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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第59話 王太子殿下、隣を歩く理由を役割に隠す


 紙の上では、うまくいっていたのです。


 入口はこちら。


 受付はここ。


 展示板を三枚並べ。


 その先に体験紙を書く机を置き。


 奥には少人数の茶席。


 出口は反対側の扉。


 来場者が一方向へ進めるようにすれば、混雑もしにくい。


 私たちは学園の簡易図へ何度も線を引き、机の数を数え、歩く人の流れを考えてきました。


 けれど。


 紙の上に風は吹きません。


 扉の重さもありません。


 廊下から中を覗いた時、どこまで見えてしまうのかも分かりません。


 窓から差し込む光が資料へ反射することも。


 椅子を引いた時、後ろを通れなくなることも。


 背の低い生徒には、展示の文字が高すぎることも。


 実際にその場所へ立たなければ分からないことは、たくさんあります。


 そして。


 相手の隣を歩いてみなければ、見えないことも。


 春祭り企画が正式に許可された翌日。


 王国史礼法研究会は、第一候補となった東校舎一階の小講義室へ、会場の実地確認に向かうことになりました。


 ◇◇◇


 朝の開放学習室。


 正式許可をいただいたというのに、アルノルド殿下の心得紙は少なくなるどころか、また一枚増えていました。


『許可後に浮かれない』


『会場を見ずに完璧な配置を決めない』


『ナリアの隣を歩くことを目的にしない』


『同行役を今日決めようとしない』


『狭い場所で近くなっても固まらない』


『窓から池を見つけても昔を思い出しすぎない』


 私は上から順番に読み。


 三つ目で一度止まり。


 四つ目で殿下を見て。


 五つ目で小さく息を吐きました。


「殿下」


「はい」


「今日の会場確認で、ナリア様の隣を歩きたいのですか?」


 殿下の肩が、ほんの少し揺れました。


「会場の動線を確認するなら、並んで歩く場面もあるだろう」


「質問への答えになっていません」


「……歩けたら嬉しい」


 正直です。


 とてもよろしい。


 隠しきれず、変な理由を重ねるよりはよほど安全です。


「ですが、隣を歩くための会場確認ではありません」


「分かっている」


「同行役を決める日でもありません」


「分かっている」


「ナリア様が礼法上の確認を担当されるため、結果的に近くで動くことはあるかもしれません」


「はい」


「それを運命だと思ってはいけません」


「思わない」


 返事が早いです。


 怪しい。


 私は心得紙を指しました。


「五つ目も大切です」


「狭い場所で近くなっても固まらない」


「はい」


「会場確認中に固まったら、動線が止まります」


「それは困る」


「ナリア様も困ります」


「絶対に止まらない」


 目的が明確だと強いです。


 殿下は、真剣に心得紙へ視線を戻しました。


 今日の会場確認では、実際の机や椅子を仮に動かし。


 受付から出口まで、全員で来場者役をしながら歩きます。


 王太子殿下が参加する時間の移動経路も確認します。


 そのため。


 殿下と研究会員一名が並んで移動する場面も、試す必要がありました。


 警護担当から求められた「研究会内の案内役」です。


 ナリア様は以前。


 礼法の補足が必要なら、自分も担当できると申し出ました。


 殿下は、その場で決めず。


 皆で役割を考えると答えました。


 今日。


 実際の会場で動いてみれば、誰がどの役割に向いているかも見えてくるでしょう。


 殿下が意識しないはずはありません。


 むしろ意識しない方が無理です。


「殿下」


「はい」


「同行役について、ナリア様だけを候補として見ないでくださいね」


「分かっている」


「案内の分かりやすさ、警護との連携、展示内容への知識、当日の他の担当との兼ね合い。全部を考えます」


「ああ」


「殿下と並んだ時に見栄えがよい、は評価項目にありません」


 殿下が少し不満そうな顔をしました。


「言っていない」


「考えてはいませんでした?」


「……少し」


 やはり。


 私はもう一度ため息をつきました。


 ですが、正直に言えています。


 それなら戻せます。


「今日は、誰と歩けば会場運営が円滑になるかを確認します」


「はい」


「恋愛ではなく役割です」


「はい」


「ただし」


 私は少しだけ笑いました。


「役割の中で、ナリア様と自然に話せることまで禁止はしません」


 殿下が顔を上げました。


「いいのか」


「研究会の相談であれば」


「分かった」


 明らかに表情が明るくなりました。


 分かりやすいです。


 そこへ、レオン様が入ってきました。


 手には、会場確認用の木製板と、巻かれた紙。


「机と椅子の寸法を記録します」


「寸法まで?」


 私が尋ねると、レオン様は当然のように頷きました。


「図面上の配置と、実際の家具の大きさは異なります」


「確かに」


「通路幅も測ります。殿下の警護担当から、最低限必要な幅が指定されています」


 殿下が言いました。


「人がすれ違えるだけでは足りないのか」


「はい。殿下が移動する際は、警護一名が後方へ入ります」


「では、三人が通れる幅」


「厳密には、横並びではありません。殿下と案内役、その後ろに警護です」


 レオン様は、巻いた紙を机へ広げました。


 会場確認表です。


 項目が並んでいます。


 入口の幅。


 扉の開く方向。


 受付位置。


 展示板の高さ。


 体験席の照明。


 茶席と通路の距離。


 資料説明位置。


 緊急時の退室経路。


 来場者が立ち止まりやすい場所。


 殿下参加時の移動経路。


「多いですね」


 私が言うと、レオン様は真顔でした。


「実地確認ですので」


 その一言ですべてを終わらせます。


 エレナ様が少し遅れて入ってきました。


 今日は菓子箱だけではありません。


 小さな布袋。


 茶器の大きさを測るための紐。


 見本用の小皿。


 花瓶。


 そして、なぜか蜂蜜菓子。


「会場確認に菓子まで?」


 殿下が尋ねます。


「茶席へ座った時、皿と茶器を置いて窮屈ではないか確認しますの」


「なるほど」


「食べる必要は?」


「確認後に必要ですわ」


 絶対に持ってきます。


 でも。


 今日は本当に、皿の大きさを確かめる必要があります。


 完全に私用とも言えません。


 エレナ様は、机へ花瓶を置きました。


「花も、どの位置なら資料の邪魔にならないか見ます」


「本格的ですね」


「正式許可をいただきましたもの」


 声には、まだ喜びが残っています。


 でも、浮かれているだけではありません。


 実際の準備へ向かう顔です。


 最後に、ナリア様が入ってきました。


「ごきげんよう」


 今日は礼法解説の原稿ではなく。


 小さな札を何枚か持っています。


『受付』


『展示』


『体験』


『茶席』


『出口』


 実地確認で位置を示すための仮札です。


 殿下が立ち上がりました。


「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」


「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」


 ナリア様は机に並ぶ道具を見て、少し目を丸くしました。


「本格的ですね」


「レオンが、寸法まで測る」


 殿下が言いました。


「必要です」


 レオン様がすぐに答えます。


 ナリア様は笑いました。


「はい。必要だと思います」


 そして。


 殿下の心得紙が、まだ机の端にあることへ気づきました。


 見ようとはしません。


 ですが。


 一番上の文字だけは、見えてしまったようです。


『許可後に浮かれない』


 ナリア様の口元が、少し柔らかくなりました。


「殿下」


「はい」


「昨日は、眠れましたか?」


 殿下が一瞬止まりました。


 私も同じことを聞こうかと思っていました。


「……少し遅くなった」


「正式許可書を読んでいらしたのですか?」


「四回までだ」


 ナリア様が、くすりと笑いました。


「四回」


「十回は読んでいない」


「頑張りましたね」


 殿下の顔が赤くなりました。


 褒められ方が、少し子供に向けるようです。


 ですが。


 ナリア様が笑っているので、殿下も怒りません。


「ありがとう」


 素直に受け取りました。


 今日も良い始まりです。


 ◇◇◇


 東校舎一階の小講義室は、普段は少人数の補講や、小規模な研究会の集まりに使われています。


 私たちが到着した時、廊下にはまだ授業中の静けさが残っていました。


 春祭り準備は放課後が中心です。


 朝の時間は、遠くからかすかに楽器の音が聞こえる程度。


 東校舎の窓から差し込む光が、白い床へ細長く伸びていました。


 小講義室の前には、会場担当の教師と、用務員の男性が待っていました。


「王国史礼法研究会ですね」


「はい。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


 レオン様が礼をします。


 私たちも続きました。


 殿下も、研究会の一員として同じ位置です。


 教師は鍵を開けました。


「現在の机と椅子は、使用しない分を倉庫へ移せます。ただし、壁際の大棚は動かせません」


 扉が開きます。


 私たちは、中へ入りました。


 最初に感じたのは。


 思ったより、狭い。


 ということでした。


 図面では、十分に広く見えました。


 ですが。


 長机が六つ。


 椅子が二十脚。


 壁際の大棚。


 教師用の机。


 窓際の小さな台。


 今の状態では、かなり詰まっています。


 もちろん机や椅子の一部は移動できます。


 それでも。


 茶席。


 展示板。


 体験席。


 受付。


 すべてを入れるには工夫が必要です。


 殿下も、部屋の中央で立ち止まりました。


「図面より狭い」


「はい」


 ナリア様が答えました。


「天井が低めなので、余計にそう感じるのかもしれません」


「窓は大きい」


 私は窓際へ近づきました。


 中庭の一部が見えます。


 花壇。


 遠くには、あの池。


 殿下が、窓の外へ視線を向けました。


 心得。


『窓から池を見つけても昔を思い出しすぎない』


 まさに。


 私は殿下の様子を見ました。


 殿下も気づきました。


 池。


 あの日の場所。


 ですが。


 ほんの一呼吸だけ見て、すぐ室内へ戻りました。


「光が強い」


 言いました。


 戻れています。


「資料へ反射するかもしれない」


 私は、内心で拍手しました。


 過去ではなく、展示の問題へ戻りました。


「午後は、さらに西日が入りますね」


 ナリア様が窓の向きを確認します。


「古い資料の写しでも、光が強いと読みにくくなります」


「展示板を窓に向けない方がよい」


 殿下が答えます。


「はい」


 会場担当教師が言いました。


「春祭り当日は、薄いカーテンを使用できます。ただし、完全に閉めると部屋が暗くなります」


「照明は?」


 レオン様が尋ねます。


「天井灯は使えます。ですが、窓際と入口側で明るさに差があります」


 レオン様が記録します。


 会場へ入って、まだ数分。


 すでに図面では分からなかった問題がいくつも出ています。


 狭さ。


 西日。


 大棚。


 照明。


 完成したと思った企画にも。


 実際の場所へ来れば、また修正が必要です。


 殿下は。


 少し残念そうにするかと思いました。


 ですが。


 部屋を見回し。


「ここでできる形を考えよう」


 そう言いました。


 とても良いです。


 場所を責めません。


 無理だと決めつけません。


 今ある条件で、考えます。


 ◇◇◇


 まず。


 不要な机と椅子を、仮に廊下側へ移動しました。


 正式な移動は用務員の方が行います。


 今日は許可を得て、私たちも軽い椅子だけを動かします。


 殿下が椅子を持とうとすると。


 警護の男性が一瞬動きました。


 王太子殿下に運ばせてよいのか迷ったのでしょう。


 殿下も気づきました。


「研究会の準備です」


 短く言いました。


「危険がない範囲で、自分でも動かしたい」


 警護の方は少し迷い、会場担当教師を見ました。


 教師が頷きます。


「椅子一脚程度なら」


 殿下は、椅子を持ち上げました。


 王太子殿下が。


 普通に。


 木の椅子を運びます。


 廊下を通りかかった生徒が、それを見て目を見開きました。


「殿下が椅子を……」

「春祭りの準備?」

「ご自分で?」

「研究会の一員として参加されるって、本当なのね」


 小さなざわめき。


 殿下の手が、一瞬止まりそうになりました。


 視線。


 注目。


 でも。


 今日は見せるために運んでいるわけではありません。


 必要だからです。


 殿下は、そのまま椅子を指定された場所へ置きました。


 ナリア様も椅子を一脚持っています。


 殿下が、反射的に近づきそうになりました。


 助けたい。


 持ちたい。


 でも。


 ナリア様は無理なく持てています。


『助ける前に尋ねる』


 以前の心得です。


 殿下は、勝手に取り上げませんでした。


「重くない?」


 尋ねます。


「大丈夫です」


 ナリア様が答えました。


「ありがとうございます」


「分かった」


 任せました。


 でも。


 ナリア様が椅子を置く場所の扉が少し狭く。


 椅子の脚が引っかかりました。


 ナリア様が一度止まります。


 殿下も見ています。


「手伝ってもいい?」


 もう一度尋ねました。


 ナリア様は、少しだけ椅子を持ち直しました。


「はい。こちら側をお願いいたします」


 殿下は、椅子の反対側を持ちました。


 二人で。


 一脚の椅子を運びます。


 とても大げさなものではありません。


 一人でも運べる椅子です。


 でも。


 狭い扉を通すには、二人の方が楽です。


「少し右へ」


 ナリア様が言います。


「ああ」


「脚が当たりそうです」


「持ち上げる」


「はい」


 二人の距離が、少し近くなりました。


 椅子を間に挟んで。


 向かい合う形です。


 殿下の顔が、少し赤くなりました。


 ですが。


 固まりません。


 動線を止めません。


 椅子を通します。


 扉を抜け。


 指定位置へ置きます。


「ありがとうございました」


 ナリア様が言いました。


「こちらこそ」


 殿下も答えました。


 何がこちらこそなのか、少し分かりません。


 ですが。


 殿下にとっては、一緒に運べたことが嬉しかったのでしょう。


 重くはありません。


 許容範囲です。


 廊下の生徒たちが、また小さくざわめきました。


「今、殿下とナリア様が」

「一緒に椅子を」

「仲がよろしいのね」

「研究会の準備でしょう」

「でも自然でしたわ」


 自然。


 また、その言葉です。


 ナリア様の頬も、少し赤くなりました。


 殿下は聞こえているでしょう。


 ですが。


 否定しません。


 肯定もしません。


 椅子を運ぶ作業へ戻りました。


 とてもよくできています。


 ◇◇◇


 机を三つだけ残し。


 椅子を必要数へ減らすと。


 部屋は少し広く見えるようになりました。


 レオン様が通路幅を測ります。


「入口から受付まで、二人が並ぶと狭い」


「受付机を壁へ寄せますか?」


 私は提案しました。


「壁へ寄せると、受付担当が出入りできません」


 ナリア様が、仮札を置きながら言います。


「では、机を縦ではなく横に?」


 殿下が動かしました。


 受付机を扉に対して直角ではなく、平行に近い位置へ。


 入口から中へ進む人が。


 受付の前で止まり。


 その後、右へ流れる。


「こちらの方が、入口を塞がない」


 レオン様が測ります。


「幅は確保できます」


「でも」


 ナリア様が入口へ戻りました。


 外から中を見ます。


「受付の奥に茶席が見えます」


 私たちも廊下へ出て確認しました。


 確かに。


 扉を開けた瞬間。


 部屋の奥。


 茶器。


 座っている人。


 すべて見えてしまいます。


 少人数茶席は。


 落ち着いて言葉を考える場所でもあります。


 廊下を歩く大勢の人から見られていると、緊張するでしょう。


「展示板で視線を遮る」


 殿下が言いました。


 仮の木製板を一枚、受付の後ろへ置きます。


 完全な壁にはなりません。


 ですが。


 茶席が直接見えなくなります。


 同時に。


 展示板の表側へ、企画説明を置けます。


「入口から、何の企画か分かる」


 私は言いました。


「受付前に立ち止まりすぎないよう、題名は大きく」


 ナリア様が続けます。


「説明は短く」


 殿下が言いました。


「読む前に疲れない程度」


「三文ほど?」


 ナリア様が尋ねます。


 殿下は笑いました。


「僕の説明も、三文だった」


「はい」


「では、入口説明も三文」


 自然に共有された基準です。


 私たちは仮に文章を考えました。


『ここは、招待と感謝の言葉を考える展示です。王国史に残る実例を見ながら、ご自身の言葉を一文から作れます。書いた内容を見せる必要はありません』


 短い。


 分かりやすい。


「入口で安心できる」


 ナリア様が言いました。


「はい」


 私は頷きました。


「書いた内容を見せなくてよい、と最初に分かります」


 殿下も頷きます。


「正式許可の時に先生が心配していたことにも対応できる」


 実地確認は。


 配置だけではありません。


 どこで、どの言葉を見せるか。


 それも変えていきます。


 ◇◇◇


 次に。


 展示板の高さ。


 王家資料の写しを、上から下まで並べる予定でした。


 ですが。


 エレナ様が、下級生役として少し離れて見ました。


「上の方は読みにくいですわ」


「エレナ様の身長なら、下級生より高いのでは?」


 私が言うと。


「では、さらに低い目線を」


 エレナ様は少し膝を曲げました。


 上品さがすごいです。


 殿下も、同じように少し腰を落として見ました。


 王太子殿下が。


 展示板の前で。


 真剣に下級生の目線を確認しています。


 廊下から覗いていた生徒たちのざわめきが、少し大きくなりました。


「殿下が何を?」

「高さを見ているのでは?」

「下級生にも読めるように?」

「そこまで確認されるのね」


 殿下は聞こえていても、気にしません。


「上段は、題名だけにした方がいい」


「はい」


 ナリア様も同じ目線へ少し屈みました。


「本文は中央から下へ」


 二人の顔が。


 思ったより近くなりました。


 同じ展示板。


 同じ高さ。


 同じ位置を見ているからです。


 殿下が気づきました。


 ナリア様も気づきました。


 二人とも、少し止まりました。


 狭い場所で近くなっても固まらない。


 今日の心得。


 殿下は。


 ゆっくり。


 一歩だけ横へずれました。


 逃げるようではなく。


 互いに見やすい距離へ。


「ナリアは、この高さで読める?」


 研究の話を続けました。


 ナリア様も、頬を赤くしながら答えます。


「はい。ですが、もう少し下でもよいと思います」


「下級生を考えると?」


「はい」


「分かった」


 固まりませんでした。


 会話を続けられました。


 私は、少しだけ安心して息を吐きました。


 エレナ様が、扇の陰で私へ小さく囁きます。


「危なかったですわね」


「はい」


「でも戻りました」


「はい」


「咳払いなしで」


「とてもよくできています」


 殿下へ聞こえない声です。


 たぶん。


 ナリア様には少し聞こえたかもしれません。


 耳がさらに赤くなりました。


 ◇◇◇


 体験紙を書く机は、窓際へ置く案でした。


 光が入り。


 手元が明るい。


 気持ちも落ち着く。


 そう考えていました。


 ですが。


 実際に椅子へ座ると。


 窓の外から、中庭を歩く生徒の姿がよく見えます。


 逆に。


 外からも、机に座る人が見えます。


「書いているところを見られると、落ち着かないかもしれません」


 ナリア様が、体験者役として椅子へ座りながら言いました。


 手元は見えません。


 でも。


 誰かが外を通るたびに、視線が動きます。


「窓を背にする?」


 殿下が机を動かします。


 今度は、書く人の背中が窓側。


 外からは顔が見えにくい。


 ただし。


 西日が手元へ影を作ります。


「午後は眩しい」


 私は言いました。


 薄いカーテンを閉めてみます。


 明るさはちょうどよい。


 でも。


 風が吹くと、カーテンが机へ触れます。


 紙が揺れます。


「机を少し離す必要がある」


 レオン様が測ります。


「壁から半歩」


「すると通路が狭くなる」


 殿下が言いました。


「体験席を二席に減らす?」


 ナリア様が提案しました。


「当初は三席でしたが」


「待ち時間が増える」


 私は考えます。


 体験紙は。


 立ったままでも記入できます。


 ですが。


 個人的な言葉を考えるなら、座った方が落ち着きます。


「二席は着席」


 エレナ様が言いました。


「一席分は、立って短く書ける台にするのはいかが?」


 壁際の小さな台。


 高さがあります。


 一文だけ。


 すぐ書きたい方には使いやすいかもしれません。


「選べる形」


 殿下が言いました。


「座って考えるか。立って短く書くか」


「はい」


 ナリア様の目が明るくなりました。


「体験紙にも、一文でよいとあります。すべての方が長く座る必要はありません」


 新しい形です。


 実際の部屋が狭かったからこそ。


 体験の方法が増えました。


 困った条件が。


 必ずしも悪い結果だけを生むわけではありません。


「採用候補」


 レオン様が記録しました。


「正式配置図へ反映します」


 殿下が、少し嬉しそうに言います。


「図面よりよくなった」


「はい」


 ナリア様も頷きます。


「実際に見たからです」


 殿下は、部屋全体を見回しました。


「完成した後も、確かめる意味がある」


「はい」


「昨日の話と同じだな」


 正式許可を得たから終わりではない。


 会場を得たから、図面通りに置くだけでもない。


 何度も。


 受け取る側から確かめます。


 ◇◇◇


 茶席は、部屋の最も奥。


 大棚の前へ置く案になっていました。


 大棚が壁のようになり、落ち着くからです。


 しかし。


 実際に小皿と茶器を置き。


 五人で座ってみると。


「近いですわね」


 エレナ様が言いました。


 机が小さい。


 五人では窮屈です。


 春祭り当日は。


 来場者三名。


 研究会員二名。


 合計五名を想定していました。


 ですが。


 茶器。


 菓子皿。


 体験紙。


 筆記具。


 手を置く場所。


 かなり狭い。


 殿下とナリア様は、斜め向かいに座っています。


 小さな茶会と同じ位置です。


 でも、以前の談話室より机が小さい。


 足元も近い。


 殿下が、かなり意識しているのが分かります。


 心得。


『狭い場所で近くなっても固まらない』


 殿下は。


 茶器へ視線を落とし。


 実務的なことを言いました。


「体験紙を机に置いたまま茶を飲むのは難しい」


 戻れています。


「茶席へ来る前に、紙は小さな封筒へ入れてもらう?」


 私は提案しました。


「内容を見られない安心にもなります」


 ナリア様が言いました。


「封筒は、持ち帰り用にもできますね」


 レオン様が記録します。


「小封筒。必要数と予算確認」


 エレナ様は、皿の位置を変えました。


「個別の菓子皿ではなく、中央に大皿を置くのは?」


「衛生上、一人分ずつの方がよい」


 レオン様が答えます。


「では、小皿をさらに小さく」


 エレナ様は持ってきた見本皿を二種類並べました。


 大きい方。


 小さい方。


 小さい方でも、菓子一つは載ります。


「茶席では一人一つですか?」


 ナリア様が尋ねます。


「はい。会話と体験が中心ですもの」


 エレナ様が少し寂しそうに言いました。


 ですが、自分で抑えています。


「菓子を多くしすぎると、机も狭くなりますわ」


 殿下が頷きました。


「研究会の目的を優先する」


「はい」


 エレナ様は立派です。


 蜂蜜菓子を愛しながら。


 必要なら一つへ減らせます。


 茶席の人数についても話し合いました。


「来場者三名ではなく、二名にする?」


 私が言いました。


「すると予約枠が減ります」


 レオン様が答えます。


「一日三回。各回二名。合計六名」


「少ないですわね」


 エレナ様が言います。


「でも、落ち着いて話せます」


 ナリア様は机の広さを見ました。


「三名だと、全員の体験紙へ少し触れるだけで時間が終わってしまうかもしれません」


 殿下が考えます。


「人数を増やして広く触れるか。少なくして丁寧に話すか」


「企画の目的は?」


 ナリア様が、殿下へ尋ねました。


 殿下は少し黙ります。


「来場者が、自分の言葉を考えること」


「はい」


「なら、少人数」


 殿下は決めました。


「二名の方がいい」


 誰かへ多く見せることより。


 一人ずつが受け取れる形を選びます。


 レオン様が頷きました。


「茶席各回二名へ修正」


「予約できない方が増えます」


 私は言いました。


「その代わり」


 ナリア様が答えます。


「展示と体験紙は、予約なしで参加できます」


「茶席だけがすべてではない」


 殿下が続けました。


「はい」


 茶席は、企画の一部。


 殿下自身と同じです。


 中心になりすぎない。


 必要な範囲で。


 私は、少し可笑しくなりました。


 企画全体が。


 殿下の学びを映しているようです。


 ◇◇◇


 茶席で実際に説明をしてみることになりました。


 来場者役。


 研究会員役。


 時間を測ります。


 最初は。


 私とエレナ様が来場者。


 ナリア様が礼法説明。


 殿下が王家資料との関連を補足。


 レオン様が時間記録。


 机には。


 空の茶器。


 小皿。


 仮の体験紙。


 封筒。


 ナリア様が始めます。


「本日は、体験紙へ書いていただいた言葉について、無理のない範囲で一緒に考えます。内容を見せたくない場合は、見せる必要はありません」


 短い。


 柔らかい。


 私たちは来場者役として頷きました。


 エレナ様が、仮に招待文を書いた設定です。


「友人を春の演奏会へ誘う文ですわ」


「見せていただいてもよろしいですか?」


 ナリア様が尋ねます。


「はい」


 エレナ様は白紙を見せるふりをします。


「『春の演奏会へ、ぜひ一緒に参りましょう。必ず来てくださいませ』」


「最後の言葉が、少し強いかもしれません」


 ナリア様は、すぐ否定しません。


「来てほしいお気持ちは、とても伝わります。ですが、お相手にすでに予定がある場合、断りにくく感じる可能性があります」


「では?」


「『ご都合が合いましたら、一緒に参りませんか』ではどうでしょう」


「柔らかいですわ」


 ナリア様の説明は、分かりやすいです。


 次に。


 殿下が王国史の例を短く補足します。


「古い王宮の招待文でも、相手の都合へ配慮する言葉が使われています。強く来訪を求める場合と、親しい場へ招く場合で表現を変えていました」


 短い。


 本当に三文以内です。


 レオン様が時間を見ます。


「ここまで二分」


「良いですね」


 私は言いました。


「もう一人の方へも十分時間があります」


 次。


 私が感謝文。


「資料を貸してくださった先輩へ、『生涯忘れません』と」


 殿下の目が少し動きました。


 過去の自分に刺さっています。


 ナリア様は、真面目に答えます。


「強い感謝は伝わります。ただ、日常的な出来事への言葉としては、先輩が大きなお返しを求められているように感じる可能性があります」


「では」


「『資料を貸していただき、準備を進められました。ありがとうございました』なら、してくださったことと感謝が具体的に伝わります」


 殿下が。


 つい。


「生涯忘れないほど嬉しいこともある」


 と言いかけました。


 口が動きました。


 ですが、止めました。


 これは来場者役の文。


 自分の恋愛ではありません。


「……具体的な方が受け取りやすい」


 言い直しました。


 ナリア様が、少しだけ殿下を見ました。


 気づいています。


 でも、笑いません。


「はい」


 柔らかく受け取りました。


 レオン様が時間を確認します。


「一人につき、三分から四分。導入と終了を含めても半刻以内に二名対応可能です」


「茶を飲む時間は?」


 エレナ様が尋ねます。


「会話しながら」


「菓子を味わう時間は?」


「会話しながら」


「少し忙しいですわ」


 ナリア様が笑いました。


「では、最初に一口召し上がっていただき、少し落ち着いてからお話を始めましょうか」


「それですわ」


 エレナ様の表情が明るくなりました。


「菓子が空気を整える」


「研究会で何度も助けられていますから」


 ナリア様の言葉に、エレナ様は本当に嬉しそうです。


 茶席の流れも決まりました。


 一、着席。


 二、紅茶と蜂蜜菓子。


 三、短い案内。


 四、希望する範囲で言葉を一緒に考える。


 五、持ち帰り用封筒へ体験紙を入れる。


 六、終了時の一言。


 最後の一言は。


『ご自身の言葉を大切に、お持ち帰りください』


 となりました。


 とても、この研究会らしい言葉です。


 ◇◇◇


 会場確認が半分ほど進んだ頃。


 廊下に、思った以上の人が集まっていました。


 授業間の休憩時間です。


 春祭りの正式開催が決まった研究会の会場。


 王太子殿下。


 ナリア様。


 蜂蜜菓子。


 興味を引くものが多すぎます。


 生徒たちは扉の外から、邪魔にならない程度に覗いています。


「ここが会場なのね」

「思ったより小さいですわ」

「少人数だからでしょう」

「殿下が机を動かしていたって」

「本当に研究会の一員として準備されているのね」

「ナリア様と説明練習も」

「お似合い……」

「しっ」


 最後の声。


 殿下にも聞こえたでしょう。


 ナリア様にも。


 二人の動きが、ほんの一瞬だけ止まりました。


 でも。


 会場確認は続きます。


 殿下は否定しません。


 ナリア様も逃げません。


 以前の二人なら。


 殿下は、好きだからこそ。


『そんなわけがない』

『彼女と僕を並べるな』

『僕は彼女など』


 危険な言葉を言っていたかもしれません。


 今は。


 何も言わず。


 必要な作業へ戻れます。


 それだけでも。


 私は胸がいっぱいになりました。


 生徒の一人が、遠慮がちに声をかけました。


「あの、見学してもよろしいでしょうか」


 下級生の令嬢です。


 殿下が答えようとして。


 受付役である私を見ました。


 役割を奪いません。


「今日は会場確認中ですので、廊下から短くでしたら」


 私が答えました。


「ありがとうございます」


 数人が、扉の外から見守ります。


 これは、思わぬ機会です。


 来場者の反応を見られます。


「入口の札、見えますか?」


 私は尋ねました。


 令嬢たちは少し驚きましたが、真剣に見ました。


「題名は見えます」

「説明の小さい文字は、廊下からだと読めません」

「受付へ近づけば読めそうです」

「茶席は見えません」

「でも、少し奥に何かあると分かります」


 良い感想です。


 ナリア様が尋ねました。


「入りにくい印象はありますか?」


 下級生たちは顔を見合わせました。


 一人が正直に言います。


「殿下がいらっしゃると、少し」


 殿下の表情が、わずかに動きました。


 ですが。


 反論しません。


「それ以外は?」


 穏やかに尋ねました。


「入口が開いていて、受付の方が見えるので、入りやすいです」


「展示の題名も、難しすぎないと思います」


「『書いた内容を見せなくてよい』と見えると、安心します」


 殿下は、静かに受け取りました。


「教えてくれてありがとう」


 そして。


「僕がいる時間も、入口の雰囲気が固くならないようにした方がいい」


 研究会へ向けて言いました。


 ナリア様が頷きます。


「殿下が入口近くに立たない方がよいですね」


「奥の資料説明位置へ直接入る」


 レオン様が、移動経路を書き換えました。


「来場者と入口で鉢合わせしない」


「はい」


 殿下自身が。


 入りにくさの原因になり得る。


 それを、傷つきすぎずに受け取れています。


 王太子であること。


 人気があること。


 注目されること。


 それを誇りだけではなく、場への影響として考えられるようになりました。


 ◇◇◇


 いよいよ。


 殿下参加時の移動経路を、実際に歩くことになりました。


 小講義室の脇にある準備室。


 殿下は春祭り当日、警護と共にそこから入ります。


 研究会員一名が準備室まで迎えに行き。


 現在の混雑状況や説明する資料を伝え。


 殿下を資料説明位置へ案内する。


 終了後。


 同じ経路で戻る。


 短い移動です。


 ですが。


 廊下の角。


 扉の開閉。


 警護との距離。


 来場者との接触。


 確認が必要です。


「まず、案内役を交代で試します」


 レオン様が言いました。


 殿下の表情が、少しだけ固くなりました。


 今日。


 同行役を決めない。


 心得。


 でも。


 実際にナリア様と歩く場面が来ます。


「最初は私が」


 レオン様が言いました。


 殿下が一瞬だけ、残念そうな顔をしました。


 私は見逃しませんでした。


 ですが。


 役割確認です。


 レオン様が最初なのは合理的です。


 記録しながら問題点を出せます。


 準備室。


 殿下。


 レオン様。


 警護役として、実際の警護担当者。


 三人で歩きます。


 レオン様は少し前。


 殿下は半歩後ろ。


 警護はさらに後ろ。


「これでは、案内役が説明しづらい」


 殿下が言いました。


「横に並ぶ?」


「通路幅が足りません」


 レオン様が測ります。


「案内役が半歩前の斜め位置」


 試します。


 今度は話せます。


 でも。


 扉を開ける時、案内役が先に入りすぎて。


 殿下との間が空きます。


「扉を押さえる人が必要」


 警護担当が言いました。


「案内役が開け、殿下が通り、その後に案内役が入る?」


 私が提案します。


 試します。


 流れは良い。


 ですが。


 案内役が殿下の後ろになります。


 次の進行を説明しにくい。


「準備室で、必要な説明を終えてから出る」


 ナリア様が言いました。


「移動中に話すことを減らせば、位置は問題になりません」


「なるほど」


 殿下が頷きます。


「会場へ入ってから、必要なら補足する」


 レオン様が記録します。


 次は、私。


 案内役として。


 準備室で殿下へ説明します。


「現在、展示前に三名。体験席に二名。殿下は二つ目の資料から説明をお願いします」


「分かった」


「移動します」


 扉を開け。


 殿下が通り。


 私が後ろへ。


 警護が続きます。


 問題なく進みました。


 ただ。


 私が受付担当をしている時間には、案内役を兼ねられません。


「ルイート嬢は、受付との兼務が難しい」


 レオン様が言いました。


「はい」


 次。


 エレナ様。


 エレナ様は、準備室での説明が非常に分かりやすいです。


「現在、茶席は開始直後。展示前に四名。殿下の説明を待つ方はいらっしゃいませんので、予定通り第一資料からです」


「分かった」


 そして。


 なぜか小さな蜂蜜菓子を差し出しました。


「移動前に?」


 殿下が尋ねます。


「緊張対策ですわ」


「当日は不要だ」


 レオン様が即答しました。


 全員が笑いました。


 エレナ様は茶菓担当。


 殿下の参加時間に持ち場を離れるのは難しい。


 案内はできますが、担当上の問題があります。


 そして。


 ナリア様の番。


 空気が。


 少しだけ変わりました。


 殿下が意識しています。


 ナリア様も。


 私たちも。


 ですが。


 誰も、何も言いません。


 役割確認です。


 ナリア様と殿下が、準備室へ入ります。


 扉が開いたままなので。


 私たちからも見えます。


 ナリア様は、手元の仮進行表を確認しました。


「現在、展示前に二名いらっしゃいます」


 声は落ち着いています。


「一つ目の資料を見ておられますので、殿下には二つ目の王妃の園遊会記録から、短くご説明をお願いいたします」


「分かった」


「ご説明の後、礼法上の補足が必要な場合は、私が続けます」


「ああ」


「説明時間は、一資料につき二分以内です」


 殿下の口元が、少しだけ緩みました。


「三文」


「はい」


 ナリア様も微笑みます。


「三文です」


 準備室の中。


 二人だけ。


 と言っても。


 扉は開き。


 警護もいます。


 私たちも見ています。


 でも。


 静かなやり取りです。


「では、参りましょう」


 ナリア様が言いました。


 扉を開けます。


 殿下が通り。


 ナリア様が、その後ろへ続く。


 警護。


 廊下を進みます。


 歩幅が。


 自然に合っています。


 ナリア様は殿下の真横ではありません。


 半歩後ろ。


 ですが。


 小講義室へ入る直前。


 殿下が少し速度を落としました。


 ナリア様が追いつきます。


 二人が、ほぼ並ぶ形になりました。


 意図的でしょうか。


 偶然でしょうか。


 殿下の耳が少し赤いので。


 たぶん、少しだけ意図的です。


 ですが。


 来場者役の私たちから見ると。


 案内役が殿下の近くにいることで。


 話しかけやすい印象があります。


 殿下一人が入ってくるより。


 場が柔らかい。


 ナリア様が先に、来場者役の私たちへ言います。


「ただいまより、王家資料について短いご説明をいたします。ご覧になりながら、どうぞそのままお聞きください」


 殿下へ注目を強制しません。


 礼を求めません。


 そのまま見てよいと伝えます。


 殿下が続けます。


「こちらは、百年前に王妃が地方貴族を春の庭へ招いた際の記録です。正式な会議ではなく茶会を選んだことで、普段は言いにくい領地の事情を聞く機会になりました。招待の言葉には、相手の話を聞きたいという意図が示されています」


 三文。


 本当に三文です。


 ナリア様が補足します。


「相手に来てほしい理由が、相手を利用するためではなく、その方の言葉を聞きたいからだと伝わる招待です」


 短い。


 分かりやすい。


 殿下の歴史説明と。


 ナリア様の礼法説明。


 自然につながっています。


 来場者役のエレナ様が。


 扇の陰で目を輝かせています。


 私も。


 聞きながら思いました。


 この二人で説明する形。


 とても良い。


 互いの得意分野が。


 相手の言葉を補い。


 重くしすぎず。


 一つの資料を立体的に見せています。


 説明が終わり。


 ナリア様が言いました。


「ありがとうございました。引き続き、ご自由に展示をご覧ください」


 殿下が先に準備室へ戻ります。


 ナリア様が続き。


 警護。


 動線も問題ありません。


 準備室へ戻った二人は。


 少し緊張が解けたように息を吐きました。


「どうだった?」


 殿下が、ナリア様へ尋ねました。


「とても分かりやすかったです」


「長くなかった?」


「三文でした」


「三文だった」


「はい」


 二人とも、少し笑います。


 私はレオン様を見ました。


 レオン様は、記録表へ何か書いています。


「どうですか?」


 私が尋ねると。


「案内、導入、説明補足。問題ありません」


「同行役として?」


 レオン様は、一度ナリア様を見ました。


「適性は高いです」


 殿下の顔が。


 明らかに明るくなりました。


 しかし。


『同行役を今日決めようとしない』


 心得。


 殿下は、すぐに口を開きませんでした。


 とても偉い。


 ナリア様も、少し頬を赤くしながら待っています。


「今日、決めますか?」


 エレナ様が。


 わざとらしくなく。


 でも楽しそうに尋ねました。


 殿下は、かなり迷いました。


 ナリア様も。


 レオン様が答えます。


「会場確認後、全体担当との兼ね合いを見ます」


「はい」


 殿下が言いました。


 よく耐えました。


「今日は決めない」


 ナリア様も頷きました。


「はい」


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 二人とも残念そうでした。


 それが。


 なんだか微笑ましく見えました。


 ◇◇◇


 会場確認の最後。


 入口から出口まで。


 全員で来場者役として歩きました。


 受付。


 展示。


 体験。


 茶席。


 出口。


 入口の仮札。


 展示板の高さ。


 体験席の二種類。


 持ち帰り用封筒。


 茶席の人数。


 殿下参加時の移動。


 すべて。


 一度ずつ。


 実際に動きます。


 最初は。


 私が来場者。


 受付で案内を受け。


 展示を見る。


 体験紙を書く。


 茶席へ。


 出口。


 歩いてみると。


 出口の扉付近に、展示を見終えた人と茶席を終えた人が重なる可能性がありました。


「茶席終了者は、少し待ってから出す?」


 殿下が言います。


「それでは時間が詰まります」


 レオン様が答えます。


「出口前に、小さな余韻の展示を置く?」


 ナリア様が提案しました。


「余韻の展示?」


「はい」


 出口の手前。


 壁の狭い空間です。


 そこへ。


 短い一文だけを置く。


『今日考えた言葉を、すぐに渡さなくても構いません。まず、ご自身で大切にお持ち帰りください』


 茶席を終えた人は。


 そこで一度足を止め。


 封筒を確認し。


 その後、出口へ。


 展示を見終えただけの人とは、少しタイミングがずれます。


「動線の調整と、企画の締めになる」


 私は言いました。


 殿下も、その文を見つめました。


「すぐに渡さなくてもいい」


「はい」


 ナリア様が答えます。


「言葉を持ち帰る時間も、大切だと思います」


 殿下の表情が。


 少しだけ変わりました。


 自分にも。


 たくさんの言葉があります。


 まだ渡していない言葉。


 止めた言葉。


 いつか渡したい言葉。


「そうだな」


 殿下は、静かに言いました。


「持っているだけの時間も、必要だ」


 ナリア様が、殿下を見ました。


 二人の間に。


 短い沈黙。


 でも。


 今は、研究会の会場です。


 殿下も。


 ナリア様も。


 それ以上は言いません。


「出口展示として採用しましょう」


 ナリア様が言いました。


「ああ」


 殿下が頷きました。


 また一つ。


 会場へ来たからこそ生まれた言葉です。


 ◇◇◇


 実地確認は、予定よりかなり長くなりました。


 机を動かし。


 戻し。


 歩き。


 測り。


 説明し。


 外から見て。


 下級生の目線へ屈み。


 西日の入り方を確かめ。


 茶器を置き。


 体験紙を封筒へ入れ。


 出口まで歩く。


 終わった頃には。


 全員、少し疲れていました。


 でも。


 充実した疲れです。


 会場担当教師が、私たちの仮配置図を見ました。


「よく考えられています」


「ありがとうございます」


 レオン様が答えます。


「ただし、実際の展示板は今日の見本より少し重いです。壁から距離を取る場合、転倒防止が必要です」


「固定具を申請します」


「用務員へ相談してください」


「はい」


 最後まで。


 新しい確認は出ます。


 でも。


 誰も、もう落ち込みません。


 直せます。


 会場担当教師が去った後。


 エレナ様が、待ちに待ったように菓子箱を開きました。


「会場確認終了用ですわ」


「ついに」


 殿下が言いました。


「確認前から持っていたが」


「終わることを信じておりましたもの」


 今日の蜂蜜菓子は。


 少し平たい形でした。


「なぜ平たいのですか?」


 ナリア様が尋ねます。


「狭い場所でも置きやすいように」


 全員が笑いました。


 会場の狭さまで菓子に反映しています。


「味は?」


 私が尋ねます。


「何度も動かして、最後に収まる味ですわ」


「分かりません」


「食べれば分かります」


 食べました。


 最初は香ばしく。


 次に甘さ。


 最後に少しだけ茶葉の香り。


 確かに。


 味が順番に移動し。


 最後に落ち着きます。


「……収まりました」


 私は認めました。


「でしょう?」


 殿下も、少し笑いながら食べています。


 ナリア様が、部屋全体を見回しました。


「最初に入った時は、狭くて難しいと思いました」


「僕も」


 殿下が答えます。


「でも、図面より良い形になった」


「はい」


「体験席も選べる」


「茶席も落ち着いて話せる人数になりました」


「出口の言葉もできた」


「はい」


 二人で。


 今日見つけたものを、一つずつ確認しています。


「ナリア」


「はい」


「説明の補足、助かった」


 殿下が言いました。


 同行役の試行。


 王家資料の説明。


 ナリア様の礼法補足。


「私も、殿下の歴史説明があったので、礼法の意味を伝えやすかったです」


「本当に?」


 一回。


 出ました。


 殿下は聞いた後で、少し恥ずかしそうになりました。


 ナリア様は笑いません。


「はい」


 まっすぐ答えました。


「一緒に説明すると、資料が分かりやすくなると思いました」


 殿下が。


 完全に固まりかけました。


 一緒に。


 とても強い言葉です。


 ですが。


 会場確認。


 役割。


 研究会。


 殿下は、そこへ戻りました。


「僕も、そう思う」


 短く返しました。


 ナリア様も頷きました。


「はい」


 その後。


 誰も同行役の話を出しませんでした。


 今日決めない。


 約束です。


 でも。


 全員の中に。


 同じ考えが、少しずつ形になっていたと思います。


 ◇◇◇


 廊下へ出ると。


 会場確認を見守っていた生徒たちが、まだ少し残っていました。


「終わりましたか?」

「会場、どうでした?」

「春祭りが楽しみです」

「体験紙、立っても書けるのですか?」

「茶席は二人ずつ?」

「殿下の説明、聞けるでしょうか」


 質問が一気に来ます。


 以前の殿下なら。


 全部へ答えようとしたかもしれません。


 ですが。


 今日は。


 私たちを見ました。


 役割を確認します。


 私は受付と全体案内。


 ナリア様は礼法と体験紙。


 エレナ様は茶席。


 レオン様は運営。


 殿下は、王家資料。


「会場の概要は、ルイート嬢から」


 殿下が言いました。


 私が前へ出ます。


「本日は仮配置を確認しました。展示と体験紙は予約なしでご覧いただけます。体験は、座ってゆっくり書く席と、立って短く書ける場所を用意する予定です」


「茶席は?」


 エレナ様が答えます。


「一回二名の少人数です。予約方法は後日お知らせいたします」


「殿下は?」


 殿下自身が答えました。


「王家資料の説明役として、短い時間だけ参加する。時間は安全上、公表できない」


 残念そうな声も少し出ました。


「公表されないのですね」

「会えたら幸運ですわ」

「でも、混雑したら危ないものね」


 生徒たちは、理解してくれています。


 ナリア様が続けます。


「殿下がいらっしゃらない時間も、王家資料には解説を添えます。研究会員がご説明いたしますので、どうぞ資料自体もゆっくりご覧ください」


 とても良い一言です。


 殿下がいない時間を。


 不足にしません。


 企画の価値を。


 殿下の存在だけへ寄せません。


 殿下も。


 ナリア様の言葉を嬉しそうに聞いています。


「楽しみにしています」

「必ず来ます」

「体験紙を書いてみたいです」


 群衆は、満足そうに散っていきました。


 その後。


 近くに残っていた令嬢二人の会話が、耳へ届きました。


「殿下とナリア様の説明、分かりやすかったですわね」

「ええ。お二人で一つの説明のようでした」

「春祭り当日も、一緒にされるのかしら」

「そうだと素敵ですわ」


 殿下の耳が赤くなりました。


 ナリア様も。


 でも。


 二人とも、何も言いません。


 私は咳払いしません。


 エレナ様は、扇の陰で笑っています。


 レオン様は。


 たぶん記録していません。


 していないと信じたいです。


 ◇◇◇


 開放学習室へ戻ると。


 実地確認の結果を、正式配置図へ反映しました。


 入口。


 受付。


 企画説明板。


 王家資料。


 正式文・中間文・親しい文の比較展示。


 二つの着席体験席。


 一つの立ち書き台。


 少人数茶席。


 出口前の余韻展示。


 出口。


 図面は。


 最初のものとかなり変わっています。


 でも。


 今の方が。


 ずっと来場者の姿を想像できます。


「会場配置案、完成」


 レオン様が言いました。


 殿下が、反射的に顔を上げました。


「完成?」


「現時点で」


「現時点」


「当日の机や展示板に差異があれば調整します」


「分かっている」


 もう。


 完成の意味を理解しています。


 永遠に変えないのではない。


 今、次へ渡せる形。


「次は」


 レオン様が担当表を出しました。


 空気が。


 少し変わりました。


 当日の役割分担。


 そして。


 殿下の同行役。


「本日は決めないのでは?」


 殿下が確認しました。


「はい」


 レオン様が答えます。


「今日は、必要条件だけ整理します」


 殿下が少し安心したような。


 少し残念そうな。


 複雑な顔をしました。


 ナリア様も。


 同じです。


 必要条件。


 一、王家資料の内容を理解している。


 二、礼法上の補足ができる。


 三、来場者へ柔らかく案内できる。


 四、殿下の参加時間に、他の持ち場を離れられる。


 五、警護の指示へ即座に従える。


 六、殿下が長く話し始めた場合、自然に止められる。


 最後。


 非常に重要です。


 全員が、ナリア様を見ました。


 ナリア様の顔が赤くなりました。


「な、なぜ皆様、私を」


 殿下も。


 ついナリア様を見ています。


 レオン様が淡々と言いました。


「六項目の適性が最も高いからです」


「殿下を止めることが?」


 ナリア様が尋ねます。


「はい」


 即答です。


 私も頷きました。


「最近は、私よりナリア様の方が自然に止められます」


「そんな」


 ナリア様は困っています。


 エレナ様が微笑みます。


「殿下も、ナリア様のお言葉なら一度で受け取られますもの」


 殿下の顔が赤くなりました。


 否定できません。


「役割分担全体を見てから決めます」


 レオン様が言いました。


「ですが、候補としてはクラウゼン嬢が第一です」


 ナリア様は。


 少しだけ殿下を見ました。


 殿下も。


 少しだけナリア様を見ました。


 長くはありません。


 でも。


 二人の間に。


 喜びと緊張が、同時に流れた気がしました。


「……承知しました」


 ナリア様が言いました。


 声は少し硬い。


 でも。


 嫌そうではありません。


「必要であれば、担当いたします」


 殿下が。


 何か言いそうになりました。


 ありがとう。


 嬉しい。


 君が隣なら。


 危険な言葉が、いくらでも続きそうです。


 でも。


 今日の心得。


『同行役を今日決めようとしない』


『ナリアの隣を歩くことを目的にしない』


 殿下は。


 呼吸をして。


 研究会の言葉へ戻りました。


「よろしく頼む」


 短く。


 役割として。


 でも。


 声には、少しだけ嬉しさがあります。


 ナリア様も頷きました。


「はい」


 正式決定ではありません。


 候補です。


 それでも。


 二人の間に。


 春祭り当日へつながる、小さな道が見えた気がしました。


 ◇◇◇


 帰り道。


 春祭り用の灯りは、昨日より数が増えていました。


 中庭の木々に。


 校舎の窓辺に。


 まだ明るいため、火は入っていません。


 でも。


 夕方になれば。


 一つずつ灯るのでしょう。


 殿下とナリア様は。


 少し前を歩いていました。


 今日は。


 会場確認で、何度も並びました。


 椅子を一緒に運び。


 展示板を同じ目線で見て。


 資料説明を一緒に行い。


 準備室から会場まで歩きました。


 今。


 帰り道も。


 二人は並んでいます。


 けれど。


 朝ほど不自然な緊張はありません。


 役割の中で並んだ時間が。


 少しだけ、二人を慣らしたのでしょうか。


「今日は、たくさん歩きましたね」


 ナリア様が言いました。


「ああ」


「会場の中だけでも」


「同じ場所を何度も」


 殿下が少し笑いました。


「入口から出口まで」


「はい」


「準備室から資料前まで」


「はい」


 短い沈黙。


 殿下は、少しだけ迷いました。


「ナリア」


「はい」


「同行役の候補」


 ナリア様の歩幅が、少しだけ遅くなりました。


 殿下も合わせます。


「負担ではない?」


 尋ねました。


 勝手に喜ぶ前に。


 ナリア様の気持ちを確認します。


 ナリア様は。


 すぐには答えませんでした。


 歩きながら。


 少し考えます。


 殿下は待ちました。


「緊張はします」


「はい」


「殿下のご案内役ですから」


「はい」


「でも」


 ナリア様は、少しだけ殿下を見ました。


「今日、一緒に資料をご説明できたことは、楽しかったです」


 殿下の足が。


 止まりそうになりました。


 でも。


 止まりません。


 少しだけ歩幅が乱れ。


 すぐ戻りました。


「……楽しかった?」


 一回。


 仕方ありません。


「はい」


 ナリア様は頬を赤くしながら頷きました。


「殿下の歴史のお話に、私が礼法の意味を添えることができて」


「はい」


「一人で説明するより、伝わる気がしました」


 殿下は。


 何度も何度も言葉を止めている顔でした。


 僕も。


 君となら。


 ずっと隣で。


 危険です。


 でも。


 殿下は、今の場面に合う言葉を選びました。


「僕も、楽しかった」


 短い。


 まっすぐ。


「ナリアの説明があったから、資料の意味が伝わった」


 ナリア様の目元が、柔らかくなりました。


「ありがとうございます」


「だから」


 殿下は、少しだけ言葉を足しました。


「もし正式に担当になったら、よろしく頼む」


 未来を決めつけません。


 まだ候補。


 もし。


 その余白があります。


 ナリア様も受け取りました。


「はい」


 微笑みます。


「その時は、よろしくお願いいたします」


 二人は。


 また前を向いて歩きます。


 私は、少し後ろから見守りました。


 エレナ様が隣へ来ます。


「マリア様」


「はい」


「殿下、隣を歩けましたわね」


「はい」


「役割として」


「はい」


「でも、嬉しそうでした」


「とても」


 エレナ様は扇の陰で笑いました。


「ナリア様も」


「はい」


 私は認めました。


「嬉しそうでした」


 レオン様が前を歩きながら、振り返らずに言いました。


「同行役は、全体担当表との調整後に決定します」


「分かっています」


 私とエレナ様の声が重なりました。


 レオン様は、本当に空気を現実へ戻すのが上手です。


 でも。


 必要です。


 春祭りは。


 恋愛のためだけの行事ではありません。


 研究会の企画。


 来場者のための場所。


 その役割を果たした先で。


 二人が自然に隣へ立てるなら。


 それが一番よいのでしょう。


 中庭の池には。


 まだ火の入っていない硝子飾りが映っています。


 風で揺れるたび。


 二つの飾りが。


 水面の中で近づき。


 離れ。


 また並びます。


 王太子殿下。


 今日のあなたは。


 ナリア様の隣を歩きたい気持ちを抱えながらも、その気持ちだけで役割を決めませんでした。


 会場を実際に歩き。


 来場者の目線へ屈み。


 自分の存在が入口を固くする可能性も受け取り。


 皆と一緒に、よりよい形を探しました。


 そして。


 ナリア様と並んで資料を説明した時。


 その時間を恋の運命へ飛ばさず。


 互いの得意なことが重なった、よい役割として受け取ることができました。


 どうか当日も。


 隣に立つ理由を、恋だけにしないでくださいませ。


 同じものを届けたいから。


 互いの言葉を補えるから。


 相手が困った時に、自然に支えられるから。


 そんな理由を一つずつ重ねた先で。


 気づけば、二人が一番自然に隣を歩けるようになっていた。


 その方がきっと。


 殿下が夢見るどんな劇的な運命よりも。


 ナリア様にとって、受け取りやすい恋の形になるのですから。

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