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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第54話 王太子殿下、助ける前に尋ねる


 誰かが困っている時。


 すぐに手を差し出すことは、優しさです。


 重そうな荷物を代わりに持つ。


 答えに詰まった相手へ、言葉を補う。


 迷っている人の代わりに、進む道を決める。


 それらは確かに、相手を助ける行為でしょう。


 けれど。


 相手が自分で立とうとしている時まで、先に手を出してしまったら。


 その手は支えではなく、相手の力を奪うものになるかもしれません。


 助けたい。


 守りたい。


 困らせたくない。


 その気持ちが強い人ほど、待つことは難しいのです。


 だからまず、尋ねる。


 手伝ってもよいですか。


 今、助けが必要ですか。


 それとも、もう少し自分で考えてみたいですか。


 その一言があるだけで、差し出した手は、押しつけではなくなります。


 春祭り企画の条件付き仮許可をいただいた翌朝。


 アルノルド殿下の心得紙には、新しい一文が加えられていました。


『助ける前に尋ねる』


 私はそれを見て、静かに頷きました。


「殿下、本日の一番大切な心得ですね」


「ああ」


 殿下は、机の上に広げた礼法解説文を見つめていました。


 昨日、モーラン先生から出された修正条件。


 来場者へ正解を押しつけるのではなく、相手との関係に合った言葉を自分で考えてもらうこと。


 その条件を企画へ反映するため、今日は展示用の礼法解説文を大きく書き直す予定です。


 中心になるのは、ナリア様。


 彼女がこれまで作ってきた説明文を土台に、来場者が自分で考えられる形へ整えます。


 殿下は、ナリア様を助けたいのでしょう。


 それはとてもよく分かります。


 ですが。


 助けたい気持ちが強すぎる殿下は、時々、相手が求める前に全部を背負おうとします。


「ナリアが昨日、先生の質問へ自分で答えた」


「はい」


「少し考えさせてください、と言って」


「はい。とても立派でした」


 殿下は、ほんの少し誇らしそうに頷きました。


「僕もそう思う」


 自分のことのように嬉しそうです。


「だからこそ、今日の解説文も、彼女が自分で整えたいと思っているかもしれない」


「そうですね」


「だが、資料の背景で困るところはあるはずだ」


「はい」


「僕は手伝いたい」


「はい」


「……どこまでなら、手伝っていい?」


 殿下が、私へそう尋ねました。


 以前なら。


 どう手伝えばよいか、ではなく。


 何を言えばよいか。


 どの言葉を使えばナリア様に喜ばれるか。


 そういった相談だったかもしれません。


 ですが今日は違います。


 ナリア様が自分で進む余地を残したまま、どう支えればよいかを考えています。


 私は少し考えてから答えました。


「ナリア様が必要としている部分を、まず尋ねるのがよいと思います」


「必要としている部分」


「はい。殿下が手伝えることを全部並べるのではなく、『王家資料の背景説明で、必要なところはありますか』と」


 殿下は頷きました。


「範囲を限定する」


「その方が、ナリア様も答えやすいです」


「もし、大丈夫ですと言われたら?」


「任せてください」


 殿下は少し黙りました。


 分かりやすく不安そうです。


「本当に困っていても、遠慮して大丈夫と言うかもしれない」


「可能性はあります」


「なら」


「ですが、何度も尋ねると、それも圧になります」


 殿下の口が閉じました。


 難しいのです。


 助けたい側にとっては。


 一度断られても、本当は助けが必要なのではないか。


 無理をしているのではないか。


 そう考え始めれば、際限がありません。


「では、どうすればいい」


「一度尋ねて、必要ないと言われたら信じる。そのうえで、『必要になったら声をかけてください』と伝える」


 殿下はゆっくり復唱しました。


「必要になったら、声をかけてほしい」


「はい」


「それなら、放っておくことにはならない?」


「なりません」


 私ははっきり答えました。


「任せることと、見捨てることは違います」


 殿下は、その言葉をしばらく考えていました。


 そして心得紙へ、もう一つ書き足しました。


『任せることは見捨てることではない』


 とても良い心得です。


 今日はこれで十分でしょう。


 ……と思ったのですが。


 殿下はさらに紙の下へ小さく書きました。


『大丈夫を疑いすぎない』


 こちらも必要です。


「殿下」


「はい」


「よく分かっておられますね」


「自分でも疑いそうだと思った」


 自覚があります。


 大きな成長です。


 そこへ、エレナ様とレオン様が入ってきました。


 レオン様は昨日の修正事項を、すでに新しい一覧へまとめています。


 項目ごとに担当者名と期限まで書かれていました。


 相変わらず早いです。


「食品表示と保健担当への確認は、バートン嬢」


「承知しておりますわ」


「体験紙の個人情報対策は私とルイート嬢」


「はい」


「王家資料の範囲確認と警護調整は殿下」


「ああ」


「礼法解説文の修正はクラウゼン嬢。王家資料の背景補足は、必要に応じて殿下とルイート嬢」


 必要に応じて。


 殿下が、その言葉を見つめました。


 今まさに学んだところです。


 エレナ様は、今日も小さな箱を机に置きました。


「本日は修正作業用ですわ」


「どのようなお味ですか?」


 私が尋ねると、エレナ様は真剣に答えました。


「一度で完成したと思い込まず、もう一口食べたくなる味です」


「つまり?」


「少しだけ物足りなさを残しました」


 修正作業に合わせて、あえて物足りなく。


 本当に何でも菓子へ落とし込みます。


 レオン様が箱を見て言いました。


「数量は?」


「一人二つまでですわ」


「追加修正が増えた場合は?」


「予備があります」


 完璧です。


 蜂蜜菓子運用に関して、エレナ様に死角はありません。


 扉が叩かれたのは、その直後でした。


「ごきげんよう」


 ナリア様が入ってきます。


 腕には、いつもより厚い紙の束を抱えていました。


 昨日の帰宅後も、かなり考えたのでしょう。


 目元には少し疲れがあります。


 けれど、表情は明るい。


 殿下はそれを見た瞬間、何か言いそうになりました。


 疲れているのでは。


 無理をしたのでは。


 今日は休んだ方が。


 たぶん、そういう言葉でしょう。


 しかし、口にする前に止まりました。


 今朝の心得。


『助ける前に尋ねる』


 殿下は一度呼吸をしてから立ち上がりました。


「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」


「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」


 挨拶の後。


 殿下は、ナリア様の紙束を見ました。


 でも、勝手に手を伸ばしません。


「昨日、礼法解説文を直したのか?」


「はい。少しだけ」


 少しだけ。


 紙束はかなり厚いです。


 殿下の眉が、わずかに動きました。


 ですが、責めるような口調にはしませんでした。


「大変ではなかった?」


 ナリア様は少し考えました。


「大変ではありました。でも、考えたかったのです」


 殿下は黙って続きを待ちました。


「モーラン先生がおっしゃった、正解を教えるのではなく、自分で考えていただく展示にするということ。それを、どうすればよいのか」


「何か形になった?」


「いくつか案があります」


 ナリア様は紙束を机へ置きました。


 殿下は、そこでようやく尋ねます。


「王家資料の背景説明で、僕に手伝えるところはあるだろうか」


 ナリア様が少し目を見開きました。


 以前なら。


 殿下は「手伝う」と決めて、そのまま資料を取っていたかもしれません。


 今は尋ねました。


 ナリア様は紙束へ視線を落とし、少し考えます。


「今は、まず自分で解説の流れを整理してみたいです」


 断りました。


 柔らかく。


 けれど、はっきりと。


 殿下の表情が、ほんの一瞬だけ揺れました。


 寂しいのでしょう。


 頼ってもらえなかった。


 そう感じかけたのかもしれません。


 私は口を開きませんでした。


 殿下自身で受け取れると信じたからです。


 殿下は一度、心得紙を見ました。


『任せることは見捨てることではない』


『大丈夫を疑いすぎない』


 そして、ゆっくり頷きました。


「分かった」


 それだけで終えず、少し続けます。


「必要になったら、王家資料の背景はいつでも聞いてほしい」


 ナリア様の表情が、柔らかくなりました。


「はい。その時はお願いいたします」


「ありがとう」


 殿下は、資料へ触れませんでした。


 ナリア様が自分で開くのを待ちました。


 私は胸の奥が温かくなるのを感じました。


 よくできました。


 本当に。


 助ける前に尋ねる。


 断られたら、任せる。


 必要な時には頼ってよいと伝える。


 簡単なようで、殿下には難しいことです。


 それができました。


 エレナ様が、私の方へそっと蜂蜜菓子を一つ滑らせました。


 見守り用ではなく、修正作業用です。


 でも今の私には、どちらでも助かります。


     ◇


 午前の研究会は、ナリア様が作ってきた解説案の確認から始まりました。


 大きく三つに分かれています。


 一つ目。


『誰に向けた言葉ですか』


 二つ目。


『どのような場面で使う言葉ですか』


 三つ目。


『相手は、その言葉をどう受け取るでしょうか』


 正式な言葉か。


 親しい言葉か。


 感謝か。


 招待か。


 謝罪か。


 そして、受け取る相手にとって重すぎないか、軽すぎないか。


 ナリア様は、来場者がこの三つの問いを順番に考えることで、自分に合った言葉を作れるようにしたいと説明しました。


「正しい例文を一つ示すのではなく、考える順番を示す形です」


 ナリア様の声は、昨日の教師の前より落ち着いていました。


「たとえば、『またお会いできれば嬉しいです』という言葉も、親しい友人へなら自然ですが、ほとんど話したことのない相手には少し戸惑わせるかもしれません」


 殿下が頷きます。


「言葉そのものが正しいかではなく、関係に合っているか」


「はい」


「良いと思う」


 殿下は短く評価しました。


 すぐに口を挟まず、説明を最後まで聞いた後です。


 ナリア様の表情が少し明るくなりました。


「ありがとうございます」


 レオン様は紙へ書き込みます。


「来場者向け手順として分かりやすい。ただし、体験紙一枚に収めるには文章量が多いです」


「そうですね」


 ナリア様が頷きました。


「私も、少し長いと思っていました」


 エレナ様が、体験紙の見本を手に取りました。


「文章だけでは、少し堅く見えますわね」


「絵を入れますか?」


 私が尋ねると、エレナ様は首を横に振りました。


「絵ではなく、小さな印ですわ。相手、場面、受け取り方。それぞれに花、時計、手紙の印をつければ、視線が分かれます」


 なるほど。


 場の空気を整えるエレナ様らしい提案です。


 ナリア様も、すぐに笑顔になりました。


「分かりやすいと思います」


 殿下は見本を覗き込みます。


「花が相手?」


「いえ、花は関係の距離を表せるかと」


 エレナ様は、紙の端へ簡単な花の印を書きました。


「蕾なら、まだ遠い関係。開いた花なら、親しい関係」


 殿下が真剣な顔で言いました。


「少し曖昧ではないか?」


「殿下」


 エレナ様が微笑みました。


「恋と人間関係は、少しくらい曖昧な方がよろしいのですわ」


「研究展示だぞ」


「だからこそ、考える余地が必要です」


 ナリア様が、くすりと笑いました。


 殿下は少し納得しきれない顔でしたが、ナリア様が笑っているので、それ以上反論しませんでした。


 いえ。


 見惚れかけています。


 しかし、すぐに戻りました。


 心得紙を見なくても。


 最近は、それが増えています。


「印については、試作を見て決めよう」


 殿下が言いました。


「はい」


 ナリア様が答えます。


 研究会は、また一つ前へ進みました。


     ◇


 しばらくして、ナリア様が正式な返礼文と親しい返礼文の比較展示を広げました。


 左側には、格式高い文。


『此度は格別の御厚情を賜り、謹んで御礼申し上げます』


 右側には、親しい相手へ向けた柔らかな文。


『先日は、穏やかな時間をありがとうございました』


 その下には問いがあります。


『同じ感謝でも、誰に向けるかで言葉は変わります。あなたなら、どちらを選びますか』


「分かりやすいです」


 私は言いました。


「来場者が自分で考えられます」


 レオン様も頷きました。


「比較形式は有効です」


 殿下は、右側の文を見つめていました。


 穏やかな時間。


 また、二人のお茶を思い出しているのでしょう。


 ナリア様も気づいたのか、頬が少し赤くなりました。


 学習室の空気が、ほんの少しだけ止まります。


 エレナ様が蜂蜜菓子を一つ食べました。


 わざとらしくはありません。


 でも、場を戻すには十分な小さな音でした。


 殿下も呼吸します。


「この二つの間に、もう一つ置くのはどうだろう」


 殿下が言いました。


 ナリア様が顔を上げます。


「中間の表現ですか?」


「ああ。正式すぎず、親しすぎないもの」


「なるほど」


 ナリア様は考えました。


「たとえば、『先日はお招きいただき、ありがとうございました。楽しい時間を過ごすことができました』でしょうか」


「それなら、知人や研究仲間にも使えそうだ」


「はい」


 殿下は紙へ書き足します。


 正式。


 中間。


 親しい。


 三段階の比較になりました。


「良いですね」


 私は言いました。


「距離が急に二つへ分かれません」


 ナリア様も頷きました。


「人間関係は、親しいか遠いかだけではありませんものね」


「そうだな」


 殿下は、その言葉を少し考えるように繰り返しました。


「親しいか、遠いかだけではない」


 ナリア様と殿下の関係も、そうです。


 嫌われていると思っていた頃。


 研究会の仲間になった頃。


 発表で隣に立った頃。


 二人で紅茶を飲んだ頃。


 少しずつ。


 段階があります。


 ある日突然、遠いから近いへ変わったわけではありません。


 何度も言葉を交わして。


 待って。


 受け取って。


 今の距離になりました。


 殿下も、同じことを考えているようでした。


 ですが、それを口にはしません。


 研究会です。


 今は展示文を作る時間です。


 殿下は、自分でそこへ戻ってきました。


「三段階で採用しよう」


「はい」


 ナリア様は柔らかく微笑みました。


     ◇


 午前の研究会が終わり、授業へ向かう廊下。


 私はエレナ様と少し後ろを歩いていました。


 前方では、殿下とナリア様が同じ紙を見ながら話しています。


 殿下が資料を持ち、ナリア様が指で一か所を示していました。


「ここは、来場者向けには難しいでしょうか」


「少し。だが、削ると意味が変わる」


「では、注釈を短くする方が」


「そうしよう」


 自然な会話です。


 エレナ様が私の隣で小さく言いました。


「今日は、本当に尋ねられましたわね」


「はい」


「そして、断られても落ち込みませんでした」


「少しは落ち込んでいましたけれど」


「少しなら人間らしくてよろしいのですわ」


 私は笑いました。


「そうですね」


「マリア様は、助言しませんでしたわね」


「はい」


「我慢しました?」


「少し」


 正直に答えます。


 ナリア様が「今は自分で整理したい」と言った瞬間。


 殿下が傷つくかもしれない。


 勘違いするかもしれない。


 そう思って、説明を足したくなりました。


 ナリア様は殿下を拒んでいるのではありません。


 自分で進んでみたいだけです、と。


 でも、言いませんでした。


 殿下が自分で受け取れると思ったからです。


 そして、受け取れました。


「マリア様も、待てるようになりましたわね」


 エレナ様が言いました。


 私は少し驚きました。


「私も?」


「ええ」


 エレナ様は微笑みました。


「殿下だけではありません。マリア様も、二人へ手を出しすぎないようになりました」


 言われてみれば、そうかもしれません。


 私はずっと、殿下を止めることに必死でした。


 ナリア様を傷つけさせないため。


 殿下自身が後悔しないため。


 何か起きる前に、先回りして。


 でも今は。


 何か起きても、二人で戻れるかもしれない。


 そう信じ始めています。


「助ける前に尋ねる」


 私は小さく呟きました。


「マリア様にも必要な心得でしたわね」


「……そうかもしれません」


 エレナ様は、楽しそうに笑いました。


     ◇


 昼休み。


 食堂では、春祭りの仮許可に関する噂が、すでにかなり広がっていました。


「王国史礼法研究会、仮許可が出たそうですわ」

「本当に茶席をするのですね」

「招待文を作れるとか」

「殿下の心得紙も展示されるのかしら」

「それはないでしょう」

「少し見てみたいですけれど」

「ナリア様が礼法を教えてくださるのかしら」

「質問してみたいですわ」


 心得紙の話まで出ています。


 どこから漏れたのでしょう。


 エレナ様でしょうか。


 いえ、まさか。


 たぶん、研究会内で殿下が紙を見ている姿が目撃されているだけです。


 それでも危険です。


 絶対に展示してはいけません。


 ナリア様は、食堂へ来る途中で何人かの令嬢に声をかけられていました。


「クラウゼン様、春祭りの展示、楽しみにしております」

「礼法の相談もできますか?」

「招待状を書くのが苦手で」

「感謝を重くしすぎない方法を知りたいです」


 ナリア様は少し驚きながらも、一人ずつ丁寧に答えていました。


「まだ企画を修正している途中ですけれど、皆様が考えやすい展示にしたいと思っています」


「楽しみですわ」


「必ず伺います」


 令嬢たちは嬉しそうに去っていきました。


 ナリア様は、私たちの席へ来ると、少しだけ息を吐きました。


「緊張しました」


「でも、きちんとお答えできていました」


 私が言うと、ナリア様は恥ずかしそうに笑いました。


「ありがとうございます」


 エレナ様が今日の蜂蜜菓子を出しました。


「修正中用ですわ」


「朝と同じですか?」


「昼は少しだけ甘さを足しました」


「修正が進んだから?」


「はい。前進を感じる甘さです」


 ナリア様は一つ食べ、目元を緩めました。


「本当に、朝より少し甘いです」


「でしょう?」


 私はナリア様へ尋ねました。


「先ほど、質問を受けてどうでしたか?」


「嬉しかったです」


 ナリア様は正直に答えました。


「私の説明を聞きたいと思ってくださる方がいることが」


「はい」


「でも、少し怖くもあります」


「期待が?」


「はい」


 ナリア様は、蜂蜜菓子の小さな欠片を見つめました。


「私が間違ったことを言ったら、皆様がそれを正しいと思ってしまうかもしれません」


 それは、誠実な不安です。


 責任を感じているからこそ出る言葉でした。


「全部の正解を示す必要はありません」


 私が言うと、ナリア様は顔を上げました。


「昨日、モーラン先生もおっしゃっていました。来場者と一緒に考える場にするのです」


「はい」


「分からない時は、研究会で確認します、と答えてもよいと思います」


 ナリア様は、少し考えました。


「一人で全部を答えなくてもよい」


「はい」


「殿下も、今日そうしていらっしゃいました」


「そうですね」


 ナリア様は、少しだけ笑いました。


「私も、同じようにできるでしょうか」


「できます」


 私は迷わず答えました。


 ナリア様は小さく頷きました。


「では、分からない時は、皆様へ助けを求めます」


 エレナ様が微笑みます。


「その時は、まず尋ねてくださいませ。蜂蜜菓子が必要かどうかも」


「そこもですか?」


「大切ですわ」


 ナリア様が笑いました。


 その笑顔に、少しだけ緊張がほどけました。


     ◇


 放課後。


 今日の中心作業は、体験紙の試作です。


 来場者が短い招待文や感謝文を書くための一枚。


 質問は三つ。


『誰に向けた言葉ですか』


『どんな時に伝えますか』


『相手に、どんな気持ちで受け取ってほしいですか』


 その下に、自由記入欄。


 最後に、小さな確認。


『重すぎませんか』


『軽すぎませんか』


『相手が断ったり、考えたりする余地がありますか』


「最後の三つは、少し直接的でしょうか」


 ナリア様が尋ねました。


 レオン様は紙を見つめます。


「分かりやすいですが、尋問のようにも見えます」


「尋問……」


 殿下が少し顔をしかめました。


 確かに。


 書いた言葉を責められているように感じる人もいるかもしれません。


 エレナ様がペンを取りました。


「表現を柔らかくしましょう」


 彼女は書き直します。


『相手が受け取りやすい言葉になっていますか』


『あなたの気持ちは、伝わりそうですか』


『相手が自分で選べる余白はありますか』


 全員が黙って見ました。


「良いです」


 ナリア様が言いました。


「責められている感じがありません」


 殿下も頷きました。


「余白という言葉は、少し難しくないか?」


「では、『断ったり、後で考えたりできる言葉ですか』と補足を入れるのはどうでしょう」


 ナリア様が提案します。


「分かりやすい」


 殿下は、すぐに受け取りました。


「採用しよう」


 今日も、二人の間で言葉が整っていきます。


 私は自分の担当である個人情報の注意書きを考えました。


『書いた紙は、ご自身でお持ち帰りいただけます。展示を希望する場合のみ、受付へお渡しください。個人名や家名が分かる内容は、展示できません』


 レオン様が確認します。


「明確です」


「少し硬いですか?」


「注意書きは、曖昧より明確な方がよいでしょう」


「そうですね」


 作業は順調でした。


 ですが、途中。


 ナリア様の手が止まりました。


 一枚の古い招待文を見つめています。


 殿下が気づきました。


 以前なら、すぐに覗き込んでいたでしょう。


 今日は、少し待ちました。


 ナリア様はまだ考えています。


 殿下は、さらに待ちます。


 それから、静かに尋ねました。


「何か気になる?」


 ナリア様は顔を上げました。


「はい」


「手伝ってもいいだろうか」


 今日の心得です。


 助ける前に尋ねる。


 ナリア様は少し驚き、それから微笑みました。


「はい。お願いいたします」


 今度は、助けを受け取りました。


 殿下は椅子を少しだけ近づけます。


 近づけすぎません。


 同じ紙を見られる距離です。


「どこが気になる?」


「この文です」


 ナリア様が指しました。


『春の庭へ、もし御心が向かれましたなら、お越しいただければ幸いです』


「とても柔らかい招待です。でも、『御心が向かれましたなら』という表現を、今の言葉にどう直せばよいか迷っていて」


 殿下は文を見つめました。


「『もし、お気持ちが向きましたら』では少し不自然か」


「はい。意味は近いのですが」


「『ご興味がありましたら』だと、少し事務的になる」


「そうなのです」


 二人で黙ります。


 考える沈黙です。


 私は声をかけませんでした。


 少しして、殿下が言いました。


「『気が向いた時に』では、軽すぎる?」


 ナリア様は、声に出さず文を読んでみました。


「親しい相手なら、良いかもしれません」


「では、展示では距離別に分ける?」


「はい」


 ナリア様の表情が明るくなりました。


「正式なら、『ご都合が合いましたら』。親しい相手なら、『気が向いた時に』。元の文が持つ柔らかさを、関係に合わせて二つに分けられます」


「それが良い」


 殿下は頷きました。


「助かった」


 ナリア様が言いました。


 殿下の動きが止まりかけました。


 ですが、すぐに戻ります。


「役に立ててよかった」


 短く。


 重くせず。


 でも嬉しさは隠しませんでした。


 ナリア様も、柔らかく微笑みました。


「はい」


 助けを尋ねる。


 助けを受け取る。


 そのやり取りが、二人の間で自然にできました。


     ◇


 作業の終わり。


 体験紙の第一試作が完成しました。


 完璧ではありません。


 文字の大きさ。


 記入欄の広さ。


 印の位置。


 まだ修正が必要です。


 ですが、形になりました。


 レオン様が紙を持ち上げます。


「次回、数名に試用してもらう必要があります」


「研究会外の生徒に?」


 私が尋ねます。


「はい。私たちには内容が分かっているため、初めて見る人の戸惑いが分かりません」


「協力者を募りましょうか」


「少人数で十分です」


 エレナ様がすぐに言いました。


「私の友人にお願いできますわ」


 ナリア様も考えます。


「私も、礼法授業で一緒の方へお願いしてみます」


 殿下が、少しだけ不安そうな顔をしました。


 ナリア様が他の生徒へ声をかけることが不安なのではありません。


 おそらく、負担を背負わせすぎないか心配なのでしょう。


 ですが、勝手に止めません。


「何人くらいに頼む予定?」


 殿下が尋ねました。


「二人ほどです」


 ナリア様が答えます。


「無理のない範囲で」


「分かった」


 それだけです。


 信じました。


 任せました。


 今日の殿下は、本当に何度も成長を見せてくれます。


 研究会を終える前。


 レオン様が修正進捗を読み上げました。


「食品表示、準備中。個人情報対策、文案完成。王家資料と警護調整、確認中。礼法解説、構成修正済み。体験紙、第一試作完成」


「かなり進みましたね」


 私は言いました。


「はい」


 レオン様は頷きます。


「正式許可申請まで、あと少しです」


 ナリア様が、完成した試作紙を見ました。


「昨日は、修正点がたくさんあるように思えました」


「はい」


「でも、一つずつ進めれば形になりますね」


 殿下が静かに言いました。


「一人で全部直そうとしなければ」


 ナリア様が殿下を見ました。


「はい」


 二人とも、今日学んだことです。


 全部背負わない。


 助ける前に尋ねる。


 必要な時は頼る。


 任せる。


 研究会の修正作業が、二人の関係そのもののように思えました。


     ◇


 帰り道。


 春祭り準備の飾りが、昨日より少し増えていました。


 校舎入口には、花飾り用の細い布。


 中庭の一角には、仮設舞台の木枠。


 遠くから楽器の音。


 少しずつ。


 学園全体が形になっています。


 殿下とナリア様は、少し前を歩いていました。


 今日作った体験紙について話しています。


「記入欄は、もう少し広い方がいいでしょうか」


「長く書かせすぎると、参加しづらいかもしれない」


「では、二行ほど増やすくらいで」


「それが良さそうだ」


 また、自然に相談しています。


 エレナ様が、私の隣へ来ました。


「今日の心得、殿下だけのものではありませんでしたわね」


「はい」


「マリア様も、助ける前に待ちました」


「……そうですね」


「ナリア様も、助けが必要な時は受け取りました」


「はい」


「研究会全体の心得ですわ」


 私は少し笑いました。


「では、活動記録に書きますか?」


「それはレオン様が書きそうですわ」


 少し前を歩くレオン様を見ると、すでに何か記録しています。


 まさか本当に書いているのでしょうか。


 あとで確認しなければなりません。


 中庭の池の前を通ります。


 水面には夕暮れの空。


 風が吹き、小さな波が広がりました。


 あの日。


 私は、殿下を助けなければと思って飛び出しました。


 結果、殿下は池へ落ちました。


 助ける前に尋ねる余裕などありませんでした。


 でも今は。


 殿下自身が、相手へ尋ねられます。


 そして私も、二人が求める前に手を出さず、待てるようになっています。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、助ける前にナリア様へ尋ねました。


 自分で進みたいと言われた時は任せ、助けを求められた時には隣で一緒に考えました。


 それは、守ることよりも難しい支え方だったかもしれません。


 どうか明日も。


 大切な人が困っているように見えた時、すぐにその人の答えを奪わないでくださいませ。


 まず尋ねて。


 待って。


 必要な時にだけ、手を差し出してください。


 その手ならきっと、ナリア様も安心して、自分から取ることができるのですから。

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