第46話 王太子殿下、翌日の紅茶を思い出しすぎる
楽しかった時間の翌日ほど、人は危うくなります。
終わった後に思い出すからです。
あの時、相手は笑っていた。
あの言葉は、どういう意味だったのだろう。
沈黙は気まずくなかった。
また機会があれば、と言ってくれた。
また。
その一言を、何度も何度も頭の中で繰り返してしまう。
そして、繰り返すほどに、昨日はただのお茶だったはずなのに、少しずつ大きな意味を持ち始めてしまうのです。
だから、翌日は危険です。
特にアルノルド殿下にとっては。
翌朝の開放学習室。
私は扉を開けた瞬間、殿下の様子を見てすべてを察しました。
殿下は机の前に座っています。
姿勢は正しいです。
制服にも乱れはありません。
表情も一見すると落ち着いています。
けれど、机の上に置かれた心得紙には、昨日より明らかに新しい文が増えていました。
『お茶はお茶だった』
『また、を膨らませすぎない』
『思い出しても走らない』
『次を急がない』
『紅茶の香りで固まらない』
最後の一文は何でしょうか。
かなり具体的です。
私は鞄を置き、静かに尋ねました。
「殿下」
「はい」
「昨日のお茶は、楽しかったのですね」
殿下は完全に止まりました。
そして、少し遅れて頬が赤くなりました。
「……ああ」
短い返事です。
でも、その「ああ」の中に、昨日のすべてが詰まっているようでした。
レオン様はすでに席に座り、記録紙を整えています。
エレナ様はいつものように蜂蜜菓子の包みを机へ置き、扇の陰で微笑んでいました。
「殿下、昨日はきちんとお茶で終われましたか?」
エレナ様が尋ねます。
殿下は真剣に頷きました。
「終われた」
「未来を語りませんでした?」
「語っていない」
「祝福は?」
「言っていない」
「誓約は?」
「していない」
「次のお茶の約束は?」
「していない」
「素晴らしいですわ」
エレナ様は本当に感心したように頷きました。
普通なら、お茶をしただけでここまで確認される王太子殿下はいないでしょう。
ですが、殿下の場合は必要です。
昨日のお茶を、昨日のお茶として大切に終える。
これは本当に難しかったはずです。
殿下は少しだけ視線を落としました。
「だが」
「はい」
「ナリアが、また機会があれば、と言ってくれた」
来ました。
今日の最重要危険語です。
また。
殿下の中で、その一言がどれほど大きく育っているか、想像に難くありません。
私は椅子に座り、落ち着いて言いました。
「殿下」
「はい」
「その『また』は、次の約束ではありません」
「分かっている」
「ですが、嫌だったら出ない言葉です」
殿下の顔がさらに赤くなりました。
私はすぐに続けます。
「だからといって、今日すぐ次を誘うのは早いです」
「分かっている」
「今日の研究会で、紅茶の話ばかりしてはいけません」
「……分かっている」
「少し間がありましたね」
「したくなる」
正直です。
とても正直です。
レオン様が淡々と言いました。
「本日の殿下の課題は、昨日のお茶を大切にしつつ、研究会の時間を研究会として過ごすことです」
「分かっている」
「ナリア様が来ても、昨日のお茶の感想をすぐ聞かない」
「……」
「殿下」
「分かっている」
怪しいです。
非常に怪しい。
エレナ様が蜂蜜菓子を差し出しました。
「本日は余韻対策ですわ」
「余韻対策」
殿下が真剣に受け取りました。
「甘さは控えめですが、少し香りを残しました。思い出を消すのではなく、落ち着いて抱えておくためです」
もう完全に専門家です。
殿下は一つ口に入れ、ゆっくり噛みました。
「……落ち着く」
「でしょう?」
エレナ様は満足そうです。
その時、扉が叩かれました。
ナリア様です。
殿下の背筋が伸びます。
伸びすぎそうになって、私が見ました。
殿下は自分で少し戻しました。
良いです。
「ごきげんよう」
ナリア様が入ってきました。
今日のナリア様は、いつもより少しだけ頬が柔らかく見えました。
昨日のお茶の余韻が残っているのでしょうか。
ただ、彼女も少し緊張しているようです。
殿下は立ち上がりました。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
いつもの挨拶。
けれど、ほんの少し違う。
二人とも、昨日を思い出している。
言葉にはしていません。
でも、空気で分かりました。
挨拶の後、殿下は何か言いかけました。
昨日は――。
たぶんそう言いかけたのでしょう。
しかし、止めました。
心得紙を見ます。
『思い出しても走らない』
よろしい。
殿下は短く言いました。
「今日も、研究会をよろしく」
ナリア様は、少しだけ微笑みました。
「はい」
たったそれだけ。
ですが、ナリア様の目元に、少し嬉しそうな色がありました。
殿下が昨日の話を急がなかったこと。
それを、彼女は受け取ったのかもしれません。
今日の研究会の議題は、前回に続き「感謝と招待の複合表現」です。
つまり、招待への返礼や、招かれた後の感謝状を扱います。
お茶の翌日にこの題材。
偶然とはいえ、危険です。
いえ、もしかしたら偶然ではありません。
レオン様が組んだ予定です。
彼は平然としていますが、かなり意図的かもしれません。
「招待を受けた後の礼状では、招いていただいたことへの感謝と、実際に過ごした時間への感想を具体的に述べることが重要です」
レオン様が資料を読み上げました。
殿下が一瞬止まりました。
ナリア様も少し赤くなりました。
私は心の中で頭を抱えました。
これは、昨日のお茶そのものです。
エレナ様は扇の陰で笑っています。
絶対に楽しんでいます。
レオン様は淡々と続けます。
「ただし、礼状においても感想を過剰に書きすぎると、相手が返礼を負担に感じる場合があります」
「……重要だな」
殿下が真剣に言いました。
「はい」
レオン様は容赦なく頷きました。
「非常に重要です」
ナリア様が資料を見ながら、少し落ち着いた声で続けます。
「招かれた側は、『楽しかったです』だけではなく、何が嬉しかったのかを一つ添えるとよいと思います。ですが、相手の負担にならないよう、次を急がせる表現は避けます」
「次を急がせる表現」
殿下が復唱しました。
「はい。たとえば、『ぜひすぐにまた』という言葉は、親しい間柄ならよいですが、相手によっては急かすことになります」
殿下は心得紙へ書き足しました。
『すぐにまた、は急かす場合あり』
ナリア様はそれを見て、少しだけ頬を赤くしました。
昨日、自分が言った「また機会があれば」を思い出したのでしょう。
殿下も思い出しています。
空気がほんの少し甘くなりました。
私は、咳払いしました。
「こほん」
二人が同時にこちらを見ました。
「研究会です」
「はい」
「はい」
二人同時に返事をしました。
エレナ様が扇の陰で肩を震わせています。
研究会は続きました。
まず、正式な返礼文の例を読みます。
王家主催の式典へ参加した後の礼状。
貴族間の茶会の後の御礼。
資料閲覧会後の感謝状。
蜂蜜菓子試食会の感想文。
……最後はエレナ様が無理やり入れました。
でも、意外と良い題材でした。
感想を具体的に伝える練習にぴったりです。
「美味しかった、だけでは少し弱いですわ」
エレナ様が真剣に言いました。
「蜂蜜の香りが紅茶によく合い、会話の間も穏やかになりました、くらいは欲しいです」
「それはかなり具体的ですね」
私が言うと、エレナ様は胸を張りました。
「感謝は具体的に、ですわ」
殿下が頷きます。
「学びが活用されている」
どこで活用されているのでしょう。
ですが、間違いではありません。
午前の研究会後、授業へ向かう廊下で、ナリア様は私の隣を歩いていました。
殿下は少し前でレオン様と話しています。
エレナ様は、少し後ろで誰かに挨拶を返していました。
ナリア様は、しばらく黙っていました。
それから、小さな声で言いました。
「マリア様」
「はい」
「昨日のお茶のことなのですが」
来ました。
私は静かに頷きました。
「はい」
「楽しかったです」
その声は、とても小さく、けれど確かでした。
「はい」
「特別なことを話したわけではありません。発表のことや、研究会のことや、紅茶のことを少し話しただけです」
「はい」
「でも……落ち着きました」
ナリア様は、前を歩く殿下の背中を見ました。
「殿下と二人でいて、落ち着くと思える日が来るとは、以前は思っていませんでした」
私は胸がぎゅっとなりました。
以前。
殿下の言葉に傷ついていた頃のナリア様。
会うたびに冷たい態度を取られ、自分が嫌われているのだと感じていた頃のナリア様。
その彼女が今、殿下と二人でいて落ち着いたと言っている。
こんなに大きな変化があるでしょうか。
「ナリア様」
「はい」
「それは、とても大切な気持ちだと思います」
ナリア様は少しだけ微笑みました。
「はい」
「殿下に伝えますか?」
そう尋ねると、ナリア様は即座に赤くなりました。
「い、今はまだ」
「分かりました」
「でも、いつか……伝えられたら」
いつか。
最近、この言葉が増えています。
逃げのいつかではなく、未来へ残すいつか。
私は頷きました。
「その時は、きっと殿下も喜ばれます」
「倒れませんか?」
「可能性はあります」
ナリア様は少し笑いました。
「では、少しずつにします」
「はい。それがよろしいかと」
昼休み。
食堂では、小発表の話題も少し落ち着き、日常の話題が戻っていました。
次の休暇。
季節の茶会。
新しいリボンの流行。
王国史礼法研究会についての噂もありますが、以前のような大きな波ではありません。
学園は、少しずつ穏やかです。
ベアトリス様は、今日は数人の令嬢と一緒に食堂へ来ていました。
華やかすぎず、静かすぎず。
以前とは違う位置にいるように見えます。
ナリア様は彼女に気づきましたが、今日は動揺しませんでした。
軽く会釈をします。
ベアトリス様も、それに気づいて会釈を返しました。
それだけです。
それだけですが、以前なら考えられない光景でした。
関係が完全に戻ったわけではありません。
でも、最低限の礼を交わせる。
それもまた、整え直しの一歩なのでしょう。
放課後の研究会では、実際に返礼文を書く練習をしました。
題材は「茶会後の御礼」。
……完全に昨日のお茶です。
殿下は少しだけ硬い顔をしています。
ナリア様も頬が赤い。
私は二人を見て、心の中でため息をつきました。
レオン様、本当に容赦ありません。
しかし、良い練習ではあります。
殿下は白い便箋を前にして、長く考えていました。
昨日と同じです。
ただし、今回は招待ではなく返礼。
自分が誘った側ですが、もし礼を書くならどうするか、という練習です。
殿下が最初に書いた文は、やはり少し重めでした。
『昨日の紅茶の時間は、私にとって忘れがたいものとなりました』
危険です。
かなり危険です。
忘れがたい。
事実かもしれません。
でも、返礼文としては重い。
私は静かに言いました。
「殿下」
「はい」
「お気持ちは分かりますが、少し重いです」
「……そうか」
殿下はしょんぼりしました。
しかし、落ち込みすぎません。
削ればいいと分かっています。
ナリア様が、少し恥ずかしそうに言いました。
「『穏やかな時間を過ごせました』くらいですと、受け取りやすいかもしれません」
殿下が顔を上げました。
「穏やかな時間」
「はい」
「それは、とても近い」
殿下は、少しだけ微笑みました。
「実際、穏やかだった」
ナリア様の頬が赤くなります。
「私も、そう思いました」
学習室の空気がふわりと温まりました。
エレナ様が蜂蜜菓子をそっと置きます。
完全に場の調整です。
レオン様は記録しています。
殿下は文を書き直しました。
『昨日は、穏やかな時間をありがとうございました。紅茶の香りと共に、発表についてのご感想を伺えたことを嬉しく思います』
良いです。
かなり良い。
具体的で、温かく、重すぎない。
ナリア様も頷きました。
「とても受け取りやすいです」
「よかった」
殿下は本当に嬉しそうでした。
次はナリア様の番です。
ナリア様は、少し考えてから書きました。
『昨日はお誘いいただき、ありがとうございました。紅茶の香りがとても優しく、発表の後の緊張が少しずつほどけていくようでした』
私は思わず息を止めました。
とても良い文です。
そして、かなり素直です。
殿下はその文を読んで、完全に止まりました。
無理もありません。
発表後の緊張がほどけた。
つまり、殿下とのお茶が安心につながったということです。
これは殿下にとって強すぎます。
しかし、彼は頑張りました。
心得紙を見ます。
『思い出しても走らない』
『次を急がない』
『お茶はお茶だった』
そして、呼吸。
「……とても良い文だと思う」
声が少し震えています。
でも、重くしすぎていません。
「ありがとう」
ナリア様は、少しだけ恥ずかしそうに微笑みました。
「こちらこそ」
そのやり取りだけで、学習室は十分温かくなりました。
研究会の後半では、それぞれの返礼文を整えました。
私の文は少し説明が多すぎると言われ、削りました。
エレナ様の蜂蜜菓子試食会への返礼文は、なぜか全員が本気で書き始めました。
レオン様の文は相変わらず正確でしたが、最後に「有意義でした」とあり、少し柔らかくなっています。
研究会は、重い発表の後とは思えないほど穏やかでした。
感謝。
招待。
返礼。
それらの言葉が、事件で張り詰めていた空気を少しずつ温め直しているのかもしれません。
研究会が終わる頃、殿下は一度ナリア様を見ました。
昨日のお茶のことを、また話したいのでしょう。
けれど、今日すぐ次を誘うことはしません。
心得を守っています。
殿下はただ、静かに言いました。
「今日の返礼文の練習も、参考になった」
ナリア様は頷きます。
「はい。私もです」
「ありがとう」
「こちらこそ」
短いやり取り。
けれど、昨日のお茶を大切に抱えたまま、次を急がないための言葉でした。
帰り道。
校舎を出ると、夕方の空は淡い紫でした。
中庭の池は静かで、雲の影をゆっくり映しています。
殿下とナリア様は少し前を歩いています。
今日は、昨日よりもさらに静かな並び方でした。
お茶をした後の二人。
けれど、急に近づきすぎてはいません。
同じ歩幅で、少し照れを残して、でも自然に歩いています。
エレナ様が隣で言いました。
「昨日のお茶、うまくいったようですわね」
「はい」
「殿下、今日誘い直しませんでした」
「はい。よく耐えました」
「ナリア様も、落ち着いていらっしゃいました」
「はい」
「でも、少し待っていそうですわ」
私はエレナ様を見ました。
やはり気づいていましたか。
「そうですね」
「次が楽しみですわね」
「急がせませんよ」
「もちろんですわ」
エレナ様は楽しそうに笑いました。
私は池を見つめました。
あの池から始まった恋は、今、紅茶の余韻を大切に抱えながら歩いています。
急がず。
膨らませすぎず。
でも、確かに次へつながりながら。
王太子殿下。
今日のあなたは、翌日の紅茶を思い出しすぎながらも、走りませんでした。
楽しかった時間を大きな誓約に変えず、穏やかな思い出として受け取り、返礼の言葉に整えることができました。
どうか次も。
また、という言葉を急がせず、けれど消さずに大切に抱えてくださいませ。
その小さな余韻の積み重ねが、きっといつか、ナリア様と自然に次の扉を開く力になるのですから。




