第15話 王太子殿下、疑う前に支える
事件の後というものは、終わったように見えて終わっていません。
掲示板に貼られていた匿名文は、教師によって外されました。
廊下の人だかりも解散しました。
その日の授業も、昼休みも、放課後の学術研究会も、何とか通常通りに進みました。
けれど、一度広がった波紋は、すぐには消えません。
水面に石を投げ込めば、波は外へ外へと広がっていきます。
あの匿名文も同じでした。
紙そのものは消えても、見た者の記憶には残ります。
読んだ者の口には残ります。
そして、読んでいない者の耳にも、形を変えて届いていくのです。
「昨日の掲示板の件、聞きました?」
「ええ。殿下がとてもお怒りだったとか」
「でも、声を荒げなかったそうですわ」
「ナリア様も、はっきりおっしゃったのでしょう?」
「ルイート様を傷つける文だと」
「では、やはりルイート様はナリア様の味方なのかしら」
「でも、味方というには殿下に近すぎるようにも……」
「しっ、また余計なことを言うと問題になりますわよ」
朝の廊下を歩きながら、私はそんな囁きをいくつも耳にしました。
以前より悪意は弱まっています。
少なくとも、匿名文を書いた側を卑怯だと見る声が増えました。
ナリア様が私を庇ってくださったことも、殿下が匿名文を許容しないと宣言したことも、良い方向に働いています。
けれど、完全に疑念が晴れたわけではありません。
殿下と私。
殿下とナリア様。
ナリア様と私。
その関係を、周囲はまだ測りかねています。
そして、噂は測りかねている間が一番よく育つのです。
「マリア様」
隣を歩くエレナ様が、私の顔を覗き込みました。
「また考え込んでいますわね」
「考えない方が難しいです」
「それはそうですわ」
エレナ様は小さく笑いました。
けれど、その目は周囲をよく見ています。
昨日から彼女は、私が一人にならないよう、ほとんど常に近くにいてくれました。
朝の登校後も。
授業間の移動も。
昼休みも。
放課後の研究会へ向かう時も。
さりげなく。
けれど確実に。
その存在が、どれほど心強いか分かりません。
「昨日の紙と、机に置かれていた警告文。教師側で照合しているそうですわ」
「もうご存じなのですか」
「グラシア様から、今朝軽く伺いました」
「情報が早いですね」
「味方ですもの」
エレナ様はさらりと言いました。
味方。
その言葉に、少し胸が温かくなります。
「ただ、筆跡だけで犯人を特定するのは難しいでしょうね」
「はい」
「ダルモア様周辺が怪しいのは確かですが、直接の証拠はありません」
「分かっています」
昨日から、何度もその話をしています。
ベアトリス様本人が書いたのか。
取り巻きの誰かが書いたのか。
彼女の意図を勝手に汲んだ別の令嬢がやったのか。
あるいは、まったく違う誰かが、混乱に乗じて仕掛けたのか。
確証はありません。
だから、軽々しく名を出すことはできません。
けれど。
ベアトリス様の周囲から漂う冷たい空気は、確かにありました。
廊下の向こうから、そのベアトリス様が歩いてきます。
金茶の髪を美しく結い上げ、白い扇を手に、取り巻きたちを従えて。
昨日の掲示板の件など何もなかったかのように、彼女は優雅に微笑んでいました。
「ごきげんよう、ルイート様。バートン様」
「ごきげんよう、ダルモア様」
礼を交わします。
ベアトリス様の視線が、ほんの少しだけ私の顔に留まりました。
「昨日は、大変でしたわね」
「お気遣いありがとうございます」
「匿名であのような文を貼るなど、品位に欠ける行いですわ」
言葉だけなら、彼女は私たち側に立っています。
でも、その声色はあまりにも滑らかでした。
「本当に。誰がなさったのかしら」
取り巻きの令嬢が、わざとらしく眉を下げます。
ベアトリス様は扇で口元を隠しました。
「分かりませんわ。ただ、あのような文を書かせるほど、皆様の関心が高まっているということなのでしょうね」
皆様の関心。
そう言いながら、彼女は私を見ます。
「目立つというのは、それだけ責任を伴うものですわ」
「肝に銘じます」
私は静かに答えました。
ここで反発してはいけない。
彼女はきっと、こちらの反応を見ています。
私が怒るか。
怯えるか。
動揺するか。
そのどれかを期待している。
だから、私はただ微笑みました。
貴族令嬢の微笑みは盾。
今はまだ、盾を下ろしてはいけません。
ベアトリス様は、少しだけ目を細めました。
「では、失礼いたします」
彼女たちが去っていきます。
甘い香水の残り香が廊下に漂いました。
エレナ様が小さく息を吐きます。
「相変わらず、直接は尻尾を出しませんわね」
「はい」
「ですが、焦っているようにも見えます」
「焦っている?」
「ええ。昨日の件で、ナリア様と殿下の印象がむしろ良くなってしまいましたから」
そう言われて、私は少し考えました。
確かに。
匿名文は、私と殿下の関係を疑わせ、ナリア様を可哀想な被害者として扱うことで、三人の間に亀裂を入れるためのものだったのでしょう。
しかし結果として、ナリア様は自分の言葉でそれを拒みました。
殿下も怒りを制御し、正式に問題視しました。
それは、二人の評価を下げるどころか、むしろ強めたかもしれません。
ベアトリス様側にとっては、面白くない結果です。
「次があるかもしれませんね」
「あるでしょうね」
エレナ様は静かに言いました。
私は小さく頷きました。
油断はできません。
けれど、怯えてばかりもいられません。
その日の午前の授業は、王国法でした。
教師は淡々と、名誉毀損と貴族間の礼儀違反について講義していました。
昨日の出来事を知っているのではないかと思うほど、内容が今の状況に重なります。
「匿名の文書で他者の名誉を傷つけることは、たとえ直接名を記さずとも、周囲が対象を特定できる場合には問題となります」
教師の声が教室に響きました。
何人かの生徒が、ちらりと私を見ました。
私はノートに視線を落としたまま、羽根ペンを動かします。
「貴族にとって名誉とは、個人だけでなく家の信用にも関わります。軽い噂話のつもりでも、相手の将来に大きな影響を及ぼすことがある。皆さんも、言葉の扱いには十分注意するように」
教室の空気が少し重くなりました。
きっと教師も、昨日の件を知っているのでしょう。
直接言及はしません。
けれど、明らかに意識している。
それはありがたくもあり、また居心地の悪さもありました。
授業が終わると、何人かの令嬢が私の方を見て、何か言いたそうにしていました。
けれど、エレナ様が自然に隣へ来ると、彼女たちは何も言わずに離れていきました。
「守られていますね、私」
「当然ですわ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
エレナ様は軽く笑いました。
昼休み。
食堂では、ナリア様が礼法研究会の令嬢たちと一緒に食事をしていました。
昨日よりは落ち着いて見えます。
けれど、少し疲れている様子は残っています。
殿下は王族用の席で、レオン様と共に昼食を取っていました。
以前なら、殿下はナリア様の様子が気になって何度も見てしまい、それがまた周囲の噂を呼んだでしょう。
ですが今日は、視線を向けすぎないよう注意しているのが分かりました。
時々、ほんの一瞬だけナリア様を見ます。
無事かどうか確認する程度。
そしてすぐに視線を戻す。
殿下、頑張っています。
見たいでしょう。
気になるでしょう。
心配でしょう。
けれど、見すぎればナリア様がまた注目される。
それを理解して、堪えている。
私は少しだけ感心しました。
「殿下、今日はよく耐えていらっしゃいますわね」
エレナ様が小声で言いました。
「はい」
「昨日なら三回は固まっていましたわ」
「三回で済むでしょうか」
「五回かもしれません」
私たちは小さく笑いました。
笑えるくらいには、少し落ち着いてきています。
その時、食堂の入口にベアトリス様が現れました。
取り巻きたちと共に、いつもの優雅な足取りで入ってきます。
彼女は一瞬だけ食堂内を見渡しました。
ナリア様。
殿下。
そして私。
全員の位置を確認したように見えました。
それから、何事もなかったように自分の席へ向かいます。
今日は何も仕掛けてこない。
そう思った瞬間、取り巻きの一人が少し大きめの声で言いました。
「昨日の掲示板の件、教師方がずいぶん厳しく調べていらっしゃるそうですわね」
食堂の空気が、わずかに変わりました。
ベアトリス様はたしなめるように言います。
「その話はおやめなさい。誰がしたか分からないことで騒ぐのは品位がありませんわ」
「でも、もし犯人扱いされたら大変ですわ。証拠もないのに疑われるなんて」
「本当に。噂だけで誰かを疑うのは、昨日の匿名文と同じくらい危険ですもの」
なるほど。
そう来ましたか。
私は白パンを持つ手を止めました。
これは防御です。
自分たちが疑われ始めたことを察し、「証拠もないのに疑うのは危険」と先に周囲へ印象づけている。
正論です。
確かに、証拠もなく誰かを犯人扱いしてはいけません。
だからこそ厄介です。
彼女たちは、正論を盾にしています。
殿下の方を見ると、彼もその会話を聞いたようでした。
わずかに表情が硬くなっています。
でも、動きません。
声も上げません。
レオン様が隣で小さく何か言い、殿下は頷きました。
怒りを飲み込んでいます。
昨日の経験が、少し生きているのかもしれません。
ナリア様も、その会話を聞いていました。
彼女はしばらく視線を落としていましたが、やがて静かに食事を続けました。
反応しない。
それもまた、強さです。
私は深く息を吐きました。
今日は、誰も走らない。
誰も感情のまま飛び出さない。
それだけでも、大きな前進でした。
放課後の学術研究会は、いつもより少し参加者が増えていました。
教師側が「研究会として正式に活動するなら、開放性を保つように」と言ったため、希望者が数人見学に来たのです。
これは悪いことではありません。
むしろ、密会ではないと示すには良い。
ただし、殿下の恋愛訓練はできません。
少なくとも表立っては。
長机には、殿下、レオン様、エレナ様、私、ナリア様。
さらに成績上位の男子生徒が一人、礼法研究会の令嬢が一人、法学に興味がある子爵令嬢が一人座りました。
開放学習室はいつもより賑やかです。
「本日の議題は、王国法における名誉保護と式典礼の関係です」
レオン様が淡々と告げました。
私は一瞬、彼を見ました。
今日の授業内容と、昨日の掲示板事件を踏まえた議題です。
直接事件には触れず、学術的に扱う。
非常に賢いやり方です。
殿下も少しだけレオン様を見ました。
感心しているようです。
議論は静かに始まりました。
「貴族の名誉は、家同士の関係にも影響するため、単なる個人感情とは切り離せません」
私が資料を読みます。
「式典礼においても、序列や紹介文に誤りがあれば、相手の名誉を損なう可能性があります」
ナリア様が続けます。
「だからこそ、礼法では相手をどう扱うかが重要になります。言葉の選び方、紹介の順番、視線の向け方。そのすべてが敬意を示すものになります」
殿下が静かに頷きました。
「つまり、礼とは相手を正しく扱うための形でもあるのだな」
「はい」
ナリア様は落ち着いて答えました。
「相手の立場や心を勝手に決めつけず、その方自身を尊重するためのものだと思います」
その言葉に、学習室の空気が少し変わりました。
誰も昨日の掲示板の話をしていません。
けれど、皆、少しは思い出したでしょう。
匿名文は、ナリア様を「可哀想」と勝手に決めつけた。
私を「殿下のそばに立つ者」として悪意ある形で扱った。
つまり、相手を正しく扱っていない。
ナリア様の言葉は、静かな反論でもありました。
殿下は、ナリア様を見ました。
見すぎない程度に。
そして言いました。
「とても大切な考え方だと思う」
ナリア様の頬が少し赤くなりました。
「ありがとうございます」
見学者たちは、少し驚いたように二人を見ていました。
以前の冷たい殿下を知っている者にとって、今の穏やかなやり取りは新鮮なのでしょう。
けれど、悪い驚きではなさそうでした。
議論が進むうちに、成績上位の男子生徒が質問しました。
「では、匿名文のように直接名を記さない場合は、名誉毀損と判断されるのですか?」
学習室が一瞬静まりました。
昨日の件を踏まえた質問であることは明らかです。
私は少し緊張しました。
レオン様が答えるかと思いましたが、殿下が口を開きました。
「対象が周囲に明らかであり、その人物の評価を不当に下げる意図があれば、問題になる」
声は落ち着いていました。
「ただし、判断には慎重さが必要だ。怒りや憶測だけで誰かを断罪すれば、それもまた名誉を傷つける行為になる」
私は殿下を見ました。
殿下は続けました。
「だからこそ、事実を確認する手順が必要だ。感情で動くのではなく、正しい形で対処する」
静かな言葉。
けれど、重みがありました。
昨日の殿下なら、まだ怒りが先に出ていたかもしれません。
今日の殿下は、疑う前に支えることを選んでいます。
誰かを犯人扱いするより、傷ついた人を守り、事実を確認する。
その姿勢が、言葉に出ていました。
レオン様が小さく頷きます。
「殿下のおっしゃる通りです」
見学の生徒たちも、真剣に聞いていました。
ベアトリス様側の牽制とは違う形で、こちらも正論を示したのです。
研究会が終わる頃には、学習室の空気は少し穏やかになっていました。
見学者たちは口々に「勉強になりました」と言って帰っていきます。
これで、学術研究会がただの噂の中心ではなく、きちんとした活動だという印象が少し広がるでしょう。
見学者が去った後、いつもの五人だけが残りました。
ナリア様が静かに言いました。
「殿下」
「はい」
「先ほどのお言葉、とてもよかったと思います」
殿下の顔が赤くなりました。
しかし、今日はすぐに固まりません。
「ありがとう」
短く答えます。
ナリア様は少し微笑みました。
「感情で動くのではなく、正しい形で対処する……私も、そうありたいと思いました」
「僕は、昨日かなり感情で動きそうになった」
殿下は正直に言いました。
「でも、ルイート嬢に止められた」
ナリア様が私を見ます。
私は少し気まずくなりました。
「咳払いをしただけです」
「その咳払いに、いつも助けられております」
ナリア様がくすりと笑いました。
殿下も少しだけ苦笑します。
「本当に」
その空気は、少し和やかでした。
昨日の掲示板事件があったとは思えないほど、静かで穏やか。
けれど、完全に忘れたわけではありません。
乗り越えようとしているのです。
ナリア様が、私へ向き直りました。
「ルイート様」
「はい」
「昨日の文で、傷つかれたと思います」
私は少しだけ息を止めました。
ナリア様は続けます。
「私を庇ってくださったことも、殿下を助けてくださっていることも、私は分かっています。ですが、それでルイート様が傷つけられるのは……嫌です」
その声は、静かでした。
でも、しっかりしていました。
私は胸が熱くなりました。
「ありがとうございます、ナリア様」
「ですから」
ナリア様は少しだけ迷いました。
そして、言いました。
「私も、できることをしたいです」
殿下が顔を上げました。
「ナリア」
「殿下だけに守られるのではなく、ルイート様だけに支えていただくのでもなく……私も、自分の言葉で立てるようになりたいです」
学習室に沈黙が落ちました。
それは、温かな沈黙でした。
殿下は、深く息を吸いました。
そして言いました。
「君がそう思ってくれることが、僕は嬉しい」
ナリア様の頬が赤くなります。
殿下も赤い。
けれど、言葉は重すぎません。
「でも、無理はしないでほしい」
「はい」
「僕も、無理に前へ出すぎないようにする」
「……はい」
二人は、少しだけ笑いました。
ほんの少し。
けれど、とても柔らかい笑みでした。
私はそれを見て、ようやく少し肩の力が抜けました。
その日の帰り際。
レオン様が私に小さな紙を渡しました。
「教師側からの報告です。机の警告文と掲示板の匿名文、紙質は同じ可能性が高いそうです」
「筆跡は?」
「似ています。ただし、まだ断定はできません」
「そうですか」
「それと、掲示板に貼られた時間帯に、東棟の廊下でダルモア侯爵令嬢の取り巻きの一人を見たという生徒がいます」
私は息を呑みました。
「誰ですか」
「セシリア・モートン子爵令嬢」
ベアトリス様の取り巻きの一人です。
「ただし、掲示板に貼ったところを見たわけではありません。廊下を歩いていただけです」
「証拠としては弱い」
「はい」
レオン様は静かに言いました。
「殿下にも伝えます。ただし、まだ動きません」
「はい」
「焦れば、相手に逃げ道を与えます」
「分かりました」
事件は少しずつ動いています。
けれど、まだ決定的ではありません。
疑わしい。
でも、断定できない。
ここで感情で踏み込めば、逆にこちらが悪者になる可能性もあります。
慎重に。
正しい形で。
殿下が研究会で言った言葉が、今度は私自身にも必要でした。
校舎を出ると、夕暮れの空が広がっていました。
昨日より少し風が冷たい。
中庭の花壇では、紫の花が揺れています。
エレナ様が隣で言いました。
「少しずつ、見えてきましたわね」
「はい」
「でも、まだ焦らない」
「はい」
「殿下だけでなく、私たちも」
「そうですね」
私は空を見上げました。
匿名文の犯人は、まだ捕まっていません。
ベアトリス様の真意も、まだ見えきっていません。
けれど、昨日よりは確実に進んでいます。
殿下は感情で誰かを疑うのではなく、まず支えることを選びました。
ナリア様は、自分も立ちたいと言いました。
学術研究会は、隠れ蓑ではなく、少しずつ本当の味方の場所になり始めています。
私は深く息を吸いました。
王太子殿下。
今日のあなたは、疑う前に支えることを選べました。
その選択が、きっと次の一歩を作ります。
だからどうか明日も。
怒りでも焦りでもなく、大切な人たちを守るための言葉を選んでくださいませ。




