表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
43/77

第43話 王太子殿下、招待状に本音を隠しすぎる



 書いた言葉は、口に出す言葉より安全に見えます。


 何度でも読み返せます。


 余計な言葉を削れます。


 失礼がないか、礼法に沿っているか、相手へ負担をかけていないか、落ち着いて確認できます。


 けれど、書いた言葉にも難しさがあります。


 整えすぎると、本音が見えなくなるのです。


 丁寧すぎて、誰にでも送れる文になってしまう。


 失礼はないけれど、温度もない。


 来てほしいのか、ただ形式として送っているのか、相手に伝わらなくなる。


 招待状とは、ただ扉を開ける文ではありません。


 その扉の向こうに、どんな時間を用意しているのか。


 あなたに来てほしいと思っていることを、相手が重く感じない程度に伝える文なのです。


 そして本日のアルノルド殿下は。


 その本音を隠しすぎて、完璧すぎる招待状を書いていました。


 開放学習室の机の上には、白い便箋が何枚も並んでいます。


 今日の研究会は、前回決めた通り「招待状の実作」です。


 架空の茶会や閲覧会、試食会などを題材にして、それぞれ招待文を作ることになっていました。


 殿下は、王家主催の小規模式典への招待文。


 ナリア様は、礼法研究会向けの茶会招待状。


 私は、王国史資料の閲覧会。


 エレナ様は、蜂蜜菓子試食会。


 レオン様は、法令確認会。


 ……法令確認会に誰を招待するのか、少し気になります。


 ですが、レオン様は真面目です。


 きっと本気で良い招待状を書いてくるのでしょう。


「招待状で大切なのは、形式、目的、相手への配慮、そして余白です」


 ナリア様が資料を見ながら説明しました。


「余白」


 殿下が復唱します。


「はい。来ていただけたら嬉しい、けれど無理はなさらないでください、という余白です」


 殿下は心得紙に目を落としました。


『誘いは命令ではない』

『誘いは長さではなく余白』

『歓迎は負担にしない』

『断る余地も渡す』


 もう招待心得だけでも十分な量です。


 さらに今日、殿下は新しく書き足しました。


『整えすぎて冷たくしない』


 私は頷きました。


「殿下、本日の重要課題です」


「分かっている」


 殿下は真剣でした。


「昨日、招待は余白が必要だと学んだ」


「はい」


「だが、余白ばかり意識すると、形式的になりすぎる気がする」


「その通りです」


 エレナ様が扇を閉じました。


「誘いの言葉には温度も必要ですわ。熱すぎると火傷しますが、冷たすぎると扉を開ける気になりませんもの」


「温度」


 ナリア様が柔らかく頷きます。


「はい。温度はとても大切です」


 殿下はナリア様を見ました。


 見すぎではありません。


 学んでいます。


「ナリアは、どのような招待状が温かいと感じる?」


 自然な質問です。


 ナリア様は少し考えました。


「そうですね……」


 窓から入る午前の光が、彼女の横顔をやわらかく照らしていました。


「相手が、自分のために少しだけ考えてくださったと分かる文でしょうか」


「自分のために」


「はい。たとえば、ただ『茶会を開きます』ではなく、『以前お話ししていた紅茶をご用意しました』とか、『お好きだと伺った季節の花が咲きました』とか」


 殿下の目が、わずかに見開かれました。


「相手を覚えていることが伝わる文」


「はい」


 ナリア様は少し照れたように笑いました。


「大げさではなくていいのです。ただ、私を思い浮かべてくださったのだなと分かると、嬉しいと思います」


 殿下が止まりました。


 危険です。


 非常に危険です。


 いま殿下の頭の中では、「ナリアを思い浮かべる」から先が大変なことになっているはずです。


 私は心得紙をそっと指しました。


 殿下はそれを見ました。


『整えすぎて冷たくしない』

『歓迎は負担にしない』

『祝福と言わない』


 最後は関係ないはずですが、まだ効いています。


 殿下は呼吸しました。


「……参考になる」


 短い。


 よく耐えました。


 ナリア様は嬉しそうに微笑みました。


「お役に立てたなら、よかったです」


 殿下の耳が赤くなりました。


 でも崩れません。


 成長しています。


 午前の授業中、私は招待状のことを考えていました。


 誰かを招く文には、相手との距離が出ます。


 遠い相手には、形式を厚く。


 近い相手には、少し温度を。


 けれど近すぎる温度は、受け手を困らせる。


 殿下とナリア様は、今ちょうどその距離を測っている途中です。


 親しすぎるわけではない。


 けれど、もう遠すぎるわけでもない。


 礼法を守りながら、少し温かい言葉を渡せる距離。


 それは恋の距離として、とても大切な段階なのかもしれません。


 昼休み。


 食堂では、研究会の題材がまた少し噂になっていました。


「招待状の実作ですって」

「実用的ですわね」

「でも王太子殿下が招待状を書く練習をされるなんて、不思議ですわ」

「ナリア様の礼法指導なら安心ですわ」

「ルイート様たちの研究会、どんどん本格的になっていますわね」


 研究会が本格的。


 その言葉を聞くたびに、私は少しむずむずします。


 始まりは池に落ちた殿下の恋愛相談です。


 でも、今は本当に研究会らしくなっています。


 そしてその中で、殿下の恋も少しずつ形を変えています。


 ナリア様は、今日も私たちの席へ来ました。


 エレナ様は華やかな香りの蜂蜜菓子を出します。


「本日は招待状実作用ですわ」


「昨日の招待用とは違うのですか?」


 ナリア様が尋ねると、エレナ様は当然のように頷きました。


「昨日は誘う勇気用。今日は書く温度用です」


「書く温度用……」


 私は思わず繰り返しました。


 意味は分かるような、分からないような。


 でも、食べてみると確かに昨日より少し落ち着いた華やかさでした。


 悔しいですが、書く温度用です。


「ナリア様」


 私は尋ねました。


「殿下が招待状を書くとしたら、どこに気をつけるべきだと思われますか?」


 ナリア様は少し驚き、それから真面目に考えました。


「殿下の場合は……」


 少し頬が赤いです。


「丁寧すぎるか、重くなりすぎるか、どちらかかもしれません」


 かなり正確です。


 私は頷きました。


「はい。おそらく」


 エレナ様も微笑みます。


「ナリア様、よくお分かりですわ」


「い、いえ。最近の殿下を見ていると、そう感じるだけで」


 最近の殿下。


 ナリア様の中にも、そういう認識が育っています。


 以前の殿下ではなく、最近の殿下。


 言葉を選び、心得紙を見て、呼吸し、待ち、感謝し、誘いで固まる殿下。


 ナリア様は、その殿下をちゃんと見ています。


「ナリア様は、殿下からの招待状を受け取るなら、どんなものが嬉しいですか?」


 エレナ様が、さらりと聞きました。


 攻めます。


 今日も攻めます。


 ナリア様は一瞬で真っ赤になりました。


「えっ」


「研究ですわ」


「け、研究……」


「はい。実用的な意見として」


 ナリア様は蜂蜜菓子を見つめ、しばらく黙りました。


 そして、小さな声で言いました。


「形式は、きちんとしている方が安心します」


「はい」


「でも、少しだけ……殿下ご自身の言葉があると、嬉しいかもしれません」


「殿下ご自身の言葉」


「はい。全部が儀礼文ですと、私でなくてもよいのかなと思ってしまいますので」


 私はその言葉を大切に受け取りました。


 これは殿下に伝えるべきです。


 ただし、ほどよく。


 非常にほどよく。


 放課後。


 開放学習室では、招待状の実作が始まりました。


 まずは全員がそれぞれの題材で下書きをします。


 静かな時間でした。


 紙にペンが走る音。


 窓の外の風。


 遠くから聞こえる生徒たちの声。


 机の上には蜂蜜菓子と紅茶。


 研究会らしい、穏やかな時間です。


 私は王国史資料閲覧会の招待状を書きました。


 内容は無難です。


 相手が興味を持ってくれそうな資料名を一つ入れ、無理のない参加を促す文にしました。


 エレナ様は蜂蜜菓子試食会の招待状を書いています。


 やたら楽しそうです。


 レオン様の法令確認会は、驚くほど堅実でした。


 日時、目的、持参物、確認範囲。


 完全に業務連絡です。


 ですが、最後に「ご関心があれば」と添えられており、最低限の余白はありました。


 さすがです。


 ナリア様の茶会招待状は、とても美しいものでした。


 形式を守りながら、季節の花と紅茶の香りが自然に浮かぶ文。


 読んだ相手が、行ってみたいと思える温度があります。


 問題は、殿下です。


 殿下の便箋は、非常に整っていました。


 字は美しい。


 構成も完璧。


 礼法上の誤りもおそらくありません。


 しかし。


 冷たい。


 まるで王家の公式通達です。


「殿下」


「はい」


「大変整っています」


「そうか」


「ですが、少し冷たいです」


 殿下が固まりました。


 ナリア様も便箋を覗き込み、少しだけ困ったように微笑みました。


「確かに、正式な式典のご案内としては完璧です」


「しかし?」


 殿下が尋ねます。


 ナリア様は少し言葉を選びました。


「どなたに向けても同じように読めるかもしれません」


 殿下は、深く刺さった顔をしました。


「どなたに向けても……」


「すみません」


「いや。重要な指摘だ」


 殿下は心得紙を見ました。


『整えすぎて冷たくしない』


 まさに、これです。


 私は昼休みのナリア様の言葉を、慎重に伝えました。


「殿下。招待状には、形式だけでなく、相手を思い浮かべた一文があると温度が出ます」


「相手を思い浮かべた一文」


「はい。ただし重すぎないものです」


「重すぎない」


「たとえば、王家主催の式典なら『以前ご関心を示されていた庭園の楽団演奏も予定しております』のように」


 ナリア様が頷きました。


「そうですね。相手が興味を持っていたものを一つ添えると、招待が少し個人へ向きます」


 殿下は真剣に考え始めました。


 そして、書き直します。


 しばらくして差し出された二稿目には、こうありました。


『当日は、先日ご興味を示されていた古典楽曲の演奏も予定しております。ご都合が合いましたら、どうぞ無理のない範囲でお越しください』


 良いです。


 とても良いです。


 形式の中に、相手を覚えている温度があります。


 ナリア様も微笑みました。


「こちらの方が、ずっと温かいです」


 殿下の顔が赤くなりました。


「そうか」


「はい。招かれている感じがします」


 殿下は嬉しそうです。


 しかし、浮かれません。


 心得紙を見ます。


 呼吸。


 できています。


「ありがとう。君の助言のおかげだ」


 ナリア様の頬も赤くなりました。


「お役に立てて嬉しいです」


 よろしい。


 とてもよろしい。


 次に、口頭での誘いを文章にする練習をしました。


 つまり、親しい相手へ短い招待文を書く練習です。


 ここで殿下がまた危うくなりました。


 題材は「研究会後のお茶」。


 昨日練習したものです。


 殿下は便箋を前にして、長く固まっていました。


 私はそっと声をかけました。


「殿下」


「難しい」


「はい」


「書面にすると、余計に重くなる」


「分かります」


「短すぎると冷たくなる」


「はい」


「長くすると重くなる」


「その通りです」


「どうすればいい」


 殿下は本気で困っていました。


 ナリア様も少し頬を赤くしながら、しかし真剣に考えています。


 エレナ様が楽しそうに言いました。


「では、まず殿下が素直に書いてみましょう」


「危険ではないか」


「危険ですわ」


「なぜ提案した」


「削るためです」


 なるほど。


 まず本音を書き、それから削る。


 良い方法かもしれません。


 殿下は覚悟を決めたようにペンを取りました。


 書きます。


 かなり長く書いています。


 嫌な予感がします。


 やがて、殿下は紙を差し出しました。


 私は読みました。


 そして、一度目を閉じました。


 重い。


 とても重い。


 内容は、研究会でナリア様と過ごす時間がどれほど自分にとって大切か、昨日の問いがどれほど心に残ったか、もし許されるなら少しでもその言葉の続きを聞きたい、というものです。


 悪くはありません。


 むしろ美しい。


 ですが、招待状ではありません。


 告白の下書きです。


 私は静かに言いました。


「殿下」


「はい」


「これは招待状ではありません」


「……そうか」


「かなり告白に近いです」


 殿下の顔が真っ赤になりました。


 ナリア様も真っ赤です。


 まだ内容は見せていません。


 見せられません。


 エレナ様が扇で口元を隠しています。


 レオン様は記録しようとして、私に止められました。


 これは記録してはいけません。


 さすがに。


「削りましょう」


 私は言いました。


「はい……」


 殿下はしょんぼりしました。


 しかし、落ち込みすぎません。


 削る前提だと分かっているからでしょう。


 私たちは、その重すぎる文章から要素を拾いました。


 研究会後に少し話したい。


 昨日の発表について、ナリア様の感想も聞きたい。


 無理なら別の日でよい。


 この三つで十分です。


 すると、文はこうなりました。


『もし都合がよければ、研究会後に少しお茶をどうだろう。昨日の発表について、君の感じたことも聞けたら嬉しい。無理なら、また別の機会に』


 静かになりました。


 全員が、その文を見ました。


 良い。


 これは良いです。


 短く、温度があり、余白もある。


 ナリア様は、顔を赤くしたまま、そっと言いました。


「……私は、こちらの文なら嬉しいです」


 殿下が完全に停止しました。


 私はすぐに言いました。


「殿下、呼吸です」


 殿下は吸いました。


 吐きました。


 もう一度吸って、吐きました。


「嬉しい……」


 小さく呟きました。


 かなり危険です。


 でも、今日は崩れませんでした。


「ありがとう」


 短く返しました。


 ナリア様も赤い顔で頷きました。


「はい」


 エレナ様が満足そうに言いました。


「では、殿下。いずれ実際にこのくらいの温度でお誘いしましょう」


 殿下は真剣に頷きました。


「いずれ」


 ナリア様は俯いています。


 けれど、嫌そうではありません。


 むしろ、どこか待っているようにも見えました。


 私はそのことには触れませんでした。


 触れたら二人とも大変です。


 研究会の終盤、それぞれの招待状を清書しました。


 殿下の式典招待状は、二稿目をもとに美しく整えられました。


 ナリア様の茶会招待状は、季節の花と紅茶の香りが伝わる素敵な文です。


 私の閲覧会招待状は、少し堅いですが実用的。


 エレナ様の蜂蜜菓子試食会は、読んだだけで行きたくなります。


 レオン様の法令確認会は、やはり業務連絡でした。


 しかし最後に「ご都合が合えば、無理のない範囲で」とあり、成長を感じました。


 ……何の成長でしょうか。


 帰り道。


 校舎を出ると、夕方の空は淡い橙色でした。


 中庭の池に、その色が静かに映っています。


 殿下とナリア様は、少し前を並んで歩いていました。


 今日はいつもより沈黙が多いです。


 ただ、その沈黙は気まずいものではありません。


 照れです。


 明らかに照れです。


 研究会後のお茶。


 まだ実際には誘っていません。


 けれど、言葉はもう生まれました。


 いつか、それが本当に渡される日が来るのでしょう。


 エレナ様が隣で言いました。


「今日の殿下、かなり頑張りましたわね」


「はい」


「重すぎる文章から、よく削れました」


「はい」


「ナリア様も、嬉しいと言えました」


「はい」


「もう、準備はできつつありますわね」


 私は前を歩く二人を見ました。


 少し離れた距離。


 並んだ歩幅。


 言葉にならない照れ。


「そうですね」


 私は静かに答えました。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、招待状に本音を隠しすぎ、そして一度は本音を乗せすぎました。


 けれど、そこから削り、整え、ナリア様が受け取れる温度の言葉を見つけることができました。


 どうかいつか本当に誘う時も。


 完璧な儀礼文でも、重すぎる告白でもなく、あなたらしい温度のある短い言葉を渡してくださいませ。


 その招待状の扉は、きっともう少しで、ナリア様の前に静かに開かれるのですから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ