第35話 王太子殿下、間で支える
支える、という言葉を聞くと、多くの人は何かを差し出すことを思い浮かべます。
手を伸ばす。
言葉をかける。
代わりに前へ出る。
困っている相手の足元に、すぐ板を渡す。
それは確かに支えです。
けれど時には、何もしないことが支えになる場合もあります。
相手が自分の足で立とうとしている時。
自分の言葉を探している時。
泣きそうになりながらも、まだ声を出そうとしている時。
そこで急いで助けてしまえば、その人が掴みかけた言葉まで奪ってしまうことがある。
だから、待つ。
沈黙を怖がらず、相手の次の言葉が生まれるまで、そこにいる。
今日のアルノルド殿下が覚えるべき支え方は、そういうものでした。
朝の開放学習室。
窓の外は薄く曇っていました。
けれど雨の気配はありません。
淡い光が校舎の石壁を撫で、学習室の机の上に白く落ちています。
机には、小発表の原稿が並んでいました。
導入。
中盤。
昨日、ナリア様の言葉によって形が整った部分です。
『間違えた言葉があっても、その後の言葉と行動で、関係を整え直すことはできます』
その一文が入ったことで、発表の中盤はただ重いだけではなくなりました。
過去の失敗を責めるためではなく、これから選び直すための話になった。
それは、今の研究会にふさわしい言葉でした。
そして今日は、その導入から中盤までを初めて通します。
つまり、発表の半分以上を続けて行う練習です。
殿下はいつもより早く来ていました。
心得紙を机に置き、原稿を読み、また心得紙へ視線を戻す。
その繰り返しです。
心得紙には、また新しい一文が増えていました。
『言葉で支えすぎない。間で支える』
私はそれを見て、少しだけ微笑みました。
「殿下、良い心得ですね」
殿下は顔を上げました。
「昨日、考えた」
「ナリア様の補足を受けてですか?」
「ああ」
殿下は原稿を見下ろしました。
「僕の言葉が重くなりすぎた時、ナリアが受け取れる形に戻してくれた」
「はい」
「僕も、ナリアが詰まった時に何か言うことだけが支えではないと、少し分かった気がする」
殿下は、指先で心得紙の文字をなぞりました。
「言葉を重ねるより、待つ方が必要な時がある」
私は静かに頷きました。
ここまで来るのに、ずいぶんかかりました。
最初の殿下は、言葉が足りないどころか、言葉の向きが反対でした。
好きな令嬢を前にすると、愛情ではなく冷たい悪態が出る。
後で泣く。
池に落ちる。
奇声を発する。
そんな殿下が今、相手の言葉を奪わないために「間で支える」と書いている。
人は変わるものです。
とても手間はかかりますが。
レオン様が資料を揃えながら言いました。
「本日の通し練習では、導入から中盤までを止めずに行います。途中で多少言い間違えても、最後まで進めることを優先します」
「止めない?」
殿下が少し緊張した声で尋ねました。
「はい。発表では、多少の揺れがあっても流れを保つことが大切です」
「ナリアが困った時は?」
「本当に困った時は助けてください。ただし、すぐ助けない」
「間で支える」
「はい」
殿下は頷きました。
「分かった」
その時、扉が軽く叩かれました。
ナリア様です。
彼女は今日も礼儀正しく入室し、柔らかく礼をしました。
「ごきげんよう」
殿下は立ち上がります。
もう、この挨拶もずいぶん自然になりました。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
ナリア様の声は穏やかでした。
けれど、手にした原稿を少し強く握っています。
緊張している。
殿下も気づいたはずです。
以前なら、すぐに「大丈夫か」と重ねていたでしょう。
けれど今日は、ほんの少しだけ間を置いてから言いました。
「今日は通し練習だな」
「はい」
「緊張している?」
決めつけず、尋ねました。
ナリア様は小さく頷きます。
「はい。少し」
「僕も緊張している」
殿下がそう言うと、ナリア様は少し目を見開きました。
そして、ふっと肩の力を抜きました。
「殿下もですか」
「ああ」
「では、少し安心しました」
殿下の顔が赤くなりかけました。
しかし、今日は心得紙を見るまでもなく、呼吸しました。
「それなら、よかった」
短い返事。
良いです。
ナリア様も少し笑いました。
エレナ様が扇の陰で満足そうにしています。
レオン様は記録紙を開きました。
今日も記録する気満々です。
午前の授業の間、学園では小発表に関する話題がさらに広がっていました。
どうやら見学希望者は二十名を超えたまま、さらに少し増えたようです。
開放学習室では入りきらないため、小講義室を使う方向で調整されていると聞きました。
小講義室。
それは、学園の中でも小規模な講義や発表に使われる部屋です。
開放学習室よりも広く、机も整然と並び、正面には発表者用の台があります。
つまり、より本番らしい。
より見られている感覚が強い。
殿下とナリア様に伝えるタイミングを慎重に選ぶ必要があります。
特に殿下。
小講義室と聞いた瞬間、王太子としての講話姿勢に戻る可能性があります。
それはそれで立派でしょう。
ですが、今回必要なのは王太子殿下の講話ではありません。
王国史礼法研究会の発表です。
ナリア様と並んで立つ殿下でなければなりません。
昼休み。
私はエレナ様と共に、ナリア様へまず会場変更の可能性を伝えました。
「小講義室……ですか」
ナリア様は少し緊張した顔になりました。
「はい。まだ確定ではありませんが、見学希望者が多いため、その可能性が高いです」
「そうですか」
ナリア様は、蜂蜜菓子を手にしたまま少し黙りました。
エレナ様は今日、丸い小さな菓子を用意しています。
「本日は通し練習用ですわ。途中で力が切れないよう、少し香ばしくしています」
「本当に毎回違うのですね」
ナリア様が少し笑いました。
笑えています。
大丈夫です。
「小講義室は、不安ですか?」
私が尋ねると、ナリア様は正直に頷きました。
「はい。不安です」
「はい」
「でも……開放学習室では入りきらないほど、聞きたいと思ってくださる方がいるのですよね」
「そうですね」
「それなら、逃げたくはありません」
ナリア様は静かに言いました。
その声には、以前より確かな芯があります。
「私たちが話す言葉を、誰かが必要としてくれているのかもしれませんから」
胸の奥が温かくなりました。
ナリア様は、もうただ守られる側ではありません。
自分の言葉が誰かに届くかもしれないと考え始めています。
「殿下にも、そうお伝えしてよろしいですか?」
私が尋ねると、ナリア様は一瞬で頬を赤くしました。
「そ、そのままは……」
「ほどよく」
「はい。ほどよくで」
最近、私の最重要任務は「ほどよく伝えること」になっている気がします。
放課後。
開放学習室には、椅子が昨日よりさらに多めに並べられていました。
小講義室を想定するためです。
もちろん実際の広さには及びませんが、空席の数を増やすだけで空気は変わります。
殿下は入室してすぐ、椅子の数を見ました。
「増えている」
「はい」
レオン様が答えました。
「本番は小講義室になる可能性が高いです」
殿下は、ぴたりと止まりました。
ですが、すぐに呼吸しました。
成長しています。
「小講義室か」
「はい」
「王族講話の時にも使ったことがある」
「そうでしょうね」
「……その時とは違う話し方が必要だな」
私は内心で拍手しました。
殿下、自分で気づきました。
王太子としての講話ではない。
研究会の一員としての発表。
それを理解しています。
「その通りです」
私が言うと、殿下は心得紙に書き足しました。
『小講義室でも講話にしない』
非常に分かりやすい。
ナリア様がその文字を見て、小さく笑いました。
「殿下らしい心得ですね」
殿下の顔が赤くなります。
でも、嬉しそうです。
「僕にはこれくらいはっきり書いた方がいい」
「はい。分かりやすいです」
ナリア様の声が柔らかい。
殿下は照れましたが、崩れません。
練習が始まりました。
今日は導入から中盤までの通し。
途中で止めず、最後まで進める。
並んで立つ二人の前には、空席がいくつも並んでいました。
誰も座っていないはずなのに、そこには確かな視線の圧があります。
殿下は一度、ナリア様を見ました。
ナリア様も殿下を見ます。
言葉はありません。
でも、二人とも頷きました。
始める合図です。
殿下が口を開きました。
「本日は、王国史礼法研究会の小発表に向けた導入案を確認する」
声は安定しています。
少し硬いけれど、以前ほどではありません。
「私たちが扱うのは、王国式典における誓約文と礼法である。式典の言葉は、ただ形式として読み上げられるものではない」
ナリア様へ渡ります。
ナリア様は息を吸いました。
「言葉は、関係を作るものです」
今日も、よく響きました。
私は何度聞いても、この一文に胸を打たれます。
導入は順調に進みました。
殿下もナリア様も、昨日より受け渡しが自然です。
そして中盤へ入ります。
私の歴史事例部分は、今日はレオン様が代読します。
本番では私が話す予定ですが、今日は殿下とナリア様の受け渡しに集中するためです。
レオン様の淡々とした説明の後、ナリア様の礼法部分へ入ります。
「礼法において、謝意や謝罪の言葉は、相手の立場を回復するためにあります」
少し声が硬くなりました。
中盤は、やはり重い。
「自分の事情を先に述べると、相手の痛みが後回しにされたように聞こえることがあります。だからこそ、まず相手が受けた痛みや不安を認めることが大切です」
ナリア様は言えました。
しかし、その次の一文で一瞬詰まりました。
昨日と違い、今日は導入から続けているため、集中力も緊張も重なっています。
殿下は隣で動きませんでした。
言葉で助けません。
ただ、ほんの少しだけ呼吸を深くしました。
ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。
それは、まるでナリア様に「急がなくていい」と伝えるような呼吸でした。
ナリア様が、その音に気づいたのかは分かりません。
でも、彼女も一度息を吸いました。
そして続けました。
「ただし、重い言葉を並べればよいわけではありません。相手が受け取れるように、丁寧に、正しく伝える必要があります」
言えました。
殿下は、何も言わずに待ちました。
間で支えました。
私は胸の奥で大きく頷きました。
次は殿下です。
「王家の言葉は、権威を示すためだけのものではない。信頼を預かる立場として、相手と向き合うためのものでもある」
声が少し重い。
しかし、昨日ほどではありません。
「言葉は、相手を従わせるためではなく、関係を支えるためにある」
そして、ナリア様へ渡ります。
ナリア様は、まっすぐ前を見ました。
「間違えた言葉があっても、その後の言葉と行動で、関係を整え直すことはできます」
綺麗に入りました。
昨日生まれた一文が、今日は中盤の中心になっています。
殿下が、その言葉を受けて最後にまとめました。
「だからこそ、私たちは言葉を選び続けなければならない。一度正しく言えたら終わりではなく、何度も、相手へ届く形を探し続ける必要がある」
終わりました。
導入から中盤まで、初めて止めずに通しました。
学習室に沈黙が落ちます。
誰もすぐには話しませんでした。
悪い沈黙ではありません。
通った。
それを全員が感じている沈黙です。
エレナ様がそっと拍手をしました。
それに続いて、私も拍手します。
レオン様も静かに頷きました。
「初回の通しとしては、十分です」
殿下とナリア様は同時に息を吐きました。
そのタイミングが少し揃っていて、私は思わず微笑みました。
ナリア様は、少し疲れた顔をしていました。
でも、表情は明るい。
「最後まで……いけました」
「はい」
私は頷きました。
「いけました」
殿下はナリア様を見ました。
言葉をかけたい。
褒めたい。
支えたい。
そういう気持ちが顔に出ています。
けれど、今日はすぐ言葉にしません。
少し間を置きました。
ナリア様が顔を上げるまで待ちました。
そして、言いました。
「最後まで、聞けてよかった」
ナリア様の瞳が揺れました。
「殿下が、待ってくださったので」
「君が続けたからだ」
このやり取りも、少しずつ二人のものになっています。
誰かが支え、誰かが立つ。
でも、片方だけの力ではない。
二人で進めている。
二回目の通し練習では、少し崩れました。
導入は問題ありませんでしたが、中盤で殿下の声が少し重くなりすぎました。
小講義室を想定したせいで、王太子としての声に寄りすぎたのです。
レオン様が止めます。
「殿下、今のは講話に近いです」
殿下は苦い顔をしました。
「自分でも少し感じた」
「王太子としての重みは必要ですが、研究会の発表であることを忘れないでください」
「分かった」
ナリア様が少し考え、言いました。
「殿下」
「はい」
「先ほどの言葉も立派でした。でも、少し遠くに聞こえました」
殿下は、その言葉を真剣に受け止めました。
「遠く」
「はい。王太子殿下のお言葉としては正しいのだと思います。でも、この研究会で聞きたい殿下の言葉は、もう少し近いものなのではないでしょうか」
私は息を止めました。
とても良い指摘です。
そして、ナリア様だからこそ言える言葉でした。
殿下は黙りました。
怒ったわけではありません。
考えています。
「近い言葉」
「はい」
「……分かった。もう一度試したい」
ナリア様は頷きました。
「はい」
三回目。
殿下は中盤の言葉を少し変えました。
「王家の言葉は、遠くから下すものではない。信頼を預かる立場として、相手の声を聞き、その上で返すものでもある」
先ほどより、ずっと近い。
王太子としての重みは残しながら、聞く姿勢が入っています。
ナリア様の表情が柔らかくなりました。
その後の受け渡しも自然でした。
三回目の終わり、レオン様が頷きました。
「今の方が良いです」
エレナ様も微笑みます。
「発表全体の距離が近くなりましたわ」
ナリア様も言いました。
「私も、今の殿下のお言葉の方が好きです」
言いました。
好き。
言葉としては、発表内容への好みです。
ですが、殿下にとっては破壊力があります。
殿下は完全に止まりました。
しかし、ナリア様も自分で言ってから気づいたようで、頬が赤くなりました。
学習室の空気が一瞬、固まります。
私は咳払いすべきか迷いました。
でも、しませんでした。
これは二人で戻る場面です。
殿下は、ゆっくり息を吸いました。
吐きました。
そして、少し赤い顔のまま言いました。
「ありがとう。僕も、今の方がしっくりくる」
よく返しました。
大変よく返しました。
ナリア様も、ほっとしたように微笑みました。
「はい」
この一言で、場が戻りました。
レオン様が何か記録しています。
エレナ様は扇で口元を隠しています。
私は、心の中で大きく拍手していました。
研究会の最後、次回の課題が決まりました。
導入から中盤までの通し練習をもう一度行うこと。
小講義室が正式に使用可能となった場合、実際の会場で一度立ち位置確認を行うこと。
終盤部分、つまり発表の締めの構成をそろそろ考え始めること。
締め。
それは、発表全体をどこへ向かわせるかを決める部分です。
重すぎず、軽すぎず、前を向ける終わり方。
また難しい課題です。
殿下は心得紙に書きました。
『締めは急がない』
ナリア様も、それを見て静かに頷きました。
「はい。急がず考えたいです」
殿下は柔らかく言いました。
「一緒に考えよう」
ナリア様の頬が赤くなりました。
「はい」
もう、こういう短いやり取りが自然になってきています。
慣れてはいけないような、でも慣れてきたような。
不思議な感覚です。
帰り道。
校舎を出ると、空は曇りの隙間から夕日が差し込んでいました。
雲の縁が金色に光り、中庭の池に淡く映っています。
風は少し冷たく、花壇の花が静かに揺れました。
殿下とナリア様は、少し前を並んで歩いています。
今日は、二人の間に穏やかな疲れが見えました。
通し練習を終えた後の疲れ。
でも、悪い疲れではありません。
やり切った後の静けさです。
エレナ様が隣で言いました。
「今日は、殿下が言葉ではなく間で支えましたわね」
「はい」
「そしてナリア様が、殿下の言葉を近づけました」
「はい」
「本当に、並んできましたわね」
私は頷きました。
並んできた。
その言葉が、今日ほどしっくり来る日はありません。
王太子殿下。
今日のあなたは、言葉で支えすぎず、間でナリア様を支えました。
そして、ナリア様の指摘を受け取り、自分の言葉を遠くから近くへ変えることができました。
どうか明日も。
一人で立派な言葉を作ろうとせず、隣の声と呼吸を合わせてくださいませ。
あなた方が一緒に選ぶ言葉は、きっと小講義室の奥まで、そして誰かの心の奥まで届くはずです。




