第51話 王太子殿下、相談役を見ないで話しかける
節目というものは、意外と静かに訪れます。
大きな鐘が鳴るわけでもなく。
誰かが「ここから変わります」と宣言するわけでもなく。
ただ、いつもならこちらを見たはずの人が、今日は見ない。
いつもなら助けを求めたはずの視線が、今日はまっすぐ別の人へ向かう。
それだけで、ああ、少し変わったのだと分かることがあります。
王国史礼法研究会の小さな茶会から数日後。
アルスード学園には、いつもの穏やかな日常が戻っていました。
廊下には生徒たちの声が流れ、窓から入る風は少しずつ季節の温度を変えています。
小講義室での発表も、研究会内の茶会も、学園内ではすでに「少し前の出来事」になりつつありました。
けれど、私たちの中では確かに残っています。
言葉を選んだこと。
拍手を受けたこと。
二人だけで紅茶を飲んだこと。
そして、小さな茶会を小さく開けたこと。
その全部が、今の殿下とナリア様の距離を作っているのです。
朝の開放学習室。
私はいつものように扉を開けました。
殿下はすでに来ていました。
机には心得紙。
けれど、今日はその前に座って固まっているわけではありません。
殿下は窓際に立ち、外の中庭を見ていました。
池の水面が朝の光を受けて、静かに揺れています。
「ごきげんよう、殿下」
「ルイート嬢、ごきげんよう」
殿下は振り返りました。
表情は穏やかです。
緊張していないわけではありません。
でも、以前のような切羽詰まった感じはありませんでした。
「今日は、心得紙が少ないですね」
私が机を見て言うと、殿下は少し照れたように笑いました。
「書かなかったわけではない」
「はい」
「ただ、今日は新しい心得を増やすより、今までのものを守ろうと思った」
私は少し驚きました。
殿下が、自分でそう判断した。
新しい不安に新しい心得を足すのではなく、これまで積み上げたものを使う。
それは大きな変化です。
机の上の心得紙には、古い言葉がいくつか選ばれて置かれていました。
『待つ』
『急がない』
『見すぎない』
『相手の言葉を聞く』
『足りないと思う時ほど足りている』
『小さな時間を小さく大切にする』
最後の一文だけ、少し新しい気もします。
「殿下」
「はい」
「とても良いと思います」
殿下は少しだけ頷きました。
「今日は、ナリアに自分から話しかけようと思う」
その言葉に、私は息を止めました。
自分から話しかける。
それ自体は、最近何度もありました。
けれど、殿下の言い方には違う意味がありました。
私へ相談してからではなく。
私の顔色を見てからではなく。
自分で考え、自分で決めて、ナリア様へ話しかける。
そういうことなのだと、すぐに分かりました。
「どのように?」
私は静かに尋ねました。
「昨日、次の研究題材について少し考えた。季節の茶会の次に、学園行事での礼法を扱うのはどうだろうかと思っている」
「学園行事」
「ああ。春祭りの準備が始まるだろう」
春祭り。
アルスード学園で毎年行われる、季節の行事です。
貴族子息令嬢たちがそれぞれの得意分野を活かし、音楽、詩、花飾り、歴史展示、簡易の茶会などを行います。
王族も参加するため、礼法や招待、挨拶、感謝の言葉が必要になる。
確かに、研究会の題材としては自然です。
「良いと思います」
「まず、ナリアに礼法の観点からどう思うか聞きたい」
「はい」
「……君に確認してから聞くのではなく、直接」
殿下は、少しだけ緊張した顔でそう言いました。
私は胸の奥が少し痛くなりました。
寂しい。
でも、嬉しい。
この感覚にも、ずいぶん慣れてきた気がします。
「殿下なら、大丈夫です」
私が言うと、殿下は少し目を細めました。
「ありがとう」
短い感謝。
以前なら、ここで私への感謝が長くなっていたかもしれません。
でも今日は違います。
殿下は、すぐに窓の外へ視線を戻しました。
ナリア様が来るまで、自分で呼吸を整えるつもりなのでしょう。
少しして、レオン様とエレナ様が来ました。
エレナ様は今日も蜂蜜菓子の包みを持っています。
「本日は見守り用ですわ」
「見守り用?」
私が聞くと、エレナ様はにこりと笑いました。
「何も手を出さず、でも心細くならない甘さです」
それは、今日の私に必要なものかもしれません。
私は一つ受け取りました。
甘さは控えめで、後から少し香りが残ります。
確かに、見守り用です。
悔しいですが。
レオン様は殿下の心得紙を見て、静かに頷きました。
「殿下、本日は新規項目を増やさないのですね」
「ああ」
「良い判断です」
「そうか」
「はい。心得を増やすことが目的になってはいけません」
殿下は少し苦笑しました。
「それも心得に書くべきか?」
「今日は増やさない方針では?」
「そうだった」
ナリア様が来たのは、そのすぐ後でした。
扉が軽く叩かれます。
「ごきげんよう」
ナリア様は、いつも通り丁寧に礼をしました。
今日の表情は穏やかです。
小さな茶会の後から、ナリア様の表情には少しずつ柔らかさが増えています。
殿下は立ち上がりました。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
ここまでは、いつも通りです。
その後。
私は、殿下がこちらを見るかもしれないと思っていました。
ほんの一瞬でも。
これでいいか、と。
今言っていいか、と。
助けを求める視線が来るかもしれないと。
ですが。
殿下は、私を見ませんでした。
まっすぐナリア様を見ました。
見すぎではありません。
落ち着いた、会話の視線です。
「ナリア」
「はい」
「今日の研究会の前に、少し聞きたいことがある」
ナリア様は少し驚きました。
けれど、すぐに微笑みます。
「はい。何でしょうか」
殿下は呼吸しました。
急がない。
焦らない。
自分で選んだ言葉を、相手へ渡す。
「次の題材として、春祭りにおける礼法を扱うのはどうかと思っている。招待、挨拶、感謝、席次、発表後の返礼。これまで学んだことが、かなり含まれるはずだ」
ナリア様の目が、ぱっと明るくなりました。
「春祭り……とてもよいと思います」
殿下の表情が少しだけ緩みました。
でも、浮かれません。
続けて言います。
「礼法の観点から見て、扱うべき点はあるだろうか」
ナリア様は少し考えました。
そして、自分の資料を机に置き、真剣な表情になります。
「春祭りは、公式行事ほど厳格ではありませんが、王族も高位貴族も参加されます。ですから、気軽さと礼の釣り合いが大切になると思います」
「気軽さと礼の釣り合い」
「はい。特に、身分差がある相手を催しに招く場合、誘いが命令のようにならない配慮が必要です」
殿下が小さく頷きました。
自分の心得にもあった言葉です。
「それは、これまでの招待の学びと同じだな」
「はい。ただ、春祭りでは生徒同士の距離感もありますから、より自然な言葉が必要になります」
「なるほど」
殿下は机上の紙に短く記しました。
ナリア様はさらに続けます。
「また、催しを見に来てくださった方への感謝も重要です。大きな礼状ではなく、当日の短い言葉や、翌日の一言が関係を温かくすると思います」
殿下は、静かに聞いていました。
途中で補足しません。
先回りもしません。
ただ、聞く。
そして、ナリア様が話し終えてから言いました。
「ありがとう。とても参考になった」
ナリア様の頬が少し赤くなりました。
「お役に立てたなら嬉しいです」
私は、ただ見ていました。
何もしませんでした。
咳払いも、助言も、合図も。
必要ありませんでした。
殿下が自分で話しかけ、ナリア様が自分で答え、二人で一つの題材を前へ進めた。
それだけです。
それだけなのに、胸が熱くなりました。
エレナ様が隣でそっと蜂蜜菓子を差し出してきました。
もう一つ。
私は無言で受け取りました。
見守り用。
今、とても必要です。
◇◇◇
その日の研究会は、殿下の提案をもとに進みました。
次の大きな題材は、春祭り。
アルスード学園では、春祭りの準備が少しずつ始まっています。
各クラスや研究会が小さな催しを行い、貴族子息令嬢たちは互いの展示や演奏、茶会を訪ねます。
王族も参加するため、礼法上の配慮も必要です。
研究会として扱うには、まさに適した題材でした。
「王国史礼法研究会として、春祭りに何か出すことも考えられますね」
私が言うと、エレナ様がすぐに目を輝かせました。
「蜂蜜菓子茶会ですわね」
「即答ですね」
「もちろんです」
レオン様が冷静に言いました。
「研究会として出すなら、王国史と礼法の要素が必要です」
「では、歴史上の茶会と礼法の展示を兼ねるのはどうでしょう」
ナリア様が提案しました。
「季節の茶会に使われた招待文や返礼文を展示して、実際に小さな茶席も用意する形です」
「良いですね」
私は思わず身を乗り出しました。
「王国史の資料も使えます」
殿下も頷きます。
「王家の春祭りに関する古い記録がある。閲覧許可を取れるかもしれない」
レオン様がすぐに記録しました。
「題材候補。春祭りにおける歴史上の茶会、招待文、返礼文。実践茶席との併設」
エレナ様がにこにこしています。
「つまり、正式に蜂蜜菓子が必要ですわね」
「そこに戻るのですね」
「重要ですもの」
ナリア様が笑いました。
殿下も笑います。
自然な笑いでした。
学習室の空気が明るくなります。
第一回小発表の重さとは違う。
今度は、少し開かれた活動。
生徒たちが気軽に立ち寄れる、けれど言葉の礼法も学べる場所。
それは、王国史礼法研究会の次の形として、とても良さそうでした。
そして同時に、殿下とナリア様にとっても新しい段階になる。
春祭り。
学園行事。
準備期間。
一緒に作る時間。
きっと、その中で二人の距離はまた少し変わります。
私はそう予感しました。
◇◇◇
昼休み。
食堂では、春祭りの話題が増えていました。
「今年の春祭り、どの研究会が何を出すのかしら」
「音楽研究会は演奏会らしいですわ」
「花飾りの展示もあるそうです」
「王国史礼法研究会は何かするのかしら」
「この前の発表が好評でしたものね」
まだ正式に決まっていないのに、すでに期待されています。
少し怖い。
でも、前向きな怖さです。
ナリア様は、今日も私たちの席へ来ました。
エレナ様は春祭りを意識したのか、少し花の香りがする蜂蜜菓子を出しました。
「本日は春祭り構想用ですわ」
「もう用意されているのですね」
ナリア様が笑います。
「当然ですわ」
私はナリア様へ尋ねました。
「殿下の今朝の提案、どう思われましたか?」
ナリア様は少し頬を赤くしました。
「驚きました」
「はい」
「マリア様へ確認されず、直接私に聞いてくださいましたね」
気づいていました。
当然です。
ナリア様も、ずっと見てきたのですから。
「はい」
「少し……嬉しかったです」
ナリア様は蜂蜜菓子を見つめながら言いました。
「殿下が、私の意見を最初に聞きたいと思ってくださったのだと感じました」
「そうですね」
「以前なら、殿下に意見を求められると緊張していました。正しいことを言わなければと思って」
「はい」
「でも今日は、話してみたいと思いました」
私は胸が温かくなりました。
殿下の変化だけではありません。
ナリア様も、確実に変わっています。
殿下から問われることを怖がるのではなく、自分の考えを話したいと思えるようになっている。
「ナリア様」
「はい」
「それは、とても大きな変化ですね」
ナリア様は少し照れました。
「そうでしょうか」
「はい」
エレナ様も頷きます。
「殿下が待てるようになったから、ナリア様も話せるようになったのですわ」
ナリア様は、ゆっくり頷きました。
「そうですね」
そして、小さな声で続けました。
「殿下が待ってくださることを、信じられるようになったのかもしれません」
私はその言葉を、そっと胸にしまいました。
これは殿下に伝えたい。
でも、まだそのままは危険です。
ただ、いつか。
いつかナリア様自身の口から伝えられる日が来るでしょう。
その日まで、私は急がせません。
◇◇◇
放課後の研究会では、春祭り企画について本格的な案出しを行いました。
題名候補。
『言葉で招く春の茶席』
『王国史に見る春祭りの礼法』
『招待と感謝の小さな展示茶会』
最後が一番分かりやすいかもしれません。
内容は、三つに分ける案になりました。
一つ目。
王国史に残る春の茶会や園遊会の資料展示。
二つ目。
招待状、当日の挨拶、返礼文の例を展示。
三つ目。
小さな茶席を設け、実際に簡単な礼法を体験してもらう。
もちろん大規模にはしません。
研究会五人で運営できる範囲です。
「殿下が茶席に立つと、人が集まりすぎるのでは?」
私が言うと、殿下は少し困った顔をしました。
「それは避けたい」
レオン様も頷きます。
「殿下は常時ではなく、時間を区切って参加するのが良いでしょう」
「王族としてではなく、研究会の一員として参加したい」
殿下が言いました。
その言葉に、ナリア様が柔らかく微笑みました。
「殿下がそうしてくださると、来てくださる方も学びやすいと思います」
「そうだろうか」
「はい」
ナリア様は、少しだけ身を乗り出して説明しました。
「王太子殿下が完璧に振る舞われる場ではなく、研究会の一員として礼法を学んでいる姿を見せてくださる方が、きっと皆様も入りやすいです」
殿下は黙って聞いていました。
そして、静かに頷きました。
「分かった。完璧に見せるより、学んでいる姿を見せる」
「はい」
レオン様が記録します。
「殿下、研究会の一員として参加。完璧さより学びの共有」
エレナ様が嬉しそうに言いました。
「素敵ですわ。殿下が蜂蜜菓子の勧め方を学ぶ姿も見られますわね」
「それは必要か?」
「必要です」
エレナ様は即答しました。
ナリア様が笑います。
殿下も苦笑しました。
でも、その笑いの中に嫌な緊張はありません。
春祭りの案は、どんどん形になっていきました。
展示担当は私とレオン様。
礼法文の整理はナリア様。
茶菓と場の空気作りはエレナ様。
殿下は王家資料の閲覧許可確認と、当日の挨拶案。
役割が自然に決まります。
以前なら、殿下が全部を背負おうとしたかもしれません。
あるいは、ナリア様に良いところを見せようとして、余計に力んだかもしれません。
でも今日は違います。
殿下は、皆の得意分野を聞きながら、自分の役割を受け取っていました。
ナリア様も、自分から意見を出しています。
「当日の挨拶は、短い方が良いと思います」
ナリア様が言いました。
「殿下のお言葉は重みがありますから、最初から長いと来てくださった方が緊張されます」
「短く」
殿下が頷きます。
「どれくらいがよいだろう」
「三文ほどでしょうか」
「三文」
殿下は少し驚きました。
「短いな」
「はい。でも、茶席へ来てくださった方には、その後に会話があります。挨拶で全部を言わなくても大丈夫です」
殿下は、その言葉を受け止めました。
「足りないと思う時ほど足りている」
自然に心得が出ました。
ナリア様が微笑みます。
「はい」
私は、そのやり取りを見て思いました。
もう、私が言わなくても。
二人は、二人の中で心得を共有しています。
私が何度も言った言葉。
レオン様が指摘した言葉。
エレナ様が蜂蜜菓子と一緒に渡した言葉。
それらを、今は二人が自分たちの会話で使っている。
相談役として、こんなに嬉しいことはありません。
そして、少し寂しいことも。
研究会の終わり。
春祭り企画は仮案としてまとまりました。
正式に教師へ提出するのは次回です。
殿下が言いました。
「今日は、皆の意見が聞けてよかった」
そして、一度ナリア様を見ました。
「ナリアの礼法の視点も、とても参考になった」
ナリア様は頬を赤くしましたが、落ち着いて答えました。
「殿下が直接聞いてくださったので、私も話しやすかったです」
殿下が固まりかけました。
ですが、戻りました。
今日の殿下は本当に頑張っています。
「ありがとう」
「はい」
それだけです。
でも、その一言で十分でした。
◇◇◇
帰り道。
校舎を出ると、春祭りの準備を始めた生徒たちが中庭の一角で花飾りの相談をしていました。
色とりどりの布。
小さな木箱。
花の苗。
学園全体が、少しずつ行事へ向かって動き出しています。
空は淡い夕焼け。
池の水面には、茜色が揺れていました。
殿下とナリア様は、少し前を並んで歩いています。
今日は、二人で春祭りの話をしていました。
ナリア様が何か説明し、殿下が頷く。
殿下が短く質問し、ナリア様が楽しそうに答える。
それだけ。
でも、以前とはまったく違います。
殿下は、私を見ません。
ナリア様も、私に助けを求めません。
二人で会話が続いています。
エレナ様が隣で言いました。
「マリア様」
「はい」
「今日は、少し寂しいですわね」
私は苦笑しました。
「顔に出ていましたか」
「ええ」
「……はい。少し」
「でも?」
「とても嬉しいです」
エレナ様は満足そうに微笑みました。
「相談役から、見守り役へ。順調ですわ」
「そうですね」
私は池を見つめました。
あの日の池。
殿下が落ちた池。
すべてが始まった場所。
あの時、私は殿下の奇行に巻き込まれたと思っていました。
今も、それは間違っていないと思います。
ですが、巻き込まれてよかったとも思っています。
王太子殿下。
今日のあなたは、相談役を見ずにナリア様へ話しかけました。
自分で考えた題材を、自分の言葉で渡し、ナリア様の意見を最後まで聞くことができました。
そしてナリア様も、あなたの問いに怯えず、自分の考えを話してくださいました。
どうか明日も。
私の方を見なくても大丈夫です。
あなたはもう、ナリア様の言葉を待ち、受け取り、返すことができます。
春祭りへ向かうこの新しい日々の中で、二人が自分たちの言葉で少しずつ歩いていけますように。




