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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第41話 王太子殿下、感謝を飾りすぎない



 感謝の言葉は、簡単なようで難しいものです。


 ありがとう。


 たった五文字。


 それだけで伝わることもあります。


 けれど、相手が大切であればあるほど、人はそこに多くを乗せたくなります。


 どれほど救われたか。

 どれほど嬉しかったか。

 どれほど自分にとって意味があったか。


 その全部を伝えたくなる。


 けれど、乗せすぎた感謝は、時に相手の肩へ重く落ちます。


 受け取ってほしいのに、受け取りきれないほど飾ってしまう。


 だから、感謝もまた整えなければなりません。


 小発表を終えて数日。


 アルスード学園には、少し柔らかな日常が戻り始めていました。


 廊下では、まだ発表の話をする生徒がいます。


「王国史礼法研究会、次も発表するのかしら」

「昨日、先生が活動記録を褒めていらしたそうですわ」

「ナリア様のお言葉、まだ覚えています」

「殿下も、本当に変わられましたわね」

「ルイート様たちの研究会、少し参加してみたいですわ」


 ありがたい声です。


 とてもありがたい。


 しかし、参加希望者が増えるとなると、それはそれで問題があります。


 王国史礼法研究会は、まだ五人でようやく形を保っている会です。


 いきなり人数が増えれば、殿下の呼吸訓練……いえ、研究会運営に支障が出る可能性があります。


 表向きには言えませんが。


 朝の開放学習室では、その話し合いが行われていました。


「参加希望者については、しばらく見学のみで対応するのがよいでしょう」


 レオン様が淡々と言いました。


「正式加入はまだ早いと?」


 殿下が尋ねます。


「はい。活動方針が安定していません」


「確かに」


 私は頷きました。


「それに、人数が増えると議論より講義形式になりやすいです」


 エレナ様が扇を開きながら言いました。


「あと、蜂蜜菓子の数も足りませんわ」


「それは重要なのですか?」


 私が尋ねると、エレナ様は当然のように頷きました。


「非常に」


 ナリア様が小さく笑いました。


「バートン様らしい理由ですね」


「菓子は空気を整えますもの」


 最近、それを否定できなくなっています。


 実際、どれほど蜂蜜菓子に助けられたか分かりません。


 殿下も、真面目に頷いていました。


「菓子の準備も含めて、会の規模を考える必要があるな」


 王太子殿下が蜂蜜菓子の運用まで考え始めました。


 研究会はどこへ向かっているのでしょう。


 ですが、平和です。


 少なくとも、以前のような刺々しさはありません。


 その日の議題は、次の研究テーマについてでした。


 小発表では、言葉が傷つけた後の向き合い方を扱いました。


 重い題材です。


 だから次は、少し柔らかいものにしようという話になっています。


 候補は、感謝と招待の言葉。


 式典後の礼状。

 茶会の招待状。

 贈り物に添える短い文。

 祝いの言葉。


 これなら、重さだけでなく温かさも扱えます。


「感謝の言葉か」


 殿下が少し考え込みました。


 私はすぐに察しました。


 危険です。


 殿下にとって、ナリア様への感謝は常に重くなりやすい。


 昨日の発表後も、何度も「ありがとう」と言っていましたが、かなり慎重に抑えていました。


 ここで研究テーマとして感謝を扱うと、殿下の中に眠る重い表現が刺激される可能性があります。


 私は心得紙を指しました。


「殿下。本日の課題は、感謝を飾りすぎないことです」


 殿下は真剣に頷きました。


「分かっている」


 そして新しい一文を書き足しました。


『感謝を飾りすぎない』


 エレナ様がにこにこしています。


「殿下、たとえばどんな感謝が重いと思いますか?」


「なぜ試す」


「確認ですわ」


 殿下は少し考えました。


「君の言葉が僕の未来を照らした」


「重いです」


 私とレオン様が同時に言いました。


 ナリア様はきょとんとしています。


 殿下の顔が赤くなりました。


「例だ」


「例でも危険です」


「では、君のおかげで昨日の僕は立てた」


 エレナ様が首を傾げました。


「少し重いですが、状況によっては許容範囲ですわ」


 私は言いました。


「ただ、毎回言うと重いです」


 レオン様も頷きます。


「頻度が問題です」


 殿下は真面目に記録しました。


『重さは内容だけでなく頻度』


 もう本当に、この心得紙は恋愛教育資料として使えるのではないでしょうか。


 ナリア様がその文字を見て、少しだけ笑いました。


「殿下の心得紙、どんどん増えますね」


「必要だからな」


「でも、殿下がそうやって考えてくださることは……嬉しいです」


 殿下の手が止まりました。


 来ました。


 ナリア様の不意打ちです。


 殿下は顔を赤くしましたが、心得紙を見て呼吸します。


「……ありがとう」


 短いです。


 よくできました。


 ナリア様も、柔らかく微笑みました。


 午前の授業の間、私は感謝について考えていました。


 私自身、感謝を受け取るのはあまり得意ではありません。


 殿下から「君のおかげだ」と言われるたびに、つい「私は巻き込まれただけです」と返してしまいます。


 それは本音でもあります。


 でも、それだけではないことも、もう分かっています。


 私はこの研究会を大切に思っています。


 殿下とナリア様が少しずつ並んでいく姿を見るのが嬉しい。


 エレナ様の蜂蜜菓子に救われ、レオン様の冷静さに助けられ、ナリア様の強さに胸を打たれ、殿下の成長に少し感動する。


 だから感謝されると、照れます。


 照れるから、逃げたくなる。


 感謝する側だけでなく、受け取る側にも練習が必要なのかもしれません。


 昼休み。


 食堂では、柔らかい話題が増えていました。


 発表の重い余韻が、少しずつ日常に混ざっています。


「次の研究会の題材、感謝の言葉らしいですわ」

「それなら聞いてみたいです」

「招待状の書き方など、役に立ちそうですわね」

「殿下が感謝について話されるのかしら」

「ナリア様の礼法解説も素敵でしょうね」


 殿下が感謝について話す。


 その言葉だけで少し不安になります。


 いえ、もちろん成長しています。


 ですが、題材が題材です。


 慎重に進めなければなりません。


 ナリア様は、今日も私たちの席へ来てくださいました。


 エレナ様が今日の蜂蜜菓子を出します。


「本日は感謝用ですわ」


「感謝用とは?」


 ナリア様が楽しそうに尋ねます。


「受け取った時に、少しだけ温かさが残る甘さです」


「素敵ですね」


「でしょう?」


 エレナ様は満足そうです。


 ナリア様は一つ口に入れ、柔らかく微笑みました。


「本当に、温かい感じがします」


「それはよかったですわ」


 私はナリア様へ言いました。


「次の題材、ナリア様はどう思われますか?」


「感謝と招待の言葉、ですよね」


「はい」


「良いと思います。前回は、言葉が傷つけた後にどう向き合うかでした。次は、言葉で関係を温める話ができたら嬉しいです」


 関係を温める。


 とてもナリア様らしい表現でした。


「殿下にも、ちょうど良い練習になりそうです」


 エレナ様が言うと、ナリア様は少し不思議そうにしました。


「殿下の練習?」


「感謝を重くしすぎない練習ですわ」


 ナリア様は一瞬考え、それから頬を赤くしました。


「殿下は……感謝を重くされるのですか?」


 私は正直に答えました。


「される可能性があります」


「可能性」


「かなり」


 エレナ様が微笑みました。


「ナリア様へ向ける感謝は、特に」


 ナリア様の顔がさらに赤くなります。


「そ、そうなのですね」


「なので、ナリア様からも、重すぎた時は重いと伝えていただけると助かります」


「私が?」


「はい」


 ナリア様は少し考えました。


 以前なら、殿下に対して「重い」と言うなど、とてもできなかったでしょう。


 けれど今のナリア様は、少しずつ自分の言葉を持っています。


 彼女は小さく頷きました。


「分かりました。伝えられるようにします」


 頼もしいです。


 とても頼もしい。


 放課後の研究会では、感謝の言葉についての基礎資料を読みました。


 今日から重い事件の話ではなく、少し柔らかい題材です。


 学習室の空気も、どこか穏やかでした。


 レオン様が資料を読み上げます。


「礼状における感謝の表現は、相手の行為を具体的に認めることが重要です。ただ美辞麗句を並べるのではなく、何に対する感謝なのかを明確にする」


 殿下が頷きました。


「具体的に」


「はい」


 ナリア様が続けます。


「たとえば『ご厚情に深く感謝いたします』だけでは形式的です。『雨の中お越しいただき』や『準備にお力添えいただき』のように、相手の行いを具体的に入れると、感謝が伝わりやすくなります」


「なるほど」


 殿下は真剣に聞いていました。


「感謝を大きくするのではなく、具体的にする」


「はい」


 ナリア様が微笑みました。


「飾りすぎず、何が嬉しかったのかを伝えるのです」


 殿下が心得紙を見ました。


 そして書き足します。


『感謝は大きくではなく具体的に』


 良いです。


 これはかなり良い学びです。


 エレナ様が楽しそうに言いました。


「では殿下、昨日の発表について、ナリア様へ感謝を具体的に伝えてみてはいかがです?」


 殿下が固まりました。


 ナリア様も固まりました。


 私も少し固まりました。


 エレナ様、攻めますね。


 けれど、確かに良い練習です。


 殿下は真っ赤になりながらも、逃げませんでした。


 心得紙を見ます。


 呼吸します。


「……やってみる」


 ナリア様は少し緊張したように背筋を伸ばしました。


 殿下は、ゆっくり言葉を探しました。


「ナリア」


「はい」


「昨日の発表で、最後の問いを君が残してくれたことに感謝している」


 声は少し硬い。


 けれど、重すぎません。


「僕が最後までまとめていたら、きっと答えを押しつける形になっていた。君の問いがあったから、聞いた人が自分で考える余白を持てた」


 ナリア様の瞳が揺れました。


 殿下は一度、言葉を止めました。


 続けすぎないためでしょう。


 そして、最後に短く言いました。


「ありがとう」


 学習室が静かになりました。


 良い感謝です。


 具体的で、重すぎず、ちゃんと届く。


 ナリア様の頬は赤くなっていました。


 けれど、困ってはいません。


「……受け取ります」


 ナリア様は小さく言いました。


「私も、殿下が最後を急がず待ってくださったことに感謝しています。殿下が待ってくださったので、私は問いを残せました」


 殿下の顔がさらに赤くなりました。


 ですが、逃げません。


「ありがとう」


 また短い感謝。


 今度は殿下が受け取る番です。


 私は、そのやり取りを見ながら胸が温かくなりました。


 感謝を伝える。


 感謝を受け取る。


 それを二人が、正面からできるようになっている。


 エレナ様が満足そうに頷きました。


「素晴らしいですわ。とても良い感謝の実践でした」


 レオン様も記録しています。


「感謝表現実践。殿下、具体性あり。過剰表現なし。ナリア様、受け取りと返礼良好」


「それを活動記録に書くのですか?」


 殿下が慌てました。


「内部記録です」


「それでも恥ずかしい」


「必要です」


 レオン様は揺るぎません。


 研究会はその後、感謝の言葉をいくつか作る練習に入りました。


 茶会に招かれた後の礼状。


 資料提供への感謝。


 発表見学者への御礼。


 それぞれについて、形式的な文と具体的な文を比較します。


 ナリア様は礼法の観点から、過度な美辞麗句を避ける必要を説明しました。


 殿下は王家側の感謝表現について、相手の功績をきちんと記録に残すことの意味を話しました。


 私が歴史上の礼状例を出し、エレナ様が表現を柔らかく整え、レオン様が法的な失礼に当たらない範囲を確認する。


 とても研究会らしい時間でした。


 恋愛相談ではありません。


 少なくとも表面上は。


 ですが、その中で殿下とナリア様は確実に言葉を交わしていました。


 感謝を大きく飾らず、具体的に。


 相手が受け取りやすい形で。


 今日の終盤、ナリア様がふと殿下へ尋ねました。


「殿下は、感謝されるのは得意ですか?」


 殿下は少し驚いた顔をしました。


「得意ではないかもしれない」


「殿下でも?」


「ああ。王太子として感謝されることは多い。だが、それは僕個人への感謝とは少し違う」


 ナリア様は静かに聞いています。


「最近、君や皆から感謝されると、どう受け取ればいいか分からない時がある」


「そうなのですね」


「嬉しい。だが、照れる。重く返したくなる」


 正直です。


 とても正直です。


 ナリア様は少し笑いました。


「では、私と同じです」


「同じ?」


「はい。私も、殿下から感謝されると嬉しいですが、少し照れます。どう返せばよいか分からなくなることがあります」


 殿下は、少しだけ目を見開きました。


 それから、柔らかく笑いました。


「同じか」


「はい」


「なら、少しずつ慣れよう」


 ナリア様の頬が赤くなりました。


「はい。少しずつ」


 もう何度も出てきた言葉です。


 少しずつ。


 でも、今日のそれは、とても穏やかでした。


 研究会が終わる頃、エレナ様が次回の蜂蜜菓子について真剣に考え始めていました。


「招待状の言葉を扱うなら、次は少し華やかな甘さが必要ですわね」


「本当に毎回変えるのですね」


 私が言うと、エレナ様は当然の顔です。


「招待には期待感が必要ですから」


 レオン様が静かに記録しました。


「次回議題、招待状。関連菓子、華やかな甘さ」


「そこも記録するのですか」


「研究会運営上、必要かと」


 必要でしょうか。


 でも、もう誰も止めません。


 殿下もナリア様も笑っています。


 その光景が、何だかとても平和でした。


 帰り道。


 校舎を出ると、夕方の空は薄い桃色でした。


 中庭の池に、その色がぼんやり映っています。


 風は穏やかで、花壇の花も静かに揺れていました。


 殿下とナリア様は、少し前を並んで歩いています。


 今日は何か短く話して、二人とも少し照れていました。


 たぶん、感謝の話の続きでしょう。


 エレナ様が隣で言いました。


「今日は、感謝が上手にできましたわね」


「はい」


「殿下、重くしすぎませんでした」


「はい」


「ナリア様も、受け取って返せました」


「はい」


「もう、かなり二人で進めていますわね」


 私は少し考えました。


 以前なら、その言葉に寂しさが強く出たかもしれません。


 でも今日は、穏やかに頷けました。


「はい」


 エレナ様が優しく笑いました。


「安心の方が勝っていますね」


「そうですね」


 私は池を見つめました。


 ここから始まった相談役の役目は、少しずつ形を変えています。


 咳払い係ではなく。


 言葉の橋渡しだけでもなく。


 同じ研究会の一員として、二人が選ぶ言葉を見守る役へ。


 それでいいのだと思いました。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、感謝を飾りすぎずに伝えました。


 大きな言葉で包むのではなく、何が嬉しかったのかを具体的に伝え、ナリア様の感謝も受け取ることができました。


 どうか明日も。


 ありがとうを重くしすぎず、けれど軽く流さず、相手が受け取れる形で渡してくださいませ。


 その小さな感謝の積み重ねが、きっとナリア様との距離を、急がず静かに温めていくのですから。

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