第14話 王太子殿下、怒りを飲み込む
怒りという感情は、とても扱いが難しいものです。
怒りそのものが悪いわけではありません。
誰かを傷つける言葉に怒ること。
理不尽な振る舞いに怒ること。
大切な人が踏みにじられた時に、胸の奥が熱くなること。
それは、むしろ自然なことです。
けれど怒りは、扱いを間違えれば簡単に刃になります。
守りたい相手まで傷つける刃に。
だからこそ、怒った時ほど言葉を選ばなければならないのです。
掲示板の前に貼られた匿名の紙を見た時、私は最初、声が出ませんでした。
『王太子殿下の心変わりは本物なのでしょうか。傷ついた婚約者候補を支えるふりをして、殿下のそばに立つ者がいるようです。真にお可哀想なのは、誰なのでしょう』
直接の名指しはありません。
けれど、誰を指しているのかは明らかです。
王太子殿下。
ナリア様。
そして、私。
周囲の生徒たちがざわめいていました。
「これは……」
「ルイート様のことでは?」
「やっぱり、そういう噂が……」
「ナリア様がお可哀想ですわ」
「でも、殿下は昨日もナリア様に優しくしていたでしょう?」
「だからこそ、分からないのですわ」
「誰が貼ったのかしら」
小さな声が、次々と重なります。
その一つ一つは小さくても、重なれば波になります。
波は、当事者の心を容赦なく揺らします。
私は掲示板を見つめたまま、指先が冷えていくのを感じました。
匿名の警告文は、私の机の上だけで終わらなかった。
悪意は、学園全体の目に触れる場所へ出てきたのです。
隣にいたエレナ様が、低い声で言いました。
「マリア様、ここに立ち続けるのは危険ですわ」
「……はい」
「まず、紙を剥がすべきかどうか判断しましょう」
私は唇を結びました。
剥がしたい。
すぐにでも。
こんなものをナリア様に見せたくない。
殿下にも、これを見て怒りに任せてほしくない。
けれど、勝手に剥がせば証拠を隠したようにも見えます。
掲示板は学園の管理物です。
教師へ報告する必要があります。
その時でした。
「何の騒ぎだ」
低い声が、人垣の後ろから聞こえました。
周囲が一斉に振り返ります。
アルノルド殿下でした。
隣にはレオン様。
殿下はいつものように整った制服を着こなし、表情は王太子としての落ち着きを保っています。
けれど、その瞳が掲示板の紙を捉えた瞬間。
空気が変わりました。
殿下の顔から、表情が消えたのです。
怒鳴りはしませんでした。
声も上げませんでした。
けれど、静かすぎるほど静かな怒りが、そこにありました。
周囲の生徒たちが、自然と一歩下がります。
私は胸が強く鳴りました。
まずい。
殿下は今、怒っています。
当然です。
けれど今、この場で感情のまま何かを言えば、噂はさらに大きくなる。
ナリア様も私も、もっと目立ってしまう。
殿下の口が開きかけました。
私は反射的に小さく咳払いしました。
「こほん」
殿下の口が閉じました。
周囲の何人かがこちらを見ます。
この合図に気づいている者もいるでしょう。
ですが、止める方が先です。
殿下は私を見ました。
その目には、怒りと、苦しさと、迷いがありました。
どうして止めるのか。
そう言われているような気がしました。
私は視線だけで返しました。
今は駄目です。
殿下。
怒りの言葉を、そのまま出してはいけません。
レオン様が一歩前に出ました。
「皆様、授業前です。掲示板の内容については、学園側へ確認いたします。憶測で話を広げることは控えてください」
落ち着いた声でした。
けれど、よく通る声です。
侯爵子息であり、殿下の側近であるレオン様の言葉に、生徒たちは少しずつ口を閉じました。
エレナ様も周囲へ穏やかに声をかけます。
「このような匿名文を興味本位で広げるのは、品位ある振る舞いとは言えませんわ。皆様、教室へ参りましょう」
エレナ様の声は柔らかい。
けれど、その柔らかさの中に芯があります。
少しずつ、人垣がほどけ始めました。
それでも、視線は残ります。
私へ。
殿下へ。
そして、廊下の向こうから来たナリア様へ。
私は息を呑みました。
ナリア様が、掲示板の方を見ています。
栗色の髪を揺らし、数冊の本を抱えたまま。
その表情が、わずかに強張りました。
見てしまった。
私はそう思いました。
ナリア様の視線が、紙の文字を追います。
周囲の生徒たちが、さらに静かになります。
誰もが見ています。
ナリア様がどう反応するのか。
殿下がどう動くのか。
私が何を言うのか。
この廊下全体が、悪意ある舞台のようになっていました。
殿下が動きかけました。
ナリア様へ近づこうとしたのです。
けれど、レオン様がほんのわずかに腕を上げ、止めました。
今、殿下が公衆の面前でナリア様に駆け寄れば、それはまた噂になります。
守りたい気持ちが、かえって相手を晒すことになる。
殿下も、それに気づいたのでしょう。
歯を食いしばるようにして、踏みとどまりました。
ナリア様は紙を見つめていました。
その指先が震えています。
けれど、彼女は泣きませんでした。
取り乱しもしませんでした。
静かに、深く息を吸いました。
そして、掲示板の前へ歩み寄りました。
周囲が息を潜めます。
ナリア様は、貼られた紙を見上げました。
それから、ゆっくりと私を見ました。
「ルイート様」
声は、少し震えていました。
けれど、はっきりしていました。
「はい」
私は返事をしました。
ナリア様は言いました。
「この文は、ルイート様を傷つけるものです」
廊下の空気が止まりました。
誰もが、ナリア様の次の言葉を待っています。
「そして、私を可哀想な存在として扱っています」
彼女の手が、本を抱きしめるように強くなります。
「私は……そのように扱われることを望んでおりません」
静かな言葉でした。
でも、強い言葉でした。
私の胸が熱くなりました。
殿下も、ナリア様を見つめています。
怒りではなく、驚きと、敬意に近い表情で。
ナリア様は続けました。
「私は、殿下のお言葉を自分で聞きたいと申し上げました。それは、誰かに可哀想だと言っていただくためではありません」
周囲の令嬢たちが、息を呑みます。
「ルイート様は、私を傷つける方ではありません」
その言葉に、私の喉が詰まりました。
「ナリア様……」
ナリア様は、ほんの少しだけ微笑みました。
まだ震えています。
怖いのでしょう。
でも、逃げていません。
「ですから、このような文で、私の気持ちを勝手に決めつけないでいただきたいです」
最後の声は、少しだけ強くなりました。
廊下に沈黙が落ちます。
誰もすぐには話し出せませんでした。
その沈黙を破ったのは、殿下でした。
ただし、怒りに任せた声ではありません。
彼は深く息を吸い、吐きました。
呼吸。
そして、静かに言いました。
「ナリアの言う通りだ」
その声は低く、よく響きました。
生徒たちが殿下へ視線を向けます。
「この文は、ナリアの気持ちを勝手に利用している。ルイート嬢を傷つけるために、ナリアを可哀想な者として扱っている」
殿下の拳は握られていました。
でも、声は制御されています。
「僕は、それを許容しない」
短く、重い言葉。
怒りはあります。
しかし、刃ではありません。
守るための言葉です。
殿下は掲示板の紙へ視線を向けました。
「この件は、学園へ正式に報告する。匿名で人を貶めるような行為を、見過ごすつもりはない」
周囲に緊張が走りました。
王太子殿下が正式に動く。
その意味は大きい。
けれど、殿下はそこで止まりました。
犯人を今ここで糾弾することはしません。
憶測で誰かを責めることもしません。
怒りを飲み込み、必要な言葉だけを選んだ。
私は胸の奥で、静かに息を吐きました。
殿下。
できました。
レオン様が教師を呼びに行き、掲示板の紙は教師立ち会いのもとで外されました。
生徒たちは教室へ戻され、廊下のざわめきは少しずつ散っていきます。
しかし、完全には消えません。
噂はもう走り始めています。
王太子殿下が匿名文を許容しないと言った。
ナリア様が、ルイート様は自分を傷つける人ではないと言った。
掲示板の紙は教師に回収された。
それらの情報は、きっと午前中のうちに学園中へ広がるでしょう。
それでも。
最悪の形にはならなかった。
ナリア様が、自分の言葉で立った。
殿下が、怒りを制御した。
その二つが、流れを変えました。
その日の午前の授業は、正直あまり頭に入りませんでした。
教師の声は聞こえます。
黒板に書かれる文字も見えます。
けれど、頭の奥には朝の掲示板の光景が残り続けました。
ナリア様の震える声。
殿下の抑えた怒り。
周囲の視線。
匿名の文字。
私は羽根ペンを握りながら、何度も深呼吸しました。
怖かった。
今さら、そう思います。
朝の廊下では、考える余裕がありませんでした。
けれど授業中、少し落ち着いてから、じわじわと怖さが戻ってきました。
あの文が貼られていた場所。
それを見た生徒たちの目。
自分の名前が直接書かれていなくても、皆が私のことだと分かった空気。
あれは、想像以上に苦しいものでした。
すると、机の横から小さな紙がそっと渡されました。
エレナ様です。
教師に見えないよう、教本の影に隠して開きます。
『昼休み、一緒に食堂へ。今日は逃がしません』
私は思わず少し笑いそうになりました。
逃がしません。
まるで母です。
けれど、ありがたかった。
私は小さく頷きました。
昼休み。
食堂は朝の件で持ちきりでした。
当然です。
あれほどの騒ぎになったのです。
「ナリア様、すごかったですわね」
「震えていらしたのに、はっきりおっしゃって」
「殿下も、怖いくらい静かでしたわ」
「匿名文なんて、卑怯ですわよね」
「でも、誰が貼ったのかしら」
「ダルモア様の周りではないかと……」
「しっ、声が大きいですわ」
噂の向きが、少し変わっています。
朝の匿名文は、私を貶めるためのものだったのでしょう。
けれどナリア様が自分で否定し、殿下が正式に問題視したことで、文を書いた側への不信が広がり始めていました。
それは良いことかもしれません。
しかし同時に、危うさもあります。
憶測でベアトリス様の名が出る。
もし証拠もなく彼女を責めれば、こちらが不利になる可能性もあります。
慎重に動く必要があります。
エレナ様は私の向かいに座り、いつもよりしっかりした量の昼食を私の前に置きました。
「食べてくださいませ」
「多くありませんか」
「朝の分です」
「朝は食べました」
「精神的に消耗した分です」
「そういう計算があるのですか」
「あります」
ないと思います。
けれど、言い返す気力もありませんでした。
私は白パンを手に取りました。
少し遅れて、ナリア様も食堂へ入ってきました。
礼法研究会の令嬢たちが一緒です。
彼女の姿を見た瞬間、食堂の会話が少し弱まりました。
ナリア様はそれに気づいたはずです。
けれど、顔を上げて歩きました。
その姿に、以前よりも確かな強さを感じます。
ただし、強いから傷つかないわけではありません。
席に座った後、彼女は少しだけ疲れたように目を伏せていました。
私は気になりましたが、今は遠くから見守るだけにしました。
すると、ナリア様がこちらに気づきました。
目が合います。
私は小さく会釈しました。
ナリア様も、ほんの少し微笑んで返してくれました。
それだけで、少し安心しました。
「マリア様」
エレナ様が静かに言いました。
「今はそれで十分ですわ」
「はい」
「すぐに駆け寄らない」
「……はい」
「待つ練習です」
「私もですね」
「ええ」
私は苦笑し、昼食を口へ運びました。
味は、しました。
放課後。
学術研究会は予定通り開かれました。
本来なら中止してもおかしくない日でした。
けれど、レオン様の判断であえて通常通り行うことになったのです。
理由は明確でした。
匿名文によって私たちが動揺し、研究会をやめたように見せないため。
そして、研究会が健全な場であることを示し続けるため。
開放学習室には、いつもの四人が揃っていました。
殿下、レオン様、エレナ様、私。
そして少し遅れて、ナリア様が来ました。
入口で一度立ち止まった彼女は、深く息を吸い、礼をしました。
「ごきげんよう」
殿下は立ち上がりました。
「ナリア、ごきげんよう。来てくれてありがとう」
声はいつもより少し柔らかかった。
ナリア様は、小さく頷きました。
「こちらこそ……本日もよろしくお願いいたします」
席に着いたナリア様の顔には、疲れがありました。
無理もありません。
朝、あれだけのことがあったのです。
殿下は心配そうに見ています。
でも、すぐに何か言おうとはしませんでした。
待っています。
成長です。
研究会は、いつもより静かに始まりました。
今日の議題は予定通り、誓約文の読み上げにおける間の取り方。
しかし、全員どこか朝の件を引きずっています。
それでも、レオン様が淡々と進めました。
「本日は、誓約文が公の場で読み上げられる際の意味の伝達について確認します」
エレナ様が資料を読みます。
「読み手の声量、間、視線の置き方が、受け手の印象に大きく影響する、とありますわ」
私は補足しました。
「王国史上でも、式典での言葉の解釈が後の政治関係に影響した例があります」
ナリア様が少し顔を上げました。
「言葉は、発した人の意図だけではなく、聞いた人がどう受け取るかも大切です」
その言葉に、殿下が静かに頷きました。
「本当にそうだな」
短い言葉。
けれど、重みがあります。
ナリア様もそれを感じたのか、少しだけ目を伏せました。
研究会はゆっくり進みました。
誰も無理に明るくしません。
けれど、黙り込むこともしません。
必要な言葉を交わし、資料を読み、意見を出す。
それは、朝の悪意に対する一つの答えのようでもありました。
私たちは、ここにいる。
誰かを傷つけるためではなく、互いに学び、支えるために。
研究会の終わり頃、ナリア様が殿下へ向き直りました。
「殿下」
「はい」
「今朝は……ありがとうございました」
殿下は一瞬、表情を揺らしました。
しかし、すぐに落ち着きました。
「君が先に言ってくれた」
「私が?」
「ああ」
殿下は静かに言いました。
「君が、自分の気持ちを勝手に決めつけないでほしいと言ってくれた。僕は、その後に続いただけだ」
ナリア様の瞳が揺れました。
「私は……とても怖かったです」
「ああ」
「でも、あの文を見た時、ルイート様が傷つけられていると思いました。それに、私自身も、勝手に可哀想だと決めつけられているようで……」
ナリア様は手元の資料を握りました。
「嫌だったのです」
殿下は頷きました。
「言ってくれて、ありがとう」
自然な感謝。
ナリア様は少しだけ目元を赤くしました。
「殿下も、怒っていらっしゃいましたよね」
「怒っていた」
殿下は正直に言いました。
「今も怒っている」
私は少し緊張しました。
けれど、殿下の声は落ち着いていました。
「だが、怒りに任せて言えば、君にもルイート嬢にも迷惑をかけると思った」
レオン様が静かに目を伏せました。
エレナ様も微笑みます。
殿下は続けました。
「だから、言葉を選んだ。……つもりだ」
少しだけ自信なさげになりました。
ナリア様は、そこで小さく笑いました。
「はい。選んでくださったと思います」
殿下の顔が赤くなります。
しかし、口は開きません。
呼吸。
できています。
「なら、よかった」
それだけ言いました。
ナリア様は、柔らかく頷きました。
そのやり取りを見て、私は胸の奥が温かくなりました。
朝の悪意は確かに怖かった。
でも、それによって二人はまた一つ、向き合う言葉を増やしました。
怒りをどう扱うか。
守るとはどういうことか。
殿下は今日、それを少し学んだのです。
研究会が終わった後、レオン様は掲示板の件について報告しました。
「教師側で、朝最初に掲示板を確認した者への聞き取りが始まっています。ただ、貼った瞬間を見た者はまだ見つかっていません」
「そうか」
殿下は低く答えました。
「紙は?」
「保管されています。以前ルイート嬢の机に置かれた警告文と筆跡を照合する予定です」
「同じか」
「おそらく」
レオン様は慎重に言いました。
「ただし、断定は避けるべきです」
「分かっている」
殿下は私へ視線を向けました。
「ルイート嬢。しばらくは移動時に必ず誰かと一緒にいてほしい」
「はい」
「君が一人でいるところを狙われる可能性がある」
「分かりました」
「ナリアも」
殿下はナリア様を見ました。
「君も、一人にならないでほしい」
ナリア様は少し驚きました。
それから静かに頷きます。
「はい」
「心配しすぎかもしれないが」
「いいえ」
ナリア様は、少しだけ微笑みました。
「心配してくださって、ありがとうございます」
殿下の顔が赤くなりました。
私は咳払いの準備をしました。
しかし、殿下は自分で口を閉じ、息を吸って吐きました。
「……君が無事でいてくれた方が、僕は安心する」
言いました。
少し踏み込みました。
でも、重すぎません。
ナリア様の頬が、淡く赤くなります。
「はい。気をつけます」
殿下は頷きました。
よくできました。
本当に。
その日の夕方、私はエレナ様と共に校舎を出ました。
空は薄い紫色に染まり、夕焼けの名残が西の雲に残っています。
中庭の花壇は静かで、朝の騒ぎが嘘のようでした。
けれど、完全に終わったわけではありません。
匿名文の犯人はまだ分からない。
ベアトリス様も表立っては動いていない。
噂も消えてはいない。
それでも、今日の私たちは崩れませんでした。
ナリア様が立ち、殿下が怒りを飲み込み、レオン様が整え、エレナ様が支えた。
私は一人ではありませんでした。
「マリア様」
エレナ様が隣で言いました。
「今日は、本当にお疲れ様でした」
「バートン様も」
「明日は蜂蜜菓子を持ってきますわ」
「またですか」
「必要です」
「否定できません」
私たちは少し笑いました。
その笑いは、疲れてはいましたが、本物でした。
校舎を振り返ると、掲示板のあった廊下の窓が夕日に照らされていました。
あそこに貼られた紙は、もうありません。
でも、あの出来事はまだ消えていません。
これから向き合わなければならないことが、たくさんあります。
それでも。
私は思いました。
王太子殿下は、今日、怒りをそのまま吐き出しませんでした。
ナリア様は、自分を可哀想な存在として扱う言葉を拒みました。
それは、二人にとって大きな一歩です。
恋は、甘い言葉だけで進むものではありません。
時には、悪意に対してどう立つかも問われる。
その時、誰を守るのか。
どう守るのか。
殿下は今日、それを少しだけ間違えずに選べました。
私は夕暮れの空を見上げ、心の中で静かに呟きました。
王太子殿下。
今日のあなたは、怒りを飲み込めました。
どうか明日も。
守りたい人を傷つけない言葉を、ちゃんと選んでくださいませ。




