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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第12話 王太子殿下、焦ってはいけない


 人は、少しうまくいくと焦ります。


 いえ、焦るというより、欲が出るのかもしれません。


 昨日よりうまく話せた。


 相手が少し笑ってくれた。


 言葉を受け取ってくれた。


 そうすると、もっと近づけるのではないかと思ってしまう。


 もう一歩。

 あと一歩。

 今なら、もう少し踏み込んでも許されるのではないか。


 けれど、傷ついた心は、階段のように一段ずつ上がれるものではありません。


 昨日笑えたからといって、今日も同じように笑えるとは限らない。


 嬉しかった気持ちの隣には、まだ怖さが残っている。


 温かい言葉をもらった翌日ほど、その温かさが本物なのか不安になることもあります。


 だから、焦ってはいけないのです。


 特に、アルノルド・アルスード王太子殿下は。


「ルイート嬢」


「はい」


「今日は、もう少し踏み込んでもよいだろうか」


 朝の旧講義棟、資料室。


 昨日までは開放学習室を中心に活動しておりましたが、今朝は授業前の短い確認ということで、扉を開けたまま資料室を使用しています。


 机の上には教本。


 その下には、殿下の会話心得。


 そして向かいには、真剣な顔をした王太子殿下。


 隣にはレオン・グラシア侯爵子息が座っております。


 エレナ様は今朝、教師に課題提出を求められているため不在です。


 私とレオン様だけで殿下を見ています。


 その殿下が、開口一番にそんなことを言いました。


 私は、手にしていた羽根ペンを置きました。


「踏み込む、とは」


「昨日、ナリアに『大切に思っている』と伝えた」


「はい」


「彼女は、嬉しかったと言ってくれた」


「はい」


「ならば、次は……」


「殿下」


 私は遮りました。


 殿下がびくりとします。


 レオン様が静かに紙を構えました。


 嫌な予感がしたのでしょう。


「次は?」


 私は確認しました。


 殿下は少し頬を赤くしながら、しかし真剣に言いました。


「もっと、はっきり伝えるべきではないかと思って」


「何をですか」


「その……」


 殿下は目を逸らしました。


 耳が赤い。


 大変分かりやすいです。


「ナリアを、好きだと」


 沈黙。


 朝の資料室に、古い紙の匂いだけが静かに漂いました。


 窓の外では、登校する生徒たちの声が微かに聞こえています。


 私はゆっくり息を吸いました。


 殿下。


 その気持ちは分かります。


 とても分かります。


 昨日、「大切に思っている」と言えたのです。


 ナリア様も嬉しかったと言ってくださいました。


 殿下にとっては、大きな成功でした。


 だから、次へ行きたい。


 もっとはっきり伝えたい。


 今度こそ、本当の気持ちを言いたい。


 その気持ちは、決して悪いものではありません。


 むしろ、ようやく前向きになれた証です。


 ですが。


「早いです」


 私は即答しました。


 殿下の表情が固まりました。


「早いか」


「早いです」


「だが、昨日は」


「昨日は昨日です」


「ナリアは嬉しかったと」


「はい。だからこそ、今日は急がないでください」


 殿下は少し困惑した顔をしました。


「嬉しかったなら、さらに嬉しい言葉を」


「殿下」


「はい」


「それが焦りです」


 殿下は口を閉じました。


 レオン様が静かに頷きます。


「私もルイート嬢に賛成です」


「レオンもか」


「はい。昨日の言葉は大きな前進でした。しかし、ナリア様がすべての不安を解かれたわけではありません」


「……」


「むしろ、昨日の言葉を自分の中で受け止めている最中でしょう。そこへさらに強い言葉を重ねると、受け止めきれない可能性があります」


 殿下は視線を落としました。


「そうか……」


「はい」


 私は少し声を柔らかくしました。


「殿下が『好きだ』と伝えたい気持ちは、大切です。いつか必ず伝えるべき言葉です」


 殿下が顔を上げました。


「いつか」


「はい。ですが、今はその前に、昨日の言葉を態度で支える段階です」


「態度で支える」


「大切に思っている、と言ったなら、今日も明日も、そう思っていると伝わる態度を続けるのです」


「……」


「急に距離を詰めない。急に甘い言葉を重ねない。昨日の言葉が嘘ではないと、日々の接し方で示すことが必要です」


 殿下は紙に視線を落としました。


 昨日書いた心得。


『聞く。逃げない。大切な言葉を選ぶ。呼吸。』


 その文字を見つめながら、彼は小さく息を吐きました。


「僕は、また自分の気持ちばかり見ていたのか」


 その声は、少し沈んでいました。


 私はすぐには否定しませんでした。


 殿下自身が気づいたのです。


 ここで慰めすぎると、その気づきを薄めてしまう気がしました。


「気持ちが前へ出ること自体は、悪いことではありません」


 私は言いました。


「ですが、ナリア様の速度も見てください」


「ナリアの速度……」


「はい」


 レオン様が静かに補足しました。


「殿下は今、長く抑えていた感情が一気に前へ出ようとしている状態です。一方、ナリア様は長く傷ついていた心を少しずつ開こうとしている状態。速度が違います」


「速度が違う」


「はい。殿下が走ると、ナリア様を置いていきます」


 殿下は、胸を押さえるように手を当てました。


「置いていきたくない」


「なら、歩いてください」


 私は言いました。


「走らず、歩く。ナリア様が隣で歩ける速度で」


 殿下は長く沈黙しました。


 それは、考えるための沈黙でした。


 以前のように言葉に詰まって固まっているのではありません。


 きちんと受け止めている沈黙です。


 やがて、殿下はゆっくり頷きました。


「分かった。今日は、昨日の続きとして自然に接する」


「はい」


「好きだとは言わない」


「はい」


「……心の中では?」


「自由です」


「よかった」


 殿下は少しだけ安心しました。


 相変わらずです。


 けれど、以前より落ち着いています。


「では、本日の目標です」


 私は紙を取りました。


「ナリア様に昨日の件で気を遣わせないこと。昨日の言葉を自分で蒸し返しすぎないこと。自然に挨拶し、研究会ではいつも通り意見を聞き、感謝すること」


「分かった」


「そして、ナリア様が昨日のことに触れた場合は?」


 殿下は少し考えました。


「聞く」


「はい」


「逃げない」


「はい」


「焦って好きだと言わない」


「非常に重要です」


「大切な言葉を選ぶ」


「はい」


「呼吸」


「必須です」


 レオン様が頷きました。


「本日は『焦らない』を心得に追加しましょう」


 殿下は紙の一番下に、美しい字で書き足しました。


『焦らない』


 私はそれを見て、少しだけ微笑みました。


 王太子殿下の恋愛心得は、日に日に増えていきます。


 そのうち一冊の冊子になりそうです。


 題名はきっと、『王太子殿下のための恋愛初等心得』でしょう。


 本人には絶対に見せられません。


 その日の学園は、昨日より少し穏やかな空気に包まれていました。


 殿下がナリア様に「大切に思っている」と伝えたという噂は、まだ校内を漂っています。


 しかし、その噂は以前のような冷たいものばかりではありませんでした。


「殿下、ようやくナリア様にお優しくなりましたのね」

「昨日のナリア様、少し泣いていらしたとか」

「でも嬉し涙だったのでしょう?」

「お二人が穏やかなら、それが一番ですわ」

「ルイート様も、研究会の一員としてお手伝いなさっているだけなのかもしれませんわね」


 そうした声が聞こえる一方で、まだ別の声もあります。


「でも、殿下が急に変わるなんて不自然ですわ」

「ルイート様が何かしたのでしょう?」

「ナリア様も、よく平気でいられますわね」

「本当に平気なのかしら」


 噂は完全には消えません。


 けれど、向きが少し変わり始めているのは確かでした。


 それを面白く思わない人も、当然います。


 昼休み。


 食堂へ向かう途中で、私はベアトリス・ダルモア侯爵令嬢が取り巻きたちと話しているのを見かけました。


 彼女は私に気づくと、いつものように白い扇を開きます。


 距離は少しあります。


 けれど、視線は明確にこちらを捉えていました。


 私は礼をするべき距離ではないと判断し、静かに会釈だけして通り過ぎようとしました。


 すると、彼女の声が聞こえました。


「恋というものは、言葉一つで揺れるものですわね」


 足は止めませんでした。


 けれど耳は拾ってしまいます。


「昨日まで冷たかった方が、急に優しい言葉をくださったら……嬉しいでしょうけれど、少し怖くもなりますわ」


 取り巻きの令嬢が答えました。


「ナリア様のお気持ちを思うと、胸が痛みますわ」


「ええ。本当に。優しい方ほど、また期待してしまうものですもの」


 その会話は、私に聞かせるためなのか。


 あるいは周囲に聞かせるためなのか。


 たぶん、両方です。


 ベアトリス様は直接殿下を責めません。


 私を直接攻撃もしません。


 ただ、ナリア様の不安を代弁するような顔をして、周囲に疑念をまく。


 あの方は、実に巧みです。


「マリア様」


 隣を歩いていたエレナ様が、小さく言いました。


「聞き流しましょう」


「はい」


「反応すれば、向こうの思うつぼです」


「分かっています」


 分かってはいます。


 けれど、胸の奥がざわつきました。


 ベアトリス様の言葉は、完全な嘘ではありません。


 ナリア様はきっと怖い。


 殿下の言葉が嬉しいからこそ、また期待してしまう自分が怖い。


 それは彼女自身も言っていました。


 だからこそ、殿下は焦ってはいけないのです。


 今日の朝、止めておいてよかった。


 私は改めてそう思いました。


 もし今日、殿下が勢いのまま「好きだ」と言っていたら。


 それはナリア様を喜ばせたかもしれません。


 けれど同時に、怖がらせたかもしれません。


 そしてベアトリス様たちは、その揺れを利用したでしょう。


 慎重に。


 焦らず。


 その言葉を、私自身にも言い聞かせました。


 放課後の学術研究会には、ナリア様も参加しました。


 今日は、昨日より少し緊張した面持ちです。


 無理もありません。


 昨日、殿下から「大切に思っている」と言われたばかり。


 その翌日に、いつも通り研究会へ来るだけでも勇気がいるでしょう。


 殿下もそれを分かっているのか、今日はいつもより慎重でした。


「ナリア、ごきげんよう。来てくれてありがとう」


「ごきげんよう、殿下。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 挨拶は自然です。


 殿下は余計なことを言いません。


 ただ、軽く頷いて席を示しました。


 良いです。


 とても良いです。


 今日の議題は、王国式典における誓約文の変遷の続きです。


 ナリア様は資料を開き、丁寧に説明してくれました。


「古い形式では、誓約文は臣下側の義務を強く示していました。しかし百五十年前の改革以降、王家側の保護責任についても明文化されるようになります」


「それは、地方反乱の後か」


 殿下が尋ねます。


「はい。王家が地方の忠誠を求めるだけでなく、地方を守る責任を果たすと示す必要があったためです」


「なるほど」


 殿下は少し考え、資料に視線を落としました。


「一方的に求めるだけでは、信頼は続かないということだな」


 その言葉に、ナリア様が少しだけ顔を上げました。


 おそらく、学術の話でありながら、二人の関係にも重なるものを感じたのでしょう。


 殿下も、それに気づいたようでした。


 けれど、彼は焦りませんでした。


 ただ静かに言いました。


「分かりやすい説明だった。ありがとう」


 ナリア様は、少し目を細めました。


「お役に立てたなら嬉しいです」


 穏やか。


 とても穏やかなやり取りです。


 派手な言葉はありません。


 好きだとも、愛しているとも言っていません。


 けれど、昨日の言葉を支えるような、丁寧な態度でした。


 私は胸の奥で小さく頷きました。


 殿下、よくできています。


 その後も研究会は順調に進みました。


 エレナ様が時折空気を和らげ、レオン様が議論を整理し、私が王国史の資料を補足する。


 ナリア様も少しずつ緊張が解けていったようで、自分から意見を述べる場面が増えました。


 殿下はそのたびに、ちゃんと聞いています。


 遮らず。


 急かさず。


 時折、呼吸を忘れそうになりながらも、レオン様に視線で促されて息をしています。


 本当に、呼吸はまだ課題です。


 研究会が終わる頃には、窓の外が夕焼けに染まっていました。


 開放学習室の机の上に、赤い光が伸びています。


 他の生徒たちは帰り始め、廊下の声も少なくなっていました。


 ナリア様が資料をまとめながら、少し迷うように殿下を見ました。


「殿下」


「はい」


 殿下の声が少し硬くなります。


 しかし、逃げていません。


「昨日のお言葉について……」


 ナリア様は、そこまで言って一度口を閉じました。


 殿下の手が、わずかに動きます。


 私は見守りました。


 口を挟まない。


 これは、二人の時間です。


「私は、とても嬉しかったです」


 ナリア様が言いました。


 殿下の顔が赤くなりました。


 危険。


 しかし、彼は口を閉じています。


 呼吸もしています。


「でも、少し怖くもなりました」


「……ああ」


 殿下は静かに頷きました。


「そう思わせてしまったのは、僕のこれまでの態度のせいだ」


 練習した言葉に近い。


 けれど、今の殿下自身の言葉でもあります。


 ナリア様は首を横に振りかけましたが、殿下は続けました。


「無理にすぐ信じてほしいとは言わない」


 ナリア様の瞳が揺れます。


「ただ、昨日の言葉が一時のものではないと、これから態度で示したい」


 私は胸の奥が温かくなりました。


 朝、話したこと。


 昨日の言葉を態度で支える。


 殿下は、それを自分の言葉にして伝えました。


 ナリア様は、資料を抱える手に少し力を込めました。


「……ありがとうございます」


 声が少し震えています。


「そう言っていただけると、安心します」


 殿下は頷きました。


「なら、よかった」


 そこで止まりました。


 完璧です。


 今の流れなら、何か甘い言葉を重ねたくなったでしょう。


 けれど、止めました。


 焦らない。


 その心得が、ちゃんと働いています。


 エレナ様が隣で静かに微笑んでいました。


 レオン様も、満足そうに頷いています。


 研究会の帰り道。


 私はエレナ様と並んで廊下を歩いていました。


 夕方の光が窓から差し込み、床に長い影を作っています。


 ナリア様は少し先を歩いています。


 殿下とレオン様は、時間を置いてから出る予定です。


「今日の殿下、よく耐えましたわね」


 エレナ様が小声で言いました。


「はい」


「好きだと言いそうになりませんでした?」


「朝は言う気でした」


「まあ」


 エレナ様の目が輝きました。


「止めました」


「賢明ですわ」


「今はまだ早いと思いまして」


「私もそう思います」


 エレナ様は少しだけ真面目な声になりました。


「ナリア様は、嬉しさと怖さの間にいらっしゃいますものね」


「はい」


「今日の殿下のように、急がず態度で示すのが一番ですわ」


「殿下がそれをできたことに驚いています」


「マリア様」


「はい」


「今の発言、なかなか失礼ですわ」


「自覚はあります」


 私たちは小さく笑いました。


 その時、前を歩いていたナリア様が足を止めました。


 廊下の角の向こうから、ベアトリス様たちが現れたのです。


 空気が、少し張り詰めました。


 ベアトリス様はナリア様を見ると、優雅に微笑みました。


「ごきげんよう、ナリア様」


「ごきげんよう、ダルモア様」


 ナリア様は礼を返します。


 ベアトリス様の視線が、私とエレナ様にも向きました。


「ルイート様、バートン様もご一緒でしたのね」


「ごきげんよう」


 私たちも礼をしました。


 ベアトリス様は、ナリア様へ視線を戻します。


「最近、研究会で殿下とよくお話しされているそうですわね」


「はい。礼法について意見を求めていただいております」


「まあ。殿下もようやくナリア様の価値にお気づきになったのかしら」


 言葉の響きが、少し嫌でした。


 ようやく。


 価値。


 ナリア様の表情が、ほんの少し硬くなります。


 ベアトリス様は気づいていながら、さらに続けました。


「でも、急な変化は戸惑いますわよね。昨日まで冷たかった方が、今日には大切だとおっしゃるなんて」


 廊下の空気が冷えました。


 取り巻きの令嬢たちが、控えめに目を伏せます。


 私は一歩出そうになりました。


 しかし、その前にナリア様が口を開きました。


「はい。戸惑いはあります」


 静かな声でした。


 けれど、逃げていません。


 ベアトリス様が少し目を細めました。


「そうでしょうね」


「ですが、殿下は今、言葉と態度で向き合おうとしてくださっています」


 ナリア様は、胸元で資料を抱きしめました。


「ですから私も、噂ではなく、殿下ご本人の言葉を聞きたいと思っています」


 私は息を止めました。


 ナリア様。


 そう思いました。


 彼女もまた、変わり始めています。


 ただ傷つくだけではなく、自分で選ぼうとしている。


 殿下の言葉を聞く、と。


 ベアトリス様の笑みが、ほんの少しだけ薄くなりました。


「……そう。お強いのですね、ナリア様は」


「強くはありません」


 ナリア様は静かに答えました。


「怖いです。でも、聞かずに諦める方が、もっと怖いのです」


 沈黙が落ちました。


 ベアトリス様の取り巻きたちも、言葉を失っています。


 エレナ様が、隣で小さく息を呑んだのが分かりました。


 私も胸が熱くなりました。


 ナリア様は礼をしました。


「失礼いたします」


 そして、静かに歩き出しました。


 私とエレナ様も続きます。


 背後から、ベアトリス様の視線が刺さるように感じました。


 けれど、ナリア様の背中はまっすぐでした。


 廊下を曲がり、ベアトリス様たちの姿が見えなくなったところで、ナリア様は立ち止まりました。


 そして、小さく息を吐きました。


「……怖かったです」


 ぽつりと漏れた声。


 私はすぐに言いました。


「とても立派でした」


「そうでしょうか」


「はい」


 エレナ様も頷きました。


「素晴らしかったですわ。ナリア様」


 ナリア様は少し照れたように目を伏せました。


「殿下が、逃げずに答えると言ってくださったので」


 彼女は小さく笑いました。


「私も、少しだけ逃げずにいようと思いました」


 その言葉が、胸に深く残りました。


 殿下の努力は、ナリア様にも届いています。


 そして、ナリア様自身の勇気にもなり始めている。


 恋とは、一方だけが頑張ればよいものではないのかもしれません。


 傷つけた側が向き合う。


 傷ついた側も、自分の速度で向き合うかどうかを選ぶ。


 その二つが、ようやく少しずつ重なり始めている。


 放課後の帰り際、私はレオン様を通じて殿下に短い報告をしました。


 ナリア様がベアトリス様に、自分は殿下本人の言葉を聞きたいと答えたこと。


 そして、とても立派だったこと。


 その返事は、しばらくして届きました。


 小さな紙に、殿下の美しい字で一言。


『焦らず、彼女の勇気に応えたい』


 私はその文字を見て、静かに微笑みました。


 今日の殿下は、焦りかけました。


 けれど、止まりました。


 ナリア様もまた、怖がりながらも一歩踏み出しました。


 二人とも、急には変わりません。


 けれど、少しずつ変わっています。


 夕焼けの空を見上げながら、私は心の中で呟きました。


 王太子殿下。


 焦ってはいけません。


 けれど、止まる必要もありません。


 どうか明日も、ナリア様の速度に合わせて、ゆっくり歩いてくださいませ。

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