表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
48/57

第48話 王太子殿下、向こうから開いた扉に固まる



 待つことに慣れていない人ほど、待った後に起きた小さな変化に弱いものです。


 何も起きないかもしれない。


 そう思いながら、相手の時間を尊重する。


 急かさない。


 試さない。


 自分の期待を押しつけない。


 そうしてようやく静かに立っていたところへ、相手の方からほんの少しだけ扉が開く。


 すると、人は驚きます。


 嬉しいより先に、驚くのです。


 そしてその後、嬉しさが一気に来ます。


 だから今日のアルノルド殿下は、とても危険でした。


 朝の開放学習室。


 殿下の心得紙には、新しい一文が増えていました。


『待った後に飛びつかない』


 私はそれを見て、深く頷きました。


「殿下、非常に大事です」


「分かっている」


 殿下は真剣でした。


 最近ずっと真剣です。


 けれど今日の真剣さは、少し種類が違いました。


 昨日、ナリア様は自分から「また」に近づく言葉を練習しました。


『昨日のお茶、とても穏やかな時間でした。ご都合が合いましたら、またいつか、ゆっくりお話しできれば嬉しいです』


 練習です。


 あくまで練習。


 けれど、あれはかなり本心に近い言葉でした。


 殿下もそれを感じたのでしょう。


 昨日から今日にかけて、相当な葛藤があったに違いありません。


 誘いたい。


 でも急がない。


 ナリア様が少し近づいてくれた。


 でも飛びつかない。


 次を期待したい。


 でも勝手に未来を作らない。


 その葛藤の結果が、この心得です。


『待った後に飛びつかない』


 実に的確でした。


 レオン様はいつも通り記録紙を開き、淡々と言いました。


「本日の殿下の課題は、ナリア様が昨日の話題に触れても、過剰反応しないことです」


「分かっている」


「触れなかった場合も、落ち込まないことです」


「……分かっている」


「間がありました」


「少し期待している」


 正直です。


 とても正直です。


 エレナ様が扇を開きながら微笑みました。


「期待すること自体は悪くありませんわ」


「そうなのか」


「はい。ただ、その期待を相手に背負わせなければ」


 殿下は心得紙へ書き足しました。


『期待は持つ。背負わせない』


 今日も増えました。


 紙がそろそろ足りません。


 新しい冊子が必要です。


 私は言いました。


「殿下、ナリア様が何か言ってくださった場合は、短く受け取ってください」


「はい」


「嬉しい場合は?」


「嬉しいと言う」


「その後は?」


「広げすぎない」


「次を誘う場合は?」


「今日はしない」


 よろしい。


 とてもよろしいです。


 殿下は本当に成長しています。


 ただし、実際にナリア様を前にした時どうなるかは別問題です。


 その時、扉が叩かれました。


 ナリア様が入ってきます。


「ごきげんよう」


 ナリア様はいつも通り礼をしました。


 けれど、今日はほんの少しだけ緊張が混ざっています。


 昨日のことを覚えているのは、殿下だけではないのです。


 殿下は立ち上がりました。


「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」


「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」


 挨拶は自然です。


 でも、二人とも少しだけ目を合わせる時間が長くなりました。


 ほんの一呼吸分です。


 以前なら、殿下はそれだけで固まっていたでしょう。


 今は、少し頬を赤くしながらも戻ってきます。


 呼吸。


 心得。


 待つ。


 大丈夫です。


 今日の研究会は、前回に続いて「次につながる返礼表現」の確認です。


 招待やお茶、茶会の後に、相手へどんな言葉を返せばよいのか。


 形式的すぎず。


 重すぎず。


 でも楽しかった気持ちを隠しすぎない。


 この題材は、まさに今の殿下とナリア様に刺さり続けています。


 レオン様は本当に容赦がありません。


「本日は、口頭での返礼と、書面での返礼の違いを扱います」


 レオン様が資料を配りました。


「書面では整えた言葉が使えますが、口頭では表情や間も含めて伝わります。したがって、短い言葉でも十分な場合があります」


「短い言葉でも十分」


 殿下が復唱しました。


「はい」


 ナリア様が頷きました。


「たとえば、別れ際に長く感想を述べると、かえって相手を引き留めてしまう場合があります。短く『楽しかったです』と伝えるだけでも、その場では十分なことがあります」


 殿下は真剣に聞いています。


「短く伝えて、後で礼状に少し具体的に書くのもよいのか」


「はい。とても良いと思います」


 ナリア様が微笑みました。


「その場では余韻を残し、後で整えて伝えることもできます」


「余韻を残す」


 殿下は心得紙に書きました。


『その場で全部言わない』


 とても重要です。


 エレナ様がにこやかに言いました。


「殿下、本当に重要ですわ」


「分かっている」


「特に殿下は」


「分かっている」


 殿下が少し恥ずかしそうに答えます。


 ナリア様は小さく笑っていました。


 この笑い方が、最近とても自然です。


 殿下の不器用さを怖がるのではなく、少し微笑ましく受け止めている。


 それが分かるたびに、私は胸が温かくなります。


 午前の研究会では、いくつかの例文を作りました。


 茶会後に、別れ際で言う一言。


『本日はありがとうございました。とても楽しかったです』


 少し丁寧。


『穏やかな時間をありがとうございました』


 少し柔らかい。


『またお話しできれば嬉しいです』


 次につながる。


 ただし、相手との距離によっては少し踏み込む。


 殿下は、その三つ目を見て長く考えていました。


 ナリア様も、同じ文を見ています。


 エレナ様は扇で口元を隠しています。


 レオン様は淡々と続けました。


「この表現は、相手に次の機会を求めすぎない範囲で、前向きな気持ちを示せます。ただし、頻繁に用いると圧になります」


「頻度」


 殿下が言いました。


「重さは内容だけでなく頻度」


「はい」


 レオン様が頷きます。


「過去の心得が活用されています」


 殿下は少し誇らしそうでした。


 しかしすぐに浮かれないよう、紙を見ます。


 もう習慣です。


 昼休み。


 食堂では、今日も穏やかなざわめきがありました。


 小発表の話題は少し落ち着き、代わりに季節の茶会や次の授業の話が増えています。


 それが日常です。


 大きな出来事があっても、人は食事をし、授業を受け、友人と笑う。


 その普通さが、最近は少しありがたく感じます。


 ナリア様は、私たちの席に来ました。


 エレナ様は今日も蜂蜜菓子を出します。


「本日は、余韻を持ち帰るための味ですわ」


「持ち帰る……」


 ナリア様が少し笑いました。


「はい。その場で全部食べ切る甘さではなく、後で思い出せる香りです」


「素敵ですね」


 ナリア様は一口食べて、目元を緩めました。


「本当に、少し香りが残ります」


「でしょう?」


 エレナ様は満足そうです。


 私はナリア様へそっと尋ねました。


「今日の研究会、少し難しいですか?」


 ナリア様は頷きました。


「はい。難しいです」


「はい」


「でも、学べてよかったです」


 彼女は、少しだけ頬を赤くしました。


「昨日、私が言った『また』について、少し考えていました」


「はい」


「私は、殿下を急かしたくはありません。でも、楽しかったことも、またお話ししたいことも、なかったことにはしたくないのです」


 私は静かに頷きました。


 これはとても大切な気持ちです。


 急かしたくない。


 でも消したくない。


 その間の言葉を、ナリア様は探しています。


「今日の題材は、ちょうどそのためにある気がします」


「そうですね」


「殿下は……今日、待ってくださっていますね」


 ナリア様の声は、少し柔らかでした。


「お気づきでしたか」


「はい」


 ナリア様は少し照れたように微笑みます。


「殿下が何か言いかけて、止めてくださるのが分かります」


「負担ですか?」


「いいえ」


 ナリア様はすぐに首を横に振りました。


「大切にしてくださっているのだと思います」


 私は胸がいっぱいになりました。


 殿下の我慢は、ちゃんと届いています。


 待つことも、言葉の一部なのです。


「そのこと、殿下へ?」


 私が言いかけると、ナリア様は慌てました。


「そのままは!」


「はい」


「殿下が固まってしまいます」


「おそらく」


「でも……いつか、伝えたいです」


「はい」


 いつか。


 また、その言葉です。


 けれど今日は、その「いつか」が以前より少し近く感じました。


 放課後の研究会では、口頭での返礼を実際に練習することになりました。


 場面は、茶会やお茶の後、廊下で別れる時。


 受け取った時間をどう言葉にするか。


 次を急かさず、でも閉じない。


 ナリア様は、午前より少し落ち着いていました。


 殿下は緊張しています。


 待つ側でありながら、練習では相手役にもなります。


 エレナ様が言いました。


「では、まずナリア様から」


 ナリア様は少し驚いたように目を瞬かせました。


「私からですか?」


「はい」


 エレナ様は優しく微笑みます。


「言いたい言葉がある時は、自分から置いてみるのも練習ですわ」


 ナリア様は少し黙りました。


 それから、小さく頷きます。


「……はい」


 殿下が相手役として立ちました。


 昨日の練習に似ています。


 でも、今日は少し違います。


 ナリア様が、自分から置く言葉です。


 ナリア様は殿下を見ました。


 頬は赤い。


 けれど、目は逸らしません。


「殿下」


「はい」


「先日のお茶は、穏やかで、とても楽しい時間でした」


 殿下が固まりかけました。


 しかし、耐えます。


 呼吸。


 ナリア様は続けました。


「またすぐに、とは申しません。でも……ご都合が合う時に、また少しお話しできれば嬉しいです」


 言えました。


 完全に言えました。


 学習室に、柔らかな沈黙が落ちます。


 殿下は動きません。


 これはかなり強いです。


 ナリア様が自分から。


 また少し話したいと。


 ただし、急がずに。


 殿下は、今にも何か言いそうでした。


 けれど、心得紙は机の上です。


 遠い。


 しかし、殿下はもう心得紙なしでも戻ってこられるようになっていました。


 ゆっくり息を吸い。


 吐き。


 短く言いました。


「嬉しい」


 ナリア様の表情が、ふわりと緩みました。


 殿下はさらに続けます。


「僕も、また都合が合う時に話せたら嬉しい」


 重くありません。


 急いでいません。


 ちゃんと、ナリア様の歩幅に合わせた返答でした。


 ナリア様は小さく頷きました。


「はい」


 エレナ様が、静かに拍手しました。


「とても良かったですわ」


 レオン様も頷きます。


「相互に負担が少なく、意図も伝わっています」


 私は何も言えませんでした。


 胸がいっぱいでした。


 ナリア様が、自分から扉を少し開きました。


 殿下は、そこへ飛びつかず、同じくらいの幅で返しました。


 大きな進展です。


 けれど、静かな進展です。


 まさに二人らしい進み方でした。


 その後の練習では、他の表現も試しました。


 殿下が受け取る側。


 ナリア様が受け取る側。


 私やエレナ様も入り、表現の違いを確認します。


 殿下は一度、「また必ず」と言いかけて止まりました。


 ナリア様は一度、「ご迷惑でなければ」と言いすぎて、少し遠慮が強すぎると指摘されました。


 それぞれが、自分の癖を知ります。


 殿下は重くなりやすい。


 ナリア様は遠慮しすぎやすい。


 だから、二人でちょうどよい場所を探す必要があるのです。


 研究会の終盤、ナリア様が自分の便箋に短い文を書きました。


『またすぐにではなくても、いつか穏やかにお話しできる時間があれば嬉しく思います』


 それを見た殿下は、しばらく黙っていました。


 しかし、今日は受け取れました。


「その文は、とてもナリアらしいと思う」


 ナリア様が顔を上げました。


「私らしい、ですか?」


「ああ。急がず、でも閉じていない」


 殿下は少し照れながら続けます。


「優しい」


 ナリア様の頬が赤くなりました。


「ありがとうございます」


 殿下も赤いです。


 けれど、二人とも逃げません。


 研究会が終わる時、殿下は何かを言おうとして、少しだけ口を開きました。


 私は見ていました。


 ナリア様も気づいていました。


 殿下は、迷った末に言いました。


「今日、君の言葉を聞けてよかった」


 ナリア様の目が柔らかくなりました。


「私も、殿下のお返事を聞けてよかったです」


 それだけ。


 次のお茶の約束ではありません。


 でも、次につながる気持ちは確かにあります。


 殿下は頷きました。


「また研究会で」


「はい。また研究会で」


 今日の「また研究会で」は、昨日よりも温かく響きました。


 帰り道。


 校舎を出ると、夕方の空は淡い橙色でした。


 中庭の池が、ゆっくりその色を映しています。


 殿下とナリア様は少し前を並んで歩いています。


 距離は近すぎません。


 でも、二人の間にある空気は以前よりずっと柔らかい。


 エレナ様が隣で言いました。


「今日は、向こうから扉が開きましたわね」


「はい」


「殿下、飛びつきませんでした」


「はい」


「よく耐えましたわ」


「本当に」


 私は池を見つめました。


 待つ。


 そして、相手の方から少し開いた扉に、同じ強さで返す。


 それが今日の殿下の課題でした。


 そして、殿下はちゃんとできました。


 ナリア様も、自分の言葉で扉を開きました。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、向こうから開いた扉に固まりながらも、飛びつきませんでした。


 ナリア様が自分から差し出した「また」を、急がせず、重くせず、同じ温度で受け取ることができました。


 どうか明日も。


 開いた扉を押し広げるのではなく、相手が安心して立てる幅のまま大切にしてくださいませ。


 そうして少しずつ広がっていく扉の向こうに、きっと二人で過ごす次の穏やかな時間が待っているのですから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ