第74話 王太子殿下、聞かれる側になって初めて答えの重さを知る
質問することと。
質問されることは。
よく似ているようで。
まったく違います。
尋ねる側は。
知りたいことを。
選べる。
どこまで聞くか。
何を聞かないか。
自分で決められる。
けれど。
聞かれる側は。
違う。
不意に。
自分の中へ。
光を向けられる。
今まで。
見ないようにしていた場所。
言葉へしなくても。
済んでいた気持ち。
なんとなく。
そう思っていた。
その程度で。
胸の奥へ置いていたものを。
答えという形へ。
しなければならなくなる。
分からない。
まだ決められない。
それも。
一つの答えです。
けれど。
王太子殿下は。
分からないことを。
分からないと言うのが。
あまり。
お得意ではありません。
王太子として。
幼い頃から。
答えを求められてきたから。
どう思いますか。
どちらを選びますか。
何をなさいますか。
国の未来。
人の配置。
学び。
外交。
儀礼。
何を聞かれても。
何かを答える。
それが。
王太子殿下でした。
だから。
自分の気持ちについて。
分からないと。
答えることは。
おそらく。
間違いを認めることよりも。
難しかったのだと思います。
昨日。
好きなご令嬢は。
殿下へ。
五つ質問をしてもよいかと。
おっしゃいました。
公平に。
殿下と同じ。
五つ。
殿下は。
かなり嬉しいと。
答えました。
そして。
翌朝。
校舎裏のベンチへ現れた王太子殿下は。
私を見るなり。
こう。
おっしゃったのです。
「質問を予想する」
◇
「おはようございます、殿下」
「質問を予想する」
「まず。ご挨拶を」
「おはよう」
「はい。おはようございます」
「質問を予想する」
二度目だった。
どうやら。
それほど。
急いでいるらしい。
朝の校舎裏。
昨日より。
少し雲が多い。
日差しは。
薄い。
芝生の先。
低い石壁には。
夜露が。
まだ残っている。
その上を。
一羽の小さな鳥が。
何度も。
飛び移っていた。
殿下は。
いつものベンチへ。
すでに。
座っている。
膝の上には。
昨日の紙。
ご自身が。
ご令嬢へ聞きたいことを。
五つ書いた紙。
その裏面に。
今日は。
新しい数字が。
並んでいた。
一。
二。
三。
四。
五。
まだ。
内容は。
空白。
「ご令嬢は。まだ質問を決めていないと。おっしゃっていましたよ」
「だから。予想する」
「なぜですか」
「準備するためだ」
「答えを?」
「ああ」
「質問が違ったら?」
「別の答えを考える」
「それは。その場で?」
「できるだけ。事前に」
「殿下」
「何だ」
「昨日。ご令嬢のお答えを。先回りしないと。決めたばかりですよね」
「これは。私の答えだ」
「でも。質問を先回りしています」
殿下は。
紙を見た。
「違う」
「どこが?」
「これは。可能性の整理だ」
「予想では?」
「整理だ」
「昨日の殿下の五つの質問も。かなり整理されていましたね」
「ああ」
「夜通し」
「夜通しではない」
「眠れなかったのですよね」
「少しは寝た」
「今日は?」
「……少しは」
「昨日より。目の下が」
「見るな」
「見えます」
「質問の話をしろ」
殿下は。
紙を。
私へ差し出した。
「何を聞かれると思う」
「私に?」
「ああ」
「ご令嬢ではないので。分かりません」
「予想でよい」
「殿下」
「何だ」
「本当に。それをなさいますか」
「なぜだ」
「殿下は。答えを間違えないように。準備したいのですよね」
「当然だ」
「でも」
私は。
少しだけ。
言葉を選ぶ。
「正しい答えを。作ってしまいませんか」
殿下の眉が。
動いた。
「どういう意味だ」
「ご令嬢が喜びそうな答え」
「それの何が悪い」
「殿下が。本当に思っていることと。違うかもしれません」
「私は。嘘をつくつもりはない」
「はい」
「なら。問題ない」
「でも。言い方を整えすぎると」
「また。お前は。難しいことを言う」
「例えば」
私は。
殿下の紙へ。
視線を落とす。
「ご令嬢から。私と話したいですか、と聞かれたとします」
「話したい」
「すぐですね」
「昨日。もう言った」
「では。なぜ話したいのですか」
殿下が。
止まった。
「……研究の話が」
「それだけ?」
「それ以外も」
「何を?」
「まだ。分からない」
「はい」
「だが。話したい」
「それでよいのです」
「何が」
「今の答えが」
殿下は。
私を見る。
「話したい。でも。何を話したいかは。まだ全部は分からない」
「……」
「それが。今の殿下ですよね」
「答えとして。弱くないか」
「なぜです」
「分からないことが多い」
「恋愛なのですから」
「恋愛なら。分からなくてよいのか」
「最初から全部分かっていたら。相談役はいりません」
「それは。そうだ」
「はい」
「……少し腹が立つな」
「なぜです」
「納得したからだ」
殿下は。
紙を。
もう一度。
膝の上へ置いた。
「では」
「はい」
「何を聞かれても。分からないなら。分からないと言う」
「はい」
「だが。全部それでは」
「逃げです」
「分かっている」
「分かるところは。答えてください」
「例えば?」
「殿下」
「何だ」
「ご令嬢と。二人で話したいですか」
「ああ」
「ご令嬢が。他の男子生徒と楽しそうに話していたら?」
「……」
殿下の顔が。
少し。
変わった。
「なぜ。その質問を」
「予想です」
「お前が。楽しんでいないか」
「少しだけ」
「やめろ」
「答えは?」
「別に」
「殿下」
「……」
「別に?」
「その男が。誰かによる」
「研究会の方なら?」
「研究なら。仕方ない」
「友人なら?」
「友人なら。仕方ない」
「楽しそうでも?」
「……仕方ない」
「殿下」
「何だ」
「歯を食いしばっています」
「食いしばっていない」
「声が低いです」
「普通だ」
「では。嫌ではない?」
「嫌では」
殿下は。
止まった。
昨日までなら。
そのまま。
嫌ではない。
関係ない。
興味もない。
そう。
言っていたかもしれない。
けれど。
今日は。
質問される練習。
ご自分の答えを。
誤魔化さない練習。
「……少し」
「はい」
「嫌かもしれない」
「はい」
「だが。止める権利はない」
「はい」
「楽しそうに話すなとも。言えない」
「はい」
「だから」
一度。
息を吐く。
「私が。勝手に嫌だと思うだけだ」
私は。
すぐには。
何も言わなかった。
殿下が。
こちらを見る。
「何だ」
「今の」
「間違えたか」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
「なら。なぜ黙る」
「とても。正直だったので」
「……」
「嫉妬ですね」
「違う」
「殿下」
「……」
「違う?」
「……似たものかもしれない」
「はい」
「確定するな」
「殿下がおっしゃいました」
「似たものだ」
「はい」
「嫉妬そのものとは」
「では。何です?」
「……分からない」
「それでよいです」
殿下は。
不満そうに。
紙へ。
一つ。
小さく書いた。
『分からない場合は、分からないと言う』
「書くのですか」
「忘れる」
「そこまで?」
「私は。答えようとすると。余計なことを言う」
「自覚がありますね」
「お前が。何度も言うからだ」
「よいことです」
「褒めるな」
「受け取る練習です」
「今日は。答える練習だ」
「両方できます」
「多い」
殿下は。
紙の二番目へ。
何かを書こうとする。
けれど。
手を止めた。
「他に」
「まだ予想するのですか」
「練習だ」
「では」
私は。
少し考えた。
「なぜ。私なのですか」
殿下の筆記具が。
止まった。
「何?」
「ご令嬢から。そう聞かれたら?」
朝の空気が。
少しだけ。
静かになった気がした。
遠くから。
鐘楼の鐘を整える。
金属音。
早朝の生徒たちの話し声。
それらが。
少し。
遠くなる。
殿下は。
紙を見たまま。
黙っている。
「殿下」
「難しい」
「はい」
「なぜ。彼女なのか」
「はい」
「私は」
殿下は。
ゆっくり。
言葉を探す。
「最初は。気に入らなかった」
「殿下」
「待て。最後まで聞け」
「はい」
「彼女は」
一度。
視線を上げる。
研究棟の方角。
ここからは。
屋根の一部だけが見える。
「何でも。自分でしようとしていた」
「はい」
「重い鉢も」
「はい」
「雨の日も」
「はい」
「誰かへ頼ればよいのに。頼らない」
「はい」
「見ていると。腹が立った」
「なぜです?」
「分からなかった」
「今は?」
「少し分かる」
「どのように?」
「彼女は。自分が好きで。していた」
「研究を?」
「ああ」
「誰かへ評価されるためではなく?」
「そうだ」
殿下の声が。
少し。
柔らかくなる。
「王太子が見ているかどうかも。関係ない」
「はい」
「褒められなくても。続ける」
「はい」
「失敗しても。条件を変える」
「はい」
「それが」
殿下は。
少し。
困ったように。
眉を寄せた。
「気になった」
「はい」
「次は。どうするのか」
「はい」
「今日は。何を調べるのか」
「はい」
「なぜ。あれほど。続けられるのか」
「はい」
「見ていた」
昨日。
ご令嬢へ。
伝えたこと。
何度も。
見ていた。
今日。
殿下は。
その理由へ。
少し。
触れようとしている。
「それから」
殿下が。
続ける。
「私を。怖がっていないわけではない」
「はい」
「だが。必要なときは。違うと言う」
「ご令嬢が?」
「ああ」
「昨日も?」
「ああ。軽率ではないと」
「はい」
「その前も。研究の解釈で。私と意見が違った」
「そうだったのですか」
「少しだけだ」
「殿下は。怒りませんでした?」
「最初は。何を言っていると思った」
「はい」
「だが。話を聞けば。彼女の方にも理由があった」
「はい」
「それで」
殿下は。
また。
黙った。
「それで?」
「……話すと」
「はい」
「私が。知らないことを言う」
「はい」
「私が。考えなかったことも」
「はい」
「だから」
殿下は。
ゆっくり。
言う。
「もっと。話したいと思った」
朝のベンチ。
私は。
何も言わなかった。
殿下の言葉が。
そのまま。
残るように。
少し。
待った。
「それが。なぜ彼女なのか。の答えですか」
「全部ではない」
「はい」
「顔を見ると」
殿下が。
そこで。
完全に。
止まった。
私は。
待つ。
「……何ですか」
「聞くな」
「途中です」
「ここは。言わなくてよい」
「ご令嬢に聞かれたら?」
「……」
「殿下」
「分からない」
「何が?」
「顔を見ると」
殿下は。
片手で。
額を押さえた。
「安心することがある」
私は。
少し。
目を見開いた。
「それから」
「はい」
「落ち着かないこともある」
「はい」
「どちらだ」
「私に聞かれても」
「同時にあるのは。おかしくないか」
「おかしくありません」
「本当に?」
「たぶん」
「信用できない」
「恋愛経験がありませんから」
「自分で言うな」
「殿下も」
「知っている」
殿下は。
深く。
息を吐いた。
「安心するのに。緊張する」
「はい」
「見たいのに。見られると困る」
「はい」
「話したいのに。何を話せばよいか分からない」
「はい」
「近づきたいのに。近づけば噂になる」
「はい」
「面倒だな」
「恋愛が?」
「私がだ」
その答えに。
私は。
少しだけ。
笑った。
「なぜ笑う」
「以前より。ご自分のことが分かってきましたね」
「褒めているのか」
「はい」
「やめろ」
「受け取る」
「今日は」
「答える練習ですね」
「先に言うな」
殿下は。
二番目の空欄へ。
書いた。
『なぜ彼女なのか――まだ全部は分からない。もっと話したい。見ていたい。』
書き終わり。
殿下自身が。
その文字を。
じっと見る。
「これは」
「はい」
「見られたら。終わるな」
「何がですか」
「すべてだ」
「昨日も聞きました」
「昨日より。ひどい」
「正直になっただけです」
「正直は。危険だ」
「恋愛では。必要です」
「王太子には。危険だ」
「殿下個人には?」
殿下は。
答えなかった。
けれど。
紙を。
破らなかった。
◇
その朝。
殿下は。
結局。
五つの質問を。
最後まで。
予想できなかった。
三つ目へ。
私が。
「私と何がしたいですか」
と。
聞いたところで。
殿下が。
「今日は終わりだ」
と。
練習を中止なさったからだ。
「まだ三つ目です」
「十分だ」
「二つしか答えていません」
「三つ目が悪い」
「なぜです」
「広すぎる」
「ご令嬢が。聞くかもしれません」
「聞かない」
「なぜ分かるのですか」
「聞かないでほしい」
「それは。願望ですね」
「そうだ」
「正直です」
「褒めるな」
殿下は。
紙を折った。
今日も。
懐へ。
大切そうに入れる。
「もし。聞かれたら」
「はい」
「その場で考える」
「はい」
「お前は」
「少し離れています」
「昨日と同じか」
「はい」
「止める必要があれば」
「止めます」
「どのようなときだ」
「嫌いだ。あり得ない。勘違いするな」
「もう言わない」
「本当に?」
「……言わないようにする」
「はい」
「信用しろ」
「言い直せることは」
「そこだけか」
「今は」
「少し増やせ」
「では。止まれることも」
「それだけ?」
「二つです」
「少ない」
「以前は一つでした」
殿下は。
不満そうに。
立ち上がった。
私も。
ベンチから立つ。
朝の鐘が。
遠くで。
最初の音を。
響かせた。
「マリア」
「はい」
「もし」
「はい」
「彼女が。何も質問してこなかったら」
殿下の声が。
少しだけ。
低くなる。
「忘れたのだと。思いますか」
「昨日。楽しみにしていてほしいと。おっしゃっていました」
「私が」
「はい」
「彼女は。考えると言っただけだ」
「はい」
「やめた可能性は」
「あります」
殿下の表情が。
少し。
固くなる。
「ですが」
私は。
続ける。
「やめたなら。それにも理由があります」
「聞く?」
「ご令嬢が話したくなさそうなら。聞かない」
「では。分からないまま」
「はい」
「難しい」
「待つ練習です」
「昨日から。そればかりだ」
「殿下は。待つのが苦手ですね」
「王太子は。決めることが多い」
「恋愛は?」
「決められないことが多い」
「もう。分かっていますね」
「少しだけだ」
「はい」
殿下は。
歩き出す。
けれど。
教室棟へ向かう途中。
三度。
研究棟の方を見た。
◇
午前中。
ご令嬢から。
質問は来なかった。
一時限目。
二時限目。
三時限目。
殿下とご令嬢は。
教室が違う。
研究会も。
授業中は。
活動していない。
だから。
当然なのだけれど。
殿下は。
休憩時間になるたび。
廊下へ出ていたらしい。
そのことは。
昼前には。
すでに。
学園中へ。
少し違った形で。
広がっていた。
王太子殿下が。
あるご令嬢からの返事を待ち。
休み時間ごとに。
廊下へ出ている。
恋文を送った。
婚約の申し込みをした。
五つの条件への。
返答を待っている。
どれも。
違う。
けれど。
返事を待っている。
そこだけは。
大きくは。
間違っていなかった。
「私は。待っていない」
昼休み。
校舎裏のベンチで。
殿下は。
開口一番。
そう。
おっしゃった。
「何をですか」
「彼女の質問だ」
「私。まだ何も言っていません」
「言うと思った」
「待っていらしたのですね」
「違う」
「殿下」
「……少し」
「はい」
「気になっていただけだ」
「休憩時間ごとに。廊下へ?」
「空気を吸いに」
「三回?」
「教室の空気が悪かった」
「窓は?」
「開いていた」
「では。空気は」
「マリア」
「はい」
「やめろ」
「分かりました」
殿下は。
昼食を。
今日は。
すぐに食べ始めた。
白いパン。
薄い肉。
温野菜。
小さな果実。
蜂蜜菓子は。
ない。
殿下は。
もう。
探さなかった。
「質問は」
殿下が。
パンをちぎりながら。
言う。
「いつ来ると思う」
「分かりません」
「放課後?」
「可能性はあります」
「研究会で?」
「はい」
「皆の前で?」
「それは。ご令嬢次第です」
「二人で話す許可は。まだ出ていない」
「はい」
「なら。皆の前か」
「マリア」
背後から。
声がした。
私は。
振り返る。
同じ学年の女子生徒。
友人が。
二人。
少し離れて。
こちらを見ている。
声をかけてきた女子生徒は。
手に。
小さな封筒を持っていた。
「これ」
「私に?」
「研究会の方から」
殿下の動きが。
完全に。
止まった。
女子生徒も。
殿下がいることへ。
今さら。
気づいたような顔になる。
「あ」
深く。
頭を下げる。
「ご機嫌麗しく存じます、王太子殿下」
「ああ」
「失礼いたします」
「待て」
女子生徒が。
逃げるように。
立ち去ろうとする。
殿下が。
止めた。
女子生徒の肩が。
跳ねる。
「それは」
殿下の視線が。
封筒へ。
向く。
「誰からだ」
女子生徒は。
私を見る。
私は。
封筒を見る。
表には。
私の名前。
マリア・ルイート様へ。
と。
書かれている。
「研究会の」
女子生徒が。
小さく答える。
「例のご令嬢からです」
殿下の顔が。
動いた。
「マリアへ?」
「はい」
「なぜ」
「存じません」
「中身は」
「知りません」
「いつ預かった」
「三時限目の前です」
「なぜ。今」
「マリア様を。見つけられなくて」
「私の教室を知っているだろう」
「殿下」
私が。
間へ入る。
「なぜ。殿下が尋問なさっているのですか」
「尋問ではない」
「女子生徒が。震えています」
殿下が。
女子生徒を見る。
本当に。
少しだけ。
肩が。
固くなっていた。
「……すまない」
殿下が。
言う。
女子生徒の目が。
大きくなる。
「い、いえ」
「もうよい」
「はい」
「届けてくれて。ありがとう」
今度は。
私が。
少し。
驚いた。
女子生徒も。
驚いていた。
「え」
「何だ」
「い、いえ」
女子生徒は。
慌てて。
頭を下げた。
「失礼いたします」
今度こそ。
友人たちと。
去っていく。
少し離れたところから。
「今、ありがとうって」
「聞いた」
「殿下が?」
「静かに」
小さな声が。
聞こえた。
殿下は。
何も言わなかった。
「殿下」
「何だ」
「自然に。お礼が言えましたね」
「今は。それではない」
殿下の視線は。
封筒へ。
釘付けだった。
「開けろ」
「私宛です」
「分かっている」
「では」
「だが。彼女からだ」
「はい」
「なぜ。お前へ」
「読めば分かります」
「なら。早く」
「殿下」
「何だ」
「落ち着いてください」
「落ち着いている」
「パンを握っています」
殿下の手。
食べかけのパンが。
少し。
潰れていた。
殿下は。
それを見る。
ゆっくり。
皿へ戻した。
「……読め」
「はい」
私は。
封を開く。
中には。
一枚の紙。
短い文章だった。
『マリア様へ。
昨日、王太子殿下から五つの質問をいただく予定になりましたので、私も五つ考え始めました。
ですが、一つだけ、皆様の前ではお尋ねしづらいことがあります。
殿下が本当にお一人で答えたいと思われるなら、放課後、研究棟裏の小庭で少しお時間をいただけないでしょうか。
マリア様には、見える場所にいていただければ安心です。
殿下がお嫌でしたら、無理にお伝えいただかなくて大丈夫です。
よろしくお願いいたします』
私は。
最後まで。
読んだ。
殿下は。
黙っていた。
「殿下」
「一つだけ?」
「はい」
「皆の前では。聞きづらい」
「はい」
「何だ」
「書いてありません」
「なぜだ」
「聞きづらいからでは?」
「お前には。書けるだろう」
「私にも。伏せたかったのでしょう」
「……」
殿下は。
研究棟の方角を見る。
顔が。
少しだけ。
固い。
「嫌なら。断ってよいと」
「はい」
「書いてある」
「はい」
「私は」
一度。
言葉を止める。
「嫌ではない」
「はい」
「むしろ」
「はい」
「……聞きたい」
「質問を?」
「ああ」
「では。お返事を」
「今?」
「放課後ですから。お会いできると」
「口で?」
「はい」
「では。書かなくてよい」
「はい」
「私は。何を聞かれる」
「また。予想なさるのですか」
「一つだけだ」
「でも。内容が分からないから。二人で、と」
「……」
「殿下」
「何だ」
「今から。答えを作らないでください」
「難しい」
「はい」
「怖い」
殿下が。
とても。
小さな声で。
言った。
私は。
すぐには。
返さなかった。
「何を聞かれるか。分からない」
「はい」
「私は」
「はい」
「答えられないかもしれない」
「はい」
「彼女が。望む答えではないかもしれない」
「はい」
「それでも」
殿下は。
封筒を見る。
「行くべきか」
「殿下は。行きたいですか」
「行きたい」
「では。行きましょう」
「簡単だな」
「そこは。簡単です」
「答えるのは?」
「難しいです」
「そうだろうな」
殿下は。
昼食のパンを。
もう一度。
手に取った。
けれど。
少し潰れた形を見て。
「これは」
「はい」
「食べられるな」
「はい」
「なら。食べる」
「はい」
殿下は。
一口。
食べた。
「味は?」
「分からない」
「緊張で?」
「……ああ」
今日は。
否定しなかった。
◇
放課後。
研究棟裏の小庭は。
普段。
あまり人が来ない場所だった。
研究棟と。
古い温室の間。
細い石畳。
低い生垣。
小さな噴水。
中央には。
丸い石卓と。
三つの石椅子。
温室の影が。
午後になると。
庭の半分へ落ちる。
研究棟の正面とは違い。
生徒の往来も。
少ない。
完全に。
人目がないわけではない。
研究棟の二階窓からは。
見える。
温室の管理人も。
時折。
通る。
けれど。
昨日までの。
廊下や。
研究会の部屋より。
ずっと。
静かだった。
「ここか」
「はい」
殿下と。
私は。
小庭の入口で。
立ち止まる。
警護役は。
さらに離れた。
温室側。
こちらを。
見守れる位置。
「マリア」
「はい」
「お前は」
「生垣の向こうのベンチへ」
「聞こえるか」
「大きな声なら」
「聞くな」
「聞きません」
「本当に?」
「殿下」
「何だ」
「私を。信用してください」
「……努力する」
「そこは。はいではないのですね」
「お前は。相談役だ」
「はい」
「あとで。何を話したか聞く」
「殿下から?」
「ああ」
「ご令嬢からは聞きません」
「それでよい」
殿下は。
小庭へ。
一歩。
入る。
そして。
すぐ。
止まった。
「まだ。来ていない」
「少し早いです」
「何分」
「鐘が鳴ってから。五分です」
「遅い?」
「早いです」
「そうか」
殿下は。
石卓を見る。
座る。
すぐ立つ。
「座らないのですか」
「落ち着かない」
「立って待ちます?」
「それも。威圧的だ」
「では。座って」
「彼女が来たとき。私だけ座っていると」
「立ってご挨拶を」
「それでよいか」
「はい」
「本当に?」
「殿下」
「何だ」
「今日の殿下は。いつも以上に細かいです」
「仕方ないだろう」
声が。
少し。
大きくなる。
そのとき。
「何が。仕方ないのでしょうか」
後ろから。
声がした。
殿下が。
完全に。
固まった。
私は。
振り返る。
小庭の入口。
好きなご令嬢が。
立っていた。
今日は。
研究会の上着ではない。
通常の制服。
腕には。
何も抱えていない。
鉢も。
記録用紙も。
持っていない。
そのことが。
少し。
新鮮に見えた。
「ご、ご機嫌麗しく存じます」
ご令嬢が。
頭を下げる。
「王太子殿下」
「ああ」
殿下は。
一度。
息を整える。
「待っていた」
ご令嬢の目が。
少しだけ。
大きくなる。
殿下自身も。
言ったあと。
気づく。
「いや」
いつもの。
訂正が。
出かける。
私は。
殿下を見る。
殿下も。
私を見る。
「……待っていた」
今度は。
言い直さなかった。
「はい」
ご令嬢が。
少し。
笑った。
「ありがとうございます」
「私は。先に来ただけだ」
「殿下」
「何だ」
「今のは」
ご令嬢が。
ほんの少し。
楽しそうに。
眉を下げる。
「説明を足さなくても。大丈夫です」
殿下が。
黙る。
「……分かった」
私は。
そのやり取りを見届け。
少し離れる。
「では。私は。あちらへ」
「マリア」
「はい」
「本当に。聞くな」
「聞きません」
「でも。何かあれば」
「呼んでください」
「ああ」
「ご令嬢も」
「はい」
「困ったら。私をお呼びください」
「ありがとうございます」
私は。
生垣の向こう。
小さな木製のベンチへ。
移動した。
姿は。
見える。
声は。
普通に話せば。
ほとんど。
聞こえない距離。
殿下と。
ご令嬢は。
石卓を挟み。
向かい合う。
二人とも。
立っていた。
しばらく。
どちらも。
座らない。
何か。
話している。
ご令嬢が。
椅子へ。
手を向ける。
殿下が。
うなずく。
ようやく。
二人とも。
座った。
私は。
そこから。
視線を。
少しだけ。
外した。
完全に。
見ないのも。
警護の意味で。
よくない。
けれど。
見続けるのも。
違う気がする。
温室の硝子。
夕方の光。
中で育つ。
背の高い植物。
その向こうに。
二人の姿が。
ぼんやり。
映っていた。
◇
「来てくださって。ありがとうございます」
ご令嬢が言った。
「ああ」
「お嫌でしたら」
「嫌ではない」
殿下は。
すぐに答えた。
ご令嬢が。
少し。
笑う。
「昨日より。早くお答えくださいますね」
「嫌ではないことは。分かっている」
「はい」
「むしろ。聞きたかった」
「何を?」
「あなたの質問を」
ご令嬢の指が。
石卓の上で。
少し。
動いた。
「緊張しております」
「私もだ」
「殿下も?」
「ああ」
「安心しました」
「なぜ」
「私だけではないので」
殿下は。
何も言わなかった。
けれど。
少しだけ。
肩の力が抜けた。
「五つ」
殿下が言う。
「考えたのか」
「まだ。全部は」
「そうか」
「一つだけ」
「今日の?」
「はい」
「聞け」
ご令嬢が。
少し驚く。
殿下は。
自分の言い方に。
気づく。
「……聞いてほしい」
「はい」
「いや。あなたが聞くのだから」
「大丈夫です」
ご令嬢が。
少し笑った。
「分かっております」
夕方の風が。
小庭へ。
流れ込む。
噴水の水音。
温室の硝子へ。
枝が触れる。
かすかな音。
殿下は。
ご令嬢を見ている。
ご令嬢は。
すぐには。
質問をしなかった。
胸元で。
指を組む。
ほどく。
また。
組む。
「殿下」
「何だ」
「昨日」
「ああ」
「私を。特別に思っているかもしれないと。おっしゃいました」
殿下の背が。
少し。
固くなる。
「ああ」
「私は」
ご令嬢が。
息を吸う。
「嬉しかったです」
殿下の目が。
少し。
揺れる。
「それは。聞いた」
「はい」
「昨日」
「はい」
「だから?」
「だから」
ご令嬢は。
殿下を。
まっすぐ見る。
「その特別は」
一度。
声が。
止まった。
「王太子殿下として。私を。将来のお相手として考えてくださっているという意味ですか」
時間が。
止まったように。
感じた。
殿下は。
動かなかった。
ご令嬢も。
動かない。
遠く。
生垣の向こう。
マリアは。
こちらを見ていない。
警護役も。
距離を保っている。
ここには。
殿下と。
ご令嬢しか。
いない。
未来の王太子妃。
噂。
昨日。
殿下は。
その可能性から。
最初から外れているとは。
言いたくない。
そう。
おっしゃった。
ご令嬢は。
それを。
どう受け取ればよいか。
分からなかったのだ。
「私は」
殿下が。
口を開く。
すぐには。
続かない。
王太子として。
将来の相手。
婚姻。
王宮。
家。
国。
あまりにも。
重い。
答え。
「……分からない」
殿下が。
言った。
ご令嬢の表情が。
わずかに。
動く。
殿下は。
逃げなかった。
「今は。分からない」
「はい」
「あなたを」
一度。
言葉を探す。
「王太子妃にしたいと。決めているわけではない」
ご令嬢は。
静かに。
聞いている。
「婚姻を申し込むと。決めたわけでもない」
「はい」
「あなたの家と。王家の関係を。考えたことも」
殿下は。
少し。
視線を落とした。
「正直に言えば。ほとんどない」
「はい」
「王太子として。適しているかを。調べたわけでもない」
「はい」
「だから」
殿下の声が。
少しだけ。
低くなる。
「未来の王太子妃として。特別に思っていると聞かれれば」
一度。
息を吸う。
「今は。違う」
ご令嬢の指が。
ほんの少し。
動いた。
殿下は。
気づいた。
胸の奥に。
強い。
不安が走る。
傷つけた。
また。
言葉を間違えた。
けれど。
ここで。
慌てて。
好きではない。
そういう意味ではない。
勘違いするな。
その道へ。
行ってはいけない。
殿下は。
ご令嬢の顔を。
見た。
少し。
寂しそう。
けれど。
泣いていない。
逃げてもいない。
答えの続きを。
待っている。
「だが」
殿下が。
続ける。
「私は。あなたを」
「はい」
「王太子妃だから。見ていたわけではない」
ご令嬢の目が。
少し。
上がる。
「研究をするところ」
「はい」
「鉢を運ぶところ」
「はい」
「雨の日も」
「はい」
「紙を落としたところも」
「それは。忘れてください」
「忘れない」
「殿下」
「事実だ」
少しだけ。
空気が。
和らぐ。
「私は」
殿下が。
ゆっくり。
言う。
「あなたが。王太子妃になるかどうかより前に」
言葉が。
止まる。
「あなた自身が。気になった」
ご令嬢の目が。
大きくなる。
「だから」
殿下は。
苦しそうに。
眉を寄せる。
「昨日。未来の可能性から。外れていると言いたくないと。言った」
「はい」
「王太子妃として。選んだからではない」
「はい」
「私が」
一度。
視線を逸らし。
もう一度。
戻す。
「あなたが。他の誰かと。そうなる未来を」
殿下は。
止まった。
ご令嬢が。
待つ。
「……何ですか」
「今は。考えたくない」
ご令嬢の頬が。
ゆっくり。
赤くなる。
殿下も。
言ってから。
顔が。
赤くなった。
「それは」
ご令嬢が。
小さく。
尋ねる。
「嫉妬でしょうか」
「違う」
殿下は。
即答した。
そして。
目を閉じた。
「……違うというのが」
ご令嬢の口元が。
ほんの少し。
緩む。
「違うのですか」
「その言い方を。マリアから覚えたのか」
「少しだけ」
「やめてほしい」
「嫌ですか」
「……少し」
「では。控えます」
「全部ではない」
「はい?」
「少しなら」
ご令嬢が。
笑った。
「分かりました」
殿下は。
少し。
困ったような顔をする。
「嫉妬かどうかは。分からない」
「はい」
「だが」
一度。
手を。
石卓の上で。
握る。
「あなたが。別の誰かを。特別に思うと考えると」
「はい」
「嫌かもしれない」
ご令嬢は。
黙った。
頬が。
さらに。
赤くなる。
「だから」
殿下は。
続ける。
「王太子妃として。選んだからではない」
「はい」
「私が。あなたを。特別だと思い始めている」
「はい」
「その先に」
殿下は。
少し。
苦しそうに。
言葉を探す。
「将来。そういう未来があるかもしれない」
「はい」
「だが。今は。約束できない」
「はい」
「それが」
殿下は。
ご令嬢を。
まっすぐ見た。
「今の私の答えだ」
小庭へ。
長い。
沈黙が落ちた。
ご令嬢は。
すぐに。
何も言わなかった。
殿下は。
待った。
胸の奥。
心臓の音が。
自分で。
聞こえるような気がする。
間違えた。
もっと。
柔らかく言うべきだった。
将来を約束できない。
そんなことを。
わざわざ言う必要はなかったのでは。
けれど。
期待させすぎてもいけない。
ご令嬢が。
未来を。
決めたように受け取れば。
困る。
何度も。
頭の中で。
答えを。
直したくなる。
けれど。
殿下は。
口を閉じた。
答えたあと。
相手の顔を見る。
昨日から。
何度も。
練習したこと。
ご令嬢は。
目を伏せていた。
少し。
考えている。
やがて。
「ありがとうございます」
と。
言った。
殿下の目が。
揺れる。
「それは」
「はい」
「何への」
「正直に。答えてくださったことへ」
「……そうか」
「少し」
ご令嬢は。
困ったように。
笑う。
「怖かったのです」
「何が」
「昨日のお言葉が」
殿下の顔が。
強張る。
「嫌だった?」
「いいえ」
ご令嬢は。
すぐに。
首を横へ振る。
「嬉しかったです」
「では」
「嬉しかったから。怖かったのです」
殿下は。
黙る。
「未来の王太子妃から。外れていると言いたくない」
「……ああ」
「そのお言葉を」
ご令嬢は。
指を。
ゆっくり。
重ねる。
「私が。都合よく受け取ってしまうのが」
殿下の眉が。
動く。
「都合よく?」
「殿下が。私を。将来のお相手として。もう。特別に選んでくださっていると」
「ああ」
「そう思ってしまったら」
「困る?」
「いいえ」
ご令嬢は。
また。
首を横へ振る。
「嬉しくなってしまうからです」
殿下が。
完全に。
動きを止めた。
「嬉しい?」
「はい」
「私が」
「はい」
「あなたを。将来」
「はい」
「王太子妃として」
「そこまで。言わなくて大丈夫です」
ご令嬢が。
頬を赤くしたまま。
笑う。
殿下も。
口を閉じた。
「ですから」
ご令嬢が。
続ける。
「勝手に期待して。あとで違ったと分かったら」
「……」
「私は。きっと。傷つくと思いました」
殿下は。
その言葉を。
ゆっくり。
受け取った。
「だから。今日。聞いたのか」
「はい」
「今の答えは」
殿下は。
少しだけ。
怖そうに。
尋ねる。
「傷ついたか」
ご令嬢は。
考えた。
「少しだけ」
殿下の顔が。
すぐに。
暗くなる。
「そうか」
「ですが」
「いや。よい」
「殿下」
「私は。傷つけた」
「最後まで。聞いてください」
ご令嬢が。
少しだけ。
強く。
言った。
殿下が。
止まる。
昨日。
人の話を。
途中で。
自分の答えへ変えない。
そう。
練習した。
「……聞く」
ご令嬢は。
ゆっくり。
息を吐いた。
「少しだけ。寂しかったです」
「はい」
「でも」
一度。
微笑む。
「安心しました」
「なぜ」
「殿下が。まだ決めていないことを。決めているように言わなかったからです」
「……」
「私が。期待しているからといって。合わせなかった」
「私は」
「はい」
「あなたが。期待しているとは」
「今。言いました」
「そうだった」
殿下の耳が。
また。
赤くなる。
「だから」
ご令嬢が。
続ける。
「少し寂しくて。それ以上に。嬉しかったです」
「同時に?」
「はい」
「矛盾している」
「殿下も。安心するのに緊張すると。おっしゃるのでは?」
殿下が。
目を見開く。
「なぜ知っている」
「え?」
「それを。誰から」
「今のは。例えです」
「……そうか」
「殿下?」
「何でもない」
朝。
マリアへ。
言ったばかりの言葉。
安心するのに。
緊張する。
ご令嬢も。
似たようなものを。
抱えている。
「では」
殿下が。
少しだけ。
姿勢を直す。
「一つ目の質問は。終わりか」
「はい」
「残りは。四つ」
「まだ。全部考えておりません」
「そうだった」
「ですが」
「何だ」
「今のお答えから」
ご令嬢が。
少し。
恥ずかしそうに。
笑う。
「二つ目を。思いつきました」
殿下の顔が。
再び。
緊張する。
「今?」
「はい」
「今日。聞くのか」
「嫌でしたら」
「嫌ではない」
「では」
「待て」
「はい」
「少し」
殿下は。
深く。
息を吸った。
吐く。
「よい」
ご令嬢は。
少し。
笑う。
「殿下」
「何だ」
「私が。殿下を。特別に思っていたら」
殿下の呼吸が。
止まった。
ご令嬢も。
言ったあと。
頬が。
一気に。
赤くなる。
「……」
「……」
二人とも。
黙った。
今。
質問を。
最後まで。
言えていない。
ご令嬢は。
視線を。
少しだけ。
石卓へ落とした。
「私が」
もう一度。
言う。
「殿下を。少し。特別に思っていたら」
殿下は。
何も言わない。
「困りますか」
その問いは。
とても。
静かだった。
第一の質問より。
ずっと。
短い。
けれど。
殿下にとって。
答えは。
もっと。
難しかった。
自分が。
ご令嬢を。
特別に思う。
そのことばかり。
考えていた。
自分の視線。
自分の行動。
自分の立場。
自分の気持ち。
でも。
ご令嬢にも。
気持ちはある。
昨日。
殿下を。
見ていたと。
言ってくれた。
以前より。
近く感じる。
王太子ではなく。
一人の方として。
そう。
言った。
それが。
もし。
特別という言葉へ。
近づいているのなら。
「困るか」
殿下が。
小さく。
繰り返す。
「はい」
「なぜ。困ると思った」
「王太子殿下ですから」
「それは。理由にならない」
「では」
ご令嬢が。
少しだけ。
視線を上げる。
「殿下が。まだ。ご自分のお気持ちを。決めていらっしゃらないからです」
「……」
「私の気持ちが。先に大きくなれば」
「はい」
「殿下へ。負担になるかもしれません」
殿下は。
黙った。
それは。
殿下が。
ご令嬢へ。
ずっと。
考えてきたことと。
同じだった。
自分が。
何かをすれば。
彼女が。
困るかもしれない。
断れないかもしれない。
期待させるかもしれない。
ご令嬢も。
同じように。
殿下を。
困らせたくないと。
考えている。
「あなたは」
殿下が。
ゆっくり言う。
「私と同じことを。考えているのか」
「同じ?」
「自分の気持ちで。相手を困らせるのではないかと」
ご令嬢は。
少し驚いた。
「殿下も?」
「ああ」
「そうだったのですか」
「何だ」
「いえ」
「なぜ笑う」
「少しだけ」
ご令嬢は。
口元へ。
手を添える。
「嬉しくて」
「なぜ」
「殿下も。同じことで悩まれていたのですね」
「嬉しいのか」
「はい」
「私は。かなり困っていた」
「それも。同じです」
「あなたも?」
「はい」
殿下は。
少しだけ。
呆れたように。
息を吐いた。
「なら。お互い」
「はい」
「何も言わなければ。何も進まない」
「そうですね」
「マリアが。言いそうだ」
「私も。そう思います」
「……」
殿下は。
ご令嬢を見る。
「困らない」
「え?」
「あなたが。私を。特別に思っていても」
ご令嬢の目が。
大きくなる。
「私は」
殿下は。
ゆっくり。
言葉を選ぶ。
「困らない」
「本当に?」
「ああ」
「重くありませんか」
「今のところは」
「今のところ」
「未来まで。分からない」
ご令嬢は。
少し笑った。
「はい」
「だが」
殿下が。
続ける。
「私も。あなたを。特別に思っているかもしれない」
「はい」
「だから」
一度。
息を吸う。
「一方だけが。勝手に重くしているわけではない」
ご令嬢の瞳が。
少し。
揺れた。
「ただ」
殿下は。
今度は。
すぐに。
否定を足さなかった。
「急がないでほしい」
「私が?」
「私も」
「はい」
「お互いに」
ご令嬢は。
ゆっくり。
うなずいた。
「分かりました」
「待てるか」
「殿下は?」
「……努力する」
ご令嬢が。
笑った。
「私も。努力します」
「真似をするな」
「公平です」
「また。それか」
二人の間に。
初めて。
少しだけ。
軽い笑いが。
生まれた。
◇
生垣の向こう。
私は。
声を。
ほとんど。
聞いていなかった。
ときどき。
殿下の声が。
少し大きくなる。
けれど。
言葉までは。
分からない。
ただ。
二人の表情は。
少しだけ。
見える。
最初。
どちらも。
固かった。
殿下は。
背を。
まっすぐにしすぎていた。
ご令嬢は。
指を。
何度も。
組み直していた。
途中。
殿下が。
俯いた。
ご令嬢も。
少し。
寂しそうな顔をした。
私は。
立ち上がるべきか。
少し迷った。
けれど。
呼ばれなかった。
だから。
待った。
しばらくして。
二人が。
もう一度。
顔を上げた。
話す。
聞く。
待つ。
また。
話す。
それだけ。
けれど。
昨日までより。
ずっと。
穏やかだった。
最後。
ご令嬢が。
少し笑った。
殿下も。
ほんの少しだけ。
笑った。
私は。
そこで初めて。
肩へ入っていた力を。
静かに抜いた。
よかった。
何が。
どこまで。
よかったのかは。
まだ。
分からない。
二人が。
何を話したのかも。
私は知らない。
けれど。
少なくとも。
殿下は。
立ち上がっていない。
ご令嬢も。
帰ろうとしていない。
誰かが。
泣いている様子もない。
そして。
何より。
殿下の顔が。
昨日までとは。
少し違っていた。
何かを。
言い切ったあとの顔。
勝ったとか。
正しかったとか。
そういう顔ではない。
答えを出した。
でも。
それが。
正解かどうかは。
まだ分からない。
それでも。
逃げずに。
自分の言葉で。
相手へ渡した。
そんな顔だった。
私は。
生垣の向こうから。
もう一度。
温室へ。
視線を移した。
夕方の光は。
少しずつ。
薄くなっている。
硝子へ映る。
二人の姿。
その距離は。
石卓を挟んで。
変わっていない。
けれど。
なぜだろう。
来たときより。
少しだけ。
近く見えた。
◇
「では」
ご令嬢が。
石卓の上で。
指を重ねた。
「今日は。二つも。質問してしまいました」
「五つまでだろう」
「はい」
「なら。あと三つある」
「殿下」
「何だ」
「少し。楽しみにされていますか」
殿下が。
止まった。
「……何を」
「私の質問を」
「別に」
言った。
殿下自身が。
すぐに。
気づいた。
ご令嬢も。
気づいた。
二人の間へ。
短い。
沈黙が落ちる。
「……今のは」
殿下が。
眉間へ。
少しだけ。
皺を寄せる。
「違う」
「何がでしょう」
「別に。ではない」
「はい」
「私は」
殿下は。
一度。
息を吐いた。
「少し。楽しみにしている」
ご令嬢の表情が。
ゆっくり。
柔らかくなる。
「ありがとうございます」
「なぜ礼を言う」
「私も。殿下のお答えを。聞くのが」
一度。
少しだけ。
恥ずかしそうに。
視線を落とす。
「楽しみだからです」
殿下は。
黙った。
何か。
言おうとして。
口を開く。
閉じる。
もう一度。
開く。
「……そうか」
「はい」
「それだけ?」
「何がですか」
「いや」
殿下は。
視線を。
少し横へ逸らした。
「何でもない」
ご令嬢が。
少し。
首を傾げる。
けれど。
追及しなかった。
殿下も。
助かったような。
少し残念そうな。
よく分からない顔をした。
それから。
二人は。
少しだけ。
黙った。
先ほどまでの沈黙とは。
違う。
答えを。
探すためではない。
次に。
何を話せばよいのか。
分からない。
けれど。
すぐに。
終わらせたくもない。
そんな。
少し。
不思議な沈黙だった。
噴水の水が。
小さな石鉢へ。
絶えず落ちている。
ぽつ。
ぽつ。
という。
規則的な音。
温室の向こうでは。
管理人らしい老人が。
じょうろを持って。
ゆっくり。
通り過ぎた。
二人へ。
一度。
視線を向ける。
王太子殿下と。
一人のご令嬢。
石卓を挟んで。
二人きり。
少し離れたところには。
私。
さらに。
警護役。
管理人は。
一瞬。
足を止めかけた。
けれど。
何も見なかったことにするように。
そのまま。
温室の奥へ。
消えていった。
「殿下」
ご令嬢が。
先に。
沈黙を破った。
「何だ」
「先ほど」
「ああ」
「私が。殿下を。特別に思っていても。困らないと」
「ああ」
「おっしゃいました」
「……ああ」
「その」
ご令嬢が。
少しだけ。
言葉を選ぶ。
「確認なのですが」
「何だ」
「私は」
一度。
頬へ。
薄く。
赤みが戻る。
「今まで通り。お話ししても。よいのでしょうか」
殿下は。
少し。
目を瞬いた。
「なぜ。駄目だと思う」
「意識してしまうと」
「はい」
「何を話しても」
「はい」
「特別な意味があるように。受け取られてしまうのではないかと」
殿下は。
しばらく。
ご令嬢を見る。
「例えば?」
「例えば」
ご令嬢は。
少し考えた。
「研究のお話を。もっと聞いていただきたいと。お願いしたら」
「聞く」
「すぐですね」
「聞きたいからだ」
「では」
「何だ」
「資料を。一緒に見ていただきたいと」
「見る」
「殿下」
「何だ」
「本当に。すぐですね」
「なぜ駄目だ」
「駄目ではありません」
ご令嬢は。
少し笑う。
「ただ」
「ただ?」
「少し。嬉しいです」
殿下の顔が。
また。
固まった。
「……それは」
「はい」
「研究の話だからだ」
「はい」
「特別な意味では」
そこまで。
言って。
殿下は。
止まった。
ご令嬢は。
静かに。
待っている。
殿下の頭の中で。
いつもの。
道が。
開きかけている。
違う。
特別ではない。
勘違いするな。
研究だから。
誰でも。
同じ。
その道。
殿下は。
そこへ。
進まなかった。
「……いや」
小さく。
言う。
「違うな」
「はい?」
「研究の話だから。聞きたいのも。本当だ」
「はい」
「だが」
殿下は。
ご令嬢を見る。
「あなたの話だから。聞きたいのも」
一度。
言葉が。
止まる。
「たぶん。本当だ」
ご令嬢の瞳が。
大きくなる。
「殿下」
「何だ」
「今」
「何だ」
「とても」
ご令嬢が。
少し困ったように。
笑った。
「嬉しいことを。おっしゃいました」
「……そうか」
「はい」
「なら」
殿下は。
少しだけ。
視線を逸らす。
「覚えておく」
「何をですか」
「こういう言い方なら」
「はい」
「あなたは。嬉しい」
「殿下」
「何だ」
「それを。正解として覚えないでください」
殿下が。
ゆっくり。
ご令嬢を見る。
「なぜ」
「次から。それを言えばよいと。思ってしまいそうなので」
「……」
「本当に。そう思ったときだけ」
「分かった」
「本当に?」
「私は。そこまで」
殿下は。
少し考える。
「信用がないのか」
「少しだけ」
「マリアと同じだ」
「マリア様は。もっとでしょうか」
「もっとだ」
「では。私は。まだ」
「安心するな」
ご令嬢が。
小さく。
笑った。
殿下も。
少しだけ。
口元を緩めた。
その瞬間。
研究棟の二階。
一つの窓。
カーテンが。
ほんの少し。
動いた。
その後ろで。
何人かの影が。
慌てて。
引っ込んだ。
私は。
生垣の向こうから。
それを見た。
……見なかったことにした。
おそらく。
研究会の方々だろう。
ご令嬢が。
王太子殿下と。
小庭で話している。
気にならないはずがない。
それでも。
窓を開けて。
堂々と聞こうとしないだけ。
まだ。
よい方だと思う。
ただ。
明日には。
何かしら。
噂になる。
それだけは。
確実だった。
◇
「そろそろ」
ご令嬢が。
空を見た。
「戻らなければ」
殿下も。
同じように。
空を見る。
夕方の色。
温室の屋根。
研究棟の壁。
影が。
少しずつ。
長くなっている。
「ああ」
殿下が。
答える。
けれど。
立たない。
ご令嬢も。
すぐには。
立たない。
「……」
「……」
「殿下」
「何だ」
「戻らないのですか」
「あなたが。戻ると言った」
「はい」
「なら。戻ればよい」
「殿下は?」
「私は」
一度。
周囲を見る。
「もう少し。ここにいる」
「なぜですか」
「別に」
また。
出た。
殿下が。
目を閉じる。
ご令嬢が。
少しだけ。
笑いを堪える。
「笑うな」
「申し訳ありません」
「笑っている」
「少しだけ」
「……」
殿下は。
諦めたように。
息を吐く。
「あなたが。先に帰るなら」
「はい」
「見送る」
「はい?」
「それだけだ」
ご令嬢の顔が。
少し。
赤くなる。
「見送ってくださるのですか」
「ここから。研究棟の入口までだ」
「はい」
「それ以上は」
「殿下」
「何だ」
「説明を足さなくて。大丈夫です」
殿下が。
黙った。
「……分かった」
二人が。
ようやく。
立ち上がる。
石椅子が。
わずかに。
地面を擦る。
ご令嬢は。
制服の裾を。
軽く整えた。
殿下は。
その姿を。
一瞬。
見て。
すぐに。
視線を逸らした。
「今日は」
ご令嬢が。
頭を下げる。
「ありがとうございました」
「ああ」
「二つも。答えてくださって」
「ああ」
「残り三つも」
一度。
少し。
迷う。
「考えておきます」
「……ああ」
「嫌ですか」
「違う」
「では」
「楽しみにしている」
今度は。
すぐに。
言えた。
ご令嬢が。
目を丸くする。
それから。
とても。
柔らかく。
笑った。
「はい」
その笑顔を見て。
殿下は。
完全に。
言葉を失った。
「殿下?」
「何でもない」
「そうですか」
「ああ」
「では」
「ああ」
ご令嬢が。
歩き出す。
殿下も。
隣へ。
一歩。
並ぶ。
近すぎない。
遠すぎない。
二人分ほどの。
少し。
不自然な距離。
私は。
生垣の向こうから。
立ち上がった。
警護役も。
静かに。
位置を変える。
研究棟の入口まで。
ほんの。
数十歩。
その短い距離を。
殿下と。
ご令嬢は。
ゆっくり。
歩いた。
話は。
ほとんど。
していない。
でも。
急いでもいない。
途中。
研究棟から。
三人の生徒が。
出てきた。
男女二人と。
年上らしい男子生徒。
殿下と。
ご令嬢を見た瞬間。
三人とも。
同時に。
足を止めた。
「ご、ご機嫌麗しく存じます」
一人が。
慌てて。
頭を下げる。
残り二人も。
続く。
「ああ」
殿下が。
短く返す。
以前なら。
それだけで。
通り過ぎただろう。
けれど。
今日は。
一度。
ご令嬢を見る。
「研究会の者か」
「はい」
ご令嬢が答える。
「こちらは」
紹介しようとする。
殿下が。
止めなかった。
三人の名前。
研究分野。
ご令嬢が。
簡単に説明する。
殿下は。
一人ずつ。
顔を見る。
「そうか」
短い。
けれど。
聞いている。
年上の男子生徒が。
緊張しながら。
「先日の資料閲覧では。ありがとうございました」
と。
頭を下げた。
「私は。ほとんど何もしていない」
殿下が。
答える。
男子生徒が。
少し困った顔をする。
殿下は。
一瞬。
止まった。
そして。
「だが」
続ける。
「研究会の整理は。見やすかった」
三人が。
同時に。
顔を上げた。
「ありがとうございます」
ご令嬢も。
少し。
驚いている。
殿下は。
その反応へ。
居心地が悪そうに。
視線を逸らした。
「では」
「あ、はい」
三人は。
もう一度。
頭を下げ。
少し離れる。
殿下たちが。
通り過ぎたあと。
背後から。
小さな声。
「今」
「聞いた」
「褒められた?」
「殿下に?」
「研究会を?」
「静かに」
全部。
聞こえている。
殿下の歩幅が。
少しだけ。
速くなった。
「殿下」
ご令嬢が。
呼ぶ。
「何だ」
「歩くのが。少し」
殿下が。
止まる。
ご令嬢との距離が。
一歩。
開いていた。
「……すまない」
殿下が。
歩幅を。
戻す。
ご令嬢が。
少し。
目を丸くした。
謝罪。
それも。
自然に。
殿下は。
気づいていない。
私は。
少し後ろから。
その様子を。
見ていた。
たぶん。
殿下は。
まだ。
ご自分では。
分かっていない。
ご令嬢へ。
正直に答える練習を。
始めてから。
殿下は。
ご令嬢以外の人へも。
少しずつ。
言葉を。
渡せるようになっている。
ありがとう。
すまない。
見やすかった。
待っていた。
楽しみにしている。
どれも。
王太子として。
難しい言葉ではない。
むしろ。
幼い子どもでも。
使う言葉。
けれど。
殿下にとっては。
たぶん。
政治や。
外交の答えより。
ずっと。
難しかった。
◇
研究棟の入口。
ご令嬢が。
足を止めた。
「ここまでで。大丈夫です」
「ああ」
殿下も。
止まる。
「では」
「はい」
「また」
殿下が。
言った。
ご令嬢が。
少し。
目を見開く。
「……また?」
殿下自身も。
止まった。
「いや」
訂正が。
出かける。
私は。
少し離れたところで。
殿下を見る。
殿下は。
一瞬。
こちらを見た。
私は。
何も言わない。
殿下は。
もう一度。
ご令嬢を見る。
「また」
言い直した。
「話したい」
ご令嬢の表情が。
ゆっくり。
柔らかくなる。
「はい」
「研究のことも」
「はい」
「それ以外も」
殿下は。
そこまで言って。
少しだけ。
困った顔をする。
「何を話すかは。まだ分からない」
朝。
練習した答え。
でも。
今は。
用意したから。
言ったのではない。
本当に。
そう思ったから。
出た言葉。
ご令嬢は。
小さく。
笑った。
「私もです」
「あなたも?」
「はい」
「何を話したいか。分からない?」
「全部は」
「そうか」
「でも」
一度。
少しだけ。
視線を上げる。
「また。お話ししたいです」
殿下は。
何も言えなかった。
ご令嬢が。
頭を下げる。
「では。失礼いたします」
「ああ」
ご令嬢は。
研究棟の中へ。
入っていった。
扉が。
閉まる。
殿下は。
その扉を。
見たまま。
動かない。
一秒。
二秒。
三秒。
五秒。
十秒。
「殿下」
「何だ」
「もう。ご令嬢は。中へ入りました」
「知っている」
「戻りますか」
「少し待て」
「何を?」
「分からない」
「はい?」
「今」
殿下は。
片手で。
額を押さえた。
「頭の中が。うるさい」
「何が?」
「全部だ」
「質問?」
「ああ」
「二つとも?」
「ああ」
「お答えは?」
「した」
「はい」
「したはずだ」
「はい」
「だが」
殿下は。
ゆっくり。
私を見る。
「マリア」
「はい」
「彼女は」
「はい」
「私を。特別に思っていると言ったか」
「聞いていません」
「そうだった」
「聞くなと。おっしゃいました」
「そうだった」
「でも」
「何だ」
「殿下のお顔を見る限り」
「何だ」
「かなり。よいお話だったのでは?」
「顔で決めるな」
「では。違います?」
「……」
殿下が。
黙る。
「殿下」
「違わない」
「はい」
「だが」
「はい」
「彼女は」
一度。
研究棟の扉を見る。
「私を。少し。特別に思っていたら」
「はい」
「困るかと。聞いた」
「……」
私は。
止まった。
殿下が。
こちらを見る。
「何だ」
「いえ」
「なぜ黙る」
「それは」
私は。
言葉を。
選ぶ。
「かなり」
「かなり?」
「かなりですね」
「何がだ」
「ご令嬢も。前へ進まれています」
殿下の耳が。
ゆっくり。
赤くなる。
「私は。困らないと答えた」
「はい」
「間違っていないか」
「殿下は。困ります?」
「困らない」
「では。間違っていません」
「本当に?」
「はい」
「それから」
「まだあるのですか」
「私も。彼女を。特別に思っているかもしれないと」
「はい」
「言った」
「はい」
「急がないでほしいとも」
「はい」
「お互いに」
「はい」
「……」
殿下が。
私を見る。
「何だ」
「私。何も言っていません」
「顔が。何か言っている」
「どのように?」
「驚いている」
「驚いています」
「なぜ」
「殿下が」
一度。
私は。
本当に。
言葉を探した。
「まともです」
「失礼だな」
「かなり」
「そこまでか」
「はい」
「私は。いつも」
「嫌いだ」
「言っていない」
「あり得ない」
「言っていない」
「勘違いするな」
「今日は。一度も言っていない」
「はい」
「……」
殿下が。
少しだけ。
胸を張る。
「成長した」
「ご自分で言います?」
「お前が言わないからだ」
「今。言おうとしていました」
「遅い」
「では」
私は。
少し笑う。
「殿下。よくできました」
「その言い方はやめろ」
「受け取る練習です」
「今日は。答える練習だ」
「もう終わりました」
「なら。受け取らない」
「逃げましたね」
「戻るぞ」
「殿下」
「何だ」
「顔が。少し嬉しそうです」
「違う」
「殿下」
「……」
「違う?」
「……少し」
「はい」
「かなり」
私は。
目を瞬いた。
殿下は。
すぐに。
顔を背ける。
「今のは忘れろ」
「無理です」
「命令だ」
「恋愛相談に。王太子命令を使わないでください」
「では。頼む」
「もっと無理です」
「なぜだ」
「貴重なので」
「何が」
「殿下が。かなり嬉しいと。素直に認めたことが」
「マリア」
「はい」
「本当に。黙れ」
けれど。
声は。
怒っていなかった。
◇
私たちが。
研究棟を離れる頃。
すでに。
廊下には。
何人かの生徒が。
残っていた。
部活動へ向かう者。
補習へ向かう者。
友人を待つ者。
その中を。
王太子殿下が。
歩く。
いつもなら。
道が。
自然に。
開く。
今日も。
開いた。
けれど。
視線が。
多い。
「研究棟裏だったらしい」
「誰と?」
「例の」
「二人で?」
「ルイート嬢もいたって」
「でも離れてたって」
「何を話したんだろう」
「五つの質問って噂」
「何それ」
「知らない」
「告白?」
「違うらしい」
「じゃあ何」
「分からない」
ひそひそ。
小さな声。
殿下にも。
聞こえている。
私は。
横目で。
殿下を見る。
以前なら。
顔を。
固くしていたかもしれない。
誰が。
何を。
言っている。
噂を止めろ。
余計なことを。
言うな。
そんな。
空気を。
出していたかもしれない。
でも。
今日は。
前を向いて。
歩いている。
「殿下」
「何だ」
「気になります?」
「気になる」
「はい」
「だが」
殿下は。
少しだけ。
声を落とす。
「今。止めれば」
「はい」
「余計に。何かあったと思われる」
「はい」
「それに」
一度。
歩みを。
少し緩める。
「彼女と。話したこと自体は」
「はい」
「隠すことではない」
私は。
殿下を見る。
「殿下」
「何だ」
「今の。かなり大きいですよ」
「何が」
「以前なら」
「言うな」
「まだ何も」
「分かる」
「はい」
「嫌いだと言ったことを。言うつもりだろう」
「よく分かりましたね」
「何度も聞いた」
「では。言いません」
「そうしろ」
少し前。
殿下は。
ご令嬢と。
話していること自体を。
隠したがっていた。
特別だと。
思われたくない。
噂になりたくない。
王太子妃候補と。
勝手に。
決められたくない。
それは。
今も。
変わらない。
でも。
話したことまで。
否定しない。
会いたかったことも。
話したかったことも。
もう。
なかったことには。
しない。
たぶん。
それは。
殿下にとって。
とても。
大きな変化だった。
廊下の途中。
一人の男子生徒が。
殿下へ。
頭を下げた。
「ご機嫌麗しく存じます」
「ああ」
殿下は。
そのまま。
通り過ぎる。
男子生徒は。
少し。
緊張した顔で。
友人のところへ。
戻る。
「普通だった」
「何が」
「殿下」
「何を期待してたんだよ」
「もっと機嫌悪いかと」
「なんで」
「知らない」
殿下の眉が。
少しだけ。
動く。
「マリア」
「はい」
「私は。普段」
「はい」
「そんなに。機嫌が悪そうか」
「……」
「なぜ黙る」
「質問される側ですね」
「答えろ」
「かなり」
「……そうか」
「傷つきました?」
「少し」
「正直ですね」
「今日だけだ」
「明日もお願いします」
「断る」
「即答」
「それは。分かっている」
「何がです」
「嫌だからだ」
「はい」
「分からないことではない」
「はい」
殿下は。
少し。
考える。
「質問されると」
「はい」
「自分が。何を思っているか」
「はい」
「考えなければならない」
「そうですね」
「面倒だ」
「はい」
「だが」
殿下は。
歩きながら。
少し。
遠くを見る。
「聞かれなければ」
「はい」
「考えなかったこともある」
「はい」
「彼女を。王太子妃として見ているのか」
「はい」
「私は」
一度。
言葉を止める。
「そこを。分けて考えていなかった」
「ご令嬢自身と?」
「ああ」
「はい」
「私は。王太子だから」
「はい」
「誰かを特別に思えば」
殿下の声が。
少しだけ。
低くなる。
「すぐ。婚姻へ。つながる」
「周囲は。そう考えますね」
「ああ」
「殿下ご自身も?」
「たぶん」
少し。
間が空く。
「だから。怖かったのかもしれない」
「何が?」
「彼女を。特別だと。認めることが」
私は。
何も言わなかった。
殿下が。
自分で。
続ける。
「特別だと認めれば」
「はい」
「王太子妃にするのか」
「はい」
「婚姻するのか」
「はい」
「責任を取れるのか」
「はい」
「そこまで。決めなければならない気がした」
「はい」
「だが」
殿下は。
ゆっくり。
息を吐く。
「今日。聞かれて」
「はい」
「違うと。分かった」
「何がです?」
「今は」
一度。
少しだけ。
考える。
「ただ。特別だと思い始めている」
「はい」
「その先は。まだ」
「分からない」
「ああ」
「それでよいのでは?」
「本当に?」
「ご令嬢も。受け取ってくださったのでしょう?」
「……ああ」
「では」
「だが」
「はい」
「少し。寂しかったと言った」
「ご令嬢が?」
「ああ」
「それは」
私は。
少しだけ。
考えた。
「嬉しいですね」
殿下が。
完全に。
足を止めた。
「なぜだ」
「殿下」
「何だ」
「ご令嬢は。殿下との未来を。少し期待していたから。寂しかったのですよね」
「……」
「違います?」
「……たぶん」
「なら」
「マリア」
「はい」
「今」
殿下は。
片手で。
口元を押さえた。
「それを。言うな」
「なぜです」
「また。頭の中が。うるさくなる」
「嬉しくて?」
「言うな」
「はい」
「笑うな」
「笑っていません」
「口元が」
「殿下ほどでは」
「私は笑っていない」
「少し」
「……」
「かなり?」
「黙れ」
廊下の端。
そのやり取りを。
偶然。
聞いていたらしい。
二人の女子生徒が。
目を。
丸くしていた。
「今」
「殿下」
「笑ってた?」
「たぶん」
「ルイート嬢と?」
「何があったの」
また。
噂が。
一つ。
増えた。
◇
翌日の朝には。
学園の噂は。
さらに。
大きくなっていた。
王太子殿下が。
例のご令嬢と。
研究棟裏の小庭で。
密談した。
未来について。
話した。
五つの質問を。
交換している。
殿下が。
ご令嬢を。
研究棟まで。
送った。
また話したいと。
言った。
最後の二つは。
なぜ。
そこまで。
広がっているのでしょう。
私は。
本当に。
不思議です。
誰が。
どこで。
聞いていたのでしょう。
ただ。
殿下は。
以前ほど。
噂へ。
過剰に。
反応しなかった。
「全部。正確ではない」
朝。
校舎裏のベンチ。
殿下は。
そう。
おっしゃった。
「はい」
「密談ではない」
「はい」
「未来については。少し話した」
「はい」
「五つの質問は。交換ではない」
「はい」
「送ったのは。研究棟の入口までだ」
「はい」
「また話したいとは」
殿下が。
止まる。
「……言った」
「はい」
「そこだけ。なぜ正確なんだ」
「聞いていた方がいたのでしょう」
「誰だ」
「探さないでください」
「なぜ」
「怖いです」
「何が」
「殿下が」
「私は。何もしない」
「本当に?」
「……注意だけ」
「何もしないでください」
「だが」
「殿下」
「分かった」
殿下は。
少し。
不満そうに。
ベンチへ。
座る。
今日は。
紙を。
持っていない。
「質問の紙は?」
「置いてきた」
「珍しいですね」
「昨日」
「はい」
「意味がないと。分かった」
「何がです?」
「予想しても」
一度。
殿下は。
空を見る。
「当たらない」
「はい」
「王太子妃として。見ているかなど」
「はい」
「考えていなかった」
「はい」
「彼女が。私を。特別に思っていたら困るかも」
「はい」
「考えていなかった」
「はい」
「だから」
「はい」
「もう。予想しない」
私は。
少し。
驚いた。
「殿下」
「何だ」
「成長しましたね」
「褒めるな」
「受け取る」
「今日は。何の練習だ」
「特にありません」
「なら。受け取らない」
「逃げています」
「自由だ」
「王太子殿下が?」
「個人としてだ」
私は。
思わず。
黙った。
殿下が。
こちらを見る。
「何だ」
「今」
「何だ」
「自然に。王太子ではなく。個人として、と」
「……」
「おっしゃいましたね」
「それが?」
「いえ」
私は。
少しだけ。
笑う。
「よいと思います」
「そうか」
「はい」
殿下は。
以前。
何かを考えるたび。
王太子だから。
という。
答えへ。
戻っていた。
王太子だから。
失敗できない。
王太子だから。
噂になれない。
王太子だから。
簡単に。
誰かを特別にできない。
全部。
間違いではない。
でも。
その前に。
一人の人として。
どう思うのか。
それを。
少しずつ。
考えられるように。
なってきた。
「マリア」
「はい」
「昨日」
「はい」
「私は。答えたあと」
「はい」
「彼女の顔を見た」
「はい」
「待った」
「はい」
「途中で。言い直さなかった」
「はい」
「かなり」
一度。
殿下は。
胸を張る。
「できたと思う」
「はい」
「もっと。褒めろ」
「殿下」
「何だ」
「昨日は。褒めるなと」
「今日はよい」
「都合がよいですね」
「成長は。評価されるべきだ」
「では」
私は。
姿勢を。
少しだけ。
正す。
「王太子殿下」
「何だ」
「昨日は。本当によく。ご自分のお気持ちを。言葉にできたと思います」
「ああ」
「分からないことを。分からないと」
「ああ」
「約束できないことを。約束できないと」
「ああ」
「それでも。特別に思っているかもしれないことは。誤魔化さず」
「ああ」
「ご令嬢のお気持ちも。否定せず」
「ああ」
「最後まで。お話を聞けた」
「ああ」
「とても。よくできました」
「……」
殿下が。
黙る。
「何です?」
「最後だけ」
「はい」
「子どもへ言うようだった」
「気のせいです」
「本当に?」
「はい」
「もう一度」
「嫌です」
「なぜだ」
「一回です」
「少ない」
「受け取ってください」
「……」
殿下は。
少し。
考え。
「分かった」
と。
言った。
そして。
ほんの少し。
笑った。
◇
質問されることは。
怖いことです。
何を聞かれるか。
分からない。
自分でも。
答えを。
知らないかもしれない。
相手が。
望む答えを。
渡せないかもしれない。
答えれば。
誰かを。
傷つけるかもしれない。
だから。
先に。
正しい答えを。
用意したくなる。
間違えないように。
嫌われないように。
失わないように。
でも。
正しい答えが。
いつも。
本当の答えとは。
限りません。
ご令嬢は。
殿下へ。
未来の王太子妃として。
自分を見ているのかと。
聞きました。
殿下は。
今は違うと。
答えました。
きっと。
もっと。
都合のよい答えは。
あったでしょう。
可能性はある。
考えている。
期待してほしい。
そう。
言うこともできた。
でも。
殿下は。
分からないと。
答えた。
決めていないと。
答えた。
そして。
それでも。
あなた自身が。
気になっていると。
答えた。
ご令嬢は。
少し。
寂しかった。
でも。
安心した。
嬉しかった。
一つの答えで。
一つの感情だけが。
生まれるわけではない。
殿下は。
それも。
少しずつ。
知り始めています。
そして。
もう一つ。
大切なことを。
知りました。
自分が。
誰かを。
特別に思うだけではない。
誰かから。
特別に思われることもある。
その気持ちを。
受け取る側にも。
責任がある。
拒むのか。
受け取るのか。
待ってほしいのか。
自分も。
同じように。
思っているのか。
聞かれる側になって。
初めて。
殿下は。
答えの重さを。
知ったのだと思います。
けれど。
重いから。
答えないのではなく。
重いからこそ。
急がず。
誤魔化さず。
今。
言えるところまで。
答える。
それが。
できるようになったのなら。
王太子殿下の恋は。
少なくとも。
以前より。
ずっと。
口から出す前に。
止まれるようになった。
……はずです。
「マリア」
「はい」
「一つ。聞きたい」
「何です?」
「彼女が」
「はい」
「残り三つの質問で」
「はい」
「私の好きなところを聞いてきたら」
「殿下」
「何だ」
「予想しないと。五分前に」
「これは予想ではない」
「では?」
「可能性の整理だ」
「戻っています」
「違う」
「同じです」
「違う」
「殿下」
「何だ」
「では。もし聞かれたら。その場で答えてください」
「……」
「分からないなら?」
「分からないと言う」
「はい」
「だが」
「はい」
「一つくらいは」
「はい」
「考えておいても」
「駄目です」
「なぜだ」
「正解を作るからです」
「……」
「殿下」
「分かった」
「本当に?」
「その場で」
「はい」
「彼女の顔を見て」
「はい」
「考える」
「はい」
「そして」
「はい」
「余計なことを言う前に」
「はい」
「止まる」
「完璧です」
「褒めろ」
「今。褒めました」
「足りない」
「殿下」
「何だ」
「昨日から。少し。褒められるのがお好きになっていませんか」
「違う」
「違う?」
「……」
殿下は。
少しだけ。
考えた。
「分からない」
私は。
笑った。
「それでよいです」
「笑うな」
「はい」
「あと」
「何です?」
「彼女に」
「はい」
「また話したいと言われた」
「はい」
「私も。言った」
「はい」
「次は」
殿下は。
少し。
遠くを見る。
「質問がなくても」
「はい」
「話してよいと思うか」
私は。
すぐには。
答えなかった。
朝の風が。
芝生を。
静かに。
揺らしている。
校舎の向こうから。
生徒たちの声。
鐘楼の。
小さな金属音。
今日も。
学園の一日が。
始まろうとしている。
「殿下」
「何だ」
「それは」
私は。
少しだけ。
笑う。
「ご令嬢へ。聞いてみてはいかがですか」
「……」
「質問される側だけではなく」
「はい」
「今度は。また」
「聞く側?」
「はい」
殿下は。
少し。
考えた。
「何と聞く」
「ご自分で」
「マリア」
「はい」
「相談役だろう」
「答えを作る役ではありません」
「……」
「殿下」
「何だ」
「簡単ですよ」
「何が」
「また。話してもよいですか」
「……」
「それだけです」
殿下は。
黙った。
何度か。
口の中で。
その言葉を。
確かめるように。
小さく。
動かす。
「また」
「はい」
「話してもよいですか」
「はい」
「弱くないか」
「何が?」
「もっと」
「はい」
「王太子らしく」
「必要ありません」
「では」
「はい」
「私と。また話せ」
「命令です」
「……」
「殿下」
「難しい」
「簡単です」
「私には難しい」
「では。練習します?」
「……する」
「はい」
「笑うな」
「笑っていません」
「顔が」
「嬉しいだけです」
「なぜ」
「殿下が」
私は。
少しだけ。
言葉を止めた。
「次に話すことを。考えられるようになったので」
殿下は。
何も言わなかった。
けれど。
研究棟の方角を。
一度。
見た。
昨日までなら。
そこに。
ご令嬢がいるかどうかを。
確かめるため。
何度も。
見ていた。
今日は。
一度だけ。
そして。
前を向いた。
「マリア」
「はい」
「今日の放課後」
「はい」
「研究会へ行く」
「はい」
「理由は」
「殿下」
「分かっている」
「何がです?」
「理由を作らなくてよい」
「はい」
「話したいから」
殿下は。
少し。
言いづらそうに。
それでも。
はっきり。
言った。
「行く」
私は。
うなずいた。
「はい」
王太子殿下は。
ようやく。
誰かに聞かれなくても。
ご自分の答えを。
口にできるように。
なり始めていました。




