第32話 王太子殿下、隣の声を待つ
隣に立つ、というのは、ただ横に並ぶことではありません。
相手が話し始めるまで待つこと。
相手の声が震えても、すぐに代わりに話さないこと。
言葉に詰まった時、助け舟を出すべきか、それとも自分で続ける時間を残すべきかを見極めること。
そして何より。
自分の声だけで場を満たさないこと。
王太子殿下にとって、それはなかなか難しいことでした。
朝の開放学習室。
机の上には、小発表の導入原稿が並んでいました。
昨日、殿下とナリア様は初めて並んで導入部分を練習しました。
最初こそ緊張していましたが、三度目にはかなり自然になっていました。
ですが、ナリア様が「もう少し導入を安定させたい」とおっしゃったため、今日は導入部分をもう一度丁寧に練習することになっています。
殿下は、その判断を急かさず受け入れました。
とても大きな進歩です。
そして今日の課題は、さらに一つ。
「殿下。本日は、ナリア様の声を待つ練習です」
私がそう言うと、殿下は真剣に頷きました。
「待つ」
「はい」
「ナリアが言葉に詰まっても、すぐに助けない」
「はい」
「困っているかどうかを決めつけない」
「はい」
「ただし、本当に困っていたら助ける」
「そうです」
殿下は眉間にしわを寄せました。
「難しい」
「難しいです」
私は素直に頷きました。
これは本当に難しい。
待てと言われれば完全に黙ってしまう人もいます。
助けろと言われれば先回りしすぎる人もいます。
その中間を取るのは、とても繊細なことです。
特に殿下は、ナリア様が少しでも困った顔をすると、すぐに助けたくなる方です。
以前なら、その助けたい気持ちが変な方向へねじれて、冷たい言葉になっていました。
今は冷たい言葉こそ減りましたが、今度は過保護に傾きかける危険があります。
つまり、油断はできません。
レオン様が心得紙を殿下の前へ置きました。
そこには、昨日までの数々の言葉が並んでいます。
『待つ』
『焦らない』
『任せる』
『追い詰めない』
『呼吸』
『相手を隠さない』
『並ぶ時は前に出すぎない』
『正式になっても偉くならない』
そして今日、殿下は新しく書き足しました。
『隣の声を待つ』
美しい字でした。
けれど、内容はかなり実践的です。
エレナ様が微笑みました。
「殿下、今日は昨日より少し難易度が上がりますわね」
「ああ」
「ですが、ナリア様は昨日よりきっと話しやすくなっていると思いますわ」
「そうだろうか」
「はい。殿下が急がなくていいとおっしゃったからです」
殿下の顔が少し赤くなりました。
「そうか」
「はい。あの一言は、とても良かったですわ」
褒められました。
殿下は心得紙を見ます。
『褒められた後ほど慎重に』
呼吸しました。
よろしい。
「浮かれない」
殿下が小さく呟きました。
「はい」
私たちは全員で頷きました。
午前の授業が始まると、学園内の空気がまた少し変わっていることに気づきました。
王国史礼法研究会の小発表について、興味を持つ生徒が増えているようなのです。
「小発表、見学できるのかしら」
「希望者だけらしいですわ」
「王国式典の誓約文でしょう? 少し難しそうです」
「でもナリア様が礼法の説明をされるなら聞いてみたいですわ」
「殿下も出られるのよね」
「最近の殿下なら、きっと落ち着いてお話しされるでしょうね」
落ち着いて。
その言葉が、殿下に届いたらまた大変かもしれません。
でも、良い変化です。
以前の殿下は、冷たい、近寄りがたい、怖い。
そんな印象を持たれていました。
今は、落ち着いて話す方として見られ始めています。
ナリア様も同じです。
お可哀想な令嬢ではなく、礼法を説明できる方。
自分の言葉で立つ方。
そのように見られ始めている。
学園の空気は、少しずつですが、確かに変わっています。
昼休み。
ナリア様は、少し緊張した表情で私たちの席へ来ました。
エレナ様は今日も蜂蜜菓子を準備しています。
「本日は導入安定祈願の蜂蜜菓子ですわ」
「祈願までつきましたか」
私が言うと、エレナ様は当然のように頷きました。
「正式研究会ですもの。菓子にも役割が必要です」
「そういうものですか」
「そういうものですわ」
ナリア様はくすりと笑い、蜂蜜菓子を受け取りました。
「ありがとうございます。いただきます」
少し食べて、表情が和らぎます。
私はその様子を見て、ほっとしました。
「ナリア様、今日の練習は導入部分をもう一度です」
「はい」
「殿下には、ナリア様の声を待つようお伝えしています」
「私の声を?」
「はい。もし途中で言葉に詰まっても、すぐに助けすぎないように、と」
ナリア様は、少し驚いた顔をしました。
それから、目元を柔らかくします。
「殿下は、そういうことも練習してくださっているのですね」
「はい」
「……ありがたいです」
その声は、とても静かでした。
「以前は、殿下の前で言葉に詰まるのが怖かったです。何か言われるのではないかと思って」
「はい」
「でも今は、少し待っていただけるなら、自分で続けられるかもしれないと思えます」
私は頷きました。
「それを今日、少しずつ試しましょう」
「はい」
ナリア様は、蜂蜜菓子の包みをそっと閉じました。
「私も、殿下の隣で話す練習をしたいです」
その言葉は、昨日よりも少し強く聞こえました。
怖いだけではない。
やってみたい。
その気持ちが、だんだん形を持ち始めています。
放課後。
開放学習室には、いつもより早く全員が集まりました。
扉の札は今日もかかっています。
『王国史礼法研究会 活動中』
その札を見ると、やはり少し背筋が伸びます。
正式な場所。
名前のある場所。
そして、殿下とナリア様が少しずつ並ぶ練習をする場所です。
今日も簡易の発表位置を作りました。
窓側に二人。
私たちは聞き手役です。
ただし今日は、昨日より少しだけ本番を意識するために、椅子の間隔を広げました。
聞き手が複数いる感覚を出すためです。
殿下はそれを見て、少し緊張したようでした。
「昨日より広いな」
「はい」
「本番に近づけるためか」
「そうです」
「……分かった」
殿下は心得紙を見ました。
『隣の声を待つ』
『見られていても普段通り』
『褒められた後ほど慎重に』
確認項目が多いです。
けれど、殿下は一つずつ頷いています。
ナリア様も原稿を持ち、深呼吸していました。
エレナ様が優しく声をかけます。
「ナリア様、今日は止まっても大丈夫ですわ」
「はい」
「発表練習ですもの。止まるための練習でもあります」
「止まるための練習……」
「はい。止まっても、また続けられることを知るためです」
ナリア様は、その言葉をゆっくり受け止めました。
「はい。やってみます」
練習が始まりました。
最初は昨日と同じ導入文です。
殿下が一歩前に出すぎない位置に立ち、ナリア様と並びます。
「本日は、王国史礼法研究会の小発表に向けた導入案を確認する」
少し硬いですが、昨日より声は安定しています。
「私たちが扱うのは、王国式典における誓約文と礼法である。式典の言葉は、ただ形式として読み上げられるものではない」
殿下がナリア様へ視線を向けます。
合図。
自然です。
ナリア様が息を吸いました。
「言葉は、関係を作るものです」
声は震えていません。
昨日より安定しています。
「王家と貴族、貴族と貴族、そして人と人。どの関係においても、言葉は相手を尊重するためにあります」
そこまでは順調でした。
しかし、次の一文でナリア様の声が少し止まりました。
資料のどこを読むのか、一瞬分からなくなったのかもしれません。
殿下が反射的に動きかけます。
助けたい。
その気配がありました。
私は息を止めました。
咳払いはしません。
ここは、殿下の練習です。
隣の声を待つ。
殿下は、唇を引き結びました。
そして、待ちました。
ナリア様は一瞬、殿下を見ました。
殿下は何も言いません。
ただ、少しだけ頷きました。
大丈夫だと。
急がなくていいと。
そう言っているような小さな頷きでした。
ナリア様は、もう一度資料へ視線を落としました。
そして、続けました。
「本研究会では、王国史と礼法の両面から、言葉がどのように信頼を作り、また損なわれた信頼をどう整え直すのかを考えていきます」
言えました。
私は胸の奥で大きく息を吐きました。
殿下も、明らかにほっとしています。
でも、そこで余計な言葉は挟みません。
自分の番へ戻ります。
「歴史は、言葉がただ飾りではないことを示している。誓約、謝意、責任、礼状。その一つ一つが、時に家同士の関係を変え、国の在り方に影響してきた」
そして最後まで、二人は導入を通しました。
終わった瞬間、ナリア様は少し肩の力を抜きました。
殿下も同じです。
レオン様が記録紙に何かを書き、静かに言いました。
「一度止まりましたが、再開できました。非常に良い練習です」
エレナ様も頷きます。
「ナリア様、止まった後の再開がとても自然でしたわ」
ナリア様は少し顔を赤くしました。
「一瞬、分からなくなってしまって」
「それでよいのです」
私は言いました。
「本番でも、言葉に詰まることはあります。大切なのは、そこから戻れることです」
ナリア様は頷きました。
「はい」
殿下は、ナリア様を見ました。
そして慎重に言葉を選びました。
「途中で止まっても、最後まで聞けてよかった」
ナリア様が顔を上げます。
「殿下……」
「君が自分で続けたことが、すごいと思った」
すごい。
短く、まっすぐな褒め言葉。
重すぎません。
ナリア様の頬が赤くなりました。
「ありがとうございます。殿下が待ってくださったので」
今度は殿下が赤くなりました。
ですが、今日は呼吸しています。
良いです。
とても良いです。
二度目の練習では、ナリア様は止まりませんでした。
ただし、最初より少し早口になりました。
緊張からでしょう。
殿下はそれに合わせて自分まで早く話しそうになりましたが、途中で気づいて速度を落としました。
これは意外と大切です。
隣で話す相手の緊張につられすぎないこと。
自分が落ち着いた速度を保つことで、相手も戻れることがあります。
レオン様がその点を指摘しました。
「殿下、二度目はよく速度を戻されました」
「ナリアが少し早くなったので、僕もつられそうになった」
「そこで戻せたのは良い判断です」
殿下は少し嬉しそうにしました。
しかし、すぐに心得紙を見ました。
浮かれない。
最近、本当に身についてきています。
三度目。
今度は、ナリア様が自分で少し間を取ることを意識しました。
言葉と言葉の間。
聞き手が受け取る時間。
礼法の説明らしく、落ち着いた速度で話します。
殿下もそれに合わせ、全体の調子がかなり整いました。
導入としては、かなり良い形になってきています。
「これなら、希望者の前でも十分聞きやすいと思います」
私が言うと、ナリア様はほっとしたように笑いました。
「本当ですか?」
「はい」
殿下も頷きました。
「僕もそう思う」
ナリア様は殿下を見ました。
「殿下も、昨日よりずっと自然でした」
褒め言葉です。
殿下は少し赤くなりました。
でも、今日は崩れません。
「ありがとう。君が隣にいてくれたから、話しやすかった」
言いました。
自然に。
少し踏み込んでいます。
でも、とても素直でした。
学習室の空気が、ふわりと温かくなります。
ナリア様は一瞬、言葉を失いました。
それから、小さく微笑みました。
「私も、殿下が隣で待ってくださったので、続けられました」
殿下の顔がさらに赤くなります。
危険。
ですが、ここで私が咳払いする必要はありませんでした。
二人とも、ちゃんと呼吸しています。
少し赤いだけです。
大丈夫です。
練習後、レオン様が今後の予定を確認しました。
「導入はかなり安定しました。次回は中盤に進みたいところですが、ナリア様の希望は?」
以前なら、ナリア様は周囲の空気を読んで「大丈夫です」と言ったかもしれません。
でも今日は、少し考えてから答えました。
「導入をもう一度だけ確認してから、中盤に進みたいです」
殿下がすぐに頷きました。
「僕もそれがよいと思う」
ナリア様が少し驚いたように殿下を見ました。
「殿下も?」
「ああ。今日、止まっても戻れることは分かった。次は安定して通せることを確認してからの方がいい」
レオン様が頷きました。
「妥当です」
私は少し感動していました。
殿下が、ナリア様の希望を受け止めるだけでなく、同じ方向の理由を出せています。
急がない。
安定させる。
相手と同じ歩幅で進む。
あれほど焦っていた殿下が、今はそれを自分で言えるようになっているのです。
エレナ様も、満足そうに微笑みました。
「では、次回は導入の総仕上げですわね」
「はい」
ナリア様が頷きました。
「よろしくお願いいたします」
殿下も、静かに言いました。
「こちらこそ」
研究会が終わった後、私は活動記録を書きました。
『導入練習継続。ナリア様、一度停止後、自力で再開。殿下、補助を急がず待つ。三度目で全体の間が安定。次回、導入最終確認後に中盤へ移行予定』
正式な記録としては、これで十分です。
でも、本当はもっと書きたいことがありました。
ナリア様が止まった時、殿下が待てたこと。
殿下の小さな頷きで、ナリア様が続けられたこと。
ナリア様が「殿下が待ってくださったので」と言った時の、殿下の表情。
そういうものは、記録には残りません。
けれど、私の中には残ります。
帰り道。
校舎を出ると、夕方の空は淡い紫色でした。
中庭の花壇には柔らかな風が吹き、池の水面が小さく揺れています。
殿下とナリア様は、少し前を歩いていました。
今日は昨日より少しだけ近い距離です。
けれど、近すぎません。
並んで歩いています。
殿下が何かを言い、ナリア様が頷きました。
その後、少し沈黙があります。
でも、その沈黙は穏やかでした。
急がない沈黙。
待つ沈黙。
隣の声を信じる沈黙。
私はその背中を見ながら、静かに息を吐きました。
エレナ様が隣で言いました。
「今日は、良い練習でしたわね」
「はい」
「殿下、本当に待てるようになりました」
「はい」
「マリア様の咳払い、今日もなしでしたわ」
「そうですね」
「寂しいですか?」
「少し」
「嬉しいですか?」
「とても」
エレナ様は笑いました。
「なら、順調ですわ」
順調。
その言葉が、今日は素直に胸に落ちました。
王太子殿下。
今日のあなたは、隣の声を待てました。
ナリア様が言葉に詰まっても、奪わず、急かさず、ただ続けられるように待てました。
どうか明日も。
隣に立つ人の声を信じてくださいませ。
あなたが待つことで、ナリア様はきっと、自分の言葉をもっと遠くまで届けられるようになるのですから。




