第36話 王太子殿下、広い場所で近い言葉を探す
場所が変わると、同じ言葉でも響き方が変わります。
いつもの机。
いつもの窓。
いつもの椅子。
いつもの距離。
その中では自然に言えた言葉が、少し広い部屋に立っただけで、急に遠く感じることがあります。
声を大きくしなければならない。
姿勢を整えなければならない。
見られていることを意識しなければならない。
そう思った瞬間、人は普段の自分から少し離れてしまいます。
王太子殿下なら、なおさらです。
王太子として人前に立つ訓練を受けてきた方だからこそ、広い場所に立つと、自然と「王太子殿下の声」になってしまう。
けれど、今回必要なのは、それだけではありません。
王太子殿下の言葉。
けれど、研究会の一員としての言葉。
遠くまで届く声。
けれど、隣にいるナリア様を置いていかない声。
その両方を探すため、私たちは今日、小講義室へ向かうことになりました。
朝の開放学習室には、少し落ち着かない空気が漂っていました。
正式に、小講義室の使用許可が下りたのです。
見学希望者が増えたため、当日の小発表は開放学習室ではなく、小講義室で行うことになりました。
希望者数は二十七名。
……もう小発表とは何だったのでしょうか。
少なくとも、私の感覚ではかなり大きいです。
ですが、レオン様いわく「学園全体から見れば小規模」とのこと。
理屈は分かります。
心が納得するかは別です。
殿下は、机の上に心得紙を置き、今日の新しい一文を書き込んでいました。
『広い場所でも、言葉を遠くへ投げない』
私はそれを見て、少し首を傾げました。
「殿下、良い言葉ですが、少し意味を確認してもよろしいですか?」
殿下は顔を上げました。
「遠くまで届ける必要はある」
「はい」
「だが、遠くへ投げつけるような言葉にしてはいけないと思った」
殿下は、昨日の原稿を見ました。
「昨日、ナリアに言われた。王太子として正しくても、少し遠くに聞こえたと」
「はい」
「小講義室に立つと、僕はまた遠い言葉を使いそうだ」
「その自覚は大切です」
「だから、遠くまで届かせる。だが、遠くへ投げない」
私はゆっくり頷きました。
「とても良いと思います」
殿下は少しだけ安心したように息を吐きました。
エレナ様が扇を開きながら微笑みます。
「殿下、最近はご自分で危険を察知できるようになりましたわね」
「危険が多すぎるからな」
「恋とは危険が多いものですわ」
「学術研究会の発表でも危険があるのか」
「殿下の場合はありますわ」
レオン様が当然のように頷きました。
「あります」
「否定しないのだな」
「事実ですので」
殿下は少し肩を落としましたが、すぐに持ち直しました。
持ち直しが早くなっています。
以前なら、ここで自分はなんて駄目な王太子なのだと沈み、最終的に妙な奇声へ向かっていた可能性があります。
今は違います。
自分の危うさを理解しつつ、対策を立てる。
素晴らしい成長です。
ナリア様は、少し遅れて学習室へ来ました。
今日も原稿を大切そうに抱えています。
小講義室での立ち位置確認があるためか、いつもより少し緊張した表情でした。
「ごきげんよう」
殿下が立ち上がります。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
安定した挨拶。
けれど、その後、殿下は少しだけ間を置きました。
「今日は、小講義室だな」
「はい」
「僕も緊張している」
先に言いました。
ナリア様は、少し驚いた後、柔らかく微笑みました。
「私もです」
「では、今日は緊張している者同士だ」
「はい」
それだけのやり取りでした。
でも、ナリア様の肩からほんの少し力が抜けたのが分かりました。
殿下が自分の緊張を隠さず伝えること。
それが、ナリア様の緊張を軽くすることがある。
最近の殿下は、そのことを少しずつ覚えています。
午前の授業中、私は発表の締めについて考えていました。
導入は決まりました。
中盤も大きな方向性が見えました。
残るは締めです。
締めは、発表の印象を決めます。
ここが重すぎれば、聞いた人は沈んだ気持ちで帰るでしょう。
軽すぎれば、何を聞いたのか分からなくなります。
今回の発表では、匿名文事件を直接語るわけではありません。
けれど、聞く人は必ず思い出します。
言葉が人を傷つけること。
言葉が責任を生むこと。
言葉を選び直すこと。
その全部を受け止めた上で、最後に何を残すのか。
とても難しい。
殿下もナリア様も、きっとそこに悩むでしょう。
だからこそ、今日は小講義室での練習だけでなく、締めの方向性も少し話し合う予定です。
昼休み。
ナリア様は、今日も私たちの席へ来てくださいました。
エレナ様は当然のように蜂蜜菓子を差し出します。
「本日は小講義室対策ですわ」
「それは、どういう蜂蜜菓子なのですか?」
ナリア様が少し笑いながら尋ねます。
「広い場所でも心が散らばらないよう、少し香りを強めにしております」
「本当に考えられているのですね」
「もちろんですわ」
私はもう突っ込まないことにしました。
ナリア様は一口食べて、少しだけ目元を緩めました。
「美味しいです」
「よかったですわ」
私はナリア様へ尋ねました。
「小講義室、不安ですか?」
ナリア様は頷きました。
「はい」
「はい」
「でも、少し楽しみでもあります」
「楽しみ?」
エレナ様が目を細めました。
ナリア様は、恥ずかしそうに微笑みました。
「開放学習室で練習した言葉が、広い場所でどう響くのか知りたいのです」
私はその言葉に、少し胸が温かくなりました。
不安だけではない。
怖いだけではない。
知りたい。
試したい。
そう思えるようになったことが、どれほど大きいか。
「ナリア様は、本当に前へ進んでおられますね」
私が言うと、ナリア様は頬を赤くしました。
「まだ、進めているかは分かりません」
「進んでいます」
エレナ様も頷きました。
「ええ。少なくとも、以前よりずっと」
ナリア様は少し黙りました。
そして、小さく言いました。
「殿下が、待ってくださるので」
その言葉は、静かでした。
でも、まっすぐでした。
「私が詰まっても、殿下がすぐに代わりに話すのではなく、待ってくださる。それが分かると、もう少し自分で話してみようと思えるのです」
私は、すぐには返事ができませんでした。
殿下に聞かせたい。
聞かせたいですが、危険です。
非常に。
「……殿下には、ほどよく」
「はい」
ナリア様は赤くなりながら即答しました。
「本当にほどよくでお願いします」
最近、殿下に関する伝達はすべて危険物取り扱いのようになっています。
放課後。
私たちは初めて、小講義室へ向かいました。
普段使っている開放学習室よりも廊下の奥にあり、扉も少し大きい。
中に入ると、空気が違いました。
机が整然と並び、正面に発表者用の台。
窓は高く、光は斜めに差し込んでいます。
声が少し響く造りでした。
誰もいないのに、部屋そのものが聞いているような感じがします。
ナリア様は入口で足を止めました。
殿下も一瞬、姿勢が硬くなります。
王太子としての顔に戻りかけました。
私は見逃しませんでした。
ですが、殿下は自分で気づきました。
ゆっくり息を吸い、吐きます。
「講話にしない」
小さく呟きました。
心得紙の言葉です。
ナリア様がそれを聞いて、少し笑いました。
「はい。研究会の発表です」
「ああ」
二人は並んで、発表位置へ向かいました。
まずは立ち位置の確認です。
小講義室では、開放学習室より聞き手との距離があります。
発表台の中央に立つと、殿下が中心になりすぎます。
そこで、少し横にずらし、二人が同じ高さで並べる位置を探しました。
「殿下が中央に立つと、どうしても王太子殿下の講話に見えます」
私が言うと、殿下は素直に頷きました。
「そうだな」
「ナリア様と並ぶなら、少し左右に開いた方がよいです」
レオン様が床の位置を示します。
「殿下はこちら。ナリア様はこちら。二人の間は近すぎず、離れすぎず」
ナリア様がその位置に立ちました。
殿下も隣へ。
広い部屋の正面に二人が並びます。
開放学習室で見るより、ずっと発表らしく見えました。
そして同時に、二人の距離がよく分かります。
近すぎない。
でも、同じ場所に立っている。
エレナ様が少し離れた席から見て、頷きました。
「良いですわ。お二人とも、きちんと並んで見えます」
レオン様も確認します。
「声の響きを見るため、導入だけ読んでみましょう」
殿下とナリア様が頷きました。
導入。
何度も練習した部分です。
しかし、小講義室では違って聞こえました。
殿下の声は、最初少し大きすぎました。
「本日は、王国史礼法研究会の小発表として――」
声が部屋に強く響きます。
王太子講話寄りです。
殿下自身も気づき、途中で少し調整しました。
ナリア様へ渡ります。
「言葉は、関係を作るものです」
ナリア様の声は、少し小さく感じました。
開放学習室では十分届いていた声が、小講義室では奥まで届ききらない。
ナリア様も気づいたようで、少し不安そうにしました。
殿下が動きかけます。
けれど、言葉で助けません。
ただ、自分の次の声を少し抑え、響きの強さを調整しました。
強すぎず、しかし奥へ届く。
それを聞いたナリア様が、次の自分の声を少しだけ前へ出しました。
全部を通し終えた時、二人とも少し疲れた顔をしていました。
小講義室の空気は、想像以上に難しいようです。
レオン様が冷静に言いました。
「殿下、最初が少し強すぎました。途中から良くなりました」
「自分でも分かった」
「ナリア様は、最初の声が少し小さめでした。後半は改善しています」
「はい」
ナリア様は頷きました。
「開放学習室より、声を前に出す必要がありますね」
「はい。ただし、叫ぶ必要はありません」
私は言いました。
「遠くへ投げるのではなく、奥まで置く感じです」
ナリア様が少し目を瞬かせました。
「奥まで置く」
「はい。投げると強くなりすぎます。でも、手前で落としても届きません。奥の席にも届くように、丁寧に置く感じです」
殿下が、心得紙を見ずに頷きました。
「僕の心得と同じだ」
「はい」
「遠くへ投げない」
「そうです」
ナリア様も小さく頷きました。
「奥まで置く……意識してみます」
二回目。
殿下は最初から声を調整しました。
王太子として響かせるのではなく、研究会の一員として届ける声。
ナリア様も、最初の一文を少し前へ出しました。
「言葉は、関係を作るものです」
今度は、奥の席まで届きました。
エレナ様が一番後ろの席に座って、頷きます。
「届いていますわ」
ナリア様の表情が少し明るくなりました。
殿下も嬉しそうです。
ただし、発表中なので表に出しすぎません。
よろしい。
中盤まで通すと、小講義室では重い言葉がより重く響くことも分かりました。
特に殿下の「信頼を預かる立場」という言葉は、部屋に深く響きます。
悪くはありません。
けれど、少し重い。
ナリア様の補足文が入ることで、ようやく空気が前へ向きます。
「間違えた言葉があっても、その後の言葉と行動で、関係を整え直すことはできます」
この一文は、小講義室でもよく届きました。
むしろ、広い場所の方が響いたかもしれません。
言い終えた後、少しの沈黙が落ちます。
聞き手が受け止めるための沈黙。
殿下は、その沈黙を怖がりませんでした。
すぐに次へ進まず、少しだけ待ちます。
そして、まとめました。
「だからこそ、私たちは言葉を選び続けなければならない」
良い流れです。
二回目が終わると、全員の表情が少し明るくなりました。
小講義室でも、いけます。
まだ課題はあります。
でも、届く。
それが分かりました。
「ナリア様」
エレナ様が後ろの席から言いました。
「最後の一文、とてもよく届きましたわ」
ナリア様は少し驚いた顔をしました。
「本当ですか?」
「はい。奥の席でも、ちゃんと」
ナリア様は、ほっとしたように笑いました。
「よかった……」
殿下がその横で、とても嬉しそうにしています。
でも、見すぎません。
今日はちゃんと奥の席も見ています。
成長です。
小講義室での練習の後半は、締めについて話し合う時間になりました。
正面の台に立ったままではなく、椅子に座って輪になるように。
小講義室の広さの中で、どう終わるべきか。
最初に口を開いたのはナリア様でした。
「締めは、聞いた方が自分の言葉を少し考えられるようなものがよいと思います」
「自分の言葉を考える」
殿下が繰り返します。
「はい。私たちが正しい答えを示すのではなく、皆様がそれぞれ、自分の言葉の扱いを振り返れるように」
私は頷きました。
「良い方向性ですね」
レオン様も言いました。
「説教にしない、という意味でも重要です」
殿下は少し考えました。
「王家からの教えのように聞こえない方がいい」
「はい」
「研究会として、一緒に考えましょう、という締めか」
ナリア様が頷きました。
「はい」
エレナ様が微笑みました。
「では、最後の言葉は殿下だけではなく、ナリア様と分けた方がよろしいのでは?」
殿下がナリア様を見ました。
ナリア様も殿下を見ます。
少し沈黙。
けれど、嫌な沈黙ではありません。
「僕だけで締めると、王太子としてのまとめになりすぎるかもしれない」
殿下が言いました。
「では、私が先に問いかけをして、殿下が研究会としての締めをされる形はどうでしょうか」
ナリア様が提案しました。
「問いかけ?」
「はい。『皆様も、誰かへ向ける言葉を一度立ち止まって考えてみてください』のように」
殿下は目を少し細めました。
「良いと思う」
その声は、とても穏やかでした。
「その後に、僕が『私たちも、この研究会で言葉を学び続けます』と締める」
レオン様がすぐに記録しました。
「良い構成です」
私も頷きます。
「一緒に考える発表として終われます」
エレナ様も満足そうです。
「重すぎず、軽すぎず、ですわね」
ナリア様は少し安心したように笑いました。
「よかったです」
殿下は、静かに言いました。
「ナリアの問いかけがあると、僕の締めも遠くならずに済む」
ナリア様の頬が赤くなります。
「私も、殿下が最後に締めてくださると思うと安心します」
殿下の顔も赤くなりました。
ですが、二人とももう崩れません。
照れながらも、そこに立っています。
私はその姿を見て、胸の奥がじんわり温かくなりました。
広い小講義室の中で、二人の言葉は以前より近く響いていました。
帰り際、小講義室の扉を閉める前に、殿下は一度だけ部屋を振り返りました。
「ここで発表するのだな」
「はい」
ナリア様が隣で頷きました。
「緊張します」
「僕もだ」
「でも、届くと分かりました」
「ああ」
殿下は少しだけ微笑みました。
「君の言葉は、奥まで届いていた」
ナリア様の頬が赤くなります。
「殿下の言葉も、近く聞こえました」
殿下は一瞬止まりました。
でも、呼吸しました。
「ありがとう」
その声は、小講義室の中で静かに響きました。
遠くへ投げた声ではありません。
近くから、奥まで届く声でした。
校舎を出ると、夕日はもうかなり傾いていました。
雲の隙間から差す光が、中庭の池を金色に染めています。
風は冷たいけれど、どこか澄んでいました。
殿下とナリア様は、いつもより少し疲れた様子で並んで歩いています。
けれど、その疲れは充実したものに見えました。
小講義室でも、言葉は届いた。
それを知った日の帰り道です。
エレナ様が隣で言いました。
「締めの形も見えてきましたわね」
「はい」
「本番が近づいてきました」
「はい」
「怖いですか?」
「少し」
「楽しみですか?」
「……少し」
エレナ様は笑いました。
「それなら大丈夫ですわ」
私は中庭の池を見つめました。
最初は、誰にも見られたくない密かな相談でした。
それが今、小講義室で二十七名の前に立とうとしている。
不思議で、少し怖くて、でも確かに誇らしい。
王太子殿下。
今日のあなたは、広い場所で近い言葉を探しました。
王太子として響かせるだけではなく、研究会の一員として、ナリア様の隣で届く声を見つけようとしました。
どうか本番でも。
遠くへ投げるのではなく、奥まで丁寧に置くように言葉を届けてくださいませ。
あなたとナリア様が並んで選んだ言葉なら、きっと小講義室の一番後ろまで、静かに届くはずです。




