第58話 王太子殿下、正式許可の文字を何度も読まない
待ち望んでいた言葉ほど、実際に目の前へ現れた時、すぐには信じられないことがあります。
ずっと欲しかったもの。
何度も想像していたもの。
そのために準備を重ねてきたもの。
ようやく手に入ったのに。
本当に。
間違いではなく。
条件の読み落としもなく。
後から取り消されることもなく。
自分たちへ与えられたものなのか。
何度も確かめたくなるのです。
けれど。
同じ文字を何度読み返しても、書かれている内容は変わりません。
信じられないからといって尋ね続ければ、喜びを共にしている人まで不安にさせてしまうかもしれません。
だから。
一度、きちんと読む。
分からないところだけを尋ねる。
そして。
与えられた言葉を、受け取る。
春祭り企画の正式許可申請日。
アルノルド殿下の心得紙には、朝からこう書かれていました。
『許可されたら、許可されたと受け取る』
『赤い文字を十回読まない』
『本当に、を繰り返さない』
『条件があれば最後まで聞く』
『喜びすぎてその場で春祭りの未来を語らない』
『許可されなくても池には行かない』
最後の一文は、もう定型になりつつあります。
私は開放学習室の机へ鞄を置き、殿下の心得紙を上から下まで読みました。
そして。
もう一度、上から下まで読みました。
殿下も私を見ています。
少し緊張した表情です。
「殿下」
「はい」
「今日の心得、とても良いと思います」
「ありがとう」
「ただ」
「何だ」
「赤い文字を十回読まない、ということは」
私は殿下の前に置かれた昨日の条件付き仮許可書へ視線を落としました。
右上には、ベルナー先生が書いた赤い文字。
『条件付き仮許可』
紙の端が、わずかに柔らかくなっています。
「昨日の仮許可を、かなり読まれましたね?」
殿下は黙りました。
視線を逸らします。
「何回ほど?」
「……覚えていない」
「殿下」
「数えてはいない」
数えられないほど読んだようです。
私は小さく息を吐きました。
「今日は正式許可が出たとしても、一度で受け取ってくださいね」
「一度で?」
「内容の確認は必要です。ですが、同じ文字を何度も見て、これは本当かと尋ね続ける必要はありません」
「分かっている」
「ナリア様へ『本当に許可されたのだろうか』と何度も確認してはいけません」
「そこまでは」
殿下は言いかけました。
少し考えます。
「……するかもしれない」
正直です。
素晴らしい。
防げる可能性が上がります。
「一度だけなら?」
「一度だけなら、まあ」
「一度聞いて、ナリアもそう思うと言ってくれたら?」
「受け取ってください」
「分かった」
殿下は心得紙の余白へ、小さく書き足しました。
『ナリアに確認するのは一回』
かなり具体的です。
ですが、必要でしょう。
机の中央には、正式提出用の封筒が置かれていました。
昨日、全員で最後まで確認したものです。
表紙。
企画書。
食品確認書。
王家資料展示許可書。
警護調整書。
礼法解説。
体験紙完成版。
受付説明案。
役割分担の暫定表。
必要書類はすべてそろっています。
昨日の帰り際にも確認しました。
今朝、レオン様が来る前にも、殿下は一度確認したのでしょう。
封筒の口は、まだ閉じられていませんでした。
「殿下」
「はい」
「また中を確認されましたか?」
「一度だけだ」
「一度だけ?」
「……二度」
「殿下」
「不足があってはいけないと思った」
気持ちは分かります。
とても分かります。
ですが、何度も出し入れすると、逆に紛失の危険が増えます。
「レオン様が来たら、最後に一度だけ確認して封をしましょう」
「分かった」
「それまでは触らない」
「はい」
殿下は両手を膝の上へ置きました。
封筒を触らないためでしょう。
姿勢が妙に良いです。
少しして、エレナ様とレオン様が入ってきました。
「ごきげんよう」
「おはようございます」
レオン様は机の封筒を見るなり、殿下を見ました。
「開けましたか?」
「二度」
「昨日、最終確認済みです」
「分かっている」
「紛失物は?」
「ない」
「順番は?」
「崩していない」
レオン様は封筒の中身を一度だけ確認しました。
書類名を読み上げます。
「企画書」
「あります」
「食品確認書」
「あります」
「王家資料展示許可書」
「あります」
「警護調整書」
「あります」
「礼法解説、体験紙、受付案、暫定担当表」
「すべてあります」
確認を終えると、レオン様は迷いなく封筒へ入れ、口を閉じました。
「これで、提出まで開けません」
殿下が封筒を見つめます。
閉じられました。
もう確認できません。
「不安ですか?」
私が尋ねると、殿下は少し考えました。
「少し」
「ですが?」
「レオンが確認した」
「はい」
「皆でも確認した」
「はい」
「だから、触らない」
よくできました。
エレナ様が、今日の菓子箱を机へ置きました。
「正式提出前用ですわ」
「今日は、どのようなお味ですか?」
私が尋ねると、エレナ様は蓋を開けます。
小さく四角い蜂蜜菓子でした。
いつもの丸い形ではありません。
「今日は、形を崩さない味です」
「味で形を?」
「外側を少しだけ固く焼き、中は柔らかくしました。緊張しても、姿勢と礼は崩さず、心まで固くしすぎないように」
殿下が一つ手に取りました。
慎重に噛みます。
「確かに、外は固い」
「中は?」
「柔らかい」
「理想ですわ」
「何の?」
「本日の殿下の」
殿下は複雑そうな顔をしました。
ですが、もう一口食べます。
気に入ったようです。
レオン様も食べながら、進行手順を確認します。
「本日の説明は、前回より短くて構いません」
「はい」
「前回指摘された条件へ、どう対応したかを順番に報告します」
「はい」
「食品はバートン嬢。個人情報と体験紙は私とルイート嬢。警護と王家資料は殿下。礼法解説と受付案はクラウゼン嬢」
殿下が少しだけ封筒を見ました。
「全員が説明する」
「はい」
「僕が全部説明しない」
「その通りです」
すでに心得が身についています。
以前なら。
王太子である自分が前に立ち。
全責任を引き受け。
全質問へ答えなければならないと考えていたかもしれません。
今は。
皆が担当したことを、皆が説明します。
殿下は、その場を支える一人です。
「先生方から、新しい質問が出た場合は?」
殿下が尋ねます。
レオン様は即答しました。
「分かる担当者が答える。すぐに答えられない場合は、確認して後日回答すると伝える」
「答えられないことを失敗だと思わない」
「はい」
殿下は頷きました。
もう心得紙へ書き足しません。
今までのものを使うつもりなのでしょう。
そこへ。
扉が、軽く叩かれました。
「ごきげんよう」
ナリア様が入ってきます。
今日は、何も抱えていませんでした。
必要書類はすべて封筒の中です。
両手が空いているだけで、どこか落ち着かないように見えます。
いつもなら、紙束を抱えていたからでしょうか。
殿下は立ち上がりました。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
ナリア様の視線が、机の封筒へ向かいました。
「もう封を?」
「ああ」
殿下は少し緊張した声で答えました。
「提出まで、もう開けない」
「少し不安ですか?」
殿下が止まりました。
私と同じことを聞かれました。
最近。
ナリア様は、本当に殿下のことを分かるようになっています。
「少し」
殿下は、同じように答えました。
「でも、皆で確認したから」
ナリア様は柔らかく頷きました。
「はい」
「大丈夫だと思う」
「私も、そう思います」
一回です。
ナリア様への確認は、これで一回。
殿下は、ほんの少し安心したように息を吐きました。
「ありがとう」
そして、もう聞きませんでした。
心得を守りました。
私は、心の中で一つ印をつけました。
非常によくできました。
◇
午前の研究会では、正式提出後を想定した春祭り準備の流れを確認しました。
まだ許可をいただいていません。
ですが、許可後に何をするかを全く考えていなければ、時間を無駄にしてしまいます。
ただし。
許可を前提に、浮かれすぎた準備を始めない。
この線引きが難しいところです。
「正式許可が出た場合、最初に必要なのは会場の確定です」
レオン様が学園の簡易図を広げました。
候補は、東校舎一階の小講義室。
以前、小発表で使った部屋より小さい。
廊下に面した扉が二つあり、入口と出口を分けられます。
窓も大きく、茶席に向いています。
ただし、音楽研究会の演奏場所に近い。
音が展示説明の邪魔になる可能性があります。
もう一つの候補は、図書棟横の閲覧室。
静かです。
王国史資料の展示にも合っています。
ですが、場所が少し分かりにくく、来場者の流れから外れます。
「どちらがよいでしょう」
ナリア様が地図を見ながら尋ねました。
「小講義室は入りやすいです。でも、混雑が心配です」
私は閲覧室の位置を見ます。
「こちらは静かですが、茶菓を扱えるか確認が必要ですね」
エレナ様が真剣な表情になりました。
「図書棟周辺で食品提供が認められるか。重要ですわ」
レオン様が頷きます。
「正式許可後、会場担当へ確認します」
殿下は二つの場所を見比べました。
「僕がいることで人が集まるなら、奥の閲覧室の方が安全ではないか」
以前なら。
人が来てほしい。
自分が説明するなら、たくさんの人に見てほしい。
そう思っていたかもしれません。
今は、企画の目的と来場者の安全を考えています。
ナリア様が少し考えました。
「ただ、奥すぎると、興味はあるけれど入る勇気がない方が来られないかもしれません」
「入る勇気」
「はい。王太子殿下と高位貴族の研究会、というだけでも緊張される方はいると思います」
トーマス様の姿を思い出しました。
年下の生徒。
扉の前で、深く礼をしたまま顔を上げられなかった方。
確かに。
静かな場所であっても、閉ざされた雰囲気なら入りにくい。
「では、入口が見える場所」
殿下が言いました。
「でも、部屋の中は落ち着ける場所」
「はい」
ナリア様が頷きます。
「扉を開放しても、茶席が廊下から直接見えすぎない配置がよいと思います」
「小講義室でも、展示板で視線を分けられるかもしれない」
私は地図へ簡単な線を引きました。
入口。
受付。
展示。
体験席。
茶席。
出口。
部屋の中を一方通行に近い形へします。
「これなら、廊下から入る方が流れを理解しやすいです」
レオン様が言いました。
「ただし、実際の机の数を確認する必要があります」
「正式許可後に見に行こう」
殿下が言いました。
ナリア様も頷きます。
「はい。皆様で」
まだ決めません。
図面だけで完成させません。
実際の場所を見る。
受け取る側の視点で確かめる。
体験紙と同じです。
研究会全体が、そういう考え方になってきました。
◇
昼休み。
食堂へ入った瞬間から、何人もの視線がこちらへ向きました。
正式許可申請日。
どうやら、それも広まっているようです。
「今日、正式申請ですって」
「結果はいつ分かるのかしら」
「すぐでは?」
「展示、楽しみにしています」
「許可されますわよね?」
「でも警護や食品もあるから、条件が多そうです」
「殿下がいらっしゃると大変ですものね」
期待の声。
心配の声。
そして。
「もし許可されなかったら?」
「仮許可は出ているのでしょう?」
「修正も終わったそうです」
「きっと大丈夫ですわ」
殿下本人が聞けば、喜びと不安の両方を膨らませそうな会話です。
今、この場に殿下がいないことに少し安心しました。
ナリア様は、私とエレナ様の席へ来ました。
今日の昼は、菓子を控えめにするのかと思いましたが。
エレナ様は、当然のように小さな包みを出しました。
「提出直前用ですわ」
「朝とは違うのですか?」
ナリア様が尋ねます。
「朝は形を崩さない味。昼は、言葉を詰め込みすぎない味です」
「どのように?」
「非常に小さいですわ」
本当に小さい。
一口よりもさらに小さい。
ナリア様が笑いました。
「短い言葉で十分、ということですね」
「その通りです」
私たちは一つずつ食べました。
小さいですが、香りはしっかりあります。
確かに。
量が少なくても、十分です。
「殿下にも必要ですね」
ナリア様が何気なく言いました。
私は少し笑いました。
「朝、食べていらっしゃいました」
「効果はありそうですか?」
「今のところ」
ナリア様は安心したように微笑みました。
少しの沈黙。
食堂のざわめき。
食器の音。
遠くで誰かが春祭りの歌を口ずさんでいます。
ナリア様は、自分の膝の上へ視線を落としました。
「マリア様」
「はい」
「もし、許可をいただけなかったら」
その言葉に。
私は、すぐ「大丈夫です」とは答えませんでした。
未来のことは分かりません。
準備はしました。
条件も整えました。
でも。
先生方が新しい問題を見つける可能性もあります。
「その時は、理由を聞きましょう」
「はい」
「そして、直せるものなら直します」
「はい」
「形を変えなければならないなら、皆で考えます」
ナリア様は、静かに聞いていました。
「全部がなくなるわけではありません」
「体験紙も?」
「はい。許可が出なくても、作ったものの意味まで消えません」
昨日。
殿下がナリア様へ伝えた言葉と似ています。
直すところがあることと、意味がなかったことは違う。
ナリア様は、ゆっくり頷きました。
「そうですね」
「緊張されていますか?」
「はい」
素直です。
「殿下は、もっと緊張していらっしゃるでしょうね」
「かなり」
「でも、朝は一度しか確認されませんでした」
「見ていましたか?」
「はい」
ナリア様は小さく笑いました。
「私へ『大丈夫だと思うか』と尋ねた後、もう一度は聞かれませんでした」
「頑張っておられます」
「はい」
ナリア様の声が、柔らかくなりました。
「殿下が、私の言葉を一度で信じてくださることが、嬉しいです」
私は、その言葉を胸の中へしまいました。
とても大切です。
以前の殿下なら。
本当に?
嫌ではない?
困っていない?
何度も確認していたでしょう。
今は。
一度尋ね。
答えを受け取り。
信じます。
「ナリア様」
「はい」
「それは、いつかご本人へ伝えて差し上げてください」
ナリア様の頬が、ゆっくり赤くなりました。
「……はい」
「殿下は、かなり喜ばれると思います」
「やはり、固まりますか?」
「確実に」
ナリア様は少し笑いました。
ですが、その目には。
いつか伝えたいという意思がありました。
◇
放課後。
ベルナー先生の執務室前。
前回と同じ扉。
同じ札。
ですが。
私たちの気持ちは、前回と少し違います。
前回は。
企画がどこまで認められるのか分かりませんでした。
今は。
指摘された条件へ、一つずつ対応してきました。
もちろん緊張しています。
でも。
何も分からない不安ではありません。
やるべきことをやった後の緊張です。
レオン様が封筒を持っています。
殿下は、その封筒を見つめています。
触りません。
開けようともしません。
非常によくできています。
エレナ様は茶菓材料表の控え。
ナリア様は礼法解説と体験紙の見本。
私は企画説明書の控え。
全員、準備はできています。
レオン様が扉を叩こうと手を上げました。
その時。
「待ってくれ」
殿下が言いました。
全員が止まります。
何か不備を思い出したのでしょうか。
殿下は、一度息を吸いました。
そして。
ナリア様を見ました。
「……大丈夫だろうか」
来ました。
一回です。
今日、提出前の最終確認。
ナリア様は、少し驚いた後。
すぐに頷きませんでした。
殿下の目を見ます。
そして、穏やかに言いました。
「絶対に許可されるかは、分かりません」
殿下が、ほんの少し目を見開きました。
ですが。
ナリア様は続けます。
「でも、私たちは、先生方からいただいた条件を一つずつ整えました」
「はい」
「分からないことは尋ねました」
「はい」
「外の方にも試していただきました」
「はい」
「ですから」
ナリア様は、少しだけ微笑みました。
「今の私たちが提出できるものとしては、大丈夫です」
完璧な未来の保証ではありません。
でも。
準備してきた自分たちへの信頼です。
殿下は、しばらくナリア様を見ていました。
それから。
「分かった」
静かに答えました。
「ありがとう」
もう聞きません。
レオン様が扉を叩きました。
「王国史礼法研究会です。修正版企画書を提出に参りました」
「入りなさい」
ベルナー先生の声。
扉が開きます。
◇
執務室には、前回と同じく。
ベルナー先生。
モーラン先生。
そして今日は、もう一人。
学園の春祭り運営責任者である、副学園長のオズワルド・ヘインズ先生が座っていました。
白髪の混じった髪。
鋭い目。
春祭りの安全管理について、非常に厳しいことで知られています。
全員の緊張が、一段上がりました。
予定外です。
殿下も、少しだけ姿勢を硬くしました。
ですが。
すぐに心得を思い出したのでしょう。
外は整える。
中まで固くしない。
エレナ様の蜂蜜菓子が、ここで効いています。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
レオン様が代表して礼をしました。
私たちも続きます。
殿下も。
王太子として特別な位置へ進まず。
研究会の一員として、同じ列で礼をしました。
副学園長の目が、ほんの少し動きました。
ベルナー先生が椅子を示します。
「座りなさい」
私たちは着席しました。
レオン様が封筒を差し出します。
「前回ご指摘いただいた事項を修正いたしました」
「見せてもらおう」
封筒が、ベルナー先生の手へ渡ります。
ここからは。
待つ時間です。
紙が出されます。
企画書。
添付書類。
一枚ずつ。
ベルナー先生が読み。
モーラン先生が体験紙を確認し。
副学園長が警護調整書と安全対策を見ています。
紙をめくる音。
暖炉の小さな音。
外を通る生徒の足音。
誰も話しません。
長い沈黙。
殿下の手は、膝の上です。
指先に、少しだけ力が入っています。
ナリア様も、両手を重ねています。
私は。
呼吸を数えそうになりました。
一つ。
二つ。
三つ。
数えても意味はありません。
私はやめました。
待ちます。
ベルナー先生が、一枚目を置きました。
次。
モーラン先生が、体験紙を上から下まで読みます。
自由記入欄。
組み立て要素。
最後の確認。
また上へ戻ります。
殿下の身体が、ほんの少し動きました。
何か不足が。
そう思ったのでしょう。
ですが、何も言いません。
質問されるまで待ちます。
副学園長が最初に口を開きました。
「殿下の参加について」
殿下が顔を上げました。
「はい」
「一般へ時間を公開しない。参加は一日二回、各半刻以内。資料説明役に限定。研究会員一名と警護が同行」
「はい」
「ご不満はありませんか」
直球です。
王太子である殿下を、半刻だけ。
茶席へは置かない。
時間も公表しない。
人によっては、王太子の立場を軽く扱われていると感じるかもしれません。
殿下は、すぐに答えませんでした。
少しだけ考えます。
「ありません」
「なぜです」
「今回の企画は、僕を見てもらうためのものではないからです」
殿下の声は、落ち着いていました。
「王家資料へ興味を持ち、来場者自身が言葉を考える。そのために僕が説明役として必要なら参加します。しかし、僕がいることで混雑し、企画の目的が失われるなら、時間を限るべきです」
副学園長は、殿下をじっと見ました。
「王太子殿下であるご自身を、企画の一部へ収めると?」
「はい」
「主催者の中心ではなく?」
「研究会の一員です」
静かな言葉。
ですが、強さがあります。
ナリア様の目元が、少し柔らかくなりました。
副学園長は、警護調整書へ視線を戻しました。
「分かりました」
それだけ。
でも、否定ではありません。
次に。
モーラン先生が体験紙を持ち上げました。
「前回より、かなり変わりましたね」
ナリア様が答えます。
「はい。研究会外の生徒七名に、三度に分けて試用していただきました」
「その結果を説明してください」
ナリア様は、少しだけ指先へ力を入れました。
ですが。
前回より落ち着いています。
「第一試作では、誰に向けるかを一人に決めなければならないと思う方が多く、問いの順番にも迷いがありました」
「はい」
「第二試作では、相手と場面のどちらからでも考えられるようにし、特定の一人でなくてもよいと明記しました。その結果、問いの意味で止まる方は減りました」
モーラン先生は黙って聞いています。
「ただし、文章を組み立てること自体が難しい方がいたため、第三試作では、感謝と招待の組み立て要素を加えました」
「例文ではなく、要素なのはなぜです?」
「例文をそのまま写すのではなく、ご自身の言葉を作っていただきたいからです」
ナリア様は、体験紙の端を指しました。
「必要な項目だけ使ってよいこと、一文だけでも構わないことも添えました」
「最後の確認は、招待と感謝で異なる?」
「はい」
ナリア様の声が、少しずつ自然になっています。
「招待では、相手が断ったり、後で考えたりできること。感謝では、返事やお返しを求めすぎないこと。それぞれ、相手へ負担をかけない形を考えていただきます」
モーラン先生は、しばらく紙を見ました。
「よく考えましたね」
その一言に。
ナリア様の目が、少し見開かれました。
褒められた。
厳しい礼法担当教師から。
「ありがとうございます」
声は少しだけ弾みました。
殿下の顔も、一瞬明るくなります。
ですが。
殿下は口を挟みませんでした。
『ナリアの説明を奪わない』
最後まで守っています。
モーラン先生は続けました。
「ですが、当日、来場者が感情的な内容を書き、困惑する可能性もあります」
ナリア様の表情が戻ります。
「はい」
「その時、研究会員はどう対応しますか」
新しい質問です。
企画書には、個人情報や見せなくてよいことは書いてあります。
ですが。
書いているうちに。
誰かへの怒り。
深い後悔。
強すぎる想い。
自分でも扱いきれない感情に気づく方がいるかもしれません。
ナリア様は、すぐには答えませんでした。
「少し考えさせてください」
言えました。
モーラン先生が頷きます。
「どうぞ」
沈黙。
殿下は、代わりに答えません。
私も。
レオン様も。
エレナ様も。
ナリア様が考えるのを待ちます。
「研究会員だけで、個人的な問題の答えを出そうとはしません」
ナリア様は、ゆっくり言いました。
「内容を見せていただく必要はないと、まずお伝えします。そのうえで、もしご本人が強く困っておられる場合は、無理に文を完成させず、担当教師や信頼できる方へ相談することを勧めます」
「研究会で解決しない?」
「はい」
「では、企画として無責任では?」
少し厳しい問いです。
ナリア様の表情が揺れました。
殿下も、少し動きそうになりました。
でも。
待ちます。
「私たちは」
ナリア様は、声を整えました。
「言葉を考える手助けはできます。でも、その方の人間関係や心の問題を、短い体験だけで解決できるとは思いません」
モーラン先生の目を見ます。
「できないことまで、できるように振る舞う方が無責任だと思います」
静かな室内。
私は、胸が熱くなりました。
とても良い答えです。
研究会の限界を理解しています。
何でも救える場所ではない。
でも。
一度立ち止まり。
自分の言葉を見つける入口にはなれる。
モーラン先生は、少しだけ表情を緩めました。
「その通りです」
ナリア様が、そっと息を吐きました。
「当日は、相談が必要な場合の案内も、受付担当へ共有してください」
「はい」
レオン様がすぐに記録しました。
新しい条件ではあります。
ですが、実現可能です。
殿下も頷きました。
「研究会だけで抱え込まない」
「はい」
モーラン先生が殿下を見ました。
「特に殿下も」
「はい」
完全に見抜かれています。
殿下は少し恥ずかしそうでしたが、素直に受け取りました。
ベルナー先生は、王家資料の一覧を見ています。
「展示予定の四点について、内容は問題ありません」
「ありがとうございます」
私が答えました。
「ただし、資料説明が長くなりすぎないように」
殿下の肩が、わずかに揺れました。
心当たりがあります。
「一つの資料につき、説明はどの程度を予定していますか?」
ベルナー先生が尋ねます。
殿下が答えました。
「一分から二分程度です」
「本当に?」
先生の声に、少しだけ笑いが混ざりました。
殿下は、非常に真剣な顔で答えます。
「ナリアとルイート嬢に確認してもらいます」
私は思わず殿下を見ました。
自分で短くする、と言い切らず。
他の人に確認してもらう。
実に賢明です。
ナリア様も、少し笑いました。
「三文ほどを目安にします」
ベルナー先生が頷きます。
「それならよい」
副学園長が、会場案へ視線を落としました。
「会場は、東校舎一階の小講義室を第一候補としているようですね」
「はい」
レオン様が答えます。
「正式許可後、実地確認を行い、動線に問題があれば図書棟横閲覧室へ変更します」
「小講義室の使用を認めます」
突然。
その言葉が出ました。
私たちは、少し反応が遅れました。
「ただし」
副学園長は続けます。
来ました。
「入口と出口を分けること。廊下へ待機列を作らないこと。定員を超えた場合は整理札を配布すること。殿下の参加時間前後は、警護担当の指示に従うこと」
「承知しました」
レオン様が答えます。
「机の配置は、明日以降に確認し、運営担当へ提出してください」
「はい」
会場。
認められました。
殿下の目が少し明るくなりました。
ナリア様も。
エレナ様も。
でも、まだです。
正式許可という言葉は、まだ出ていません。
ベルナー先生が、企画書を最初のページへ戻しました。
赤いペンを取ります。
私たちの視線が。
無意識に、その手元へ集まりました。
紙の右上。
前回、『条件付き仮許可』と書かれた場所。
ベルナー先生のペンが動きます。
赤い線。
文字。
一文字ずつ。
ゆっくり。
殿下の呼吸が、少し浅くなった気がしました。
私は、声をかけません。
ナリア様も。
全員で見守ります。
ベルナー先生は、書き終えると。
企画書を私たちの方へ向けました。
『正式許可』
赤い文字。
短い。
ただ、それだけ。
一瞬。
室内の音が、すべて消えたように感じました。
暖炉の音も。
紙の音も。
外の足音も。
殿下は、文字を見つめています。
ナリア様も。
エレナ様が、扇を握る手を少し強くしました。
レオン様のペンも止まっています。
正式許可。
私たちの企画が。
春祭りで、本当に行われます。
ベルナー先生が言いました。
「王国史礼法研究会の春祭り企画を、正式に許可します」
耳でも。
言葉が届きました。
「前回の指摘へ、よく対応しました」
モーラン先生も言います。
「当日は、正解を示すことより、来場者の言葉を大切にすることを忘れないように」
「はい」
誰の声か分かりません。
全員の声が、少し重なりました。
副学園長が、殿下を見ます。
「殿下」
「はい」
「王太子殿下としてではなく、研究会の一員として参加するというお言葉。最後まで守っていただきます」
「はい」
殿下は。
企画書から目を上げました。
そして。
深く礼をしました。
「許可をいただき、ありがとうございます」
謝りません。
本当に、とは聞きません。
未来を語りません。
ただ。
感謝しました。
ナリア様も、私たちも。
同じように礼をします。
「ありがとうございます」
ベルナー先生が、少し笑いました。
「春祭りは、許可を得て終わりではない。ここからが準備だ」
「はい」
殿下が答えました。
声には。
嬉しさ。
緊張。
責任。
全部があります。
でも。
重さに潰れてはいません。
受け取れています。
◇
執務室を出た後。
誰も、すぐには歩けませんでした。
扉が閉まります。
廊下。
静かな夕方の光。
企画書は、レオン様が持っています。
右上の赤い文字。
『正式許可』
殿下が見ています。
見ています。
まだ見ています。
私は少し不安になりました。
十回読まない。
心得。
「殿下」
「はい」
「何回目ですか?」
殿下が、少しだけ気まずそうにしました。
「まだ三回」
「三回?」
「先生が見せた時。返してもらった時。今」
正確に数えています。
「あと七回読める、ではありませんよ」
「分かっている」
ナリア様が、企画書を見ました。
そして。
小さく微笑みました。
「正式許可、と書いてあります」
殿下がナリア様を見ます。
一回だけ確認する。
今日はすでに、提出前に一回尋ねました。
ですが。
これは別の内容でしょうか。
殿下は、かなり聞きたそうです。
本当に許可された?
そう尋ねたい顔です。
でも。
口を開きませんでした。
ナリア様の言葉を。
そのまま受け取ります。
「ああ」
殿下は言いました。
「正式許可だ」
それだけ。
ナリア様の表情が、さらに柔らかくなりました。
「はい」
エレナ様が。
耐えきれなくなったように、両手を胸の前で合わせました。
「許可されましたわ!」
声は小さめです。
廊下ですから。
でも、はっきり喜びがこもっています。
「正式に!」
「はい」
私も笑いました。
「正式に」
レオン様は企画書を確認しながら。
「新しい追加条件は、来場者が強く困っている場合の相談案内のみです」
「今、そこですか?」
私が尋ねると、レオン様は真顔で答えました。
「忘れないうちに」
いつものレオン様です。
それが、かえって安心しました。
殿下は、しばらく黙っていました。
そして。
「皆」
私たちを見ました。
「ありがとう」
声が、少し震えています。
「僕一人では、絶対にここまで来られなかった」
長くなりそうです。
私は少しだけ身構えました。
ですが。
殿下は、心得を思い出したように一度口を閉じました。
言葉を整えます。
「本当に、助かった」
それだけ。
短い。
でも。
十分です。
エレナ様が微笑みました。
「こちらこそですわ」
レオン様も、少しだけ頷きます。
「まだ準備は続きます」
「分かっている」
私は言いました。
「殿下が、自分だけで全部をしようとしなかったからです」
殿下は、少し目を見開きました。
「僕が?」
「はい。皆へ任せてくださいました」
ナリア様も、静かに続けました。
「待ってくださいました」
殿下の動きが止まりました。
また強い言葉です。
「私が答える時も」
ナリア様は、少し頬を赤くしながら言いました。
「先生方のお話を聞く時も。殿下は、急がず待ってくださいました」
「……はい」
殿下の声が、掠れそうです。
「ですから、皆様でここまで来られたのだと思います」
殿下の目が、少し潤みました。
でも。
今日は泣きませんでした。
少しだけ上を向き。
呼吸をして。
もう一度ナリア様を見ます。
「ありがとう」
ナリア様も頷きました。
「はい」
私は、何も言いませんでした。
もう。
二人の間へ入れる言葉はありません。
必要もありません。
◇
開放学習室へ戻ると。
エレナ様が、これまでで一番大きな菓子箱を机へ置きました。
誰も驚きません。
やはり持っていました。
「正式許可祝いですわ!」
今度は、少し大きな声です。
ここは学習室。
身内だけ。
問題ありません。
箱の蓋を開けると。
春の花を模した蜂蜜菓子。
五つではありません。
十個あります。
「多くありませんか?」
私が尋ねると、エレナ様は満面の笑みを浮かべました。
「一人二つですわ」
「なぜ二つ?」
「一つ目は、正式許可をいただいた喜び」
「はい」
「二つ目は、ここから準備が始まる覚悟です」
「やはり、甘いだけでは終わらないのですね」
「もちろんです」
殿下は一つ目を手に取りました。
食べます。
表情が、明らかに緩みました。
「甘い」
「祝いですもの」
ナリア様も一つ食べました。
目元が柔らかくなります。
「本当に、美味しいです」
エレナ様が、嬉しそうに頷きました。
「今日のために、特別に作っていただきましたの」
レオン様は菓子を食べる前に、正式許可書の写しを作る準備をしています。
「グラシア様」
エレナ様が少し不満そうに呼びました。
「菓子が先ですわ」
「記録が先です」
「今日は祝いです」
「正式許可書の保管も重要です」
いつものやり取り。
ナリア様が笑います。
殿下も。
私も。
結局、レオン様は片手で菓子を食べながら記録しました。
妥協です。
研究会らしい妥協。
机の中央に。
正式許可書。
赤い文字。
殿下は、もう何度も見ませんでした。
視線を向けるたび。
一度だけ見て。
すぐに皆へ戻ります。
「正式許可が出ましたので」
レオン様が言いました。
「今後の予定を確認します」
「今から?」
私が少し笑うと、レオン様は当然のように頷きました。
「時間は限られています」
春祭りまで、三週間。
長いようで短い。
必要な準備は多いです。
一、会場実地確認。
二、机と展示板の配置決定。
三、王家資料の写し作成と注釈清書。
四、体験紙の印刷枚数決定。
五、茶菓工房との正式契約。
六、茶席の予約札作成。
七、受付と説明の練習。
八、当日の役割分担。
九、殿下参加時の同行役。
最後の項目で。
空気が少しだけ変わりました。
殿下も。
ナリア様も。
覚えています。
同行役。
警護調整書で定められたものです。
殿下が資料説明へ移動する時、研究会員一名が案内役として同行する。
ナリア様は、必要であれば担当できると自分から申し出ました。
殿下は。
その場で決めず、皆で考えると言いました。
「当日の担当表は、会場確認後に決定します」
レオン様が言いました。
殿下は頷きます。
「それがいい」
ナリア様も。
「はい」
少しだけ残念そうに見えたのは。
私の気のせいでしょうか。
あるいは。
早く決めたいと思っているのでしょうか。
殿下と同じように。
でも。
二人とも急ぎません。
会場を見て。
必要な役割を考えて。
決めます。
それが今の研究会です。
「明日は、会場確認を申請します」
レオン様が言いました。
「全員で行ける時間を」
「放課後なら大丈夫です」
ナリア様が答えます。
「僕も調整する」
殿下が言いました。
「王族の予定は?」
「春祭り準備として申請する」
「正式許可が出ましたからね」
私が言うと、殿下の表情がまた明るくなりました。
「ああ」
今度は。
企画書を見ません。
皆の言葉だけで受け取っています。
「正式許可が出た」
一度だけ。
嬉しそうに呟きました。
◇
正式許可の知らせが学園へ広がるのは、驚くほど早いものでした。
研究会を出て廊下へ出た頃には。
すでに、掲示板の仮札が変えられていました。
『正式開催決定』
小さな札。
ですが。
その前には、何人もの生徒が集まっています。
「正式に決まったそうですわ!」
「行きましょう」
「体験紙を書いてみたいです」
「茶席は予約制?」
「少人数らしいです」
「殿下の参加時間は非公開ですって」
「ナリア様へ礼法の質問をしてもよいのかしら」
「研究会だけで答えられないことは先生へ案内するそうですよ」
「かなりきちんとしていますわね」
期待の声が。
これまでより大きくなっています。
正式。
その言葉だけで、企画が急に現実になります。
「蜂蜜菓子も正式に?」
「それが一番楽しみですわ」
「私は王家資料が」
「私は招待文を書いてみたいです」
「春祭りへ誰かを誘う練習に」
「好きな方へ?」
「それは言いません!」
笑い声。
照れた声。
春祭りらしい華やかな空気。
私たちが通ると。
何人もの生徒が礼をしました。
「正式許可、おめでとうございます」
「楽しみにしております」
「必ず伺います」
「準備、頑張ってください」
最初は。
誰へ返せばいいのか分かりませんでした。
殿下へだけではありません。
研究会全体へ向けた声です。
殿下は、少し驚いたように立ち止まりました。
でも。
すぐに王太子として大きな挨拶をしませんでした。
研究会の一員として。
短く答えました。
「ありがとう。皆で良い展示にできるよう準備する」
生徒たちの表情が明るくなります。
ナリア様も、隣で頭を下げました。
「ありがとうございます」
エレナ様とレオン様。
私も。
全員で礼を返します。
拍手。
誰かが、小さく拍手しました。
すると。
周りの生徒も続きます。
大きすぎない。
でも、温かい拍手。
小発表の時とは違います。
あの時は。
殿下の言葉を受け取った拍手。
今日は。
私たちの企画が形になったことへの拍手。
研究会全体へ向けられています。
殿下は、少し目を潤ませました。
ですが。
泣きません。
奇声も上げません。
池へ走りません。
ただ。
深く礼をしました。
ナリア様も。
私たちも。
拍手が、少しずつ収まります。
廊下には、また春祭り準備のざわめきが戻ってきました。
ですが。
私の胸には。
その拍手が、長く残っていました。
◇
帰り道。
今日は、いつもより少し遅くなりました。
春祭り用の試験灯が、中庭に灯されています。
硝子飾りの中で。
小さな火が揺れています。
昨日までは。
まだ火の入っていなかった飾り。
位置を確かめ。
紐を確かめ。
風へ耐えられるか確かめ。
今日。
ようやく灯りが入りました。
私たちの企画と同じです。
確かめて。
直して。
相談して。
正式許可を得て。
今。
本当に春祭りへ向けた準備が始まります。
池の水面に。
灯りがいくつも映っています。
揺れて。
少し形を崩し。
でも、消えません。
殿下とナリア様は、少し前を歩いていました。
今日は。
話をしていません。
黙って歩いています。
でも。
気まずい沈黙ではありません。
一日分の喜びを。
それぞれ、静かに受け取っているのでしょう。
しばらくして。
殿下が言いました。
「ナリア」
「はい」
「正式許可が出た」
今日、何度目でしょう。
ですが。
確認ではありません。
喜びを共有する言葉です。
ナリア様は。
殿下を見ました。
「はい」
微笑みます。
「出ましたね」
「ああ」
「皆様で作った企画が」
「ああ」
「春祭りで、本当に開かれます」
殿下は。
少しだけ目を細めました。
「嬉しい」
とても短い。
素直な一言でした。
ナリア様も答えます。
「私もです」
それだけ。
でも。
その二人の間には。
今日まで重ねてきたものが、すべてありました。
私は、少し後ろから見ています。
咳払いはしません。
助言もしません。
ただ。
見守ります。
エレナ様が隣へ来ました。
「マリア様」
「はい」
「殿下、赤い文字を十回読みませんでしたわね」
「はい」
「何回でした?」
「おそらく、四回ほど」
「許容範囲ですわ」
「かなり頑張りました」
私たちは小さく笑いました。
レオン様が少し前から振り返ります。
「正式許可書は、明日写しを作成して保管します」
「今、その話をしますか?」
私が言うと。
「重要です」
いつも通りです。
私はもう一度笑いました。
王太子殿下。
今日のあなたは。
正式許可の赤い文字を何度も確かめたくなりながらも、一度受け取った言葉を信じることができました。
先生方の質問を最後まで聞き。
ナリア様の説明を奪わず。
自分だけで答えず。
研究会の一員として、許可への感謝を伝えました。
そして。
ナリア様の「今の私たちが提出できるものとしては大丈夫です」という言葉も。
一度で信じることができました。
どうか明日からも。
正式許可を、未来の成功まで約束する言葉にはしないでくださいませ。
許可されたのは。
準備を始めること。
来場者へ、自分たちの学びを差し出すこと。
そして。
春祭りの当日まで。
皆で一つずつ整えていくことです。
けれど今夜だけは。
少しくらい。
胸を張ってよいと思います。
あの池の前で。
自分の言葉一つ止められず。
泣きながら奇声を上げていた王太子殿下が。
今は。
誰かが自分の言葉を見つけるための場所を、皆と一緒に作ろうとしている。
その企画が。
今日。
正式に認められたのですから。




