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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第31話 王太子殿下、並んで立つ練習をする


 誰かと並んで立つ、というのは、思っているより難しいことです。


 前に出すぎれば、相手を隠してしまう。


 後ろに下がりすぎれば、相手にすべてを背負わせてしまう。


 肩を並べるには、相手の歩幅を知らなければなりません。


 声の大きさ。

 言葉の速度。

 緊張した時の癖。

 沈黙が必要な瞬間。


 それを一つずつ知っていく。


 今日のアルノルド殿下に必要なのは、まさにその練習でした。


 王国史礼法研究会として正式に認められた翌日。


 開放学習室の扉には、昨日エレナ様が書いた札がかかっていました。


『王国史礼法研究会 活動中』


 その文字を見るたびに、私は少しだけ背筋が伸びます。


 もうここは、王太子殿下の恋愛相談室ではありません。


 ……いえ、実態としてはまだ半分ほどそうですが。


 少なくとも、表向きには正式な研究会です。


 活動記録も残さなければなりません。


 発表準備も進めなければなりません。


 そして何より、殿下とナリア様が人前で並んで話す準備を始めなければならないのです。


「並んで話す」


 朝の学習室で、殿下が真剣に復唱しました。


「はい」


「僕とナリアが」


「はい」


「人前で」


「小規模発表ですので、最初は十数名程度の予定です」


「十数名」


 殿下は心得紙を見ました。


 最近では、何かあるたびに心得紙を見るのが習慣になっています。


 そこに今日、新しく書き足すべき言葉を、私は静かに提案しました。


『並ぶ時は、相手を隠さない』


 殿下はその文字をじっと見つめました。


「相手を隠さない」


「はい」


「僕が話しすぎない、ということか」


「それもあります」


 レオン様が頷きました。


「殿下が発表の大半を担うと、王太子講話になります。研究会としての発表ではなくなります」


「分かっている」


「また、ナリア様が話している途中で補足しすぎないことも重要です」


「補足しすぎ」


「はい。助けたい気持ちで言葉を重ねると、ナリア様の説明を奪う形になります」


 殿下は少し苦い顔をしました。


「やりそうだ」


「自覚があるなら大丈夫です」


 私は言いました。


「今日は、そのための練習をします」


 エレナ様が楽しそうに扇を開きました。


「発表練習ですわね」


「はい。まずは導入部分だけ」


「導入」


 殿下が少し緊張しました。


「ナリアと並んで?」


「はい。ただし今日は私たちだけです」


「それでも緊張する」


「本番はもっと緊張します」


「分かっている」


 殿下は深く息を吸いました。


 吐きました。


 呼吸はもうかなり自然になってきています。


 以前なら、言われるまで止まっていました。


 今は、自分で整えようとしています。


 それだけでも大きな進歩です。


「導入文は、昨日ナリア様が提案された『言葉は関係を作るもの』から始める予定です」


 私が言うと、殿下の表情が少し柔らかくなりました。


「あれは良い言葉だった」


「はい」


「ナリアらしい」


 言ってから、殿下は少し赤くなりました。


 しかし、重くはありません。


 自然な一言です。


 エレナ様がにこにこと見ています。


「殿下、今のはよろしいですわ」


「そうか」


「はい。重くありません」


「重くない判定があるのか」


「ありますわ」


 レオン様が記録紙に何かを書きました。


「自然な褒め言葉、記録」


「それも記録するのか」


「必要です」


 殿下は諦めたように息を吐きました。


 最近、レオン様の記録に抵抗することをやめつつあります。


 これも成長でしょうか。


 少し違う気もします。


 午前の授業が終わる頃には、研究会の小発表について生徒たちの間でも少し話題になっていました。


「王国史礼法研究会、発表をするそうですわ」

「殿下もお話しされるのかしら」

「ナリア様の礼法のお話、聞いてみたいです」

「ルイート様の王国史も評判がよいそうですわ」

「事件の後なのに、ちゃんと活動されているのですね」

「むしろ、あの件があったからこそ言葉の扱いを学ぶ意味があるのかもしれませんわ」


 その声を聞いて、私は不思議な気持ちになりました。


 あの事件は、できれば起きてほしくなかったことです。


 傷ついた人がいます。


 怖い思いをした人もいます。


 だから、あれがあってよかったなどとは絶対に言えません。


 けれど、あの件を通して、学園内で言葉の重さについて考える空気が生まれました。


 そして今、その流れが研究会の小発表へつながろうとしています。


 痛みを、ただの痛みで終わらせない。


 そこに意味を与えるのは、たぶんこれからの私たちの行動なのです。


 昼休み。


 ナリア様は少し緊張した様子で私たちの席へ来ました。


 エレナ様がいつものように蜂蜜菓子を差し出します。


「本日は発表練習前なので、緊張対策の柑橘蜂蜜ですわ」


「名前が本格的になってきましたね」


 私が言うと、エレナ様は誇らしげに頷きました。


「研究会正式化に伴い、菓子も正式運用です」


「活動記録に載せますか?」


「ぜひ」


「載せません」


 私が即答すると、ナリア様が笑いました。


 その笑顔を見て、私は安心しました。


 緊張はしているけれど、笑える。


 なら、大丈夫です。


「ナリア様」


「はい」


「今日の練習、不安ですか?」


 ナリア様は少し考えてから頷きました。


「はい。不安です」


「無理はしなくて大丈夫です」


「でも、やってみたいです」


 その返事は、昨日よりもさらに確かなものでした。


「殿下と並んで話すのは、少し緊張します。でも……怖いだけではありません」


 また、その言葉です。


 怖いだけではない。


 それは、ナリア様にとって大きな変化です。


 以前なら、殿下の隣に立つことは怖さの方が大きかったでしょう。


 今は違います。


 緊張の中に、少しの期待がある。


「殿下もかなり緊張されています」


 私が言うと、ナリア様は小さく笑いました。


「殿下も?」


「はい。朝から心得紙を見ていました」


「今日は何が増えたのですか?」


「並ぶ時は、相手を隠さない、です」


 ナリア様は一瞬目を丸くし、それから柔らかく笑いました。


「殿下らしいですね」


「殿下らしい、ですか?」


「はい」


 ナリア様は蜂蜜菓子を見つめながら言いました。


「最近の殿下は、何かを大切にしようとすると、きちんと言葉にして覚えようとなさるので」


 その言葉に、私は少し胸を打たれました。


 ナリア様は、殿下の変化をちゃんと見ています。


 心得紙を笑うのではなく、殿下が努力して覚えようとしている姿として受け止めている。


「そのこと、殿下に伝えたら泣くかもしれません」


「えっ」


 ナリア様が慌てました。


「泣く、までは」


「いえ、可能性はあります」


 エレナ様が真面目に頷きました。


「かなり」


「では、伝えないでください」


「ほどよくにします」


 最近の私たちは、殿下に何をどこまで伝えるかの匙加減が非常に重要になっています。


 その匙加減を間違えると、殿下が赤くなったり固まったり燃え尽きたりします。


 忙しい方です。


 放課後。


 開放学習室には、正式活動らしい空気がありました。


 机の配置を少し変え、窓側に簡易の発表位置を作ります。


 聞き手役として、私、エレナ様、レオン様が座ります。


 発表者役は殿下とナリア様。


 まずは導入部分だけ。


 たった数分です。


 それでも、二人にとっては大きな練習です。


 殿下は心得紙を一度見てから、窓側へ立ちました。


 ナリア様もその隣へ。


 二人の距離は、近すぎず遠すぎず。


 肩が触れるほどではありません。


 けれど、並んでいると分かる距離です。


 殿下はナリア様の少し前に出かけました。


 私は無言で見ました。


 殿下は気づき、半歩下がりました。


 よろしい。


 相手を隠さない。


 早速生きています。


 レオン様が進行役として言いました。


「では、導入部分をお願いします」


 殿下が息を吸いました。


 ナリア様も、小さく息を整えます。


 最初は殿下です。


「本日は、王国史礼法研究会の小発表に向けた導入案を確認する」


 少し硬い。


 王太子殿下です。


 けれど、落ち着いています。


「私たちが扱うのは、王国式典における誓約文と礼法である。式典の言葉は、ただ形式として読み上げられるものではない」


 そこで殿下は、少しだけナリア様へ視線を向けました。


 合図です。


 見すぎではありません。


 自然です。


 ナリア様が続けました。


「言葉は、関係を作るものです」


 その声は、最初少し震えていました。


 でも、はっきり届きました。


「王家と貴族、貴族と貴族、そして人と人。どの関係においても、言葉は相手を尊重するためにあります」


 殿下は、ナリア様の横で静かに聞いていました。


 口を挟みません。


 補足しません。


 ただ、聞いています。


 ナリア様は一度だけ資料へ視線を落とし、続けました。


「本研究会では、王国史と礼法の両面から、言葉がどのように信頼を作り、また損なわれた信頼をどう整え直すのかを考えていきます」


 そこで、殿下へ戻ります。


 殿下は頷き、言いました。


「歴史は、言葉がただ飾りではないことを示している。誓約、謝意、責任、礼状。その一つ一つが、時に家同士の関係を変え、国の在り方に影響してきた」


 落ち着いています。


 非常に王太子殿下らしい導入です。


 ですが、今日はそこで終わらせません。


 殿下は少しだけ声を柔らかくしました。


「だからこそ、私たちは言葉を慎重に扱わなければならない」


 その言葉は、最近の殿下自身の経験にも重なっていました。


 けれど、重すぎません。


 発表の言葉としても自然です。


 最後に、ナリア様が締めます。


「本日は、その第一歩として、式典文に込められた敬意と責任についてお話しします」


 沈黙。


 練習の導入が終わりました。


 私は手元の記録紙を見ながら、思わず息を吐きました。


 良い。


 とても良いです。


 殿下は前に出すぎませんでした。


 ナリア様は言葉を飲み込まずに言えました。


 二人の間の受け渡しも、想像以上に自然でした。


 エレナ様が最初に拍手しました。


 上品な、小さな拍手です。


「とても良かったですわ」


 レオン様も頷きます。


「導入として十分です。殿下、少し硬さはありましたが、内容は明確でした。ナリア様、声の震えはありましたが、言葉は聞き取りやすかったです」


 私も言いました。


「お二人の役割が分かりやすかったです。殿下が王家側の重みを、ナリア様が礼法と言葉の意味を伝えていて、研究会らしい導入でした」


 ナリア様がほっとしたように息を吐きました。


「よかったです……」


 殿下も少し肩の力を抜きます。


「ナリアの言葉が、とても良かった」


 ナリア様の頬が赤くなりました。


 殿下は続けそうになりました。


 私は少し身構えました。


 しかし殿下は自分で止まりました。


「……分かりやすかった」


 よく止めました。


 ナリア様は、嬉しそうに微笑みました。


「ありがとうございます。殿下の導入も、とても落ち着いていました」


 殿下が赤くなります。


 ですが、心得紙が遠い。


 大丈夫でしょうか。


 殿下は一度目を閉じ、呼吸しました。


 自力です。


「ありがとう」


 短い感謝。


 成功です。


 エレナ様が小さく拍手を増やしました。


「お二人とも、見事ですわ」


 レオン様が記録紙に書き込みます。


「並び位置、受け渡し、声量、改善点あり。ただし全体として良好」


「グラシア様、評価が本格的ですね」


 ナリア様が少し驚いたように言うと、レオン様は真面目に答えました。


「正式研究会ですので」


 その一言で、全員が少し笑いました。


 二度目の練習では、殿下の硬さが少し取れ、ナリア様の声も安定しました。


 ただし殿下が一度、ナリア様の言葉に頷きすぎて聞き手のようになってしまい、レオン様に「発表中です」と注意されました。


 殿下は赤くなっていました。


 ナリア様は笑いを堪えていました。


 三度目では、二人の息が少し合いました。


 導入の受け渡し。


 視線の流れ。


 言葉の間。


 まだ完璧ではありません。


 けれど、並んで立つ形が見えてきました。


 その姿を少し離れて見ていた私は、胸の奥にまたあの感覚を覚えました。


 嬉しい。


 そして、少し寂しい。


 もう二人は、私が間に立たなくても、同じ方向を向いて話せるようになりつつあります。


 それは、相談役として望んでいたはずのことです。


 でも、いざ目の前で見ると、少しだけ置いていかれるような気持ちもありました。


 そんな私の横に、エレナ様がそっと来ました。


「マリア様」


「はい」


「今、少し寂しい顔をしていましたわ」


「……顔に出ていましたか」


「ええ」


「嬉しいのです」


「分かっています」


 エレナ様は、発表練習をしている二人を見ながら言いました。


「でも、寂しいのも自然ですわ。大切に育ててきた距離ですもの」


「育ててきた、ですか」


「ええ。殿下の呼吸も、ナリア様の言葉も、マリア様はずっとそばで見ていましたから」


 私は少し黙りました。


 確かに。


 最初は巻き込まれただけでした。


 でも今は、二人が少しずつ話せるようになることを、本当に願っています。


 だからこそ、嬉しい。


 だからこそ、寂しい。


「相談役は、いつか卒業するものなのでしょうか」


 私が呟くと、エレナ様は微笑みました。


「卒業というより、役割変更ではありません?」


「役割変更」


「はい。咳払い係から、研究会仲間へ」


 その言葉に、私は少し笑いました。


「咳払い係は正式役職ではありません」


「でも最重要でしたわ」


「否定しきれません」


 私たちは小さく笑いました。


 練習の最後、殿下とナリア様は並んで私たちの前に立ちました。


 先ほどより、ずっと自然です。


 レオン様が総評を述べました。


「本日の段階としては十分です。次回は中盤部分の練習に入れます」


「もう中盤へ?」


 ナリア様が少し不安そうに言いました。


 殿下がすぐに口を開きかけました。


 大丈夫だ、と言いかけたのでしょう。


 しかし、止まりました。


 代わりに、ナリア様を見て言いました。


「不安なら、導入をもう少し練習してからでもいい」


 ナリア様が殿下を見ました。


「よろしいのですか?」


「ああ。急がなくていい」


 その言葉。


 以前、私が何度も殿下へ言った言葉です。


 急がなくていい。


 それを今、殿下がナリア様へ自然に言いました。


 私は胸の奥が熱くなりました。


 ナリア様も、何かを感じたようでした。


 少し目を細めて、柔らかく頷きます。


「ありがとうございます。では、導入をもう少し安定させたいです」


「分かった」


 殿下は頷きました。


「一緒に練習しよう」


 自然でした。


 本当に、自然な一言でした。


 ナリア様は、頬を赤くしながらも微笑みました。


「はい」


 その瞬間、私は思いました。


 今日は咳払いどころか、言葉を止める必要が一度もなかったと。


 殿下は、ちゃんとナリア様の不安を聞きました。


 大丈夫だと押しつけず、急がなくていいと返しました。


 ナリア様も、自分の希望を言えました。


 もう、二人は並んで立つ練習を始めています。


 研究会が終わる頃、窓の外には夕焼けが広がっていました。


 橙色の光が学習室に差し込み、机の上の資料を染めています。


 殿下とナリア様は、発表原稿を見ながら少し話しています。


 レオン様は記録をまとめ、エレナ様は蜂蜜菓子の包みを片付け、私は活動記録に今日の内容を書きました。


『小発表導入練習。殿下、ナリア様による分担発表。導入文の構成確認。次回も導入部分を継続練習』


 正式な記録です。


 そこには、殿下が赤くなったことも、ナリア様が笑ったことも、私が少し寂しかったことも書きません。


 でも、それらも確かに今日の活動の一部でした。


 帰り道。


 校舎を出ると、夕風が頬を撫でました。


 中庭の花壇には、薄紫の花が揺れています。


 池の水面には、夕焼けが静かに映っていました。


 前方で、殿下とナリア様が並んで歩いています。


 昨日より、少しだけ自然に。


 レオン様は少し後ろ。


 私はエレナ様と並んで、その背中を見ていました。


「並んでいますね」


 私が言うと、エレナ様が頷きました。


「ええ。まだ少しぎこちないですけれど」


「でも、並んでいます」


「はい」


 その事実だけで、胸がいっぱいになりました。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、ナリア様と並んで立つ練習をしました。


 前に出すぎず、言葉を奪わず、不安を聞き、急がなくていいと伝えられました。


 どうか明日も。


 隣に立つとは、守ることだけではなく、相手の声を同じ高さで響かせることだと忘れないでくださいませ。


 そしていつか本番の日に。


 あなたとナリア様が、同じ場所で、同じ方向を見て話せますように。

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