第30話 王太子殿下、名前のある場所を得る
場所に名前がつくと、人の気持ちは少し変わります。
ただ集まっていただけの時間。
誰かを助けるために急ごしらえで作った口実。
噂を避けるための、少し不格好な盾。
それでも、何度も同じ場所に集まり、同じ机を囲み、言葉を交わしているうちに、それはただの口実ではなくなっていきます。
そして正式に名前を与えられた時。
その場所は、誰かに隠れるためのものではなく、胸を張って立てる場所になるのです。
その日、私たちの学術研究会は、正式な活動として学園に認められることになりました。
朝の廊下には、いつものように生徒たちの声が流れていました。
けれど、その声の中に以前のような刺々しさはほとんどありません。
「王国史礼法研究会、正式活動になるそうですわ」
「殿下とナリア様も参加されているところでしょう?」
「ルイート様が中心になっていると聞きましたわ」
「最近の殿下、ずいぶん落ち着かれましたものね」
「ナリア様も、前よりお話ししやすそうですわ」
「事件の後も続けられるなんて、きちんとした会なのですわね」
王国史礼法研究会。
それが、教師側から提案された正式名称でした。
長い。
少し硬い。
けれど、私たちらしい名前でもあります。
王国史。
礼法。
王家式典。
誓約文。
言葉の責任。
私たちがこの数週間で向き合ってきたものが、全部その名の中に含まれているようでした。
もっとも、最初からそんな立派な目的があったわけではありません。
始まりは、池に落ちた王太子殿下の恋愛相談です。
……正式名称には、絶対に書けません。
朝の開放学習室に入ると、殿下はすでに来ていました。
机の上には資料と心得紙。
そして、教師から渡された正式活動申請書の控え。
レオン様がそれを丁寧に確認しています。
エレナ様はいつものように蜂蜜菓子を持ってきていました。
ナリア様は少し遅れて来る予定です。
「王国史礼法研究会」
殿下が、少し感慨深そうに名前を読み上げました。
「正式な会になるのだな」
「はい」
私は頷きました。
「これで、密会だの何だのと言われにくくなります」
「それは大きい」
レオン様が淡々と言いました。
「また、活動記録を残すため、外部から見ても健全な会であると示せます」
「健全……」
殿下が少しだけ目を逸らしました。
私は言いました。
「殿下、最初の頃の内容は記録に残しません」
「本当に頼む」
「はい」
「池の件も?」
「残しません」
「奇声の件も?」
「残しません」
エレナ様が扇の陰で笑いました。
「奇声の件、詳しく伺いたいですわ」
「バートン嬢、聞かなくていい」
「残念です」
殿下は本当に困った顔をしていました。
最初の頃を思えば、このような会話ができること自体、ずいぶん遠くまで来たものです。
泣いて、叫んで、自分を責めて、池に落ちた王太子殿下。
その方が今、正式な研究会の活動申請書を見て、少し誇らしげにしている。
不思議です。
とても不思議です。
けれど、嬉しい。
「殿下」
レオン様が言いました。
「正式活動となる以上、殿下にも一定の役割が必要です」
「僕の役割は、王家式典と王国法の視点だったな」
「はい。加えて、会の後援者としてではなく、一構成員として参加する姿勢が重要です」
「王太子として場を支配しない」
「その通りです」
殿下は心得紙を見ました。
『場を支配しない』
『普通の日ほど丁寧に』
『見られていても普段通り』
すでに必要な言葉は揃っています。
殿下はそこへ、新しく書き足しました。
『正式になっても偉くならない』
私は思わず微笑みました。
「分かりやすいですね」
「自分で見てすぐ思い出せる方がいい」
「良いと思います」
エレナ様がにこりと笑います。
「では、ナリア様がいらした時も、正式活動になったからといって格好つけすぎてはいけませんわね」
「格好つけすぎる?」
「はい。『この会は君と共に築いた未来への礎だ』など」
「言わない」
「思いました?」
「……少し」
レオン様が記録しました。
「重すぎる表現候補、追加」
「もう増やさなくていい」
「油断は禁物です」
今日も平和です。
平和という言葉の意味を考え直したくなりますが、少なくとも以前よりはずっと穏やかです。
しばらくして、ナリア様が来ました。
入口で柔らかく礼をします。
「ごきげんよう」
殿下は立ち上がりました。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
自然な挨拶です。
ナリア様も微笑みました。
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
以前と同じ言葉。
けれど、響きが違います。
もう、怯えや緊張だけではありません。
少しの照れと、少しの安心が混じっています。
殿下も、それを感じているのでしょう。
顔が赤くなりかけましたが、今日はすぐに呼吸しました。
よろしい。
レオン様が申請書の控えをナリア様に見せました。
「ナリア様。本日より、この会は正式に王国史礼法研究会として認められる見込みです」
ナリア様は目を見開きました。
「正式に……ですか?」
「はい」
「すごいです」
その言葉は、心からのものでした。
ナリア様は書類をそっと見つめます。
「最初は、少し不安でした。殿下と同じ場にいることも、周囲の目も」
殿下の表情が少し痛みました。
でも、ナリア様は続けます。
「でも今は、この場所があってよかったと思っています」
学習室の空気が静かになりました。
ナリア様は、少し照れたように笑います。
「ここでは、私の言葉を聞いていただけますから」
殿下の瞳が揺れました。
その言葉は、殿下にとってどれほど大きかったでしょう。
私はすぐに咳払いの準備をしました。
でも、殿下は自分で呼吸しました。
そして、静かに言いました。
「僕も、この場所があってよかったと思っている」
短く、まっすぐな言葉でした。
ナリア様が殿下を見ます。
「はい」
「君の言葉を聞ける場所だから」
少し踏み込みました。
けれど、自然です。
ナリア様の頬が淡く赤くなりました。
「ありがとうございます」
それだけ。
けれど、部屋の空気が温かくなりました。
エレナ様が蜂蜜菓子を机に置きます。
「では、正式化記念ですわ」
「やはり用意していたのですね」
私が言うと、エレナ様は当然のように頷きました。
「記念日には甘いものです」
「いつもありますよね」
「毎日が何かの記念日ですわ」
なるほど。
最強の理屈です。
研究会は、正式名称にふさわしく、今日は活動方針を決めるところから始まりました。
レオン様が進行します。
「まず、活動目的です。王国史と礼法を通じ、式典文書、誓約、貴族間の言葉の扱いについて研究する」
「かなり堅いですね」
私が言うと、レオン様は頷きました。
「正式書類ですので」
エレナ様が付け加えました。
「裏の目的として、殿下の呼吸訓練も」
「書かない」
殿下が即答しました。
ナリア様が小さく笑います。
「ですが、殿下の呼吸訓練も大切です」
「ナリアまで」
「大切です」
ナリア様が真面目に言うので、殿下は言葉を失いました。
けれど、少し嬉しそうでもあります。
複雑です。
殿下の感情は最近とても忙しい。
役割分担も正式に決まりました。
レオン様は全体進行と法的確認。
私が王国史と記録の一部。
エレナ様が資料整理と場の調整。
ナリア様が礼法と式典作法。
殿下が王家式典と王家側の責務。
それぞれが自分の得意分野を持ち寄る形です。
「ルイート嬢」
殿下が私を見ました。
「はい」
「君は、この会の発案者として名前を載せるべきだ」
「えっ」
思わず声が出ました。
「発案者は、殿下では?」
「いや。僕は最初、ただ君に相談していただけだ」
そうですね。
泣きながら。
池に落ちながら。
けれど、それは言いません。
「だが、君が学術研究会という形を提案してくれた。君がいなければ、ここまで来られなかった」
殿下の声は、真剣でした。
私は少し困りました。
「私は、巻き込まれて何とか形にしただけです」
「それでもだ」
ナリア様も、静かに言いました。
「私も、ルイート様のお名前がある方がよいと思います」
「ナリア様まで」
「はい。この場所を作ってくださったのは、ルイート様ですから」
胸の奥が、じわりと温かくなりました。
少し恥ずかしい。
少し困る。
でも、嬉しい。
エレナ様が微笑みます。
「諦めましょう、マリア様」
「……分かりました」
私は小さく頷きました。
発案者として、名前を載せる。
その重みを少し感じます。
これはもう、ただの恋愛相談ではないのだと。
正式な活動として、私も責任を持つのだと。
そう思うと、背筋が自然と伸びました。
その日の昼休み、学園内には研究会正式化の話が少しずつ広がっていました。
「王国史礼法研究会、参加者を増やすのかしら」
「成績優秀者中心なのでしょう?」
「ナリア様が礼法担当なんて、ぴったりですわ」
「ルイート様は王国史がお得意なのね」
「殿下が一構成員として参加されるなんて、珍しいですわね」
「でも最近の殿下なら、何となく分かりますわ」
殿下が変わった。
ナリア様が変わった。
私たちの研究会が、きちんとした場所になった。
その認識が、少しずつ広がっています。
もちろん、すべての声が好意的とは限りません。
中には面白く思わない者もいるでしょう。
でも、以前のように悪意が一方向へ集まる雰囲気ではありません。
学園そのものが、少し慎重になったのかもしれません。
匿名文事件は苦い出来事でした。
けれど、言葉の扱いについて考えるきっかけにはなった。
それだけは、確かなようでした。
食堂でナリア様と並んで座っていると、遠くから数人の令嬢が声をかけてきました。
「クラウゼン様、王国史礼法研究会、正式になるそうですわね」
ナリア様は少し驚きましたが、丁寧に微笑みました。
「はい。その予定です」
「すごいですわ。礼法の発表などもされるのですか?」
「まだそこまでは決まっていませんが、いずれ小さな発表ができればと話しています」
「楽しみにしております」
令嬢たちは、好意的に笑って去っていきました。
ナリア様は少しだけ息を吐きます。
「緊張しました」
「でも、自然でしたよ」
私が言うと、ナリア様は頬を赤くしました。
「最近、以前より話しかけていただくことが増えました」
「良い変化ですね」
「はい。少し不思議です」
ナリア様は、食堂のざわめきを見渡しました。
「前は、私の周りには心配の目が多かった気がします。でも今は、少し違うように感じます」
「ナリア様ご自身が、言葉で立たれたからだと思います」
「私が?」
「はい」
ナリア様は少し考えました。
「まだ、立てているとは思えません」
「震えながらでも、言えました」
「……はい」
「それで十分です」
ナリア様は、柔らかく笑いました。
「ルイート様は、いつもそう言ってくださいますね」
「本当のことですから」
エレナ様が隣で頷きます。
「そして殿下にも、同じことを言っていますわ」
「殿下にも?」
「はい。震えながらでも呼吸していれば十分、と」
「それは少し違うのでは」
ナリア様が笑いました。
その笑い声が、本当に自然で。
私は少し泣きそうになりました。
もちろん泣きません。
ですが、嬉しかったのです。
放課後。
正式化後、最初の研究会は、いつもより少しだけ背筋が伸びるものになりました。
開放学習室の扉には、仮の札がかけられています。
『王国史礼法研究会 活動中』
手書きの札です。
エレナ様が丁寧に書いてくれました。
その文字を見た瞬間、殿下は少しだけ表情を変えました。
「本当に、名前がついたのだな」
「はい」
ナリア様も札を見つめて微笑みました。
「素敵です」
殿下はその言葉を聞いて、とても嬉しそうにしました。
ただし、浮かれすぎませんでした。
心得紙を見ていたからです。
今日の新項目。
『正式化に浮かれない』
実に分かりやすい。
研究会では、今後の小発表について話し合いました。
学園内の希望者向けに、王国式典の誓約文について短い発表をする案です。
教師側からも、研究会として実績を残すなら小規模な発表がよいと言われています。
「発表者はどうしますか?」
私が尋ねると、レオン様が答えました。
「初回は全員で分担するのがよいでしょう。殿下だけが話すと王家講話のようになります」
「確かに」
殿下も頷きます。
「僕は一部分でよい」
ナリア様が少し考えました。
「礼法の部分なら、私がお話しできます」
殿下がナリア様を見ました。
「君の説明は分かりやすい。礼法部分はぜひ頼みたい」
自然な褒め言葉。
ナリア様の頬が淡く赤くなりました。
「ありがとうございます。頑張ります」
殿下も赤くなりかけましたが、呼吸しました。
よろしい。
エレナ様が微笑みます。
「殿下、今のはとても自然でしたわ」
「そうか」
「はい」
殿下は少し嬉しそうです。
しかし、すぐに心得紙を見ました。
『褒められた後ほど慎重に』
自分で自分を制御しています。
本当に成長しました。
直接議論の時間も設けられました。
今日は正式活動初日なので、短めです。
議題は、小発表の導入文について。
殿下とナリア様が窓側の小さな机で意見を交わします。
私たちは少し離れて資料整理。
もう、この形も少しずつ慣れてきました。
「導入では、難しい言葉を避けるべきだと思います」
ナリア様が言いました。
「なぜだろう」
「初めて聞く方にも、これは自分たちに関係のある話だと思っていただきたいからです」
「なるほど」
殿下は頷きました。
「王家式典というと、王族や高位貴族だけのものに聞こえる。だが、実際には臣下との関係全体に関わる」
「はい。ですから、最初に『言葉は関係を作るもの』と示せたらよいのではないでしょうか」
殿下の目が少し輝きました。
「良い表現だ」
ナリア様が少し照れます。
「そうでしょうか」
「ああ。分かりやすい」
殿下は一度止まりました。
何か重い褒め言葉が出そうだったのでしょう。
しかし、言いませんでした。
「使わせてもらってもいいだろうか」
「もちろんです」
ナリア様は嬉しそうに微笑みました。
殿下も、穏やかに頷きました。
その様子を少し離れた場所から見て、私は思いました。
もう、二人の間に流れる沈黙は、怖いものばかりではありません。
考える沈黙。
照れる沈黙。
言葉を選ぶ沈黙。
そういうものが増えています。
以前の沈黙は、痛みを含んでいました。
殿下が冷たい言葉を言った後の沈黙。
ナリア様が傷ついて俯く沈黙。
殿下が後悔して泣く沈黙。
でも今は違います。
二人は沈黙の中でも、逃げずに向き合っています。
研究会の最後に、教師が学習室へ顔を出しました。
「正式活動の許可が下りました。来週からは、活動記録を提出するように」
全員が立ち上がり、礼をしました。
「ありがとうございます」
殿下が代表して答えます。
教師は少し微笑みました。
「王太子殿下が一構成員として活動する研究会とは珍しい。だが、良い形で進んでいるようだ。期待しています」
「はい」
殿下は少し緊張しながらも、落ち着いて答えました。
「会の一員として、努めます」
会の一員として。
その言葉に、私は少し感動しました。
殿下は、王太子として場を支配するのではなく、一員として立とうとしている。
それは、簡単なことではありません。
教師が去った後、エレナ様が小さく拍手しました。
「正式許可、おめでとうございます」
ナリア様も微笑みます。
「おめでとうございます」
私も頷きました。
「これで、本当に正式な研究会ですね」
殿下は少しだけ照れたように言いました。
「ああ」
そして、私たちを見ました。
「皆、ありがとう」
自然な感謝。
最初の頃からは考えられないほど、柔らかい声でした。
その日の夕方。
校舎を出ると、空は澄んだ橙色に染まっていました。
中庭の池が、その色を静かに映しています。
思えば、すべてはあの池から始まりました。
誰が使うのか分からない校舎裏の庭。
小さな花壇。
小さな池。
横長のベンチ。
そこにいた泣き虫で残念な王太子殿下。
あの時は、まさかこの奇妙な縁が正式な研究会になるとは思いもしませんでした。
まして、殿下とナリア様がこんなふうに並んで歩けるようになるなんて。
前方では、殿下とナリア様が少しだけ会話をしています。
レオン様は一歩後ろ。
エレナ様は私の隣。
私は、少し離れた場所からその背中を見ていました。
「マリア様」
エレナ様が言いました。
「今日は、嬉しそうですわね」
「はい」
「寂しさは?」
「あります」
「正直でよろしいです」
「でも、それ以上に嬉しいです」
エレナ様は満足そうに微笑みました。
「相談役は、もう少し続きそうですわね」
「はい。ただ、形は変わっていきそうです」
「それでよいのですわ」
私は頷きました。
研究会に名前がついたように。
私の役割も、少しずつ名前を変えていくのでしょう。
咳払い係から、橋渡し役へ。
橋渡し役から、見守る仲間へ。
そしていつか、ただ同じ研究会の一員として笑える日が来るのかもしれません。
王太子殿下。
今日のあなたは、名前のある場所を得ました。
隠れるための場所ではなく、ナリア様の言葉を聞き、自分の言葉を整え、皆と共に立つ場所です。
どうか明日からも。
その場所で、王太子としてだけでなく、一人の人として、ナリア様と向き合ってくださいませ。
この王国史礼法研究会が、あなたの恋と言葉を育てる場所であり続けますように。




