第53話 王太子殿下、許可をいただく前に謝りかける
何かを考える時間と、それを誰かへ見せる時間は、まったく違います。
自分たちだけで机を囲んでいる時には、とても良い案に思えたものが。
いざ第三者の前へ持っていくとなると、急に不安になります。
本当に実現できるでしょうか。
無理があるのではないでしょうか。
何か大切な点を見落としていないでしょうか。
そして、誰かに否定された時。
自分たちの考えを守るべきなのか。
素直に修正するべきなのか。
その判断も必要になります。
春祭りへ提出する企画書が完成した翌朝。
王国史礼法研究会の五人は、いつもの開放学習室に集まっていました。
机の中央には、一通の厚い封筒があります。
表には、レオン様の整った文字で、
『春祭り企画申請書
王国史礼法研究会』
と記されていました。
昨日まで、何枚もの紙に分かれていた企画。
皆で書き込み、削り、言い換え、役割を調整したもの。
それが今、一つの申請書として封筒の中へ収まっています。
たった一通の封筒。
けれど、やけに重く見えました。
「本日の放課後、春祭り運営担当教師へ提出します」
レオン様が、いつも通り落ち着いた声で言いました。
「その場で簡単な説明も求められる予定です」
アルノルド殿下の肩が、ほんの少しだけ上がりました。
ナリア様も、封筒へ向けていた視線を止めます。
私は二人の反応を見ながら、小さく息を吸いました。
企画書を出すだけではありません。
説明。
つまり、私たちの企画について質問を受ける可能性があります。
人数は足りるのか。
安全管理はどうするのか。
王家資料の扱いは問題ないのか。
茶菓の提供許可。
混雑への対策。
殿下が参加することで騒ぎにならないか。
考えられる質問はいくつもありました。
もちろん、昨日までに想定しています。
レオン様が、かなり細かく。
ですが、実際に教師を前にすれば緊張するでしょう。
特に殿下。
王太子として教師と話すこと自体には慣れているはずです。
しかし今回は、王太子として許可を命じるのではありません。
研究会の一員として、自分たちの企画を説明し、学校側へ許可をお願いする立場です。
それは殿下にとって、新しい経験でした。
殿下の前には、今日の心得紙が置かれていました。
『王太子の権威で通さない』
『否定されても先に謝りすぎない』
『質問は責められているわけではない』
『全部自分で答えない』
『ナリアの説明を奪わない』
『許可をいただけなくても池へ行かない』
最後。
非常に大切です。
私は、その一文を見つめました。
「殿下」
「はい」
「最後の心得は、ご自分で?」
「ああ」
「よくお分かりです」
「念のためだ」
念のためで済むでしょうか。
殿下は封筒を見つめながら、少し不安そうに言いました。
「もし、企画そのものに無理があると言われたら」
「修正すればよいのです」
レオン様が即答しました。
「だが、皆がここまで準備した」
「準備が無駄になるわけではありません。問題点を知り、直すための提出です」
殿下は、少し黙りました。
「許可をもらうためではなく、実現できる形にするため」
「はい」
レオン様は頷きました。
「提出は審査であると同時に、相談でもあります」
殿下は、その言葉をゆっくり受け取りました。
「相談」
「はい」
私は微笑みました。
「殿下は、相談が得意になってきたではありませんか」
殿下は、複雑そうな顔で私を見ました。
「恋愛相談から始まったが」
「相談は相談です」
「かなり違う気がする」
「ですが、相手の意見を聞き、必要なら直すという点は同じです」
ナリア様が、少し柔らかく笑いました。
「私も、マリア様のおっしゃる通りだと思います」
殿下の表情が少し緩みました。
「ナリアも?」
「はい。何も指摘されない方が、不安です。春祭り当日に問題が起きてしまうより、今のうちに教えていただけた方が安心できます」
殿下はナリア様を見ました。
「そうだな」
「はい」
「なら、今日は許可を取りに行くのではなく、より良い形にするために相談しに行く」
とても良い捉え方です。
私は頷きました。
「はい」
殿下は心得紙の余白へ書き足しました。
『提出は相談』
今日も一つ増えました。
ですが、良い心得です。
エレナ様は、五人分の小さな蜂蜜菓子を机に並べました。
「本日は提出前用ですわ」
「緊張対策ですか?」
ナリア様が尋ねると、エレナ様は頷きました。
「はい。口の中に甘さが残りすぎると説明中に気になりますので、少し小さめにしました」
「細かいですね」
私が言うと、エレナ様は当然のように微笑みます。
「本番の前ほど細かくですわ」
ナリア様は一つ手に取りました。
小さくて、香りも穏やかです。
「美味しいです」
「よかったですわ」
殿下も一つ食べました。
少し噛み、ゆっくり飲み込みます。
「落ち着く」
「でしょう?」
もはや蜂蜜菓子は精神統一の道具です。
研究会活動費に正式に組み込んでもよいかもしれません。
ただし、エレナ様が予算を使い切る可能性がありますので、慎重に考えましょう。
◇◇◇
午前の授業中も、私は放課後の説明について何度も考えてしまいました。
授業用の紙には、教師が話した内容よりも、企画説明の順番を書きそうになります。
危ないです。
私は慌てて消しました。
廊下の外からは、春祭り準備の音が聞こえてきます。
木材を運ぶ音。
布を切る音。
楽器の調律。
誰かの笑い声。
各研究会やクラスが、少しずつ自分たちの催しを形にし始めています。
音楽研究会は、中庭での演奏会。
詩文学会は、春を題材にした詩の展示と朗読。
騎士科の生徒たちは模擬演武。
花飾りの会は、校舎入り口を季節の花で飾る予定です。
どこも華やかです。
それに比べると、私たちの企画は少し地味かもしれません。
古い招待状。
返礼文。
短い言葉を書く体験紙。
少人数の茶席。
でも、派手ではなくても意味はあります。
誰かへ言葉を渡すこと。
誰かからの言葉を受け取ること。
その方法を、一緒に考える場所。
小発表を経て、研究会が学んできたものが、そこには詰まっています。
私は、きっと許可してもらえると信じたくなりました。
しかし、そう思った直後。
もし王太子殿下の参加を理由に難しいと言われたら。
もし王家資料が扱えないと言われたら。
もし食品の提供が認められなかったら。
そんな不安も浮かびます。
不安を消そうとすると、さらに増えます。
これでは殿下のことを言えません。
私は小さく呼吸しました。
提出は相談。
修正すればよい。
自分へも言い聞かせます。
◇◇◇
昼休みの食堂は、いつも以上に賑やかでした。
企画書の提出日が近いため、どの席でも春祭りの話が聞こえます。
「私たちの企画、許可されるかしら」
「火を使うから難しいと言われるかもしれませんわ」
「音楽研究会は演奏時間が重なって揉めているそうです」
「王国史礼法研究会は、今日提出すると聞きましたわ」
「茶席があるのでしょう?」
「行ってみたいです」
「殿下がいらっしゃる時間は混みそうですわね」
「ナリア様の礼法説明も聞きたいですわ」
聞いていると、勝手に期待が膨らんでいきます。
まだ許可すらいただいていないのに。
ナリア様は、エレナ様と私の席に来ました。
今日は少し緊張した表情です。
手に持っている資料の角が、いつもより少しだけ強く握られていました。
「ナリア様」
「はい」
「緊張されていますか?」
ナリア様は、正直に頷きました。
「はい」
「どの部分が、一番不安ですか?」
ナリア様は少し考えました。
「私の説明です」
「礼法解説の?」
「はい。殿下やマリア様、グラシア様は、人前で説明することに慣れていらっしゃいます。バートン様も、とても堂々としていらっしゃいます。でも私は……」
ナリア様は視線を落としました。
「質問を受けた時、すぐに答えられないかもしれません」
小発表では、質問を受けませんでした。
ですが今日、教師から礼法面について聞かれる可能性があります。
ナリア様が不安になるのも当然です。
「答えがすぐに出なければ、考える時間をいただけばよいのです」
私が言うと、ナリア様は少し困ったように笑いました。
「その場で黙ってしまったら、失礼ではありませんか?」
「失礼ではありません」
エレナ様が穏やかに言いました。
「分からないのに急いで答える方が危険ですわ」
「そうでしょうか」
「はい。『少し考えさせてください』とお伝えすればよいのです」
ナリア様は、その言葉を小さく復唱しました。
「少し考えさせてください」
「はい」
「それなら、言える気がします」
私は頷きました。
「殿下も、ナリア様の答えを待ってくださるはずです」
ナリア様の表情が少し柔らかくなりました。
「はい」
迷いの少ない返事でした。
「殿下なら、待ってくださいます」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸が温かくなりました。
以前なら、そんな信頼はなかったはずです。
むしろ殿下の前で言葉に詰まることが、ナリア様には怖かった。
何を言われるか分からない。
冷たい言葉を返されるかもしれない。
そう感じていたはずです。
でも今は。
殿下なら待ってくださる。
ナリア様は、自然にそう言えました。
これを殿下が聞いたら。
きっと。
駄目です。
今日の説明前に伝えたら、感動しすぎて使い物にならなくなるかもしれません。
私は胸にしまいました。
エレナ様も、同じ判断をしたようです。
扇の陰で静かに微笑むだけでした。
「ナリア様」
「はい」
「教師の方も、私たちを困らせるために質問するわけではありません」
「はい」
「春祭りを安全に、良い形で行うためです」
「提出は相談、ですね」
ナリア様が言いました。
殿下の心得が、もう共有されています。
私は笑いました。
「はい。その通りです」
◇◇◇
放課後。
春祭り運営担当教師の執務室前に、私たち五人は並んでいました。
分厚い木の扉。
横には小さな札。
『春祭り運営担当
ドミニク・ベルナー教諭』
ベルナー先生は、王国史の教師です。
年齢は四十代ほど。
普段は穏やかな方ですが、学園行事の管理となると非常に細かいことで知られています。
さらに、食品提供や王家資料など、今回の企画には確認すべきことが多い。
緊張しない方が難しいです。
レオン様が封筒を持っています。
私の手には補足資料。
エレナ様は茶菓の材料一覧。
ナリア様は礼法解説文の下書き。
殿下は、王家資料の使用許可範囲を記した文書を持っていました。
全員、準備はできています。
それでも、扉の前では足が重くなります。
殿下が小さく息を吸いました。
私は反射的に声をかけそうになりました。
呼吸です、と。
ですが、その前に。
ナリア様が静かに言いました。
「殿下」
「はい」
「提出は相談です」
殿下は、少し驚いた顔でナリア様を見ました。
それから、柔らかく笑いました。
「ああ。そうだった」
私は、声をかけずに済みました。
また一つ。
私の役目を、ナリア様が自然に担いました。
いえ。
役目を取られたわけではありません。
二人の間に、新しい支え方が生まれただけです。
そう思うと、寂しさよりも嬉しさが勝ちました。
レオン様が扉を叩きました。
「王国史礼法研究会です。春祭り企画書の提出に参りました」
「入りなさい」
中から、落ち着いた男性の声が返ってきました。
扉が開きます。
執務室には、ベルナー先生のほかに、もう一人の教師がいました。
生活指導と礼法を担当する、アデライド・モーラン先生です。
五十代ほどの女性で、礼法には厳しい方です。
ナリア様の指先が、わずかに動きました。
礼法担当教師。
しかも、かなり厳しい。
これは予定外です。
私も少し緊張しました。
ベルナー先生が書類から顔を上げ、私たちを見ました。
「全員そろっているようだね」
「はい」
レオン様が代表して礼をしました。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
全員で礼をします。
殿下も、王太子として前に立つのではなく、研究会の一員として同じ列に並んでいます。
ベルナー先生は、その姿を一度見ました。
何か思うところがあったのかもしれません。
ですが、何も言わず、机の前の椅子を示しました。
「座りなさい。企画書を見せてもらおう」
レオン様が封筒を差し出します。
「お願いいたします」
ベルナー先生は封を開け、中身を取り出しました。
モーラン先生も、隣から書類を覗き込みます。
紙をめくる音。
静かな部屋。
窓の外から、遠く春祭り準備の音が聞こえてきました。
私たちは、何も言わず待ちます。
殿下は姿勢を正しています。
ナリア様も、膝の上で手を重ねていました。
紙が一枚めくられます。
また一枚。
ベルナー先生の表情は読めません。
モーラン先生も、黙ったままです。
長い。
とても長く感じます。
実際には数分でしょう。
でも、体感では半刻ほどでした。
ようやく、ベルナー先生が顔を上げました。
「よく考えられている」
まずは、その一言でした。
全員の肩から、ほんの少し力が抜けました。
「王国史の資料展示、招待文と返礼文の比較、来場者の体験紙。研究会の活動として筋が通っている」
「ありがとうございます」
レオン様が答えました。
「ただし」
来ました。
全員の空気がまた締まります。
「茶席を併設するなら、いくつか問題がある」
エレナ様の表情が少し真剣になりました。
ベルナー先生は企画書の該当箇所を指しました。
「まず、食品提供。材料の管理と、参加者の体質への配慮が必要だ」
エレナ様が用意していた材料一覧を差し出します。
「蜂蜜、小麦、卵、乳製品を使用する予定です。すべて表示し、体質上召し上がれない方には提供いたしません」
モーラン先生が資料を受け取り、目を通しました。
「蜂蜜は、どこから仕入れる予定ですか?」
「実家で付き合いのある王都の菓子工房を予定しております。ただし、学校側の指定がある場合は従います」
エレナ様の声は落ち着いています。
普段の楽しげな姿とは違い、責任を持って説明しています。
モーラン先生が頷きました。
「材料表示を受付と各席に置くこと。茶菓は事前に保健担当へ確認を取ること」
「承知いたしました」
エレナ様は深く頷きました。
ベルナー先生は次の箇所を指します。
「茶席の人数は少なくしているが、殿下が参加する時間帯に人が集中する可能性が高い」
「はい」
今度は殿下が答えました。
「その点は、僕の参加時間を事前に公表しない形にすることも考えています」
ベルナー先生が眉を上げました。
「公表しない?」
「はい。研究会の説明役として必要な時間だけ参加します。王太子を見るための場にしたくありません」
殿下の声は落ち着いていました。
「ただし、突然参加することで警備上の問題があるなら、学校側と警護側だけに時間を共有します」
ベルナー先生は、殿下をじっと見ました。
殿下は視線を逸らしません。
王太子として押し通そうとしているのではありません。
自分の存在が企画へ与える影響を理解し、対策を提案しています。
「殿下ご自身が、その形でよろしいのですか?」
モーラン先生が尋ねました。
「はい」
殿下は即答しました。
「今回は、僕のための催しではありません。研究会の活動です」
ナリア様が、ほんの少し殿下を見ました。
その目元が柔らかくなっています。
ベルナー先生は小さく頷きました。
「分かりました。警護責任者との調整を条件に、検討できます」
「ありがとうございます」
殿下が礼をしました。
まだ許可は出ていません。
ですが、一つ進みました。
次に、モーラン先生が礼法解説文を手に取りました。
「この解説は、クラウゼン嬢が?」
ナリア様の肩が少しだけ固まりました。
「はい。私が下書きを担当いたしました」
「説明していただけますか。なぜ、正式な返礼文と親しい相手への返礼文を並べるのです?」
質問です。
予定していたものに近い。
しかし、厳しい先生を前にすると、やはり緊張します。
ナリア様は一度息を吸いました。
殿下は、何も言いません。
答えを代わりません。
ただ、待っています。
ナリア様は、膝の上の指をそっと緩めました。
「同じ感謝でも、相手との関係や場面によって、適した重さが異なるからです」
声は少し硬い。
でも、届いています。
「正式な返礼文には、相手の地位や行為への敬意を十分に示す必要があります。一方で、親しい間柄に同じ重さの表現を使うと、かえって距離を作ったり、相手へ負担をかけたりする場合があります」
モーラン先生は表情を変えません。
「では、軽い表現の方が優れていると?」
「いいえ」
ナリア様は首を横に振りました。
「どちらが優れているということではありません。相手が受け取れる形を選ぶことが大切だと考えています」
その言葉に、殿下の目が少し動きました。
これまで研究会で何度も考えてきたことです。
重い言葉を軽くしない。
けれど、相手を潰さない。
相手が受け取れる形にする。
ナリア様は、それを自分の言葉で教師へ説明しました。
モーラン先生は、少しだけ目を細めました。
「具体例は?」
ナリア様が、一瞬止まりました。
予定より踏み込んだ質問です。
私は口を開きそうになりました。
殿下も、わずかに動きそうになります。
でも。
ナリア様が先に言いました。
「少し考えさせてください」
静かな声でした。
モーラン先生は頷きます。
「どうぞ」
待ってくださいました。
ナリア様は、ほんの数秒考えました。
その沈黙は長く感じましたが、嫌なものではありません。
「たとえば、王家主催の式典へ招かれた後であれば、『御厚情を賜り、深く感謝申し上げます』という表現は適切です」
ナリア様はゆっくり続けました。
「ですが、親しい研究仲間と短い茶の時間を過ごした後に同じ表現を用いると、相手は距離を感じるかもしれません。その場合は、『穏やかな時間をありがとうございました』の方が、関係に合った感謝になると思います」
殿下が完全に止まりました。
穏やかな時間。
二人のお茶で使った言葉です。
もちろん例として適切です。
研究会でも扱いました。
ですが、殿下には破壊力がありました。
私は殿下を見ませんでした。
見たら笑ってしまうかもしれません。
モーラン先生は、ナリア様の説明をしばらく考えました。
「なるほど」
そして、解説文を机へ戻しました。
「良い説明です。来場者にも、その違いが伝わるようにしてください」
ナリア様の表情が、ほっと緩みました。
「はい。ありがとうございます」
殿下も、静かに息を吐きました。
よく待てました。
よく奪いませんでした。
ベルナー先生が企画書の最後のページを開きます。
「もう一点」
また全員が姿勢を正します。
「この企画は、来場者に文章を書かせる。内容によっては、個人的な感情や関係に踏み込みすぎる可能性がある」
確かに。
招待文。
感謝文。
誰かを思い浮かべれば、個人的な内容になります。
それが誰かに読まれ、からかわれたり、噂になったりする危険もあります。
私たちは、そこまで深く考えていませんでした。
レオン様がすぐに答えました。
「記名を任意にします。また、体験紙は提出式ではなく、本人が持ち帰る形式に変更できます」
「展示する作品は?」
「展示希望者のみ。内容を研究会と教師が事前確認し、個人が特定できるものは除外します」
ベルナー先生が頷きました。
「それならよい」
私は心の中で感心しました。
レオン様は、問題を指摘されても慌てません。
すぐに修正案を出せます。
殿下が全部背負わなくてもよい理由が、そこにあります。
皆がいる。
得意なことを持ち寄れる。
殿下も、レオン様の返答を静かに聞いていました。
自分が答えなければならないとは思っていません。
『全部自分で答えない』
心得が生きています。
ベルナー先生とモーラン先生は、一度顔を見合わせました。
何か小さく確認します。
私たちは、また待ちます。
今度の沈黙は、先ほどよりさらに長く感じました。
やがて、ベルナー先生が企画書を閉じました。
「いくつか修正条件はあります」
殿下の指先が、わずかに動きました。
「食品提供の事前確認。体験紙の個人情報対策。殿下参加時間の警護調整。王家資料の展示範囲を教師側でも確認すること」
「はい」
レオン様が答えました。
「それらを反映した修正版を提出してください」
ここで。
殿下が、なぜか少し沈んだ顔になりました。
許可が出なかった。
そう受け取ったのかもしれません。
口が動きます。
「申し訳――」
私は息を呑みました。
謝る。
早いです。
心得。
『否定されても先に謝りすぎない』
しかし、私が止めるより早く。
ナリア様が、殿下の方を見て静かに言いました。
「殿下」
殿下の言葉が止まりました。
ナリア様は小さく首を横に振ります。
まだ終わっていません。
そう伝える視線でした。
ベルナー先生が続けます。
「修正が確認できれば、企画を許可します」
一瞬。
意味が届くまでに、少し時間がかかりました。
許可。
修正条件つき。
でも、許可です。
「……許可」
殿下が小さく呟きました。
ベルナー先生が少し笑いました。
「現段階では仮許可だ。修正を怠らないように」
「はい」
殿下はすぐに姿勢を正しました。
「ありがとうございます」
今度は謝罪ではありません。
感謝。
研究会の一員としての、まっすぐな感謝です。
私たちも一緒に礼をしました。
「ありがとうございます」
ナリア様の声も、少しだけ弾んでいました。
エレナ様は嬉しさを抑えながら、上品に礼をしています。
レオン様は、すでに修正項目を記録していました。
さすがです。
モーラン先生が、私たちを順番に見ました。
「良い企画だと思います」
厳しい方からの、その一言。
とても重みがありました。
「ただし、言葉を扱う展示は、来場者の心に触れる可能性があります。正しい表現を教えるだけではなく、相手を思いやることを忘れないように」
ナリア様が、深く頷きました。
「はい」
殿下も答えます。
「肝に銘じます」
「特に殿下」
「はい」
「ご自身が正解を示そうとしすぎないことです」
殿下が少しだけ固まりました。
まるで、すべて見抜かれているような指摘です。
「研究会の展示でしょう。来場者と共に考える場にしてください」
「……はい」
殿下は、ゆっくり頷きました。
「答えを与えるのではなく、共に考える場にします」
小発表の時と同じです。
説教にしない。
答えを押しつけない。
問いと余白を残す。
研究会が学んできたものは、すべて春祭りにつながっています。
ベルナー先生は企画書を返してくれました。
表紙の右上には、赤い文字で、
『条件付き仮許可』
と書かれていました。
その文字が、驚くほど眩しく見えました。
◇◇◇
執務室を出た後。
誰もすぐには言葉を出しませんでした。
廊下へ出て。
扉が閉じて。
数歩歩いて。
ようやく、エレナ様が小さく言いました。
「許可されましたわ」
「仮許可です」
レオン様が訂正しました。
しかし、声は少しだけ明るい。
「でも、許可ですわ」
「はい」
私も笑いました。
「修正すれば、正式に」
ナリア様は、胸の前で資料を抱きしめていました。
目元が少し潤んでいるように見えます。
「よかったです」
その声は、心からほっとしたものでした。
殿下は、しばらく黙っていました。
何か考えています。
私は少し心配になりました。
先ほど謝りかけたことを気にしているのでしょうか。
「殿下?」
私が呼ぶと、殿下は顔を上げました。
「……謝りかけた」
「はい」
「また、すぐ自分たちが悪かったのだと思ってしまった」
「はい」
「でも、ナリアが止めてくれた」
ナリア様が少し驚いたように殿下を見ました。
「私は、お声をかけただけです」
「それで止まれた」
殿下はナリア様へ向き直りました。
「ありがとう」
ナリア様の頬が赤くなります。
「殿下も、すぐに説明を聞いてくださいましたから」
「以前なら、最後まで聞かずに謝っていたかもしれない」
「今は、聞けています」
ナリア様は、柔らかく言いました。
「ですから、大丈夫です」
大丈夫。
その一言が、殿下の胸に静かに届いたようでした。
殿下は少しだけ笑いました。
「ああ」
私は、その二人を見ながら、何も言いませんでした。
今日も、私の代わりにナリア様が殿下を戻しました。
でも、もう寂しいだけではありません。
これが二人の関係になっていくのだと、少しずつ受け入れられています。
レオン様が記録紙を見ながら言いました。
「戻って修正点を整理します」
「今日中に?」
私が尋ねると、レオン様は当然のように頷きます。
「忘れないうちに」
「少し休みませんか?」
エレナ様が言いました。
「許可祝いの蜂蜜菓子がありますわ」
全員が、エレナ様を見ました。
「持ってきたのですか?」
「もちろんです」
「許可されなかったら?」
殿下が尋ねると、エレナ様は微笑みました。
「修正相談後用として出す予定でしたわ」
完璧です。
蜂蜜菓子に無駄はありません。
◇◇◇
開放学習室へ戻ると、エレナ様が小さな箱を開けました。
中には、いつもより少しだけ華やかな蜂蜜菓子が並んでいます。
花びらのような模様がついていました。
「本当に許可祝い用ですね」
ナリア様が嬉しそうに言います。
「ええ。ただし仮許可ですので、華やかさも少し控えめです」
「そこまで調整を」
「当然ですわ」
私たちはそれぞれ一つずつ受け取りました。
口に入れると、やさしい甘さの後に、少し花の香りが残ります。
春祭り。
そんな味でした。
「美味しい」
殿下が言いました。
「今日は、素直に美味しいと言えましたわね」
エレナ様が満足そうです。
「会話を邪魔しない、ではなく」
ナリア様が小さく笑いました。
殿下は少し恥ずかしそうにしました。
「あれも褒めたつもりだった」
「分かっています」
ナリア様の笑顔は、自然でした。
学習室の空気が明るくなります。
その後、レオン様が修正点を壁の紙へ書き足しました。
『修正事項』
一、食品材料表示と保健担当確認。
二、体験紙は原則持ち帰り。展示は希望者のみ。
三、殿下参加時間の警護調整。
四、王家資料の展示範囲再確認。
五、来場者へ正解を押しつけない説明形式。
「五つ目は、企画書にも明記した方がよいでしょう」
私が言うと、ナリア様が頷きました。
「『来場者自身が、相手との関係に合った言葉を考えられるよう支援する』ではどうでしょう」
「良いと思う」
殿下が答えました。
「教える、ではなく、考えるのを支える」
「はい」
「研究会らしい」
レオン様が書き込みます。
また、二人で一つの文を整えました。
仮許可をもらった後も、浮かれすぎずに修正を始める。
少し前の殿下なら、喜びのあまり何か大きな言葉を口にしていたかもしれません。
あるいは、修正点を「失敗」と感じ、落ち込んでいたかもしれません。
でも今日は違います。
嬉しい。
そして直す。
その両方ができます。
研究会全体も同じです。
エレナ様は保健担当へ出す材料表を整え始めました。
レオン様は個人情報対策の文面を作ります。
私は王家資料の展示候補をさらに絞ります。
ナリア様は、体験紙の注意書きを考えました。
殿下は、警護側へ説明するための参加方法をまとめます。
仮許可の赤い文字が、机の隅にあります。
それを時々見ながら、皆で作業します。
喜びを抱えたまま、手を動かす。
とても良い時間でした。
◇◇◇
日が暮れ始めた頃。
今日の作業は一度終わりました。
殿下は、企画書の表紙を見つめています。
「条件付き仮許可」
小さく読み上げました。
「不満ですか?」
私が尋ねると、殿下は首を横に振りました。
「いや」
そして、少し考えてから言いました。
「以前の僕なら、条件がついたことを否定だと思ったかもしれない」
「はい」
「でも今は、条件があるから実現できるのだと思える」
私は笑いました。
「とても良い考え方です」
殿下は、ナリア様を見ました。
「提出は相談だと、教えてもらったから」
ナリア様が少し照れました。
「私も、皆様から教えていただいた言葉です」
「それでも、扉の前で言ってくれたのは君だ」
少しだけ踏み込んだ感謝です。
でも、重くありません。
具体的です。
ナリア様は、しばらく黙りました。
そして、柔らかく微笑みました。
「お役に立てたなら嬉しいです」
殿下も微笑みます。
「とても助かった」
短い沈黙。
温かい沈黙。
私は、作業紙へ視線を落としました。
見守るために。
二人の間にあるものを、見すぎないために。
エレナ様も、扇を静かに閉じました。
レオン様は記録を続けています。
夕方の光が、仮許可の赤い文字を照らしています。
春祭りの企画は、これで本当に始まりました。
まだ正式許可ではありません。
修正もあります。
準備するものも多い。
きっと、これから問題も起こるでしょう。
人が集まりすぎるかもしれません。
資料が足りなくなるかもしれません。
茶菓の試作に失敗するかもしれません。
殿下が浮かれるかもしれません。
ナリア様が遠慮しすぎるかもしれません。
でも。
皆で相談できます。
今日、それが分かりました。
◇◇◇
帰り道。
校舎を出ると、春祭りの準備をしていた生徒たちが、片付けを始めていました。
廊下の窓には、試しに作られた花飾り。
中庭には運び途中の木箱。
遠くから、音楽研究会の最後の一音が聞こえます。
空は淡い紫色。
池には、細い月が映り始めていました。
殿下とナリア様は、少し前を並んで歩いています。
「明日は、礼法解説文を直したいと思います」
ナリア様が言いました。
「ああ。王家資料の確認が終われば、背景説明も追加できる」
「では、また相談させてください」
「もちろん」
自然です。
とても自然な、明日の約束です。
私の助けはありません。
それでいい。
私は二人の背中を見ながら、少しだけ笑いました。
エレナ様が隣で尋ねます。
「今日はどうでした?」
「何がですか?」
「相談役として」
私は少し考えました。
「一度も、殿下を止めませんでした」
「謝りかけた時も?」
「ナリア様が止めてくださいました」
「寂しいですか?」
正直に答えます。
「少し」
「嬉しいですか?」
「とても」
エレナ様は、いつもの優しい笑みを浮かべました。
「なら、順調ですわ」
私は池へ目を向けました。
あの日、殿下が落ちた場所。
あの日から、何度も殿下を止めました。
言葉を。
暴走を。
自責を。
でも今日。
殿下は、私ではなくナリア様の声で止まりました。
王太子殿下。
今日のあなたは、許可をいただく前に謝りかけました。
けれど、ナリア様の声を聞き、最後まで説明を待つことができました。
そして、条件を否定ではなく、より良い形へ進むための助言として受け取れました。
どうか明日も。
指摘を拒絶だと思わず、相談できる人たちの言葉を信じてくださいませ。
あなたの隣には、もう私だけではありません。
ナリア様も。
レオン様も。
エレナ様も。
皆がいます。
春祭りへ向かう道は、まだ始まったばかり。
けれど今日、私たちは確かに、その道を歩く許可をいただいたのです。




