第70話 王太子殿下、褒める順番を一日かけて間違える
誰かに。
いてほしいと伝えることは。
案外。
難しいものです。
必要だと言えば。
役目を求めているように聞こえる。
頼りにしていると言えば。
能力だけを見ているようにも聞こえる。
そばにいてほしいと言えば。
あまりにも近い。
だから。
多くの人は。
その間を探す。
感謝。
称賛。
気遣い。
遠回しな言葉。
相手が受け取りやすい形へ整え。
少しずつ。
自分の気持ちを差し出していく。
けれど。
王太子殿下は。
その。
少しずつというものが。
大変に苦手でいらっしゃる。
大切に思えば思うほど。
言葉を重くする。
重くなった言葉を。
口から出す直前に恐ろしくなり。
軽く見せようとして。
ひどいものへ変えてしまう。
褒めたいときほど。
先に欠点を口にする。
会いたいときほど。
来なくてもよかったと言う。
助かったときほど。
別に困ってはいなかったと付け足す。
そして。
好きな方へ。
嫌いだと。
おっしゃる。
そのため。
昨日。
私は。
殿下へ一つの宿題を出した。
誰かを褒めるとき。
まず。
悪くないと言うのをやめる。
相手の欠点を。
先に指摘しない。
褒めた直後に。
評価を下げる言葉を足さない。
できれば。
素敵だと思う、と伝える。
殿下は。
最後まで。
必要ないとおっしゃっていた。
しかし。
翌朝。
私は。
その宿題を。
殿下が思っていた以上に真剣に受け止めていらっしゃったことを知った。
◇
「朝から、どうされたのですか」
朝の鐘が鳴る。
少し前。
私は。
教室へ向かう途中の回廊で。
壁に向かって立つ王太子殿下を見つけた。
殿下は。
一人ではなかった。
少し離れた場所に。
二人の警護役。
王太子付きの侍従。
そして。
通りかかったものの。
この異様な光景を前に。
立ち去ることもできなくなった生徒たちが。
半円を描くように集まっていた。
誰も。
声を出していない。
けれど。
全員が。
殿下を見ている。
当然だ。
王太子殿下が。
朝の回廊で。
石壁へ向かい。
真剣な顔で。
「素晴らしい」
と。
おっしゃっている。
何度も。
「素晴らしい」
壁へ。
「大変、素晴らしい」
石壁へ。
「私は……その……非常に」
殿下は。
そこで。
言葉を止めた。
回廊に。
長い沈黙が落ちる。
見守っている生徒たちも。
息を止める。
殿下は。
壁を見たまま。
険しい顔になった。
「やはり、ここまでだ」
諦めかけた声で。
そう。
おっしゃった。
私は。
しばらく。
何も言えなかった。
話しかけてよいのか。
このまま。
見なかったことにするべきなのか。
迷った。
けれど。
殿下の侍従が。
私を見つけた瞬間。
救いを求めるような目を向けてきた。
そのため。
仕方なく。
声をかけた。
「朝から、どうされたのですか」
殿下の肩が。
大きく揺れた。
ゆっくり。
振り返る。
「……マリア」
「はい」
「いつからいた」
「最後の、やはりここまでだ、というところからです」
「それは最後だ」
「はい」
「では、何も聞いていないな」
「その前に、素晴らしいと何度か」
「聞いているではないか」
「聞こえてしまいました」
殿下は。
眉間へ深く皺を寄せた。
周囲の生徒たちは。
一斉に。
視線を逸らした。
けれど。
誰一人。
その場から離れない。
興味を失ったふりをして。
窓の外を見る者。
掲示板を読む者。
友人の制服の襟を。
意味もなく整え始める者。
皆。
耳だけは。
こちらへ向けている。
「殿下」
「何だ」
「壁を褒めていらしたのですか」
「違う」
「では、何を」
「練習だ」
「何の?」
尋ねると。
殿下は。
明らかに。
答えたくないという顔をした。
私は。
待った。
周囲の生徒たちも。
待った。
警護役は。
表情を動かさない。
侍従だけが。
そっと目を閉じた。
「昨日」
殿下は。
小さく。
言った。
「お前が。褒める練習をしろと言った」
「はい」
「だから。していた」
「壁に?」
「人へ言う前に、言葉だけを出せるようにしている」
「壁は、何を褒められたのですか」
「壁を褒めているのではない!」
殿下の声が。
回廊へ響いた。
近くの窓辺にいた鳥が。
驚いて飛び立つ。
生徒たちの肩も。
揃って跳ねた。
「対象を想定している」
「どなたを?」
「……」
「殿下」
「言う必要はない」
「好きなご令嬢ですか」
「違う」
早い。
あまりにも。
早い。
「まだ、最後まで伺っていません」
「聞いた」
「私は、好きなご令嬢ですか、としか」
「だから違うと言った」
「何が違うのですか」
「好きでは」
殿下は。
そこまで言った。
そして。
止まった。
回廊の空気も。
止まった。
周囲の生徒たちが。
息を呑む。
私は。
殿下を見た。
殿下は。
ご自分の口元を。
片手で押さえていた。
昨日までなら。
そのまま。
好きではない。
嫌いだ。
そのような言葉へ。
進んでいたかもしれない。
けれど。
今日は。
止まった。
間に合った。
「殿下」
「……何だ」
「今、止められましたね」
「何をだ」
「間違った言葉です」
「間違っていない」
「では、続きを」
「ない」
「好きでは?」
「続きはない」
「途中で終わっています」
「なら。忘れろ」
「難しいです」
「命令だ」
「私的な会話へ命令を使わないでください」
「昨日も聞いた」
「今日も申し上げます」
殿下は。
苛立ったように。
私を睨んだ。
けれど。
頬が。
少し赤い。
そして。
その赤みが。
周囲の視線へ気づいた瞬間。
さらに濃くなった。
「お前たちは」
殿下が。
半円を描く生徒たちへ顔を向ける。
「何をしている」
一人の男子生徒が。
「通学です」
と答えた。
「教室は反対だろう」
「……寄り道を」
「朝からか」
「はい」
「理由は」
男子生徒は。
困った。
隣の友人を見る。
友人は。
助けなかった。
「王太子殿下が」
男子生徒は。
覚悟を決めたように言う。
「壁とお話しされていたので」
誰かが。
吹き出した。
すぐに。
咳で誤魔化す。
殿下の眉間へ。
もう一本。
皺が増えた。
「話していない。練習だ」
「はい」
「何がおかしい」
「おかしくはありません」
「では、なぜ笑った」
「私ではありません」
「今、口元が動いた」
「殿下」
私が。
間へ入る。
「皆さんは、教室へ向かわれる途中です」
「反対方向だ」
「遠回りなさっているのでしょう」
「全員が?」
「朝の散歩かもしれません」
「鞄を持ってか」
「学習用具を持った散歩です」
「お前は、私を助ける気があるのか」
「あります」
「見えない」
殿下が。
低く。
息を吐く。
そして。
生徒たちへ。
「教室へ行け」
と告げた。
今度は。
全員が。
すぐに動いた。
「失礼いたしました」
「おはようございます、殿下」
「練習、頑張ってください」
最後の一言を残した女子生徒は。
友人に腕を引かれ。
逃げるように走っていった。
殿下は。
その背中を。
しばらく無言で見送った。
「……広まるな」
「何がですか」
「今のことだ」
「殿下が、朝から壁へ素晴らしいとおっしゃっていたことですか」
「正確に言うな」
「皆さん、聞いていました」
「そうだった」
「おそらく。昼までには、学園中が知ると思います」
「なぜだ」
「王太子殿下が壁を褒めるというのは、珍しいことですから」
「壁ではないと言っている!」
また。
殿下の声が。
回廊へ響いた。
すでに離れていた生徒たちが。
一斉に。
こちらを振り返る。
そして。
殿下と目が合う前に。
今度こそ。
足早に去っていった。
◇
「それで」
私は。
殿下と並び。
教室棟へ向かう。
「練習は、どこまで進んだのですか」
「見ただろう」
「最後の部分だけです」
「十分だ」
「素晴らしい、までは言えるようになったのですね」
「言える」
「その先が」
「必要ない」
「何を伝えるおつもりだったのですか」
「だから、言う必要はない」
殿下は。
歩調を速めた。
私も。
少し急いでついていく。
「研究についてでしょうか」
「……」
「昨日、好きなご令嬢の研究が進んでいるか聞くと」
「彼女の名を出すな」
「出していません」
「声が大きい」
「小さく話しています」
「お前の小さいは信用できない」
「普通です」
殿下は。
回廊の角を曲がった。
前から歩いてきた下級生たちが。
殿下に気づく。
慌てて道を空け。
深く頭を下げた。
「おはようございます、王太子殿下」
「ああ」
殿下は。
短く応じる。
そのまま。
通り過ぎようとした。
けれど。
下級生の一人。
両腕に。
大きな紙の束を抱えた少女が。
足元を滑らせた。
「あっ」
紙が。
回廊へ舞った。
窓から入った風に乗り。
一枚。
二枚。
白い紙が。
床を滑っていく。
少女は。
青ざめた。
「も、申し訳ございません!」
殿下へぶつかったわけではない。
それでも。
王太子殿下の前で。
物を落とした。
それだけで。
少女の手は震えていた。
殿下は。
床へ散らばった紙を見る。
次に。
少女を見る。
私は。
少し身構えた。
殿下は。
こういうとき。
助けようとして。
最初に。
持ち方が悪い。
前を見ろ。
そのようなことを。
おっしゃる。
少女の顔が。
さらに強張る。
殿下の口が。
開いた。
「持ち方が」
私は。
殿下の袖を。
軽く引いた。
殿下が。
止まる。
こちらを見る。
私は。
何も言わない。
ただ。
殿下を見返す。
昨日。
そして。
今朝。
練習したことを。
思い出していただく。
殿下は。
眉間へ皺を寄せた。
もう一度。
少女へ向き直る。
「……怪我はないか」
少女が。
目を見開いた。
「え」
「転んではいないようだが」
「は、はい。ありません」
「そうか」
殿下は。
床へ落ちた紙を。
一枚。
拾った。
警護役も。
侍従も。
下級生たちも。
驚いている。
王太子殿下ご自身が。
床へ手を伸ばしたからだ。
殿下は。
拾った紙へ。
一瞬。
目を落とした。
「植物画か」
「はい。薬草学の提出課題です」
少女は。
慌てて。
残りの紙を集め始めた。
私も。
数枚を拾う。
精密な絵だった。
茎。
葉脈。
花弁。
根。
小さな文字で。
効能や。
採取時期が記されている。
「細かいな」
殿下が言った。
「も、申し訳ございません。見づらく」
「違う」
少女の肩が。
さらに縮む。
殿下は。
また。
言葉を間違えたことに気づく。
「細部まで、よく描かれているという意味だ」
「……」
「葉脈の向きも。根の節も。実物と同じだ」
少女が。
殿下を見る。
「ご覧になったことがあるのですか」
「王宮薬草園にある」
「そうなのですね」
「この花は。乾燥させると色が変わる」
「はい。青から、少し灰色に」
「ああ」
殿下は。
紙を。
少女へ差し出した。
「よく調べている」
少女の指が。
紙を受け取る直前で止まった。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
けれど。
震えていたのは。
恐怖ではなかった。
「大変、光栄です」
少女は。
両手で紙を受け取り。
深く。
頭を下げた。
他の下級生たちも。
一緒になって。
礼をする。
「失礼いたします」
彼女たちは。
紙を抱え直し。
何度も振り返りながら。
回廊の向こうへ去っていった。
その背中から。
抑えきれない声が。
すぐに聞こえた。
「王太子殿下に褒められた……」
「見た、今の?」
「見たよ」
「よく調べている、って」
「すごい」
「どうしよう」
「何を?」
「分からない」
殿下の耳にも。
すべて聞こえていた。
殿下は。
その場に立ったまま。
動かなかった。
「殿下」
「何だ」
「できましたね」
「何が」
「褒めることです」
「事実を言っただけだ」
「それでよいのです」
「まだ、素晴らしいとは言っていない」
「言わなくても、伝わりました」
「昨日は言えと言った」
「場合によります」
「条件が多い」
「人の気持ちは、条件が多いものです」
殿下は。
不満そうだった。
けれど。
先ほどの少女が去った方角を。
もう一度。
見た。
「……泣いてはいなかったな」
「嬉しそうでした」
「そうか」
「はい」
「なら。よい」
殿下の声は。
小さかった。
その口元が。
ほんの少し。
緩んでいた。
私は。
指摘しなかった。
指摘すれば。
すぐに。
元へ戻ってしまう気がしたから。
◇
その日の午前中。
殿下が壁を褒めていたという噂は。
私の予想より。
早く。
学園中へ広がった。
一時限目が終わる頃には。
王太子殿下は、石壁の耐久性を称賛なさっていた。
という話になり。
二時限目が終わる頃には。
殿下は、昨夜の嵐から学園を守った壁へ感謝を伝えていた。
ということになった。
昨夜。
嵐はなかった。
さらに。
昼休みを迎える頃には。
殿下が壁へ向かって。
『お前だけは、私を裏切らない』
とおっしゃったという話まで。
生まれていた。
もちろん。
すべて。
事実ではない。
「どうして。そこまで話が変わるんだ」
昼休み。
校舎裏のベンチで。
殿下は。
本気で。
理解できないという顔をしていた。
「噂とは、そういうものです」
「私は。素晴らしいと言っただけだ」
「誰に向かって言ったのか分からなかったので、壁に対してだと思われたのでしょう」
「練習だと説明した」
「何の練習かを、おっしゃらなかったからです」
「言えるわけがないだろう」
「好きなご令嬢を褒める練習です、と」
「なおさら言えるか!」
殿下の声が。
昼休みの庭へ響く。
近くを歩いていた生徒たちが。
一斉に。
こちらを見る。
殿下は。
咳払いをした。
今度は。
声を落とす。
「それに。彼女を褒めるためと決まったわけではない」
「そうなのですか」
「一般的な練習だ」
「では、誰にでも素晴らしいと?」
「そうではない」
「難しいですね」
「お前が難しくしている」
殿下は。
ベンチの横に置いた包みを。
不機嫌そうに開いた。
昼食だった。
今日も。
王宮料理人が用意したものではなく。
学園の購買で買った。
簡単なパンと。
果実水。
以前。
殿下が。
生徒たちと同じものを食べてみたいとおっしゃってから。
ときどき。
こうして購買を利用されている。
もっとも。
王太子殿下が並べば。
列が止まる。
そのため。
実際に買いに行くのは。
侍従の方だ。
「殿下」
「何だ」
「それは」
殿下が。
手にしていたパンは。
細長い生地の中に。
香辛料で味をつけた肉を挟んだものだった。
「購買の新商品ですね」
「ああ」
「人気だそうです」
「午前中で売り切れると聞いた」
「よく買えましたね」
「侍従が。鐘が鳴る前から並んだ」
少し離れた場所にいる侍従を見る。
侍従は。
何も言わず。
静かに頭を下げた。
ご苦労が。
表情から伝わってくる。
「それで」
殿下は。
パンを見た。
まだ。
食べようとはなさらない。
「彼女は。これを食べたことがあるだろうか」
「好きなご令嬢ですか」
「声が大きい」
「普通です」
「小さくしろ」
「はい」
「……食べたことがあると思うか」
「私には分かりません」
「お前は、女子生徒同士の話を聞かないのか」
「学園のすべてのご令嬢の食事を把握しているわけではありません」
「役に立たないな」
「殿下」
「何だ」
「今のは、必要のない一言です」
「事実だ」
「事実でも、言わなくてよいことがあります」
「お前は。私に言うだろう」
「相談役ですから」
「便利な言葉だな」
「便利です」
殿下は。
私へ向けていた視線を。
パンへ戻した。
「これを」
殿下が。
言う。
「彼女へ渡すのは。どう思う」
私は。
少し驚いた。
殿下の方から。
好きなご令嬢へ。
何かを渡したいと。
おっしゃった。
以前なら。
自分から贈るなど。
相手が迷惑だ。
媚びているように見える。
食べ物くらい自分で買える。
そのように。
否定から始めたはずだ。
「よいと思います」
「簡単に言うな」
「なぜですか」
「彼女が。食べたくない可能性がある」
「その場合は、断られるかもしれません」
「断られるのか」
殿下の顔が。
すぐに険しくなる。
「可能性の話です」
「なら。やめた方がよい」
「早いです」
「迷惑になる」
「渡してみなければ分かりません」
「受け取らせること自体が、圧力になるかもしれない」
「では、断ってもよいとお伝えください」
「王太子から渡されて。断れると思うか」
「殿下」
「何だ」
「その点へ気づけたことは。とてもよいと思います」
殿下が。
私を見る。
「褒めたのか」
「はい」
「急だな」
「よいところがあったので」
殿下は。
少し。
落ち着かないように視線を逸らした。
「ただ」
私が続けると。
殿下の眉が。
すぐに寄る。
「褒めた直後に欠点を言うなと。お前が言った」
「これは助言です」
「自分には甘い」
「相談役ですから」
「またそれか」
「殿下がお渡しになると。たしかに。ご令嬢は断りづらいかもしれません」
「ああ」
「ですが。選べる形にすることはできます」
「どうする」
「二つ用意して。どちらかを選んでいただくとか」
「どちらも欲しくない場合は」
「受け取らなくてもよいと。先にお伝えする」
「それだけでは、断りづらい」
「では。殿下から直接ではなく。皆さんへ差し入れとして持っていく方法もあります」
「皆?」
「ご令嬢がお一人で研究なさっているわけではないのでしょう?」
「ああ。研究会の友人たちと。放課後に集まることがある」
「では、人数分を」
「それでは。彼女だけに渡したことにならない」
「まだ。特別に渡したいのですか」
「違う」
殿下は。
また。
即答した。
「研究をしている者への。公平な差し入れだ」
「公平なら。別の研究会にも必要では?」
「なぜだ」
「公平ですから」
「そういう意味ではない」
「どのような意味です?」
殿下は。
答えなかった。
包みの中のパンを。
見つめている。
「彼女が」
しばらくして。
小さく言う。
「昨日も。遅くまで残っていた」
「研究で?」
「ああ」
「殿下は。ご覧になったのですか」
「遠くからだ」
「お声はかけなかったのですか」
「集中していた」
「邪魔をしないように?」
「……そうだ」
殿下は。
また。
パンへ視線を落とした。
「食事を取っていなかったかもしれない」
「心配されたのですね」
「違う」
「殿下」
「一般的に。食事を抜けば、集中力が落ちる」
「はい」
「研究の効率も下がる」
「はい」
「だから。これは。研究のためだ」
「ご令嬢の体調ではなく?」
「両方だ」
言ったあと。
殿下は。
固まった。
私も。
すぐには。
何も言わなかった。
殿下は。
ゆっくり。
こちらを見る。
「今」
「はい」
「何か。間違えたか」
「いいえ」
「本当か」
「はい」
「なぜ黙った」
「正しい言葉が。あまりにも自然に出たので」
「自然ではない」
「ご令嬢の体調も心配だと。おっしゃいました」
「確認するな」
「大切です」
「忘れろ」
「忘れません」
「なぜだ」
「殿下が。正しくおっしゃったからです」
「……」
「褒める練習が。少し役に立っているのかもしれません」
「これは褒めていない」
「気持ちを。悪い言葉へ変えずに出せました」
殿下は。
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
手にしていたパンを。
そっと包みへ戻した。
「午後」
殿下が言う。
「もう一つ。買えるか」
「売り切れているのでは?」
「別のものでもよい」
「差し入れですか」
「研究会へだ」
「はい」
「彼女だけではない」
「分かりました」
「勘違いするな」
「していません」
「今。笑っただろう」
「笑っていません」
「口元が」
「パンを食べましょう。昼休みが終わります」
「話を逸らすな」
「冷めてしまいます」
「すでに冷めている」
「では。硬くなる前に」
殿下は。
不満そうに。
包みから。
再びパンを取り出した。
けれど。
ひと口食べる前に。
「これを。彼女も食べるかもしれないのか」
と。
小さく。
おっしゃった。
私は。
今度こそ。
笑ってしまった。
「何がおかしい」
「いいえ」
「笑った」
「殿下」
「何だ」
「それは。おいしいですか」
「まだ食べていない」
「では。先に殿下が確かめてください」
「そうする」
殿下は。
パンを食べた。
しばらく。
無言で噛む。
「どうです?」
「……悪くない」
「殿下」
「しまった」
殿下は。
目を閉じた。
そして。
もう一度。
パンを見る。
「うまい」
「はい」
「香辛料が強いが。肉の脂が重くならない」
「はい」
「生地も。時間が経っている割に硬くない」
「よくできました」
「子ども扱いするな」
「では。次は、ご令嬢へ」
「まだ渡すとは決めていない」
「研究会への差し入れです」
「……ああ」
殿下は。
もう一口。
食べた。
今度は。
先ほどよりも。
少しだけ。
表情が柔らかかった。
◇
放課後。
殿下は。
購買で用意させた焼き菓子の箱を。
両手で持っていた。
箱は。
決して大きくない。
研究会の人数分。
小さな蜂蜜菓子が入っている。
昼の新商品は。
やはり売り切れていた。
代わりに。
日持ちのする焼き菓子を選んだ。
研究中でも。
手を汚さず。
少しずつ食べられるから。
というのは。
購買担当者の助言だった。
「なぜ。私が持つ」
研究棟へ向かう廊下で。
殿下が言った。
「殿下がお渡しになるからです」
「侍従が持てばよい」
「最後までご自分で」
「重くはない」
「では、問題ありませんね」
「そういう話ではない」
殿下は。
箱を。
少し持ち直した。
私は。
殿下の半歩後ろを歩く。
警護役は。
さらに後方。
殿下が。
研究会へ向かうという話は。
どこからか。
すでに広がっていた。
廊下の窓辺。
階段。
中庭へ続く扉の近く。
あちらこちらに。
生徒たちがいる。
普段なら。
放課後の研究棟は。
もっと静かだ。
けれど。
今日は。
人が多い。
もちろん。
誰も。
殿下を見に来たとは言わない。
「今日は、ここの掲示を見に」
「友人を待っているだけです」
「窓からの景色が好きで」
理由は。
それぞれだった。
ただ。
全員の視線が。
殿下の手元にある箱へ向いている。
「マリア」
「はい」
「見られている」
「王太子殿下ですから」
「箱をだ」
「珍しいのでしょう」
「何が入っているか。知られているのか」
「おそらく。まだ知られていません」
「なら。なぜ見る」
「殿下が。ご自分で箱を持って歩いていらっしゃるからです」
「それだけでか」
「はい」
「……戻るぞ」
殿下が。
急に。
足を止めた。
私は。
殿下の前へ回る。
「なぜです」
「騒ぎになる」
「もうなっています」
「なら。なおさらだ」
「今、戻れば。何を渡そうとしていたのかという噂が。さらに広がります」
「進んでも広がる」
「どちらにしても広がります」
「救いがない」
「殿下」
「何だ」
「差し入れをすることは。恥ずかしいことではありません」
「恥ずかしいとは言っていない」
「お顔に出ています」
「出ていない」
「耳が赤いです」
「気温が高い」
「今日は涼しいです」
「箱が熱い」
「焼きたてではありません」
殿下は。
箱を持ったまま。
しばらく。
動かなかった。
周囲の生徒たちも。
立ち止まった殿下を。
息を潜めて見ている。
このまま。
長く留まれば。
さらに人が増える。
「殿下」
「何だ」
「今。何を恐れていらっしゃるのですか」
「恐れてなどいない」
「では。何が嫌なのです?」
「……」
「ご令嬢に。迷惑がられることですか」
「違う」
「受け取ってもらえないこと?」
「違う」
「好きだと。周囲に知られること?」
「違う!」
殿下の声が。
廊下へ響いた。
周囲から。
息を呑む音が。
いくつも聞こえた。
殿下は。
すぐに。
ご自分が何を否定したのか。
気づいた。
目を閉じる。
「……帰る」
「殿下」
「今のは。終わりだ」
「終わりません」
「お前は。なぜ」
「好きだと周囲に知られることが嫌なのではないのですね」
「確認するな」
「では。何が嫌なのです?」
殿下は。
箱を見た。
廊下を見た。
研究会の部屋がある方角を見る。
そして。
とても。
小さな声で。
「彼女が」
と。
言った。
「はい」
「困ることだ」
私は。
黙って待つ。
「私が。何かをすれば」
殿下の指が。
箱の端を。
強く掴む。
「周囲が見る」
「はい」
「何か意味があるのではないかと。勝手に考える」
「はい」
「彼女が。私から何かを受け取っただけで。特別な関係だと。言う者もいるかもしれない」
周囲の生徒たちが。
少し。
気まずそうに視線を逸らした。
きっと。
すでに。
考えている。
「彼女は。研究をしているだけだ」
「はい」
「私のことで。邪魔をされたくない」
殿下の声は。
低かった。
逃げるための言葉ではない。
ご令嬢を。
守りたい。
それは。
はっきり伝わった。
「なら」
私は言う。
「殿下ご自身が。そうお伝えになればよいのではありませんか」
「何を」
「研究を邪魔するつもりはないと」
「それだけでは」
「皆さんの前で。研究会全体への差し入れだと」
「……」
「ご令嬢だけを呼び出さず。皆さんへ渡す」
「だが」
「そして。ご令嬢へは」
私は。
一度。
言葉を止めた。
「研究を続ける姿勢を。素敵だと思うと」
殿下の顔が。
固まった。
「それは。必要か」
「今日の宿題です」
「差し入れだけでよい」
「逃げますか」
「逃げない」
「では」
「別の日にする」
「今日は。研究会の皆さんが集まっているのですよね」
「……ああ」
「ちょうどよいです」
「心の準備が」
「朝から練習なさっていたではありませんか」
「あれは。途中だ」
「素晴らしい、までは言えます」
「その先が問題だ」
「では。私が隣にいます」
「それが。さらに問題だ」
「なぜです」
「お前は。途中で。顔をする」
「どのような?」
「違う、と言いたそうな顔だ」
「間違ったら。します」
「だから嫌なのだ」
殿下は。
深く。
息を吐いた。
けれど。
今度は。
戻るとは。
おっしゃらなかった。
一歩。
研究会の部屋へ向かって進む。
私も。
その横に並ぶ。
周囲の生徒たちは。
私たちの後ろへ。
少しずつ。
ついてきた。
「お前たちは」
殿下が。
振り返らずに言う。
「教室へ戻れ」
「放課後です」
誰かが答えた。
「なら。帰れ」
「友人を待っています」
「全員がか」
「はい」
「嘘をつくな」
殿下が。
振り返る。
生徒たちは。
一斉に。
散った。
物陰。
階段。
開いていた教室。
それぞれへ。
逃げ込む。
けれど。
完全には。
いなくならない。
「殿下」
「何だ」
「諦めましょう」
「何を」
「見られないことをです」
「……」
「王太子殿下ですから」
「便利な言葉だな」
「事実です」
殿下は。
前を向いた。
研究会の扉は。
もう。
すぐそこだった。
◇
扉の向こうから。
複数の声が聞こえていた。
紙をめくる音。
椅子を動かす音。
誰かが。
議論している。
「この数値では、誤差が大きすぎます」
「でも、測定回数は増やしたよ」
「条件が揃っていないのです。昨日は午前。今日は午後でしょう」
「光量の差か」
「窓際で行ったのであれば、影響はあります」
「では、明日は同じ時間に」
殿下は。
扉の前で。
足を止めた。
中から聞こえる声。
その中に。
殿下が好きなご令嬢の声も。
混ざっているのだろう。
殿下の表情が。
目に見えて。
硬くなった。
「殿下」
「何だ」
「扉を」
「分かっている」
「はい」
殿下は。
片手で箱を支え。
空いた手を上げる。
扉を叩こうとする。
けれど。
止まる。
もう一度。
手を下ろす。
「どうされました」
「今。入れば。議論を止める」
「はい」
「迷惑だ」
「区切りまで待ちますか」
「そうする」
私たちは。
扉の前で。
待った。
中では。
話し合いが続く。
「では、午前と午後の両方で測定するのは?」
「比較できますね」
「人数が足りません」
「担当を分けよう」
「でも、授業があります」
「朝なら」
「校門が開く時間を考えると」
真剣な声だった。
殿下は。
黙って。
聞いている。
最初は。
ただ。
入るきっかけを待っていた。
けれど。
少しずつ。
内容そのものへ。
意識を向け始めたようだった。
「測定対象は何だ」
殿下が。
小さく言う。
「私に聞かれても」
「昨日。彼女が。発芽率の研究をしていると言っていた」
「では。光量と発芽の関係でしょうか」
「いや。発芽後の成長速度かもしれない」
殿下は。
扉を見た。
「窓際なら。外気温の影響もある」
「はい」
「同じ時間でも。窓を開けたかどうかで変わる」
「殿下」
「何だ」
「入りたいのですね」
「違う」
「研究のお話へ」
「内容を聞けば。疑問が出るだけだ」
「参加したいのでは?」
「邪魔になる」
「質問するだけなら」
「私が入れば。研究会ではなくなる」
殿下の言葉に。
私は。
すぐには返せなかった。
王太子殿下が。
一人。
部屋へ入る。
それだけで。
空気が変わる。
皆が。
殿下を意識する。
発言を選ぶ。
失敗を隠す。
昨日の資料解説も。
殿下がいらっしゃらなかったから。
研究会員たちは。
自分たちの言葉で話せた。
殿下は。
それを。
考えている。
入りたい。
けれど。
自分が入れば。
彼女たちの時間を。
また。
ご自分のものにしてしまうかもしれない。
「殿下」
「何だ」
「今日は。差し入れを渡すだけにしましょう」
「褒める練習は」
「それは。お伝えください」
「必要なのか」
「必要です」
「なぜ」
「研究会へ入らないからこそ。外から見ていることを。伝えるためです」
殿下が。
私を見る。
「ご令嬢の研究を奪わず。けれど。無関心でもないと」
「……」
「見守っていると」
「その言葉は。重い」
「では。研究を続ける姿勢を。素敵だと思うと」
「それも重い」
「では。応援していると」
「王太子が。特定の研究を応援すれば」
「殿下個人として」
「さらに意味を持つ」
「殿下」
「何だ」
「難しく考えすぎです」
「考えなければ。彼女が困る」
「はい」
「なら。考える」
殿下は。
まっすぐ。
そう言った。
私は。
口を閉じた。
殿下は。
昨日。
ご自分がいなくなれば済むと。
考えた。
今日は。
いなくならず。
けれど。
入り込まない方法を。
探している。
大勢の中へ。
ご自分の立場を持ち込むこと。
好きな方へ。
ご自分の気持ちを渡すこと。
その両方を。
雑に扱わないように。
考えている。
「では」
私は。
小さく言った。
「差し入れと。事実だけを伝えましょう」
「事実?」
「昨日。遅くまで研究なさっていたことを。殿下は知っている」
「ああ」
「食事を取っていないかもしれないと。気づいた」
「ああ」
「だから。皆さんで食べられるものを持ってきた」
「……」
「それだけです」
「褒めていない」
「最後に。無理をせず。続けてほしいと」
「それは。命令に聞こえる」
「では。休みながら続けてください」
「不自然だ」
「殿下」
「何だ」
「完璧な言葉はありません」
殿下は。
黙った。
「どれほど考えても。相手がどう受け取るかを。すべて決めることはできません」
「……」
「だから。言葉を出したあと。相手のお顔を見るのです」
「顔を」
「困っていたら。言い直す。嫌がっていたら。謝る。嬉しそうなら。その言葉でよかったと分かる」
「失敗してからでは遅い」
「恋愛では。失敗しないことより。失敗したあとに逃げないことの方が。大切な場合もあります」
「誰から聞いた」
「私の考えです」
「お前は。恋愛経験があるのか」
「殿下」
「何だ」
「今。そこを聞きますか」
「重要だろう」
「相談役の信頼性ですか」
「ああ」
「ありません」
「……」
「殿下もないでしょう」
「私は」
殿下が。
言い返そうとする。
けれど。
続かない。
「同じですね」
「同じにするな」
「では。二人で考えましょう」
「不安しかない」
「私もです」
「なぜ。自信があるように言う」
「殿下よりは。間違った言葉を言いません」
「それは認めない」
「では。扉を」
私は。
扉へ視線を向けた。
中の話し合いが。
ちょうど。
一度。
途切れている。
殿下も。
気づいた。
今度こそ。
手を上げる。
三度。
静かに。
扉を叩いた。
中から。
「はい」
という声が返る。
殿下は。
扉を開けた。
◇
研究会の部屋にいたのは。
六人だった。
長机の上には。
いくつもの鉢。
定規。
記録用紙。
水差し。
小さな測定器具。
窓辺には。
高さの異なる芽が。
並んでいる。
扉が開き。
王太子殿下の姿が見えた瞬間。
全員が。
動きを止めた。
椅子から。
一斉に立ち上がる。
「王太子殿下」
「ご、ご機嫌麗しく」
「そのままでよい」
殿下は。
すぐに言った。
「研究を止めるつもりはない」
皆が。
互いを見る。
座ってよいのか。
立ったままがよいのか。
迷っている。
「突然で。すまない」
殿下が。
続けた。
「すぐに帰る」
「殿下が謝られることでは」
研究会の代表らしい男子生徒が言う。
殿下は。
持っていた箱へ。
視線を落とした。
「昨日。遅くまで残っていたと聞いた」
好きなご令嬢の肩が。
わずかに動いた。
殿下は。
気づいている。
けれど。
その方だけを。
見なかった。
全員へ向けて。
話す。
「食事を。取らない者もいるかもしれない」
研究会員の一人が。
隣の友人を見る。
友人は。
気まずそうに。
目を逸らした。
心当たりがあるらしい。
「研究中でも。食べやすいものを。購買で選んだ」
殿下は。
箱を。
代表の男子生徒へ差し出した。
「人数分ある」
「私たちへ、ですか」
「ああ」
「ありがとうございます」
男子生徒は。
両手で。
箱を受け取った。
研究会員たちも。
揃って。
頭を下げる。
「ありがとうございます、殿下」
「大切にいただきます」
「いや。菓子だ。大切にするものではない」
殿下が。
真顔で言った。
部屋の空気が。
一瞬。
固まる。
私は。
殿下を見る。
殿下も。
私の顔を見る。
私が。
違うと言いたそうな顔をしていると。
気づいたのだろう。
「……今のは」
殿下が。
言い直す。
「保存せず。早めに食べろという意味だ」
「はい」
代表の男子生徒が。
少し笑った。
「今日。皆でいただきます」
「ああ」
空気が。
少しだけ。
柔らかくなる。
殿下は。
まだ。
帰らない。
ご令嬢へ。
伝える言葉が残っている。
けれど。
全員がいる。
どのように。
話すべきか。
また。
迷っている。
好きなご令嬢は。
殿下を見ていた。
期待ではない。
警戒でもない。
ただ。
何をおっしゃるのだろうと。
静かに待っている。
殿下の指が。
制服の袖口へ触れた。
緊張したときの癖だ。
「それから」
殿下が。
言う。
「研究を」
一度。
止まる。
「昨日も。続けていたな」
ご令嬢が。
「はい」
と答えた。
「殿下は。ご覧になったのですか」
「遠くからだ」
「お声をかけてくだされば」
「集中していた」
「……お気遣いいただいたのですね」
「違う」
殿下が。
すぐに言った。
私は。
息を止めた。
研究会員たちも。
殿下とご令嬢を。
交互に見る。
殿下は。
ご自分の言葉が。
また。
いつもの道へ入ったことに。
気づいた。
「違わない」
殿下が。
言い直す。
ご令嬢が。
目を瞬く。
「いや」
殿下は。
さらに混乱した。
「違うというのが。違う」
「……はい」
「私は」
殿下は。
私を見る。
助けを求めている。
けれど。
ここで。
私が代わりに言ってはいけない。
殿下ご自身の言葉だ。
私は。
小さく。
うなずいた。
殿下が。
ご令嬢へ向き直る。
「お前の研究を」
ご令嬢の眉が。
ほんの少し。
動く。
殿下は。
また。
ご自分の言葉が。
強すぎたことに気づく。
「あなたの研究を」
言い直した。
部屋の誰かが。
小さく。
息を呑む。
殿下が。
敬意を込めた呼び方を。
選び直したからだ。
「私は。すべて理解しているわけではない」
「はい」
「発芽後の成長と。光量の関係を調べているのか」
ご令嬢の表情が。
少し明るくなる。
「はい。ですが。光量だけではなく。温度と湿度の影響も分けられず。今。測定条件を見直していたところです」
「窓際では。外気の影響もある」
「やはり、そう思われますか」
「ああ。窓の開閉時刻も。記録した方がよい」
殿下は。
窓辺の鉢を見る。
「床からの高さでも。温度は変わる」
「そこまでは。考えていませんでした」
ご令嬢は。
すぐに。
記録用紙へ。
何かを書き込んだ。
殿下の目が。
その手元を追う。
「ありがとうございます」
ご令嬢が。
顔を上げる。
「明日から。条件へ加えます」
「いや」
殿下が。
また。
否定から入る。
私は。
少しだけ。
眉を上げた。
殿下は。
それに気づく。
「いや。礼を言われるほどではない」
「ですが。助言を」
「私は。思ったことを言っただけだ」
「それでも。助かりました」
「そうか」
殿下は。
一度。
口を閉じた。
ここで。
終わってもよかった。
差し入れは渡した。
研究の話もできた。
ご令嬢も。
嬉しそうだ。
けれど。
殿下は。
帰らなかった。
朝から。
壁へ向かって。
練習していた言葉。
昨日から。
言おうとしていたこと。
それを。
まだ。
出していない。
「研究を続ける姿勢は」
殿下が言う。
私の肩に。
少しだけ。
力が入る。
昨日。
悪くない。
と続けかけた言葉だ。
殿下も。
覚えている。
口が。
ゆっくり動く。
「悪く」
殿下は。
止まった。
研究会員たちが。
待っている。
ご令嬢も。
待っている。
殿下は。
一度。
目を閉じた。
そして。
「……素晴らしいと思う」
言った。
部屋の中が。
完全に。
静かになった。
外の廊下で。
誰かが。
物を落とす音がした。
聞き耳を立てていた生徒だろう。
けれど。
誰も。
そちらを見なかった。
ご令嬢は。
殿下を見ている。
殿下も。
逃げずに。
ご令嬢を見ていた。
「結果が出るかどうかは。まだ分からない」
殿下が。
続ける。
私は。
心の中で。
少しだけ。
不安になる。
褒めた直後に。
評価を下げてしまうのではないか。
けれど。
殿下は。
「だが」
と。
言った。
「分からないことを。分からないままにせず。何度も条件を変えて。確かめようとすることは」
一度。
息を吸う。
「素晴らしい」
二度目は。
先ほどより。
はっきりしていた。
ご令嬢の目が。
少しずつ。
大きくなる。
「私は。そう思う」
沈黙。
長い。
沈黙だった。
殿下の言葉が。
部屋の中へ。
ゆっくりと広がる。
研究会員たちは。
動かない。
ご令嬢は。
何も言わない。
殿下の表情が。
少しずつ。
不安へ変わる。
受け取ってもらえなかった。
言い方を間違えた。
やはり。
言うべきではなかった。
そのような考えが。
殿下のお顔へ。
次々に浮かぶ。
殿下が。
口を開く。
「ただし」
私は。
小さく。
「殿下」
と呼んだ。
殿下が。
止まる。
褒めたあとに。
何かを足そうとしていた。
ご令嬢が。
ようやく。
息を吐いた。
「……ありがとうございます」
声が。
少し。
震えていた。
殿下が。
目を見開く。
「私は」
ご令嬢は。
胸元で。
両手を重ねた。
「殿下が。私の研究を。ご覧になっているとは思いませんでした」
「遠くからだ」
「はい」
「邪魔をするつもりはなかった」
「はい」
「王太子として。評価しているわけでもない」
「……はい」
「私個人が」
殿下は。
また。
止まった。
けれど。
今度は。
逃げなかった。
「私個人が。素晴らしいと思った」
ご令嬢の頬が。
少しだけ。
赤くなる。
その変化を。
研究会員たちは。
見逃さなかった。
誰かが。
小さく。
笑いそうになり。
隣の者に。
肘で止められる。
ご令嬢は。
一度。
俯いた。
そして。
もう一度。
殿下を見る。
「とても。嬉しいです」
その瞬間。
殿下の表情が。
完全に。
止まった。
言葉を。
失っている。
「殿下?」
ご令嬢が。
不安そうに呼ぶ。
「……そうか」
殿下が。
ようやく。
答えた。
「はい」
「嬉しいのか」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「無理に。言っていないか」
「言っておりません」
「王太子の言葉だから」
「違います」
今度は。
ご令嬢の方が。
はっきり。
否定した。
「殿下が。見ていてくださったことが。嬉しいのです」
殿下は。
また。
黙った。
耳だけではない。
顔全体が。
少しずつ。
赤くなっていく。
殿下は。
それを隠すように。
ご令嬢から。
視線を逸らした。
「なら。よい」
「はい」
「研究を続けろ」
命令のようになった。
殿下も。
気づく。
「いや」
言い直す。
「続けたい」
なら。続ければよい」
「はい」
「無理はするな」
「はい」
「食事も取れ」
「はい」
「昨日。取っていなかっただろう」
ご令嬢の動きが。
止まった。
研究会員たちが。
一斉に。
ご令嬢を見る。
「取っていなかったのですか」
「だから、夕方から顔色が」
「言ってください」
「少しくらいなら」
ご令嬢が。
困ったように笑う。
殿下の眉間へ。
皺が寄った。
「少しではない」
「殿下」
「研究で。体調を崩せば。続けられない」
「はい」
「だから」
殿下は。
箱を。
指差した。
「食べろ」
ご令嬢が。
箱を見る。
そして。
微笑んだ。
「ありがとうございます」
「皆の分だ」
「はい」
「お前だけではない」
「分かっております」
「勘違いするな」
殿下。
と。
私は。
口を開きかけた。
けれど。
ご令嬢が。
先に。
小さく笑った。
「勘違いは。いたしません」
「そうか」
「ですが」
ご令嬢は。
殿下を見た。
「少しだけ。私のことも心配してくださったのだと。思ってもよろしいでしょうか」
殿下は。
完全に。
動かなくなった。
研究会員たちも。
息を止める。
廊下の外も。
静かだ。
聞き耳を立てる者たちまで。
殿下の答えを。
待っている。
「……一般的な」
殿下が。
言いかける。
私は。
殿下を見る。
殿下も。
私を見る。
一般的な心配だ。
誰に対しても同じだ。
特別な意味はない。
いつもの。
逃げ道。
それを。
選ぼうとしている。
殿下は。
長く。
黙った。
そして。
ご令嬢へ向き直る。
「少しではない」
ご令嬢が。
目を見開く。
殿下は。
ご自分でも。
何を言ったのか分からないような顔をした。
けれど。
もう。
戻せない。
「……それなりに」
殿下が。
付け足す。
私は。
目を閉じた。
なぜ。
正しい言葉のあとに。
必ず。
弱める言葉を足すのだろう。
「殿下」
「何だ」
「今の、それなりには不要です」
「そうか」
「はい」
「では」
殿下は。
ご令嬢へ。
もう一度。
言った。
「心配していた」
ご令嬢の頬が。
さらに。
赤くなる。
「ありがとうございます」
「……ああ」
殿下は。
もう。
それ以上。
何も言えなくなった。
私も。
助けなかった。
今。
殿下は。
逃げずに。
最後まで。
言えた。
完璧ではない。
途中で。
否定した。
言い直した。
不要な言葉も。
足した。
それでも。
相手の顔を見て。
受け取ってもらえるところまで。
言葉を渡した。
「では」
殿下は。
急に。
姿勢を正した。
「邪魔をした」
「いいえ」
「研究を続けろ」
また。
命令になった。
殿下は。
すぐに。
「続けてくれ」
と言い直した。
ご令嬢は。
微笑んだ。
「はい」
殿下は。
踵を返した。
歩く。
速い。
逃げるように。
扉へ向かう。
「殿下」
「何だ」
「扉は。こちらです」
殿下は。
反対側。
資料棚の方へ歩いていた。
動きが止まる。
研究会員たちの中から。
とうとう。
小さな笑い声が漏れた。
殿下は。
何も言わず。
方向を変えた。
今度こそ。
扉から。
部屋を出る。
私も。
そのあとを追う。
扉が閉まる直前。
中から。
「殿下」
と。
ご令嬢の声がした。
殿下が。
振り返る。
「お菓子。皆でいただきます」
「ああ」
「次にお会いしたとき。研究の経過を。お話ししてもよろしいですか」
殿下の目が。
少しだけ。
揺れた。
「……聞く」
「ありがとうございます」
扉が。
ゆっくり閉じた。
◇
研究会の部屋を出たあと。
殿下は。
廊下を。
無言で歩いた。
少し離れた場所から。
隠れていた生徒たちが。
何食わぬ顔で。
次々に現れる。
「では、帰ろう」
「友人は?」
「今。会えました」
「誰だ」
「秘密です」
「おい」
「失礼いたします、殿下」
皆。
殿下へ礼をし。
急ぎ足で去っていく。
その顔は。
どれも。
何かを知った喜びを。
隠しきれていない。
「……聞かれていたな」
殿下が言った。
「はい」
「全部か」
「おそらく」
「明日には」
「学園中が知ると思います」
「終わった」
「何がですか」
「すべてだ」
「始まったのでは?」
「何が」
「ご令嬢との会話です」
殿下は。
足を止めた。
私を見る。
顔は。
まだ。
赤い。
「私は」
「はい」
「間違えなかったか」
その問いは。
とても。
小さかった。
私は。
すぐには答えなかった。
今日。
殿下は。
何度も間違えた。
壁へ向かって。
練習しているところを見られた。
下級生へ。
持ち方が悪いと言いかけた。
購買のパンを。
悪くないと評価した。
研究会の部屋では。
気遣いを否定し。
皆の分だと強調し。
ご令嬢だけではないと。
何度も逃げようとした。
でも。
最後には。
言えた。
研究を続ける姿勢が。
素晴らしい。
見ていた。
心配していた。
その言葉を。
相手へ。
渡すことができた。
「たくさん。間違えました」
正直に答えると。
殿下の顔が。
暗くなる。
「そうか」
「ですが」
私は続ける。
「全部。言い直せました」
殿下が。
顔を上げる。
「ご令嬢のお顔を見て。言葉を選び直せました」
「……ああ」
「逃げませんでした」
殿下は。
黙った。
廊下の窓から。
夕方の光が差し込む。
長い影が。
床へ伸びている。
「殿下」
「何だ」
「今日は。よくできました」
「子ども扱いするな」
「では」
私は。
少し考える。
朝。
殿下が。
壁へ向かって。
何度も練習していた言葉。
ご令嬢へ。
ようやく言えた言葉。
それを。
今度は。
私が。
殿下へ返す。
「素晴らしかったと思います」
殿下の目が。
少しだけ。
大きくなった。
「……本気か」
「はい」
「失敗したと言った」
「失敗しても。言い直したことがです」
「そうか」
「はい」
殿下は。
窓の外へ。
顔を向けた。
しばらく。
何も言わなかった。
耳が。
また。
赤くなっている。
「褒められるのは」
殿下が。
小さく言った。
「慣れない」
「王太子殿下ですから。多いのでは?」
「王太子としては。言われる」
「殿下ご自身へは?」
「……分からない」
その答えに。
胸が。
少しだけ。
痛んだ。
王太子殿下は。
幼い頃から。
多くの称賛を受けてきたはずだ。
立派です。
素晴らしいです。
王太子にふさわしい。
将来の国王として。
誇らしい。
けれど。
それは。
殿下ご自身へ。
向けられたものだったのだろうか。
王太子という役目。
王家の血。
未来の国王。
それらを。
褒められていたのではないか。
失敗して。
言い直して。
逃げそうになって。
それでも。
相手を見た。
今日の殿下を。
褒める人は。
これまで。
どれくらいいたのだろう。
「では」
私は言った。
「これから。慣れてください」
「何に」
「殿下ご自身が。褒められることに」
「必要ない」
「あります」
「なぜ」
「誰かを褒めるためには。受け取る練習も必要です」
「そうなのか」
「今。私が決めました」
「根拠がない」
「でも。殿下は。褒められるとすぐ否定します」
「事実ではない場合がある」
「今日のことは。事実です」
「失敗した」
「言い直した」
「壁へ話した」
「練習した」
「全校へ広まる」
「皆さんの記憶に残ります」
「それは褒めているのか」
「少しだけ」
「どこがだ」
「王太子殿下が。好きなご令嬢を褒めるため。朝から壁で練習なさった」
「言うな」
「とても。真面目です」
「言い方を変えても。恥ずかしい」
「よいことです」
「よくない」
「素晴らしいです」
「やめろ」
「よく頑張りました」
「子ども扱いするな!」
殿下の声が。
夕方の廊下へ。
響いた。
教室から出てきた生徒たちが。
驚いて。
こちらを見る。
殿下は。
その視線に気づき。
すぐに。
顔を背けた。
けれど。
私は。
見ていた。
殿下の口元が。
ほんの少しだけ。
笑っていたことを。
◇
その日の夕方。
学園では。
新しい噂が広がった。
王太子殿下は。
石壁へ恋をしているわけではない。
誰かを褒めるために。
練習していたらしい。
研究会へ。
お菓子を差し入れた。
あるご令嬢の研究を。
素晴らしいと。
二度もおっしゃった。
心配していたとも。
言ったらしい。
もちろん。
噂には。
余計なものが加わった。
殿下は。
研究棟の扉の前で。
愛の告白を練習していた。
ご令嬢へ。
王宮菓子職人が三日かけて作った宝石菓子を贈った。
研究会全員の前で。
生涯をかけて支えると誓った。
そのような。
事実ではない話まで。
生まれていた。
けれど。
私は。
それを聞いても。
昨日ほど。
心配にはならなかった。
殿下は。
きっと。
明日。
怒る。
違う。
そんなことは言っていない。
誰が広めた。
そう。
おっしゃる。
そして。
好きなご令嬢の前で。
また。
誤解を解こうとして。
余計な言葉を口から出しかける。
私は。
また。
止めなければならない。
けれど。
今日。
殿下は。
一つ。
知った。
言葉は。
間違えたら。
終わりではない。
止める。
言い直す。
相手の顔を見る。
逃げずに。
もう一度。
伝える。
そのたび。
少しずつ。
本当に言いたかったことへ。
近づいていく。
王太子殿下。
あなたは。
今日。
褒める順番を。
一日中。
間違えました。
最初に。
違うと言い。
次に。
特別ではないと言い。
皆のためだと。
何度も。
逃げ道を作りました。
けれど。
最後には。
研究を。
素晴らしいと。
心配していたと。
言うことができました。
ご令嬢は。
笑っていました。
あなたの言葉を。
受け取っていました。
だから。
今日のところは。
十分です。
明日になれば。
きっと。
また。
間違えるのでしょう。
それでも。
何度でも。
言い直せばよいのです。
あなたの恋は。
口から出す前に。
止めるだけでは。
進まないのですから。




