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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第37話 王太子殿下、最後の言葉を譲る


 最後の言葉には、力があります。


 人は、話のすべてを正確に覚えているわけではありません。


 けれど、最後に残った響きだけは、心の中に沈むことがあります。


 温かかったのか。

 重かったのか。

 押しつけられたのか。

 自分で考えたくなったのか。


 発表の締めとは、そういうものです。


 だからこそ、最後の言葉は難しい。


 強すぎれば、聞き手を黙らせてしまう。


 弱すぎれば、何も残らない。


 綺麗すぎれば、ただの飾りになる。


 正しすぎれば、説教になる。


 そして王太子殿下の場合。


 最後の言葉を持つと、どうしても「王太子殿下のお言葉」になりやすいのです。


 小講義室での立ち位置確認を終えた翌日。


 私たちは、いつもの開放学習室ではなく、再び小講義室へ向かう予定でした。


 理由は簡単です。


 締めの言葉は、実際の広さで確認しなければ響き方が分からないからです。


 朝の開放学習室には、少し緊張した空気がありました。


 机には締め部分の案が三つ並んでいます。


 一つ目は、殿下が中心となってまとめる案。


 二つ目は、ナリア様が問いかけ、殿下が締める案。


 三つ目は、二人で短い言葉を交互に置く案。


 レオン様は三案を見比べながら言いました。


「一つ目は整っていますが、王太子講話の印象が強くなります」


「僕もそう思う」


 殿下は素直に頷きました。


 以前なら、王太子として整った言葉を言えることは良いことだと考えていたでしょう。


 けれど今は違います。


 この研究会で必要なのは、殿下が一人で正解を示すことではありません。


 皆で考える場を作ることです。


 エレナ様が二つ目の案を手に取りました。


「こちらは自然ですわね。ナリア様が聞き手へ問いかけ、殿下が研究会として続ける意志を示す」


「はい」


 私は頷きました。


「ただ、殿下が最後を持つと、やはり重くなる可能性があります」


 殿下は心得紙を見ました。


 今日、新しく加わった言葉があります。


『締めで支配しない』


 実に分かりやすい。


「最後に僕が話すと、場を閉じてしまうかもしれない」


 殿下は言いました。


「はい」


 レオン様が頷きます。


「殿下の言葉は、どうしても結論として受け取られます」


 ナリア様は、三つ目の案を静かに見つめていました。


 そこには、こう書かれています。


 ナリア様。

『皆様も、誰かへ向ける言葉を一度立ち止まって考えてみてください』


 殿下。

『私たちも、この研究会で言葉の重さと向き合い続けます』


 ナリア様。

『言葉は、関係を傷つけることもあります』


 殿下。

『けれど、選び直すことで、関係を整え直す一歩にもなります』


 二人。

『本日は、ありがとうございました』


 交互に言う案です。


 悪くありません。


 けれど、少し作りすぎている感じもあります。


 ナリア様は、しばらく黙っていました。


 殿下はそれに気づきます。


「ナリア」


「はい」


「どう思う?」


 急かさない声でした。


 ナリア様は少しだけ原稿を握り直しました。


「三つ目は、二人で話している形があって良いと思います」


「うん」


「でも……少し、整いすぎている気がします」


 私は小さく頷きました。


 同じことを感じていました。


 ナリア様は続けます。


「聞いてくださる方に、きちんと終わったと思っていただくことは大切です。でも、最後まで整えすぎると、考える余白がなくなる気がして」


 殿下は黙って聞いています。


 ナリア様の言葉を、最後まで。


「私は、最後に少しだけ余白を残したいです」


「余白」


「はい。私たちが答えを言い切るのではなく、聞いた方が自分の言葉を思い出せるような……」


 ナリア様は、少し自信なさげに目を伏せました。


「うまく言えませんが」


「いや」


 殿下は静かに言いました。


「分かる気がする」


 ナリア様が顔を上げます。


「最後の言葉を僕が持つと、答えを出してしまう。けれど、君の問いで終われば、聞き手が自分で考えられるかもしれない」


 部屋が静かになりました。


 私は殿下を見ました。


 今、殿下は「最後の言葉」をナリア様へ譲る方向を自分で口にしました。


 王太子殿下としては、とても大きなことです。


 締めは権威を持つ者が担うもの。


 そう考えてもおかしくありません。


 けれど殿下は、それを手放そうとしています。


「殿下」


 ナリア様が少し驚いた声を出しました。


「よろしいのですか?」


「むしろ、その方が良いと思う」


 殿下は微笑みました。


 控えめですが、穏やかな笑みでした。


「この発表は、僕が答えを与えるためのものではない。研究会として、皆で言葉を考えるためのものだ」


「はい」


「なら、最後は問いで終わる方がいい」


 レオン様が記録紙に書き込みました。


「構成変更。締めはナリア様の問いかけで終わる方向」


 エレナ様が柔らかく微笑みます。


「とても良いと思いますわ」


 私も頷きました。


「殿下が最後を譲ることで、発表の印象がかなり変わります」


 殿下は少し照れたように目を伏せました。


「譲る、というより、その方が届くと思った」


 その言葉が、とても殿下らしくなってきたと思いました。


 以前の殿下なら、ナリア様へ何かを譲ることは「守る」か「遠ざける」かのどちらかだったかもしれません。


 でも今は、ナリア様の言葉が届くと信じて、最後を任せようとしている。


 信頼です。


 これは、信頼でした。


 午前の授業中、私はそのことを何度も考えていました。


 最後の言葉を譲る。


 王太子殿下が。


 ナリア様に。


 それは恋愛的な甘さだけではなく、もっと深い意味を持ちます。


 相手の言葉を信じている。


 相手がその場を閉じられると認めている。


 自分が前に出なくても大丈夫だと分かっている。


 殿下は、本当に変わりました。


 いえ、変わり続けています。


 そしてナリア様もまた、最後の問いを持てるほどに変わっています。


 怖いだけではない。


 話してみたい。


 届けてみたい。


 その気持ちが、発表の締めに向かっているのです。


 昼休み。


 ナリア様は少し緊張した顔で蜂蜜菓子を手にしていました。


 エレナ様は今日も当然のように菓子を出しています。


「本日は締めの余白用ですわ」


「余白用……」


 ナリア様が少し笑います。


「甘すぎず、残り香が少しだけあるものにしました」


「本当に締めに合わせているのですね」


「もちろんです」


 私はもう感心することにしました。


 ナリア様は蜂蜜菓子を一口食べてから、小さく息を吐きました。


「最後の言葉を私が持つのは、少し怖いです」


「はい」


 私は頷きました。


「でも、殿下はナリア様の問いが一番届くと思われたのだと思います」


 ナリア様の頬が淡く赤くなりました。


「殿下が……そう」


「はい」


「私の言葉を、信じてくださっているのでしょうか」


「そうだと思います」


 ナリア様は、手元を見つめました。


 その表情は、嬉しさと緊張が混ざったものです。


「では、きちんと考えたいです」


「はい」


「答えを押しつけるのではなく、聞いた方が自分の言葉を思い出せるように」


 エレナ様が微笑みます。


「ナリア様らしい締めですわ」


「そうでしょうか」


「はい」


 ナリア様は小さく頷きました。


「頑張ります」


 その声は、震えていませんでした。


 放課後。


 私たちは小講義室へ向かいました。


 二度目の小講義室です。


 昨日よりも少しだけ、足取りは落ち着いていました。


 とはいえ、扉を開けると、やはり空気が変わります。


 広い室内。


 整然と並ぶ席。


 正面の発表位置。


 窓から差し込む午後の光。


 そこに立つと、自然に背筋が伸びます。


 殿下は一度、部屋を見渡しました。


 昨日より落ち着いています。


「講話にしない」


 小さく呟きました。


 ナリア様も隣で言いました。


「研究会の発表です」


 殿下が少し笑いました。


「ああ」


 そのやり取りが、もう二人の合図のようになっていました。


 練習は、導入から中盤までを一度通した後、締めを試す流れになりました。


 導入は安定しています。


 中盤も、昨日より少し滑らかになりました。


 殿下の声は、遠くへ投げるのではなく、奥まで丁寧に置くようになっています。


 ナリア様の声も、小講義室に慣れ始めたのか、最初から後ろまで届きました。


 問題は締めです。


 まず、殿下が中盤の最後を受けます。


「だからこそ、私たちは言葉を選び続けなければならない。一度正しく言えたら終わりではなく、何度も、相手へ届く形を探し続ける必要がある」


 ここまでは良い。


 ここから、ナリア様の問いへつなげます。


 ナリア様は一度息を吸いました。


「皆様も、誰かへ向ける言葉を口にする前に、一度だけ立ち止まってみてください」


 声は、少し震えました。


 けれど、届いています。


「その言葉は、相手を決めつけるものではないか。自分を守るためだけのものではないか。相手が受け取れる形になっているか」


 小講義室に、静かな空気が落ちました。


 ナリア様は続けます。


「私たちも、この研究会で考え続けます」


 そこで終わりました。


 沈黙。


 少し長い沈黙です。


 殿下が動きかけました。


 何か締めを足したくなったのかもしれません。


 ありがとうございました、と言うべきか。


 あるいは、自分も考え続けると補足すべきか。


 しかし、殿下は止まりました。


 ナリア様の問いを、そのまま残しました。


 最後の言葉を譲ったのです。


 私は、胸の奥が熱くなりました。


 レオン様が後方の席で静かに頷きました。


 エレナ様も、扇を閉じています。


 誰もすぐには拍手しませんでした。


 それは、言葉が届いたからです。


 考える余白が、確かに生まれていました。


 少しして、エレナ様が優しく拍手しました。


 それに続いて、私も、レオン様も拍手します。


 ナリア様は、ほっとしたように息を吐きました。


 殿下は、隣で静かに彼女を見ていました。


 見すぎではありません。


 今は、見てもよい場面でした。


「どうでしたか?」


 ナリア様が不安そうに尋ねます。


 私は答えました。


「とても良かったです」


「本当ですか?」


「はい。最後に余白が残りました。聞いた人が自分で考える時間がありました」


 エレナ様も頷きます。


「押しつけではなく、問いかけでしたわ」


 レオン様が記録しながら言いました。


「締めとして有効です。ただ、最後に完全に沈黙で終えると、本番では拍手のタイミングが迷われる可能性があります」


「それは確かに」


 私は頷きました。


 余白は大切ですが、発表としての終わりは示さなければなりません。


 殿下が少し考えました。


「ナリアの問いの後、僕が礼だけを言うのはどうだろう」


「礼だけ?」


「余計なまとめはしない。ただ、『本日はありがとうございました』とだけ」


 ナリア様が殿下を見ました。


「それなら、問いは残りますね」


「ああ」


「でも、発表としては閉じられます」


 レオン様が頷きました。


「良い案です。殿下の言葉が結論にならず、場を閉じる役割だけになります」


 エレナ様も微笑みました。


「殿下、最後を支配せず、扉を閉める係ですわね」


「扉を閉める係……」


 殿下は少し複雑そうでしたが、すぐに頷きました。


「それでいい」


 私は微笑みました。


「とても大切な役割です」


 次の練習では、締めをその形にしました。


 ナリア様が問いかける。


 少し間を置く。


 殿下が静かに礼をする。


「本日は、ありがとうございました」


 短い言葉。


 王太子殿下の結論ではなく、研究会の一員としての礼。


 それで、発表は綺麗に閉じました。


 重すぎず、軽すぎず。


 余白があり、終わりも分かる。


 良い締めです。


 二度目の練習が終わった時、ナリア様はかなり安堵した様子でした。


「この形なら、話せそうです」


 殿下も頷きました。


「僕も、この形が良いと思う」


「殿下、本当に最後を譲ってよろしいのですか?」


 ナリア様が少し心配そうに尋ねました。


 殿下は、優しく首を横に振りました。


「譲るというより、君の問いが必要だと思っている」


 ナリア様の頬が赤くなりました。


「私の問いが……」


「ああ。僕が最後に答えを言うより、君が問いを残す方が、この発表らしい」


 殿下は一度、言葉を切りました。


 そして、少し照れながらも続けました。


「君の言葉は、聞く人に考える場所を残してくれる」


 ナリア様の瞳が揺れました。


「ありがとうございます」


 その返事は、とても小さかった。


 けれど、小講義室の中で静かに響きました。


 三度目の練習では、導入から締めまでを通しました。


 初めての全体通しです。


 途中で少し揺れました。


 ナリア様が中盤で一度言葉を探し、殿下が間で支えました。


 殿下は締め前で少し声が重くなり、ナリア様が問いの声を柔らかく置くことで空気を戻しました。


 完璧ではありません。


 でも、発表として形になりました。


 最後。


 ナリア様の問い。


「皆様も、誰かへ向ける言葉を口にする前に、一度だけ立ち止まってみてください」


 少しの間。


 殿下の礼。


「本日は、ありがとうございました」


 終わり。


 小講義室の空気が、静かに閉じました。


 私は拍手をしながら、気づけば少し涙ぐみそうになっていました。


 もちろん泣きません。


 泣きませんが。


 ここまで来たのだと、強く思いました。


 池の前で泣いていた殿下。


 ナリア様へ冷たい言葉しか出せなかった殿下。


 傷ついて俯いていたナリア様。


 その二人が今、小講義室で並び、誰かに届く言葉を作っている。


 それだけで、胸がいっぱいになります。


 練習の後、レオン様が総評を述べました。


「全体の流れは固まりました。次回は細部調整、本番前日は軽い通しのみでよいでしょう」


「本番前日……」


 ナリア様が小さく呟きました。


 いよいよ近づいてきています。


 殿下は、ナリア様を見ました。


「怖いか?」


「はい」


 ナリア様は正直に頷きました。


「でも、逃げたいとは思いません」


 殿下の表情が柔らかくなりました。


「僕もだ」


「殿下も?」


「ああ。怖いが、逃げたくはない」


 二人は、少しだけ笑いました。


 同じ怖さを共有している。


 それが、二人をまた少し近づけているように見えました。


 帰り道。


 小講義室を出た後、廊下には夕方の光が長く伸びていました。


 窓の外の空は淡い金色から紫へ変わりつつあります。


 校舎を出ると、中庭の池がその色を静かに映していました。


 殿下とナリア様は、少し前を並んで歩いています。


 今日は、二人ともあまり話していません。


 でも、その沈黙は穏やかでした。


 発表の締めを一緒に見つけた後の、静かな疲れ。


 エレナ様が隣で言いました。


「最後の言葉、ナリア様にぴったりでしたわね」


「はい」


「そして殿下が、最後を譲った」


「はい」


「大きな一歩ですわ」


 私は頷きました。


 本当に、大きな一歩です。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、最後の言葉を譲りました。


 自分が結論を出すのではなく、ナリア様の問いを信じ、聞く人の心に余白を残すことを選びました。


 どうか本番でも。


 最後を支配するのではなく、静かに場を閉じてくださいませ。


 あなたが譲ったその余白に、ナリア様の言葉がきっと深く残るはずです。

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