第72話 王太子殿下、特別ではないふりを公平と呼ぶ
誰かを。
特別に思うことと。
特別に扱うことは。
同じではありません。
心の中で。
その人だけを目で追っていても。
人前では。
他の誰かと同じように接することができる。
その人のために。
何かをしたいと思っても。
立場や。
周囲への影響を考えて。
あえて。
何もしないこともある。
王太子殿下にとって。
特別という言葉は。
甘いものではありませんでした。
むしろ。
怖いものだったのだと思います。
一人を選べば。
選ばれなかった多くの人がいる。
一人へ目を向ければ。
その視線に意味を見つける人がいる。
一人へ贈り物をすれば。
そこに。
未来の約束を読み取る人がいる。
だから。
殿下は。
好きなご令嬢を。
特別に思っているかもしれないと。
ようやく認めた翌朝。
その気持ちを。
誰よりも必死に。
公平という言葉の中へ。
押し込もうとなさいました。
◇
「本日は、研究会への差し入れを禁止する」
朝。
校舎裏のベンチへ呼び出された私へ。
王太子殿下は。
挨拶よりも先に。
そうおっしゃった。
朝露の残る芝生。
少し湿った木の匂い。
空は。
雲の薄い。
明るい青だった。
朝の鐘までは。
まだ時間がある。
校舎の中から。
窓を開ける音。
掃除当番の話し声。
廊下を走り。
教師に注意される男子生徒の声が。
ところどころ。
聞こえてくる。
いつもの朝。
いつものベンチ。
けれど。
殿下の表情は。
いつも以上に。
真剣だった。
「禁止なさるのですか」
「ああ」
「どなたに?」
「私に決まっている」
「殿下が。殿下ご自身へ?」
「そうだ」
「それは。命令として成立するのでしょうか」
「王太子命令だ」
「ご自分へ?」
「何か問題があるか」
「少しだけ」
「どこだ」
「守られなかった場合。どなたが罰するのですか」
殿下は。
黙った。
私は。
殿下の隣へ座る。
間には。
昨日よりも。
少しだけ広い距離があった。
殿下が。
意図的に空けたのか。
偶然なのか。
分からなかった。
「罰する必要はない」
「では。お願いでしょうか」
「命令だ」
「でも。罰はない」
「お前は。細かい」
「殿下が。真剣におっしゃるので」
「真剣だ」
「なぜ。差し入れを禁止するのですか」
尋ねると。
殿下は。
すぐには答えなかった。
膝の上には。
一冊の本がある。
けれど。
昨日までと違い。
開いていない。
読むふりをする余裕も。
今日は。
ないらしい。
「昨日」
殿下が言う。
「私は。特別ではないと言うのは違うと。言った」
「はい」
「言ったな」
「はい」
「なぜ。お前が二度答える」
「確認されたので」
「……そうだった」
殿下は。
小さく息を吐いた。
「そのことが。すでに広がっている」
「早いですね」
「感心するな」
「感心はしていません」
「朝。ここへ来るまでに。三人から見られた」
「三人だけですか」
「何だ。その言い方は」
「もっと多いかと」
「直接。見られたのが三人だ。陰から見ていた者は。分からない」
「では。もっと多いですね」
「嬉しそうに言うな」
「事実です」
殿下は。
眉間へ皺を寄せた。
「昨夜。王宮へ戻る馬車の中で。侍従から報告を受けた」
「何をですか」
「学園内で。私が。未来の王太子妃候補を認めたという話が。広がっていると」
「予想どおりですね」
「お前は。なぜ。平然としている」
「昨日。その可能性をお伝えしました」
「予想したなら。止めろ」
「噂をですか」
「ああ」
「無理です」
「即答するな」
「できないことを。できるとは言えません」
殿下は。
ベンチの背へ。
体を預けた。
「だから。差し入れは禁止だ」
「なぜ。そこへ?」
「特別扱いだと思われる」
「研究会全体への差し入れでした」
「だが。誰のために持っていったかを。皆が勝手に決めた」
「殿下のご令嬢への視線が。分かりやすかったのでは?」
「見ていない」
「見ていました」
「研究会全体を見ていた」
「ご令嬢を。最も長く?」
「時間を計っていたのか」
「いいえ。感覚です」
「信用できない」
「皆さんも。そう感じたから。噂になったのでは」
「それなら。なおさらだ」
殿下は。
少し身を起こした。
「これからは。彼女へ。特別なことはしない」
その言葉に。
私は。
すぐには返事をしなかった。
殿下は。
前を見ている。
芝生の向こう。
朝日に照らされる。
校舎の壁。
昨日までなら。
特別ではない。
好きではない。
そのように。
ご令嬢への気持ちそのものを。
否定していた。
けれど。
今日は。
特別なことをしない。
と。
おっしゃった。
思っていないのではなく。
思っていても。
行動へ出さない。
それは。
前より。
ずっと。
正直な言葉だった。
「それは」
私は。
ゆっくりと。
言葉を選ぶ。
「ご令嬢へ。何もしないということですか」
「そうだ」
「話しかけない?」
「必要がなければ」
「研究についても?」
「王太子として。聞く必要があれば」
「体調を心配しても?」
「口にはしない」
「差し入れも?」
「しない」
「お菓子を。お二人で召し上がる未来は?」
殿下の肩が。
わずかに動いた。
「今。その話を出す必要があるか」
「昨日。最初は、とおっしゃいましたので」
「忘れろ」
「覚えていてよいと。最後には」
「あれは。特別ではないという話だ」
「はい」
「菓子の話は。別だ」
「では。忘れるようにという命令は。どこまでですか」
「全部だ」
「罰は?」
「マリア」
「はい」
「お前は。今日。いつも以上に面倒だ」
「殿下が。いつも以上に矛盾なさっているからです」
「矛盾していない」
「特別ではないと言うのは違う。でも。特別なことはしない」
「そのとおりだ」
「ご令嬢が好きかもしれない。でも。好きな方へ何もしない」
「好きとは言っていない」
「かもしれない、です」
「……」
「未来の可能性は閉じない。でも。近づかない」
「それが。公平だ」
殿下は。
はっきりと。
言った。
「私は。王太子だ」
「はい」
「一人の令嬢だけを。特別に扱えば。他の者へ影響が出る」
「はい」
「彼女も。注目される」
「はい」
「昨日のような噂が広がれば。研究へも支障が出る」
「はい」
「なら。私が距離を取ることが。最もよい」
殿下の言葉は。
整っていた。
間違ってはいない。
王太子が。
一人の令嬢へ。
目に見える形で。
特別な行動を取る。
それは。
本人たちだけの問題ではない。
貴族社会。
王宮。
婚約候補。
家同士の関係。
学園内の立場。
いくつものものが。
動く。
殿下は。
以前より。
それを。
考えられるようになっている。
けれど。
その結論が。
また。
ご自分が引くこと。
何もしないこと。
なのだとしたら。
「殿下」
「何だ」
「それは。本当に。公平でしょうか」
「何?」
「殿下が。他の方へなさっていることも。ご令嬢へなさらないのですか」
「どういう意味だ」
「例えば。困っている方へ声をかける」
「それは。誰にでもする」
「研究へ興味を持つ」
「必要なら聞く」
「努力を褒める」
「……」
「殿下」
「それは。誰にでも」
殿下は。
言いかけた。
そして。
止まった。
「誰にでも。なさいますか」
私が尋ねると。
殿下は。
黙る。
先日。
下級生の薬草画を。
よく調べていると褒めた。
研究会員たちの解説も。
見事だったと認めた。
けれど。
殿下は。
誰にでも。
同じように。
声をかける方ではない。
誰かを褒めること自体。
練習が必要だった。
「これからは。する」
殿下が言った。
「皆へ?」
「ああ」
「公平に?」
「ああ」
「では。学園中の努力している方を。褒めて回るのですか」
「必要なら」
「何人くらい?」
「分からない」
「毎日?」
「……必要なら」
「差し入れも。すべての研究会へ?」
「それは」
「公平なのでしょう?」
殿下は。
深く。
息を吐いた。
「お前は。私をからかっているのか」
「いいえ」
「では。何が言いたい」
「特別扱いをしないことと。ご令嬢だけを避けることは。違うと思います」
「避けてはいない」
「話しかけない。心配を口にしない。差し入れもしない」
「それが。距離だ」
「他の方より。遠くなっています」
殿下が。
私を見る。
「特別に見られないために。特別に避ける」
「……」
「それは。公平でしょうか」
朝の風が。
ベンチの周囲を通った。
木々の葉が。
さざめく。
殿下は。
何も言わない。
膝の上にある本の表紙を。
指先で。
ゆっくりとなぞっている。
「では」
しばらくして。
殿下が言った。
「どうすればよい」
「私に聞くのですね」
「相談役だろう」
「恋愛相談役です」
「今日は。恋愛の話だ」
私は。
少しだけ。
目を見開いた。
殿下も。
言ったあと。
気づいた。
耳が。
すぐに。
赤くなる。
「今」
「聞くな」
「恋愛の話だと」
「一般論だ」
「殿下とご令嬢のお話ですよね」
「学園における。王太子の対人関係だ」
「恋愛と。おっしゃいました」
「忘れろ」
「命令ですか」
「そうだ」
「罰は?」
「……お前は。本当に」
殿下は。
額へ手を当てた。
「今日は。なぜ。そこへ戻る」
「殿下が。ご自分への命令を。何度もお使いになるので」
「もうよい」
「では。相談へ戻ります」
「最初からそうしろ」
私は。
少し考えた。
「殿下は。ご令嬢へ。公平でありたいのですか」
「ああ」
「それとも。ご令嬢を守りたいのですか」
「両方だ」
「ご自身も。守りたい?」
殿下の目が。
わずかに。
揺れた。
「私は」
「噂を怖いと。思っていらっしゃるのでは」
「怖くはない」
「ご令嬢が傷つくことではなく」
「それは。怖い」
殿下は。
言った。
以前なら。
怖くないと。
すべてを否定しただろう。
けれど。
今日は。
ご令嬢が傷つくことは。
怖い。
と。
すぐに認めた。
「では。殿下ご自身が。周囲から何か言われることは?」
「どうでもよい」
「本当に?」
「慣れている」
「王太子として?」
「ああ」
「殿下ご自身の気持ちを。知られることは?」
殿下は。
口を閉じた。
長い沈黙だった。
私は。
急かさなかった。
殿下の指が。
本の表紙で止まる。
「……分からない」
やがて。
殿下が言った。
「何がですか」
「私は。まだ。自分が。どこまで彼女を」
殿下は。
そこで。
言葉を止めた。
でも。
逃げなかった。
「特別に思っているのか。分からない」
「はい」
「なのに。周囲は。もう。未来の王太子妃だと言う」
「はい」
「私より。先に。答えを決める」
「それが。嫌なのですね」
「ああ」
「ご令嬢にも。決めつけられることが」
「嫌だ」
「殿下」
「何だ」
「それは。ご令嬢を避けることで。解決しますか」
殿下は。
答えなかった。
「周囲が。勝手に答えを決めるから。殿下とご令嬢は。自分たちで話さない」
「……」
「そうすれば。噂だけが残ります」
「昨日。話した」
「はい」
「十分ではないのか」
「殿下は。何度話せば十分だと思いますか」
「それは」
「ご令嬢の研究は。昨日だけで終わりません」
「当然だ」
「殿下のお気持ちも。昨日だけで決まりません」
「……ああ」
「なら。これからも。話す必要があるのでは?」
殿下は。
朝の光の中で。
長く。
黙っていた。
「特別扱いをしない」
殿下が。
ようやく言う。
「はい」
「だが。避けない」
「はい」
「研究の話は。必要なら聞く」
「殿下が。聞きたいときも」
「……それも。必要に含める」
「心配したら?」
「言う」
「差し入れは?」
殿下は。
険しい顔になった。
「それは。しばらく禁止だ」
「なぜですか」
「菓子は。噂になる」
「ご令嬢と。お二人で召し上がる未来は?」
「先の話だ!」
殿下の声が。
朝の庭へ響いた。
校舎の窓から。
何人もの生徒が。
顔を出した。
殿下は。
それに気づき。
すぐに。
口を閉じる。
「聞かれましたね」
「お前のせいだ」
「大きな声を出されたのは。殿下です」
「質問が悪い」
「昨日。殿下がおっしゃったことです」
「覚えすぎだ」
「相談役ですから」
「便利な言葉を」
殿下は。
立ち上がった。
「授業へ行く」
「はい」
「今日。彼女へは。話しかけない」
「避けています」
「朝の相談で。疲れた」
「では。疲れたから?」
「そうだ」
「正直で。よいと思います」
「褒めるな」
「受け取る練習です」
「朝から多すぎる」
殿下は。
歩き出した。
私は。
その横へ並ぶ。
すると。
殿下が。
少しだけ。
歩調を緩めた。
私が。
ついてきやすいように。
けれど。
そのことを。
指摘すれば。
また。
公平だからだ。
歩幅が違うからだ。
そう。
おっしゃるだろう。
私は。
何も言わなかった。
◇
殿下は。
朝の相談で。
今日はご令嬢へ話しかけないと。
おっしゃった。
けれど。
その決意は。
一時限目が始まる前に。
試されることになった。
教室棟へ続く。
中央回廊。
登校してきた生徒たちが。
次々に行き交っている。
教師。
侍従。
書類を運ぶ事務員。
朝の連絡を伝える委員。
多くの声が。
高い天井へ響き。
磨かれた床へ。
靴音が重なる。
その中。
前方から。
研究会のご令嬢が。
歩いてきた。
お一人ではない。
昨日。
同じ部屋にいた。
女子研究会員と。
二人だった。
ご令嬢は。
腕に。
薄い木箱を抱えている。
中には。
いくつもの。
小さな鉢。
昨日。
研究会の窓辺にあった。
芽の出た植物だろう。
殿下は。
彼女に気づいた瞬間。
足を止めた。
私も。
止まる。
ご令嬢も。
殿下へ気づいた。
表情が。
一瞬。
明るくなる。
けれど。
すぐに。
周囲を見た。
朝の回廊。
多くの生徒。
噂を知っている者たち。
視線が。
すでに。
集まり始めている。
ご令嬢の顔へ。
わずかな緊張が浮かぶ。
それでも。
避けずに。
こちらへ進んできた。
「おはようございます。王太子殿下」
ご令嬢が。
立ち止まり。
丁寧に頭を下げる。
隣の女子生徒も。
それに続く。
「おはようございます」
殿下は。
答えた。
それだけ。
朝。
今日は話しかけないと。
決めたから。
殿下は。
そのまま。
通り過ぎようとした。
ご令嬢の表情が。
ほんの少しだけ。
曇る。
私には。
見えた。
殿下にも。
見えたはずだ。
けれど。
殿下は。
一歩。
進んだ。
そのとき。
ご令嬢が抱えていた木箱の中で。
一つの鉢が。
傾いた。
「あ」
土が。
箱の中へこぼれる。
ご令嬢は。
慌てて。
鉢を押さえようとする。
けれど。
両手が。
箱で塞がっている。
隣の女子生徒も。
書類の束を抱えていた。
「待て」
殿下は。
すぐに戻った。
木箱の端へ。
手を添える。
「私が持つ」
「殿下」
「傾いている」
「ですが」
「土が落ちる」
「廊下を汚すという意味ではない」
ご令嬢の顔が。
一瞬。
強張った。
殿下は。
ご自分の言葉に。
気づく。
「いや」
言い直す。
「植物が。傷む」
ご令嬢の目が。
少しだけ。
柔らかくなる。
「ありがとうございます」
「箱を渡せ」
「王太子殿下へ。お持ちいただくわけには」
「なら。鉢だけ」
殿下は。
傾いた鉢を。
箱の中から取り出した。
小さな。
青い芽。
二枚の葉。
根元の土が。
少し崩れている。
殿下は。
片手で鉢を持ち。
もう片方の手で。
落ちそうな土を押さえた。
回廊の中で。
ざわめきが起きた。
王太子殿下が。
ご令嬢の鉢を。
ご自身で持っている。
その光景は。
噂を知る者たちにとって。
十分すぎるほど。
意味を持って見えた。
殿下も。
気づいた。
周囲の視線。
ささやき。
驚いた顔。
朝。
決めたばかりだ。
特別扱いをしない。
噂を増やさない。
けれど。
鉢は。
殿下の手の中にある。
「教室まで。どこだ」
殿下が尋ねる。
「研究棟です」
ご令嬢が答える。
「今から?」
「朝の光量を測るため。窓辺へ移します」
「授業は」
「最初の鐘までに戻ります」
殿下は。
回廊の時計を見る。
「間に合わない」
「急げば」
「鉢を持って。走るな」
「ですが」
「私が運ぶ」
周囲のざわめきが。
さらに。
大きくなる。
私は。
殿下を見る。
殿下も。
私を見る。
朝の相談。
特別扱いをしない。
避けない。
困っていれば助ける。
他の者へもすることなら。
ご令嬢へもする。
殿下は。
迷っている。
助ければ。
噂になる。
助けなければ。
ご令嬢だけを避ける。
「殿下」
私は。
小さく言った。
「どうなさいますか」
「……持つ」
殿下は。
鉢を見た。
「これは。誰に対してもする」
「はい」
「困っている者がいれば」
「はい」
「王太子として」
「はい」
「だから。特別ではない」
最後の一言は。
ご令嬢にも。
聞こえた。
表情が。
わずかに。
止まる。
殿下は。
気づいていない。
ご自分へ言い聞かせることに。
必死だった。
「殿下」
私は。
もう一度。
呼んだ。
殿下が。
こちらを見る。
私は。
ご令嬢へ。
視線を向ける。
殿下も。
見る。
ご令嬢は。
微笑んでいた。
けれど。
昨日までより。
少しだけ。
距離のある笑顔だった。
「そうですね」
ご令嬢が言う。
「殿下は。どなたへも。お優しい方ですから」
殿下の眉が。
動く。
ご令嬢は。
木箱を抱え直した。
「鉢を。ありがとうございます」
「ああ」
「ここからは。私が」
「研究棟まで。運ぶと言った」
「ですが。特別ではないのでしたら」
ご令嬢の声は。
穏やかだった。
責めてはいない。
けれど。
殿下の手の中から。
自分の鉢を。
戻そうとしている。
「他の方へも。なさるのでしょう?」
「ああ」
「でしたら。私だけ。お時間をいただくわけには」
「今。困っているのは。あなた達だ」
「はい」
「だから」
「殿下」
ご令嬢は。
少しだけ。
悲しそうに笑った。
「無理に。公平であることを。説明なさらなくても大丈夫です」
殿下が。
言葉を失う。
「私も。誤解はいたしません」
「違う」
殿下が。
すぐに言った。
ご令嬢の指が。
鉢へ伸びる。
「何が。違うのでしょう」
「私は」
殿下は。
周囲を見た。
多くの生徒。
教師。
侍従。
警護。
全員が。
こちらを見ている。
昨日。
ご令嬢と。
研究会員たちの前で話したときより。
ずっと。
多い。
「私は。ただ」
殿下の声が。
小さくなる。
「公平でなければならない」
「はい」
「一人だけを。特別に扱えば」
「はい」
「あなたが。困る」
ご令嬢は。
黙った。
「昨日のように。噂になる」
「はい」
「だから。私は」
「殿下」
ご令嬢が。
静かに。
言葉を止めた。
「私は。今。困っています」
殿下の顔が。
強張る。
「何が」
「殿下が。私を助けてくださったことではありません」
「では」
「その理由を。何度も。特別ではないと。おっしゃることです」
回廊が。
静かになった。
先ほどまで。
あちらこちらで。
起きていた。
ささやきも。
止まる。
ご令嬢は。
殿下を見ていた。
恥ずかしさで。
頬は赤い。
それでも。
目を逸らさない。
「昨日。殿下は」
ご令嬢が続ける。
「私を。特別ではないと言うのは違うと。おっしゃいました」
「ああ」
「私は。嬉しかったです」
殿下の指が。
鉢の縁を。
少しだけ。
強く持つ。
「でも。今日」
ご令嬢の声が。
わずかに。
震えた。
「殿下は。特別ではないと。何度も。ご自分へ言い聞かせていらっしゃるように見えます」
「それは」
「昨日のお言葉を。後悔なさっていますか」
「違う」
今度の否定は。
早かった。
強かった。
回廊へ。
殿下の声が響く。
「後悔していない」
ご令嬢の目が。
少しだけ。
揺れた。
「では。なぜ」
「私は」
殿下は。
鉢を持ったまま。
立ち尽くしていた。
王太子の制服。
胸元の徽章。
周囲の視線。
ご自分の立場。
ご令嬢の気持ち。
噂。
公平。
特別。
いくつものものを。
一度に。
抱えている。
「私は。あなたを」
殿下が。
言う。
「特別に思っているかもしれない」
ざわめきが。
起きかけた。
けれど。
誰も。
声を出さなかった。
「だが。それを理由に。何でもすることはできない」
「はい」
「王太子だから」
「はい」
「あなたが。困るから」
「はい」
「私も。まだ。分からないから」
ご令嬢は。
静かに。
聞いている。
「だから。特別ではないように。振る舞おうとした」
殿下は。
苦しそうに。
言った。
「そうすれば。誰も困らないと」
「殿下は。困っていませんか」
ご令嬢が尋ねる。
殿下が。
黙る。
「私は」
ご令嬢は。
木箱を。
少しだけ。
持ち直した。
「殿下が。私だけを助けてくださらなくても。怒りません」
「……ああ」
「私へだけ。贈り物をくださらなくても」
「ああ」
「私へだけ。特別な言葉をくださらなくても」
「ああ」
「でも」
ご令嬢の表情が。
少しだけ。
曇る。
「本当は。私を少し特別に見てくださっているのに。それを。なかったことのように言われるのは」
一度。
言葉が止まる。
ご令嬢は。
息を整える。
「少し。寂しいです」
殿下の目が。
見開かれた。
その言葉は。
噂より。
ずっと静かだった。
周囲の視線より。
ずっと小さかった。
けれど。
殿下へは。
何よりも。
深く届いた。
「寂しい」
殿下が。
繰り返す。
「はい」
「私が。特別ではないと言うと」
「はい」
「なぜ」
ご令嬢は。
少しだけ。
困ったように笑った。
「昨日。嬉しいと思ってしまったからです」
殿下は。
何も言えなかった。
「殿下に。見ていていただいたこと」
「……ああ」
「研究を。素晴らしいと言っていただいたこと」
「ああ」
「心配していたと。言っていただいたこと」
「ああ」
「私が。特別ではないと言えないと。おっしゃったこと」
「ああ」
「すべて。嬉しかったのです」
朝の回廊。
多くの人々。
誰も。
動かない。
殿下は。
ご令嬢を見ていた。
ご令嬢も。
殿下を見ている。
鉢の。
小さな葉が。
二人の間で。
微かに揺れている。
「私は」
殿下が。
ゆっくりと言う。
「あなたを。特別扱いしないようにした」
「はい」
「だが。特別ではないふりをした」
「はい」
「それは。違ったか」
ご令嬢は。
すぐには答えなかった。
殿下の問いを。
大切に受け取るように。
一度。
視線を落とす。
「殿下が」
やがて。
言う。
「他の方にもなさることを。私にもしてくださる。それでよいと思います」
「ああ」
「でも。殿下が。私へしたいと思ってくださったことまで。公平ではないからと。消さないでください」
「……」
「何でも。してほしいという意味ではありません」
「分かっている」
「私も。殿下のお立場を。考えたいです」
殿下の表情が。
わずかに変わる。
「あなたが?」
「はい」
「私の立場を」
「はい」
「なぜ」
「殿下が。私のことを考えてくださるからです」
殿下は。
また。
黙った。
ご令嬢は。
小さく笑う。
「公平というものを。殿下お一人で決めないでください」
その言葉に。
私は。
昨日。
記録局の男性が。
殿下へ伝えた言葉を。
思い出した。
ご自身が引くことだけが。
責任ではない。
誰も譲らずに済む仕組みを作ることも。
殿下のお役目だ。
殿下は。
また。
ご自分だけで。
答えを決めようとしていた。
特別に思う。
だから。
何もしない。
ご令嬢を守る。
だから。
遠ざかる。
公平でいる。
だから。
特別ではないふりをする。
けれど。
ご令嬢は。
そこへ。
自分も加えてほしいと。
言った。
「分かった」
殿下が。
小さく言った。
「本当に?」
ご令嬢が尋ねる。
「すぐには。難しい」
「はい」
「私は。考えすぎる」
「はい」
「そのあと。間違える」
「はい」
「なぜ。そこは。すぐ認める」
ご令嬢が。
少し笑った。
「マリア様から。何度も伺っていますから」
殿下が。
ゆっくり。
私を見る。
「お前は。何を話した」
「殿下のご相談内容は。話していません」
「では。何を」
「言葉を間違えやすい方だと」
「それだけか」
「かなり」
「お前まで。かなりと言うな」
回廊の空気が。
少しだけ。
緩んだ。
周囲から。
小さな笑い声が起きる。
殿下は。
それに気づき。
顔を。
少し赤くした。
「殿下」
ご令嬢が。
木箱を抱えたまま。
改めて呼ぶ。
「何だ」
「鉢を。お返しいただけますか」
「研究棟まで運ぶ」
「ですが」
「これは。特別扱いではない」
ご令嬢の表情が。
また。
少しだけ曇りかける。
殿下は。
すぐに。
続けた。
「……特別ではないから。ではない」
殿下の声が。
回廊へ。
静かに響く。
「今。私が。運びたいと思った」
ご令嬢の目が。
少しだけ。
大きくなる。
「だが」
殿下は。
周囲を見る。
「私が持てば。噂になる」
「はい」
「それで。あなたが困るかもしれない」
「はい」
「だから。聞く」
殿下は。
ご令嬢へ。
鉢を持ったまま尋ねた。
「私が。研究棟まで運んでもよいか」
ご令嬢は。
答えなかった。
一瞬。
驚き。
次に。
嬉しさ。
それから。
周囲へ対する。
少しの不安。
いくつもの感情が。
お顔に浮かぶ。
殿下は。
それを。
急かさずに待った。
「はい」
やがて。
ご令嬢は。
うなずいた。
「お願いいたします」
「本当に?」
「はい」
「噂になっても?」
「昨日よりは。増えないと思います」
周囲の生徒たちから。
抑えきれない。
笑いが漏れた。
殿下は。
眉間へ皺を寄せる。
「増える」
「では。少しだけ」
「少しで済むか」
「分かりません」
「なぜ。笑う」
「嬉しいからです」
ご令嬢は。
はっきりと言った。
殿下の動きが。
止まる。
「殿下が。私へ聞いてくださったことが」
「……そうか」
「はい」
「なら。運ぶ」
「お願いいたします」
殿下は。
小さな鉢を持ったまま。
ご令嬢の隣へ並んだ。
女子研究会員は。
木箱を抱えるご令嬢の反対側。
私は。
殿下の少し後ろ。
警護と侍従も。
さらに後方。
その一行を。
朝の回廊にいた生徒たちが。
見送る。
ざわめきは。
もちろん。
起きた。
「殿下が鉢を」
「研究棟まで?」
「やっぱり」
「でも。今。聞いていらした」
「何を?」
「運んでよいかって」
「殿下が?」
「許可を?」
「王太子殿下が?」
驚きは。
鉢を運ぶことより。
殿下が。
ご令嬢へ。
意思を確認したことへ。
向けられていた。
殿下にも。
聞こえている。
けれど。
今日は。
振り返らなかった。
◇
研究棟までの道は。
それほど長くない。
中央回廊を抜け。
中庭沿いの渡り廊下を進み。
階段を一つ上る。
いつもなら。
数分で着く。
けれど。
今日は。
少しだけ。
ゆっくりだった。
ご令嬢が。
鉢の入った木箱を。
揺らさないように歩いている。
殿下も。
手にした鉢を。
大切そうに持っている。
「その芽は」
殿下が。
言う。
「昨日。窓辺にあったものか」
「はい」
「最も。成長が遅かった」
「覚えていらしたのですか」
「ああ」
「六つのうち。これだけ。葉が小さくて」
「光量が足りなかったのか」
「最初は。そう思いました」
「違った?」
「根を調べたところ。水が多すぎたようです」
「土の乾きが。遅かったのか」
「はい。同じ量を与えても。鉢の位置によって。乾き方が違いました」
「窓際の端か」
「どうして」
「昨日。そこだけ。机の影がかかっていた」
ご令嬢は。
殿下を見る。
「そこまで。ご覧になっていたのですね」
殿下の足が。
少しだけ。
遅くなる。
「研究を見ていた」
「はい」
「あなたを。見ていたわけでは」
殿下は。
そこまで。
言いかけた。
私が。
後ろから。
殿下を見る。
殿下は。
私の視線に。
気づいたのだろう。
ご令嬢の顔を見る。
ご令嬢は。
何も言わず。
待っている。
「……研究も」
殿下が。
言い直す。
「あなたも。見ていた」
ご令嬢の歩みが。
一瞬。
止まりかけた。
「はい」
「ただ。研究の方が」
「はい」
「見ている時間は。長かった」
女子研究会員が。
口元を。
隠すように。
少しだけ顔を逸らした。
私は。
笑わなかった。
殿下は。
公平であろうとして。
また。
研究の方が長い。
と。
付け足した。
けれど。
ご令嬢は。
傷ついた顔をしなかった。
むしろ。
少し楽しそうに。
「では。これから。私も。研究と同じくらい見ていただけるように。努力します」
と。
おっしゃった。
殿下が。
足を止めた。
「何を。努力する」
「さあ」
ご令嬢は。
笑う。
「まだ。考えておりません」
「無理にする必要はない」
「はい」
「研究のように。条件を変えて。試すことでもない」
「分かっております」
「私は。実験対象ではない」
「殿下」
「何だ」
「少し。冗談です」
「分かりづらい」
「申し訳ございません」
ご令嬢は。
そう言いながら。
まだ。
笑っている。
殿下は。
困った顔をしていた。
けれど。
怒ってはいない。
「お前に似てきた」
殿下が。
後ろの私へ言った。
「私のせいですか」
「そうだ」
「ご令嬢が。殿下へお話ししやすくなったのでは?」
「からかいやすくなっただけだ」
「どちらも。距離が近づいた結果です」
「近づいていない」
殿下は。
反射的に言った。
ご令嬢の表情が。
少しだけ。
止まる。
殿下は。
すぐに気づく。
「……近づいていないというのが」
「違うのですか」
ご令嬢が。
先に尋ねた。
殿下は。
小さく。
息を吐く。
「昨日よりは。近い」
「はい」
「今朝よりも」
「はい」
「ただ。物理的な距離ではない」
「並んで歩いておりますが」
「そういう意味ではない」
「分かっています」
ご令嬢が。
また。
笑った。
殿下は。
少しだけ。
不満そうな顔になる。
けれど。
歩みは。
ご令嬢の速度に。
合わせられていた。
◇
研究棟の入口へ着くと。
すでに。
数人の研究会員が。
待っていた。
窓から。
殿下たちが近づく姿を。
見ていたのだろう。
皆。
驚きと。
期待と。
少しの緊張を。
顔に浮かべている。
「おはようございます、王太子殿下」
「ああ」
「そちらは」
「傾いた」
殿下は。
手にしていた鉢を。
少しだけ。
持ち上げる。
「私が。運んだ」
研究会員たちの視線が。
ご令嬢へ向く。
ご令嬢は。
頬を赤くしながら。
うなずいた。
「殿下に。お願いしました」
研究会員たちの顔が。
さらに。
明るくなる。
殿下は。
それへ。
気づいた。
「困っていたからだ」
すぐに。
公平な理由を。
口にしようとする。
けれど。
途中で。
止まった。
ご令嬢を見る。
「……そして」
殿下は。
ゆっくり続ける。
「私が。運びたいと思ったからだ」
研究棟の入口に。
沈黙が落ちた。
ご令嬢の頬が。
さらに。
赤くなる。
研究会員たちは。
誰一人。
声を出さない。
けれど。
目が。
大きく開かれている。
殿下は。
ご自分の言葉が。
思っていた以上に。
大きく受け取られたことへ。
気づいた。
「鉢をだ」
慌てて。
付け足す。
「鉢を運びたいと思った」
私は。
目を閉じた。
なぜ。
正しい言葉のあとに。
必ず。
説明を足すのだろう。
ご令嬢は。
けれど。
少しだけ。
笑った。
「はい。鉢を」
「ああ」
「ありがとうございます」
「いや」
殿下は。
鉢を。
研究会員へ渡そうとした。
けれど。
ご令嬢が。
両手を伸ばす。
「私が。受け取ります」
殿下は。
彼女の手へ。
鉢を渡した。
指先が。
一瞬。
触れた。
殿下の手が。
すぐに。
離れる。
ご令嬢も。
鉢を。
胸元へ抱えた。
周囲の研究会員たちが。
その一瞬を。
見逃さなかった。
けれど。
誰も。
からかわなかった。
朝の光が。
研究棟の窓から。
斜めに差し込む。
ご令嬢の腕の中で。
小さな葉が。
淡く照らされていた。
「殿下」
ご令嬢が。
顔を上げる。
「何だ」
「今朝は。ありがとうございました」
「ああ」
「それから」
少しだけ。
ためらう。
「公平について。お話ししてくださったことも」
「私は。間違えていた」
「すべてではありません」
「何?」
「殿下が。周囲へ配慮されることは。正しいと思います」
「ああ」
「私も。考えなければなりません」
「あなたが。考える必要は」
殿下は。
言いかける。
ご令嬢の表情を見る。
そして。
「……ある」
と。
言い直した。
「一緒に。考える」
ご令嬢が。
目を見開く。
「よろしいのですか」
「あなたのことだから」
殿下が言った。
今度は。
誰も。
息をしなかった。
「私だけで。決めない」
ご令嬢の目が。
少しずつ。
柔らかくなる。
「はい」
「ただし」
「はい」
「今日。今すぐ。何かを決めるわけではない」
「分かっています」
「特別な扱いを。求められても」
「求めません」
「菓子も」
「欲しいとは言っておりません」
「二人で食べることも」
殿下は。
そこまで言った。
ご令嬢が。
少しだけ。
笑う。
「最初は。研究会の皆さんと、でしたね」
研究会員たちが。
一斉に。
殿下を見る。
殿下の顔が。
真っ赤になる。
「なぜ。お前が知っている」
「昨日。私が聞きました」
「そうだった」
「はい」
「……忘れろ」
「難しいです」
「マリアと同じことを言うな」
「相談役の方から。学びました」
殿下が。
ゆっくり。
私を見る。
私は。
何も言っていない。
けれど。
殿下のお顔は。
私のせいだと。
はっきり言っていた。
「殿下」
私は。
笑いそうになるのを。
少しだけ。
堪えながら呼ぶ。
「何だ」
「授業の鐘が」
遠くで。
朝の予鈴が鳴った。
研究会員たちが。
一斉に。
時計を見る。
「急がなければ」
「鉢を置いて」
「記録だけ」
「あとで!」
研究会の皆さんが。
慌ただしく。
部屋へ入っていく。
ご令嬢も。
鉢を持ったまま。
扉へ向かう。
けれど。
その前に。
殿下へ振り返った。
「殿下」
「何だ」
「また。研究のお話をしても。よろしいですか」
殿下は。
もう。
迷わなかった。
「ああ」
「殿下がお聞きになりたいときも」
「ああ」
「私が。お話ししたいときも?」
「……ああ」
ご令嬢の笑顔が。
朝の光の中で。
明るくなる。
「ありがとうございます」
そして。
研究会の部屋へ。
入っていった。
扉が閉まる。
殿下は。
その前に。
しばらく。
立っていた。
「殿下」
「何だ」
「教室へ」
「ああ」
殿下は。
ようやく。
歩き出した。
◇
一時限目の休憩時間。
学園内には。
新しい噂が。
広がっていた。
王太子殿下が。
好きなご令嬢のために。
朝から鉢を運んだ。
殿下は。
公平ではなく。
自分が運びたかったから運んだと。
皆の前で。
おっしゃった。
ご令嬢と。
二人で。
研究について考えていくと。
約束した。
そして。
近いうちに。
二人きりで。
菓子を食べるらしい。
最後の話は。
まだ。
決まっていない。
けれど。
完全な嘘でも。
なくなり始めていた。
「なぜだ」
昼休み。
校舎裏のベンチで。
殿下は。
頭を抱えていた。
「私は。二人で菓子を食べるとは。言っていない」
「最初は研究会の皆さんと。とは。以前おっしゃいました」
「それは。以前だ」
「今日も。否定しませんでした」
「途中で。鐘が鳴った」
「ご令嬢も。覚えていましたね」
「全員が。覚えすぎだ」
「大切な場面ですから」
「私にとっては。忘れたい場面だ」
「なぜです」
「恥ずかしい」
殿下は。
はっきり。
言った。
私は。
少しだけ。
驚いた。
殿下は。
いつもなら。
恥ずかしくない。
不愉快なだけだ。
噂が迷惑だ。
そう。
別の言葉へ。
変えていたはずだ。
「殿下」
「何だ」
「今。恥ずかしいと」
「言った」
「はい」
「だから。何だ」
「正直ですね」
「褒めるな」
「受け取る練習です」
「今日は。もう十分だ」
殿下は。
ベンチの横へ置かれていた。
昼食の包みを開いた。
今日は。
固い黒パン。
薄く切られた肉。
小さな果実。
そして。
蜂蜜菓子が。
一つ。
入っていた。
昨日。
研究会へ差し入れたものと。
同じ形。
「殿下」
「何だ」
「それは」
「侍従が。入れた」
少し離れた場所に立つ。
侍従を見る。
侍従は。
静かな顔で。
頭を下げた。
けれど。
口元に。
ほんの少しだけ。
笑みがあるように見えた。
「昨日。ご令嬢が。おいしかったと」
「知っている」
「同じものを?」
「味を。確認するだけだ」
「殿下も。以前召し上がったのでは?」
「違う形だった」
「丸いものですね」
「そうだ」
「ご令嬢が。丸いものを食べたと」
「偶然だ」
「侍従の方が。用意したのですね」
「ああ」
「でも。召し上がるのは殿下です」
「食事へ入っていたからだ」
「嫌なら。残しますか」
殿下の手が。
蜂蜜菓子の上で。
止まった。
「食べ物を。無駄にするな」
「はい」
「だから。食べる」
「公平ですか」
「何と」
「ご令嬢と。同じものを召し上がることが」
「食べ物に。公平は関係ない」
「特別では?」
「ない」
殿下は。
蜂蜜菓子を。
手に取った。
一口。
食べる。
しばらく。
黙って噛む。
「どうです?」
「……うまい」
「ご令嬢と。同じ感想ですか」
「彼女は。おいしいとしか。言っていない」
「殿下も。うまいと」
「味の分析をしている」
「はい」
「蜂蜜の香りが。強すぎない」
「はい」
「生地も。乾いていない」
「はい」
「彼女が。気に入ったのは」
殿下は。
そこまで言った。
そして。
止まる。
「何ですか」
「丸い形だからか」
「殿下」
「何だ」
「そこまで。ご令嬢の好みを。考えていらっしゃるのですね」
「違う」
殿下は。
すぐに言った。
私は。
何も言わず。
待つ。
殿下は。
蜂蜜菓子を持ったまま。
目を閉じた。
「違うというのが」
「違うのですか」
「先に言うな」
「もう。何度目ですか」
「数えるな」
殿下は。
残りの菓子を。
口へ入れた。
しばらく。
無言で。
噛む。
そして。
小さく。
言った。
「彼女が。何を好むかは。少し気になる」
「はい」
「少しだ」
「はい」
「特別扱いするためではない」
「では。なぜ?」
殿下は。
私を見る。
答えを。
探す。
「次に。皆へ差し入れをするとき」
「はい」
「彼女が。嫌いなものを入れないためだ」
「皆へ?」
「ああ」
「最初は?」
「……研究会へだ」
「その次は?」
「知らない」
「二人で?」
「マリア」
「はい」
「今日は。ここまでだ」
殿下は。
昼食の包みを。
強く閉じた。
けれど。
蜂蜜菓子は。
もう。
残っていなかった。
◇
その日の放課後。
殿下は。
ご令嬢へ。
話しかけなかった。
朝。
十分に話したから。
という理由だった。
けれど。
研究棟の窓に。
明かりがついていることを。
帰り際。
何度も。
確認していた。
「殿下」
「何だ」
「心配ですか」
「今日は。食事を取っているか」
「差し入れは禁止では?」
「私へだ」
「ご自分で命令なさった」
「そうだ」
「解除は?」
「していない」
「では。今日は」
「何もしない」
殿下は。
研究棟の窓を見る。
「ただ。明日」
「はい」
「研究会の予定を。確認する」
「差し入れのため?」
「違う」
「研究のお話?」
「……それもある」
「ご令嬢と話したい?」
殿下は。
黙った。
夕方の風が。
制服の裾を揺らす。
研究棟の窓。
一つ。
人影が動く。
ご令嬢かもしれない。
違う人かもしれない。
殿下は。
しばらく。
そこを見ていた。
「話したい」
やがて。
とても。
小さな声で。
言った。
私は。
何も言わなかった。
褒めれば。
殿下は。
すぐに。
否定するかもしれない。
言い訳を足すかもしれない。
だから。
ただ。
殿下の言葉を。
そのまま。
受け取った。
「明日。お話しできるとよいですね」
「ああ」
「何を?」
「研究のことだ」
「はい」
「それから」
殿下は。
少しだけ。
迷った。
「公平について」
「まだ。お話しするのですか」
「私は。彼女に。聞かなければならない」
「何を?」
「何をされれば困るか」
「はい」
「何なら。困らないか」
「はい」
「どこまでなら。私が」
殿下は。
言葉を止める。
「殿下が?」
「彼女を。特別に思っていても。傷つけないか」
夕方の光の中で。
殿下の横顔が。
少しだけ。
弱く見えた。
公平でいたい。
立場を守りたい。
ご令嬢を守りたい。
そして。
自分の気持ちを。
なかったことにも。
したくない。
殿下は。
初めて。
そのすべてを。
誰かと考えようとしている。
「殿下」
「何だ」
「きっと。すぐには決まりません」
「分かっている」
「ご令嬢も。迷われると思います」
「ああ」
「殿下も。間違えるでしょう」
「それは。言う必要があるか」
「確認です」
「お前は。私を信用していない」
「言い直せることは。信用しています」
殿下は。
私を見る。
少しだけ。
不満そうに。
けれど。
以前のように。
怒りはしなかった。
「なら」
殿下が言う。
「明日も。ついてこい」
「相談役として?」
「ああ」
「恋愛相談役として?」
殿下は。
少し。
黙った。
「……そうだ」
その一言を。
今度は。
取り消さなかった。
私は。
ゆっくり。
うなずいた。
「分かりました」
殿下は。
研究棟へ。
もう一度。
視線を向けた。
窓の明かりは。
まだ。
消えていない。
けれど。
今日は。
そこへ向かわなかった。
何もしないためではない。
明日。
ご令嬢と。
話すために。
今日は。
止まった。
逃げることと。
待つことは。
似て見える。
けれど。
違う。
逃げる人は。
次を決めない。
待つ人は。
次に向かうために。
時間を置く。
王太子殿下。
あなたは。
今日。
特別ではないふりを。
公平と呼びました。
一人を守るために。
その人から。
離れようとしました。
けれど。
ご令嬢は。
それを。
寂しいと。
おっしゃいました。
誰かを特別に思うことは。
何でも許されるということではありません。
けれど。
何もしてはいけないということでもありません。
大切なのは。
殿下お一人で。
ご令嬢の気持ちまで。
決めないこと。
何を望み。
何に困り。
どこまでなら。
一緒に歩けるのか。
その方の言葉を。
聞くことです。
公平は。
全員へ。
同じことをすることだけではありません。
その人を。
見ないふりをすることでもありません。
違う人を。
違う人として見た上で。
それでも。
傷つけないように。
選び続けること。
きっと。
王太子殿下の恋も。
そうやって。
進んでいくのでしょう。
特別ではないふりを。
少しずつ。
やめながら。




