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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第65話 王太子殿下、傷つけないために遠ざかりすぎない



 誰かを傷つけたと知った後。


 人は、とても慎重になります。


 もう同じことをしたくない。


 次は、絶対に間違えたくない。


 相手の表情を曇らせたくない。


 自分の言葉で、またあの人を怖がらせたくない。


 その気持ちは、決して悪いものではありません。


 傷つけた事実を軽く扱わず。


 自分の行動を見直そうとする。


 それは、謝罪の後に必要なことです。


 けれど。


 慎重になりすぎるあまり。


 相手へ話しかけなくなる。


 目を合わせなくなる。


 隣を歩かなくなる。


 何かを頼まれても、自分が触れれば迷惑かもしれないと距離を取る。


 それでは。


 傷つけない代わりに。


 相手を一人へしてしまうことがあります。


 以前のように振る舞ってはいけない。


 でも。


 何もしてはいけないわけではない。


 近づきすぎず。


 遠ざかりすぎず。


 相手の様子を見ながら。


 必要な時に、必要な距離へ立つ。


 それは、言葉を止めることよりも。


 もしかすると、さらに難しいのかもしれません。


 ナリア様が、過去に傷ついた日のことを初めて話してくださった翌朝。


 アルノルド殿下は。


 明らかに慎重になりすぎていました。


     ◇


 朝の開放学習室。


 扉を開ける前から。


 中にいる殿下の気配は分かりました。


 誰かと話しているわけではありません。


 椅子を動かす音も。


 紙をめくる音も、ほとんどない。


 ただ。


 異様に静かです。


「ごきげんよう、殿下」


 私が入ると。


 殿下は、窓際の席へ座っていました。


 いつもの中央机ではありません。


 壁際。


 研究会員が集まれば、一番遠くなる位置です。


「ルイート嬢、ごきげんよう」


 返事は普通です。


 ですが。


 机の上へ置かれた心得紙を見て。


 私は、すぐに原因を理解しました。


『ナリアへ近づきすぎない』


『不用意に話しかけない』


『隣を歩こうとしない』


『紙を落としても先に触らない』


『目を合わせすぎない』


『普通にしようとして、また傷つけない』


『今日は距離を取る』


『距離を取りすぎて池へ行かない』


 最後は。


 相変わらずです。


 ですが。


 今日は、池よりも前の項目が問題です。


「殿下」


「はい」


「なぜ、壁際に?」


「中央は、皆が使う」


「いつも殿下も使っておられます」


「今日は、ここでいい」


「なぜですか?」


 殿下は。


 少しだけ黙りました。


「ナリアが来るから」


「はい」


「昨日の今日で」


「はい」


「近くにいたら、負担かもしれない」


 私は。


 殿下の顔を見ました。


 目元には。


 昨日泣いた跡が、まだ少し残っています。


 眠れなかったのでしょう。


 でも。


 昨日のことを後悔している顔ではありません。


 聞けた。


 受け取れた。


 その上で。


 どう振る舞えばよいか分からなくなっています。


「殿下」


「はい」


「ナリア様から、距離を取ってほしいと言われましたか?」


「言われていない」


「話しかけないでほしいと?」


「言われていない」


「隣を歩きたくないと?」


「言われていない」


「では」


 私は、心得紙を指しました。


「これは、誰が決めたのですか?」


 殿下は。


 視線を落としました。


「僕が」


「ナリア様の気持ちを、確認せずに?」


「……はい」


 昨日。


 相手の話を最後まで聞くことを学びました。


 なのに。


 今日。


 その相手へ確認せず。


 自分だけで距離を決めています。


「殿下」


「分かっている」


 少し苦しそうな声です。


「勝手に決めるのは違う」


「はい」


「でも」


 殿下は。


 心得紙を見つめました。


「昨日の話を聞いた後で、今まで通り話しかけるのも」


「怖いですか?」


「はい」


「何を言っても」


 声が小さくなります。


「また間違える気がする」


 とても正直です。


 昨日。


 過去の一言が。


 ナリア様の歩き方まで変えていたと知りました。


 なら。


 今、自分が何気なく言う一言も。


 また長く残るかもしれない。


 そう思うと。


 何も言えなくなる。


「殿下」


「はい」


「間違えない人になることは、できません」


 殿下が。


 顔を上げました。


「これからも、何かを言い間違えることはあります」


「はい」


「ナリア様を困らせることも」


「はい」


「すれ違うことも」


 殿下の表情が。


 少し苦しくなります。


「では」


「はい」


「どうすれば」


「間違えた時に、聞くのです」


「はい」


「困らせたかもしれないと思ったら、相手の様子を見る」


「はい」


「距離が必要かどうかも」


「尋ねる」


「はい」


 殿下は。


 少し黙りました。


「今日は」


 私は続けました。


「ナリア様へ、いつも通り挨拶してください」


「はい」


「必要な研究会の話をしてください」


「はい」


「そして」


「はい」


「昨日の話を受けて、今日は距離を取った方がよいか迷っているなら」


「尋ねる」


「そうです」


 殿下は。


 心得紙へ新しい一文を書きました。


『距離は一人で決めない』


 とても大切です。


「壁際からは?」


 私は尋ねました。


 殿下は。


 中央の机を見ました。


 少し迷い。


「戻る」


 椅子を持って立ち上がります。


 でも。


 自分で移動させようとして。


 昨日のことを思い出したのでしょうか。


 紙を落としたナリア様。


 拾った殿下。


 あの一言。


 殿下の手が、少し止まりました。


「椅子を動かすだけです」


 私が言いました。


「はい」


「誰も笑いません」


「……はい」


 殿下は。


 ゆっくり椅子を中央へ戻しました。


 小さな行動。


 でも。


 昨日の話を聞いた後の最初の朝。


 自分から。


 また皆の中へ戻りました。


     ◇


 今日の主な作業は。


 王家資料へ添える展示注釈の清書です。


 昨日受け取った正式な写し三点。


 百年前の王妃による園遊会記録。


 三代前の国王による朝食会への招待状。


 王宮茶会後の返礼文。


 それぞれへ。


 歴史的な背景。


 礼法上の特徴。


 現代の言葉へ置き換える時の注意。


 その三つを短く添えます。


 長すぎれば。


 資料そのものが読まれません。


 短すぎれば。


 意味が伝わりません。


 王家確認済みの注釈をもとに。


 学園生徒へ分かりやすい言葉へ整える。


 今日も。


 研究会らしい仕事です。


 レオン様が入ってきました。


「おはようございます」


「ごきげんよう、レオン」


 レオン様は。


 中央へ戻った殿下を見ました。


 壁際の椅子が一脚、少しずれています。


 何かあったと気づいたでしょう。


 でも。


 尋ねません。


「本日の清書は、三名で分担します」


「三名?」


 私が尋ねると。


「王妃記録は殿下とクラウゼン嬢」


 殿下の身体が。


 ほんの少しだけ固まりました。


「国王招待状はルイート嬢と私」


「はい」


「返礼文はバートン嬢。最終確認は全員」


「一人ですの?」


 ちょうど入ってきたエレナ様が言いました。


 今日も菓子箱。


 そして。


 清書用の細い筆。


 紙を汚さないための布手袋。


 準備が万全です。


「返礼文は茶席の感謝と関係します」


 レオン様が答えます。


「バートン嬢が一番、受け取る側の空気を考えています」


 珍しい評価です。


 エレナ様の表情が。


 はっきり明るくなりました。


「お任せくださいませ」


 殿下は。


 自分とナリア様が同じ資料担当だと分かり。


 かなり緊張しています。


 昨日までなら。


 嬉しさを隠す方が難しかったでしょう。


 今日は。


 近づいてよいのか迷っています。


「殿下」


 私は小さな声で言いました。


「役割です」


「分かっている」


「ナリア様が来たら、普通に」


「はい」


 殿下は。


 心得紙を裏返しました。


 見すぎると。


 逆に不自然になるからでしょう。


 そこへ。


 扉が叩かれました。


「ごきげんよう」


 ナリア様です。


 今日は。


 昨日の小さなノートを持っていません。


 代わりに。


 王妃記録の注釈案。


 礼法用語の参考書。


 清書見本。


 いつもの研究会の荷物です。


 殿下は。


 立ち上がりました。


 ですが。


 いつもより。


 一歩分、遠い。


「ナリア、ごきげんよう」


「ごきげんよう、殿下」


 少し間。


 いつもなら。


『今日も来てくれてありがとう』


 と続けます。


 殿下の口が動きました。


 でも。


 言ってよいのか迷っています。


 ナリア様が。


 殿下を見ました。


 ほんの少し。


 不思議そうです。


「殿下?」


「はい」


「どうかなさいましたか?」


 来ました。


 隠しきれません。


 殿下は。


 私を一瞬見ました。


 私は何も言いません。


 自分で。


 尋ねます。


「ナリア」


「はい」


「昨日の話を聞いた後で」


 声が少し硬いです。


「今日は、僕が近くにいると負担かと思った」


 ナリア様の表情が。


 少し変わりました。


 驚き。


 それから。


 考える顔。


「それで」


 殿下は続けます。


「距離を取った方がいいか、迷っている」


 言えました。


 ナリア様は。


 すぐに答えません。


 昨日と同じです。


 自分の気持ちを。


 きちんと確かめています。


「昨日のお話をした後」


 ゆっくり言いました。


「殿下のお顔を見るのが、少し恥ずかしいです」


 殿下の表情が。


 すぐに痛みました。


 でも。


 最後まで聞きます。


「はい」


「話してしまったことを、何度か思い出しました」


「はい」


「言いすぎたのではないかと」


「はい」


「でも」


 ナリア様は。


 少しだけ殿下へ近づきました。


 一歩。


 大きくはありません。


「距離を取っていただきたいわけではありません」


 殿下の目が。


 少し見開かれました。


「本当に?」


 一回。


 ナリア様は。


 穏やかに頷きました。


「はい」


「近くにいても」


「はい」


「話しかけても?」


「はい」


「いつも通りで?」


 これは。


 二回目に近いです。


 ナリア様が少し笑いました。


「いつも通り、より」


「はい」


「今日のことは、今日の私に聞いてください」


 とても良い言葉でした。


 いつも通り。


 という言葉だけでは。


 過去と同じへ戻ろうとするかもしれません。


 でも。


 今日の自分。


 今日の相手。


 その日の様子を。


 その都度、見る。


「今日のナリアは?」


 殿下が尋ねました。


「少し恥ずかしいです」


「はい」


「でも、研究会の作業は一緒にできます」


「はい」


「お話もできます」


「はい」


「ただ」


 少しだけ考えます。


「昨日の続きを、今日は話しません」


「分かった」


 殿下は。


 すぐに受け取りました。


「ありがとう」


「はい」


「それと」


 殿下は。


 いつもの言葉を。


 今度こそ言いました。


「今日も来てくれて、ありがとう」


 ナリア様の目元が。


 少し柔らかくなりました。


「はい」


「本日も、よろしくお願いいたします」


 挨拶が。


 ようやく終わりました。


 いつもより長い。


 でも。


 必要な時間でした。


 エレナ様が。


 扇の陰で、ほっとしたように息を吐いています。


 レオン様は。


 何事もなかったように進行表を開きました。


「では、清書を始めます」


 いつもの研究会へ。


 戻ります。


     ◇


 王妃の園遊会記録。


 殿下とナリア様は。


 同じ机の隣ではなく。


 向かい合って座りました。


 それも。


 今の二人にはちょうどよい距離でしょう。


 中央に。


 正式な写しではなく。


 注釈用の複製紙。


 王家確認済みの文章。


 殿下が歴史背景。


 ナリア様が礼法表現。


 二人で。


 学園生徒向けの短い注釈へ整えます。


 原案。


『百年前、王妃アデライドが地方貴族を春の庭園へ招いた際の記録。領地で起きていた問題を正式な会議ではなく、少人数の茶会で聞くために用いられた。招待文では、王妃が相手の報告を必要としていることを示しながらも、日時について相手の都合を尋ねている』


 長いです。


 展示へ置くには。


 もう少し短く。


「歴史背景は」


 殿下が言いました。


「王妃が、正式会議ではなく茶会を選んだ理由を残したい」


「はい」


 ナリア様が答えます。


「礼法では、相手の都合を尋ねている点」


「はい」


「でも、両方を入れると長い」


「二つに分ける?」


 殿下が提案しました。


『歴史』

『言葉の特徴』


 見出しを分ける。


「読みやすいと思います」


 ナリア様が言いました。


 殿下が。


 少し嬉しそうにします。


 でも。


 以前のように。


『ナリアもそう思う?』

『本当に?』

『僕と同じ?』


 とは聞きません。


 受け取ります。


「では」


 殿下は書きました。


『歴史

 百年前、王妃アデライドは地方貴族の領地事情を聞くため、正式な会議ではなく少人数の春の茶会を開きました』


「一文」


 ナリア様が言いました。


「分かりやすいです」


「礼法は?」


 ナリア様が。


 自分の案を書きます。


『言葉の特徴

 相手へ来訪を命じるのではなく、話を聞きたい理由と、都合を尋ねる言葉を添えています』


 殿下が読みました。


「良い」


 短い。


「理由と都合」


「はい」


「招待で大切な二つ」


「はい」


 ナリア様は。


 少しだけ笑いました。


「殿下の最初の招待文には、都合がありませんでしたね」


 室内の空気が。


 一瞬だけ止まりました。


 エレナ様が。


 遠くで、筆を止めました。


 私も。


 レオン様も。


 殿下の反応を見ました。


 過去の失敗。


 以前なら。


 真っ赤になり。


 奇声を上げ。


 言い訳し。


 机へ伏せていたかもしれません。


 殿下は。


 少し顔を赤くしました。


 ですが。


「なかった」


 認めました。


「理由も、かなり重かった」


「はい」


「祝福と未来と」


「はい」


「誓約も」


「はい」


 ナリア様の口元が。


 少しだけ上がります。


「今なら、三文で?」


「二文にする」


「二文?」


「一文目で誘う。二文目で断っても大丈夫だと」


「とてもよいと思います」


 二人が。


 過去の失敗を。


 少し笑って話せています。


 昨日。


 傷ついた話を聞いたばかりです。


 すべてが軽くなったわけではありません。


 でも。


 過去について話すことが。


 必ずしも重い時間だけではない。


 今なら笑える失敗も。


 まだ笑えない傷も。


 両方あります。


 その区別を。


 二人は少しずつ学んでいます。


     ◇


 清書用の文字は。


 誰が書いても同じ見え方になるよう。


 学園の書記担当が最終的に整えます。


 ですが。


 今日は。


 文章そのものを確定するための仮清書。


 殿下が歴史部分。


 ナリア様が礼法部分。


 一つの紙へ。


 二人の文字が並びます。


 殿下の文字。


 やや大きく。


 力強い。


 ナリア様の文字。


 細く。


 整っている。


 同じではありません。


 でも。


 一つの注釈として。


 自然に読めます。


「文字の大きさ」


 レオン様が少し離れて確認しました。


「殿下の方が大きい」


 殿下が。


 紙を見ます。


「合わせる」


「無理に同じにしなくても」


 ナリア様が言いました。


「でも、展示では揃えた方が」


「最終清書は書記担当です」


 レオン様が答えます。


「今は内容確認」


「そうだった」


 殿下が少し恥ずかしそうです。


 ナリア様が笑いました。


「殿下は、合わせようとしすぎますね」


 昨日の歩幅。


 今日の文字。


「……はい」


 殿下も気づきました。


「普通でよいと」


「はい」


「難しい」


「少しずつです」


 ナリア様の言葉が。


 柔らかく落ちました。


 殿下は。


 その言葉を聞き。


 少しだけ目を細めます。


「少しずつ」


「はい」


 二人の間で。


 何度も使われてきた言葉。


 今日も。


 支えになっています。


     ◇


 私とレオン様は。


 三代前の国王による朝食会招待状を担当しました。


 内容は。


 夜会や正式晩餐ではなく。


 朝の短い時間に。


 若い研究者たちを招いた記録です。


 目的は。


 新しい農法について。


 堅苦しい報告ではなく、気軽に意見を聞くこと。


「身分の高い側が」


 私は言いました。


「相手へ負担をかけない時間を選んでいます」


「ただし」


 レオン様が答えます。


「朝食会そのものが、相手へ負担であった可能性もあります」


「確かに」


「記録には、招待された側の感想がありません」


「では」


 注釈へ。


 美談だけを書いてはいけません。


「『相手の予定へ配慮したとされています』」


「されています?」


「断定を避けます」


「良いです」


 王家の記録。


 権威があるからと。


 すべて正しい見本にはしません。


 相手がどう受け取ったか。


 記録がないなら。


 分からないと書く。


「研究会らしいですね」


 私が言うと。


 レオン様は少しだけ頷きました。


「受け取る側の記録がないことも、展示へ入れます」


 新しい一文。


『この招待が、実際に相手へどのように受け取られたかは記録に残っていません。歴史上の文例も、正解としてではなく、考える材料としてご覧ください』


 とても重要です。


 王家資料。


 古いから。


 美しいから。


 正解ではない。


 今の自分たちが。


 相手との関係へ合わせて考える。


「殿下へ確認します」


 レオン様が言いました。


 王家資料を。


 正解ではないと展示する。


 王太子である殿下の意見も必要です。


 殿下は。


 私たちの案を読みました。


 少し長く考えます。


「残した方がいい」


 言いました。


「王家の言葉でも」


「はい」


「相手がどう受け取ったか分からないなら、正解とは言えない」


「はい」


「僕が」


 少しだけ苦い笑みを浮かべます。


「よく知っている」


 ナリア様が。


 殿下を見ました。


 でも。


 慰めません。


 否定もしません。


「はい」


 静かに答えました。


 殿下も。


 そのまま受け取ります。


     ◇


 エレナ様の返礼文注釈は。


 予想以上に良いものでした。


『歴史

 王宮茶会の後、招待された貴族から王家へ送られた返礼文です。茶会への感謝だけでなく、話を聞いてもらえたことへの安堵が記されています』


『言葉の特徴

 相手の心配りを具体的に受け取りながら、次の招待や返礼を求めていません。感謝は、同じ大きさのお返しを求める言葉ではありません』


 最後の一文。


 とても良いです。


「蜂蜜菓子を贈った記録は?」


 殿下が尋ねました。


「ありませんわ」


 エレナ様が少し残念そうに答えました。


「もしあれば、必ず入れましたのに」


「主題が変わります」


 レオン様が言いました。


 全員が笑いました。


 今日初めての。


 少し大きな笑いです。


 ナリア様も。


 殿下も。


 自然に笑っています。


 昨日。


 重い話をした二人。


 今日。


 同じ机で。


 また笑えています。


 私は。


 それが嬉しくて。


 でも。


 大げさにしないよう。


 一緒に笑うだけにしました。


     ◇


 昼前。


 三つの注釈案が。


 ほぼ完成しました。


 最後に。


 全員で。


 一枚ずつ声に出して読みます。


 読む人は。


 内容を担当していない者。


 初見に近い目で。


 分かりにくいところを探します。


 王妃記録。


 私が読みます。


「百年前、王妃アデライドは地方貴族の領地事情を聞くため、正式な会議ではなく少人数の春の茶会を開きました」


 問題なし。


「相手へ来訪を命じるのではなく、話を聞きたい理由と、都合を尋ねる言葉を添えています」


 問題なし。


 国王招待状。


 エレナ様が読みます。


「三代前の国王は、若い研究者の意見を聞くため、夜会ではなく短い朝食会を選びました」


「短い朝食会」


 ナリア様が言いました。


「会そのものが短いのか。朝食が短いのか、少し迷います」


「『朝の時間に、小規模な会を』」


 私が提案します。


「その方が明確」


 修正。


 返礼文。


 殿下が読みます。


「感謝は、同じ大きさのお返しを求める言葉ではありません」


 そこで。


 殿下の声が。


 少し止まりました。


 自分自身へ。


 深く刺さったのでしょう。


 ナリア様が。


 殿下を見ました。


 でも。


 止めません。


 殿下は。


 一度呼吸し。


 最後まで読みました。


「……問題ない」


 レオン様が言いました。


「採用です」


 殿下は。


 紙を置きました。


「感謝を伝えたら」


 小さく言いました。


「同じ大きさで返してもらえると思わない」


「はい」


 ナリア様が答えました。


「今も?」


 殿下が尋ねます。


 少し個人的な問いです。


 ナリア様は。


 考えました。


「殿下が感謝を伝えてくださった時」


「はい」


「私も、感謝を返したいと思うことはあります」


「はい」


「でも」


 殿下の目を見ます。


「返さなければならないとは、最近は思いません」


 殿下の表情が。


 少し揺れました。


「以前は?」


 尋ねてから。


 殿下は。


 昨日の傷の話へつながる可能性に気づきました。


 すぐに。


「今、話したくなければ」


 付け足します。


 ナリア様は。


 少し考え。


「以前は」


 ゆっくり答えました。


「殿下から何かをしていただくと」


「はい」


「同じくらい丁寧に返さなければ、また何か言われるのではないかと思っていました」


 殿下の顔が。


 苦しくなります。


 でも。


 割り込みません。


「今は」


 ナリア様は続けます。


「殿下が、返事を急かされないので」


「はい」


「受け取った後、少し考えられます」


「はい」


「返したい時に、返せます」


 殿下は。


 長く息を吐きました。


「分かった」


 それだけ。


 謝罪は。


 昨日しました。


 今は。


 新しく知ったことを。


 受け取ります。


「教えてくれて、ありがとう」


「はい」


 今日も。


 少しだけ。


 過去の傷が見えました。


 でも。


 ナリア様は。


 今日は続きを話さないと言いました。


 今の話は。


 注釈から自然に出た範囲。


 殿下は。


 深追いしませんでした。


     ◇


 昼休み。


 正式な注釈案を。


 学園の書記担当へ渡しました。


 数日後。


 展示用の大きな文字で清書されます。


 その帰り。


 中央掲示板の前では。


 抽選結果を受け取った生徒たちが。


 昨日とは少し違う顔で話していました。


「私は、まだ残念です」

「うん」

「でも、当日、行くだけ行こうと思います」

「茶席へ?」

「いいえ。展示だけ」

「一緒に?」

「入口まで」

「書く時は?」

「一人で」


 自分の形。


 選んでいます。


 別の場所。


「少人数相談、春祭り後に検討するらしい」

「本当?」

「約束ではないそうです」

「でも、考えてくれるなら」

「申し込んでよかったかも」


 昨日の男子生徒の言葉。


 研究会が持ち帰ったことが。


 すでに少し広がっています。


 さらに。


「王家資料へ、正解ではないと書くそうですわ」

「王家の文なのに?」

「受け取った側の記録がないからですって」

「殿下が認めたの?」

「そうらしいです」

「面白いですね」

「王家の言葉も、相手に届かなければ正解ではないのね」


 展示前から。


 企画の考えが。


 少しずつ学園へ流れています。


 殿下が。


 この会話を聞けば。


 きっと胸がいっぱいになるでしょう。


 ですが。


 今日は。


 殿下とナリア様は。


 別の授業準備で遅れています。


 私とエレナ様だけ。


 掲示板前を通りました。


「広がっていますわね」


 エレナ様が言いました。


「はい」


「王家の資料を、正解にしない」


「殿下にとって、大きな決断です」


「でも」


 エレナ様は微笑みました。


「殿下ご自身が、王太子の言葉でも相手を傷つけると知っておられますもの」


「はい」


 権威があるから。


 正しい。


 身分が高いから。


 相手は受け取るべき。


 その考えから。


 殿下は。


 最も遠いところへ来ようとしています。


     ◇


 午後。


 第一参加時間の資料説明練習。


 今日は。


 昨日の話を聞いた後。


 初めて。


 殿下とナリア様が同行役として並びます。


 開放学習室。


 廊下を準備室に見立て。


 入口。


 資料前。


 退室。


 短い練習です。


「開始します」


 レオン様が言いました。


 ナリア様が。


 廊下へ殿下を迎えに行きます。


 殿下は。


 昨日までより。


 少し距離を取っています。


 半歩。


 いや。


 一歩以上。


 ナリア様が振り返りました。


「殿下」


「はい」


「遠いです」


 殿下が。


 完全に固まりました。


 私たちも。


 一瞬、動けません。


 ナリア様は。


 少しだけ笑っています。


 怒ってはいません。


「ご案内役として」


「はい」


「この距離では、扉を通る時に離れすぎます」


「はい」


「いつもの位置で大丈夫です」


 殿下は。


 少し迷いました。


「本当に?」


 一回。


「はい」


 ナリア様は。


 自分から。


 半歩だけ近づきました。


「このくらいです」


「はい」


 殿下も。


 少しだけ戻ります。


 二人の距離。


 以前の同行練習と同じ。


 近すぎない。


 遠すぎない。


「では」


 ナリア様が言いました。


「現在、展示前に三名いらっしゃいます。王妃の園遊会記録からご説明をお願いいたします」


「分かった」


「三文です」


「はい」


 歩き始めます。


 殿下は。


 歩幅を合わせすぎません。


 でも。


 遠ざかりません。


 ナリア様も。


 一歩目だけ。


 ほんの少し足元を見ました。


 殿下は。


 気づいています。


 でも。


 言いません。


 速度を少し落とすだけ。


 ナリア様が顔を上げます。


 二人の歩幅が重なります。


 資料前。


 ナリア様が導入。


 殿下が三文。


 ナリア様が二文。


 問題ありません。


 説明後。


 来場者役のエレナ様が。


 質問します。


「王妃の招待は、相手に断る余地が本当にあったのでしょうか」


 予定外。


 殿下が答えます。


「記録だけでは、完全には分かりません」


「王妃からの招待ですものね」


「はい」


「形式上、都合を尋ねても」


「断りにくかった可能性はあります」


 殿下は。


 王家を庇いません。


「そのため」


 ナリア様が補足します。


「この文を、相手へ配慮した完全な正解として展示するのではなく、身分差がある招待で、どこまで相手が自由に選べるかを考える例として紹介します」


「なるほど」


 エレナ様が頷きました。


 とても良い説明です。


 殿下とナリア様。


 二人だからこそ。


 王家と礼法。


 両方から。


 同じ資料を見られます。


 説明終了。


 準備室役へ戻ります。


 扉前。


 殿下は。


 ナリア様から一歩離れようとしました。


 でも。


 必要以上です。


 ナリア様が。


 小さく言いました。


「殿下」


「はい」


「終わったからと、急に離れなくても大丈夫です」


 殿下の顔が赤くなりました。


「しかし、役目は」


「終わりました」


「はい」


「ですから、普通に」


 ナリア様は。


 少し笑いました。


「私が持ち場へ戻るまで、同じ廊下を歩いてください」


 殿下は。


 何度も言葉を止めました。


「……分かった」


 短く答えます。


 二人で。


 数歩。


 同じ方向へ歩き。


 ナリア様が体験紙担当の位置へ戻る。


 殿下が控室役へ。


 自然です。


「第一参加時間、終了」


 レオン様が言いました。


 記録。


「殿下、開始時に距離を取りすぎ」


「はい」


「クラウゼン嬢の指示後、改善」


「はい」


「説明、問題なし」


「はい」


「終了後、急に離れようとした」


 殿下の耳が赤くなりました。


「はい」


「修正済み」


「はい」


 レオン様は。


 淡々と記録しました。


 ナリア様は。


 少しだけ笑っています。


 殿下も。


 恥ずかしそうですが。


 落ち込んでいません。


「傷つけないようにと思って」


 殿下が言いました。


「離れすぎた」


「はい」


 ナリア様が答えます。


「私は、距離が必要な時はお伝えします」


「はい」


「殿下も、迷ったら聞いてください」


「はい」


「一人で決めないでください」


「分かった」


 朝。


 心得紙へ書いた言葉。


『距離は一人で決めない』


 そのままです。


     ◇


 練習が終わると。


 エレナ様が。


 ようやく菓子箱を開きました。


「本日の蜂蜜菓子ですわ」


 中には。


 二つの小さな丸が。


 少しだけ離れて並んだ形。


 完全には触れていません。


 でも。


 離れすぎてもいません。


「距離ですか?」


 私が尋ねました。


「はい」


「今日の朝から用意していたのですか?」


「偶然ですわ」


 絶対に違います。


 ですが。


 誰も追及しません。


「味は?」


 殿下が尋ねます。


「片方は蜂蜜。片方は柑橘」


「別々?」


「噛むと、口の中で重なります」


「離れていても?」


「はい」


 エレナ様は微笑みました。


「形が別でも、一緒に味わえることがありますもの」


 殿下が。


 少し考えます。


「では」


 ナリア様が菓子を手に取りました。


「近づきすぎなくても、同じものを受け取れる」


「はい」


「でも」


 殿下が続けます。


「離れすぎると、一緒には食べられない」


 エレナ様の目が。


 少し輝きました。


「その通りですわ」


 完全に狙っています。


 私たちは。


 一つずつ食べました。


 蜂蜜の甘さ。


 柑橘の少し苦い香り。


 別々。


 でも。


 口の中で重なります。


「美味しいです」


 ナリア様が言いました。


 殿下も。


「はい」


 短く答えました。


 そして。


 少しだけ迷い。


「ナリア」


「はい」


「今日、僕が遠かった時」


「はい」


「不安だった?」


 ナリア様は。


 すぐに答えません。


 考えます。


「少し」


「はい」


「昨日のお話をしたことで」


「はい」


「殿下が、もう今までのように話してくださらなくなるのかと思いました」


 殿下の表情が。


 はっきり痛みました。


 でも。


 最後まで聞きます。


「私は」


 ナリア様は続けます。


「傷ついたことを話したいと思いました」


「はい」


「でも、それで今の関係までなくしたいわけではありません」


「はい」


「ですから」


 少しだけ。


 殿下を見ます。


「今日は、殿下の方が遠く感じて」


 声が小さくなります。


「少し、寂しかったです」


 室内の空気が。


 完全に止まりました。


 殿下は。


 ほとんど呼吸を忘れています。


 寂しかった。


 ナリア様が。


 殿下が遠いことを。


 寂しいと。


 言いました。


 エレナ様が。


 扇を強く握っています。


 私も。


 何も言えません。


 レオン様だけは。


 記録紙を閉じました。


 たぶん。


 これ以上は記録しないという意思です。


 殿下は。


 大きな意味へ飛びそうになります。


 僕がいないと寂しい?


 必要としてくれている?


 恋?


 危険です。


 でも。


 今日は。


 心得。


 相手の言葉をそのまま受け取る。


「寂しかった」


 殿下は。


 確認するように一度だけ言いました。


「はい」


「僕が、離れたから」


「はい」


 ナリア様は。


 頬を赤くしながらも。


 目を逸らしません。


 殿下は。


 長く呼吸しました。


「教えてくれて、ありがとう」


 まず。


 感謝。


「明日は」


 言いかけ。


 止めます。


 未来を決めつけない。


「次に迷った時は」


 言い直しました。


「一人で離れず、聞く」


「はい」


「近くにいてもいいか」


「はい」


「話しかけてもいいか」


「はい」


 ナリア様の表情が。


 少しずつ柔らかくなります。


「それで、お願いいたします」


「分かった」


 殿下は。


 嬉しい。


 かなり。


 でも。


 喜びすぎません。


「寂しくさせて」


 謝ろうとしました。


 でも。


 今の話は。


 昨日とは違います。


 ナリア様の話は終わっています。


 謝罪してもよいでしょう。


「申し訳なかった」


 短く言いました。


 ナリア様は。


 すぐ大丈夫とは言いません。


 でも。


 少し笑いました。


「明日は、今日より少し普通にお願いいたします」


 殿下の口元も。


 少しだけ上がりました。


「努力する」


「合わせすぎないように?」


「はい」


「離れすぎないように?」


「はい」


「難しいですね」


「とても」


 二人が。


 少し笑いました。


 今日の距離。


 まだ正解ではありません。


 でも。


 正解を一度で決める必要もありません。


 その日の相手へ。


 その都度聞く。


 少しずつ調整する。


 それでよいのです。


     ◇


 研究会の終わり。


 進捗表には。


 またいくつかの印が増えました。


『展示板固定位置 確定』


『固定具塗装 依頼済み』


『王家資料写し三点 受領』


『展示注釈案 完成』


『体験紙印刷 開始』


『第一参加時間練習 修正あり・運用可能』


 春祭りまで。


 あと十二日。


 数字が。


 少しずつ小さくなっています。


 殿下は。


 今日の心得紙を手に取りました。


『ナリアへ近づきすぎない』


『不用意に話しかけない』


『隣を歩こうとしない』


『今日は距離を取る』


 朝に書いた言葉。


 殿下は。


 一本ずつ。


 線を引きました。


 消します。


 代わりに。


『距離は一人で決めない』


『今日のナリアへ聞く』


『近すぎても、遠すぎても、直せばいい』


 新しく書きました。


 私は。


 その心得紙を見て。


 少し笑いました。


「よいと思います」


「はい」


 ナリア様も。


 横から見ました。


「最後の一文」


「はい」


「研究会の展示にも使えそうですね」


「距離の話?」


「言葉の距離です」


 ナリア様が言いました。


「近すぎても、遠すぎても、直せばよい」


 殿下が。


 少し考えました。


「招待にも」


「はい」


「感謝にも」


「はい」


「恋にも?」


 出ました。


 殿下。


 ほんの少しだけ飛びました。


 ナリア様の顔が。


 一気に赤くなります。


 室内。


 沈黙。


 殿下も。


 言ってから気づきました。


「今のは」


「はい」


「研究会の一般論」


「そうですか」


 ナリア様の声が。


 少しだけ細いです。


「はい」


「では」


 ナリア様は。


 頬を赤くしたまま。


「恋も、近すぎたり遠すぎたりしたら、直せるのでしょうか」


 今度は。


 殿下が完全に止まりました。


 私も。


 エレナ様も。


 レオン様も。


 誰も動けません。


 ナリア様自身も。


 言ってから。


 かなり驚いています。


 でも。


 逃げませんでした。


 殿下は。


 何度も言葉を止めました。


 劇的な答え。


 君となら。


 いつか必ず。


 危険です。


 でも。


 今日の学び。


 一度で正解にしない。


「直せるか」


 殿下は。


 慎重に答えました。


「一緒に聞けるなら」


「聞く?」


「近いか。遠いか」


「はい」


「相手が、どう感じているか」


「はい」


「それを」


 ナリア様の目を見ました。


「何度でも聞けるなら、直せると思う」


 ナリア様は。


 長く黙りました。


 そして。


 少しだけ。


 柔らかく笑いました。


「そうですね」


 殿下も。


 少し笑いました。


 それだけ。


 恋の約束にはしません。


 でも。


 恋について。


 二人が。


 逃げずに言葉を交わせました。


 ほんの少し。


 大きな一歩でした。


     ◇


 帰り道。


 夕方の学園は。


 春祭り準備の匂いに満ちていました。


 切った木の匂い。


 布の新しい匂い。


 花壇の湿った土。


 遠くの菓子工房から届いた、甘い香り。


 廊下を歩く生徒たちも。


 少しずつ本番の話を増やしています。


「王家資料の注釈ができたそうです」

「正解ではない、と書くとか」

「面白いですわ」

「体験紙も印刷開始」

「図書室分は、春祭り当日の朝から?」

「前日からでは?」

「なくなったら補充されるそうです」


 群衆の声。


 期待。


 準備。


 その中を。


 殿下とナリア様は歩いていました。


 朝。


 殿下は。


 壁際へ離れていました。


 今は。


 ナリア様の隣。


 でも。


 近すぎません。


 自然な距離です。


 歩き始め。


 ナリア様が。


 一瞬だけ足元を見ます。


 殿下は。


 今日も言いません。


 待ちます。


 ナリア様が顔を上げます。


 二人の歩幅が。


 少しずつ重なります。


「殿下」


 ナリア様が言いました。


「はい」


「今日は」


 少しだけ笑います。


「朝より近いですね」


 殿下の耳が赤くなりました。


「近すぎる?」


「いいえ」


「遠すぎない?」


「いいえ」


「では」


 殿下は。


 少しだけ安心したように。


「今は、このくらい」


「はい」


 ナリア様が頷きました。


「今は」


 今は。


 大切な言葉です。


 明日も同じとは限りません。


 いつもこの距離とも限りません。


 でも。


 今日。


 今。


 二人にとって。


 ちょうどよい。


「殿下」


「はい」


「明日も」


 ナリア様は。


 少し迷いました。


「来てくださいますよね」


 殿下が。


 完全に固まりました。


 研究会へ。


 当然来ます。


 ですが。


 ナリア様から。


 来てほしいと。


 言われました。


 殿下の目に。


 喜びが溢れます。


 でも。


 未来へ飛びません。


「はい」


 短く答えました。


「明日も来る」


 ナリア様の表情が。


 柔らかくなりました。


「よかったです」


 それだけ。


 二人は。


 また歩きます。


 私は。


 少し後ろから。


 胸の奥が温かくなるのを感じていました。


 エレナ様が隣へ来ます。


「マリア様」


「はい」


「ナリア様から、来てほしいと」


「はい」


「殿下、奇声を」


「上げませんでした」


「池へも」


「行きません」


「成長ですわ」


「本当に」


 レオン様が。


 前から言いました。


「明日は印刷済み体験紙の数量確認です」


「分かっています」


 私たちは。


 小さく笑いました。


 現実。


 作業。


 次の日。


 それが。


 二人を。


 一つの言葉の中だけへ閉じ込めません。


 来てほしい。


 来る。


 その約束も。


 明日の研究会という。


 小さく確かな未来です。


 王太子殿下。


 今日のあなたは。


 昨日、ナリア様の傷を知ったことで。


 同じことを繰り返さないよう、彼女から遠ざかろうとしました。


 話しかけず。


 近づかず。


 隣を歩かず。


 そうすれば傷つけないと思ったのでしょう。


 けれど。


 ナリア様は。


 傷ついたことを話したからといって。


 今の関係までなくしたいわけではないと伝えてくださいました。


 あなたが遠いことを。


 少し寂しいとも。


 言ってくださいました。


 どうか。


 その言葉を。


 恋が叶った証へ急いで変えないでくださいませ。


 ナリア様が望んでいるのは。


 いつも近くにいてほしいという約束ではありません。


 傷つけないために、勝手に消えないでほしい。


 距離が必要かどうかを、一人で決めないでほしい。


 今日の自分へ、今日の気持ちを聞いてほしい。


 ただ。


 それだけです。


 でも。


 誰かと関係を続けるためには。


 その「それだけ」が。


 何よりも大切なのかもしれません。


 近づきすぎたら。


 少し離れる。


 遠ざかりすぎたら。


 また近づく。


 どちらかが我慢して、同じ距離を守り続けるのではなく。


 その都度。


 今はどうですかと。


 聞き直す。


 恋も。


 友情も。


 信頼も。


 一度決めた距離で完成するものではありません。


 相手が変わり。


 自分も変わるたび。


 少しずつ。


 何度でも。


 直していくものなのです。

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