第48話 王太子殿下、向こうから開いた扉に固まる
待つことに慣れていない人ほど、待った後に起きた小さな変化に弱いものです。
何も起きないかもしれない。
そう思いながら、相手の時間を尊重する。
急かさない。
試さない。
自分の期待を押しつけない。
そうしてようやく静かに立っていたところへ、相手の方からほんの少しだけ扉が開く。
すると、人は驚きます。
嬉しいより先に、驚くのです。
そしてその後、嬉しさが一気に来ます。
だから今日のアルノルド殿下は、とても危険でした。
朝の開放学習室。
殿下の心得紙には、新しい一文が増えていました。
『待った後に飛びつかない』
私はそれを見て、深く頷きました。
「殿下、非常に大事です」
「分かっている」
殿下は真剣でした。
最近ずっと真剣です。
けれど今日の真剣さは、少し種類が違いました。
昨日、ナリア様は自分から「また」に近づく言葉を練習しました。
『昨日のお茶、とても穏やかな時間でした。ご都合が合いましたら、またいつか、ゆっくりお話しできれば嬉しいです』
練習です。
あくまで練習。
けれど、あれはかなり本心に近い言葉でした。
殿下もそれを感じたのでしょう。
昨日から今日にかけて、相当な葛藤があったに違いありません。
誘いたい。
でも急がない。
ナリア様が少し近づいてくれた。
でも飛びつかない。
次を期待したい。
でも勝手に未来を作らない。
その葛藤の結果が、この心得です。
『待った後に飛びつかない』
実に的確でした。
レオン様はいつも通り記録紙を開き、淡々と言いました。
「本日の殿下の課題は、ナリア様が昨日の話題に触れても、過剰反応しないことです」
「分かっている」
「触れなかった場合も、落ち込まないことです」
「……分かっている」
「間がありました」
「少し期待している」
正直です。
とても正直です。
エレナ様が扇を開きながら微笑みました。
「期待すること自体は悪くありませんわ」
「そうなのか」
「はい。ただ、その期待を相手に背負わせなければ」
殿下は心得紙へ書き足しました。
『期待は持つ。背負わせない』
今日も増えました。
紙がそろそろ足りません。
新しい冊子が必要です。
私は言いました。
「殿下、ナリア様が何か言ってくださった場合は、短く受け取ってください」
「はい」
「嬉しい場合は?」
「嬉しいと言う」
「その後は?」
「広げすぎない」
「次を誘う場合は?」
「今日はしない」
よろしい。
とてもよろしいです。
殿下は本当に成長しています。
ただし、実際にナリア様を前にした時どうなるかは別問題です。
その時、扉が叩かれました。
ナリア様が入ってきます。
「ごきげんよう」
ナリア様はいつも通り礼をしました。
けれど、今日はほんの少しだけ緊張が混ざっています。
昨日のことを覚えているのは、殿下だけではないのです。
殿下は立ち上がりました。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
挨拶は自然です。
でも、二人とも少しだけ目を合わせる時間が長くなりました。
ほんの一呼吸分です。
以前なら、殿下はそれだけで固まっていたでしょう。
今は、少し頬を赤くしながらも戻ってきます。
呼吸。
心得。
待つ。
大丈夫です。
今日の研究会は、前回に続いて「次につながる返礼表現」の確認です。
招待やお茶、茶会の後に、相手へどんな言葉を返せばよいのか。
形式的すぎず。
重すぎず。
でも楽しかった気持ちを隠しすぎない。
この題材は、まさに今の殿下とナリア様に刺さり続けています。
レオン様は本当に容赦がありません。
「本日は、口頭での返礼と、書面での返礼の違いを扱います」
レオン様が資料を配りました。
「書面では整えた言葉が使えますが、口頭では表情や間も含めて伝わります。したがって、短い言葉でも十分な場合があります」
「短い言葉でも十分」
殿下が復唱しました。
「はい」
ナリア様が頷きました。
「たとえば、別れ際に長く感想を述べると、かえって相手を引き留めてしまう場合があります。短く『楽しかったです』と伝えるだけでも、その場では十分なことがあります」
殿下は真剣に聞いています。
「短く伝えて、後で礼状に少し具体的に書くのもよいのか」
「はい。とても良いと思います」
ナリア様が微笑みました。
「その場では余韻を残し、後で整えて伝えることもできます」
「余韻を残す」
殿下は心得紙に書きました。
『その場で全部言わない』
とても重要です。
エレナ様がにこやかに言いました。
「殿下、本当に重要ですわ」
「分かっている」
「特に殿下は」
「分かっている」
殿下が少し恥ずかしそうに答えます。
ナリア様は小さく笑っていました。
この笑い方が、最近とても自然です。
殿下の不器用さを怖がるのではなく、少し微笑ましく受け止めている。
それが分かるたびに、私は胸が温かくなります。
午前の研究会では、いくつかの例文を作りました。
茶会後に、別れ際で言う一言。
『本日はありがとうございました。とても楽しかったです』
少し丁寧。
『穏やかな時間をありがとうございました』
少し柔らかい。
『またお話しできれば嬉しいです』
次につながる。
ただし、相手との距離によっては少し踏み込む。
殿下は、その三つ目を見て長く考えていました。
ナリア様も、同じ文を見ています。
エレナ様は扇で口元を隠しています。
レオン様は淡々と続けました。
「この表現は、相手に次の機会を求めすぎない範囲で、前向きな気持ちを示せます。ただし、頻繁に用いると圧になります」
「頻度」
殿下が言いました。
「重さは内容だけでなく頻度」
「はい」
レオン様が頷きます。
「過去の心得が活用されています」
殿下は少し誇らしそうでした。
しかしすぐに浮かれないよう、紙を見ます。
もう習慣です。
昼休み。
食堂では、今日も穏やかなざわめきがありました。
小発表の話題は少し落ち着き、代わりに季節の茶会や次の授業の話が増えています。
それが日常です。
大きな出来事があっても、人は食事をし、授業を受け、友人と笑う。
その普通さが、最近は少しありがたく感じます。
ナリア様は、私たちの席に来ました。
エレナ様は今日も蜂蜜菓子を出します。
「本日は、余韻を持ち帰るための味ですわ」
「持ち帰る……」
ナリア様が少し笑いました。
「はい。その場で全部食べ切る甘さではなく、後で思い出せる香りです」
「素敵ですね」
ナリア様は一口食べて、目元を緩めました。
「本当に、少し香りが残ります」
「でしょう?」
エレナ様は満足そうです。
私はナリア様へそっと尋ねました。
「今日の研究会、少し難しいですか?」
ナリア様は頷きました。
「はい。難しいです」
「はい」
「でも、学べてよかったです」
彼女は、少しだけ頬を赤くしました。
「昨日、私が言った『また』について、少し考えていました」
「はい」
「私は、殿下を急かしたくはありません。でも、楽しかったことも、またお話ししたいことも、なかったことにはしたくないのです」
私は静かに頷きました。
これはとても大切な気持ちです。
急かしたくない。
でも消したくない。
その間の言葉を、ナリア様は探しています。
「今日の題材は、ちょうどそのためにある気がします」
「そうですね」
「殿下は……今日、待ってくださっていますね」
ナリア様の声は、少し柔らかでした。
「お気づきでしたか」
「はい」
ナリア様は少し照れたように微笑みます。
「殿下が何か言いかけて、止めてくださるのが分かります」
「負担ですか?」
「いいえ」
ナリア様はすぐに首を横に振りました。
「大切にしてくださっているのだと思います」
私は胸がいっぱいになりました。
殿下の我慢は、ちゃんと届いています。
待つことも、言葉の一部なのです。
「そのこと、殿下へ?」
私が言いかけると、ナリア様は慌てました。
「そのままは!」
「はい」
「殿下が固まってしまいます」
「おそらく」
「でも……いつか、伝えたいです」
「はい」
いつか。
また、その言葉です。
けれど今日は、その「いつか」が以前より少し近く感じました。
放課後の研究会では、口頭での返礼を実際に練習することになりました。
場面は、茶会やお茶の後、廊下で別れる時。
受け取った時間をどう言葉にするか。
次を急かさず、でも閉じない。
ナリア様は、午前より少し落ち着いていました。
殿下は緊張しています。
待つ側でありながら、練習では相手役にもなります。
エレナ様が言いました。
「では、まずナリア様から」
ナリア様は少し驚いたように目を瞬かせました。
「私からですか?」
「はい」
エレナ様は優しく微笑みます。
「言いたい言葉がある時は、自分から置いてみるのも練習ですわ」
ナリア様は少し黙りました。
それから、小さく頷きます。
「……はい」
殿下が相手役として立ちました。
昨日の練習に似ています。
でも、今日は少し違います。
ナリア様が、自分から置く言葉です。
ナリア様は殿下を見ました。
頬は赤い。
けれど、目は逸らしません。
「殿下」
「はい」
「先日のお茶は、穏やかで、とても楽しい時間でした」
殿下が固まりかけました。
しかし、耐えます。
呼吸。
ナリア様は続けました。
「またすぐに、とは申しません。でも……ご都合が合う時に、また少しお話しできれば嬉しいです」
言えました。
完全に言えました。
学習室に、柔らかな沈黙が落ちます。
殿下は動きません。
これはかなり強いです。
ナリア様が自分から。
また少し話したいと。
ただし、急がずに。
殿下は、今にも何か言いそうでした。
けれど、心得紙は机の上です。
遠い。
しかし、殿下はもう心得紙なしでも戻ってこられるようになっていました。
ゆっくり息を吸い。
吐き。
短く言いました。
「嬉しい」
ナリア様の表情が、ふわりと緩みました。
殿下はさらに続けます。
「僕も、また都合が合う時に話せたら嬉しい」
重くありません。
急いでいません。
ちゃんと、ナリア様の歩幅に合わせた返答でした。
ナリア様は小さく頷きました。
「はい」
エレナ様が、静かに拍手しました。
「とても良かったですわ」
レオン様も頷きます。
「相互に負担が少なく、意図も伝わっています」
私は何も言えませんでした。
胸がいっぱいでした。
ナリア様が、自分から扉を少し開きました。
殿下は、そこへ飛びつかず、同じくらいの幅で返しました。
大きな進展です。
けれど、静かな進展です。
まさに二人らしい進み方でした。
その後の練習では、他の表現も試しました。
殿下が受け取る側。
ナリア様が受け取る側。
私やエレナ様も入り、表現の違いを確認します。
殿下は一度、「また必ず」と言いかけて止まりました。
ナリア様は一度、「ご迷惑でなければ」と言いすぎて、少し遠慮が強すぎると指摘されました。
それぞれが、自分の癖を知ります。
殿下は重くなりやすい。
ナリア様は遠慮しすぎやすい。
だから、二人でちょうどよい場所を探す必要があるのです。
研究会の終盤、ナリア様が自分の便箋に短い文を書きました。
『またすぐにではなくても、いつか穏やかにお話しできる時間があれば嬉しく思います』
それを見た殿下は、しばらく黙っていました。
しかし、今日は受け取れました。
「その文は、とてもナリアらしいと思う」
ナリア様が顔を上げました。
「私らしい、ですか?」
「ああ。急がず、でも閉じていない」
殿下は少し照れながら続けます。
「優しい」
ナリア様の頬が赤くなりました。
「ありがとうございます」
殿下も赤いです。
けれど、二人とも逃げません。
研究会が終わる時、殿下は何かを言おうとして、少しだけ口を開きました。
私は見ていました。
ナリア様も気づいていました。
殿下は、迷った末に言いました。
「今日、君の言葉を聞けてよかった」
ナリア様の目が柔らかくなりました。
「私も、殿下のお返事を聞けてよかったです」
それだけ。
次のお茶の約束ではありません。
でも、次につながる気持ちは確かにあります。
殿下は頷きました。
「また研究会で」
「はい。また研究会で」
今日の「また研究会で」は、昨日よりも温かく響きました。
帰り道。
校舎を出ると、夕方の空は淡い橙色でした。
中庭の池が、ゆっくりその色を映しています。
殿下とナリア様は少し前を並んで歩いています。
距離は近すぎません。
でも、二人の間にある空気は以前よりずっと柔らかい。
エレナ様が隣で言いました。
「今日は、向こうから扉が開きましたわね」
「はい」
「殿下、飛びつきませんでした」
「はい」
「よく耐えましたわ」
「本当に」
私は池を見つめました。
待つ。
そして、相手の方から少し開いた扉に、同じ強さで返す。
それが今日の殿下の課題でした。
そして、殿下はちゃんとできました。
ナリア様も、自分の言葉で扉を開きました。
王太子殿下。
今日のあなたは、向こうから開いた扉に固まりながらも、飛びつきませんでした。
ナリア様が自分から差し出した「また」を、急がせず、重くせず、同じ温度で受け取ることができました。
どうか明日も。
開いた扉を押し広げるのではなく、相手が安心して立てる幅のまま大切にしてくださいませ。
そうして少しずつ広がっていく扉の向こうに、きっと二人で過ごす次の穏やかな時間が待っているのですから。




