第47話 王太子殿下、待つ側になる
待つというのは、案外難しいものです。
自分から言葉をかける方が、まだ楽な時があります。
誘う方が、まだ覚悟を決めやすい時があります。
相手がどう思っているのか分からないまま、ただ次の言葉を待つ。
急かさず。
試さず。
不安を押しつけず。
それは、勇気が要ることです。
そして今日、アルノルド殿下は待つ側になりました。
開放学習室には、いつもの午後の光が差し込んでいました。
紅茶の翌日を越え、研究会は少しずつ通常の空気へ戻っています。
机の上には、返礼文の練習に使った便箋と、次回の題材案。
そして、殿下の心得紙。
そこには新しく、こう書かれていました。
『また、をこちらから急がない』
私はそれを見て、静かに頷きました。
「殿下、今日はそれが最重要ですね」
「分かっている」
殿下は真剣です。
真剣すぎるほど真剣です。
「誘いたい気持ちはある」
「はい」
「昨日も我慢した」
「はい。よく耐えました」
「今日も、誘いたい気持ちはある」
「はい」
「だが、急ぐとナリアに負担をかける」
「その通りです」
殿下は心得紙を見つめました。
「だから、待つ」
その声には、少しだけ寂しさがありました。
待つ。
それは、何もしないことではありません。
相手を信じることです。
ナリア様が自分の気持ちを整理する時間を尊重すること。
また、という言葉を自分だけで膨らませず、二人の間で育つのを待つこと。
殿下にとって、それはかなり難しいはずです。
レオン様が淡々と言いました。
「本日の研究会では、次の誘いに関する話題を殿下から出さないでください」
「分かっている」
「ナリア様が昨日のお茶に触れた場合は、短く受け取ってください」
「短く」
「はい」
「どれくらい」
「『ありがとう。僕も楽しかった』程度です」
「それだけで足りるのか」
「足ります」
エレナ様が微笑みました。
「殿下、足りないと思う時ほど、だいたい足りていますわ」
「そうなのか」
「はい。少なくとも恋愛では」
殿下は少し納得しきれない顔をしましたが、頷きました。
そして心得紙へ書き足しました。
『足りないと思う時ほど足りている』
……本当に恋愛心得集になってきました。
その時、扉が叩かれました。
ナリア様です。
彼女が入ってくると、学習室の空気が少しだけ柔らかくなりました。
「ごきげんよう」
殿下は立ち上がりました。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
いつもの挨拶。
けれど、ナリア様の目元にも少しだけ迷いがありました。
昨日のお茶。
返礼文の練習。
また機会があれば。
その言葉たちが、彼女の中でもまだ静かに揺れているのでしょう。
研究会は、穏やかに始まりました。
今日の題材は「招待を受けた側から次へつなぐ言葉」です。
つまり、次回を急かさず、けれど関係を閉じない返事の仕方です。
あまりにも今の二人に直結しています。
レオン様、やはり容赦ありません。
「招待を受けた後、次の機会を示唆する場合、直接的な要求にならないよう注意が必要です」
レオン様が資料を読みます。
「たとえば『また必ずお招きください』は相手に負担をかける場合があります。一方で『また機会がありましたら』は柔らかい表現ですが、関係によっては少し曖昧にもなります」
ナリア様の頬が赤くなりました。
殿下も固まっています。
完全に昨日の話です。
私はそっと咳払いしました。
「こほん」
二人が同時にこちらを見ます。
「研究会です」
「はい」
「はい」
また同時です。
エレナ様が笑いを堪えていました。
ナリア様は資料に視線を落としながら、静かに言いました。
「相手に負担をかけず、でも楽しかった気持ちを閉じない表現……難しいですね」
「はい」
私が頷きます。
「かなり難しいです」
殿下は、紙を見つめながら言いました。
「受け取る側が『また』を言う時も、勇気がいるのだな」
ナリア様が顔を上げました。
殿下は、彼女を見ています。
けれど、見すぎません。
穏やかに、学ぶように。
「誘う側だけが緊張するのだと思っていた」
ナリア様は少し目を伏せました。
「……受け取る側も、緊張します」
「そうか」
「はい」
少しの沈黙。
殿下は何か言いたそうでした。
ですが、待ちました。
ナリア様が続けるかもしれないからです。
その沈黙の中で、ナリア様は指先で資料の端をなぞりました。
「嬉しかったと言いすぎると、次を急かしてしまう気がします」
「はい」
「でも、何も言わないと、楽しくなかったと思われるのではないかと不安になります」
殿下の表情が少し揺れました。
それはきっと、昨日から殿下自身も感じていた不安です。
お茶は楽しかったのか。
また機会があれば、はどういう意味だったのか。
でも殿下は、すぐに自分の不安を語りませんでした。
ナリア様の言葉を最後まで聞きます。
「ですから……」
ナリア様は、少しだけ頬を赤くしました。
「ちょうどよい言葉を、今日学べたら嬉しいです」
殿下は静かに頷きました。
「僕もだ」
その返事は、短く、落ち着いていました。
とても良いです。
研究会はその後、いくつかの表現を比較しました。
『またぜひ』
『また機会がありましたら』
『ご都合が合いましたら、またお話しできれば嬉しいです』
『昨日のお時間が心に残っております。ご負担でなければ、またいつか』
最後は少し重いです。
殿下が見た瞬間、妙に頷きかけたので、私は止めました。
「殿下、それは少し重いです」
「まだ何も言っていない」
「顔が言っていました」
ナリア様が小さく笑いました。
殿下は少し恥ずかしそうに目を逸らします。
こういう何気ないやり取りも、以前よりずっと自然です。
午前の研究会の終わりに、ナリア様は一つの文を作りました。
『昨日は穏やかな時間をありがとうございました。ご都合が合いましたら、またいつか、ゆっくりお話しできれば嬉しく思います』
学習室が静かになりました。
これは、返礼文としての練習です。
練習。
そうです。
ですが、誰が聞いても、昨日のお茶を思い浮かべる文でした。
殿下は完全に固まりました。
しかし、今日は心得紙があります。
『また、をこちらから急がない』
『足りないと思う時ほど足りている』
殿下は呼吸しました。
そして、ゆっくり言いました。
「……とても良い文だと思う」
ナリア様の頬が赤くなりました。
「受け取る側として、負担はありませんか?」
殿下は一瞬だけ驚きました。
ナリア様が、殿下に尋ねています。
この文をどう受け取るか。
それはつまり、昨日の余韻をどう渡せばよいかを、殿下に確かめているのです。
殿下は真剣に考えました。
「負担ではない」
声は少しだけ震えていました。
「嬉しい。だが、急かされているとは感じない」
ナリア様は、ほっとしたように息を吐きました。
「よかったです」
「ただ」
殿下は少し迷いました。
「はい」
「僕なら、とても嬉しくて、しばらく考えてしまう」
ナリア様の顔が一気に赤くなりました。
殿下も赤い。
でも、今の言葉は重すぎませんでした。
正直で、少し照れた感想です。
エレナ様が扇の陰でにこにこしています。
レオン様は記録紙に何かを書きかけ、やめました。
偉いです。
昼休み。
ナリア様は、今日も私たちの席に来ました。
エレナ様は小さな包みを差し出します。
「本日は『また』用ですわ」
「また用……」
ナリア様は少し笑いました。
「次を急がせず、でも余韻を消さない甘さです」
「本当に、何でもありますね」
私が言うと、エレナ様は誇らしげです。
「恋と礼法と蜂蜜菓子は、繊細さが命ですもの」
なんだか名言のように聞こえます。
ナリア様は蜂蜜菓子を口にして、少しだけ目を細めました。
「優しい味です」
「でしょう?」
私はナリア様へそっと尋ねました。
「ナリア様、先ほどの文は……かなり本心に近かったのでは?」
ナリア様は真っ赤になりました。
「マリア様」
「すみません」
「……でも」
彼女は視線を落としました。
「本心に、近いです」
小さな声。
けれど、確かでした。
「またゆっくりお話ししたいと思っています。でも、私から誘うのはまだ少し勇気が足りなくて」
「はい」
「ですから、あのような形なら……言えるかもしれないと」
私は、胸の奥が温かくなりました。
ナリア様もまた、一歩進もうとしている。
殿下から誘われるのを待つだけではなく。
自分からも、次につながる言葉を渡そうとしている。
「とても良いと思います」
私が言うと、ナリア様は不安そうにこちらを見ました。
「殿下の負担になりませんか?」
「なりません」
これは断言できます。
「むしろ殿下は、とても嬉しいと思います」
「……そうでしょうか」
「はい。ただ、嬉しすぎて固まる可能性はあります」
ナリア様は少し笑いました。
「それは、想像できます」
殿下のことを、こうして自然に想像できる。
それもまた、関係が変わった証でした。
放課後の研究会では、午前に作った文をもとに、もう少し実践的な練習をしました。
今度は口頭での返答です。
お茶の帰り際に、どう言えば次を急がせず、楽しかった気持ちを伝えられるか。
完全に昨日の続きです。
殿下は緊張しています。
ナリア様も緊張しています。
しかし、二人とも逃げません。
レオン様が進行しました。
「では、場面設定です。研究会後のお茶を終え、別れ際。招かれた側が感想を伝える場合」
殿下が小さく息を吸いました。
ナリア様も、指先を少し握ります。
エレナ様が優しく言いました。
「練習ですわ。重く考えすぎず」
その言葉に、殿下とナリア様が同時に頷きました。
まず、ナリア様が練習します。
殿下を相手に。
ナリア様は少し頬を赤くしたまま、殿下を見ました。
「殿下」
「はい」
「昨日のお茶、とても穏やかな時間でした。ご都合が合いましたら、またいつか、ゆっくりお話しできれば嬉しいです」
言えました。
言えました。
学習室の空気が止まりました。
殿下は、動きません。
完全に止まっています。
でも、これは想定内です。
私は心の中で「呼吸です」と念じました。
殿下は、自分で呼吸しました。
偉い。
本当に偉い。
そして、少し赤い顔で言いました。
「僕も、嬉しい」
短い。
でも、声が温かい。
「また、都合が合う時に」
ナリア様の表情が、ふわりとやわらぎました。
「はい」
練習です。
練習のはずです。
でも、もう半分本番のようなものでした。
エレナ様が小さく拍手しました。
「とても良かったですわ」
レオン様も頷きます。
「双方に負担の少ない表現です。感情も伝わっています」
「グラシア様の評価はいつも冷静ですね」
私が言うと、レオン様は真顔です。
「必要です」
次に、殿下が誘われる側の返答を練習しました。
ナリア様の「またいつか」に対して、重く返しすぎない練習です。
殿下は何度か失敗しました。
一度目。
「もちろんだ。君が望むならいつでも」
重い。
少し束縛感があります。
二度目。
「僕も、その時を待っている」
美しいですが、やや重い。
三度目。
「また都合が合えば、ぜひ」
良いです。
短く、自然。
ナリア様も受け取りやすい。
殿下は少し物足りなさそうでした。
「短すぎないか」
「足りないと思う時ほど足りています」
私が言うと、殿下は心得紙を見て頷きました。
「そうだった」
学びが生きています。
研究会の終わり頃、ナリア様は自分の便箋に今日の文を清書していました。
それは提出用ではありません。
練習用です。
けれど、ナリア様は丁寧に書いていました。
まるで、いつか本当に渡すかもしれない言葉のように。
殿下はそれを見ないようにしていました。
見たいのが丸分かりです。
でも、見ません。
待つ側です。
今日の殿下は、待つ練習をしています。
研究会が終わる時、ナリア様が殿下へ言いました。
「殿下」
「はい」
「今日の練習、とても参考になりました」
「僕もだ」
「……また、研究会で」
その「また」は、いつもの「また研究会で」です。
けれど、今日は少しだけ違う響きがありました。
殿下もそれを感じたでしょう。
けれど、膨らませません。
ただ、静かに頷きました。
「ああ。また研究会で」
よくできました。
よく、待てました。
帰り道。
校舎を出ると、夕暮れの空は淡い金色でした。
中庭の池が、その光を静かに映しています。
殿下とナリア様は、少し前を歩いていました。
今日は距離が近すぎるわけではありません。
でも、昨日よりほんの少しだけ、歩幅が揃っていました。
エレナ様が隣で言いました。
「今日は、ナリア様が少し近づきましたわね」
「はい」
「殿下は待ちました」
「はい」
「大きな一歩ですわ」
「本当に」
私は池を見ました。
待つ側になる。
それは、殿下にとって本当に難しいことだったでしょう。
でも今日、殿下は待ちました。
そしてナリア様は、自分から少しだけ「また」に近づきました。
王太子殿下。
今日のあなたは、待つ側になりました。
次を急がず、ナリア様の言葉が育つ時間を信じました。
そしてナリア様は、自分の意思で「また」に続く言葉を探し始めました。
どうか明日も。
待つことを空白だと思わず、相手の心が動くための大切な時間だと覚えていてくださいませ。
二人の間にある「また」は、急がせなくても、静かに次の扉へ育っていくはずです。




