第75話 王太子殿下、会いたい理由を探すのをやめる
誰かに。
会いたいと思ったとき。
理由は。
必要なのでしょうか。
用事があるから。
伝えたいことがあるから。
聞きたいことがあるから。
渡したいものがあるから。
確かめたいことがあるから。
そうした理由があれば。
人は。
会いに行きやすくなります。
自分の行動へ。
名前をつけられるから。
これは。
ただ会いたいだけではない。
必要だから。
仕方がないから。
偶然だから。
そう。
自分へ。
言い訳ができる。
王太子殿下は。
これまで。
たくさんの理由を。
お作りになりました。
研究の進み具合を。
確認するため。
体調を。
気遣うため。
差し入れを。
届けるため。
噂で。
困っていないか。
確かめるため。
質問へ。
答えるため。
どれも。
嘘ではありません。
全部。
本当に。
必要なことでした。
けれど。
その奥に。
ずっと。
一つだけ。
もっと。
簡単な理由がありました。
会いたい。
話したい。
その人が。
今日。
どんな顔をしているのか。
見たい。
ただ。
それだけ。
そして。
第七十四話の翌朝。
王太子殿下は。
ようやく。
その理由を。
私の前で。
認められました。
『今日の放課後。研究会へ行く』
『理由は?』
『理由を作らなくてよい』
『はい』
『話したいから。行く』
私は。
その言葉を。
聞きました。
だから。
その日の放課後。
殿下が。
いつもの校舎裏へ。
現れなかったとき。
私は。
少しだけ。
安心しました。
相談するために。
私のところへ。
来るのではなく。
話したい相手のところへ。
直接。
向かわれたのだと。
そう。
思ったからです。
……思ったのですが。
「なぜ。ここにいらっしゃるのですか」
放課後。
研究棟へ続く。
渡り廊下の手前。
大きな柱の陰で。
王太子殿下は。
立っていらっしゃいました。
しかも。
ずいぶん。
長い間。
◇
「マリア」
「はい」
「なぜ。ここにいる」
「それは。私の台詞です」
「私は」
殿下は。
少しだけ。
研究棟の方角を見る。
「通りかかった」
「どちらへ向かう途中ですか」
「……」
「殿下」
「考え中だ」
「行き先を?」
「そうだ」
「放課後。研究会へ行くと。朝に」
「言った」
「では。行き先は決まっています」
「分かっている」
「なぜ。柱の陰に?」
「陰ではない」
「半分。隠れています」
「日差しを避けている」
私は。
窓の外を見る。
今日の午後。
空には。
薄い雲。
強い日差しではない。
「曇っています」
「眩しい」
「どこがですか」
「私には。眩しい」
「そうですか」
「ああ」
「では。研究棟へ」
「待て」
「何を?」
「……」
殿下は。
黙る。
私は。
その横へ。
立った。
研究棟へ続く渡り廊下。
放課後の生徒たちが。
ところどころ。
行き交っている。
図書館へ向かう者。
部活動へ向かう者。
談笑しながら。
寮へ戻る者。
そして。
柱の陰に。
王太子殿下がいることへ。
気づいた者。
気づいた瞬間。
歩調が。
わずかに。
遅くなる。
誰も。
露骨には。
見ない。
けれど。
気になっている。
当然です。
王太子殿下が。
何もせず。
柱の横に。
十分近く。
立っている。
不自然です。
「何分くらい。こちらに?」
「知らない」
「侍従の方」
少し離れて。
立っている。
殿下付きの侍従へ。
視線を向ける。
侍従は。
少しだけ。
迷った。
「十四分ほどでございます」
「言うな」
「申し訳ございません」
「十四分」
「繰り返すな」
「朝は。話したいから行くと」
「分かっている」
「十四分」
「マリア」
「はい」
「帰れ」
「相談役を追い払うのですか」
「今日は。相談していない」
「では。なぜ。ここで止まっているのです?」
「……」
「殿下」
「何と言って入る」
「はい?」
「研究会へ」
ようやく。
理由が。
分かった。
「普通に」
「普通とは」
「扉を叩いて」
「何と言う」
「こんにちは、と」
「そのあとだ」
「お話ししたくて来ました」
「言えるか!」
殿下の声が。
渡り廊下へ。
響いた。
前を歩いていた。
三人の生徒が。
同時に。
肩を跳ねさせる。
一人は。
持っていた本を。
落としかけた。
殿下も。
自分の声に。
気づく。
口を閉じる。
「殿下」
「何だ」
「今朝。言えましたよね」
「お前には」
「はい」
「彼女へは。別だ」
「なぜです?」
「分からない」
「分からないなら」
「分からないと言えばよい」
殿下は。
自分で言った。
私は。
少しだけ。
笑う。
「覚えていますね」
「昨日。何度も言われた」
「では」
「だが」
殿下は。
研究棟を見る。
「彼女は。研究中かもしれない」
「はい」
「邪魔になる」
「はい」
「話したいから来たなど」
「はい」
「研究を止めてまで。私の相手をしろという意味に」
「なりません」
「王太子が言えば。なる」
「では。お時間があるか。尋ねてください」
「忙しいと言えると思うか」
「殿下」
「何だ」
「昨日。ご令嬢は。ご自分の言葉で。殿下へお話しになりました」
「ああ」
「少し寂しい」
「ああ」
「安心した」
「ああ」
「特別に思っていても。困るか」
「……ああ」
「言えた方です」
「ああ」
「なら。今日は忙しいと。言えるかもしれません」
「かもしれない」
「はい」
「言えなかったら」
「ご令嬢のお顔を見てください」
「また。それか」
「大切です」
殿下は。
黙った。
そして。
柱から。
半歩。
出る。
また。
止まる。
「殿下」
「何だ」
「今。何を考えました?」
「彼女が」
「はい」
「来てほしくなかったら」
「はい」
「どうする」
「帰ります」
「簡単だな」
「殿下は。帰りたくない?」
「……」
「会いたい?」
「会いたい」
今日は。
早い。
私は。
そのことを。
指摘しなかった。
「では。会いに行って。ご令嬢へ聞いてください」
「何を」
「今。少しお話しできますか」
「それだけ?」
「それだけです」
「話したい理由は」
「聞かれたら。答えてください」
「何と」
「話したかったから」
「……」
「殿下」
「分かった」
「行けますか」
「行く」
殿下が。
一歩。
進む。
そして。
また。
止まった。
「マリア」
「はい」
「お前も来い」
「なぜですか」
「最初だけだ」
「一人で行く練習では?」
「今日は。まだだ」
「昨日は。二人でお話しできました」
「場所が決まっていた」
「今日は。研究会です」
「だから。入りづらい」
「皆さん。知っている方でしょう?」
「知っているから。余計に」
「なぜ」
「全員」
一度。
深く。
息を吐く。
「見ている」
「何を?」
「私と彼女を」
「はい」
「面白そうに」
「はい」
「お前も」
「私は相談役です」
「最も面白そうに見ている」
「そんなことは」
「ある」
「……少しだけ」
「認めるな」
殿下は。
私を睨む。
けれど。
以前ほど。
強くない。
「では。部屋の前まで」
「中へは」
「殿下が。ご自分で」
「……分かった」
「はい」
私たちは。
研究棟へ。
歩き始めた。
◇
その日の研究棟は。
普段より。
少しだけ。
人が多かった。
理由は。
分かっています。
昨日。
研究棟裏の小庭で。
王太子殿下と。
例のご令嬢が。
二人で話した。
その噂が。
朝から。
学園中へ。
広がっていたから。
もちろん。
研究棟へ。
集まった生徒たちは。
誰も。
それが理由だとは。
言いません。
「友人の研究を見に」
「先生へ質問が」
「資料を探していて」
「植物に興味が」
「たまたま」
たまたま。
が。
ずいぶん。
多い日でした。
殿下は。
廊下を進みながら。
周囲を見る。
「増えている」
「何がですか」
「人だ」
「研究に興味を持つ方が。増えたのでしょう」
「本当に?」
「半分くらいは」
「残りは」
「殿下です」
「……」
「ご令嬢も」
「帰るぞ」
「ここまで来て?」
「やはり。邪魔になる」
「殿下」
「何だ」
「柱で十四分。ここまで五分」
「時間を数えるな」
「帰れば。十九分が」
「無駄ではない」
「では。何です?」
「歩いた」
「散歩ですか」
「そうだ」
「研究棟まで?」
「そうだ」
「会いたい方の部屋の前まで?」
「マリア」
「はい」
「今日は。口数が多い」
「いつもです」
「自覚があるのか」
殿下は。
小さく。
息を吐いた。
廊下の奥。
昨日まで。
何度も訪れた。
研究会の部屋。
扉は。
少しだけ。
開いている。
中から。
声が聞こえる。
「この葉だけ。昨日より傾いています」
「光の方向?」
「鉢を回したからかも」
「記録に残してある?」
「はい」
「水の量は」
「同じです」
「なら」
殿下の顔が。
少し。
変わる。
研究の話へ。
自然に。
耳を向ける。
「回転させたのか」
「殿下」
「何だ」
「入ります?」
「まだ。議論中だ」
「区切りを待つ?」
「ああ」
昨日までと。
同じ。
殿下は。
扉の前で。
待つ。
けれど。
今日は。
差し入れも。
用事も。
質問も。
持っていない。
ただ。
会いに来た。
そのことが。
殿下を。
いつも以上に。
落ち着かなくさせている。
「殿下」
「何だ」
「緊張しています?」
「している」
早い。
また。
早い。
「否定しませんね」
「昨日。正直に答えろと言っただろう」
「はい」
「だからだ」
「では。何が怖いですか」
「必要がないと思われること」
「何が?」
「私が。来ることだ」
私は。
少しだけ。
黙った。
殿下が。
扉の向こうへ。
視線を向けたまま。
続ける。
「今までは。理由があった」
「はい」
「資料」
「はい」
「差し入れ」
「はい」
「噂」
「はい」
「質問」
「はい」
「今日は。ない」
「はい」
「だから」
一度。
言葉を止める。
「ただ。私が来た」
「はい」
「それで」
殿下の声が。
少しだけ。
低くなる。
「彼女が。なぜ来たのかと思ったら」
「はい」
「何と答える」
「話したかったから」
「それだけでは」
「十分です」
「本当に?」
「はい」
「彼女が。困ったら」
「帰ります」
「嬉しそうなら」
「お話ししてください」
「……」
「簡単でしょう?」
「難しい」
「はい」
「だが」
殿下は。
小さく。
息を吐く。
「やる」
中の会話が。
一度。
途切れた。
殿下が。
扉へ。
手を上げる。
三度。
静かに。
叩く。
「はい」
中から。
声。
殿下が。
扉を開ける。
◇
研究会の部屋には。
昨日と同じく。
六人。
机の上。
鉢。
記録用紙。
測定器具。
少しだけ。
開いた窓。
午後の光。
そして。
その中に。
ご令嬢が。
いた。
殿下を見た瞬間。
ご令嬢の表情が。
変わった。
ほんの少し。
驚き。
そのあと。
明るさ。
「王太子殿下」
立ち上がる。
他の研究会員たちも。
一斉に。
立つ。
「そのままでよい」
殿下が。
すぐに言う。
「研究中だろう」
「はい」
代表の男子生徒が。
答える。
「ですが。ちょうど一区切り」
「本当に?」
殿下が。
ご令嬢を見る前に。
代表へ。
確認する。
「はい」
「無理に。止めていないか」
「大丈夫です」
女子研究会員も。
笑いながら。
うなずく。
「本当に。今。測定を終えたところです」
「そうか」
殿下の肩から。
少しだけ。
力が抜けた。
研究会員たちの視線が。
殿下へ。
集まる。
何か。
持っているのか。
書類?
菓子?
王宮からの資料?
でも。
殿下の手は。
空。
そのことへ。
皆が。
少しずつ。
気づく。
「本日は」
代表の男子生徒が。
尋ねる。
「どのようなご用件でしょうか」
殿下が。
止まった。
来た。
その質問。
何のために。
来たのか。
理由。
殿下の視線が。
一瞬。
私へ。
向く。
私は。
扉の近く。
何も言わない。
殿下は。
ご令嬢を見る。
ご令嬢も。
静かに。
待っている。
「用件は」
殿下が。
言う。
「ない」
研究会員たちが。
一瞬。
目を瞬く。
「……ない?」
「ああ」
「では」
殿下は。
ご令嬢を見る。
長い。
一秒。
二秒。
そして。
「話したくて来た」
言った。
室内が。
完全に。
静かになった。
廊下の外。
誰かが。
息を呑む音まで。
聞こえた。
ご令嬢の目が。
ゆっくり。
大きくなる。
「私と?」
聞いた。
殿下は。
止まらない。
「ああ」
答えた。
ご令嬢の頬が。
少し。
赤くなる。
研究会員たちが。
互いを見る。
一人の女子生徒が。
口元を。
手で隠す。
男子生徒は。
視線を。
鉢へ。
落とした。
何も。
聞いていないふり。
でも。
全員。
聞いている。
「今」
殿下が。
続ける。
「時間はあるか」
ご令嬢が。
一度。
研究会員たちを見る。
代表の男子生徒が。
すぐに。
「あります」
と。
答えかけた。
ご令嬢が。
彼を見る。
「私が答えます」
「……すみません」
男子生徒が。
少し。
顔を赤くする。
殿下は。
そのやり取りを。
見ていた。
そして。
待つ。
ご令嬢が。
もう一度。
殿下へ。
向き直る。
「はい」
「本当に?」
「はい」
「研究は」
「先ほど。区切りがつきました」
「無理を」
「しておりません」
「そうか」
殿下は。
小さく。
息を吐いた。
「では」
ご令嬢が。
少し。
笑う。
「どのようなお話を?」
殿下が。
完全に。
止まった。
私も。
少しだけ。
息を止めた。
朝。
練習した。
話したい。
でも。
何を話したいか。
全部は。
分からない。
殿下は。
ご令嬢を見る。
「……分からない」
研究会員たちが。
また。
目を瞬く。
ご令嬢も。
一瞬。
驚く。
殿下は。
続ける。
「話したいと思って来た」
「はい」
「だが。何を話すかまで」
一度。
息を吸う。
「考えていなかった」
ご令嬢は。
殿下を。
じっと見る。
その表情が。
少しずつ。
柔らかくなる。
「そうなのですね」
「ああ」
「では」
ご令嬢は。
机の上の。
小さな鉢へ。
視線を落とす。
「何も決めずに。お話ししてみますか」
殿下の目が。
少し。
大きくなる。
「何も?」
「はい」
「研究の話ではなく?」
「研究でも。構いません」
「質問でも?」
「はい」
「質問がなくても?」
「はい」
「……」
殿下は。
しばらく。
何も言わなかった。
「それは」
「はい」
「どうすればよい」
ご令嬢が。
少しだけ。
笑った。
「普通に。お話しすれば」
「普通が。分からない」
研究会員の一人が。
吹き出しかける。
咳で。
誤魔化す。
殿下が。
そちらを見る。
「今。笑ったか」
「咳です」
「本当に?」
「はい」
ご令嬢も。
口元を。
少し緩めている。
「あなたも。笑っている」
「少しだけ」
「なぜ」
「殿下が」
一度。
言葉を止める。
「少し。かわいらしく見えたので」
室内が。
凍った。
今度こそ。
完全に。
殿下の顔が。
止まった。
「……何?」
ご令嬢も。
言ったあと。
自分の言葉へ。
気づいた。
頬が。
一気に。
赤くなる。
「いえ」
今度は。
ご令嬢が。
逃げようとする。
「今」
殿下が。
言う。
「何と言った」
「何でもありません」
「聞いた」
「では。忘れてください」
「なぜ」
「恥ずかしいからです」
殿下は。
何も言えなくなる。
研究会員たちは。
全員。
俯いている。
肩が。
少しずつ。
震えている者も。
いる。
「かわいらしい」
殿下が。
小さく。
繰り返す。
「殿下」
「何だ」
「忘れてください」
「難しい」
「マリア様と同じことを」
「その言葉は。便利だ」
「今。使わないでください」
ご令嬢の声に。
室内から。
とうとう。
小さな笑いが。
漏れた。
殿下は。
研究会員たちを。
見る。
でも。
怒らなかった。
「……分かった」
「何がですか」
「忘れない」
「殿下」
「できない」
ご令嬢は。
両手で。
顔を隠したくなるのを。
堪えるように。
少し。
俯いた。
「話すとは」
殿下が。
ぽつり。
言う。
「こういうことか」
「たぶん」
ご令嬢が。
小さく。
答えた。
「難しいですね」
「ああ」
「でも」
「何だ」
「少し。楽しいです」
殿下は。
ご令嬢を見る。
「私も」
言った。
今度は。
すぐに。
言えた。
◇
そのあと。
殿下は。
研究会の部屋へ。
少しだけ。
残った。
最初は。
ご令嬢と。
何を話せばよいか。
分からず。
机の上の。
鉢を見て。
「これは」
と。
研究の話へ。
入りかけた。
けれど。
途中で。
止まった。
「いや」
殿下が。
小さく言う。
「今日は。研究以外の話もする」
ご令嬢が。
目を瞬く。
「はい」
「何を話す」
「殿下が。決めるのですか」
「決めないと。始まらない」
「では」
ご令嬢は。
少し考える。
「今日のお昼は。何を召し上がりましたか」
殿下が。
固まった。
「何だ。その質問は」
「普通のお話です」
「昼食?」
「はい」
「それを。聞いてどうする」
「知りたいだけです」
「なぜ」
「殿下が。何を召し上がったのか」
「……」
「嫌でしたか」
「嫌ではない」
「では」
殿下は。
少し。
考える。
「白いパン」
「はい」
「肉」
「はい」
「温野菜」
「はい」
「果物」
「何の?」
「赤い」
「赤い?」
「小さい」
「林檎でしょうか」
「違う」
「苺?」
「それより大きい」
「……」
「何だ」
「殿下」
「何だ」
「果物の名前を。ご存じないのですか」
「知っている」
「では」
「今。出てこないだけだ」
研究会員の一人が。
「李では?」
と。
小さく。
口を挟む。
殿下が。
そちらを見る。
「それだ」
室内に。
笑いが起きる。
「なぜ笑う」
「申し訳ございません」
「王太子殿下も。果物の名前が出てこないことが」
「ある」
「少し。安心しました」
ご令嬢が言う。
「なぜ」
「何でもご存じだと思っていましたから」
「そんなわけがない」
「でも」
「知らないことはある」
「はい」
「だから。学ぶ」
殿下は。
当然のように言う。
ご令嬢の表情が。
少しだけ。
変わる。
「それ」
「何だ」
「素敵ですね」
殿下の動きが。
止まる。
「何が」
「知らないことがあると。普通に認めて。学ぶとおっしゃることです」
「普通だ」
「殿下にとっては?」
「……最近は」
「はい」
「少し」
「以前は?」
「答えられないと。困った」
「今は?」
「分からないと。言えることもある」
「はい」
「あなたに。聞かれたから」
ご令嬢の目が。
少し。
柔らかくなる。
「私の質問が。役に立ちましたか」
「ああ」
「嬉しいです」
殿下は。
少しだけ。
照れたように。
視線を。
鉢へ移した。
「では」
今度は。
殿下が。
尋ねる。
「あなたは。昼に何を食べた」
ご令嬢の目が。
少し。
大きくなる。
「昨日は。魚でしたが」
「今日は?」
「豆と鶏肉の煮込みです」
「それだけ?」
「パンも」
「野菜は」
「食べました」
「果物は」
「殿下」
「何だ」
「昨日の続きでしょうか」
「何が」
「食事の確認」
研究会員たちが。
また。
笑う。
殿下は。
少し。
気まずそうに。
咳払いをした。
「体調を崩されると困る」
「研究が?」
ご令嬢が。
少しだけ。
試すように。
尋ねた。
殿下は。
止まる。
以前なら。
研究のためだ。
と。
答えた。
でも。
今は。
ご令嬢を。
見る。
「研究も」
「はい」
「あなたも」
ご令嬢の頬が。
少し。
赤くなる。
「……はい」
「だから。食べろ」
殿下は。
言った。
そして。
すぐに。
気づく。
「いや」
研究会員たちが。
全員。
殿下を見る。
「食べてほしい」
言い直した。
ご令嬢が。
小さく。
笑う。
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
「なら。よい」
「はい」
そこから。
会話は。
少しずつ。
続いた。
ご令嬢の好きな。
食べ物。
苦手なもの。
殿下が。
朝。
何時に起きるか。
王宮で。
どのくらい。
公務の勉強をしているか。
好きな季節。
雨は。
嫌いか。
ご令嬢は。
雨の日が。
好きだった。
「なぜ」
「音が好きなのです」
「音?」
「窓や。屋根へ当たる音です」
「暗くなる」
「はい」
「研究には。向かない」
「外の作業は難しいです」
「なら。嫌では」
「でも」
ご令嬢は。
窓の外を見る。
「何もしなくても。許される気がするので」
「何もしなくても?」
「はい」
「なぜ。許可が必要だ」
ご令嬢が。
少しだけ。
驚いた顔をする。
「殿下」
「何だ」
「それは。殿下にも。言えるのでは?」
「何が」
「何もしなくても。よい時間」
「私は」
「王太子殿下だから?」
「……」
「殿下」
「あるかもしれない」
「はい」
「だが。少ない」
「では。雨の日くらい」
「何もしない?」
「少しだけ」
「難しい」
「私もです」
「あなたも?」
「はい」
「研究をするだろう」
「します」
「何もしないのでは」
「できていませんね」
二人で。
少し。
笑った。
研究会員たちも。
最初は。
緊張していた。
けれど。
少しずつ。
いつもの作業へ。
戻っていった。
殿下がいる。
それだけで。
完全に。
いつもどおりには。
ならない。
それでも。
昨日までより。
空気は。
自然だった。
殿下が。
話の中心を。
奪っていない。
必要なときだけ。
尋ねる。
ご令嬢と。
話す。
時々。
他の研究会員も。
会話へ。
入る。
誰かが。
笑う。
殿下も。
以前ほど。
それを。
止めない。
私は。
入口近くの。
壁際で。
その様子を。
見ていた。
今日。
殿下には。
用事がなかった。
それでも。
ここにいる。
そのことが。
不思議だった。
何かを。
解決するためでもない。
誰かを。
助けるためでもない。
ただ。
話したかった。
だから。
来た。
それだけ。
その。
それだけが。
殿下にとって。
どれほど。
難しかったのか。
私は。
朝から。
見ていた。
◇
時間が。
少し。
過ぎた。
研究会員たちが。
再び。
測定へ。
戻る時間。
殿下が。
自分から。
立ち上がった。
「邪魔をした」
「いいえ」
代表の男子生徒が。
答える。
「今日は。皆も。少し息抜きになりました」
「研究を止めた」
「区切りでした」
「本当に?」
「本当にです」
殿下は。
ご令嬢を見る。
「あなたも?」
「はい」
ご令嬢が。
うなずく。
「とても。楽しかったです」
殿下の動きが。
止まる。
研究会員たちが。
殿下を見る。
殿下は。
少しだけ。
耳を赤くする。
「……そうか」
「殿下は?」
ご令嬢が。
尋ねる。
殿下は。
もう。
以前のように。
別に。
悪くない。
と言わなかった。
「私も」
一度。
少しだけ。
息を吸う。
「楽しかった」
ご令嬢が。
笑う。
「よかったです」
「ああ」
「また」
ご令嬢が。
言いかけた。
殿下が。
先に。
「また来てもよいか」
と。
尋ねた。
室内が。
少しだけ。
静かになる。
ご令嬢の目が。
大きくなる。
殿下は。
続ける。
「理由がなくても」
ご令嬢は。
しばらく。
何も言わなかった。
その沈黙で。
殿下の表情が。
少しずつ。
不安になる。
「忙しいなら」
「違います」
ご令嬢が。
すぐに。
言う。
「驚いただけです」
「嫌か」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
「研究中なら」
「そのときは。少し待っていただくかもしれません」
「言える?」
「はい」
「本当に?」
「殿下」
ご令嬢が。
少しだけ。
笑う。
「今日。殿下が。用事がなくても来てくださったこと」
「ああ」
「私は。嬉しかったです」
殿下が。
黙る。
「ですから」
ご令嬢は。
ゆっくり。
続ける。
「また。お話ししたいと思われたときに」
「はい」
「いらしてください」
「……よいのか」
「はい」
「理由がなくても」
「はい」
「ただ。話したいだけでも」
「はい」
殿下は。
長く。
何も言わなかった。
その目が。
少しだけ。
揺れている。
「なら」
「はい」
「来る」
ご令嬢の笑顔が。
少し。
深くなる。
「お待ちしております」
その言葉へ。
殿下は。
また。
固まった。
「待つ?」
「はい」
「私を?」
「はい」
「毎日という意味では」
「違います」
今度は。
ご令嬢が。
笑う。
「殿下がお話ししたい日に」
「ああ」
「私も。お話しできる日なら」
「ああ」
「お待ちしております」
殿下は。
ゆっくり。
うなずいた。
「分かった」
そして。
少しだけ。
躊躇う。
「あなたも」
「はい」
「話したくなったら」
ご令嬢が。
待つ。
「……来てよい」
言ったあと。
殿下は。
少し。
違うと思った顔をした。
「来てよい?」
ご令嬢が。
繰り返す。
「違う」
殿下が。
言う。
私は。
少し。
身構える。
けれど。
「来てほしい」
と。
言い直した。
今度は。
研究会の部屋が。
完全に。
静かになった。
ご令嬢も。
殿下も。
動かない。
研究会員たちは。
全員。
顔を伏せた。
見てはいけない。
聞いてはいけない。
でも。
聞こえている。
そんな。
空気。
ご令嬢の頬が。
ゆっくり。
赤くなる。
「どこへ」
ご令嬢が。
小さな声で。
尋ねる。
殿下が。
固まる。
確かに。
来てほしい。
でも。
どこへ。
「……」
「殿下?」
「校舎裏」
私は。
目を見開いた。
殿下も。
言ったあと。
気づいた。
あの場所。
いつも。
私と。
恋愛相談をしていた。
古いベンチ。
「校舎裏?」
「ベンチがある」
「はい」
「マリアと」
殿下が。
そこで。
止まる。
「いつも。相談している場所だ」
ご令嬢の目が。
少し。
大きくなる。
「私が。行っても?」
「ああ」
「マリア様は?」
全員の視線が。
私へ。
向く。
「私ですか」
突然。
巻き込まれた。
殿下も。
こちらを見る。
「マリア」
「はい」
「どうする」
「私に聞くのですか」
「ああ」
「私は」
一度。
考える。
校舎裏のベンチ。
殿下が。
好きなご令嬢へ。
嫌い。
と。
言ってしまう。
その相談から。
始まった場所。
何度も。
殿下の言葉を。
止めた。
何度も。
呆れた。
何度も。
話した。
そこへ。
ついに。
ご令嬢本人が。
来る。
少し。
不思議な気持ちだった。
「私は」
ゆっくり。
答える。
「必要なときだけ。おります」
「必要なとき?」
「殿下が。間違ったことを言いそうなとき」
「最初からいるではないか」
「殿下」
研究会員たちから。
笑いが漏れる。
ご令嬢も。
笑った。
殿下は。
少し。
不満そう。
「では」
ご令嬢が。
殿下を見る。
「今度。伺っても?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「お邪魔では」
「ならない」
殿下は。
今度は。
迷わなかった。
「来てほしい」
二度目。
ご令嬢は。
少しだけ。
視線を落とした。
「はい」
小さな。
でも。
はっきりした。
返事だった。
◇
研究会の部屋を。
出た瞬間。
廊下にいた。
生徒たちの視線が。
一斉に。
こちらへ。
向いた。
理由は。
明らか。
また。
王太子殿下が。
研究会へ。
来た。
しかも。
何も持たず。
かなり。
長く。
滞在した。
「殿下」
「何だ」
「見られています」
「知っている」
「気になります?」
「気になる」
「帰りますか」
「帰らない」
「なぜ?」
「もう。出てきた」
「そうですね」
殿下は。
前を向いて。
歩く。
私は。
その半歩後ろ。
警護役。
侍従。
さらに。
周囲。
「何を話したんだろう」
「今日は差し入れないよね」
「本当に会いに来ただけ?」
「それって」
「やっぱり」
「でも。研究会全体かも」
「殿下が?」
「昨日の小庭の続き?」
殿下の歩調が。
少しだけ。
速くなる。
「殿下」
「何だ」
「早いです」
「知っている」
「逃げています?」
「違う」
「違う?」
「……少し」
私は。
笑う。
「正直ですね」
「今日は。何度もやった」
「疲れました?」
「かなり」
「でも」
「何だ」
「嬉しそうです」
「……」
殿下は。
答えない。
渡り廊下へ。
出る。
夕方の空気。
少し。
冷たい風。
中庭では。
部活動の生徒たちが。
走っている。
掛け声。
笛。
遠くの。
剣が触れる音。
「マリア」
「はい」
「私は」
「はい」
「今日は。何をしに行った」
「お話しに」
「それだけ?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「何も。解決していない」
「はい」
「質問も」
「ありませんでしたね」
「差し入れも」
「ありません」
「研究の助言も」
「少ししました?」
「ほとんどしていない」
「はい」
「なのに」
殿下が。
足を。
少し。
緩める。
「行ってよかった」
「はい」
「不思議だ」
「なぜです?」
「何もしなかった」
「お話ししました」
「それだけだ」
「それでよかったのでは?」
「……」
「殿下」
「何だ」
「楽しかった?」
「ああ」
「かなり?」
殿下は。
私を見る。
少しだけ。
嫌そうな顔。
「かなり」
「はい」
「もう聞くな」
「分かりました」
私は。
少しだけ。
笑った。
◇
翌朝。
当然。
噂は。
広がっていました。
王太子殿下が。
用事もなく。
例のご令嬢へ。
会いに行った。
その。
一つの事実は。
噂として。
非常に。
強かったようです。
これまでなら。
差し入れ。
研究。
質問。
噂の訂正。
そういう。
理由があった。
でも。
昨日は。
なかった。
そのため。
学園の人々は。
理由を。
勝手に。
作り始めました。
「殿下は。正式に求婚なさる前の。お忍び訪問を」
「忍んでいません」
「研究会へ通って。外堀を」
「埋めていません」
「ご令嬢の友人たちへ。認めてもらうため」
「そういう話では」
「殿下は。毎日会わなければ耐えられないとか」
「それは違います」
「本当に?」
「……たぶん」
「マリア様」
「何ですか」
「今。自信がありませんでしたね」
「ありません」
朝。
回廊。
私は。
三人の女子生徒に。
囲まれていた。
「では。昨日。殿下はなぜ」
「お話ししたかったからです」
言った。
一瞬。
周囲が。
静かになる。
女子生徒たちが。
私を見る。
「……それだけ?」
「はい」
「用事は?」
「ありません」
「研究の質問?」
「特に」
「差し入れ?」
「なし」
「噂の訂正?」
「していません」
「では」
一人の女子生徒が。
声を。
少し。
落とす。
「本当に」
「はい」
「会いたかっただけ?」
私は。
少し。
迷った。
殿下が。
自分で。
話したいから。
行く。
そう。
言った。
隠すことでは。
ないかもしれない。
でも。
私が。
勝手に。
広めるべきでは。
ない。
「殿下ご本人へ」
「聞けません」
「ですよね」
「怖いです」
「そこは否定しないのですね」
三人が。
笑う。
そのとき。
「何を。私へ聞けないと言っている」
背後から。
声。
私は。
振り返る。
王太子殿下。
朝から。
ご機嫌は。
普通。
たぶん。
「殿下」
「何だ」
「おはようございます」
「おはよう」
三人の女子生徒が。
一斉に。
頭を下げる。
「ご機嫌麗しく存じます」
「ああ」
殿下は。
私を見る。
「何を話していた」
「噂の訂正です」
「また?」
「はい」
「何の」
「昨日。研究会へ行かれたこと」
「ああ」
「皆さん。なぜ行ったのかと」
「……」
殿下の視線が。
三人の女子生徒へ。
向く。
女子生徒たちが。
少し。
身構える。
一人が。
勇気を出して。
「殿下」
と。
声をかける。
「何だ」
「昨日は」
「……」
「研究会へ」
「ああ」
「どのようなご用件で?」
殿下が。
止まった。
私は。
何も言わない。
昨日。
同じ質問を。
研究会で。
受けた。
用件は。
ない。
話したかった。
殿下は。
周囲を見る。
朝の回廊。
生徒たち。
少し離れた場所から。
こちらを。
気にしている。
多くの視線。
以前なら。
私用だ。
答える必要はない。
関係ない。
そのように。
切ったかもしれない。
「用件は」
殿下が。
言う。
「特になかった」
女子生徒たちの目が。
大きくなる。
「では」
「話をしに行った」
ざわり。
近くにいた。
何人かの生徒が。
反応する。
殿下は。
気づく。
でも。
続ける。
「それだけだ」
「……お話を?」
「ああ」
「例のご令嬢と?」
「ああ」
「会いたかったから?」
女子生徒が。
そこまで。
聞く。
私は。
少し。
身構える。
殿下も。
止まる。
長い。
沈黙。
「……」
周囲が。
静かになる。
殿下は。
一度。
私を見る。
でも。
助けを求めていない。
ただ。
確認するように。
そして。
女子生徒へ。
戻る。
「そうだ」
言った。
回廊の空気が。
一瞬。
止まった。
「私は」
殿下が。
続ける。
「彼女と。話したかった」
誰かが。
小さく。
息を呑んだ。
「だから。行った」
女子生徒たちは。
完全に。
固まっている。
殿下は。
少し。
顔を赤くしながら。
「以上だ」
と。
言った。
そして。
歩き出す。
私は。
慌てて。
その横へ。
並ぶ。
後ろ。
数秒。
静か。
それから。
「今」
「聞いた?」
「聞いた」
「会いたかったからって」
「殿下が?」
「自分で?」
「やばい」
「静かに!」
声が。
一気に。
広がる。
「殿下」
「何だ」
「今」
「分かっている」
「大丈夫ですか」
「何が」
「噂」
「増える」
「はい」
「分かっている」
「では。なぜ」
「聞かれたからだ」
「はい」
「嘘をつく理由はない」
私は。
少し。
驚いた。
殿下は。
前を向いたまま。
歩く。
「それに」
「はい」
「昨日」
「はい」
「彼女へも。話したかったから来たと。言った」
「はい」
「他の者へ。違う理由を言えば」
一度。
小さく。
息を吐く。
「彼女にだけ。嘘をつかなかった意味が。変わる」
「……はい」
「だから」
「はい」
「同じことを言った」
私は。
しばらく。
何も言えなかった。
「マリア」
「はい」
「何だ」
「いいえ」
「顔が」
「殿下」
「何だ」
「よかったですね」
「何が」
「会いたいと。言えるようになって」
「……」
「しかも。ご本人だけではなく」
「やめろ」
「皆さんの前で」
「やめろ」
「王太子殿下が」
「マリア」
「はい」
「今日は。朝から。もう疲れた」
「まだ授業前です」
「知っている」
「一日。長いですね」
「誰のせいだ」
「殿下です」
「お前だ」
「半分ずつ?」
「違う」
「違う?」
「……三割。お前」
「少なくなりましたね」
「七割。噂を聞く者たち」
「殿下自身は?」
「……」
「殿下」
「少し」
「はい」
殿下は。
深く。
息を吐いた。
けれど。
歩みは。
止めなかった。
◇
その日の昼には。
新しい噂が。
学園中を。
回っていました。
王太子殿下は。
あるご令嬢へ。
会いたかったから。
用事もなく。
研究会へ行った。
これは。
ほとんど。
事実です。
だから。
訂正が。
難しい。
「殿下」
「何だ」
昼休み。
校舎裏のベンチ。
私は。
殿下の隣へ。
座っていた。
「噂を。どうします?」
「どうもしない」
「よいのですか」
「ああ」
「未来の王太子妃だと」
「それは違う」
「毎日会わないと耐えられない」
「違う」
「研究会へ入会する」
「入らない」
「ご令嬢専属研究補佐」
「何だ。それは」
「噂です」
「全部。否定しろ」
「会いたかったことは?」
「……」
「否定します?」
「しない」
「はい」
殿下は。
昼食の。
パンを。
一口。
食べる。
「マリア」
「はい」
「質問は」
「ご令嬢の残り三つ?」
「ああ」
「まだ。来ていませんね」
「そうだ」
「待てます?」
「……」
「殿下」
「待つ」
「はい」
「だが」
「はい」
「昨日。彼女は。校舎裏へ来てもよいと」
「殿下が。来てほしいと」
「ああ」
「はい」
「いつ来る」
「分かりません」
「今日?」
「分かりません」
「明日?」
「分かりません」
「一週間」
「殿下」
「期限を決めるな」
「ご自分で言えましたね」
「分かっている」
「待ちましょう」
「……ああ」
「殿下」
「何だ」
「でも。今日も研究会へ行きます?」
殿下が。
止まる。
「毎日行けば」
「はい」
「迷惑かもしれない」
「では。聞けば?」
「昨日。来てよいと言われた」
「はい」
「でも。毎日とは」
「はい」
「言われていない」
「はい」
「だから」
「はい」
「今日は行かない」
「本当に?」
「……」
「殿下」
「行きたい」
「はい」
「だが。行かない」
「なぜ?」
「会いたいから。毎日行くのは」
一度。
言葉を探す。
「重い」
「そう思います?」
「ああ」
「では。ご令嬢が。毎日来たら?」
殿下が。
止まった。
「校舎裏へ?」
「はい」
「……」
「嫌ですか」
「嫌ではない」
「嬉しい?」
「かなり」
「では」
「違う」
「何が?」
「私と。彼女では」
「何が違うのです?」
「私は。王太子だ」
「はい」
「立場が」
「はい」
「圧力になる」
「はい」
「だから」
「はい」
「毎日行くなら。彼女へ。聞く」
「毎日行ってもよいか?」
「ああ」
「殿下」
「何だ」
「それは。少し重いです」
「何!」
殿下の声が。
庭へ。
響く。
近くを歩いていた。
二人の生徒が。
こちらを見る。
殿下は。
口を閉じる。
「なぜだ」
今度は。
小さい声。
「毎日。という約束になるからです」
「では」
「会いたい日に。行く」
「それでは。今と同じだ」
「はい」
「行きすぎたら」
「ご令嬢が。今日は忙しいと」
「言えるか」
「信じましょう」
「……」
「殿下」
「分かった」
「はい」
「私は」
一度。
深く。
息を吐く。
「彼女を。信じる練習も。必要だな」
「はい」
「断られることを」
「はい」
「怖がりすぎない」
「はい」
「断られても」
「はい」
「嫌われたと。すぐ決めない」
「はい」
「……難しい」
「はい」
「恋愛は」
「はい」
「練習が多すぎる」
私は。
笑った。
「でも。昨日は楽しかったでしょう?」
「ああ」
「それなら」
「……続ける」
「何を?」
殿下は。
少し。
考えた。
「恋愛を」
私は。
完全に。
動きを止めた。
殿下も。
言ったあと。
気づいた。
「今」
「聞くな」
「恋愛を続けると」
「一般論だ」
「誰との?」
「……」
「殿下」
「彼女との」
小さな声。
でも。
はっきり。
「まだ。恋愛かどうかは」
「はい」
「分からない」
「はい」
「だが」
一度。
ご令嬢のいる。
研究棟の方角へ。
視線を向ける。
「続けたい」
「はい」
私は。
それ以上。
何も言わなかった。
殿下も。
取り消さなかった。
◇
その日の放課後。
殿下は。
研究会へ。
行きませんでした。
校舎裏のベンチへ。
来ました。
私が。
すでに。
座っている。
その隣へ。
殿下が。
座る。
「今日は。行かないのですね」
「ああ」
「会いたくない?」
「会いたい」
「はい」
「だが」
殿下が。
少し。
空を見る。
「昨日。話した」
「はい」
「今日は。彼女も。研究したいだろう」
「はい」
「私も」
「はい」
「待つ」
その言葉。
以前より。
少し。
自然になった。
「殿下」
「何だ」
「成長しましたね」
「褒めるな」
「受け取る練習」
「今日は。何の練習もしていない」
「では。受け取ってください」
「……」
殿下は。
不満そうに。
私を見る。
けれど。
その顔には。
本気の拒絶は。
ありませんでした。
「……分かった」
「はい」
「一応。受け取る」
「一応?」
「全部は。受け取らない」
「なぜですか」
「調子に乗る」
「誰が?」
「私が」
私は。
少しだけ。
目を瞬いた。
「殿下」
「何だ」
「ご自分で。そこまで分かるようになったのですね」
「今のも。褒めているのか」
「はい」
「やはり。受け取らない」
「遅いです」
「取り消す」
「できません」
「なぜだ」
「もう受け取りました」
「勝手に決めるな」
殿下は。
ため息をついた。
でも。
そのあと。
少しだけ。
笑いました。
今日。
研究会へ。
行かない。
会いたい。
でも。
行かない。
それは。
以前のような。
逃げではありません。
殿下は。
ご令嬢の時間を。
考えている。
自分の気持ちだけで。
毎日。
押しかけない。
でも。
会いたいことは。
否定しない。
その。
ちょうど間。
殿下は。
少しずつ。
そこへ。
立てるようになっていました。
「マリア」
「はい」
「昨日」
「はい」
「普通の話をした」
「研究以外の?」
「ああ」
「何を?」
「昼食」
「はい」
「雨」
「はい」
「果物」
「はい」
「それだけだ」
「楽しかった?」
「ああ」
「なぜ?」
「分からない」
「はい」
「でも」
殿下は。
少し。
考える。
「彼女が。何を食べたか」
「はい」
「雨が好きだということ」
「はい」
「何もしなくても。許される気がするからと」
「はい」
「そういうことを」
一度。
言葉を止める。
「知るのが。楽しかった」
「はい」
「研究の成果ではなく」
「はい」
「彼女のことを」
「はい」
「知る」
殿下は。
少しだけ。
困った顔。
「それが」
「はい」
「こんなに。面白いとは思わなかった」
私は。
黙っていた。
「何だ」
「いいえ」
「また。顔が」
「嬉しいです」
「なぜ」
「殿下が。ようやく」
私は。
少しだけ。
言葉を選ぶ。
「その方自身を。知ろうとなさっているからです」
「以前も。見ていた」
「はい」
「研究も」
「はい」
「鉢も」
「はい」
「雨の日も」
「はい」
「なら。同じでは」
「違います」
殿下が。
少し。
眉を寄せる。
「どこが」
「以前は。ご令嬢が何をしているか。見ていた」
「はい」
「今は。ご令嬢が何を好きか。知りたい」
「……」
「何を食べるか」
「はい」
「雨の音が好き」
「はい」
「何もしなくてよい時間を。少し欲しい」
「はい」
「そういう」
一度。
小さく。
笑う。
「役に立たないことを。知りたい」
殿下が。
止まる。
「役に立たない?」
「王太子としては」
「……ああ」
「研究の判断にも」
「はい」
「政治にも」
「はい」
「公務にも」
「はい」
「必要ないでしょう?」
「そうだな」
「でも。知りたい」
殿下は。
しばらく。
何も言わなかった。
「それは」
「はい」
「何だ」
「私に聞くのですか」
「相談役だ」
「殿下ご自身で」
「分からない」
「では」
「だが」
一度。
息を吸う。
「彼女を知りたい」
「はい」
「会いたい」
「はい」
「話したい」
「はい」
「他の者と。特別になるのは」
少し。
顔をしかめる。
「嫌かもしれない」
「はい」
「彼女が。私を少し特別に思っていると」
「はい」
「かなり嬉しい」
「はい」
「それは」
殿下は。
私を見る。
「恋か」
「かなり。近いと思います」
「近い?」
「最後は。殿下が決めることです」
「また。それか」
「大切です」
殿下は。
ベンチの背へ。
体を預ける。
「まだ」
「はい」
「好きだとは」
「はい」
「言えない」
「はい」
「だが」
「はい」
「嫌いでは」
止まった。
私は。
殿下を見る。
殿下も。
気づいた。
少し。
笑う。
「今のは。もう」
「はい」
「言う必要がないな」
「はい」
「嫌いではない。ではなく」
「はい」
「……」
殿下は。
空を見る。
雲の向こう。
夕方の光が。
少しずつ。
薄く。
庭へ。
降りていました。
「大切だ」
私は。
何も言わなかった。
ただ。
待った。
「彼女は」
殿下が。
もう一度。
言う。
「大切だと思う」
「はい」
「まだ」
「はい」
「何という意味の大切かは。全部分からない」
「はい」
「だが」
ゆっくり。
息を吐く。
「大切だ」
私は。
小さく。
うなずいた。
「覚えておきます」
「なぜ」
「殿下が忘れたときに」
「……ああ」
「ご令嬢へ。いつか言えますか」
「今は無理だ」
「はい」
「だが」
一度。
研究棟の方角へ。
見る。
「いつか」
「はい」
「自分で言う」
昨日。
喜ばせたい。
今日は。
大切だ。
殿下の中で。
言葉が。
少しずつ。
増えている。
好き。
という。
一つの言葉へ。
まだ。
届かない。
でも。
その周りには。
もう。
たくさんの。
本当の気持ちが。
集まり始めていました。
◇
夕方。
校舎裏のベンチ。
二人で。
黙っていた。
殿下は。
今日は。
本を持っていない。
私も。
何も。
話さない。
少し。
穏やかな。
時間。
そのとき。
校舎の角から。
足音が。
聞こえた。
一人。
ゆっくり。
近づいてくる。
私は。
振り返る。
殿下も。
振り返る。
そこに。
ご令嬢が。
立っていた。
殿下の動きが。
完全に。
止まった。
ご令嬢も。
少し。
緊張した顔。
「ご、ご機嫌麗しく存じます」
頭を下げる。
「王太子殿下」
「ああ」
殿下は。
立ち上がる。
「なぜ」
言いかける。
止まる。
来てほしい。
昨日。
自分で。
言った。
「来たのか」
「はい」
「ここへ」
「はい」
「なぜ」
また。
尋ねた。
ご令嬢が。
少し。
困ったように。
笑う。
「殿下に。来てほしいと。言っていただいたので」
「ああ」
「それから」
「何だ」
ご令嬢は。
少し。
頬を赤くする。
「私も」
殿下が。
待つ。
「お話ししたくなりました」
殿下の顔が。
完全に。
止まった。
私は。
隣で。
その横顔を見る。
驚き。
嬉しさ。
信じられない。
困惑。
全部。
顔へ。
出ている。
「……私と?」
「はい」
「研究では」
「ありません」
「質問?」
「今日は。質問ではありません」
「では」
ご令嬢が。
少し笑う。
「理由がなくても。よいのでしょう?」
殿下は。
何も。
言えなかった。
昨日。
自分が。
ご令嬢へ。
許されたこと。
理由がなくても。
話したいから。
会いに行く。
今日は。
同じことを。
ご令嬢が。
してくれた。
「殿下」
私が。
小さく。
呼ぶ。
「何だ」
「お顔を」
「見ている」
「はい」
殿下は。
ご令嬢を見る。
ご令嬢は。
少し。
不安そう。
来てよかったのか。
迷っている。
殿下が。
口を開く。
「……嬉しい」
ご令嬢の目が。
大きくなる。
「あなたが」
殿下は。
ゆっくり。
言う。
「来てくれて」
また。
一度。
止まる。
「かなり。嬉しい」
ご令嬢の頬が。
赤くなる。
「私も」
「何だ」
「来てよかったです」
殿下は。
少しだけ。
笑った。
「座るか」
「はい」
殿下が。
ベンチを見る。
いつも。
私と。
二人で。
座っていた。
古いベンチ。
三人。
どう座る。
殿下が。
少し。
困った顔をする。
私は。
立ち上がった。
「では。私は」
「待て」
殿下が。
止める。
「帰るのか」
「お二人で」
「いや」
殿下は。
ご令嬢を見る。
ご令嬢も。
私を見る。
「マリア様」
「はい」
「ご一緒していただけますか」
「私も?」
「はい」
「なぜです?」
ご令嬢が。
少し。
笑う。
「ここが」
一度。
ベンチを見る。
「殿下とマリア様が。たくさんお話しされた場所だからです」
「はい」
「私は」
少し。
ためらう。
「そこへ。急に入ってよいのか」
ご令嬢の声が。
少しだけ。
弱くなる。
殿下が。
ご令嬢を見る。
「入ってよい」
即答。
ご令嬢の目が。
少し。
揺れる。
「ここは」
殿下が。
続ける。
「私とマリアだけの場所ではない」
私は。
少しだけ。
驚いた。
「でも」
殿下は。
ベンチを見る。
「私が。間違ったことを。たくさん言った場所だ」
「殿下」
「事実だ」
「はい」
「そして」
一度。
ご令嬢を見る。
「あなたのことを。たくさん話した場所でもある」
ご令嬢が。
固まる。
私も。
固まる。
殿下も。
言ったあと。
固まった。
「……」
「……」
「……」
沈黙。
非常に。
長い。
「殿下」
私が。
小さく。
呼ぶ。
「何だ」
「今のは」
「分かっている」
「かなり」
「分かっている」
「ご令嬢」
「はい」
ご令嬢の顔は。
真っ赤。
「聞かなかったことに」
「しません」
殿下が。
目を閉じる。
「そうか」
「はい」
「では」
ご令嬢が。
少しだけ。
笑う。
「いつか」
「何だ」
「何をお話しされていたのか」
殿下が。
すぐに。
「言わない」
と。
答えた。
「殿下」
「絶対にだ」
「私。知っています」
「お前は黙れ」
「嫌いだと」
「マリア!」
殿下の声が。
夕方の庭へ。
響いた。
ご令嬢が。
目を丸くする。
私は。
口を閉じる。
「今」
ご令嬢が。
ゆっくり。
殿下を見る。
「嫌いだと?」
「違う」
「何がです?」
「それは」
殿下は。
完全に。
動揺する。
「昔だ」
「昔?」
「少し前だ」
「どのくらい?」
「数週間」
「最近ですね」
「……」
「殿下」
私は。
小さく。
言う。
「言い直せることは」
「分かっている!」
殿下は。
深く。
息を吸う。
ご令嬢を見る。
「私は」
ご令嬢が。
静かに。
待つ。
「以前」
「はい」
「あなたを」
「はい」
「嫌いだと」
一度。
目を閉じる。
「言った」
ご令嬢の目が。
少し。
大きくなる。
「……はい」
「覚えているか」
「はい」
「当然だな」
「少し。傷つきました」
「……そうか」
殿下の顔が。
暗くなる。
私は。
何も言わない。
「だが」
殿下が。
続ける。
「違った」
「はい」
「そのときも」
「はい」
「本当は」
殿下の声が。
少し。
震える。
「あなたが。気になっていた」
ご令嬢の目が。
揺れる。
「なのに」
「はい」
「何を言えばよいか分からず」
「はい」
「逆を言った」
私は。
思わず。
少し。
目を閉じた。
あまりにも。
正直。
殿下は。
続ける。
「嫌いではなかった」
止まる。
殿下が。
ご自分で。
気づく。
「いや」
言い直す。
「今は。それだけでは足りない」
ご令嬢が。
殿下を見る。
「私は」
一度。
深く。
息を吸う。
「あなたを。大切だと思い始めている」
夕方の空気が。
止まったようだった。
ご令嬢の唇が。
少し。
開く。
私も。
何も言えない。
殿下自身も。
顔を。
真っ赤にしている。
「まだ」
「はい」
「何という意味の大切か」
「はい」
「全部は。分からない」
「はい」
「だが」
殿下は。
逃げなかった。
「嫌いではない。だけではない」
ご令嬢の目に。
薄く。
光が浮かぶ。
「だから」
殿下は。
言う。
「昔の言葉を」
一度。
苦しそうに。
眉を寄せる。
「取り消したい」
ご令嬢は。
しばらく。
何も言わなかった。
その沈黙に。
殿下の表情が。
不安へ。
変わる。
でも。
待つ。
ご令嬢が。
ゆっくり。
息を吐く。
「取り消してくださるのですか」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「では」
ご令嬢は。
少しだけ。
笑った。
「受け取ります」
「何を」
「取り消しを」
「……そうか」
「はい」
「許す?」
殿下が。
尋ねる。
ご令嬢は。
すぐには。
答えない。
「傷ついたことは」
「はい」
「なくなりません」
「……ああ」
「ですが」
「はい」
「今のお言葉を。聞けたので」
少し。
頬を赤くする。
「以前より。ずっと。嬉しいです」
殿下は。
目を伏せた。
「そうか」
「はい」
「なら」
一度。
息を吐く。
「よかった」
「はい」
私は。
横で。
静かに。
そのやり取りを。
聞いていた。
この場所。
何度も。
殿下が。
好きな方へ。
嫌いと言ってしまう。
どうすればよい。
と。
相談した。
その同じベンチの前で。
ようやく。
殿下は。
ご本人へ。
その言葉を。
取り消した。
長かった。
本当に。
長かった。
◇
「座りましょうか」
私が言う。
二人とも。
私を見る。
「このまま。立っていると」
「はい」
「また。誰かに見られます」
ご令嬢が。
周囲を見る。
もう。
遅かった。
校舎の窓。
廊下の端。
中庭へ続く道。
何人か。
人影。
遠くから。
こちらを。
見ている。
「殿下」
「何だ」
「かなり」
「言うな」
「見られています」
「分かっている」
「どうします?」
殿下は。
少し。
考える。
そして。
ご令嬢を見る。
「嫌か」
ご令嬢も。
周囲を見る。
「少し」
「なら。場所を」
「でも」
「何だ」
ご令嬢が。
ベンチを見る。
「今日は」
少し。
恥ずかしそうに。
笑う。
「ここに。いたいです」
殿下の顔が。
少し。
柔らかくなる。
「そうか」
「はい」
「なら」
殿下は。
ベンチへ。
視線を向ける。
「座ろう」
三人。
古いベンチ。
少し。
狭い。
私が。
端。
ご令嬢が。
反対の端。
殿下が。
中央。
「なぜ。私が真ん中だ」
「殿下のベンチだからでは?」
「私のではない」
「では。どなたの?」
「学園のものだ」
「公平ですね」
ご令嬢が。
少しだけ。
笑う。
殿下が。
ご令嬢を見る。
「お前まで」
「すみません」
「少しなら。よい」
「はい」
「マリアのようになるな」
「殿下」
「何だ」
「失礼です」
「事実だ」
「また」
ご令嬢が。
笑う。
殿下も。
少し。
笑った。
私は。
なんとなく。
不思議な。
気持ちになった。
以前。
このベンチには。
殿下と。
私。
二人。
殿下は。
好きなご令嬢のことを。
話していた。
今日。
そのご令嬢が。
隣に。
座っている。
「マリア様」
「はい」
「殿下は」
ご令嬢が。
少しだけ。
興味深そうに。
私を見る。
「ここで。どのようなご相談を?」
「言うな」
殿下が。
すぐに。
止める。
「殿下」
「絶対にだ」
「ご令嬢が聞いています」
「言わなくてよい」
「では。一つだけ」
「駄目だ」
「最初のご相談は」
「マリア!」
「好きなご令嬢に」
「やめろ!」
殿下の声が。
庭へ。
響く。
遠くで。
見ていた。
生徒たちが。
一斉に。
反応する。
ご令嬢は。
目を。
大きくしている。
「好きな?」
殿下が。
完全に。
固まる。
私は。
しまった。
と思った。
今。
まだ。
殿下は。
好き。
という言葉へ。
自分で。
届いていない。
「殿下」
ご令嬢が。
静かに。
呼ぶ。
「何だ」
「その」
少し。
頬を赤くする。
「好きなご令嬢というのは」
殿下が。
私を見る。
私は。
何も言わない。
ここは。
殿下の答え。
「……」
長い。
沈黙。
殿下は。
ご令嬢を見る。
「私は」
一度。
息を吸う。
「最初から。そう呼んでいたわけではない」
「はい」
「マリアが」
「はい」
「勝手に」
「殿下」
「事実だ」
「では。違うのですか」
ご令嬢が。
静かに。
尋ねる。
殿下が。
止まる。
「違う?」
「はい」
「……」
殿下は。
すぐに。
違う。
とは。
言わなかった。
でも。
好きだ。
とも。
まだ。
言えない。
「分からない」
殿下が。
言う。
「今は」
「はい」
「好きという言葉が」
「はい」
「自分に。どこまで当てはまるのか」
「はい」
「まだ。分からない」
ご令嬢は。
静かに。
聞いている。
「だが」
「はい」
「マリアへ相談を始めたころから」
「はい」
「あなたのことを。考えていた」
ご令嬢の目が。
少し。
揺れる。
「何を言えばよいか」
「はい」
「どうすれば。嫌われないか」
「はい」
「どうすれば。近づけるか」
「はい」
「それを」
一度。
少し。
恥ずかしそうに。
視線を逸らす。
「ずっと。聞いていた」
ご令嬢は。
しばらく。
何も言わない。
それから。
私を見る。
「マリア様」
「はい」
「大変だったのですね」
「はい」
「マリア!」
「かなり」
「お前は!」
ご令嬢が。
笑った。
殿下は。
顔を赤くして。
私を。
睨む。
「でも」
ご令嬢が。
柔らかく。
言う。
「嬉しいです」
殿下が。
ご令嬢を見る。
「何が」
「殿下が」
一度。
言葉を選ぶ。
「私とのことを。そんなに。考えてくださっていたことが」
「……そうか」
「はい」
「嫌では」
殿下が。
また。
言いかける。
止まる。
「嬉しいと。言った」
「はい」
「なら。聞かなくてよいな」
「はい」
殿下が。
少し。
笑う。
「成長していますね」
ご令嬢が。
言った。
殿下の顔が。
止まる。
「お前まで。褒めるな」
「嫌ですか」
「……嫌ではない」
「では」
「少し」
「嬉しい?」
「……ああ」
「かなり?」
ご令嬢が。
私を。
ちらり。
見る。
私が。
教えたわけではない。
でも。
完全に。
覚えられている。
殿下は。
深く。
息を吐いた。
「かなり」
三人で。
笑った。
◇
その夕方。
校舎裏のベンチには。
初めて。
三人の時間が。
生まれました。
王太子殿下。
恋愛相談役。
そして。
相談の中心に。
ずっと。
いた。
ご令嬢。
殿下は。
これまで。
彼女へ。
会うための。
理由を。
探してきました。
研究。
資料。
差し入れ。
噂。
質問。
全部。
本当。
けれど。
今日。
初めて。
用事がないまま。
会いに行きました。
話したいから。
それだけで。
そして。
ご令嬢も。
同じことを。
してくださいました。
理由がないまま。
殿下と。
話したくなったから。
校舎裏へ。
来た。
恋というものは。
もしかすると。
そういう。
理由のない時間から。
少しずつ。
形になるのかもしれません。
何かを。
解決しなくてもよい。
答えを。
出さなくてもよい。
ただ。
今日。
何を食べたのか。
雨が好きなのか。
何を。
面白いと思うのか。
そんな。
小さなことを。
一つずつ。
知っていく。
そして。
会わない時間に。
また。
会いたいと。
思う。
その気持ちへ。
無理に。
理由をつけなくても。
よいのです。
王太子殿下。
あなたは。
ようやく。
会いたいから。
会いに行く。
そのことを。
許せるようになりました。
けれど。
私は。
一つ。
心配しています。
今日。
朝の回廊で。
殿下は。
皆さんの前で。
はっきり。
おっしゃいました。
『彼女と話したかった』
『だから行った』
そして。
夕方。
ご令嬢が。
校舎裏のベンチへ。
殿下を。
訪ねてきました。
当然。
見ていた人が。
います。
かなり。
います。
明日。
どのような噂に。
なっているのか。
考えたくありません。
……ただ。
以前なら。
私は。
殿下が。
その噂を。
どう否定するか。
心配していました。
好きではない。
違う。
勘違いするな。
たまたまだ。
そう言って。
また。
ご令嬢を。
傷つけるのではないかと。
でも。
今は。
少しだけ。
違います。
殿下は。
もう。
会いたかったことを。
否定しない。
話したかったことを。
隠さない。
大切だと。
思い始めていることを。
なかったことにしない。
なら。
次に。
噂が。
どれほど。
膨らんでも。
殿下が。
止めるべきなのは。
ご自分の気持ちではありません。
事実と。
違うところだけ。
それで。
よいはずです。
……たぶん。
「マリア」
「はい」
三人で。
ベンチから。
立ち上がったあと。
殿下が。
私を呼んだ。
ご令嬢は。
少し離れた場所。
研究棟へ戻る前。
こちらを。
待っている。
「何でしょう」
「明日」
「はい」
「噂が。広がるな」
「はい」
「かなり」
「はい」
「どうする」
「事実だけ。訂正します」
「何が事実だ」
「殿下が。ご令嬢と話したかった」
「……ああ」
「ご令嬢も。殿下と話したかった」
殿下の顔が。
少し。
赤くなる。
「それは」
「ご令嬢ご本人が」
「ああ」
「校舎裏へ来られた」
「ああ」
「三人で話した」
「ああ」
「殿下が。以前の『嫌い』を取り消した」
殿下が。
完全に。
固まる。
「それは」
「はい」
「広めるな」
「分かっています」
「絶対にだ」
「はい」
「大切だと言ったことも」
「はい」
「言うな」
「はい」
「好きなご令嬢という話も」
「はい」
「絶対に」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「信用」
「してください」
「……努力する」
「まだ?」
ご令嬢が。
少し離れたところから。
笑う。
「殿下」
「何だ」
「マリア様を。もう少し。信じて差し上げてください」
殿下が。
ご令嬢を見る。
「だが。彼女は。すぐ余計なことを言う」
「殿下」
「事実だ」
「今日だけでも。何度」
「マリア様」
「はい」
ご令嬢が。
少し。
楽しそうに。
笑う。
「明日。噂を訂正するときは」
「はい」
「殿下が。私と話したかったから。研究会へ来られたことは」
殿下が。
ご令嬢を見る。
「隠さなくて。大丈夫です」
「……本当に?」
「はい」
「あなたが。困る」
「少しは。恥ずかしいです」
「なら」
「でも」
ご令嬢は。
殿下を。
まっすぐ見る。
「私も。殿下と話したかったことを。隠したくありません」
殿下の動きが。
止まる。
「……そうか」
「はい」
「なら」
一度。
深く。
息を吐く。
「その部分は。訂正しなくてよい」
「はい」
私は。
二人を。
見た。
昨日まで。
噂を。
消そうとしていた。
二人。
今日は。
事実なら。
隠さなくてよい。
と。
言っている。
まだ。
恋人ではない。
婚約者でもない。
未来も。
決まっていない。
好きだという。
言葉すら。
まだ。
完全には。
交わしていない。
それでも。
二人とも。
同じことを。
少しずつ。
認め始めている。
会いたい。
話したい。
大切。
特別。
嬉しい。
その。
一つ一つを。
もう。
なかったことには。
しない。
「王太子殿下」
ご令嬢が。
最後に。
呼んだ。
「何だ」
「また。明日」
殿下は。
止まった。
それから。
ほんの少し。
笑った。
「ああ」
一度。
言葉を。
選ぶ。
「また。明日」
それは。
とても。
普通の挨拶でした。
けれど。
王太子殿下にとっては。
たぶん。
特別な。
約束でした。




