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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第38話 王太子殿下、前日に走らない


 大事な日の前日ほど、人は何かを足したくなります。


 もう少し練習した方がよいのではないか。

 この言葉を変えた方がよいのではないか。

 あの部分を強くした方がよいのではないか。

 もし失敗したらどうしよう。

 もし誰かに笑われたらどうしよう。

 もし、隣に立つ人を困らせてしまったらどうしよう。


 そう考え始めると、止まらなくなります。


 けれど、前日に走りすぎると、本番で息が切れてしまいます。


 だから、大切なのは整えること。


 足すのではなく、削る。

 焦るのではなく、確認する。

 不安を消すのではなく、不安のまま立てるようにする。


 小発表前日の朝、アルノルド殿下の心得紙には、そう書かれていました。


『前日に走らない』


 私はその一文を見て、深く頷きました。


「殿下、とても大事です」


「分かっている」


 殿下は真剣でした。


 真剣すぎるほど真剣です。


 机の上には、発表原稿、活動記録、小講義室の配置図、見学希望者一覧。


 そして、何枚にも増えた心得紙。


 王太子殿下の恋愛相談から始まったはずの紙束は、今や発表準備の精神安定資料になっています。


 レオン様は見学希望者一覧を確認しながら言いました。


「最終的な見学希望者は二十九名です」


 殿下の指が止まりました。


 ナリア様も、少しだけ息を呑みました。


 二十九名。


 増えています。


 昨日より、さらに。


 エレナ様は扇を開き、落ち着いた声で言いました。


「大丈夫ですわ。小講義室なら入ります」


「問題はそこではない」


 殿下が低く言いました。


「二十九名が、ナリアの言葉を聞く」


 その言い方に、ナリア様の頬が少し赤くなりました。


 けれど、殿下はすぐに続けません。


 自分の不安をナリア様へ押しつけないよう、呼吸しました。


「……僕の言葉も聞く」


 少し遅れて足しました。


 レオン様が静かに頷きます。


「はい。ですから本日は、通し練習を一回。細部確認を少し。あとは休むことを優先します」


「一回だけか」


 殿下が不安そうに尋ねました。


「はい」


「もう一度くらい」


「しません」


 レオン様は即答しました。


 私は内心で頷きました。


 今日の殿下は、放っておくと何度も通し練習をしたがるでしょう。


 ナリア様のため。

 本番で失敗しないため。

 研究会のため。


 理由はいくらでもあります。


 ですが、それは走ることです。


 前日に必要なのは走ることではありません。


 整えることです。


「殿下」


 ナリア様が静かに声をかけました。


「はい」


「私も、一回でよいと思います」


 殿下はナリア様を見ました。


 見すぎないように、しかしちゃんと見ています。


「そうか」


「はい。たくさん練習すると、明日までに言葉が硬くなってしまいそうで」


 殿下は少し黙りました。


 それから、深く頷きました。


「分かった。一回にする」


 ナリア様の言葉を受けて、殿下が納得する。


 以前なら、これはなかなか難しいことでした。


 心配が勝ち、守りたい気持ちが先走り、結局自分の不安を押しつけていたでしょう。


 でも今は、ナリア様が「一回でよい」と言えば、それを聞ける。


 小さく見えて、とても大きなことです。


 エレナ様が微笑みました。


「では、本日は前日用の蜂蜜菓子も控えめにしておきますわ」


「菓子にも前日調整があるのか」


 殿下が呟くと、エレナ様は当然のように頷きました。


「ありますわ。甘すぎると気持ちが浮きますし、少なすぎると不安に負けます」


「奥が深いな」


「ええ。蜂蜜菓子道です」


 そんな道があるのでしょうか。


 でも、最近は誰も深く追及しません。


 私たちの研究会には、王国史と礼法と王家式典と、なぜか蜂蜜菓子道があります。


 これもまた、私たちの普通です。


 午前の授業中、私はあまり集中できませんでした。


 明日、本番です。


 小発表。


 王国史礼法研究会として初めての発表。


 導入から中盤、締めまで、何度も整えてきました。


 殿下とナリア様は、並んで立つ練習を重ねました。


 ナリア様は声を奥まで置くことを覚え、殿下は王太子講話にしないことを覚えました。


 殿下は最後の言葉を譲り、ナリア様は問いを残す。


 私は王国史の事例を話し、レオン様は法的背景を補足し、エレナ様は資料と空気を整える。


 ここまで来ました。


 けれど、本番は練習とは違います。


 人がいます。


 視線があります。


 噂を知っている生徒もいるでしょう。


 匿名文事件を思い出す者もいるでしょう。


 ベアトリス様が来るのかどうかも、まだ分かりません。


 セシリア様は来ない予定です。


 イレーヌ様も、まだ登校停止中。


 それでも、あの件を知る者たちが聞く発表です。


 言葉の扱い。


 信頼。


 傷ついた後の選び直し。


 それを、私たちは語ります。


 重い。


 でも、逃げたくはありません。


 昼休み。


 食堂の空気も少しざわついていました。


「明日の小発表、楽しみですわね」

「二十九名も見学するそうですわ」

「小講義室ですって」

「ナリア様、緊張されているかしら」

「殿下が隣にいらっしゃるなら大丈夫では?」

「でも、殿下も緊張なさるのでは」

「最近の殿下なら、きっと大丈夫ですわ」


 最近の殿下なら。


 その言葉が、少し嬉しく、少し怖くもありました。


 周囲の期待が、確かに変わっています。


 以前の殿下なら冷たい言葉を言うかもしれない。


 今の殿下なら大丈夫かもしれない。


 それは良い変化です。


 けれど、期待は時に重くなります。


 殿下にそのまま伝えない方がいいでしょう。


 絶対に。


 ナリア様は、今日も私たちの席へ来ました。


 少し緊張した顔でしたが、昨日よりも落ち着いています。


 エレナ様が小さな包みを差し出しました。


「前日用ですわ」


 ナリア様は両手で受け取りました。


「ありがとうございます」


「今日は半分だけにしてくださいませ」


「半分?」


「残りは、帰ってから。不安になった時に」


 ナリア様の表情が柔らかくなりました。


「はい」


 私は尋ねました。


「ナリア様、今の気持ちはどうですか?」


 ナリア様は少し考えました。


「怖いです」


「はい」


「でも、不思議と逃げたいとは思いません」


「はい」


「明日、私の言葉が届くかは分かりません。でも、届かせたいと思っています」


 その声は、静かでした。


 けれど、しっかりしていました。


 エレナ様が優しく微笑みます。


「届きますわ」


「そうでしょうか」


「はい。少なくとも私は、練習のたびに受け取っています」


 ナリア様の目元が少し赤くなりました。


「ありがとうございます」


 私は続けました。


「殿下も、ナリア様の言葉を信じています」


 ナリア様の頬が赤くなります。


「殿下が……」


「はい」


「私も、殿下の言葉を信じています」


 それは、とても自然に出た言葉でした。


 言った後で、ナリア様自身が少し驚いたように目を瞬かせます。


 信じています。


 以前、ナリア様は「少しずつ信じたい」と言いました。


 それが今、「信じています」に変わった。


 私は、胸の奥が熱くなりました。


 エレナ様も、扇の陰で静かに目を細めています。


 これは殿下に伝えるべきでしょうか。


 いえ。


 駄目です。


 前日にこれは危険すぎます。


 殿下が本番前に燃え尽きます。


「……そのお言葉は、今は私の胸にしまっておきます」


 私が言うと、ナリア様は真っ赤になりました。


「そ、そうしてください」


 エレナ様が小さく笑いました。


「本番後に、ほどよくですわね」


「はい」


 また一つ、危険な宝物が増えてしまいました。


 放課後。


 小講義室には、すでに明日のための机配置が整えられていました。


 見学者用の席が並び、正面には発表者用の立ち位置が示されています。


 黒板には、教師が仮に書いた文字。


『王国史礼法研究会 小発表』


 それを見た瞬間、全員が少し黙りました。


 本当に本番が来るのだと、目で見て分かってしまったからです。


 殿下は静かに息を吸いました。


 ナリア様も同じように息を整えます。


 二人の呼吸が、少しだけ揃っていました。


 レオン様が言いました。


「本日は全体通し一回のみ。その後、立ち位置と資料確認で終わります」


「はい」


 全員が頷きました。


 私は自分の原稿を握りました。


 私も発表者です。


 殿下とナリア様ばかり見守ってきましたが、私も明日話します。


 王国史の事例を。


 言葉が関係を損ない、整え直した記録を。


 緊張しています。


 かなり。


 エレナ様がそっと隣に来ました。


「マリア様も、緊張されていますわね」


「はい」


「前日用、いります?」


 蜂蜜菓子を差し出されました。


 私は少し笑って受け取りました。


「いただきます」


 甘さは控えめでした。


 でも、心にじんわり残る味です。


 なるほど、前日用です。


 全体通しが始まりました。


 まず、私の短い開会挨拶。


「本日は、王国史礼法研究会の小発表へ向けた最終確認を行います」


 練習なのに、少し声が震えました。


 殿下とナリア様ばかり心配していましたが、私も人のことは言えません。


 けれど、レオン様が静かに頷いてくれたので、続けられました。


 導入。


 殿下とナリア様が並びます。


「本日は、王国史礼法研究会の小発表として、王国式典における誓約文と言葉の扱いについてお話しいたします」


 昨日より、自然です。


 小講義室でも、殿下の声は遠くへ投げられていません。


 奥まで丁寧に置かれています。


 ナリア様へ渡ります。


「言葉は、関係を作るものです」


 その一文は、今日もまっすぐ届きました。


 私は後方の席に座りながら、胸の奥で静かに頷きました。


 大丈夫。


 届いています。


 中盤。


 私が王国史の事例を話します。


 少し緊張しましたが、通りました。


 レオン様の法的補足も落ち着いています。


 そしてナリア様の礼法部分。


「謝意や謝罪の言葉は、相手の立場を回復するためにあります」


 声は落ち着いていました。


 殿下は隣で待っています。


 ナリア様が一瞬だけ資料へ視線を落とした時も、急かしません。


 ただ、同じ場所に立っています。


 殿下の王家側の言葉。


「王家の言葉は、遠くから下すものではありません。信頼を預かる立場として、相手の声を聞き、その上で返すものでもあります」


 昨日、ナリア様が「近い言葉」と言ったことで生まれた形です。


 今日も、近く聞こえました。


 そしてナリア様の一文。


「間違えた言葉があっても、その後の言葉と行動で、関係を整え直すことはできます」


 小講義室の空気が、静かに受け止めました。


 締め。


 ナリア様の問い。


「皆様も、誰かへ向ける言葉を口にする前に、一度だけ立ち止まってみてください」


 少しの間。


 殿下の礼。


「本日は、ありがとうございました」


 終わりました。


 全体通し。


 最後まで。


 誰もすぐには動きませんでした。


 それは練習なのに、本番のような静けさでした。


 レオン様が、最初に頷きました。


「十分です」


 その一言で、全員の肩から力が抜けました。


 エレナ様が小さく拍手をします。


 私も、拍手しました。


 ナリア様は、目元を少し赤くしていました。


 殿下は隣で、静かに彼女を見ています。


 そして、言いました。


「明日も、このままいこう」


 ナリア様は頷きました。


「はい」


「足さない」


「はい」


「急がない」


「はい」


「一緒に立つ」


 ナリア様の頬が赤くなりました。


 でも、逃げません。


「はい。一緒に」


 それだけで十分でした。


 その後は、本当に軽い確認だけにしました。


 立ち位置。


 資料の置き場所。


 水差しの位置。


 拍手が起きた後の礼。


 見学者が入る順路。


 質問は受けないこと。


 初回なので、発表のみで終えること。


 レオン様が全て整えてくれました。


 エレナ様は資料の紙束を美しくまとめ、予備の原稿を用意しました。


 私は活動記録と発表順を確認しました。


 殿下とナリア様は、正面の立ち位置にもう一度並びました。


 発表はしません。


 ただ立つだけ。


 その姿を見て、私は思いました。


 もう、大丈夫。


 完璧だからではありません。


 失敗しないからでもありません。


 もし明日、少し言葉に詰まっても。


 声が震えても。


 沈黙が長くなっても。


 二人は戻れる。


 それを知っているから、大丈夫なのです。


 帰り際、小講義室の扉を閉める前に、ナリア様が振り返りました。


「明日、ここで話すのですね」


「はい」


 殿下が隣で答えました。


「怖いです」


「僕もだ」


「でも、逃げません」


「ああ」


 殿下は静かに頷きました。


「僕も逃げない」


 二人は少しだけ笑いました。


 怖いけれど逃げない。


 それが、今日の二人の合言葉のようでした。


 校舎を出ると、夕暮れの空は淡く澄んでいました。


 雲は少なく、遠くの空に細い金色の光が残っています。


 中庭の池は静かで、風も穏やかでした。


 明日。


 いよいよ本番です。


 私は池の水面を見つめながら、あの日のことを思い出しました。


 泣いていた殿下。


 池に落ちた殿下。


 関わらない方がよさそうと思いながら、結局関わってしまった私。


 あれから、本当にいろいろありました。


 謝罪の練習。

 蜂蜜菓子。

 研究会。

 匿名文事件。

 ベアトリス様の謝罪。

 正式活動。

 発表準備。


 すべてがつながって、明日の小講義室へ向かっています。


 エレナ様が隣で言いました。


「マリア様」


「はい」


「明日は、見守る日ですわね」


「はい」


「咳払いは?」


「たぶん、必要ありません」


「寂しいですか?」


「少し」


「嬉しいですか?」


「とても」


 エレナ様は笑いました。


「では、大丈夫ですわ」


 私は頷きました。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、前日に走りませんでした。


 足さず、急がず、ナリア様と同じ場所に立つことだけを確かめました。


 どうか明日。


 怖さを消そうとしなくていいのです。


 怖いまま、逃げずに立ってくださいませ。


 あなたとナリア様が一緒に選んだ言葉は、きっと小講義室に集まる人たちへ届きます。


 そして私は、もう咳払いではなく、拍手でその背中を見守ります。

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