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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第73話 王太子殿下、してよいことを本人へ尋ねる



 誰かを。


 大切にしたいと思ったとき。


 最も難しいのは。


 何をしてあげればよいか。


 ではないのかもしれません。


 何をすれば。


 相手が喜ぶのか。


 どこまで近づけば。


 困らせないのか。


 どの言葉なら。


 押しつけにならないのか。


 それを。


 自分だけで決めないこと。


 大切に思うほど。


 人は。


 相手のために。


 先回りしたくなる。


 傷つけないように。


 困らせないように。


 間違えないように。


 その人の気持ちまで。


 自分の中で。


 想像し。


 答えを作る。


 けれど。


 どれほど。


 考えても。


 相手の心は。


 相手のものです。


 聞かなければ。


 分からない。


 尋ねなければ。


 届かない。


 王太子殿下は。


 そのことを。


 ようやく。


 知り始めていらっしゃいました。


 だから。


 第七十三話の朝。


 殿下は。


 校舎裏のベンチへ来るなり。


 私へ。


 こうおっしゃったのです。


「質問を作った」


          ◇


「質問、ですか」


「ああ」


「誰へ?」


「分かっているだろう」


「好きなご令嬢へ?」


「声が大きい」


「いつもどおりです」


「小さくしろ」


 殿下は。


 朝から。


 眉間へ皺を寄せていた。


 けれど。


 昨日までのように。


 噂へ怒っている顔ではない。


 何かを。


 夜通し。


 考えてきた。


 その疲れが。


 目元へ。


 少しだけ。


 残っている。


 朝露を含んだ草の匂い。


 校舎の窓を開ける音。


 遠くで。


 早朝練習をしている運動部の掛け声。


 鳥の声。


 少し冷たい風。


 その中で。


 殿下は。


 膝の上へ。


 一枚の紙を置いていた。


 何度も。


 折り直したらしい。


 端が。


 少しだけ。


 柔らかくなっている。


「昨夜。お考えになったのですか」


「ああ」


「どのくらい?」


「時間は関係ない」


「眠れましたか」


「少しは」


「目の下が」


「見るな」


「見えます」


「見なくてよい」


「でも」


「質問の話をしろ」


 殿下は。


 紙を。


 私へ差し出した。


「読め」


「よろしいのですか」


「そのために呼んだ」


「恋愛相談ですね」


「……そうだ」


 今日は。


 少しだけ。


 間があった。


 けれど。


 否定しなかった。


 私は。


 紙を受け取る。


 殿下の文字は。


 いつもどおり。


 整っていた。


 王宮文書のように。


 線がまっすぐで。


 大きさも揃っている。


 けれど。


 途中。


 何度も。


 書き直した跡があった。


 一つ目。


『私があなたへ声をかけることは、迷惑か』


 二つ目。


『研究について尋ねることは、負担になるか』


 三つ目。


『差し入れをすることは、困るか』


 四つ目。


『二人で話すことは、嫌か』


 五つ目。


『私があなたを特別に思うことは、迷惑か』


 私は。


 そこで。


 読む手を止めた。


 殿下が。


 こちらを見ている。


 紙ではなく。


 私の顔を。


「どうだ」


「最後が。とても直接的です」


「やはり。重いか」


「重いというより」


「何だ」


「殿下が。そこまで書かれたことに。驚きました」


「言うとは決めていない」


「書いたのですね」


「質問を作っただけだ」


「ご令嬢へ。聞きたいのですか」


「……聞かなければ」


 殿下は。


 少しだけ。


 視線を逸らした。


「昨日。お前が言った」


「私が?」


「どこまでなら。特別に思っていても。傷つけないかを。本人と考えろと」


「はい」


「だから。聞く」


「はい」


「何か。おかしいか」


「いいえ」


「なら。なぜ。笑う」


「笑っていません」


「口元が」


「嬉しいだけです」


「なぜ。お前が嬉しい」


「殿下が。ご令嬢のお気持ちを。聞こうとしていらっしゃるからです」


「当然だ」


「以前なら。ご自分の中で。答えを決めていました」


「以前とは」


「三日前です」


「最近だな」


「はい」


 殿下は。


 少し。


 不満そうに。


 私を見た。


 私は。


 もう一度。


 紙へ目を落とす。


「順番は。このままですか」


「ああ」


「最後へ向かうほど。難しくなりますね」


「最初から。難しい」


「声をかけることも?」


「彼女が。研究中なら」


「はい」


「邪魔になる」


「そうですね」


「だが。話したい」


 殿下は。


 言った。


 とても。


 普通のことのように。


 私は。


 すぐには。


 返事をしなかった。


「何だ」


「いいえ」


「今。何か考えただろう」


「殿下が。自然に。話したいとおっしゃったので」


「昨日も言った」


「はい」


「なら。驚くな」


「少しずつ。慣れます」


「私ではなく。お前がか」


「両方です」


 殿下は。


 小さく。


 息を吐いた。


「質問に。問題はあるか」


「あります」


「何だ」


「すべて。はいかいいえで答えられる形です」


「分かりやすいだろう」


「殿下」


「何だ」


「ご令嬢が。迷惑ではないと答えたら。それで終わります」


「それでよい」


「本当に?」


「何がだ」


「例えば。声をかけること自体は迷惑ではない。でも。皆さんの前では恥ずかしい。研究中は少し待ってほしい。そのようなこともあるかもしれません」


「……」


「差し入れも。皆さんへなら嬉しい。でも。毎日では困る。高価なものは受け取れない。そういう答えも」


「あるな」


「二人で話すことも。場所や時間によっては」


「では。どう聞けばよい」


 殿下は。


 すぐに。


 こちらへ尋ねた。


 以前なら。


 自分の質問は間違っていない。


 これで十分だ。


 そのように。


 押し通したかもしれない。


「何が嫌かではなく」


 私は。


 紙の余白へ。


 指を置く。


「どのようなときなら。嬉しいか」


「嬉しいか」


「はい」


「それでは。喜ばせたいと思っていることが。分かる」


「思っていないのですか」


「……」


「殿下」


「思っている」


「はい」


「だが。知られるのは」


「ご令嬢へ?」


「ああ」


「なぜです」


「期待させる」


「何を?」


「私が」


 殿下は。


 一度。


 口を閉じる。


「もっと。何かできるように」


「できないことまで。できると思わせるのが怖いのですね」


「ああ」


「でも。喜ばせたいと思っていることと。何でもできることは。同じではありません」


「……」


「殿下が。できる範囲で。ご令嬢が嬉しいことを。知りたい」


「それなら」


 殿下は。


 紙を。


 私の手元から。


 もう一度。


 受け取った。


 膝の上へ置き。


 懐から。


 細い筆記具を取り出す。


 そして。


 一つ目の質問の下へ。


 文字を加えた。


『どのようなときなら、声をかけてもよいか』


 二つ目。


『研究について、どのように尋ねれば負担にならないか』


 三つ目。


『差し入れをするなら、何が困らないか』


 四つ目。


『二人で話すなら、どのような場所がよいか』


 五つ目。


 殿下の手が。


 止まる。


「最後は」


「今のままでも。よいと思います」


「重いと言った」


「重いです」


「なら」


「でも。大切な質問です」


 殿下は。


 紙を見たまま。


 長く。


 黙った。


「私が」


 ゆっくり。


 言う。


「彼女を。特別に思うことは」


 一度。


 息を吸う。


「彼女が。決めることなのか」


「殿下のお気持ちは。殿下のものです」


「ああ」


「でも。それを伝えられることを。どう感じるかは。ご令嬢のものです」


「……」


「特別に思ってよいか、と。許可を求める必要はないと思います」


「では。聞かなくてよい?」


「そうではなく」


 私は。


 少し考える。


「殿下が。特別に思っているかもしれないと伝えること。それを。ご令嬢がどう受け取るか」


「それを聞く?」


「はい」


「何と言う」


「私があなたを特別に思っているかもしれないと知ることは。困りますか」


「同じではないか」


「少し違います」


「どこが」


「殿下がご自身の気持ちを持つことではなく。その気持ちを知ることについて尋ねています」


「細かいな」


「大切です」


「……そうか」


 殿下は。


 最後の行を。


 ゆっくりと。


 書き直した。


 そして。


 書き終えた紙を。


 じっと見つめる。


「これを。全部聞くのか」


「一度に?」


「そのつもりだった」


「多いです」


「お前が増やした」


「はい」


「減らせ」


「殿下が。最も知りたいことは?」


 殿下は。


 紙へ視線を落とした。


 一つ目。


 声をかけてよいか。


 二つ目。


 研究について尋ねてよいか。


 三つ目。


 差し入れ。


 四つ目。


 二人で話すこと。


 五つ目。


 特別に思っていると知られること。


 長い沈黙。


「二人で」


 殿下が言った。


「話してよいか」


「それが。最も?」


「ああ」


「研究のお話ではなくても?」


 殿下の指が。


 紙の端へ。


 少しだけ。


 力を込める。


「……そうだ」


「では。今日は。それを聞きましょう」


「他は」


「また。別の日に」


「毎日聞くのか」


「毎日でなくても」


「いつ」


「会話の中で。必要になったときに」


「忘れるかもしれない」


「殿下が?」


「ああ」


「この紙があります」


「見せるのか」


「ご令嬢へ?」


「違う。私が見るのか」


「はい」


「一つずつ。消す?」


「はい」


「何か。仕事の一覧のようだな」


「殿下は。その方が落ち着くでしょう?」


「……少し」


 殿下は。


 紙を。


 丁寧に折った。


 懐へ入れる。


「放課後だ」


「はい」


「今日は。二人で話してよいかを聞く」


「はい」


「断られたら」


「断られる可能性もあります」


「その場合」


「理由を聞いてもよいか。尋ねてください」


「理由を聞くことも。困るかもしれない」


「では。無理に言わなくてよいと」


「王太子から言われれば」


「殿下」


「何だ」


「先を考えすぎです」


「だが」


「ご令嬢は。まだ。何も答えていません」


「……」


「答えを聞いてから。次を考えましょう」


 殿下は。


 しばらく。


 何も言わなかった。


 やがて。


「難しい」


 と。


 小さく。


 おっしゃった。


「はい」


「人へ聞くことは。こんなに難しいのか」


「大切な方へ聞くからでは?」


「……」


「殿下」


「何だ」


「今のは。答えなくて大丈夫です」


「最初から聞くな」


「すみません」


「謝るのが早い」


「では。取り消します」


「そういう意味ではない」


 殿下は。


 立ち上がった。


 朝の鐘が。


 もうすぐ鳴る。


「行くぞ」


「はい」


「今日は。質問するだけだ」


「はい」


「余計なことは言わない」


「ご令嬢のお答えによります」


「今から不安にさせるな」


「私は。殿下を信じています」


「嘘だ」


「言い直せることは」


「そこだけか」


「はい」


「正直すぎる」


 殿下は。


 不満そうに。


 歩き始めた。


 けれど。


 その手は。


 何度か。


 懐にある紙の位置を。


 確かめていた。


          ◇


 午前中。


 殿下は。


 質問の練習を。


 なさらなかった。


 少なくとも。


 壁へ向かっては。


 なさらなかった。


 その代わり。


 休憩時間になるたび。


 懐から。


 折った紙を取り出していたらしい。


 一時限目のあと。


 殿下と同じ教室にいる男子生徒が。


 友人へ話した。


「殿下が。紙を見ていた」


「何の?」


「分からない。すごく真剣な顔で」


「王宮の書類では?」


「小さかった」


 二時限目のあとには。


 別の話になった。


「王太子殿下が。誰かへ渡す手紙を書いたらしい」


「恋文?」


「まさか」


「昨日の話があるでしょう」


 三時限目の休憩には。


 紙の内容まで。


 なぜか。


 決められていた。


 王太子殿下が。


 未来の王太子妃へ求める条件を。


 五つ書き出した。


 という話だった。


 もちろん。


 違う。


 けれど。


 五つという数だけは。


 合っている。


「なぜ。数まで分かったんだ」


 昼休み。


 校舎裏のベンチで。


 殿下は。


 私へ。


 強く尋ねた。


「紙が。透けて見えたのでは?」


「折っていた」


「何度も見ていたのでしょう?」


「確認だ」


「周囲からは。気になったのでしょう」


「見るな」


「殿下が。教室で紙を出していれば」


「私の机だ」


「教室は。殿下お一人の部屋ではありません」


「分かっている」


 殿下は。


 昼食の包みを開いた。


 今日は。


 白いパン。


 塩漬けの肉。


 薄く切られた果実。


 昨日の蜂蜜菓子は。


 入っていない。


 殿下は。


 包みの中を。


 一度。


 確認した。


 何も言わず。


 閉じかける。


「殿下」


「何だ」


「何か。足りませんか」


「足りている」


「昨日と違うものを。探しました?」


「探していない」


「蜂蜜菓子は」


「ない」


「残念ですか」


「違う」


「ご令嬢が好きなものと。同じものを」


「マリア」


「はい」


「質問の確認をする」


 話を。


 変えた。


 私は。


 それ以上。


 菓子については。


 言わなかった。


 殿下が。


 懐から。


 紙を出す。


 開く。


「二人で話してよいか」


「はい」


「これでは。今。二人ではないのかと。言われないか」


「ご令嬢と、という意味だと分かります」


「分からなければ?」


「説明してください」


「何と」


「研究会の皆さんがいない場所で。殿下とご令嬢だけで。お話ししてもよいか」


「お前は?」


「少し離れます」


「二人ではない」


「見える範囲にいます」


「それは。二人なのか」


「会話には入りません」


「なら。二人か」


「はい」


「だが。周囲から見れば」


「また。噂になりますね」


 殿下の顔が。


 険しくなる。


「では。研究会の部屋で」


「皆さんがいます」


「別室」


「完全に閉じた部屋は。ご令嬢が不安かもしれません」


「中庭」


「人が多いです」


「校舎裏」


「ここですか」


「ああ」


「殿下と私の場所だと。皆さんに知られています」


「なぜ。知られている」


「壁へ練習なさったことより。以前から知られています」


「では。どこだ」


「ご令嬢へ聞くのです」


 殿下が。


 止まる。


「何を」


「二人で話すなら。どの場所がよいか」


「それも。質問にあった」


「はい」


「二人で話してよいかを聞く前に。場所を聞く?」


「話してよいと答えてからです」


「話してよいと言われる前に。場所を考えていると」


「期待していらっしゃる?」


「違う」


「殿下」


「……期待している」


 殿下は。


 小さく。


 認めた。


「断られたくない」


「はい」


「だが。断れないようにもしたくない」


「はい」


「どうすればよい」


「そのまま。お伝えしては?」


「今のを?」


「はい」


「重くないか」


「正直です」


「正直なら。何でもよいわけではない」


「そのとおりです」


「なぜ。そこで褒める」


「褒めていません」


「顔が」


「殿下」


「何だ」


「ご令嬢が。断りやすいように。少し時間を置くこともできます」


「時間?」


「今すぐ答えなくてよいと」


「逃げる時間になる」


「考える時間です」


「私は。待てるか」


「待ってください」


「長かったら」


「待ってください」


「一日」


「待ってください」


「三日」


「待ってください」


「一週間」


「待ってください」


「一月」


「殿下」


「何だ」


「断られたと考えますか」


「……考える」


「でも。ご令嬢は。研究の条件を一つ増やすだけでも。何度も測定なさる方です」


「ああ」


「大切な答えなら。時間をかけるのでは?」


 殿下は。


 紙を見た。


「そうか」


「はい」


「なら。待つ」


「はい」


「だが。一月は長い」


「急かさないでください」


「一月だぞ」


「一月かかると。決まっていません」


「なら。三日」


「殿下」


「何だ」


「期限を決めない」


「難しい」


「待つことも練習です」


「恋愛には。練習ばかりだな」


「殿下が。今までなさらなかったからです」


「お前は」


「私もです」


「なら。同じだ」


「はい」


 殿下は。


 少しだけ。


 満足そうな顔をした。


 同じ。


 と。


 言えたことが。


 嬉しかったのかもしれない。


「マリア」


「はい」


「お前は」


「はい」


「もし。誰かから。二人で話したいと言われたら」


「相手によります」


「それは。そうだ」


「殿下は。なぜ聞くのですか」


「参考だ」


「ご令嬢ではありません」


「女性の意見だ」


「女性は。皆。同じではありません」


「分かっている」


「では」


「ただ」


 殿下は。


 パンを。


 ちぎりながら。


 視線を落とした。


「断るとき。どのように言う」


「私が?」


「ああ」


「相手を傷つけないように?」


「そうだ」


「難しいですね」


「お前でも?」


「はい」


「では。彼女も。困るかもしれないな」


「断る場合は」


「ああ」


「殿下」


「何だ」


「まだ。断られていません」


「分かっている」


「先に傷つかないでください」


「傷ついていない」


「お顔が」


「これは。考えている顔だ」


「同じでは?」


「違う」


「違うというのが?」


「今日は。違う」


 殿下は。


 パンを。


 口へ入れた。


 少し。


 強く噛んでいる。


「殿下」


「何だ」


「おいしいですか」


「味が分からない」


「緊張で?」


「違う」


「では。心配?」


「……両方だ」


「はい」


「褒めるな」


「まだ何も」


「顔が褒めている」


「顔で決めないでください」


 昨日と。


 同じ会話。


 けれど。


 殿下は。


 もう。


 両方だと。


 認めることへ。


 それほど時間がかからなくなっていた。


          ◇


 放課後。


 研究棟の前には。


 昨日よりも。


 人が多かった。


 少し離れている。


 隠れている。


 見ていないふりをしている。


 それでも。


 人が多い。


 殿下が。


 研究会のご令嬢へ。


 五つの条件を書いた紙を渡す。


 そのような噂が。


 午後の授業中に。


 広がっていたからだ。


「渡さない」


 研究棟へ向かいながら。


 殿下が言う。


「何をですか」


「紙だ」


「はい」


「条件でもない」


「はい」


「未来の王太子妃へ求めるものでもない」


「はい」


「なぜ。全員が。こちらを見る」


「噂の答え合わせです」


「答えは。外れだ」


「皆さんは。まだ知りません」


「教えてやれ」


「私が?」


「ああ」


「『殿下がご令嬢と二人で話してよいかを尋ねるため、夜通し質問を五つ作っただけです』と?」


「言うな」


「正確に説明しました」


「それが。最も言うなという部分だ」


 殿下は。


 周囲を見た。


 窓際にいた生徒たちが。


 一斉に。


 植物の鉢を眺め始める。


 廊下の端にいた男子生徒が。


 落ちていないものを。


 拾うふりをする。


 一人。


 壁へ耳をつけていた。


 殿下と。


 目が合う。


「お前は。何をしている」


「壁の状態を」


「嘘をつくな」


「昨日。殿下が褒めていらしたので」


「褒めていない!」


 殿下の声が。


 研究棟へ響いた。


 扉の向こうから。


 物音が止まる。


 中にいた研究会員たちが。


 こちらへ気づいたのだろう。


 壁へ耳をつけていた男子生徒は。


「失礼しました」


 と。


 逃げていった。


「殿下」


「何だ」


「今ので。ご令嬢も。来られたと分かりました」


「……そうだな」


「入りましょう」


「待て」


「なぜです」


「まだ。心の準備が」


「朝から。なさっています」


「足りない」


「一日中。紙をご覧になっていたのでしょう?」


「見ていた」


「では」


「見すぎて。言葉が分からなくなった」


「殿下」


「何だ」


「ご令嬢のお顔を見てから。話してください」


「紙は」


「持っていて大丈夫です」


「見ても?」


「分からなくなったら」


「読むのか」


「はい」


「情けなくないか」


「ご令嬢へ。正しく聞くためでしょう?」


「ああ」


「なら。恥ずかしいことではありません」


 殿下は。


 扉を見た。


 すぐには。


 動かなかった。


 私は。


 待った。


 周囲の生徒たちも。


 遠くから。


 待っている。


 殿下が。


 懐へ手を入れる。


 折った紙を。


 少しだけ。


 指で確かめる。


 そして。


 扉へ。


 三度。


 軽く。


 手を当てた。


「はい」


 中から。


 声がする。


 昨日までより。


 聞き慣れた。


 ご令嬢の声。


 殿下の背が。


 少しだけ。


 固くなる。


 扉が。


 内側から開いた。


「王太子殿下」


 ご令嬢が。


 驚いた顔をする。


 けれど。


 すぐに。


 柔らかく笑った。


「本日も。いらしてくださったのですね」


「ああ」


 殿下は。


 それだけ答えた。


 ご令嬢の後ろ。


 研究会員たちが。


 こちらを見ている。


 机の上には。


 昨日と同じ。


 鉢。


 記録用紙。


 測定器具。


 そして。


 小さな皿。


 皿の上には。


 蜂蜜菓子が。


 一つだけ。


 残っていた。


 殿下の視線が。


 そこへ向く。


 ご令嬢が。


 気づいた。


「昨日のお菓子です」


「残っていたのか」


「一つだけ。私が」


 ご令嬢は。


 少しだけ。


 頬を赤くする。


「あとでいただこうと思って。取っておきました」


「今日まで?」


「はい」


「乾く」


「少しだけ」


「味が落ちる」


「それでも。ゆっくりいただきたくて」


 殿下が。


 黙った。


 昨日。


 差し入れた菓子。


 ご令嬢は。


 最後の一つを。


 自分のために。


 取っておいた。


 殿下の口元が。


 ほんの少しだけ。


 緩む。


 けれど。


 すぐに。


 真剣な顔へ戻った。


「今。時間はあるか」


 ご令嬢が。


 研究会員たちを見る。


「測定は。先ほど終わりました」


「そうか」


「はい」


「なら」


 殿下は。


 そこで。


 止まった。


 研究会員たち。


 廊下の向こう。


 遠くから。


 聞き耳を立てる生徒たち。


 昨日。


 二人で話してよいかを。


 尋ねる。


 そう。


 決めた。


 けれど。


 それを。


 皆の前で聞けば。


 断りづらい。


 殿下は。


 ご令嬢を見る。


「少し」


 言いかける。


 そして。


 止まる。


 ご令嬢は。


 待っている。


「殿下?」


「……ここでは」


 殿下が。


 小さく言う。


「答えづらいかもしれない」


「何についてでしょう」


「それを。ここで言えば。同じだ」


 ご令嬢は。


 少し考えた。


 そして。


「では。廊下へ?」


「廊下も。人がいる」


 外で。


 何人かが。


 気まずそうに。


 動く音がした。


「中庭は?」


「見られる」


「校舎裏は?」


「知られている」


「では」


 ご令嬢が。


 困ったように。


 笑う。


「どこへ参りましょう」


「分からない」


 殿下は。


 正直に言った。


「私は。あなたと。二人で話してよいかを。聞きに来た」


 研究会の部屋が。


 一瞬で。


 静まり返った。


 廊下の外も。


 静かになる。


 ご令嬢の目が。


 少しだけ。


 大きくなった。


「二人で」


「ああ」


「今後?」


「そうだ」


「研究について?」


 殿下は。


 少しだけ。


 迷った。


「それ以外も」


 ご令嬢の頬が。


 ゆっくりと。


 赤くなる。


 研究会員の一人が。


 口元を。


 手で隠した。


 別の一人は。


 何も見ていないふりをして。


 記録用紙へ目を落とす。


 けれど。


 筆は。


 動いていない。


「私は」


 殿下は。


 続ける。


「あなたと。話したい」


「はい」


「だが。私が誘えば。あなたは断りづらい」


「……はい」


「だから」


 殿下は。


 一度。


 懐へ手を入れた。


 折った紙へ。


 触れる。


 けれど。


 出さない。


「断ってもよい」


 ご令嬢は。


 静かに。


 聞いている。


「今。答えなくてもよい」


「はい」


「理由も。言わなくてよい」


「はい」


「ただ」


 殿下の声が。


 少しだけ。


 低くなる。


「私は。断られたくはない」


 研究会員たちの間で。


 小さな。


 息を呑む音がした。


 ご令嬢は。


 殿下を見た。


 殿下も。


 逃げずに。


 見返している。


「断れと言っているのに」


 殿下が言う。


「断られたくない。矛盾している」


「はい」


「だが。どちらも。本当だ」


 長い。


 沈黙。


 ご令嬢の頬は。


 赤い。


 けれど。


 困っているだけではない。


 嬉しさ。


 驚き。


 戸惑い。


 慎重さ。


 いくつもの感情が。


 混ざっている。


 殿下は。


 それを。


 急かさずに。


 見ていた。


 朝。


 決めたとおり。


 今すぐ答えなくてもよい。


 それを。


 言った。


 だから。


 待たなければならない。


 殿下の指が。


 制服の袖口へ。


 何度も触れる。


 それでも。


 口は。


 開かなかった。


 ご令嬢が。


 ようやく。


 息を吸った。


「少し。考えてもよろしいでしょうか」


 殿下の表情が。


 一瞬。


 強張る。


「……ああ」


「今日中に?」


「期限はない」


「本当に?」


「ああ」


「一週間でも?」


 殿下が。


 少しだけ。


 私を見る。


 昼休みの会話を。


 思い出したのだろう。


「……待つ」


「一月でも?」


 研究会員の一人が。


 小さく。


 殿下を見る。


 ご令嬢も。


 少しだけ。


 笑っている。


 殿下は。


 真剣な顔のまま。


「待つ」


 と。


 答えた。


「ですが」


 ご令嬢が。


 続ける。


「一月は。お待たせしません」


 殿下の目が。


 わずかに。


 明るくなる。


「そうか」


「はい」


「では。三日?」


 殿下。


 と。


 私は。


 思わず呼びかけた。


 ご令嬢が。


 笑う。


「期限を決めないのでしょう?」


「そうだった」


「はい」


「待つ」


「ありがとうございます」


 殿下は。


 うなずいた。


 これで。


 質問は終わり。


 今日は。


 答えを聞かずに。


 帰る。


 そのはずだった。


 けれど。


 ご令嬢が。


「殿下」


 と。


 呼んだ。


「何だ」


「一つだけ。今。お答えしてもよろしいですか」


 殿下の表情が。


 また。


 少し緊張する。


「ああ」


「私は」


 ご令嬢は。


 胸元で。


 両手を重ねた。


「殿下と。お話しすることが。嫌ではありません」


 殿下の動きが。


 止まった。


「……嫌ではない」


「はい」


「それは」


 殿下は。


 言葉を探す。


「嬉しいという意味では」


 途中で。


 止まる。


 ご令嬢の顔を見る。


 すぐに。


 答えを求めすぎている。


 そう。


 気づいたのだろう。


「いや」


 殿下は。


 小さく。


 首を横へ振った。


「今は。そこまで聞かない」


 ご令嬢の目が。


 少しだけ。


 柔らかくなる。


「ありがとうございます」


「待つと言った」


「はい」


「だから。待つ」


「はい」


 殿下は。


 懐にある紙を。


 服の上から。


 そっと押さえた。


「では。今日は」


「殿下」


 ご令嬢が。


 また。


 呼び止める。


「何だ」


「その紙は」


 殿下が。


 固まる。


「なぜ。分かった」


「先ほどから。何度も。触れていらっしゃるので」


 研究会員たちの視線が。


 一斉に。


 殿下の胸元へ向く。


「噂では」


 ご令嬢が。


 少しだけ。


 困ったように笑う。


「未来の王太子妃へ求める条件が。五つ書かれていると」


「違う」


 殿下は。


 すぐに。


 強く否定した。


「条件ではない」


「では?」


「……質問だ」


「私への?」


「ああ」


「五つ?」


 殿下は。


 私を見る。


 私は。


 何も言わない。


 これは。


 殿下が。


 決めることだ。


「見たいか」


 殿下が。


 ご令嬢へ尋ねた。


 ご令嬢は。


 少し考える。


「今。見てもよいものですか」


「分からない」


「殿下」


「何だ」


「では。今は。見ません」


 殿下が。


 目を瞬く。


「なぜ」


「殿下が。見せてもよいと思われたときに。見せてください」


「……」


「その方が。嬉しいです」


 殿下は。


 長く。


 ご令嬢を見た。


「分かった」


「はい」


「いつか。見せる」


「楽しみにしております」


 研究会員たちが。


 また。


 小さく。


 笑った。


「なぜ。笑う」


 殿下が。


 周囲を見る。


「何でもありません」


「質問が五つ」


「未来の王太子妃の条件ではない」


「分かっています」


「その顔は。分かっていない」


「分かっています」


「信用できない」


「殿下」


 ご令嬢が。


 少し笑いながら呼ぶ。


「何だ」


「私も。質問を作ってよろしいでしょうか」


 殿下が。


 止まる。


「私へ?」


「はい」


「何を聞く」


「まだ。考えておりません」


「いくつ」


「殿下と同じ。五つにしましょうか」


「なぜだ」


「公平です」


 殿下が。


 何も言えなくなる。


 研究会員たちの中から。


 今度こそ。


 笑いが漏れた。


 ご令嬢も。


 口元を。


 少しだけ。


 緩めている。


 殿下は。


 困った顔で。


 私を見た。


「お前が。教えたのか」


「何をですか」


「公平の使い方だ」


「昨日。殿下から。ご令嬢へお話しになりました」


「そうだった」


「はい」


「……五つか」


「嫌ですか」


 ご令嬢が尋ねる。


「嫌ではない」


「嬉しいですか」


 殿下は。


 すぐに。


 答えなかった。


 けれど。


 今度は。


 逃げなかった。


「少し」


「少し?」


「……かなり」


 研究会の部屋が。


 また。


 静かになった。


 殿下の耳が。


 一気に。


 赤くなる。


 ご令嬢の頬も。


 同じように。


 染まった。


「そうですか」


 ご令嬢が。


 小さく言う。


「はい」


 殿下が。


 なぜか。


 敬語で答えた。


 研究会員の一人が。


 俯き。


 肩を震わせる。


「笑うな」


「笑っておりません」


「震えている」


「少し。咳が」


「嘘をつくな」


 殿下の声が。


 少しだけ。


 いつもの調子へ戻る。


 部屋の空気も。


 柔らかくなった。


「では」


 殿下は。


 今度こそ。


 姿勢を正した。


「邪魔をした」


「いいえ」


「答えは。急がなくてよい」


「はい」


「五つの質問も」


「はい」


「急がなくてよい」


「殿下」


「何だ」


「少し。楽しみにしていらっしゃいますか」


「……かなりと言った」


 ご令嬢が。


 目を見開く。


 殿下自身も。


 ご自分の答えに。


 驚いた顔をした。


 けれど。


 もう。


 否定しなかった。


「はい」


 ご令嬢は。


 とても。


 嬉しそうに。


 うなずいた。


「では。考えておきます」


 殿下は。


 扉へ向かった。


 今日は。


 間違えない。


 まっすぐ。


 出口へ。


 進む。


 私も。


 そのあとを追う。


「殿下」


 扉を閉める前。


 ご令嬢が。


 もう一度。


 呼んだ。


「何だ」


「その」


 ご令嬢は。


 机の上に残っていた。


 蜂蜜菓子を。


 少しだけ。


 見た。


「お菓子を。今。いただいてもよろしいでしょうか」


「私へ聞く必要はない」


「でも。殿下が。くださったものですから」


「研究会へだ」


「はい」


「だが」


 殿下は。


 少しだけ。


 考える。


「食べているところを。見てもよいか」


 今度は。


 ご令嬢が。


 固まった。


 研究会員たちも。


 廊下の外も。


 静まる。


 殿下は。


 慌てて。


 言い足そうとした。


 味の確認だ。


 購買の参考だ。


 乾いていないか。


 そのような。


 逃げ道を。


 きっと。


 探した。


 けれど。


 今日は。


 質問する日だ。


 相手の答えを。


 聞く日だ。


 殿下は。


 何も足さず。


 待った。


「はい」


 ご令嬢が。


 頬を赤くしながら。


 うなずく。


「どうぞ」


 研究会員の一人が。


 慌てて。


 椅子を引いた。


 殿下は。


 座らない。


 扉の近くに。


 立ったまま。


 ご令嬢が。


 蜂蜜菓子を。


 手に取るのを見る。


 丸い。


 小さな菓子。


 昨日。


 殿下も。


 同じものを食べた。


 ご令嬢は。


 一口。


 かじった。


 少し。


 乾いている。


 それでも。


 ゆっくりと。


 噛む。


 殿下は。


 真剣な顔で。


 その様子を見ていた。


「どうだ」


「少し。乾いています」


「だから言った」


「でも」


 ご令嬢は。


 小さく笑う。


「昨日より。おいしい気がします」


「なぜ」


「今日。殿下とお話ししたあとだからでしょうか」


 殿下が。


 完全に。


 固まった。


 私は。


 止めなかった。


 今の言葉は。


 ご令嬢のものだ。


 殿下が。


 受け取る番だった。


「それは」


 殿下は。


 何かを。


 否定しようとする。


 けれど。


 やめた。


「……そうか」


「はい」


「なら。よい」


「はい」


 ご令嬢は。


 残りの菓子も。


 大切そうに。


 食べた。


 殿下は。


 最後まで。


 見ていた。


          ◇


 研究棟を出ると。


 廊下にいた生徒たちが。


 一斉に。


 何も見ていないふりを始めた。


 一人は。


 窓を拭いている。


 布は持っていない。


 一人は。


 掲示板を読んでいる。


 逆さまから。


 一人は。


 友人へ。


 同じ話を。


 三度目も繰り返している。


「今日は。風が」


「さっき聞いた」


「風が」


「聞いた」


「強いね」


「弱いよ」


 殿下は。


 その者たちを。


 見た。


 けれど。


 帰れとは。


 言わなかった。


 もう。


 何を聞かれても。


 大きくは。


 変わらないと。


 少し。


 諦めたのかもしれない。


「マリア」


「はい」


「私は」


「はい」


「質問できた」


「できましたね」


「答えは。まだだ」


「一部は。いただきました」


「嫌ではない」


「はい」


「だが。嬉しいとは」


「まだ。聞きませんでした」


「ああ」


「よく止まれました」


「褒めるな」


「受け取る練習です」


「今日は。もう十分だ」


「では。明日」


「明日もあるのか」


「ご令嬢からの質問が。五つ」


 殿下の足が。


 止まった。


「いつ来る」


「まだ。決まっていません」


「どのような質問だ」


「ご令嬢も。まだ考えていないと」


「先に予想する」


「殿下」


「何だ」


「待つ練習です」


「難しい」


「はい」


「私は。何を聞かれる」


「分かりません」


「好きかと」


「聞かれるかもしれません」


「……」


「嫌ですか」


「答えられない」


「今は?」


「ああ」


「では。そのように」


「それで。よいのか」


「分からないことを。分からないと伝える」


「だが。逃げているように」


「なぜ分からないのかも。お話しすれば」


「なぜ」


「殿下ご自身が。まだ。お気持ちを確かめている途中だから」


「……途中」


「はい」


「いつ。終わる」


「分かりません」


「全て。分からないな」


「人の気持ちですから」


「お前は。それで平気なのか」


「少し。不安です」


「お前も?」


「はい」


「そうか」


 殿下は。


 また。


 歩き始めた。


 今度は。


 私が。


 ついてきているかを。


 確かめるように。


 少しだけ。


 歩調を緩める。


「マリア」


「はい」


「今日は。止めなかったな」


「はい」


「私が。食べているところを見たいと言ったときも」


「はい」


「止めるべきだったか」


「ご令嬢が。嫌なら断れるように。尋ねました」


「ああ」


「そして。ご令嬢は。よいと答えました」


「ああ」


「だから。止めませんでした」


「そうか」


「はい」


「私は」


 殿下は。


 夕方の光が差し込む。


 長い廊下を見た。


「してよいことを。聞いた」


「はい」


「こんなことは。今まで」


「なさらなかった?」


「ああ」


「王太子殿下ですから」


「命令することが多かった」


「はい」


「許可を求めることは。少ない」


「はい」


「だが」


 殿下は。


 少しだけ。


 振り返る。


 研究会の扉。


 もう。


 見えない。


 それでも。


 その先にいる。


 ご令嬢を。


 思い浮かべているようだった。


「彼女には。聞きたい」


「はい」


「何をしてよいか」


「はい」


「何をすれば。困るか」


「はい」


「何なら。嬉しいか」


「はい」


「……私は」


 殿下は。


 少し。


 困ったように。


 笑った。


「彼女を。喜ばせたいらしい」


 その言葉は。


 とても。


 静かだった。


 廊下のざわめきへ。


 消えてしまいそうなほど。


 小さかった。


 けれど。


 殿下は。


 確かに。


 口にした。


「はい」


 私は。


 それだけ答えた。


 褒めなかった。


 驚かなかった。


 殿下が。


 すぐに。


 取り消さなくて済むように。


 その言葉を。


 普通のものとして。


 受け取った。


 殿下も。


 否定しなかった。


「マリア」


「はい」


「今のは」


「誰にも言いません」


「分かっている」


「では?」


「覚えていてよい」


 殿下は。


 前を向いた。


「私が。忘れたときに」


「はい」


「思い出させろ」


「分かりました」


「ただし。人前では言うな」


「はい」


「彼女の前でも」


「はい」


「私が。言えるまでは」


「はい」


「……いつか」


 殿下の声が。


 少しだけ。


 遠くなる。


「彼女へ。自分で言う」


 私は。


 立ち止まりそうになった。


 けれど。


 止まらなかった。


 殿下の隣を。


 そのまま。


 歩いた。


 今。


 その言葉を。


 大きく扱えば。


 殿下は。


 恥ずかしさの中へ。


 戻してしまうかもしれない。


 だから。


 ただ。


「はい」


 と。


 答えた。


          ◇


 その日の夕方。


 学園には。


 また。


 新しい噂が広がった。


 王太子殿下は。


 未来の王太子妃へ。


 五つの条件を示した。


 条件の一つは。


 二人きりで。


 毎日。


 話すこと。


 ご令嬢は。


 返事を保留した。


 殿下は。


 一月でも待つと。


 誓った。


 そして。


 ご令嬢が。


 殿下の前で。


 菓子を食べた。


 殿下は。


 その姿を。


 愛おしそうに見守っていた。


 もちろん。


 事実とは。


 ずいぶん違う。


 けれど。


 全てが。


 嘘でもなかった。


 条件ではなく。


 質問だった。


 毎日ではない。


 二人で話してよいかを。


 聞いただけ。


 返事は。


 保留。


 一月でも待つと。


 殿下は。


 確かに言った。


 そして。


 ご令嬢が。


 菓子を食べるところを。


 見ていた。


 愛おしそうに。


 という部分は。


 私は。


 否定しきれなかった。


 王太子殿下。


 あなたは。


 今日。


 初めて。


 してよいことを。


 本人へ尋ねました。


 王太子として。


 許可を出す側にいることの多いあなたが。


 一人のご令嬢へ。


 自分が近づいてもよいかと。


 聞きました。


 それは。


 きっと。


 小さなことではありません。


 誰かを。


 大切にすることは。


 自分のしたいことを。


 我慢することだけではない。


 相手のために。


 離れることだけでもない。


 近づいてよいかを。


 尋ねること。


 待つこと。


 答えを。


 相手へ返すこと。


 そして。


 断られるかもしれない怖さを。


 抱えたまま。


 自分の気持ちを。


 少しだけ。


 差し出すこと。


 今日。


 殿下は。


 ご令嬢を。


 喜ばせたいと。


 おっしゃいました。


 まだ。


 ご本人へは。


 伝えられない。


 けれど。


 その言葉を。


 自分の中で。


 認めることができた。


 だから。


 きっと。


 次は。


 ご令嬢からの質問に。


 答える番です。


 殿下が。


 何を望み。


 何を怖れ。


 何を。


 ご令嬢と一緒にしたいのか。


 今度は。


 殿下ご自身が。


 聞かれる。


 そして。


 答えなければならない。


 口から出す前に。


 止めるだけではなく。


 本当に言いたいことを。


 選びながら。

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