第45話 王太子殿下、二人だけの紅茶は思ったより静かでした
恋は、劇的な出来事ばかりで進むものではありません。
花火のような告白。
運命的な出会い。
誰もが息を呑むような大事件。
もちろん、そういう瞬間もあるのでしょう。
けれど、本当に人と人との距離を縮めるのは、案外もっと小さな時間なのかもしれません。
一緒にお茶を飲むこと。
同じ景色を見ること。
相手の話を最後まで聞くこと。
沈黙を怖がらずにいられること。
その積み重ねが、少しずつ心の距離を変えていく。
そして今日。
アルノルド殿下とナリア様は、初めて「研究会ではない時間」を二人で過ごします。
◇◇◇
「……行こうか」
「はい」
研究会が終わった開放学習室。
殿下はまだ少し頬を赤くしながら、ナリア様へ穏やかに微笑みました。
ナリア様も照れたように笑い返します。
二人とも緊張しています。
けれど、逃げようとはしていません。
その姿を見届けた私は、静かに鞄を肩へ掛けました。
「それでは、私は失礼いたします」
エレナ様も自然に続きます。
「私も本日は予定がありますので」
もちろん嘘です。
予定などありません。
けれど、今日ばかりは空気を読むことが一番の予定です。
レオン様も資料を抱えました。
「活動記録は明日まとめます」
「ありがとう」
殿下が頷きます。
その声は少しだけ上擦っていました。
緊張しているのでしょう。
私は学習室を出る直前、一度だけ振り返りました。
殿下とナリア様。
二人とも立ったまま、お互いに少し照れたように笑っています。
誰も話し始めません。
けれど、不思議と気まずくはありませんでした。
その光景を胸に焼き付けて、私は静かに扉を閉めました。
◇◇◇
学園本館二階。
王族や高位貴族も利用する談話室は、放課後になると驚くほど静かになります。
磨き上げられた窓。
夕日に照らされる木製の床。
白い陶器のティーセット。
窓際には季節の花が飾られています。
華美ではありません。
けれど、落ち着いた空気が流れる部屋でした。
「こちらへ」
殿下が椅子を引きました。
「ありがとうございます」
ナリア様は少しだけ驚いたように微笑み、静かに腰を下ろします。
向かい合う二人。
研究会ではいつも同じ机を囲んでいました。
ですが、今日は違います。
二人だけ。
それだけで空気が変わります。
給仕係が紅茶を注ぎ、軽く一礼すると静かに部屋を出ていきました。
部屋には二人だけ。
静寂。
「…………」
「…………」
最初に流れた沈黙は、少し長めでした。
殿下は何度も頭の中で練習したのでしょう。
けれど、練習した言葉ほど最初には出てきません。
ナリア様も紅茶へ視線を落としています。
カップから立ち上る湯気だけが、ゆっくり揺れていました。
先に口を開いたのは、ナリア様でした。
「……とても良い香りですね」
殿下は少しだけ肩の力を抜きます。
「ああ。王宮でよく出される茶葉なんだ」
「そうなのですね」
「少しだけ花の香りが混ざっている」
ナリア様はカップを持ち上げました。
香りを確かめるように目を閉じます。
「本当ですね」
小さく笑いました。
「優しい香りです」
殿下も少し笑います。
「気に入ってもらえてよかった」
また少し沈黙。
けれど、先ほどほど重くありません。
紅茶が、その間を繋いでくれているようでした。
「昨日の発表について聞きたいと仰っていましたね」
ナリア様がそう切り出しました。
殿下は頷きます。
「ああ」
「私の感想でよろしいでしょうか」
「ぜひ」
ナリア様は少しだけ考えてから話し始めました。
「私は……殿下のお言葉が、とても変わられたと思いました」
殿下は黙って聞いています。
途中で口を挟きません。
研究会で学んだ「最後まで聞く」が、ちゃんと身についていました。
「以前の殿下は、どこか遠くにいらっしゃるようでした」
「遠く」
「はい」
ナリア様は窓の外へ視線を向けました。
「正しいことを仰っているのに、私には届かない気がしていました」
殿下は静かに息を吸います。
けれど、何も言いません。
「でも今は違います」
ナリア様は殿下を見ました。
「殿下のお言葉は、ちゃんと私たちの隣にあります」
その言葉に、殿下はほんの少しだけ目を潤ませました。
泣きません。
けれど、とても嬉しかったのでしょう。
「ありがとう」
短く。
それだけ。
ナリア様は嬉しそうに微笑みました。
「こちらこそ」
二人はまた紅茶を飲みます。
静かな時間です。
でも、苦しくありません。
むしろ心地よい沈黙でした。
「ナリア」
殿下が少しだけ笑いました。
「はい」
「一つ聞いてもいいだろうか」
「もちろんです」
「研究会を作って……良かったと思っているか」
ナリア様は驚いたように目を丸くしました。
そして、すぐに柔らかな笑顔になります。
「はい」
迷いのない返事でした。
「とても」
殿下は黙って続きを待ちます。
「最初は、礼法を学ぶ会だと思っていました」
「そうだったな」
「でも今は違います」
「違う?」
「はい」
ナリア様は少し照れながら言いました。
「人の言葉を、一緒に考える場所だと思っています」
殿下は静かに頷きました。
「僕もだ」
「嬉しいです」
また少し沈黙。
窓の外では風が木々を揺らしています。
遠くで部活動の掛け声が聞こえました。
学園はまだ賑やかです。
けれど、この部屋だけは時間がゆっくり流れていました。
「ルイート嬢には感謝している」
殿下がふと呟きました。
「マリア様ですね」
「ああ」
ナリア様は小さく笑いました。
「私もです」
「最初は相談役だったのにな」
「今では研究会の中心です」
「本人は否定しそうだ」
「きっと」
二人は顔を見合わせて笑いました。
初めてでした。
マリアの話だけで自然に笑い合えたのは。
「エレナ様も」
ナリア様が続けます。
「蜂蜜菓子がなければ、何度も空気が凍っていたと思います」
殿下が苦笑しました。
「否定できない」
「レオン様も、とても頼もしいです」
「ああ」
殿下は紅茶を飲みながら言いました。
「皆がいたから、ここまで来られた」
ナリア様は頷きました。
「はい」
「だからこそ」
殿下は少し照れたように笑います。
「今日は、二人だけで話してみたかった」
ナリア様の手が少し止まりました。
けれど、その言葉は重くありません。
今日という時間を大切にしたい。
それだけが伝わる言葉でした。
「私も」
ナリア様は静かに言いました。
「少しだけ、楽しみにしていました」
殿下は目を見開きます。
「本当に?」
言ってから、少しだけ焦ったように咳払いしました。
「すまない」
「いえ」
ナリア様は笑っています。
「本当です」
「ありがとう」
殿下は照れたように笑いました。
◇◇◇
一方その頃。
校舎を出た私たちは、中庭の池の前を歩いていました。
「……気になりますね」
思わず本音が漏れます。
エレナ様がくすりと笑いました。
「気になりますわね」
「今頃どうなっているのでしょう」
「紅茶を飲んでいらっしゃる頃でしょう」
「沈黙していませんかね」
「最初はしているでしょうね」
レオン様が真顔で言いました。
「沈黙も必要です」
「そこは安心材料なんですか?」
「以前なら沈黙を恐れて余計な言葉を足していました」
「ああ……」
確かに。
昔の殿下なら。
沈黙に耐えられず。
『今日という日は、僕の人生において』
などと始めていたでしょう。
私は思わず笑いました。
「今は違いますね」
「はい」
レオン様は頷きます。
「沈黙を待てるようになりました」
それだけでも、大きな成長です。
◇◇◇
談話室では、紅茶のおかわりが注がれていました。
「少し冷めてしまいましたね」
ナリア様が笑います。
「ああ」
「でも、このくらいも好きです」
「僕もだ」
何でもない会話。
それなのに、不思議と嬉しい。
殿下はそう感じていました。
好きな人と。
同じ紅茶を飲み。
同じ景色を見て。
同じ話題で笑う。
こんな時間を、自分はずっと求めていたのだと。
ようやく気づいたのです。
恋とは。
派手な言葉ではなく。
一緒にいられる時間そのものなのだと。
「今日は」
殿下が静かに言いました。
「誘ってよかった」
ナリア様は少し照れながら頷きます。
「はい」
「私も」
そして、小さく笑いました。
「来てよかったです」
その一言だけで十分でした。
殿下は、それ以上何も求めません。
今日という時間が。
ちゃんと二人のものになった。
それだけで満たされていました。
◇◇◇
夕暮れ。
二人は談話室を出て、ゆっくりと校門まで歩きます。
別れ際。
殿下は少しだけ立ち止まりました。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
ナリア様が微笑みます。
「また研究会で」
「ああ」
それだけ。
約束もしません。
次のお茶も誘いません。
未来を急ぎません。
けれど、その「また研究会で」という言葉だけで、十分でした。
二人には、また会える場所があります。
それが今は何より嬉しい。
◇◇◇
その日の夜。
私は自室で活動記録を書きながら、小さく笑いました。
今日、研究会はありませんでした。
けれど、研究会が育てた時間がありました。
殿下はちゃんと誘えた。
ナリア様はちゃんと受け取った。
そして二人は、普通のお茶を楽しめた。
普通。
それが一番難しかった。
だからこそ、一番大切な一歩だったのでしょう。
私はペンを置き、窓の外を見ました。
夜風が静かに木々を揺らしています。
あの池へ落ちた日から始まった奇妙な相談役。
いつの間にか、私は二人の背中を見送ることの方が多くなりました。
少しだけ寂しい。
でも、その寂しさ以上に嬉しい。
王太子殿下。
今日のあなたは、恋を語りませんでした。
未来も約束しませんでした。
ただ、一杯の紅茶を一緒に飲みました。
それだけなのに。
その時間は、これまで積み重ねてきたどんな言葉よりも、あなたの想いを静かに伝えていたのかもしれません。
恋は急がなくていい。
今日のような穏やかな時間を、一つずつ積み重ねていけばいい。
きっとその先に。
あなたが本当に伝えたい言葉を、ナリア様へ届けられる日が来るのですから。




