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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第13話 王太子殿下、待つことを覚える


 待つ、というのは難しいことです。


 ただ何もしないことではありません。


 相手の返事を急かさず。

 相手の歩幅を奪わず。

 自分の不安を相手に押しつけず。

 それでも、その場にいる。


 簡単そうに見えて、とても難しい。


 特に、今まで散々間違えてきた人にとっては。


「今日は、何もしない練習です」


 朝の資料室で私がそう告げると、アルノルド殿下は真剣な顔のまま固まりました。


「何もしない……?」


「はい」


「それは、練習なのか?」


「殿下には必要です」


 隣に座っていたレオン様が、静かに頷きました。


「私も同意します」


 殿下は少し納得できないように眉を寄せました。


「しかし、何もしなければ、ナリアに何も伝わらないのでは」


「昨日、殿下は十分伝えました」


 私は机の上の紙を指しました。


 そこには昨日の心得が残っています。


『焦らない』


 殿下はその文字を見つめました。


「……焦らない」


「はい。今日は、その実践です」


 昨日、殿下はナリア様へ「昨日の言葉が一時のものではないと、これから態度で示したい」と伝えました。


 そしてナリア様は、それを受け取ってくださいました。


 さらにベアトリス様からの揺さぶりに対しても、「噂ではなく、殿下ご本人の言葉を聞きたい」と答えたのです。


 大きな前進でした。


 だからこそ今日、殿下がするべきことは、さらに強い言葉を重ねることではありません。


 昨日の言葉を急いで証明しようとして、ナリア様の周囲をぐるぐる回ることでもありません。


 ただ、普段通り丁寧に接する。


 ナリア様が話したい時は聞く。


 話したくなさそうなら待つ。


 これが今日の課題です。


「殿下」


「はい」


「ナリア様は昨日、とても勇気を出されました」


「ああ」


「その翌日です。今日はきっと、気持ちが揺れておられると思います」


「揺れる……」


「はい。自分が言ったことを思い返して、恥ずかしくなったり、不安になったり、少し疲れていたりするかもしれません」


 殿下の顔が心配そうに曇りました。


「なら、僕は何か」


「何かしようとしないでください」


「……」


「それが今日の練習です」


 殿下は口を閉じました。


 レオン様が補足します。


「殿下は、ナリア様が不安そうだとすぐに言葉を重ねようとされます。しかし、その言葉が多すぎると、相手は受け止める余裕を失う場合があります」


「そうか」


「はい。今日は、声をかけるより観察すること。必要な時だけ短く言うこと」


 殿下は少し落ち込みました。


「僕は、まだ言葉が多すぎるのだな」


「多いか、冷たいか、重いかのどれかになりがちです」


 レオン様が淡々と言いました。


「レオン……」


「事実です」


 私は頷きました。


「ですが、最近は適切な言葉も増えています」


 殿下が少し顔を上げました。


「本当か」


「はい。昨日の『態度で示したい』はとても良かったです」


「……そうか」


「ですから今日は、その言葉通りに、態度で示してください」


 殿下は紙に視線を落としました。


 そして、美しい字で新しく書き足しました。


『待つ』


 その二文字を見て、私は少しだけ微笑みました。


「良いと思います」


「待つ」


 殿下は小さく繰り返しました。


「ナリアの速度で」


「はい」


「僕が走らない」


「はい」


「焦らない」


「はい」


「呼吸」


「もちろんです」


 呼吸は、もはや毎日の確認事項です。


 王太子殿下の恋は、呼吸確認なしには進めません。


 朝の訓練を終えて教室へ向かう途中、学園の空気は少しだけ変わっているように感じました。


 ナリア様が昨日ベアトリス様に言った言葉は、やはり広まっていました。


「ナリア様、昨日ダルモア様にきっぱりお答えになったそうですわ」

「噂ではなく殿下ご本人の言葉を聞きたい、と」

「素敵ですわ」

「でも、勇気がいったでしょうね」

「最近のナリア様、少しお強くなられた気がします」


 好意的な声が増えています。


 それは喜ばしいことです。


 しかし、好意的な声が増えるほど、反対側の声も鋭くなるものです。


「強くなった、ですって?」

「殿下の態度が変わったから余裕が出ただけでは?」

「今までずっと傷ついていたのに、少し優しくされたら信じるなんて」

「お可哀想というより、少し危ういですわね」


 私は足を止めませんでした。


 けれど、胸の奥に重いものが沈みます。


 ナリア様を直接責める声まで出始めた。


 これは良くありません。


 ベアトリス様側が、私だけでなくナリア様本人の心も揺さぶろうとしている。


 昨日のナリア様の言葉は立派でした。


 だからこそ、それを「危うい」「信じやすい」とねじ曲げる。


 嫌なやり方です。


「マリア様」


 エレナ様が隣に来ました。


 いつもの柔らかな笑みですが、目は真剣です。


「聞こえました?」


「はい」


「少し流れが変わりましたわね」


「私からナリア様へ向きましたね」


「ええ」


 エレナ様は小さく息を吐きました。


「ダルモア様ご本人は、今日はまだ表立って動いていません。でも取り巻きの方々が少しずつ言葉を広げています」


「ナリア様の耳にも入りますか」


「おそらく」


 私は唇を結びました。


 殿下には待つよう言いました。


 けれど、ナリア様が傷つくのをただ見ているだけでよいのでしょうか。


 そう思った瞬間、エレナ様が私を見ました。


「マリア様」


「はい」


「今、何かしようとなさいました?」


「……少し」


「殿下だけでなく、マリア様も待つ練習が必要ですわね」


 私は言葉に詰まりました。


 確かに。


 私は殿下に「待つ」ことを教えようとしているのに、自分はすぐに動こうとしていました。


 ナリア様を守りたい。


 殿下の努力を無駄にしたくない。


 その気持ちは本当です。


 でも、私が前に出すぎれば、また同じ誤解を呼ぶ。


「……難しいですね」


「ええ」


「待つのは」


「本当に」


 エレナ様は優しく笑いました。


「でも、ナリア様もご自分で立とうとされています。私たちは、その近くで支えられる位置にいましょう」


「はい」


 私は頷きました。


 待つ。


 殿下だけではありません。


 私も覚えなければならないことです。


 昼休み。


 ナリア様は礼法研究会の令嬢たちと一緒に食堂にいました。


 私は少し離れた席で、エレナ様と昼食を取っていました。


 今日のナリア様は、表面上は落ち着いています。


 周囲の令嬢たちとも穏やかに話しています。


 けれど、時々ふと視線が沈む。


 おそらく、噂が耳に入っているのでしょう。


 それでも彼女は席を立たず、笑顔を保っていました。


 強い。


 でも、その強さに甘えてはいけない。


「マリア様、また見すぎですわ」


 エレナ様が小声で言いました。


「すみません」


「心配なのは分かりますけれど、ナリア様も見られていると気づきます」


「はい」


 私は視線を戻し、白パンを口に運びました。


 味はします。


 最近、こうして昼食の味を確認する癖がついてしまいました。


 食堂のざわめきの中で、ふとベアトリス様の笑い声が聞こえました。


 彼女は少し離れた席で、取り巻きたちと優雅に食事をしています。


 直接こちらを見てはいません。


 けれど、その周囲の会話は時々こちらへ流れてきました。


「信じたいと思う気持ちは美しいですわ」

「ええ。でも信じる相手は選ばなくては」

「急な優しさほど、人を惑わせるものですもの」

「昨日までの傷が、一言で消えるわけではありませんわ」


 ナリア様の方へ、わずかに視線が向けられます。


 聞こえるか聞こえないか。


 その絶妙な声量。


 私は拳を握りそうになり、膝の上でそっと開きました。


 待つ。


 今は、待つ。


 その時、ナリア様が静かに立ち上がりました。


 食堂の空気が少し動きます。


 礼法研究会の令嬢たちが心配そうに見上げました。


 ナリア様は微笑んで何かを告げ、食堂を出ていきます。


 私は反射的に立ち上がりかけました。


 エレナ様が、そっと私の袖を掴みました。


「マリア様」


「……はい」


「追うなら、少し時間を置いてから。偶然を装って」


「分かりました」


「そして、無理に聞き出さない」


「はい」


 数分待ってから、私は食堂を出ました。


 エレナ様も一緒です。


 廊下には昼休みの明るい声が満ちています。


 けれど、ナリア様の姿はすぐには見えませんでした。


 少し探すと、中庭へ続く回廊の端で彼女を見つけました。


 柱の陰。


 風が通る場所。


 ナリア様は一人で立ち、外の花壇を見ていました。


 その横顔は静かで、少し寂しげでした。


 私は近づきすぎない距離で足を止めました。


「ナリア様」


 彼女が振り返ります。


 少し驚いた顔。


 けれどすぐに微笑みました。


「ルイート様。バートン様」


「お邪魔でしたか?」


「いいえ。少し風に当たりたかっただけです」


 声は穏やかです。


 でも、やはり少し疲れています。


 エレナ様が自然に言いました。


「今日は食堂が少し騒がしかったですものね」


「……はい」


 ナリア様は小さく頷きました。


 それ以上、自分からは言いません。


 私も聞き出しませんでした。


 ただ、隣ではなく少し離れた位置に立ち、中庭を見ました。


 花壇には淡い紫の花が揺れています。


 風が吹くたび、花びらが小さく震えました。


 しばらく、三人で黙っていました。


 沈黙。


 以前なら、私は何か言わなければと思ったかもしれません。


 大丈夫ですか、と。

 気にしないでください、と。

 殿下は本気です、と。


 けれど今は、言いません。


 ナリア様が言葉を探す時間を奪わないように。


 やがて、ナリア様がぽつりと言いました。


「私、少し怖いのです」


 小さな声でした。


「殿下のお言葉は、とても嬉しかったのです。本当に」


「はい」


「でも、周りの方々が言うように、私は少しの優しさに縋っているだけなのではないかと……ふと考えてしまって」


 胸が痛みました。


 やはり、届いていました。


 あの言葉たちは、ナリア様に。


「情けないですね」


 ナリア様は、寂しげに笑いました。


「殿下が勇気を出してくださったのに、私はまだ疑ってしまう」


「情けなくありません」


 私は静かに言いました。


 ナリア様がこちらを見ます。


「怖いと思うのは、自然なことです」


 エレナ様も頷きました。


「傷ついた心が、すぐに何もかも信じられるようになるわけではありませんわ」


 ナリア様の目元が少し赤くなりました。


「でも、殿下を疑いたくはないのです」


「疑うことと、慎重になることは違うと思います」


 私が言うと、ナリア様はゆっくり瞬きしました。


「慎重に……」


「はい。殿下の言葉を聞きたいとおっしゃったナリア様は、とても勇敢でした。でも、だからといってすぐに全部信じなければならないわけではありません」


 ナリア様は黙って聞いていました。


「少しずつでいいのだと思います」


 これは殿下に言ったことと同じです。


 そしてナリア様にも必要な言葉だと思いました。


「殿下も、少しずつ言葉を選んでおられます。ナリア様も、少しずつ受け取ればよいのではないでしょうか」


 ナリア様は、手元のハンカチをぎゅっと握りました。


「少しずつ……」


「はい」


 風が吹きました。


 中庭の花が揺れます。


 ナリア様の栗色の髪も、ふわりと頬にかかりました。


 彼女はそれを指で押さえ、少しだけ笑いました。


「ルイート様は、いつも私に急がなくていいと言ってくださるような気がします」


「殿下にも同じことを言っています」


「殿下にも?」


「はい。特に今朝は」


 言ってから、少ししまったと思いました。


 ナリア様が不思議そうに首を傾げます。


「今朝?」


「……殿下が、少し焦りそうでしたので」


「焦りそう?」


 ナリア様の表情に、ほんの少し緊張が走りました。


 私は慌てず、慎重に言葉を選びました。


「昨日のナリア様のお言葉が嬉しかったのでしょう。もっと何か伝えたい、と思われたようです」


 ナリア様の頬が、ほんのり赤くなりました。


「そう、ですか」


「ですが、今は急がず、態度で示すことが大切だとお伝えしました」


「殿下は……何と?」


「納得されていました」


 正確には、最初は少し不満そうでしたが。


 そこは省きます。


 ナリア様は胸元に手を当てました。


「殿下も、急がないようにしてくださっているのですね」


「はい」


「……それは、少し安心します」


 その言葉を聞いて、私は胸を撫で下ろしました。


 余計なことを言いすぎたかもしれないと思いましたが、どうやら今は良い方向に届いたようです。


 ナリア様は中庭を見つめました。


「私も、急がずにいたいです」


「はい」


「怖いと思う自分を、責めすぎないようにします」


 エレナ様が優しく微笑みました。


「それがよろしいですわ」


 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴りました。


 ナリア様は小さく息を吸い、私たちに礼をしました。


「ありがとうございました。少し、落ち着きました」


「よかったです」


「今日の研究会にも伺います」


「お待ちしております」


 ナリア様は、来た時より少しだけ穏やかな顔で歩いていきました。


 その背中を見送って、私は大きく息を吐きました。


 エレナ様が隣で言いました。


「今のは、よかったですわ」


「言いすぎませんでしたか」


「ぎりぎりです」


「ぎりぎり」


「でも、必要なぎりぎりでした」


 私は苦笑しました。


 殿下だけでなく、私も言葉を選ぶ練習が必要です。


 放課後。


 学術研究会は、いつもより静かな始まりでした。


 ナリア様は約束通り来てくださいました。


 殿下は立ち上がり、挨拶をします。


「ナリア、ごきげんよう。来てくれてありがとう」


「ごきげんよう、殿下。よろしくお願いいたします」


 穏やかです。


 けれど、ナリア様の表情には昼休みの余韻が残っています。


 殿下はそれに気づいたようでした。


 声をかけたい。


 そう思っているのが分かります。


 しかし、彼は一度息を吸い、何も言いませんでした。


 待っています。


 今日の課題。


 それを実行している。


 私は心の中で頷きました。


 研究会の議題は、前回に続いて誓約文と王家の責務について。


 ナリア様は少しずつ説明を始めました。


「誓約文では、言葉そのものだけでなく、読み上げる時の間も重要になります」


「間?」


 殿下が尋ねました。


「はい。誓約の言葉は、ただ早く読み上げればよいものではありません。相手に届くよう、意味ごとに間を置く必要があります」


 私は思わず殿下を見ました。


 殿下も、何かを感じたようです。


 言葉には間が必要。


 まさに今の殿下に必要なことです。


 ナリア様は続けました。


「特に謝意や誓約を含む文言では、急ぎすぎると軽く聞こえます。逆に間を取りすぎても不安を与えます。相手が受け取れる速度で届けることが大切です」


 殿下が、静かに聞いていました。


 そして、ゆっくり言いました。


「……言葉も、相手の速度に合わせる必要があるのだな」


 ナリア様が顔を上げました。


「はい。私は、そう思います」


「参考になる」


 殿下は少しだけ微笑みました。


「ありがとう」


 ナリア様も微笑みました。


「どういたしまして」


 そのやり取りは、とても穏やかでした。


 けれど、深い意味を持っているように感じました。


 殿下もナリア様も、今、言葉の速度を学んでいます。


 急がず。


 止まりすぎず。


 相手が受け取れる間で。


 研究会が進むうちに、学習室の空気は少しずつ柔らかくなりました。


 エレナ様が資料の誤字を見つけて小さく笑い、レオン様が淡々と修正し、殿下が真面目に質問し、ナリア様が答える。


 私も王国史の補足を入れました。


 表向きは、完全に学術研究会です。


 そして裏側では、殿下が「待つ」を練習しています。


 ナリア様が言葉を探す時、急かさない。


 少し沈黙があっても、口を挟まない。


 不安そうに見えても、すぐに強い言葉を投げない。


 ただ、見守る。


 それは簡単ではないはずです。


 時々、殿下の手が机の下で握られているのが見えました。


 でも彼は、耐えました。


 研究会の終わり頃、ナリア様が殿下へ言いました。


「殿下」


「はい」


「今日、殿下は……いつもより静かでいらっしゃいましたね」


 殿下が少し固まりました。


 静か。


 それは良い意味でしょうか。


 悪い意味でしょうか。


 殿下の目が一瞬こちらへ向きかけました。


 私は何も合図をしません。


 これは、殿下が自分で答える場面です。


 殿下はナリア様へ向き直りました。


「君の話を、急かさずに聞きたいと思った」


 ナリア様の瞳が揺れました。


「私の話を?」


「ああ」


 殿下は少しだけ視線を落としました。


「僕は今まで、自分の言葉で君を傷つけてきた。だから、今度は君の言葉をちゃんと聞きたい」


 静かな言葉でした。


 派手ではありません。


 甘すぎるわけでもありません。


 でも、とても殿下らしい真剣さがありました。


 ナリア様は、ゆっくりと微笑みました。


「ありがとうございます」


 その笑みは、昼休みよりもずっと柔らかでした。


「私も、殿下のお言葉を少しずつ聞いていきたいです」


 殿下の顔が赤くなりました。


 けれど、今日は燃え尽きません。


 口も開きません。


 ただ、頷きます。


「ありがとう」


 よくできました。


 本当に。


 学習室を出た後、ナリア様はエレナ様と並んで少し先を歩きました。


 私は殿下とレオン様へ短い反省を伝えるため、少しだけ残ります。


 殿下は椅子に座ったまま、深く息を吐きました。


「待つのは、難しい」


「はい」


「何度も、何か言いたくなった」


「でしょうね」


「でも、ナリアが少し安心したように見えた」


「見えました」


「なら、待ってよかった」


 殿下はそう言って、少しだけ笑いました。


 その笑みは、以前のように自分の成功だけを喜ぶものではありませんでした。


 ナリア様が安心したことを、心から喜んでいる笑みでした。


 レオン様が静かに言いました。


「殿下、本日は大変安定していました」


「そうか」


「はい。特に、ナリア様の沈黙を急かさなかった点が良かったです」


「急かしたくなった」


「急かさなかったことが重要です」


 殿下は頷きました。


「明日も、焦らない」


「はい」


「待つ」


「はい」


「呼吸」


「はい」


 私は少し笑いました。


 この確認も、ずいぶん日常になってきました。


 しかしその穏やかさは、長くは続きませんでした。


 翌朝。


 学園の掲示板近くに、人だかりができていました。


 普段なら試験や行事の連絡が張られる場所です。


 けれど今日は、生徒たちがざわざわと何かを見ています。


「何ですの、これ」

「誰が貼ったの?」

「朝来たらもうあったそうですわ」

「殿下とナリア様のこと?」

「ルイート様の名前も……」


 私の名前。


 胸が冷たくなりました。


 エレナ様がすぐ隣に来ます。


「マリア様」


「見ます」


 私は人だかりへ近づきました。


 生徒たちが私に気づき、少しずつ道を空けます。


 視線が刺さります。


 掲示板には、一枚の紙が貼られていました。


 そこには、匿名の文章。


『王太子殿下の心変わりは本物なのでしょうか。傷ついた婚約者候補を支えるふりをして、殿下のそばに立つ者がいるようです。真にお可哀想なのは、誰なのでしょう』


 直接名指しはしていません。


 けれど、誰のことを言っているかは明らかです。


 ナリア様。


 殿下。


 そして、私。


 周囲がざわめいています。


 私は、紙を見つめたまま動けませんでした。


 ついに、匿名の悪意が私の机の上から、学園全体の掲示板へ出てきたのです。


 エレナ様が低く言いました。


「これは、見過ごせませんわね」


 私は静かに頷きました。


 待つことは大切です。


 焦らないことも大切です。


 けれど。


 放置してはいけない悪意もあります。


 王太子殿下の恋は、今日また新しい局面へ入ったのだと、私はその紙を見つめながら思いました。


 そして心の中で、静かに呟きました。


 殿下。


 今日ばかりは、口から出す前に止めるだけでは足りません。


 何を言うか。


 誰を守るか。


 それを、きちんと選ばなければならない日になりそうです。

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