第40話 王太子殿下、拍手の後を歩く
拍手を受けた翌日ほど、気をつけなければならない日があります。
うまくいった。
届いた。
褒められた。
そう感じた後、人は少し浮きます。
もちろん、それは悪いことではありません。
努力が報われたのなら、嬉しくて当然です。
怖いまま逃げずに立ったのなら、誇ってよいのです。
けれど、その喜びを抱えたまま足元を見ずに歩けば、せっかく積み重ねたものを踏み外してしまうことがあります。
ですから、拍手の後こそ丁寧に。
褒められた後こそ慎重に。
終わった後こそ、次の一歩を急がない。
小発表の翌朝、開放学習室の机の上には、また新しい心得が増えていました。
『拍手の後に走らない』
アルノルド殿下の字です。
相変わらず美しい字でした。
内容は、相変わらず切実です。
私はその一文を見て、静かに頷きました。
「殿下、非常に大事です」
「分かっている」
殿下は真剣でした。
昨日、小講義室での発表は無事に終わりました。
見学者二十九名。
教師二名。
拍手あり。
反応良好。
レオン様の活動記録ではそうまとめられています。
実際、反応はとても良かったのです。
見学者たちは真剣に聞き、発表後には多くの生徒が礼を述べてくれました。
ナリア様の最後の問いが胸に残ったという声もありました。
殿下の言葉が以前より近く感じられたという声もありました。
ベアトリス様も見学に来て、最後の問いを考えると言ってくださいました。
大きな失敗はありません。
むしろ、初回としては十分すぎるほどの成功です。
だからこそ、今日は危険です。
殿下は喜んでいます。
かなり喜んでいます。
ただ、その喜びを慎重に抱えようとしている。
それが分かるだけでも、本当に成長しました。
以前なら、小講義室の拍手を思い出して一晩中眠れず、翌朝ナリア様へ重すぎる感謝と感動を並べていた可能性があります。
たとえば。
『君の問いが小講義室の空気を変えた』
ここまではまだよい。
『僕の心もまた、君の言葉によって救われた』
少し重い。
『あの拍手は、君と共に歩む未来への祝福のようだった』
完全に危険です。
言いかねません。
ですので、先手を打つ必要があります。
「殿下」
「はい」
「昨日の発表について、ナリア様へ感謝を伝えるのはよいです」
「はい」
「ですが、拍手や未来や祝福などの言葉を絡めてはいけません」
殿下は一瞬だけ止まりました。
私は見逃しません。
「思いましたね?」
「……少し」
レオン様が即座に記録しました。
「重すぎる表現候補、追加」
「レオン、今日は記録しなくていい」
「必要です」
エレナ様は扇の陰で楽しそうに笑っています。
「殿下、今日はとにかく短くですわ」
「短く」
「はい。『昨日はありがとう。君の問いが届いていたと思う』くらいです」
殿下は復唱しました。
「昨日はありがとう。君の問いが届いていたと思う」
「はい」
「その後は?」
「ナリア様の反応を待ってください」
「待つ」
「はい」
「感動を追加しない」
「はい」
「未来を語らない」
「はい」
「祝福も言わない」
「絶対に」
殿下は真剣に頷きました。
そして心得紙に書き足しました。
『祝福と言わない』
ここまで具体的に書かなければならない王太子殿下。
大変ですが、嫌いではありません。
むしろ、ここまで自分の危険性を把握しているのは立派です。
ナリア様が少し遅れて入室しました。
昨日の疲れが少し残っているようでしたが、表情は穏やかです。
殿下は立ち上がりました。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
いつもの挨拶です。
けれど今日は、その後に少しだけ間がありました。
殿下は息を吸いました。
吐きました。
そして、練習通りに言いました。
「昨日はありがとう。君の問いが、きちんと届いていたと思う」
良いです。
とても良いです。
短く、温かく、重すぎません。
ナリア様の頬が、ふわりと赤くなりました。
「ありがとうございます。私も……殿下のお言葉が、皆様に届いていたと思います」
殿下の顔が赤くなりました。
危険。
しかし、心得紙が目の前にあります。
『拍手の後に走らない』
『祝福と言わない』
殿下は呼吸しました。
「ありがとう」
それだけ。
耐えました。
エレナ様が机の下で何かしました。
たぶん親指です。
レオン様も静かに頷いています。
私は心の中で大きく拍手しました。
昨日の拍手より小さいですが、気持ちは大きいです。
その後、研究会では発表の振り返りを行いました。
レオン様が活動記録を読み上げます。
「王国史礼法研究会第一回小発表。見学者二十九名、教師二名。発表内容は、王国式典における誓約文と言葉の扱いについて。導入、王国史事例、法的補足、礼法解説、王家側の責務、締めの問い。発表後、見学者より好意的反応多数」
「好意的反応多数……」
ナリア様が少し恥ずかしそうに呟きました。
レオン様は真面目に頷きます。
「はい。記録として適切です」
エレナ様がにこりと笑いました。
「ナリア様の最後の問いについては、特に反応が多かったですわね」
ナリア様はさらに赤くなりました。
「そ、そうでしたね」
殿下が何か言いかけました。
私は見ました。
殿下は止まりました。
よろしい。
そして、少しだけ言葉を整えてから言いました。
「君の問いは、答えを押しつけなかったから届いたのだと思う」
ナリア様が殿下を見ました。
「押しつけなかったから……」
「ああ。聞いた人が、自分の言葉を考える時間があった」
殿下の声は落ち着いていました。
「僕一人では、あの締めにはできなかった」
少し踏み込みました。
でも、自然です。
ナリア様の瞳が揺れました。
「私も、殿下が最後を待ってくださらなければ、あの問いを残せませんでした」
二人の間に、短い沈黙が落ちました。
温かい沈黙です。
私は咳払いしませんでした。
必要ありません。
エレナ様も、静かに見守っています。
レオン様は記録紙に何か書いていますが、たぶん研究会の記録ではありません。
殿下の成長記録でしょう。
午前の授業が始まると、昨日の発表について学園内でさまざまな声が聞こえてきました。
「昨日の発表、思ったよりずっと良かったですわ」
「ナリア様の最後の問い、帰ってからも考えてしまいました」
「殿下のお言葉も、以前の式典より近く感じましたわ」
「ルイート様の歴史事例も分かりやすかったです」
「グラシア様の補足、淡々としていて聞きやすかったですわ」
「バートン様の資料、とても見やすかったです」
「次回があればまた聞きたいですわね」
次回。
その言葉に、私は少しだけ足を止めそうになりました。
第一回が終わったばかりです。
もう次回の話が出ています。
嬉しい。
とても嬉しい。
ですが同時に、研究会はこれからも続いていくのだと実感しました。
昨日の発表は終わりではありません。
むしろ、正式研究会としての始まりです。
殿下とナリア様の関係も同じです。
小発表を成功させたからといって、すべて解決したわけではありません。
殿下はまだ、好きだと伝えていません。
ナリア様も、殿下への信頼を育てている途中です。
ベアトリス様との関係も、完全に整ったわけではありません。
セシリア様やイレーヌ様のことも、まだ残っています。
けれど、昨日の発表によって、確かに一つの段階を越えました。
昼休み。
食堂では、研究会の話題があちらこちらで聞こえました。
ナリア様は、少し照れた様子で私たちの席に来ました。
エレナ様が当然のように蜂蜜菓子を差し出します。
「本日は、発表後用ですわ」
「発表後にもあるのですね」
ナリア様が笑います。
「もちろんです。達成感で浮きすぎず、疲れを沈めすぎない配合です」
「配合……」
もはや薬のようです。
けれど、ナリア様は嬉しそうに受け取りました。
私もいただきました。
昨日より少しだけ甘さが戻っていて、体に優しく染みる味でした。
悔しいですが、発表後用です。
食堂の少し離れた席には、ベアトリス様がいました。
今日は一人ではありません。
以前の取り巻きとは違う、数人の令嬢と静かに食事をしています。
派手な会話はありません。
けれど、完全に孤立しているわけでもありません。
彼女もまた、少しずつ歩き直しているのかもしれません。
ナリア様もそれに気づいたようでした。
しばらくベアトリス様の方を見てから、静かに言いました。
「昨日、ダルモア様が来てくださっていたこと、驚きました」
「はい」
「最後に考えると言ってくださいました」
「そうですね」
「私は……少し怖かったです。でも、嬉しくもありました」
その言葉に、私はナリア様を見ました。
彼女は視線を落としています。
「許した、というのとは違います。まだ、どう接すればよいのか分かりません」
「はい」
「でも、私の問いを受け取ってくださったことは、嬉しかったのです」
エレナ様が静かに頷きました。
「それでよいと思いますわ」
ナリア様は少しだけ笑いました。
「全部をすぐに決めなくてもよいのですね」
「はい」
私は答えました。
「関係を整え直すのも、少しずつです」
ナリア様は頷きました。
「少しずつ」
その言葉は、この研究会に何度も出てきた言葉です。
殿下も。
ナリア様も。
ベアトリス様も。
私も。
少しずつ進んでいる。
放課後の研究会では、昨日の発表を受けて、今後の活動方針を話し合うことになりました。
小講義室ではなく、今日はいつもの開放学習室です。
戻ってきた時、私は少しほっとしました。
いつもの机。
いつもの窓。
いつもの椅子。
そして、いつもの蜂蜜菓子。
ここが、私たちの始まりの場所ではありません。
でも、研究会としての居場所です。
レオン様が言いました。
「次回発表を求める声が複数あります」
殿下が少し身構えました。
「もう次回か」
「すぐに行う必要はありません」
レオン様は淡々と続けます。
「むしろ、しばらくは通常研究会として活動を積み、次の題材を慎重に選ぶべきです」
「賛成です」
私はすぐに言いました。
「今回の発表は、匿名文事件の空気とも重なっていました。続けて重い題材を扱うと、研究会自体が説教めいてしまう可能性があります」
エレナ様も頷きます。
「次は少し柔らかい題材がよろしいですわね」
「柔らかい題材?」
ナリア様が尋ねました。
エレナ様は微笑みます。
「たとえば、季節の式典における贈り物の言葉や、招待状の礼法などですわ」
「なるほど」
殿下も考え込みます。
「言葉の扱いでも、必ずしも謝罪や責任だけではない」
「はい」
ナリア様が少し明るい顔で言いました。
「感謝や招待、祝福の言葉もあります」
祝福。
殿下が一瞬反応しました。
私は見ました。
殿下は心得紙を見ました。
『祝福と言わない』
今は違います。
その心得はナリア様への重すぎる表現対策です。
しかし殿下は少し困ったような顔をしました。
「祝福という言葉を、研究会の題材として扱うのはよいのだな」
真面目です。
非常に真面目です。
私は笑いを堪えました。
「はい。研究会の題材としてなら問題ありません」
エレナ様が楽しそうに言いました。
「殿下がナリア様へ突然使わなければ大丈夫ですわ」
殿下の顔が赤くなりました。
「使わない」
ナリア様は不思議そうに首を傾げています。
「何かあったのですか?」
「何もありません」
殿下と私が同時に答えました。
エレナ様が扇の陰で笑っています。
レオン様は記録しています。
本当に平和です。
研究会の後半、昨日の発表での個別反省を行いました。
私の王国史部分は、少し早口だったとのこと。
レオン様の補足は、やや淡々としすぎたが、全体の空気を整える意味では良かったとのこと。
エレナ様の資料は非常に見やすかったため、次回以降も同じ形式を採用すること。
ナリア様の締めの問いは、多くの反応があったため、今後の発表でも「問いで終わる」形式を一つの型として残せるかもしれないこと。
そして殿下。
レオン様が言いました。
「殿下は、王太子講話にならず、研究会の一員として話せていました」
殿下は少し驚いたように顔を上げました。
「本当か」
「はい」
「途中で遠くなっていなかったか」
「少なくとも本番では、十分近い言葉でした」
ナリア様も頷きました。
「私もそう思います」
殿下がナリア様を見ました。
ナリア様は、少し照れながら続けます。
「殿下のお言葉は、昨日、私の隣にありました」
学習室の空気が止まりました。
私も、エレナ様も、レオン様も。
殿下も。
全員が少しだけ止まりました。
なんて言葉でしょう。
殿下のお言葉は、私の隣にありました。
これは危険です。
危険ですが、とても美しい言葉です。
殿下は、ゆっくり息を吸いました。
吐きました。
顔は真っ赤です。
でも、逃げません。
「……ありがとう」
それだけ言いました。
よく耐えました。
ナリア様も、自分が言った言葉の意味に少し遅れて気づいたのか、頬を赤くしています。
エレナ様が静かに扇を閉じました。
レオン様は記録紙に何か書いています。
私は、今日も咳払いをしませんでした。
もう本当に、必要ない場面が増えました。
研究会の終わりに、殿下が少し真面目な顔で言いました。
「皆に、礼を言いたい」
私たちは殿下を見ました。
殿下は立ち上がりませんでした。
王太子としての礼ではなく、同じ机を囲む仲間として話すためでしょう。
「昨日の発表は、僕一人では絶対にできなかった。ナリアの問い、ルイート嬢の歴史、レオンの補足、バートン嬢の資料と空気作り。全部があって、あの形になった」
殿下の声は落ち着いていました。
「ありがとう」
自然な感謝でした。
誰もすぐには返しませんでした。
その言葉が、嬉しかったからです。
ナリア様が最初に微笑みました。
「こちらこそ、ありがとうございました」
私も言いました。
「私も、関われてよかったです」
エレナ様がにこりと笑います。
「次はもっと蜂蜜菓子も研究しますわ」
レオン様が真面目に頷きました。
「活動記録も整えます」
殿下は少し笑いました。
柔らかい笑顔です。
その笑顔を見て、私は思いました。
この方は、本当に変わった。
でも、別人になったわけではありません。
不器用で、緊張しやすくて、ナリア様の一言で赤くなって、時々重い表現を思いついてしまう。
そういう殿下のまま。
でも、言葉を選び、呼吸し、待てるようになった。
それが、きっと一番大事なのです。
帰り道。
校舎を出ると、夕方の空は淡い金色でした。
中庭の池が、その光を静かに映しています。
昨日の本番前とは違う、穏やかな夕方です。
殿下とナリア様は、少し前を並んで歩いています。
今日は二人で何か話していました。
時々、ナリア様が笑い、殿下が少し赤くなります。
でも、逃げません。
その光景を見ながら、エレナ様が隣で言いました。
「拍手の後も、ちゃんと歩けましたわね」
「はい」
「走りませんでした」
「はい」
「マリア様、今日も咳払いなしですわ」
「そうですね」
「そろそろ寂しさより、安心の方が勝ってきました?」
私は少し考えました。
そして、頷きました。
「はい」
エレナ様は優しく笑いました。
「それは良かったですわ」
池の前を通りながら、私はあの日をもう一度思い出しました。
早まってはいけません、と叫んだ私。
驚いて池に落ちた殿下。
そこから始まった奇妙な関係。
今では、その殿下がナリア様と並んで歩いています。
拍手の後を、急がずに。
王太子殿下。
今日のあなたは、拍手の後に走りませんでした。
褒められても浮かれすぎず、発表を終わりにせず、次の一歩を丁寧に選びました。
どうか明日からも。
拍手を目的にするのではなく、言葉を届けるために歩いてくださいませ。
あなたとナリア様の関係も、この研究会も、まだ始まったばかりなのですから。




