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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第71話 王太子殿下、噂を否定するたびに本当のことへ近づく


 噂というものは。


 不思議です。


 誰かが。


 たった一つ。


 事実を口にする。


 それを聞いた人が。


 少しだけ。


 意味を足す。


 次に聞いた人が。


 分かりやすいように。


 言葉を整える。


 さらに。


 面白くなるように。


 別の人が。


 表情や。


 沈黙や。


 視線の意味まで。


 勝手に決める。


 そうして。


 気づいた頃には。


 最初の出来事から。


 ずいぶん遠い場所へ。


 たどり着いている。


 昨日。


 王太子殿下がなさったことは。


 研究会への差し入れ。


 研究へ対する称賛。


 好きなご令嬢の体調を。


 少しではなく。


 心配していたと伝えたこと。


 それだけだった。


 けれど。


 一晩が明け。


 朝を迎えたとき。


 学園で広がっていた話は。


 こうなっていた。


 王太子殿下は。


 あるご令嬢の研究を。


 国を挙げて支援すると宣言した。


 研究会へ贈られた菓子は。


 王宮専属菓子職人が。


 未来の王太子妃のために作った。


 特別なものだった。


 殿下は。


 そのご令嬢が倒れれば。


 研究会を解散させるとまで。


 おっしゃった。


 そして。


 最も。


 広く知られていたのは。


 王太子殿下が。


 研究会全員の前で。


『お前のすべてを、私が守る』


 と。


 告白なさった。


 という噂だった。


 もちろん。


 そのようなことは。


 おっしゃっていない。


 殿下は。


 研究会の扉を出る直前。


『研究を続けろ』


 とは。


 おっしゃった。


 けれど。


 それもすぐに。


『続けてくれ』


 と言い直した。


 守るとも。


 すべてとも。


 告白とも。


 何一つ。


 おっしゃっていない。


 しかし。


 事実というものは。


 面白い話より。


 弱いらしい。


 朝。


 教室へ向かう回廊を歩きながら。


 私は。


 すでに三度。


 その噂を聞いた。


「本当に、研究会で告白なさったの?」


「皆の前ででしょう?」


「王太子殿下らしいわ。堂々としていて」


「でも、お相手の方は?」


「嬉しそうに泣いたらしいわ」


「泣いてはいません」


 思わず。


 口を挟んでしまった。


 話していた女子生徒たちが。


 一斉に振り返る。


「あ……マリア様」


「おはようございます」


「おはようございます」


 三人は。


 綺麗に。


 同時に。


 頭を下げた。


 それから。


 私の顔を。


 じっと見た。


 視線が。


 あまりにも。


 期待に満ちている。


「マリア様は、その場にいらしたのですよね」


「はい」


「では、殿下は。どのように告白を?」


「告白ではありません」


 三人の顔から。


 分かりやすく。


 光が消えた。


「違うのですか」


「違います」


「では。守るとおっしゃったのは」


「おっしゃっていません」


「すべてを、というのも」


「ありません」


「未来の王太子妃へ贈るお菓子は」


「購買で買った蜂蜜菓子です」


 沈黙。


 三人は。


 顔を見合わせた。


「……購買?」


「はい」


「王宮の菓子職人ではなく?」


「はい」


「三日かけて作ったものでも?」


「昨日の午後に買ったものです」


 さらに。


 長い沈黙。


 一人の女子生徒が。


 少しだけ。


 肩を落とした。


「そうなのですね」


「はい」


「では。普通の差し入れ」


「研究会の皆さんへの差し入れです」


「そうですか」


 残念そうだった。


 事実を伝えたのに。


 なぜか。


 申し訳ない気持ちになる。


 けれど。


 ここで。


 私まで。


 面白くなるように。


 何かを足してはいけない。


「ですが」


 私は。


 思わず続けた。


 三人の顔が。


 また。


 こちらへ向く。


「殿下は。研究を素晴らしいと。おっしゃいました」


「まあ」


「ご令嬢を。心配していたとも」


「やはり!」


「でも。告白ではありません」


「それは。まだ」


「まだ?」


「いえ」


 女子生徒は。


 扇も持っていないのに。


 口元を手で隠した。


「何でもありません」


 何でもないという顔ではなかった。


「マリア様」


 別の一人が。


 小声で尋ねる。


「殿下は。そのご令嬢を。お好きなのですか」


 私は。


 口を閉じた。


 それは。


 殿下ご自身が。


 認めようとなさらないことだ。


 相談役である私が。


 勝手に話すことではない。


「私からは。申し上げられません」


「では。否定はなさらないのですね」


「そういう意味では」


「分かりました」


「分からないでください」


 三人は。


 笑った。


 とても。


 楽しそうに。


「失礼いたします」


「よい一日を。マリア様」


「殿下にも。よろしくお伝えください」


 軽い足取りで。


 去っていく。


 私は。


 その背中を見送りながら。


 朝から。


 失敗した気がしていた。


 噂を訂正したはずなのに。


 何か。


 別の確信を。


 与えてしまった。


「お前は」


 背後から。


 低い声がした。


「何を。よろしく伝えるつもりだ」


 私は。


 ゆっくりと。


 振り返った。


 そこには。


 王太子殿下が。


 立っていた。


 ご機嫌は。


 大変。


 よろしくなかった。


          ◇


「おはようございます。殿下」


「今の話は。何だ」


「噂の訂正です」


「どこがだ」


「告白ではないと」


「最後に。余計なことを言っただろう」


「殿下がお好きかどうかは。私から申し上げられないと」


「それが。余計だ」


「では。否定すればよかったのですか」


「そうだ」


「殿下は。お好きではないのですか」


「……」


 殿下が。


 黙る。


 私は。


 待つ。


 殿下の後方にいる侍従も。


 警護の方々も。


 何も聞いていないという顔をしている。


 けれど。


 完全には。


 聞こえている。


「殿下」


「朝から。なぜ。その話をしなければならない」


「噂を訂正なさりたいのでしょう?」


「当然だ」


「では。どこまでを訂正するのです」


「全部だ」


「研究を褒めたことも?」


「それは。言った」


「心配していたことも?」


「……言った」


「ご令嬢だけを。少しではなく心配していたことも?」


「声が大きい」


「小さく話しています」


「お前の小さいは」


「信用できない。ですね」


「先に言うな」


「覚えました」


 殿下は。


 朝の回廊を。


 周囲へ注意深く視線を向けた。


 昨日のことを。


 聞きたそうにしている生徒が。


 あちらこちらにいる。


 柱の陰。


 窓際。


 階段の踊り場。


 皆。


 何かをしているふりをしながら。


 こちらへ耳を向けている。


「場所を変えるぞ」


「校舎裏ですか」


「今からでは。授業に遅れる」


「では。歩きながら」


「それが。最も聞かれる」


「もう。聞かれています」


 殿下が。


 周囲を見る。


 視線を向けられた生徒たちが。


 一斉に。


 別の方向を見る。


 窓の外。


 天井。


 手元の本。


 誰一人。


 自然ではない。


「……教室へ行け」


 殿下が言った。


「私ですか」


「全員だ」


 周囲の生徒たちが。


 一瞬。


 動きを止めた。


 それから。


「失礼いたします」


「おはようございます、殿下」


「よい一日を」


 と。


 次々に。


 去っていった。


 しかし。


 階段を下りたあと。


 柱の向こうへ。


 また。


 何人かの頭が見えた。


「殿下」


「何だ」


「諦めましょう」


「何をだ」


「噂を。誰にも聞かれず訂正することです」


「なら。全校集会で訂正する」


「それは。最も大きくなります」


「なぜだ」


「王太子殿下が。恋愛の噂を訂正するため。全校生徒を集めるのですよ」


「恋愛ではない」


「そのお言葉から始めれば。皆さん。さらに興味を持ちます」


「では。掲示を出す」


「『研究会で告白した事実はありません』と?」


「そうだ」


「殿下」


「何だ」


「それを見た方は。なぜそのような掲示が出たのか。調べます」


「……」


「そして。ご令嬢が。さらに注目されます」


 殿下の顔が。


 すぐに。


 険しくなった。


「それは。困る」


「はい」


「では。どうすればよい」


「噂が。自然に収まるのを待つことです」


「収まるのか」


「次の噂が出れば」


「信用できない方法だ」


「学園の噂は。移り変わりが早いです」


「昨日の壁の話は。まだ残っている」


「今朝。私は。壁へ告白の練習をしていた王太子殿下、という話も聞きました」


「それを。今。言う必要があるか」


「状況の確認です」


「悪化しているではないか」


「はい」


 殿下は。


 立ち止まった。


 額へ。


 手を当てる。


「最初から。差し入れなどしなければ」


「殿下」


「何だ」


「それは。ご令嬢へ聞かせないでください」


「なぜ」


「差し入れをしたことを。後悔しているように聞こえます」


「噂を生んだことを。言っている」


「でも。ご令嬢は。お菓子を喜んでいたかもしれません」


「そうなのか」


「私は。食べるところまで見ていません」


「……なら。分からないだろう」


「受け取ったときは。嬉しそうでした」


「本当に?」


「はい」


 殿下の眉間の皺が。


 少しだけ。


 薄くなる。


 けれど。


 すぐに。


 また寄った。


「だが。噂で。迷惑を」


「それは。心配ですね」


「だから。訂正する」


「ご令嬢へ。直接確認してはいかがですか」


「何を」


「噂で困っていないか」


 殿下は。


 固まった。


「私が。聞くのか」


「はい」


「本人へ?」


「はい」


「告白の噂を?」


「はい」


「無理だ」


「早いです」


「何と聞く」


「昨日のことで。妙な噂が広がっている。困っていないか、と」


「それでは。私が気にしているように聞こえる」


「気にしているのでしょう?」


「そうではなく」


「ご令嬢が困っていないか。気にしていらっしゃる」


「……ああ」


「では。そのままです」


「だが」


「殿下」


「何だ」


「今日は。ご令嬢のお顔を見る練習です」


「昨日。見た」


「昨日は。褒めた言葉を受け取ったときのお顔です」


「今日は何だ」


「噂を聞いて。どう感じているか」


「それは。見たくない」


 殿下は。


 小さく。


 言った。


 私は。


 少しだけ。


 言葉を止めた。


「なぜですか」


「……嫌がっていたら」


 朝の回廊を。


 生徒たちが。


 行き交う。


 私たちの横を通るとき。


 皆。


 深く礼をする。


 けれど。


 通り過ぎたあと。


 少しだけ。


 振り返る。


 殿下は。


 その視線を。


 もう。


 気にしていなかった。


「嫌がっていたら」


 殿下は。


 もう一度。


 言った。


「私は。昨日のことを。取り消せない」


「はい」


「研究を素晴らしいと。言ったことも」


「はい」


「心配していたと。言ったことも」


「はい」


「言わなければよかったと。思うかもしれない」


「殿下が?」


「彼女がだ」


 その声は。


 低かった。


「王太子から。余計なことを言われたと」


「その可能性は。あります」


 殿下の顔が。


 わずかに。


 強張る。


「ですが」


 私は。


 続ける。


「昨日。ご令嬢は。嬉しいと。おっしゃいました」


「その場では。そう言うしかなかったのかもしれない」


「王太子殿下だから?」


「ああ」


「だから。今日。もう一度。お顔を見るのです」


「……」


「皆さんの前ではなく。できれば。少し落ち着いた場所で」


「二人で?」


「私も。少し離れております」


「お前がいるのか」


「止める役目ですから」


「昨日は。ほとんど止めなかった」


「殿下が。ご自分で言い直せていました」


「なら。今日も」


「一人で行かれますか」


「……」


 殿下は。


 答えなかった。


 歩き始める。


 私は。


 その隣へ。


 並んだ。


 教室棟が。


 もう。


 近い。


 一時限目の鐘まで。


 あまり時間がない。


「放課後だ」


 殿下が言った。


「はい」


「彼女に。話をする」


「はい」


「噂の訂正だ」


「はい」


「それ以外は。何も言わない」


「今から。決めすぎない方がよいと思います」


「なぜだ」


「ご令嬢のお話を聞いてから。お答えすることもあるからです」


「私は。聞くだけだ」


「お返事は?」


「必要ならする」


「言い訳は?」


「しない」


「否定は?」


「事実と違うところだけ」


「好きではないとは?」


「……言わない」


 私は。


 殿下を見る。


 殿下は。


 前を見たまま。


 耳を赤くしていた。


「殿下」


「何だ」


「今のは。よいと思います」


「褒めるな」


「受け取る練習です」


「朝からするな」


「では。放課後に」


「忘れろ」


「忘れません」


 授業開始を告げる。


 最初の鐘が。


 学園内へ響いた。


 殿下は。


 ご自分の教室へ向かう前に。


 一度だけ。


 研究棟の方角へ。


 視線を向けた。


          ◇


 午前中。


 噂は。


 収まらなかった。


 むしろ。


 殿下が。


 朝から。


 私と何かを話していたことまで。


 新しい材料になった。


 二時限目が終わる頃には。


 王太子殿下は。


 相談役である私へ。


 正式な告白の手順を確認していた。


 という話になっていた。


 三時限目の休憩時間には。


 殿下は。


 すでに。


 王宮へ婚約申請書を送った。


 とも。


 言われていた。


 さらに。


 昼前には。


 国王陛下が。


 お相手のご令嬢を。


 王宮へ招く準備を始めた。


 という話まで。


 広がっていた。


「なぜ。父上まで出てくる」


 昼休み。


 校舎裏のベンチで。


 殿下は。


 果実水の入った瓶を。


 机代わりの膝へ。


 強く置いた。


「王太子殿下の婚約ですから」


「していない」


「噂です」


「分かっている!」


 殿下の声に。


 近くの茂みにいた鳥が。


 飛び立った。


 枝が揺れる。


 少し離れたベンチにいた生徒たちが。


 一瞬。


 こちらを見る。


 けれど。


 すぐに。


 会話を再開した。


 もう。


 殿下が。


 校舎裏で大きな声を出すことに。


 慣れ始めている。


「婚約申請書とは。何だ」


「私も。先ほど聞いただけです」


「誰からだ」


「同級生です」


「否定したか」


「しました」


「本当に?」


「はい」


「どのように」


「そのような事実はありません、と」


「それだけか」


「はい」


「余計なことは」


「今回は。言っていません」


「今回は?」


「朝は。少し」


「やはり。お前が広げているのではないか」


「違います」


「怪しい」


「殿下」


「何だ」


「お昼を食べましょう」


 殿下は。


 今日も。


 購買のパンを手にしていた。


 昨日とは違い。


 甘く煮た果実を。


 薄い生地で包んだものだった。


「それは。おいしいですか」


「まだ食べていない」


「昨日と同じですね」


「何が」


「ご令嬢も。召し上がったでしょうか」


「……」


 殿下の手が。


 止まった。


「昨日の菓子を」


「はい」


「食べたと思うか」


「皆さんでいただくと。おっしゃっていました」


「だが。彼女が食べたかは」


「放課後。聞いてみますか」


「なぜ。菓子を食べたかまで。確認する」


「気になるのでしょう?」


「味の感想が。購買担当者の参考になる」


「殿下」


「何だ」


「それは。苦しいです」


「何がだ」


「言い訳が」


「言い訳ではない」


「では。研究会全員へ感想を聞きますか」


「必要ない」


「ご令嬢だけ?」


「……」


「殿下」


「食べたかどうかだけだ」


「はい」


「感想は。聞かない」


「聞きたいお顔です」


「顔で決めるな」


 殿下は。


 パンを。


 一口食べた。


 しばらく。


 黙って噛む。


「どうです?」


「甘い」


「それだけですか」


「果実の酸味が。少し足りない」


「悪くないとは。言いませんね」


「昨日。練習したからだ」


「覚えていらしたのですね」


「子どもではない」


「はい」


「今の。はいは。何だ」


「そのとおりだと思っただけです」


「信用できない」


 殿下は。


 もう一口。


 パンを食べた。


「マリア」


「はい」


「昨日の」


「ご令嬢ですか」


「先に決めるな」


「違いましたか」


「……違わない」


「はい」


 殿下は。


 パンを。


 見ながら。


 ゆっくりと言った。


「昨日。彼女は。私が見ていたことが嬉しいと。言った」


「はい」


「その意味は」


「そのままでは?」


「王太子が。研究を見ていたことが。評価へつながるからかもしれない」


「はい」


「研究会へ。利益があると思ったのかもしれない」


「はい」


「だから。私個人が見ていたことを。喜んだとは」


「思えないのですか」


「……分からない」


 殿下の声が。


 少しだけ。


 低くなる。


 昨日。


 ご令嬢は。


 はっきりと。


 おっしゃった。


 殿下が。


 見ていてくださったことが。


 嬉しい。


 と。


 けれど。


 殿下は。


 その言葉を。


 そのまま。


 受け取れない。


 王太子だから。


 研究へ利益があるから。


 周囲が見ていたから。


 いくつもの理由を。


 自分の外側へ置いて。


 ご令嬢が。


 殿下ご自身へ。


 向けた言葉だとは。


 考えないようにしている。


「殿下」


「何だ」


「昨日。ご令嬢へ。私個人が素晴らしいと思ったと。おっしゃいましたね」


「ああ」


「ご令嬢も。個人として受け取ったのではないでしょうか」


「なぜ。分かる」


「言葉は。相手へ渡すものです」


「昨日も聞いた」


「今日は。その続きを」


「まだあるのか」


「渡したあと。相手が受け取ったと言ったなら。少しは信じてよいと思います」


「少し?」


「全部を信じるのが難しいなら」


「……」


「嬉しいと。おっしゃった」


「ああ」


「なら。少なくとも。そのときは。嬉しかったのです」


「そのあと。噂が」


「だから。今日。聞くのです」


 殿下は。


 黙った。


 手にしていたパンを。


 包みへ戻す。


 まだ。


 半分ほど。


 残っている。


「食べないのですか」


「腹が減っていない」


「先ほどまで。召し上がっていたのに」


「放課後のことを。考えると」


「緊張なさっているのですね」


「違う」


「では。心配?」


「……両方だ」


 昨日と同じように。


 正しい言葉が。


 自然に。


 出た。


 殿下は。


 言ったあとで。


 気づいた。


 けれど。


 今日は。


 取り消さなかった。


「緊張もしている。心配もしている」


「はい」


「笑うな」


「笑っていません」


「口元が」


「殿下」


「何だ」


「少しずつ。言えるようになっていますね」


「何をだ」


「ご自分の気持ちを」


「これは。恋愛ではない」


「緊張と心配は。恋愛に限りません」


「なら。よい」


「はい」


「褒めるな」


「まだ。褒めていません」


「顔が褒めている」


「顔で決めないでください」


 殿下は。


 少しだけ。


 不満そうに。


 私を見た。


 それから。


 残していたパンを。


 もう一度。


 食べ始めた。


          ◇


 放課後。


 研究棟の前は。


 昨日より。


 人が少なかった。


 少ない。


 といっても。


 普段と比べれば。


 多い。


 けれど。


 昨日。


 殿下が。


 周囲の生徒たちへ。


 帰れとおっしゃったことが。


 効いているのかもしれない。


 皆。


 見える位置には。


 集まっていない。


 その代わり。


 二階の窓。


 向かい側の校舎。


 中庭の木陰。


 少し離れた場所から。


 こちらを見ている。


「増えているではないか」


 殿下が言った。


「近くには。いません」


「遠くから。見ている」


「殿下がおっしゃったので」


「何を」


「教室へ行け。帰れ。と」


「なら。帰ればよい」


「恋の行方が。気になるのでしょう」


「恋ではない」


「大きな声で否定すると。聞かれます」


 殿下は。


 口を閉じた。


 研究棟の入口へ。


 進む。


 今日は。


 差し入れの箱を。


 持っていない。


 手は。


 空いている。


 けれど。


 何度も。


 制服の袖口へ触れている。


「マリア」


「はい」


「お前は。どこまで来る」


「部屋の前まで」


「中へは」


「ご令嬢がお一人なら。少し離れます」


「研究会の者がいたら」


「皆さんの前で。お話ししますか」


「それは。昨日と同じだ」


「では。少しだけ。お時間をいただきたいと」


「呼び出すのか」


「はい」


「それこそ。噂になる」


「もう。なっています」


「便利に使うな」


「事実です」


 殿下は。


 階段を上がりながら。


 深く。


 息を吐いた。


「噂を訂正するために。二人で話せば。さらに噂になる」


「はい」


「何もしなければ。告白したことになる」


「皆さんの中では」


「どちらを選んでも。悪化するではないか」


「殿下」


「何だ」


「噂のためではなく。ご令嬢のために。お話しするのです」


 殿下の足が。


 一段で。


 止まった。


「皆さんが。どう思うかではありません」


「……」


「ご令嬢が。困っているかどうか。それを聞くためです」


 殿下は。


 階段の先を見た。


「私は。昨日」


 小さく。


 言う。


「それが。できなかった」


「何がですか」


「周囲が。どう見るかばかり。考えていた」


「はい」


「彼女が。どう受け取るかも。考えたつもりだった」


「はい」


「だが。昨日。嬉しいと言われたあとも。王太子だからだと。思っていた」


「はい」


「今も。少しは思っている」


「はい」


「それは。彼女の言葉を。聞いていないのと同じか」


 私は。


 すぐには。


 答えなかった。


 殿下は。


 階段の途中で。


 待っている。


「すべてを信じられなくても」


 私は。


 ゆっくりと言う。


「聞こうとすることは。できます」


「……」


「今日。ご令嬢のお話を。最後まで聞いてください」


「ああ」


「途中で。ご自分の中の答えへ変えずに」


「難しいな」


「はい」


「お前でも。難しいのか」


「難しいです」


「そうか」


「人の言葉は。自分の不安を通すと。違って聞こえますから」


「お前にも。不安があるのか」


「あります」


「何だ」


「今は。殿下のお話です」


「逃げたな」


「相談役ですから」


「便利だな」


「はい」


 殿下は。


 階段を。


 また。


 上り始めた。


 研究会の部屋は。


 昨日と同じ。


 廊下の奥にある。


 扉は。


 半分ほど。


 開いていた。


 中から。


 笑い声が聞こえる。


 昨日より。


 柔らかい。


 楽しそうな声。


「お菓子、おいしかったね」


「蜂蜜が強すぎなくて」


「一つ。持って帰りたかった」


「全部食べたでしょう」


「だから、もう一つ」


「殿下へ。感想を伝えたら?」


「誰が?」


「あなたが」


「無理です」


 殿下の足が。


 止まる。


 私も。


 止まった。


 中の会話は。


 まだ続いている。


「でも。あの方は。殿下とお話ししていたでしょう」


「研究の話です」


「心配していたって」


「皆さんも。聞いていたでしょう」


「聞いていたから言ってるの」


「お顔。真っ赤だったわ」


「殿下の方も」


「やめてください」


 ご令嬢の声。


 昨日。


 殿下から。


 称賛を受けた方。


 少し。


 困っている。


 けれど。


 本気で。


 怒っているようには。


 聞こえない。


「噂も。すごいことになってるよ」


「知っています」


「王宮へ呼ばれるんでしょう?」


「呼ばれません」


「未来の王太子妃」


「違います」


「でも。嫌ではないでしょう?」


 室内の空気が。


 少しだけ。


 変わった。


 殿下の指が。


 袖口を。


 強く掴む。


 私は。


 殿下を見る。


 殿下は。


 扉の向こうを。


 見ている。


「答えなくていいよ」


 研究会員の一人が。


 すぐに言った。


「からかいすぎた」


「ごめんなさい」


「殿下がいらしたら。何て言うのかな」


「言いません」


「絶対?」


「絶対です」


「どうして」


「だって」


 ご令嬢の声が。


 一度。


 止まる。


「殿下は。困るでしょうから」


 殿下の表情が。


 わずかに。


 変わった。


「私のことで。これ以上。噂になれば」


 ご令嬢は。


 小さく。


 続ける。


「殿下のお立場へ。傷がつくかもしれません」


 室内が。


 静かになる。


「それに」


 また。


 少し。


 間が空く。


「昨日のお言葉は。研究を見てくださっていたからです」


「でも。心配していたって」


「それも。研究を続けるために。体調を崩すなという意味です」


 殿下が。


 息を止めた。


 昼休み。


 殿下が。


 ご令嬢の言葉を。


 王太子だからだと。


 受け取ろうとしていたように。


 ご令嬢も。


 殿下の言葉を。


 研究のためだと。


 受け取ろうとしている。


 個人へ向けられたものではないと。


 そう。


 考えている。


「それだけではないかもしれないでしょう」


「ありません」


「どうして。言い切れるの」


「殿下は」


 ご令嬢の声が。


 少しだけ。


 弱くなる。


「私のような者を。特別に思われません」


 殿下が。


 一歩。


 前へ出た。


 私は。


 止めなかった。


「失礼する」


 殿下が。


 扉を開いた。


 研究会の部屋が。


 静まり返った。


 六人。


 昨日と同じ顔ぶれ。


 全員が。


 殿下を見ている。


 そして。


 ご令嬢は。


 椅子から。


 立ち上がりかけた姿勢のまま。


 固まっていた。


「王太子殿下」


「そのままでよい」


 殿下の声は。


 落ち着いている。


 けれど。


 私は。


 後ろから見ていた。


 殿下の手が。


 強く。


 握られている。


「今の話を」


 ご令嬢の顔が。


 みるみる。


 赤くなる。


「お聞きに?」


「ああ」


「申し訳ございません」


「なぜ。謝る」


「殿下のお名前を。勝手に」


「それは。よい」


「ですが」


「私は。お前に話がある」


 お前。


 と。


 呼んだ。


 ご令嬢の肩が。


 少しだけ。


 強張る。


 殿下も。


 気づいた。


「あなたに」


 言い直す。


「少し。時間をもらいたい」


 研究会員たちが。


 一斉に。


 互いを見る。


 昨日の続きを。


 期待している。


 それが。


 分かりやすい。


「ここで。よろしいでしょうか」


 ご令嬢が尋ねる。


 殿下は。


 少し迷った。


 室内にいる全員。


 廊下の外。


 遠くから見ている生徒たち。


 どこへ行っても。


 完全に二人にはなれない。


「皆がいても。話せることだ」


 殿下が言った。


「はい」


「昨日のことで。噂が広がっている」


 ご令嬢の顔が。


 少しだけ。


 曇った。


「申し訳ございません」


「だから。なぜ。お前が謝る」


「私が。殿下から。お言葉をいただいたため」


「言ったのは。私だ」


「ですが」


「噂を広げたのは。あなたでもない」


「……はい」


「困っているか」


 殿下は。


 ようやく。


 聞いた。


 朝から。


 何度も考えていた。


 その問いを。


 ご令嬢へ。


 直接。


 差し出した。


 ご令嬢は。


 すぐには。


 答えなかった。


 視線を落とす。


 手元にある。


 記録用紙の端を。


 指で。


 そっと押さえた。


「少し」


 ご令嬢は。


 正直に言った。


 殿下の表情が。


 固くなる。


 けれど。


 逃げなかった。


「何が。最も困る」


「私のことではありません」


「私のことか」


「はい」


 ご令嬢は。


 顔を上げた。


「殿下が。軽率な行動をなさったと。思われることです」


「軽率だった」


「違います」


 ご令嬢は。


 殿下の言葉を。


 すぐに否定した。


「研究会全体へ。差し入れをしてくださいました」


「ああ」


「研究について。具体的な助言も」


「ああ」


「私の体調を。気遣ってくださいました」


「ああ」


「どれも。軽率ではありません」


「だが。噂になった」


「それは」


 ご令嬢は。


 一度。


 研究会員たちを見る。


 皆。


 少しだけ。


 目を逸らした。


「周囲が。勝手に意味を足したからです」


「なら。お前は」


 殿下は。


 止まった。


 私を見る。


 私は。


 小さく。


 ご令嬢の顔を見るように。


 視線で伝えた。


 殿下は。


 もう一度。


 ご令嬢へ向き直る。


「あなたは。昨日のことを。後悔しているか」


 ご令嬢の目が。


 少しだけ。


 大きくなる。


「私が。来たことを」


「いいえ」


 答えは。


 早かった。


「菓子を渡したことを」


「いいえ」


「研究を。素晴らしいと言ったことを」


「いいえ」


「心配していたと。言ったことを」


 今度は。


 ご令嬢の返事が。


 少し遅れた。


 頬が。


 また。


 赤くなる。


「……いいえ」


 殿下の指が。


 少しだけ。


 緩む。


「嬉しかったか」


「はい」


「昨日。皆がいたからではなく?」


「はい」


「王太子の言葉だからでもなく?」


 ご令嬢は。


 殿下を見た。


 そして。


 とても。


 静かに。


 首を横へ振った。


「殿下が。見ていてくださったことが。嬉しかったのです」


 昨日と。


 同じ言葉。


 けれど。


 今日は。


 周囲の勢いの中ではない。


 殿下が。


 確認した。


 その答えとして。


 ご令嬢は。


 もう一度。


 同じことを。


 伝えた。


「そうか」


 殿下の声が。


 掠れた。


 ご令嬢は。


 少しだけ。


 笑う。


「はい」


 研究会員たちは。


 息を止めている。


 誰も。


 動かない。


 机の上の。


 小さな植物の葉だけが。


 窓から入る風に。


 揺れていた。


「では」


 殿下が。


 言う。


「噂は。訂正した方がよいか」


 ご令嬢は。


 少し考えた。


「殿下は。訂正なさりたいのですか」


「事実ではない」


「はい」


「私は。守るとも。すべてとも。婚約とも。言っていない」


「はい」


「菓子も。王宮のものではない」


「はい」


「購買だ」


「存じております」


「未来の王太子妃へのものでも」


 殿下は。


 そこまで言った。


 そして。


 止まった。


 ご令嬢の表情が。


 わずかに。


 硬くなる。


 私も。


 殿下を見る。


 それを。


 否定する必要があるのか。


 今。


 未来の王太子妃ではない。


 それは。


 事実だ。


 けれど。


 殿下が。


 未来にも。


 その可能性はない。


 と。


 言う必要はない。


 殿下は。


 ご令嬢の顔を見た。


 昨日までなら。


 そのまま。


 違う。


 あり得ない。


 そのような言葉を。


 足したかもしれない。


 けれど。


 今日は。


 止まった。


「……今のは」


 殿下が。


 ゆっくり言う。


「訂正する必要はない」


 研究会員の一人が。


 小さく。


 息を呑んだ。


 ご令嬢も。


 目を見開く。


「殿下?」


「事実ではない噂だ」


「はい」


「だが。未来のことまで。私が。今。否定する必要はない」


 殿下ご自身が。


 何を。


 おっしゃったのか。


 理解した瞬間。


 顔が。


 一気に。


 赤くなる。


 室内は。


 完全に。


 静かだった。


 誰も。


 呼吸さえ。


 していないように感じる。


「違う」


 殿下が。


 言った。


 私は。


 反射的に。


「殿下」


 と呼ぶ。


 殿下は。


 止まった。


 違う。


 今のは。


 そういう意味ではない。


 勘違いするな。


 嫌いではないが。


 好きでもない。


 いつもの。


 逃げ道へ。


 進もうとしている。


 殿下は。


 私を見た。


 そして。


 ご令嬢を見る。


 ご令嬢は。


 驚いたまま。


 殿下の次の言葉を。


 待っている。


「違うというのが」


 殿下は。


 苦しそうに。


 言い直す。


「違う」


 昨日と。


 同じ。


 否定を。


 否定する言葉。


「私は」


 殿下は。


 制服の袖口を。


 強く掴んだ。


「未来のことを。今。決めているわけではない」


 ご令嬢は。


 何も言わない。


「だが」


 殿下の声が。


 少し震える。


「あなたが。あり得ないと。言うつもりもない」


 室内の誰かが。


 小さく。


 椅子を鳴らした。


 ご令嬢の頬が。


 ゆっくりと。


 赤くなる。


「それは」


 ご令嬢が。


 かすかな声で。


 言う。


「どのような意味でしょうか」


 殿下が。


 完全に。


 固まった。


 私は。


 心の中で。


 大きく。


 息を吸った。


 ここは。


 私が止めるべきか。


 それとも。


 止めてはいけないのか。


 殿下は。


 まだ。


 好きだと。


 認められない。


 けれど。


 あり得ないとも。


 言いたくない。


 ご令嬢を。


 傷つけたくない。


 それだけではない。


 未来の可能性を。


 ご自分の言葉で。


 閉じたくない。


 今。


 殿下の中にあるものは。


 告白ではない。


 けれど。


 告白へ向かう。


 とても。


 大切な言葉かもしれない。


「殿下」


 私は。


 静かに呼んだ。


 殿下が。


 こちらを見る。


「今のお気持ちを。そのまま」


「そのままでは。言えない」


「では。言えるところまで」


「マリア」


「はい」


「これは。止めなくてよいのか」


 研究会員たちの前で。


 殿下は。


 私へ。


 尋ねた。


 皆が。


 私を見る。


 私は。


 殿下を見る。


 止めるべき言葉。


 嫌いだ。


 あり得ない。


 勘違いするな。


 お前ではない。


 それらは。


 止めなければならない。


 けれど。


 今。


 殿下が。


 出そうとしているものは。


 まだ。


 形になっていない。


 怖くて。


 曖昧で。


 ご自身でも。


 分かっていない。


 それでも。


 誰かを。


 遠ざけるための言葉ではない。


「はい」


 私は。


 小さくうなずいた。


「今日は。止めません」


 殿下の目が。


 揺れる。


「間違えたら」


「言い直してください」


「彼女が。困ったら」


「お顔を見てください」


「嫌がったら」


「謝ってください」


「……分かった」


 殿下は。


 ご令嬢へ向き直った。


 長い。


 沈黙。


 窓の外。


 遠くで。


 運動部の掛け声が聞こえる。


 廊下を歩く。


 生徒の足音。


 研究会の部屋の中。


 誰も。


 動かない。


「私は」


 殿下が。


 言う。


「今。あなたとの未来を。約束することはできない」


 ご令嬢は。


 静かに。


 聞いている。


「王太子として。婚姻は。私だけの意思では。決められない」


「はい」


「あなたが。何を望んでいるかも。私は知らない」


「はい」


「だから。未来の王太子妃だという噂は。事実ではない」


 殿下は。


 一度。


 息を吸う。


「だが」


 ご令嬢の目を。


 見た。


「あなたが。その可能性から。最初から外れていると。私は言いたくない」


 ご令嬢の唇が。


 少しだけ。


 開く。


 けれど。


 声は出ない。


「私は。あなたの研究を。見ていた」


「はい」


「昨日。初めて。見たわけではない」


 殿下の言葉に。


 私も。


 驚いた。


 ご令嬢も。


 目を見開く。


「いつから」


「正確には。覚えていない」


 殿下は。


 少しだけ。


 視線を逸らした。


「春の初め頃。中庭の隅で。土の入った鉢を。運んでいた」


「……はい」


「一人で。五つ」


「はい」


「重そうだった」


「お声を。かけてくだされば」


「そのときは。なぜ。自分で運んでいるのか。理解できなかった」


「はい」


「侍女か。研究会の者へ。任せればよいと。思った」


「はい」


「だが。あなたは。鉢を置いたあと。葉の向きを。一つずつ。揃えていた」


 ご令嬢の目が。


 少しずつ。


 揺れる。


「次に見たとき。雨の中で。鉢へ布をかけていた」


「あの日も」


「ああ」


「見ていらしたのですか」


「偶然だ」


 殿下は。


 すぐに。


 そう言った。


 けれど。


 今度は。


 逃げるためではない。


 まだ。


 ご自分でも。


 何度見ていたのか。


 認めきれないだけだ。


「図書室で。植物誌を読んでいるところも」


 殿下が続ける。


「廊下で。記録用紙を落としたところも」


「それは。お恥ずかしいです」


「全て拾っていた」


「はい」


「一枚ずつ。順番を確かめて」


「はい」


「私は」


 殿下は。


 止まった。


 言葉を探す。


「あなたが。何かを続けているところを。何度も見ていた」


 ご令嬢は。


 もう。


 目を逸らさなかった。


「なぜ。見ていたのかは」


 殿下の声が。


 さらに。


 低くなる。


「まだ。うまく言えない」


 私は。


 黙っていた。


 研究会員たちも。


 誰一人。


 口を挟まない。


「だが」


 殿下は。


 昨日より。


 はっきりと。


 言った。


「あなたを。特別に思うことなどないと。今。否定することもできない」


 ご令嬢の目に。


 薄く。


 涙が浮かんだ。


 泣いてはいない。


 けれど。


 感情が。


 そこまで。


 上がっている。


 殿下が。


 それに気づく。


 顔が。


 すぐに。


 不安へ変わった。


「泣くほど。嫌だったか」


「違います」


 ご令嬢は。


 笑った。


 涙を。


 落とさないまま。


「違うというのが。違う、ではありません」


 研究会員の一人が。


 小さく。


 笑った。


 殿下の耳が。


 また。


 赤くなる。


「嬉しいのです」


 ご令嬢が。


 言った。


「昨日よりも?」


 殿下は。


 真剣に尋ねた。


「はい」


「なぜ」


「殿下が。私のことを。私が思っていたよりも。長く見ていてくださったからです」


「そうか」


「はい」


「それは」


 殿下は。


 また。


 何かを言いかけた。


 今度は。


 止まる前に。


 ご令嬢が。


 先に。


 口を開く。


「殿下」


「何だ」


「私も」


 ご令嬢は。


 胸元で。


 両手を重ねた。


「殿下を。見ておりました」


 殿下の動きが。


 止まる。


「私を?」


「はい」


「いつから」


「正確には。覚えておりません」


 殿下と。


 同じ答えだった。


 研究会員たちの中で。


 誰かが。


 息を呑む。


「ですが。校舎裏で。マリア様と。お話しされているところを」


 今度は。


 私が。


 少し驚いた。


「聞いてはいません」


 ご令嬢は。


 私へ。


 慌てて言う。


「遠くから。お姿だけです」


「はい」


「殿下が。とても。難しいお顔をなさっていて」


「いつもだ」


 殿下が。


 低く言った。


「殿下」


「何だ」


「今は。ご令嬢のお話を」


「ああ」


 殿下は。


 口を閉じる。


「最初は。何をお話しされているのだろうと」


 ご令嬢が続ける。


「それから。何度か。お見かけして」


「なぜ」


「殿下が。マリア様とお話しされたあと。少しだけ。お顔が変わっていらしたからです」


「変わっていたか」


「はい」


「どう」


「最初より。少しだけ。優しいお顔に」


 殿下が。


 私を見る。


「本当か」


「私に聞かないでください」


「お前は。見ているだろう」


「今は。ご令嬢のお話です」


「逃げたな」


「続けてください」


 ご令嬢が。


 小さく笑った。


「それから。殿下が。人のお話を。以前より聞かれるようになったことも」


「以前は。聞いていなかったか」


「少しだけ」


「少し?」


「かなりです」


 私は。


 思わず。


 ご令嬢を見る。


 今の言葉は。


 以前。


 私が。


 殿下へ言ったものと。


 同じだった。


 ご令嬢は。


 少し。


 申し訳なさそうに笑う。


 殿下は。


 私と。


 ご令嬢を。


 交互に見た。


「お前たちは。似ているな」


「どこがですか」


「容赦がない」


「殿下」


 今度は。


 ご令嬢が。


 殿下を呼んだ。


「ですが」


「何だ」


「以前より。お近くに感じられるようになりました」


 殿下が。


 黙った。


「王太子殿下ではなく」


 ご令嬢は。


 ゆっくり。


 言葉を選ぶ。


「お一人の方として」


 それは。


 昨日。


 私が。


 殿下へ伝えたことと。


 どこか。


 似ていた。


 王太子としてではなく。


 殿下ご自身を。


 見ている人がいる。


 殿下が。


 いなくても。


 世界は進む。


 けれど。


 殿下にいてほしいと思う人がいる。


 今。


 ご令嬢は。


 殿下ご自身を。


 見ていると。


 言っている。


「そうか」


 殿下は。


 それしか。


 言えなかった。


 けれど。


 今日は。


 それでよかった。


 ご令嬢も。


 それ以上。


 求めなかった。


 研究会の部屋に。


 長い。


 穏やかな沈黙が落ちる。


 誰も。


 急がなかった。


 窓から。


 午後の光が。


 机の上へ差し込む。


 小さな芽の影が。


 記録用紙の上に。


 細く。


 伸びていた。


          ◇


「それで」


 しばらくして。


 研究会の代表である男子生徒が。


 控えめに。


 口を開いた。


「噂は。どのように訂正いたしましょう」


 全員が。


 現実へ戻った。


 殿下の表情が。


 また。


 険しくなる。


「そうだった」


「忘れていらしたのですか」


 ご令嬢が尋ねる。


「忘れてはいない」


「お顔が」


「今。思い出しただけだ」


「それを。忘れていたと言うのでは?」


「違う」


「違うというのが?」


「違わない」


 研究会員たちから。


 小さな笑いが起きた。


 昨日よりも。


 殿下を。


 恐れていない。


 殿下は。


 少し。


 不満そうだった。


 けれど。


 怒らなかった。


「噂は」


 殿下が。


 考える。


「事実と違う部分だけ。訂正する」


「具体的には?」


「私は。守るとも。婚約とも。言っていない」


「はい」


「菓子は。購買のものだ」


「はい」


「王宮菓子職人ではない」


「はい」


「三日もかけていない」


「はい」


「未来の王太子妃については」


 殿下は。


 また。


 止まった。


 ご令嬢を見る。


 ご令嬢も。


 殿下を見る。


「……何も言わない」


 研究会員たちの顔に。


 一斉に。


 笑みが浮かんだ。


「なぜ。笑う」


「いえ」


「何でもありません」


「事実です」


「その顔で。事実と言うな」


「では。どのように。訂正を?」


 代表の男子生徒が。


 真面目な顔を作って尋ねる。


「学園の掲示板に」


「それは。やめた方がよいそうだ」


 殿下が。


 私を見る。


「マリアが言った」


「理由は?」


「さらに広がるからだ」


「では。研究会から。聞かれたときだけ。事実を伝えます」


「ああ」


「殿下から。研究会全体へ差し入れをいただいたこと」


「ああ」


「研究について。助言と称賛をいただいたこと」


「ああ」


「ある方を。少しではなく。心配していたこと」


「それは。必要か」


「事実です」


 ご令嬢が。


 小さく。


 笑った。


 殿下は。


 何かを。


 言い返そうとした。


 けれど。


 ご令嬢の笑顔を見て。


 言葉を止めた。


「……勝手にしろ」


「はい」


「ただし」


「はい」


「守るとも。婚約とも。言っていないことは」


「必ず。訂正いたします」


「未来のことは」


「何も申しません」


 代表の男子生徒が。


 はっきりと答えた。


 殿下は。


 少しだけ。


 気まずそうに。


 視線を逸らした。


 研究会員たちは。


 それ以上。


 からかわなかった。


 全員が。


 殿下とご令嬢の間に。


 生まれたものを。


 乱暴に触らないようにしている。


「では」


 殿下が。


 姿勢を正す。


「邪魔をした」


「いいえ」


 ご令嬢が言う。


「お話しできて。嬉しかったです」


 殿下は。


 また。


 止まった。


 それから。


 昨日より。


 少しだけ。


 早く。


 言葉を返した。


「私も」


 室内の空気が。


 揺れた。


 殿下ご自身も。


 驚いた顔をした。


 けれど。


 もう。


 否定しなかった。


「……話せて。よかった」


 ご令嬢の笑顔が。


 少しだけ。


 深くなる。


「はい」


 殿下は。


 今度こそ。


 扉へ向かった。


 今日は。


 道を間違えない。


 私は。


 そのあとを追う。


 扉を閉める直前。


 ご令嬢が。


 殿下を呼んだ。


「王太子殿下」


「何だ」


「昨日のお菓子」


 殿下の目が。


 少しだけ。


 大きくなる。


「とても。おいしかったです」


「そうか」


「はい」


「どの菓子を」


「蜂蜜のものを」


「全部。蜂蜜だ」


「丸いものです」


「あれか」


「はい」


「甘すぎなかったか」


「ちょうどよかったです」


「そうか」


 殿下の口元が。


 ほんの少し。


 緩む。


「次は」


 言いかけて。


 殿下は。


 止まった。


「次?」


 ご令嬢が尋ねる。


 殿下は。


 迷う。


 けれど。


「別のものも。試すか」


 と。


 言った。


 研究会員たちが。


 また。


 息を呑む。


 ご令嬢は。


 少しだけ。


 頬を赤くした。


「研究会の皆さんと?」


 殿下は。


 ご令嬢の問いを。


 そのまま受け取った。


「……最初は」


 と答えた。


 私は。


 思わず。


 殿下を見た。


 殿下も。


 ご自分の言葉に。


 驚いている。


 最初は。


 その先。


 いつか。


 研究会全体ではなく。


 ご令嬢へ。


 何かを渡す日が。


 来るかもしれない。


 その可能性を。


 殿下ご自身が。


 口にした。


「はい」


 ご令嬢は。


 嬉しそうに。


 うなずいた。


「楽しみにしております」


 殿下は。


 もう。


 何も言えなかった。


 そのまま。


 扉を閉じた。


          ◇


 研究棟を出るまで。


 殿下は。


 無言だった。


 廊下。


 階段。


 玄関。


 外へ出る。


 夕方の風が。


 校舎の間を抜ける。


 少し離れた場所で。


 待っていた生徒たちが。


 殿下の姿を見る。


 何があったのか。


 知りたそうにしている。


 けれど。


 殿下は。


 何も言わない。


 ただ。


 歩く。


 私は。


 その隣へ。


 ついていく。


「マリア」


 中庭の手前で。


 ようやく。


 殿下が口を開いた。


「はい」


「私は」


「はい」


「何を。言った」


「どの部分ですか」


「最後だ」


「別のものも試すか、と」


「そのあと」


「ご令嬢が。研究会の皆さんと、と」


「そのあとだ」


「殿下が。最初は、と」


「なぜ。正確に覚えている」


「聞いていましたから」


「忘れろ」


「無理です」


「命令だ」


「私的な会話へ」


「分かっている!」


 殿下の声が。


 中庭へ響く。


 遠くの生徒たちが。


 一斉に。


 こちらを見る。


 殿下は。


 顔を背けた。


「最初は。とは。何だ」


「殿下がおっしゃったのです」


「私は。何を考えていた」


「私に聞かれても」


「相談役だろう」


「恋愛相談役です」


「なら。分かるだろう」


「殿下」


「何だ」


「ご令嬢と。お二人で。何かを召し上がる未来を。少し考えたのでは?」


「違う」


 殿下は。


 即答した。


 私は。


 黙る。


 殿下も。


 ご自分が。


 いつもの言葉へ戻ったことに気づく。


「……違うというのが」


「違うのですか」


「先に言うな」


「昨日から。何度も聞いたので」


「覚えるな」


「大切です」


 殿下は。


 深く。


 息を吐いた。


「考えた」


「はい」


「少しだけだ」


「はい」


「研究会の者たちと。何度か。差し入れを食べれば」


「はい」


「そのうち。彼女が。一人のときに。何かを渡しても」


「はい」


「不自然ではないかと」


「はい」


「だから。最初は。と言った」


「とても。よいと思います」


「褒めるな」


「受け取る練習です」


「今は。無理だ」


「では。あとで」


「やめろ」


 殿下は。


 歩調を速める。


 私は。


 ついていく。


「殿下」


「何だ」


「今日は。噂を訂正できませんでしたね」


「できた」


「守る。婚約。王宮菓子職人については」


「ああ」


「でも。ご令嬢を特別に思っていないという部分は」


「……訂正していない」


「はい」


「事実ではないからだ」


 殿下が。


 とても。


 小さな声で。


 言った。


 私は。


 足を止めかけた。


「殿下」


「何だ」


「今」


「聞くな」


「ご令嬢を。特別に思っていないというのは。事実ではないと」


「聞くなと言った」


「聞こえました」


「忘れろ」


「無理です」


「なぜだ」


「とても。大切なことだからです」


 殿下も。


 足を止めた。


 夕方の中庭。


 木々の葉が。


 風に揺れる。


 遠くで。


 生徒たちの笑い声が聞こえる。


 殿下は。


 私を見た。


 顔は。


 赤い。


 けれど。


 逃げるように。


 視線を外さなかった。


「好きだとは」


 殿下が。


 言う。


「まだ。言っていない」


「はい」


「言えるほど。分かっていない」


「はい」


「だが」


 一度。


 沈黙。


「特別ではないと。言うのは。違う」


「はい」


「私は。そう思う」


 それは。


 告白ではない。


 けれど。


 これまで。


 殿下が。


 必死に。


 否定してきたものから。


 一歩。


 離れた言葉だった。


「マリア」


「はい」


「これは。口から出す前に。止めるべきだったか」


 私は。


 ゆっくり。


 首を横へ振った。


「いいえ」


「そうか」


「はい」


「なら」


 殿下は。


 少しだけ。


 安堵したように。


 息を吐いた。


「覚えていてもよい」


「はい」


「ただし」


「はい」


「誰にも言うな」


「もちろんです」


「噂を広げるな」


「私は広げていません」


「朝。余計なことを」


「今は。言いません」


「本当か」


「はい」


「信用できない」


「失礼です」


「事実だ」


 殿下は。


 また。


 歩き出した。


 けれど。


 先ほどまでより。


 少しだけ。


 歩調が。


 穏やかだった。


 噂を。


 否定しようとした一日。


 殿下は。


 守るとは言っていない。


 婚約とも言っていない。


 王宮の菓子でもない。


 そのように。


 たくさんのことを。


 訂正した。


 けれど。


 否定しようとするたび。


 本当のことへ。


 少しずつ。


 近づいていった。


 未来を。


 最初から閉じたくない。


 あり得ないとは。


 言いたくない。


 ご令嬢を。


 何度も見ていた。


 特別ではないというのは。


 違う。


 好きだと。


 口にするには。


 まだ。


 遠い。


 けれど。


 嫌いだと。


 言い続けていた場所からは。


 もう。


 ずいぶん。


 離れている。


 王太子殿下。


 噂は。


 まだ。


 収まらないでしょう。


 きっと。


 明日には。


 今日のお話も。


 誰かの想像を足され。


 別の形になっています。


 殿下が。


 未来の王太子妃候補として。


 ご令嬢を正式に認めた。


 そのような噂に。


 変わっているかもしれません。


 殿下は。


 また。


 怒るのでしょう。


 違う。


 そのような意味ではない。


 勝手なことを言うな。


 そう。


 おっしゃるのでしょう。


 けれど。


 どうか。


 そのときも。


 すべてを。


 否定しないでください。


 違うものだけを。


 違うと。


 言ってください。


 そして。


 本当のことまで。


 怖さの中へ。


 押し戻さないでください。


 あなたの恋は。


 まだ。


 告白には。


 届いていません。


 それでも。


 否定するたび。


 遠ざかっていた頃とは違う。


 今は。


 否定するたび。


 本当に言いたいことへ。


 近づいているのですから。

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