第44話 王太子殿下、扉の前で深呼吸する
言葉は、紙の上で整えるだけならまだ安全です。
何度でも書き直せます。
重すぎたら削ればいい。
冷たすぎたら温度を足せばいい。
余白が足りなければ、断れる一文を添えればいい。
けれど、その言葉を実際に相手の前で口にする時。
紙の上ではきれいに整っていたはずの一文が、急にとんでもなく重く感じられることがあります。
もし断られたら。
もし困らせたら。
もし、今まで積み重ねてきた距離を一歩で踏み外したら。
そう思った瞬間、喉が固まる。
胸が詰まる。
手が冷たくなる。
そして、言えなくなる。
今日のアルノルド殿下は、まさにその状態でした。
朝の開放学習室。
机の上には、昨日作った招待文の下書きが置かれていました。
『もし都合がよければ、研究会後に少しお茶をどうだろう。昨日の発表について、君の感じたことも聞けたら嬉しい。無理なら、また別の機会に』
短い文です。
重すぎません。
冷たすぎません。
余白もあります。
昨日、ナリア様はこの文を見て、「こちらの文なら嬉しいです」と言いました。
つまり、方向性は間違っていません。
問題は。
これを本当に言うかどうかです。
殿下は、その紙を朝からじっと見つめていました。
見つめすぎて、紙に穴が開くのではないかと思うほどです。
レオン様はいつものように記録紙を整え、エレナ様は蜂蜜菓子の包みを机に置いています。
ナリア様はまだ来ていません。
つまり、今が最後の作戦会議です。
「殿下」
私は静かに声をかけました。
「はい」
「本日、実際にお誘いするのですか?」
殿下は固まりました。
分かりやすい。
非常に分かりやすい。
少しして、殿下は低い声で答えました。
「……したい」
その一言に、私は少し胸が温かくなりました。
逃げたい、ではなく。
しなければならない、でもなく。
したい。
殿下自身の気持ちです。
「ですが、不安ですか」
「ああ」
殿下は素直に頷きました。
「昨日、ナリアは嬉しいと言ってくれた」
「はい」
「だが、それは文章として見た場合だ」
「はい」
「僕が実際に言えば、重くなるかもしれない」
「可能性はあります」
「否定しないのだな」
「嘘はつけません」
殿下は少し肩を落としました。
けれど、すぐに心得紙を見ました。
今日の新しい一文が、すでに書かれています。
『誘う前に未来を背負わせない』
とても良い心得です。
殿下が自分で書いたのでしょう。
「殿下、この心得は?」
「昨日の夜に考えた」
「どういう意味ですか」
「お茶に誘うだけなのに、僕の中では勝手にいろいろな未来までつながってしまう」
殿下は、少し恥ずかしそうに視線を落としました。
「ナリアと研究会後にお茶をする。発表の話を聞く。少し普通の話もする。笑ってくれたら嬉しい。次も誘えるかもしれない。いつかもっと――」
「殿下」
「分かっている。そこで止める」
自分で止まりました。
素晴らしいです。
エレナ様が扇の陰で微笑みました。
「殿下、お茶はお茶ですわ」
「分かっている」
「未来への第一歩かもしれませんが、未来そのものではありません」
「……そうだな」
レオン様も淡々と言いました。
「誘いの目的を絞るべきです。今回は、研究会後に短時間、発表の感想を聞く。それだけです」
「それだけ」
「はい」
「それだけにする」
殿下は、心得紙へ書き足しました。
『お茶はお茶』
私は少し笑ってしまいました。
殿下がこちらを見ます。
「笑ったか」
「少し」
「重要だ」
「はい。とても重要です」
笑ってしまいましたが、本当に重要です。
殿下の場合、お茶がすぐ未来や誓約や祝福へ飛びます。
だから、お茶はお茶。
このくらいはっきり書いておく方がいいのです。
「今日は研究会の後に誘う形でよろしいですか?」
私が尋ねると、殿下は深く頷きました。
「ああ」
「研究会の途中で意識しすぎない」
「……難しい」
「分かっています」
「ナリアを見るたびに思い出す」
「見すぎない」
「はい」
「誘う文を頭の中で繰り返しすぎない」
「それはもう遅い」
殿下は真顔で言いました。
かなり繰り返しているようです。
レオン様が静かに助言しました。
「暗唱しすぎると不自然になります。要点だけ覚えてください」
「要点」
「都合がよければ。研究会後に少しお茶。発表について感じたことを聞きたい。無理なら別の機会に」
殿下は復唱しました。
「都合がよければ。研究会後に少しお茶。発表について感じたことを聞きたい。無理なら別の機会に」
「はい。文面通りでなくても、その四点が入れば十分です」
殿下は真剣に頷きました。
その時、扉が叩かれました。
ナリア様です。
殿下の背筋が伸びました。
伸びすぎです。
私は小さく咳払いしました。
「こほん」
殿下は少しだけ姿勢を戻しました。
扉が開きます。
「ごきげんよう」
ナリア様が柔らかく礼をしました。
いつものように整った所作。
けれど、今日は彼女も少し緊張しているように見えました。
もしかすると、昨日の招待文のことを覚えているのかもしれません。
いいえ、覚えていないはずがありません。
あの文を見て「嬉しい」と言ったのです。
ナリア様も、今日何かがあるかもしれないと感じているのでしょう。
殿下は立ち上がりました。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
挨拶は自然です。
少しだけ緊張が混ざっていますが、それも悪くありません。
ナリア様は机の上の資料を見ました。
「今日は、招待文の見直しでしょうか」
「はい」
レオン様が答えます。
「昨日作成した招待状をもとに、受け手側の印象を確認します」
「受け手側……」
ナリア様が少しだけ殿下の方を見ました。
殿下は見返しそうになって、心得紙を見ました。
『お茶はお茶』
今見る心得でしょうか。
でも効いています。
午前の研究会では、まず昨日作った招待状を互いに読み合いました。
殿下の王家主催式典の招待状は、昨日よりさらに整っていました。
形式を崩さず、相手が興味を持っていた古典楽曲の一文を自然に入れています。
ナリア様の茶会招待状は、季節の花、紅茶、無理のない参加への配慮が美しくまとまっていました。
私の閲覧会招待状は少し堅かったので、ナリア様から「資料名だけでなく、なぜその資料を見ていただきたいのかがあると温かくなる」と助言をいただきました。
確かにその通りです。
エレナ様の蜂蜜菓子試食会は、読んだ全員が行きたくなる出来でした。
レオン様の法令確認会は、昨日より少しだけ柔らかくなっていました。
『ご関心があれば、無理のない範囲でご同席ください』
これだけで、かなり進歩です。
エレナ様が拍手しました。
「グラシア様、柔らかくなりましたわ」
「ありがとうございます」
レオン様は淡々と答えました。
「法令確認会にも余白が必要だと理解しました」
「何だか素敵なことのように聞こえますね」
私が言うと、ナリア様が小さく笑いました。
殿下も少し笑っています。
平和です。
とても平和です。
ただし、殿下の内心はおそらく平和ではありません。
研究会後のお茶。
その四文字が、殿下の頭の中で鳴り続けているはずです。
昼休み。
食堂では、招待状の話題が少しずつ広がっていました。
「研究会、今度は招待状を扱っているそうですわ」
「小発表の次は柔らかい題材なのですね」
「感謝や招待の言葉なら、茶会にも役立ちそうです」
「殿下も招待状を書かれたのかしら」
「どなたに向けたものなのか気になりますわね」
最後の言葉に、私は内心で少しだけ慌てました。
もちろん、実作は架空のものです。
しかし殿下の内心は架空だけではありません。
ナリア様を誘う練習をしています。
学園の噂が余計な方向へ行かないよう、気をつけなければなりません。
ナリア様は今日も私たちの席へ来ました。
エレナ様は、昨日より少し落ち着いた蜂蜜菓子を出します。
「本日は、扉の前用ですわ」
「扉の前用?」
ナリア様が首を傾げました。
「招待は扉を開く言葉です。でも扉の前に立つ人は緊張しますから」
ナリア様の頬がほんのり赤くなりました。
昨日の流れを思い出したのでしょう。
「なるほど……」
彼女は蜂蜜菓子を一口食べました。
少しだけ表情が緩みます。
私は迷いましたが、静かに尋ねました。
「ナリア様」
「はい」
「昨日の招待文のこと、気にされていますか?」
ナリア様の手が止まりました。
少しの沈黙。
それから、彼女は小さく頷きました。
「はい」
「重かったですか?」
「いいえ」
すぐに返ってきました。
そして、ナリア様は自分でも少し驚いたように目を伏せました。
「重くは、ありませんでした」
「はい」
「むしろ……」
彼女は言葉を探しました。
顔が赤いです。
「少し、待ってしまっている気がします」
私は、胸の奥が温かくなりました。
エレナ様も扇の陰で静かに微笑んでいます。
「殿下からのお誘いを?」
エレナ様が柔らかく尋ねました。
ナリア様はさらに赤くなりました。
「……はい」
とても小さな返事でした。
けれど、確かに聞こえました。
待っている。
ナリア様が、殿下からの誘いを待っている。
少し前では考えられなかったことです。
殿下の言葉を怖がっていたナリア様が、今は殿下の誘いを待っている。
泣きそうになりました。
もちろん泣きません。
食堂で泣くわけにはいきません。
「殿下には」
私が言いかけると、ナリア様は慌てて首を横に振りました。
「そのままは!」
「はい。言いません」
「絶対に」
「言いません」
これは本当に言えません。
伝えたら殿下が爆発します。
呼吸では間に合いません。
ただ、少しだけ勇気を持てるように、ほどよく支える必要はあります。
難しい。
本当に難しい。
放課後の研究会では、午前に続いて招待文の受け手側の印象を確認しました。
それぞれの文に対して、受け取った場合どう感じるかを話し合います。
ナリア様はとても的確でした。
言葉が少し強い場合。
形式が硬すぎる場合。
相手への配慮が足りない場合。
逆に、遠慮しすぎて招きたい気持ちが薄い場合。
一つずつ丁寧に指摘します。
殿下はそれを真剣に聞いていました。
「招待は、相手に来てほしい気持ちを隠しすぎてもいけないのだな」
「はい」
ナリア様が頷きます。
「断る余地は必要です。でも、来てくださると嬉しい、という気持ちが見えなければ、相手も迷ってしまいます」
殿下は、少しだけ目を伏せました。
「難しい」
「はい」
「断れるようにしながら、来てほしいと伝える」
「そうです」
「……かなり難しい」
ナリア様は、少し笑いました。
「でも殿下は、昨日の文でできていたと思います」
殿下が固まりました。
昨日の文。
研究会後のお茶の文です。
ナリア様の頬も赤くなっています。
学習室に、一瞬だけ甘い緊張が落ちました。
私は咳払いすべきか迷いました。
でも、しませんでした。
ここは二人の言葉です。
殿下は、ゆっくり息を吸いました。
吐きました。
「……ありがとう」
短く返しました。
よくできました。
その後、研究会は少し早めに終わりました。
なぜなら、今日は実践の日だからです。
いえ、そう決まっていたわけではありません。
でも、空気がそうなっていました。
レオン様が資料をまとめ、エレナ様が蜂蜜菓子の包みを片付け、私は活動記録を書きます。
ナリア様は自分の便箋を丁寧に鞄へ入れていました。
殿下は、心得紙を見つめています。
『誘う前に未来を背負わせない』
『お茶はお茶』
『誘いは命令ではない』
『断る余地も渡す』
何度も見ています。
見すぎです。
でも、今は必要なのでしょう。
研究会が終わりました。
いつもなら、ここでそれぞれが帰り支度を始めます。
今日も同じです。
ただし、空気が違います。
殿下が立ち上がりました。
ナリア様も立ち上がります。
私は活動記録に視線を落としたまま、耳だけをそちらへ向けました。
エレナ様も、完全に見守り姿勢です。
レオン様は……記録紙を閉じました。
偉いです。
内部記録にも残さないつもりなのでしょう。
殿下は、ナリア様の前に立ちました。
距離は近すぎません。
いつもの会話の距離です。
けれど、いつもより少しだけ緊張しています。
「ナリア」
「はい」
ナリア様の声も、少し緊張していました。
殿下は息を吸いました。
吐きました。
扉の前で深呼吸するように。
「もし都合がよければ」
言えました。
まず一つ。
「この後、少しお茶をどうだろう」
言えました。
二つ目。
「昨日の発表について、君が感じたことも聞けたら嬉しい」
三つ目。
殿下は一度、言葉を止めました。
ここが大事です。
断る余地。
「無理なら、また別の機会に」
言えました。
全部。
全部、言えました。
重くありません。
冷たくありません。
余白もあります。
私は、活動記録の紙を見たまま、胸の奥で大きく拍手しました。
ナリア様は、少し俯いていました。
頬が赤い。
でも、困っていません。
ゆっくり顔を上げます。
「はい」
小さな声でした。
「時間は、大丈夫です」
殿下が止まりました。
止まりましたが、倒れません。
呼吸。
吸って、吐く。
「ありがとう」
短く言いました。
ナリア様は、少し微笑みました。
「こちらこそ、お誘いありがとうございます」
殿下の顔がさらに赤くなりました。
しかし、ここで未来を背負わせません。
祝福も言いません。
誓約もしません。
ただ、少しだけ嬉しそうに頷きました。
「では、少しだけ」
「はい」
そのやり取りを見届けて、エレナ様が静かに私の袖を引きました。
出ましょう、という合図です。
レオン様もすでに扉へ向かっています。
私は活動記録を閉じ、何も言わずに立ち上がりました。
殿下がこちらを見ます。
少し不安そうです。
私は微笑み、軽く頷きました。
大丈夫です。
もう、ここからは二人で。
咳払いはいりません。
私たちは学習室を出ました。
廊下に出ると、エレナ様が小さく息を吐きました。
「言えましたわね」
「はい」
「綺麗でした」
「はい」
「マリア様、泣きそうですわ」
「泣きません」
「でも?」
「……少しだけ」
エレナ様は優しく笑いました。
レオン様は静かに言いました。
「殿下は、要点をすべて押さえていました」
「そこですか」
「重要です」
確かに重要です。
誘えた。
それも、適切に。
大きすぎない一歩。
でも、とても大切な一歩です。
廊下の窓から、夕方の光が差していました。
校舎の影が長く伸び、中庭の池が淡く輝いています。
きっと今、学習室の中では殿下とナリア様が二人でお茶の準備をしているのでしょう。
何を話すのでしょうか。
発表のこと。
招待状のこと。
蜂蜜菓子のこと。
もしかしたら、少しだけ普通の話もするかもしれません。
それでいい。
お茶はお茶。
でも、そのお茶が二人にとって大切な時間になるなら、それはとても素敵なことです。
私は廊下の窓から池を見ました。
あの池の前で泣いていた殿下が、今はナリア様をお茶に誘いました。
冷たい悪態ではなく、柔らかい余白のある言葉で。
王太子殿下。
今日のあなたは、扉の前で深呼吸し、ちゃんとその扉を開く言葉を渡しました。
未来を背負わせず、命令にせず、けれど来てほしい気持ちを隠しすぎずに。
どうかこの後のお茶の時間も。
急がず、飾りすぎず、ナリア様の言葉を聞いてくださいませ。
その小さなお茶の時間こそ、あなたがずっと願っていた「普通に隣にいる時間」への、静かな一歩なのですから。




