第69話 王太子殿下、譲った時間の行き先を見届ける
王太子殿下が、自分のために用意されていた時間を手放した。
その事実は。
思っていたよりも、静かには広がらなかった。
王家資料特別公開日の午後。
本来であれば、殿下ご自身が解説を行う予定だった閲覧室の前には。
開始時刻よりも、ずっと早くから人が集まっていた。
王族史を専攻する研究会員。
地方領から訪れた貴族子弟。
特別な許可を得た一般課程の生徒。
教師。
王宮文官。
そして。
殿下のお姿を、遠くから一目見たいという理由だけで。
専門外の資料公開へ申し込んだ者たち。
普段は静けさを守る王立学園の資料棟が。
今日に限っては。
人の息。
衣擦れ。
押し殺された会話。
靴底の触れる音。
そうしたものを抱え込み。
朝から、落ち着かない熱を帯びていた。
「殿下は、何時頃お見えになるのかしら」
「開始直前ではないか。王太子殿下がお待ちになるはずがない」
「でも、警護の方々はもう配置についているわ」
「あちらの扉から入られるのでは?」
「いや、あそこは研究員用だ」
誰かが小声で言えば。
その近くにいた者たちが、揃って首を伸ばす。
廊下の奥で紺色の制服が動くたび。
いくつもの視線が一斉に向けられ。
それが殿下ではないと分かると。
期待を隠すように。
人々は再び、取り繕った顔へ戻っていった。
けれど。
その落ち着かなさの中心にいるはずの方は。
資料棟の中には、いらっしゃらなかった。
王太子殿下のために設けられた控室にも。
姿はなかった。
磨かれた机。
温度を保った茶器。
殿下が目を通す予定だった進行表。
予備の手袋。
細い銀のしおり。
すべてが整えられている。
けれど。
中央の椅子だけが。
主人を持たないまま。
静かに、空いていた。
◇
「……本当に、いらっしゃらないのですね」
私は。
控室の扉の前で。
もう一度だけ、誰も座っていない椅子を見た。
つい先ほどまで。
どこかでまだ。
殿下が考え直されるのではないかと。
思っていたのかもしれない。
ご自身のために用意された役目を。
ご自身の口で。
他者へ譲られた。
理由も。
私は聞いている。
今日。
この時間にしか閲覧できない別の資料があり。
それを必要としている生徒がいる。
その生徒は。
王太子殿下が特別解説を行う時間帯だけ。
資料室を使用できなかった。
警護上の都合で。
周囲の部屋が閉鎖されるからだ。
相手は地方の下級貴族家から来た奨学生で。
王都へ滞在できるのは、今日まで。
次に同じ資料が公開されるのは。
早くても一年後。
殿下が予定どおり参加すれば。
その生徒は。
一年待たなければならなかった。
たった一人のために。
王太子殿下が参加を取りやめる。
簡単に決めてよいことではない。
警護。
教師。
王宮。
研究会。
来場者。
多くの人が準備を重ねている。
殿下は。
それを分かっていらっしゃった。
分かった上で。
昨日。
長い沈黙のあと。
こうおっしゃった。
『私が説明しなければならない理由はあるか』
誰も。
すぐには答えられなかった。
王太子殿下が参加する。
それだけで意味がある。
それだけで。
行事の価値が高まる。
皆がそう考えていた。
けれど。
資料の内容を説明するという一点だけならば。
殿下でなければならない理由はない。
研究会の上級生にも。
担当教師にも。
王宮資料官にも。
説明はできる。
『私が出席すれば、多くの者が喜ぶ』
殿下は。
机の上に置かれた予定表へ視線を落としたまま。
静かに続けられた。
『だが、私が欠席すれば、一人の者が必要なものを得られる』
そのお声には。
迷いがあった。
王太子殿下は。
最初から迷わずに正しい判断を下せる方ではない。
……少なくとも。
私は、そう思っている。
殿下は。
たくさん間違える。
好きな方へ、嫌いだとおっしゃる。
気遣おうとして、相手の失敗を指摘する。
褒めようとして、欠点から話し始める。
近づきたいのに。
遠ざける言葉ばかりを選ばれる。
けれど。
迷い。
考え。
ご自分の最初の判断を疑い。
そして。
誰かにとって必要なことを。
最後には選ぼうとなさる。
昨日の殿下も。
そうだった。
『大勢を喜ばせることと、一人を困らせないこと。どちらが王太子として正しい』
その問いに。
私は答えられなかった。
王太子として。
国の象徴として。
大勢の期待に応えることも。
きっと正しい。
一方で。
身分の低い一人の事情を拾い上げることも。
正しい。
どちらかが間違っているのではない。
だからこそ。
殿下は迷われた。
そして。
最終的に。
ご自身の時間を手放された。
「マリア嬢」
控えめな声に呼ばれ。
私は振り返った。
そこには。
資料研究会の副会長である、ハインツ先輩が立っていた。
細身の体に、研究会の濃緑色の上着。
普段は乱れのない前髪が。
今日は少しだけ額へ落ちている。
開始を前に。
何度も廊下と閲覧室を往復していたからだろう。
「そろそろ、扉を開けます」
「あ……はい」
「殿下のご判断は、変わりませんか」
「変わりません」
「そうですか」
ハインツ先輩は。
空いた椅子へ、一瞬だけ視線を向けた。
非難はなかった。
安堵もなかった。
ただ。
自分たちが準備してきた時間を。
どう受け止めればよいのか。
まだ決めかねているようなお顔だった。
「正直に申し上げますと」
「はい」
「昨日、ご欠席の知らせを受けたときは、困りました」
「……そうですよね」
「困ったという言葉では、少し足りないかもしれません」
先輩は。
苦笑しようとして。
結局、口元を動かさなかった。
「三週間かけて、殿下用の解説順を組みました。警護担当者とは六度打ち合わせを行い、展示棚の位置を二度変更し、来場者の名簿も最初から確認し直しました」
「はい」
「私たちだけではありません。担当の先生方も、王宮資料官の方々も、この日のために動いてくださいました」
「……はい」
「ですから、殿下が一人の生徒のために欠席されると聞いたとき、すぐに立派なご判断だとは思えませんでした」
廊下の向こうから。
待機している来場者たちの声が届いてくる。
笑い声。
期待を含んだささやき。
資料について話している者は。
おそらく半分にも満たない。
多くの者が。
殿下について話している。
今日のお召し物。
話し方。
どの程度の距離で拝見できるか。
質問を許されるか。
その期待へ。
間もなく。
殿下は参加されないと伝えなければならない。
「先輩は……殿下がお出になった方がよかったと思いますか」
尋ねると。
ハインツ先輩は。
すぐにはお答えにならなかった。
廊下の窓から差し込んだ光が。
濃緑色の上着の肩を。
淡く照らしている。
「今も、分かりません」
「……はい」
「ただ」
先輩は。
控室の机に置かれていた進行表を手に取った。
「分からないままでも、始めなくてはなりません」
その指先は。
紙の端を。
ほんの少しだけ強く掴んでいた。
「殿下が手放された時間を、無駄にするわけにはいかない」
その言葉に。
私は。
胸の奥を、静かに押されたような気がした。
殿下が欠席なさる。
それで終わりではない。
殿下が手放した時間は。
別の誰かのものになる。
この閲覧室を任された人たちの時間。
殿下ではなく。
自分たちの説明を聞くために残ってくれる来場者の時間。
そして。
閉鎖されずに済んだ隣室で。
必要な資料を読む、一人の生徒の時間。
「私も、お手伝いします」
私が言うと。
ハインツ先輩は少し目を見開いた。
「マリア嬢がですか」
「もともと、案内係として登録されています。殿下がお越しにならないからといって、私までいなくなる理由はありません」
「しかし」
「殿下に頼まれたわけではありません」
先回りして伝えると。
先輩は。
言いかけていた言葉を止めた。
「……私が、残りたいんです」
それは。
少しだけ。
私自身にも意外な言葉だった。
私は。
殿下の恋愛相談役だ。
殿下が好きなご令嬢へ。
間違った言葉をぶつけないように。
校舎裏のベンチで相談を受ける。
殿下がおられない場所で。
殿下が手放したものを見届けることまで。
役目に含まれてはいない。
けれど。
知りたかった。
殿下がご自身の場所を譲ったことで。
何が起こるのか。
誰が困り。
誰が救われ。
誰が怒り。
誰が考えるのか。
そのすべてを。
殿下に伝えたいと思った。
立派でした。
お優しい判断でした。
そのような。
きれいな言葉だけではなく。
困った人もいました。
期待を裏切られた人もいました。
それでも。
助かった人がいました。
そして。
残された人たちは。
殿下がいない時間を。
自分たちの力で動かしました。
そう。
正しく。
お伝えしたかった。
「分かりました」
ハインツ先輩は。
ゆっくりとうなずいた。
「では、マリア嬢には入口側をお願いします」
「はい」
「おそらく、少し荒れます」
「……はい」
「殿下のご欠席をお伝えした直後は、特に」
先輩の予想は。
残念ながら。
正しかった。
◇
「本日、王太子殿下はご出席になりません」
扉が開き。
来場者たちが閲覧室へ案内され。
全員が席へ着いたあと。
ハインツ先輩は。
壇上から。
最初にそう告げた。
その瞬間。
室内の空気が。
目に見えるように揺れた。
「え……」
「いらっしゃらない?」
「聞いていないぞ」
「どういうことですの?」
「では、誰が説明を?」
押し殺すことを忘れた声が。
あちらこちらから上がった。
椅子が軋む。
扇が閉じられる。
後方では。
立ち上がりかけた男子生徒が。
隣の友人に袖を引かれていた。
「静粛にお願いいたします」
担当教師が声を上げる。
けれど。
すぐには収まらない。
「殿下がお見えになるから申し込んだのに」
前方に座っていた令嬢が。
決して大声ではないものの。
周囲へ十分に聞こえる声で言った。
「地方から来た者もいるのですよ」
「王宮からは、何も説明がないのですか」
「急なご公務でしょうか」
「ご体調が悪いのでは?」
「それなら、なおさら発表すべきだ」
心配。
落胆。
不満。
疑い。
さまざまな感情が。
重なるように広がっていく。
私は。
入口脇に立ったまま。
そのすべてを聞いていた。
殿下のご判断は。
誰からも歓迎されるものではない。
誰かのために席を譲るということは。
別の誰かの期待へ応えないということでもある。
頭では。
分かっていた。
けれど。
実際に。
これほど多くの落胆を目の前にすると。
胸の奥が。
小さく縮む。
殿下は。
この声を聞くべきだったのだろうか。
欠席を決めるなら。
この場に来て。
ご自身の口で説明するべきだったのではないか。
そんな考えが。
一瞬。
浮かんだ。
けれど。
殿下が姿を見せれば。
それだけで。
この時間は。
再び、殿下のものになる。
警護が動く。
廊下が閉じる。
隣の資料室も使えなくなる。
殿下は。
謝罪のために来ることさえ。
なさらなかった。
ご自身が現れれば。
結局。
一人の生徒から時間を奪うと分かっていたから。
「ご欠席は、急なご公務によるものではありません」
ハインツ先輩の声が。
ざわめきを押し分けるように響いた。
「また、ご体調を崩されたわけでもありません」
「では、なぜです」
年嵩の男性が尋ねた。
王宮文官だろう。
胸元には、記録局の徽章がある。
「殿下ご自身の判断です」
再び。
ざわめきが起きた。
先ほどよりも。
低く。
重い。
「殿下は、本日の特別警護によって隣接資料室の利用が制限されることをお知りになりました」
ハインツ先輩は。
進行表を机へ置いた。
最初は。
紙を持っていなければ立っていられないようにも見えたのに。
今は。
両手をまっすぐ体の横へ下ろしている。
「その資料室を、本日中に利用する必要がある生徒がおります。殿下がご出席になれば、その生徒は資料を閲覧できません」
「一人の生徒のために?」
誰かが言った。
驚きではない。
呆れに近い声音だった。
「そのとおりです」
「たった一人でしょう」
別の声。
「こちらには、これだけの人数が集まっているのですよ」
「殿下がご自身の立場を軽くお考えなのではありませんか」
「予定は公に告知されていたはずです」
「我々の時間は、どうなる」
言葉が。
次々に飛ぶ。
私は。
思わず。
指先を握りしめていた。
反論したかった。
殿下は軽く考えてなどいない。
むしろ。
考えすぎるほど考えていた。
昨夜。
あの方は。
同じ一枚の予定表を。
何度も読み返していた。
研究会の準備時間。
警護配置。
来場予定者。
王宮への報告。
ご自身が欠席した場合の影響。
一つずつ。
確認していた。
決めたあとも。
『これが正しいと、私は言い切れない』
そう。
おっしゃっていた。
『一人のために大勢の期待を外すことを、善行と呼べば、私は自分に酔うことになる』
殿下は。
ご自身の判断を。
美しく飾ろうとはなさらなかった。
『私は、自分がしたい方を選ぶ』
そう言われた。
『一人の事情を知ってしまったあとで、知らなかったことにはできない』
それだけだった。
立派に見られたいからではない。
慈悲深い王太子と呼ばれたいからでもない。
知ってしまった。
だから。
放っておけなかった。
私は。
そのことを。
今すぐ。
皆へ伝えたかった。
けれど。
私は殿下ではない。
殿下の心を。
勝手に代弁してはいけない。
私が口を開けば。
殿下の判断を守るための言い訳になる。
だから。
黙っているしかなかった。
沈黙は。
苦しかった。
目の前で。
殿下が誤解されている。
口から出す前に。
何度も止めてきた。
間違った言葉を。
今日は。
殿下がいらっしゃらないのに。
私は。
自分の言葉を止めていた。
「皆様のおっしゃることは、もっともです」
ハインツ先輩が。
静かに頭を下げた。
室内の声が。
少しずつ弱まっていく。
「殿下がご欠席になったことで、予定されていた解説を聞けなくなった。そのために時間を空け、遠方から足を運ばれた方もおられます。研究会として、皆様の落胆を軽く扱うつもりはありません」
頭を下げたまま。
先輩は続けた。
「そして、私自身も、殿下のご判断をすぐには受け入れられませんでした」
何人かが。
意外そうに顔を上げる。
主催側の人間が。
殿下を全面的に擁護しなかったからだろう。
「私たちは、殿下をお迎えするために準備しました。殿下がいらっしゃることを前提に、今日まで動きました。その時間が無駄になったように感じた者もおります」
研究会員たちの中で。
一人の女子生徒が。
唇を噛んだ。
きっと。
彼女もそう思ったのだ。
「ですが」
ハインツ先輩が。
ゆっくりと顔を上げる。
「殿下は、本日の資料解説そのものを中止されたわけではありません」
先輩の視線が。
展示された王家資料へ向けられた。
「殿下がいらっしゃらなければ、この資料に価値がなくなるのでしょうか」
室内が。
静かになった。
「殿下が説明なさらなければ、私たちが三週間かけて調べた内容は、意味を失うのでしょうか」
誰も。
答えなかった。
「私は、そうであってほしくありません」
先輩の声は。
大きくない。
けれど。
先ほどまでのざわめきより。
ずっと遠くまで届いた。
「殿下がおられないからこそ。本日は、私たち研究会が説明を行います」
後方で。
誰かが息を吐いた。
「殿下の代わりにはなれません」
先輩は。
はっきりと言った。
「ですが、殿下の代わりになる必要もないと思っています」
その言葉に。
研究会員たちが。
一人。
また一人と。
顔を上げた。
「私たちは、私たちが調べたことをお伝えします。ご満足いただけるかどうかは分かりません。それでも、皆様が本日ここへ来られた時間を、可能な限り実りあるものにしたいと思います」
長い沈黙が落ちた。
誰も拍手はしなかった。
歓声もなかった。
それでよかった。
すぐに美しい空気へ変わってしまえば。
それこそ。
嘘のように思えた。
不満は。
消えていない。
落胆も。
残っている。
それでも。
一人の教師が。
壁際に立ったまま。
小さくうなずいた。
前列の令嬢が。
閉じていた扇を膝の上へ置いた。
立ち上がりかけていた男子生徒が。
椅子へ深く座り直す。
そして。
記録局の徽章をつけた男性が。
「始めてください」
と。
短く言った。
それを合図に。
ハインツ先輩は。
深く息を吸った。
「ありがとうございます」
王太子殿下のいない。
王家資料特別解説が。
始まった。
◇
最初の十分ほどは。
空気が固かった。
ハインツ先輩が説明するたび。
来場者たちは。
内容よりも。
話し手を値踏みするように見ていた。
殿下と比べている。
声。
姿勢。
知識。
言葉の選び方。
もし殿下なら。
もっと違う話をされたのではないか。
そのような思いが。
沈黙の中に残っていた。
けれど。
展示されていた古い書簡の一部について。
研究会の女子生徒が説明を引き継いだ頃から。
少しずつ。
空気が変わり始めた。
「こちらの書簡は、第三代国王陛下が、北方遠征中に王都へ送られたものとされていました」
彼女の声は。
最初。
わずかに震えていた。
「ですが、紙の原料と封蝋の成分を照合した結果、実際には遠征終了後に清書された写しである可能性が高いと分かりました」
前列に座っていた教師が。
身を乗り出す。
「原本ではないということかね」
「はい。ただし、偽書という意味ではありません。当時、王家が重要文書を保存する際、劣化した原本を写し取ることがありました。こちらは、その初期例ではないかと考えています」
「根拠は?」
「封蝋に混ざる鉱物粉です。北方遠征中に使用されていた王家封蝋には、王都東部で産出する銀砂は含まれていません。しかし、こちらには微量ながら確認されました」
「なるほど」
教師が。
机の上に置いていた筆記帳を開く。
それを見て。
女子生徒の肩から。
ほんの少しだけ力が抜けた。
次の質問は。
後方にいた一般課程の男子生徒からだった。
「どうして、わざわざ写しを原本のように保存したんですか」
「当時は、写した者の名を記す習慣が統一されていませんでした。そのため、後世の整理で原本として分類されたのだと思われます」
「では、書かれている内容自体は同じなんですか」
「大部分は。ただ、一か所だけ、原本から書き換えられた可能性がある部分があります」
室内の視線が。
一斉に展示台へ向いた。
「どこです?」
「ここです」
女子生徒が。
資料に触れないよう距離を保ち。
指示棒で一行を示す。
「『我が帰還まで、民を不安にさせるな』という部分です」
「それが?」
「別の記録に引用されている同じ書簡では、『我が帰還まで、民に敗北を知らせるな』となっています」
小さなざわめきが起きた。
先ほどまでとは違う。
落胆や不満ではない。
純粋な興味から生まれる声だった。
「意味がまったく違うではないか」
「はい」
「誰が変えたのです?」
「分かっていません」
「王命で?」
「その可能性もあります。ただし、第三代国王陛下ご自身が、帰還後に変更を命じられた可能性もあります」
「敗北を隠した事実まで、消そうとしたのか」
「逆かもしれません」
女子生徒は。
そこまで言って。
一度、言葉を止めた。
多くの視線を受け。
緊張したのだろう。
手にしていた指示棒が。
わずかに揺れる。
すると。
ハインツ先輩が。
彼女の横へ進み出た。
代わりに答えるのではなく。
ただ。
半歩後ろに立った。
それだけだった。
彼女は。
先輩の存在を確かめるように。
一度だけ横を見た。
そして。
もう一度。
来場者たちへ向き直る。
「敗北を隠すことが正しかったと、後世へ残したくなかったのかもしれません」
室内が。
静まる。
「敗北を知らせるな、ではなく。不安にさせるな、と書き換えることで。王が守るべきものを、王家自身が修正したのではないかと」
その言葉は。
偶然だったのだと思う。
今日。
王太子殿下が欠席されたこととは。
直接の関係はない。
それでも。
私は。
息を止めていた。
王が守るもの。
大勢の期待。
一人の必要。
正しいこと。
正しく見えること。
記録に残る言葉と。
そのとき。
実際に選ばれたこと。
前列の令嬢が。
展示台を見たまま。
小さく言った。
「王家の資料は……王族を讃えるものばかりではないのですね」
研究会の女子生徒が。
「はい」
とうなずいた。
「迷われた跡も、間違われた跡も残っています」
今度こそ。
誰も。
殿下がいないことについて話さなかった。
それからの説明は。
ゆっくりと進んだ。
質問が増えた。
研究会員たちは。
用意していた答えだけでなく。
分からないことは分からないと伝えた。
意見が分かれている部分では。
複数の説を説明した。
王宮資料官が補足を入れ。
教師が異なる解釈を示し。
来場者同士で。
短い議論が起こることもあった。
殿下がいらっしゃれば。
きっと。
ここまで多くの者が口を開くことはなかっただろう。
王太子殿下のお言葉を聞く。
それだけで。
皆が満足してしまったかもしれない。
殿下がおられない。
だから。
誰かが話す。
誰かが補う。
誰かが疑問を持つ。
一人の不在が。
多くの声を生んでいた。
私は。
入口脇で。
その様子を見つめ続けた。
◇
解説開始から。
一時間ほどが経った頃。
入口の外に。
人影が現れた。
細い腕に。
何冊もの筆記帳を抱えた男子生徒。
栗色の髪。
擦り切れた制服の袖。
胸元には。
奨学生を示す銀色の細い徽章がある。
彼は。
開いた扉の向こうから。
室内の様子を。
おそるおそる覗いていた。
私は。
音を立てないように廊下へ出た。
「何か御用ですか」
「あ……」
男子生徒は。
驚いて。
抱えていた筆記帳を落としかけた。
「す、すみません。入るつもりはありません」
「大丈夫です。こちらの解説を聞きに来たのですか」
「いえ……」
彼は。
首を横へ振った。
視線が。
何度も閲覧室の中へ向かう。
「隣の資料室を使っていた者です」
やはり。
この人だ。
殿下が。
時間を譲った相手。
「必要な資料は、読めましたか」
尋ねると。
彼は。
両腕の筆記帳を。
胸元へ強く抱えた。
「はい」
その一言が。
掠れていた。
「全部ではありません。時間が足りなくて。でも、必要だった箇所は、書き写せました」
「そうですか」
「王太子殿下が……こちらにいらっしゃらないと聞きました」
「はい」
「僕のせいだと」
廊下の空気が。
一瞬。
冷たく感じられた。
「誰から聞いたのですか」
「資料官の方からです。部屋を使えると伝えられたときに」
彼は。
俯いた。
「僕は、頼んでいません」
声が。
小さく震える。
「殿下に譲っていただきたいなど、言っていません」
「はい」
「知らなかったんです。今日、隣で殿下の解説があることも。僕が資料を使えば、殿下が参加できなくなることも」
「はい」
「知っていたら」
男子生徒は。
唇を噛んだ。
「知っていたら、使いませんでした」
その言葉に。
私は。
すぐには答えられなかった。
殿下は。
この生徒のために。
時間を手放した。
けれど。
譲られた側が。
素直に喜べるとは限らない。
王太子殿下の予定を変えた。
多くの者を落胆させた。
その理由が自分だと知れば。
重く感じる。
申し訳なく思う。
自分などのために。
そう。
考えてしまう。
殿下は。
そこまで。
考えていらっしゃっただろうか。
おそらく。
考えていた。
それでも。
譲られた。
ならば。
私は。
この方へ。
何を言えばよいのだろう。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「ノエル・バースです。西方領の、バース準男爵家の次男です」
「ノエル様」
「様は不要です。僕は」
「では、ノエルさん」
呼び直すと。
彼は。
戸惑ったように顔を上げた。
「殿下は、あなたへ恩を着せるために欠席されたのではありません」
「ですが」
「感謝を求めているわけでもありません」
「……」
「おそらく、謝罪も求めておられません」
「では、僕はどうすれば」
その問いは。
切実だった。
譲られた時間を。
どう受け取ればよいのか。
彼には。
分からないのだ。
私にも。
分からなかった。
簡単に。
大切に使ってください、と言うことはできる。
殿下のお心を無駄にしないでください。
そう言えば。
美しい。
けれど。
それでは。
彼が資料を読み。
何かを成し遂げなければ。
殿下の判断が無駄になるように聞こえてしまう。
譲られた時間へ。
結果を求めることになる。
それは。
違う気がした。
「……読めましたか」
私は。
もう一度、尋ねた。
ノエルさんが。
目を瞬く。
「え?」
「必要だった箇所を、読めたのですよね」
「はい」
「では、それでよいのではないでしょうか」
「それだけで?」
「はい」
「でも、殿下は」
「殿下は、そのためにお譲りになったのだと思います」
読めなかったはずの資料を。
読む。
ただ。
それだけのために。
殿下は。
席を空けた。
「あなたが何を調べているのか、伺っても?」
ノエルさんは。
抱えていた筆記帳へ視線を落とした。
「西方領の、古い水路についてです」
「水路?」
「僕の領地は、小さな土地です。三年前から、夏になると井戸が枯れる村が増えていて」
室内から。
研究会員の説明が聞こえてくる。
古い王家の記録。
過去の判断。
残された言葉。
ノエルさんは。
それへ耳を傾けるように。
一度だけ黙った。
「祖父が、昔。王都の資料庫に、百五十年前の西方治水計画が残っていると言っていました」
「それを探しに?」
「はい。学園の公開資料目録で見つけました。でも、閲覧許可をいただくまでに時間がかかってしまって。明日の朝には、領地へ戻らなければなりません」
「今日を逃せば」
「次に王都へ来られるか、分かりません」
彼は。
筆記帳の一冊を開いた。
細かな文字。
何本もの線。
古い水路の位置。
現在の村。
高低差。
水源。
限られた時間で書き写したのだろう。
文字の一部は傾き。
最後のページには。
乾ききっていないインクが滲んでいた。
「この計画が、そのまま使えるとは思っていません」
ノエルさんが言った。
「百五十年前のものです。地形も変わっています。水源が残っているかも分かりません」
「はい」
「でも、何もないよりは」
彼の指が。
紙の上の線をなぞる。
「村へ戻って。父と、土地を見てみます」
その横顔を見ながら。
私は。
ようやく。
殿下が譲った時間の行き先を。
少しだけ理解した気がした。
殿下の時間は。
消えたのではない。
この筆記帳の中にある。
乱れた文字。
乾いていないインク。
百五十年前の水路。
井戸の枯れる村。
そこへ戻ろうとしている。
「中へ入りますか」
私が尋ねると。
ノエルさんは。
驚いた顔をした。
「でも」
「途中からでも、王家資料の解説を聞けます」
「僕が入れば、嫌な思いをする方がいるのでは」
殿下が欠席した理由。
その本人が現れる。
確かに。
穏やかには済まないかもしれない。
私は。
閲覧室の中を見た。
話を聞く人々。
質問する人々。
殿下の不在を。
まだ残念に思っている者もいるだろう。
けれど。
始まる前とは。
空気が違う。
「無理にとは申しません」
「……」
「ただ、殿下が譲った時間は、隣室だけにあるわけではないと思います」
「え?」
「ここも、同じ時間です」
ノエルさんは。
扉の向こうを見た。
しばらく。
動かなかった。
やがて。
「後ろで、聞いてもよいでしょうか」
「もちろんです」
私は。
彼を。
一番後ろの空いている席へ案内した。
何人かが。
奨学生の徽章へ気づいた。
視線が集まる。
誰かが。
彼だと察したのかもしれない。
小さなささやきが起きた。
ノエルさんの足が。
一瞬だけ止まる。
けれど。
彼は。
俯かなかった。
筆記帳を抱えたまま。
後方の椅子へ座った。
そのとき。
前列にいた令嬢が。
ちらりと彼を見た。
殿下がいらっしゃらないと知った直後。
最も強く落胆を口にした令嬢だった。
私は。
身構えた。
けれど。
彼女は。
何も言わなかった。
少しだけ。
膝の上の扇を横へ動かした。
後方から。
展示台が見えやすくなるように。
それだけだった。
◇
特別解説が終わった頃には。
窓から差し込む光が。
朝とは違う角度で。
床を長く照らしていた。
「以上で、本日の解説を終了いたします」
ハインツ先輩が頭を下げる。
来場者たちは。
すぐには立たなかった。
静かな余韻が。
室内へ残る。
最初に拍手をしたのは。
記録局の男性だった。
一度。
二度。
ゆっくりと手を打つ。
その音へ重なるように。
教師たちが拍手を始めた。
研究会員の家族らしい者。
一般課程の生徒。
地方貴族の子弟。
一人ずつ。
音が増える。
大きな歓声ではない。
王太子殿下へ向けられる。
華やかな拍手とは違う。
けれど。
研究会員たちは。
誰も俯かなかった。
説明を担当した女子生徒は。
目元を赤くしていた。
隣の会員が。
見られないように。
さりげなく布を差し出す。
彼女は。
泣いていないという顔で受け取り。
それでも。
口元には。
抑えきれない笑みが浮かんでいた。
やがて。
来場者たちが。
順番に退出していく。
「殿下の説明を聞けなかったのは残念でした」
前列にいた令嬢が。
出口で。
私へ言った。
責める口調ではなかった。
「はい」
「ですが」
彼女は。
研究会員たちを振り返る。
「今日でなければ、聞けなかったお話もあったのでしょうね」
「そうかもしれません」
「……殿下へ、そうお伝えください」
私は。
少し驚いた。
「私から、ですか」
「マリア様は、殿下とお話しする機会がおありでしょう?」
「なぜ、そのように」
「有名ですもの」
令嬢は。
ほんの少しだけ笑った。
「校舎裏のベンチで、王太子殿下へ説教できるご令嬢がいる、と」
「説教ではありません」
「相談ですか?」
「……はい」
「では、相談役の方から」
彼女は。
扇を開いた。
口元を隠し。
けれど。
目には。
明るいものを浮かべた。
「今日のご判断が正しかったかは、私には分かりません、と」
私は。
黙って聞いた。
「でも、殿下がいらっしゃらなかったからこそ、私たちは資料そのものを見たのかもしれません」
そして。
彼女は。
後方で研究会員へ礼を伝えているノエルさんを見た。
「それも含めて、お伝えください」
「はい」
「それから」
令嬢は。
少しだけ声を落とした。
「次は、いらしてほしいとも」
「……必ず」
彼女が去ったあと。
記録局の男性が。
私の前で足を止めた。
「君が、ルイート嬢か」
「はい」
「殿下の相談役だそうだな」
どうして。
皆さん。
それをご存じなのだろう。
校舎裏のベンチは。
思っていたほど。
人目を避けられる場所ではなかったらしい。
「正式な役目ではありません」
「当然だ」
男性は。
真顔でうなずいた。
「そのような官職があれば、王宮史上初だろう」
「……はい」
「殿下へ伝えてほしい」
今日。
何度目だろう。
私は。
殿下への伝言を頼まれている。
「予定変更の理由は理解した。だが、今後も同じ方法を取るべきではない」
「と、おっしゃいますと」
「殿下が欠席するか、一人の生徒が諦めるか。最初から、その二つしか選択肢がなかったわけではない」
男性は。
閲覧室の奥にある展示棚を見た。
「開催時刻をずらす。警護範囲を再検討する。資料を別室へ移す。写本を用意する。もっと早く事情を把握していれば、他の方法があった」
「……はい」
「今回は、殿下がご自身の時間を譲ることで収まった。だが、王太子の予定は、殿下個人のものではない」
厳しい言葉だった。
けれど。
否定だけではない。
「誰かのために譲ることは、立派に見える。しかし、毎回ご自身を引かせることが、王太子としての責任ではない」
「はい」
「譲らずに済む仕組みを作ることも、殿下のお役目だ」
私は。
深く頭を下げた。
「必ず、お伝えします」
「それでよい」
男性は。
数歩進み。
それから。
思い出したように振り返った。
「研究会の説明は、見事だった」
「はい」
「そのこともだ」
今度こそ。
男性は去っていった。
その背を見送りながら。
私は。
胸の中で。
殿下へ伝える言葉を。
一つずつ並べた。
期待を裏切られたと怒った人がいた。
研究会は困った。
殿下の判断を。
正しいと思えない人もいた。
それでも。
資料解説は成功した。
研究会員たちは。
殿下の代わりではなく。
自分たちの言葉で説明した。
ノエルさんは。
必要な資料を読めた。
村へ持ち帰るための記録を書き写した。
殿下がおられなかったからこそ。
聞けた声があった。
そして。
殿下が欠席する以外にも。
未来には。
選べる方法がある。
どれも。
美しいだけの報告ではない。
だからこそ。
殿下に聞いていただきたいと思った。
◇
片付けが終わる頃。
ノエルさんは。
閲覧室の入口で。
ハインツ先輩へ何度も頭を下げていた。
「僕のせいで、ご迷惑を」
「君のせいではない」
「でも」
「決めたのは殿下だ」
ハインツ先輩は。
疲れた顔で。
それでも。
穏やかに言った。
「私たちが困ったのも事実だ。だから、君が申し訳なく思う気持ちまで否定はしない」
ノエルさんが。
顔を上げる。
「ただ、今日の説明は、悪くなかっただろう?」
「はい」
「なら、私たちの時間も、すべて無駄になったわけではない」
「……はい」
「君の資料も読めた」
「はい」
「それで、今日は終わりだ」
先輩は。
ノエルさんが抱える筆記帳へ視線を落とした。
「水路について調べていると聞いた」
「マリアさんからですか」
「いや。最後の質問で、君自身が言っていただろう」
解説の終盤。
ノエルさんは。
百五十年前の王家治水政策について。
質問をしていた。
最初は震えていた声が。
資料の話になると。
少しずつ。
はっきりしていった。
「領地へ戻って、調べるのか」
「はい」
「では、次に王都へ来たとき。結果を研究会へ報告してほしい」
「僕が、ですか」
「古い資料が、現在の村でどう役立ったか。あるいは、役立たなかったか。それも資料研究だ」
ノエルさんは。
しばらく。
何も言わなかった。
やがて。
筆記帳を抱えたまま。
深く。
頭を下げた。
「必ず、報告します」
「一年後でも、五年後でも構わない」
「はい」
ハインツ先輩は。
小さく笑った。
「こちらも、待つのは慣れている」
朝。
空いていた殿下の椅子を見ていた先輩の顔を。
私は思い出した。
あのとき。
先輩は。
自分たちの準備が。
何だったのか分からなくなっていた。
けれど。
今。
研究会の時間は。
ノエルさんの領地へ。
つながろうとしている。
時間は。
誰かへ譲れば。
自分から消えてしまうものではないのかもしれない。
形を変え。
人から人へ。
渡っていく。
殿下が手放した時間は。
研究会の言葉になり。
来場者の疑問になり。
ノエルさんの筆記帳になり。
いつか。
西方領の水路になるかもしれない。
もちろん。
ならないかもしれない。
古い計画は。
何の役にも立たないかもしれない。
それでも。
今日。
読むことができた。
考えることができた。
それだけは。
確かだった。
◇
日が傾き始めた頃。
私は。
校舎裏のベンチへ向かった。
殿下から。
ここで待つとは言われていない。
今日。
お会いする約束もなかった。
それでも。
なぜか。
殿下は。
ここにいらっしゃる気がした。
資料棟を出ると。
午後の風が。
熱の残った頬へ触れた。
芝生の匂い。
遠くで行われている剣術訓練の掛け声。
木々の葉が。
重なり合う音。
昼間。
資料棟に集まっていた人々の熱が。
少しずつ。
体から抜けていく。
校舎の角を曲がる。
古い木のベンチ。
いつもの場所。
そして。
やはり。
王太子殿下は。
そこに座っておられた。
お一人だった。
警護の方々は。
少し離れた位置にいる。
殿下は。
膝の上に本を開いていた。
けれど。
読んでいない。
同じページを。
ずっと見ていたのだろう。
風が吹いても。
紙を押さえようともなさらない。
一枚。
ページがめくれた。
殿下は。
それを戻さなかった。
「殿下」
声をかけると。
肩が。
ほんの少しだけ動いた。
「……来たのか」
「はい」
「私は、呼んでいない」
「はい」
「相談もない」
「そうですか」
「ない」
殿下は。
強く言った。
そして。
少し間を置き。
「今日は」
と。
付け足された。
私は。
殿下の隣へ座った。
いつもより。
少しだけ間を空ける。
殿下は。
その距離を。
横目で確認なさった。
けれど。
何もおっしゃらなかった。
しばらく。
私たちは。
黙っていた。
剣術場から。
掛け声が聞こえる。
鳥が一羽。
校舎の屋根から飛び立つ。
木漏れ日が。
殿下の膝の上にある本へ揺れていた。
「終わったか」
先に口を開いたのは。
殿下だった。
「はい」
「……そうか」
「聞かれないのですか」
「何をだ」
「どうなったか」
殿下は。
本へ視線を落とした。
「聞く必要はない」
「そうですか」
「私がいなくても、問題はないと分かっていた」
その言い方に。
私は。
胸の奥へ。
小さな棘が刺さったように感じた。
ご自分がいなくても。
問題はない。
殿下は。
それを確かめるために。
欠席されたのだろうか。
ご自身がいなければ。
誰かが自由になる。
誰かが話せる。
誰かが必要なものを得られる。
それは。
今日に限れば。
確かにそうだった。
けれど。
殿下がいない方がよい。
そのように。
殿下ご自身が思ってしまうのは。
違う。
「問題はありました」
私が言うと。
殿下の指が。
本の端で止まった。
「……何だと」
「皆さん、困っていました」
「そうか」
「殿下のご欠席を知って、怒った方もいました」
「当然だ」
「遠方から来たのに、と」
「分かっている」
「王太子としての立場を、軽く考えているのではないかという声もありました」
「分かっていると言った」
殿下の声が。
低くなる。
私は。
口を閉じた。
殿下は。
俯いていた。
拳を握ってはいない。
歯を食いしばってもいない。
ただ。
本の端を押さえる指先だけが。
白くなっていた。
「……だから」
殿下が。
小さく言う。
「聞く必要はない」
そのお声で。
ようやく分かった。
殿下は。
聞きたくないのではない。
すでに。
ご自分の中で。
何度も聞いていたのだ。
参加を取りやめると決めたときから。
落胆する人々の声を。
怒る人々の声を。
無責任だと責める声を。
実際にはまだ言われていない言葉まで。
殿下は。
ご自分の中で。
繰り返していた。
だから。
これ以上。
聞く必要はないと。
そう。
おっしゃった。
「殿下」
「何だ」
「私は、まだ報告の途中です」
「もうよい」
「よくありません」
「マリア」
「よくありません」
殿下が。
顔を上げた。
苛立ったように。
こちらを見る。
私は。
その視線から逃げなかった。
「殿下のご判断で、困った方がいました」
「分かっている」
「研究会の皆さんは、三週間の準備が無駄になったように感じました」
「分かっている!」
声が。
ベンチの周囲へ響いた。
離れた場所の警護が。
こちらを見る。
けれど。
近づいてはこない。
殿下の胸が。
大きく上下している。
「分かっている。私は、自分が正しいことをしたなどと思っていない」
「はい」
「大勢の予定を変えた。準備を無駄にした。期待を裏切った。一人のために。王太子が。そのようなことをすれば、どう言われるかなど、分かっている」
「はい」
「なら、なぜ言う」
殿下の声が。
震えた。
「なぜ、わざわざ。私に」
怒っているのではない。
傷ついている。
けれど。
その傷を。
ご自身で受けるべき罰のように。
殿下は抱えようとなさっている。
「殿下が、途中で聞くことをやめようとなさるからです」
「……何?」
「まだ、終わっていません」
私は。
ゆっくりと言った。
「資料解説は、中止になりませんでした」
殿下が。
黙る。
「ハインツ先輩と、研究会の皆さんが説明しました」
「知っている。そうなるように」
「皆さん、最初は緊張していました。来場者も、殿下と比べていました」
「……そうだろうな」
「でも、少しずつ。資料そのものについて質問が出るようになりました」
殿下の指から。
わずかに。
力が抜ける。
「研究会の方が、第三代国王陛下の書簡について説明しました。原本ではなく、後世の写しである可能性が高いそうです」
「銀砂を含む封蝋の書簡か」
「ご存じなのですね」
「私が説明する予定だった資料だ」
殿下は。
少し不満そうに言った。
その声に。
いつもの殿下が。
ほんの少し戻る。
「では、書き換えられた一文についても?」
「ああ。敗北を知らせるな、という言葉が。不安にさせるな、へ変わっている」
「研究会の方は、王家が守るべきものを、王家自身が修正したのかもしれないと」
「……その解釈を話したのか」
「はい」
「私の解説案には入れていなかった」
「なぜです?」
「確証がない。王家の意図を推測で語るべきではないと思った」
「ハインツ先輩も、確証はないと説明していました」
「そうか」
「皆さん、真剣に聞いていました」
殿下は。
もう。
私を止めなかった。
「研究会の方々は、殿下の代わりにはなれないと言いました」
「……ああ」
「けれど、代わりになる必要もないと」
殿下が。
ゆっくりと瞬きをした。
「自分たちが調べたことを、自分たちの言葉で伝えると」
「そう言ったのか」
「はい」
「誰が」
「ハインツ先輩です」
「……そうか」
風が吹いた。
殿下の膝の上で。
また。
本のページがめくれる。
今度は。
殿下が。
指で押さえた。
「拍手があり
「拍手がありました」
私が静かに言うと。
殿下の指先が。
本の角で止まった。
「……拍手?」
「はい」
「私へではありません」
「……そうだろう」
「研究会の皆さんへです」
殿下は。
何も言わなかった。
「最初に拍手をされたのは、記録局の男性でした」
「記録局が」
「はい。それから教師の方々。一般課程の生徒。地方から来られた貴族の方々」
一人。
また一人。
思い出すように。
私はゆっくり話した。
「最初は小さな音でした」
「……」
「でも、最後には閲覧室中へ広がりました」
殿下は。
目を閉じた。
長い睫毛が。
午後の日差しを受ける。
「そうか」
その一言だけだった。
けれど。
少しだけ。
肩の力が抜けたように見えた。
「それだけではありません」
「まだあるのか」
「はい」
「今日は長いな」
「今日は、とても長い一日でしたから」
殿下は。
小さく息を吐いた。
「……続けろ」
「ありがとうございます」
私は。
午後の出来事を。
一つずつ話し始めた。
◇
「隣の資料室を使われた奨学生の方とも、お話ししました」
その言葉で。
殿下の表情が変わる。
「会ったのか」
「はい」
「資料は」
「必要な部分を書き写せたそうです」
殿下は。
すぐには返事をなさらなかった。
「……そうか」
短い言葉。
けれど。
その中には。
安堵があった。
「ただ」
「何だ」
「ご自分のせいで殿下が欠席されたと知って、とても申し訳なさそうになさっていました」
殿下の視線が。
静かに落ちる。
「頼んだわけではない、と」
「……そう言うだろうな」
「知っていたら資料室は使わなかった、とも」
「そうだろう」
殿下は。
否定しなかった。
まるで。
最初から。
そうなることまで。
分かっていたように。
「殿下」
「何だ」
「予想していらっしゃいましたか」
「少しは」
「それでも譲られた」
「ああ」
「なぜです」
殿下は。
少しだけ空を見上げた。
木々の隙間から。
夏へ近づく青空が見える。
「罪悪感は」
殿下が言う。
「時間が経てば薄れる」
「……」
「だが、今日読めなかった資料は」
そこで。
言葉が止まる。
「今日しか読めなかった」
「はい」
「謝罪は、あとからでもできる」
「……」
「機会は」
殿下は。
静かに続けた。
「戻らない」
私は。
何も言えなかった。
その考え方は。
殿下らしかった。
誰かが後悔する未来より。
今しかない機会を選ぶ。
だから。
ご自身へ向けられる申し訳なさまで。
引き受けようとなさった。
「その方は」
殿下が尋ねる。
「何を調べていた」
「西方領の古い治水計画です」
「治水?」
「三年前から井戸が枯れる村が増えているそうで」
私は。
ノエルさんの話を。
できるだけ正確に伝えた。
百五十年前の水路。
祖父から聞いた話。
村へ戻ること。
父と調べること。
滲んだインク。
乱れた文字。
全部。
そのまま。
殿下は。
一度も遮らずに聞いていた。
「……そうか」
話が終わると。
また。
その一言だけだった。
でも。
今度は。
先ほどよりも。
少しだけ温かい声だった。
「ノエルさんは」
私は続けた。
「最後に研究会へ質問もされました」
「質問?」
「治水政策についてです」
「そうか」
「ハインツ先輩が、次に王都へ来たら結果を報告してほしい、と」
殿下が。
少しだけ。
目を見開いた。
「研究会へ?」
「はい」
「役立っても、役立たなくても」
「……」
「それも資料研究だから、と」
殿下は。
しばらく黙った。
「よい先輩だ」
「はい」
「私より」
「比べるものではありません」
「比べていない」
「今、少しだけ」
「比べていない」
否定はした。
けれど。
いつものような勢いはない。
「殿下」
「何だ」
「嫉妬なさいました?」
「していない」
「少しだけ?」
「していない」
「ハインツ先輩へ?」
「違う」
「では?」
殿下は。
そこで。
困ったような顔をなさった。
「私が」
ぽつりと。
呟く。
「その場にいなかったことへだ」
私は。
その言葉を聞いて。
少しだけ。
安心した。
殿下は。
欠席したことを。
後悔しているのではない。
そこから生まれた時間へ。
自分も立ち会いたかった。
そう思っていらっしゃる。
それは。
ご自身の判断を否定する気持ちとは。
少し違う。
「殿下なら」
私は微笑んだ。
「きっと、同じ質問をなさっていました」
「……そうか?」
「はい」
「私はもっと詳しく聞く」
「そうでしょうね」
「治水計画の年代も」
「はい」
「現在の降雨量も」
「はい」
「水路の勾配も」
「はい」
「全部」
「聞かれます」
「迷惑だと思われる」
「少しだけ」
「少しか」
「でも、嬉しい迷惑です」
殿下は。
小さく笑った。
本当に。
小さくだった。
けれど。
今日初めての笑顔だった。
◇
「それから」
私は。
記録局の男性の話を伝えた。
予定変更。
仕組み。
譲るだけではなく。
譲らなくても済む方法を考えること。
一つも省かず。
そのまま。
殿下へ届けた。
話が終わると。
殿下は。
すぐには返事をなさらなかった。
長い。
長い沈黙。
風だけが。
二人の間を通り抜ける。
「……負けたな」
ようやく。
殿下が言った。
「負け、ですか」
「ああ」
「誰に?」
「記録局だ」
私は首を傾げた。
「私は」
殿下は。
ベンチの前に広がる芝生を見つめる。
「欠席するか」
「はい」
「欠席しないか」
「はい」
「その二つしか考えていなかった」
「……」
「最初から」
殿下は。
少し苦笑した。
「もっと他の方法を考えるべきだった」
「……」
「時間をずらす」
「はい」
「資料室を移す」
「はい」
「写本を用意する」
「はい」
「私は」
殿下は。
静かに息を吐く。
「自分が譲ることばかり考えていた」
その横顔は。
少しだけ悔しそうだった。
「殿下」
「何だ」
「それに気づけたのは」
「……」
「今日だったからです」
殿下は。
私を見た。
「最初から完璧な答えは」
私は笑う。
「殿下には、少し難しいですよね」
「失礼だな」
「違いますか?」
「……違わない」
珍しく。
素直に認められた。
「ですが」
私は続ける。
「今日、譲ったからこそ」
「……」
「次は、譲らなくても済む方法を考えられます」
「そうだな」
「今日は失敗でしたか?」
殿下は。
少し考えた。
空を見る。
木を見る。
そして。
膝の上の本を見る。
「……成功ではない」
「はい」
「失敗でもない」
「はい」
「途中だ」
私は。
その答えが。
とても殿下らしいと思った。
「今日」
殿下が続ける。
「私は一つ選んだ」
「はい」
「だが、それで終わらせてはいけない」
「はい」
「次は」
殿下は。
静かに前を向いた。
「誰も諦めなくて済む方法を探す」
私は。
ゆっくりとうなずいた。
「はい」
「それが」
殿下は。
小さく笑う。
「王太子の仕事なのだろう」
その言葉は。
誰へ見せるためでもなく。
ご自身へ言い聞かせるものでもなく。
ようやく。
殿下ご自身の言葉として。
胸へ落ちたように聞こえた。
私は。
今日一日の報告を終えた。
殿下は。
本を閉じた。
もう。
同じページを眺め続けることはなかった。
夕日が。
二人の影を。
静かに長く伸ばしていた。




