、以前とは大違いですわね」
「でも、あの研究会を始めたのはルイート様なのでしょう?」
「結局、ルイート様が間に入らなければならない関係ということではなくて?」
「ナリア様もお可哀想に。殿下のお心が本当にどこにあるのか、分かりませんもの」
言葉が胸に刺さりました。
私は足を止めませんでした。
けれど、近くにいたナリア様がその会話を聞いてしまったことに気づいた瞬間、胸が冷たくなりました。
ナリア様は廊下の柱の陰に立っていました。
手には本を抱えています。
表情は静かでした。
けれど、指先がわずかに震えています。
私は声をかけるべきか迷いました。
しかし、彼女は私に気づくと、小さく微笑みました。
「ルイート様」
「ナリア様」
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
短い挨拶。
周囲に人はいます。
ここで深い話はできません。
けれど、そのまま通り過ぎることもできませんでした。
「ナリア様」
「はい」
「今日の研究会には、いらっしゃいますか?」
私が尋ねると、ナリア様は少しだけ迷いました。
「……はい。伺ってもよろしければ」
「もちろんです。ナリア様のご意見は、とても助かります」
ナリア様は、ほんの少し目を伏せました。
「ありがとうございます」
その声には、昨日までよりも少し不安が混じっていました。
やはり、先ほどの会話が響いているのでしょう。
私は自分で説明したい衝動を押さえました。
違います。
私がここで何か言うより、殿下自身が向き合うべきです。
「では、放課後に」
「はい」
ナリア様は礼をし、静かに歩いていきました。
その背中を見ながら、私は鞄を握りしめました。
噂は、完全には消えていません。
形を整えても、悪意ある解釈は残ります。
そしてそれは、ナリア様の心を揺らす。
放課後の研究会で、きっと何か聞かれる。
そんな予感がありました。
放課後。
開放学習室には、いつもの四人がそろっていました。
殿下、レオン様、エレナ様、私。
今日の表向きの議題は、王国式典における誓約文の変遷。
かなり真面目な内容です。
しかし、私の頭の中には昼休みのナリア様の表情が残っていました。
殿下も、私の様子から何かを察したのか、少し緊張しています。
「ルイート嬢」
「はい」
「何かあったのか」
殿下が小声で尋ねました。
私は迷いましたが、短く伝えました。
「昼休み、ナリア様が噂を耳にされたようです」
殿下の表情が変わりました。
「どんな」
「研究会を始めたのは私であり、私が間に入らなければ成り立たない関係なのではないか、というような話です」
殿下の拳が握られました。
けれど、すぐに開かれます。
呼吸。
吸って、吐く。
「……ナリアは」
「表面上は落ち着いておられました。でも、不安そうでした」
「そうか」
殿下は目を閉じました。
「今日、聞かれるかもしれないな」
「はい」
「なら、逃げない」
声は静かでした。
私は頷きました。
その時、ナリア様が学習室へ来ました。
今日は一人です。
手には礼法研究会の資料と、昼休みに抱えていた本。
彼女は入口で一度立ち止まり、それから丁寧に礼をしました。
「ごきげんよう」
殿下が立ち上がります。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
自然な挨拶。
ナリア様は少しだけ目を和らげました。
「こちらこそ、お招きありがとうございます」
彼女は席に着きました。
研究会はいつも通りに始まりました。
レオン様が議題を提示し、エレナ様が資料を読み上げ、私が王国史の流れを補足します。
ナリア様も礼法の観点から意見を出しました。
殿下は丁寧に聞きます。
質問も自然です。
「この誓約文は、王族側の責務を強調しているように見えるが、礼法上はどう読む?」
「はい。これは臣下に忠誠を求めるだけでなく、王家が守護者としての役割を果たすことを示す形式です」
「なるほど。つまり、一方的な服従ではなく、互いの責務を確認する意味がある」
「その通りです」
「分かりやすい。ありがとう」
ナリア様は微笑みました。
「お役に立ててよかったです」
穏やかなやり取り。
でも、どこか薄い緊張がありました。
ナリア様の中に、聞きたいことがある。
けれど、まだ言えずにいる。
殿下もそれに気づいているようでした。
研究会が一段落し、エレナ様が資料を片付け始めた時。
ナリア様が、静かに口を開きました。
「殿下」
殿下の手が止まりました。
学習室の空気が変わります。
レオン様は黙って資料を閉じ、エレナ様も手を止めました。
私は、ただ見守りました。
「はい」
殿下は答えました。
声は少し硬い。
けれど、逃げていません。
ナリア様は、膝の上で手を握りました。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「ああ」
「……この研究会は、ルイート様がいなければ始まらなかったのでしょうか」
問いは静かでした。
責めるような声ではありません。
けれど、その奥には不安がありました。
殿下は、一度目を伏せました。
そして、ゆっくり顔を上げました。
「そうだ」
ナリア様の指が、わずかに震えました。
私は息を呑みました。
殿下、そこだけで止まってはいけません。
けれど彼は続けました。
「ルイート嬢がいなければ、僕は自分の態度がどれほど君を傷つけていたか、ここまで向き合えなかったかもしれない」
ナリア様は黙っています。
殿下の声は震えていました。
けれど、言葉は丁寧でした。
「だから、ルイート嬢には助けてもらっている。レオンにも、バートン嬢にも」
殿下は一度、私たちを見ました。
そして、もう一度ナリア様を見ます。
「でも、僕が変わりたいと思った理由は、君だ」
ナリア様の瞳が揺れました。
殿下は、息を吸いました。
今日練習した言葉。
必要なら伝える言葉。
彼は逃げませんでした。
「僕は、君を大切に思っている」
静寂。
開放学習室なのに、周囲の音が遠くなりました。
廊下のざわめきも、窓の外の風の音も、すべて薄くなったように感じました。
ナリア様は、目を見開いて殿下を見つめています。
殿下の顔は真っ赤でした。
耳まで赤い。
指も震えています。
けれど、彼は言いました。
自分の口で。
大切に思っている、と。
ナリア様の目元に、じわりと涙が浮かびました。
「……殿下」
その声は、とても小さく震えていました。
「それは、本当ですか」
殿下はすぐに頷きかけました。
けれど、一度止まりました。
言葉を選んでいるのです。
「本当だ」
短く、はっきりと。
「今までの僕の態度で、君が信じにくいことは分かっている。それでも、本当だ」
ナリア様は唇を噛みました。
涙がこぼれそうで、でも堪えています。
「私は……」
声が震えます。
「私は、殿下にそう言っていただきたかったのだと思います」
殿下の顔が痛ましげに歪みました。
「遅くなって、すまなかった」
ナリア様は首を横に振りました。
「まだ、怖い気持ちはあります」
「ああ」
「また冷たい言葉を言われたらどうしようと、思ってしまいます」
「ああ」
「でも……今のお言葉は、嬉しかったです」
殿下は、今にも何かを言いそうになりました。
私は咳払いをしようとしました。
けれど殿下は自分で口を閉じました。
そして、ゆっくり息を吸って、吐きました。
「聞いてくれて、ありがとう」
それだけでした。
けれど、それで十分でした。
ナリア様は、とうとう一粒だけ涙をこぼしました。
すぐに指で拭い、恥ずかしそうに微笑みます。
「こちらこそ、答えてくださってありがとうございます」
学習室の中に、静かで温かな空気が流れました。
エレナ様は扇で口元を隠しています。
泣いているのか笑っているのか分かりません。
レオン様は静かに目を伏せています。
私は、胸の奥がいっぱいになっていました。
殿下。
言えましたね。
ちゃんと、必要な言葉を。
その後、ナリア様は少し落ち着いてから帰っていきました。
殿下は見送りながらも、今回は固まりませんでした。
呼吸もしています。
ただ、静かに、彼女の背中が見えなくなるまで見ていました。
ナリア様が去った後、殿下は椅子に座り込みました。
「……言えた」
小さな声。
以前のように大騒ぎはしません。
ただ、深く息を吐きました。
「言えましたね」
私が言うと、殿下は両手で顔を覆いました。
「怖かった」
「はい」
「でも、言えてよかった」
「はい」
「ナリアが、嬉しかったと……」
「はい」
殿下の肩が少し震えました。
泣いているのかもしれません。
けれど、誰もからかいませんでした。
今日の一言は、それほど大きかったのです。
エレナ様が静かに言いました。
「殿下、本日は本当に立派でしたわ」
レオン様も頷きました。
「大きな前進です」
殿下は顔を覆ったまま、小さく言いました。
「ありがとう」
その感謝は、自然でした。
翌日。
学園内には、また新しい噂が流れていました。
王太子殿下が、ナリア様に「大切に思っている」と伝えたらしい。
正確な言葉までは、どこから漏れたのか分かりません。
開放学習室だった以上、完全な秘密にはできません。
けれど、その噂は悪いものばかりではありませんでした。
「殿下、やはりナリア様を大切にされているのね」
「最近のお二人、少し雰囲気が変わりましたわ」
「ナリア様、昨日は目元が赤かったけれど、穏やかなお顔でした」
「ルイート様は、やはり研究会の一員というだけなのでは?」
少しずつ、空気が変わっています。
もちろん、すべてが好意的ではありません。
ベアトリス様の周囲には、まだ冷たい視線があります。
けれど、ナリア様と殿下の間に確かな言葉が生まれたことで、私を使った揺さぶりは少し弱まりました。
少なくとも、今は。
昼休み、廊下でナリア様とすれ違いました。
彼女は私を見ると、少し恥ずかしそうに微笑みました。
「ルイート様」
「ナリア様」
「昨日は……ありがとうございました」
「私は何もしておりません」
「いいえ。きっと、たくさん助けてくださっているのだと思います」
私はすぐには答えられませんでした。
ナリア様は続けます。
「でも、昨日のお言葉は、殿下からいただいたものだと思えました」
その言葉に、胸が温かくなりました。
「はい」
私は微笑みました。
「それが一番だと思います」
ナリア様は頷きました。
その表情は、まだ完全に晴れやかではありません。
けれど、以前より柔らかい。
そして少しだけ、強くなったようにも見えました。
その日の放課後。
学術研究会の机に、殿下は新しい紙を置きました。
そこには、本人の美しい字でこう書かれていました。
『聞く。逃げない。大切な言葉を選ぶ。』
私はそれを見て、少し笑いました。
「殿下、新しい心得ですか」
「ああ」
「良いと思います」
「本当か」
「はい」
殿下は少し照れたように頷きました。
レオン様が真面目に言います。
「最後に『呼吸』も入れておくべきでは」
「……そうだな」
殿下は紙の一番下に書き足しました。
『呼吸』
エレナ様が笑いました。
「これで完璧ですわ」
完璧かどうかは分かりません。
けれど、殿下らしい紙になりました。
王太子殿下の恋は、まだ道半ばです。
好きだとも、愛しているとも、まだ言えていません。
過去の傷も消えていません。
悪意ある噂も、完全には消えていません。
けれど、殿下は今日、一つ大切な言葉を届けました。
君を大切に思っている。
その言葉は、ナリア様の胸に届いた。
それだけは、確かだと思えました。
私は夕方の光が差し込む学習室で、静かに息を吐きました。
王太子殿下。
今日のあなたは、本当に頑張りました。
どうかその調子で。
次に口から出す言葉も、ちゃんと一度止めて、選んでくださいませ。




