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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第29話 王太子殿下、見られていることを知る


 人は、自分が変わったことには案外気づきません。


 毎日少しずつ言葉を選び、少しずつ呼吸を覚え、少しずつ相手の表情を見る時間を減らしていく。


 その変化は、本人にとっては必死の積み重ねです。


 けれど、周囲から見ると、ある日ふと分かるのです。


 あれ。


 前と違う、と。


 その日、アルスード学園の廊下には、そんな小さな気づきがいくつも落ちていました。


「最近、殿下とナリア様、普通にお話しされていますわよね」

「ええ。以前は少し近寄りがたい雰囲気でしたのに」

「ナリア様も、前よりお顔が柔らかくなられた気がします」

「殿下も……何というか、以前より怖くありませんわ」

「怖いというより、冷たい印象でしたものね」

「今は、ちゃんと相手の話を聞いていらっしゃる感じがしますわ」


 私は廊下を歩きながら、その声を聞いていました。


 声は悪意ではありません。


 むしろ戸惑いと好意が混じっています。


 少し前なら、殿下とナリア様の話題は、もっと痛々しいものでした。


 殿下がまたナリア様へ冷たい言葉を言った。

 ナリア様がお可哀想。

 殿下は本当にナリア様をどう思っていらっしゃるのか。


 そうした声ばかりでした。


 その後は、匿名文事件のせいでさらに歪みました。


 ナリア様の気持ちを勝手に使った噂。

 私と殿下の関係を疑う声。

 ベアトリス様の影。


 けれど、今聞こえる声は違います。


 殿下とナリア様が、普通に話している。


 それを周囲が、ようやく見始めているのです。


「マリア様」


 隣を歩くエレナ様が、少し楽しそうに私を見ました。


「聞こえました?」


「はい」


「良い噂ですわね」


「噂に良いも悪いもあるのか、少し疑問ですが」


「ありますわ。少なくとも、今回のは以前よりずっと健全です」


「それは確かに」


 私は小さく頷きました。


 殿下の努力は、ナリア様にだけではなく、周囲にも届き始めています。


 言葉を選ぶこと。


 急かさず聞くこと。


 見すぎないこと。


 感謝を短く伝えること。


 それらは、劇的ではありません。


 でも、毎日続ければ人の印象を変えます。


 私はそのことを、廊下の囁きから実感していました。


「殿下に伝えますか?」


 エレナ様が尋ねました。


「悩みます」


「浮かれますものね」


「はい」


「かなり」


「はい」


「ですが、努力が周囲にも伝わっていると知るのは大切ですわ」


「そうですね」


 褒め言葉は危険です。


 けれど、まったく伝えないのも違います。


 殿下は今、褒められた後に浮かれすぎない練習中です。


 ならば、適度に受け取る練習も必要でしょう。


 ……適度に。


 ここが難しいのですが。


 朝の開放学習室では、殿下がすでに心得紙を広げていました。


 今日も真剣です。


 机の上には昨日までの項目が並び、その下に新しい余白があります。


 レオン様は資料を整え、殿下の様子を観察しています。


「殿下」


「ルイート嬢」


 殿下が顔を上げました。


 少し緊張しています。


 最近、朝の報告には何かしら新しい課題が含まれているため、身構える癖がついたようです。


「本日の課題の前に、少し良い報告があります」


「良い報告」


 殿下の背筋が伸びました。


 危険です。


 すでに少し浮かびかけています。


「はい。廊下で、殿下とナリア様が以前より自然にお話しされている、という声を聞きました」


 殿下が固まりました。


 目が見開かれます。


 レオン様が即座に言いました。


「殿下、呼吸を」


 殿下は吸いました。


 吐きました。


 しかし顔が赤い。


「周囲が……」


「はい」


「僕とナリアが、自然に話していると」


「はい」


「ナリアの顔が柔らかくなったと?」


「それも聞こえました」


 殿下は机に手を置きました。


 私はすぐに言いました。


「殿下」


「はい」


「ここで走ってはいけません」


「分かっている」


「今日、急にナリア様との会話時間を伸ばしてはいけません」


「分かっている」


「周囲が見ているからといって、意識しすぎてもいけません」


「……それは少し難しい」


 正直でよろしい。


 レオン様が心得紙に新しく書きました。


『見られていても普段通り』


 殿下はその文字をじっと見ました。


「見られていても普段通り」


「はい」


 レオン様が淡々と言います。


「殿下は周囲に良く見られようとすると、王太子としての完璧な振る舞いに戻りすぎる恐れがあります」


「戻りすぎる?」


「はい。礼儀正しすぎて、ナリア様との距離が逆に固くなります」


 私は頷きました。


「逆に、浮かれて近づきすぎても困ります」


「つまり?」


 殿下が尋ねます。


「いつも通りです」


 エレナ様がにこやかに言いました。


「いつも通り、聞く。急かさない。感謝する。見すぎない。重くしない。呼吸する」


「やることが多いな」


「慣れてきたでしょう?」


「少しは」


 殿下は、少しだけ苦笑しました。


 その笑みは以前より自然でした。


 私はその変化にも気づきました。


 殿下は笑えるようになっています。


 自分の失敗や不器用さを、少しだけ受け入れられるようになっています。


 以前は自分を責めて泣くばかりでした。


 今も落ち込むことはあります。


 けれど、そこから戻ってこられる。


 大きな成長です。


「本日の直接議論は?」


 殿下が尋ねました。


「昨日と同じく十分程度です」


「議題は」


「式典後の礼状についてです。誓約文や謝罪文より少し軽めの内容にします」


「軽め」


「はい。普通の研究会らしく」


 殿下は頷きました。


「分かった」


 そして心得紙に、自分で書き足しました。


『良い噂にも浮かれない』


 私は微笑みました。


「良いですね」


「かなり浮かれそうだからな」


「自覚があるのは良いことです」


 レオン様が頷きました。


「本当に」


 午前の授業は、いつもより少し明るい雰囲気でした。


 事件の余波はまだあります。


 ベアトリス様は今日は登校していましたが、指導活動から外されたことで、以前のように中心に立つことはありません。


 彼女は静かに授業を受け、休み時間には必要最低限の会話だけをしていました。


 周囲の生徒たちも、どう接すればよいかまだ迷っているようです。


 ただ、昨日の謝罪の話が少しずつ広まったせいか、彼女を見る目は以前ほど冷たいものばかりではありませんでした。


「ダルモア様、謝罪されたそうですわ」

「自分の不安をナリア様の名で語った、と認められたとか」

「それを言えるのは、簡単ではありませんわね」

「でも、したことは消えませんわ」

「ええ。けれど、これからどうされるかですわね」


 周囲もまた、簡単に断罪しない方向へ少し動いています。


 これは、殿下やナリア様の姿が影響しているのかもしれません。


 怒りで叩くのではなく、責任を明らかにし、その後を見る。


 その姿勢が、少しずつ学園にも伝わっている。


 そう思うと、匿名文事件は痛ましい出来事でしたが、何も残さなかったわけではないのだと感じました。


 昼休み。


 食堂では、いつもの席にナリア様が来てくださいました。


 最近、これもかなり自然になってきました。


 礼法研究会の令嬢たちとも変わらず交流しながら、時々私たちの席にも来る。


 誰もそれを不自然とは見なくなっています。


 以前なら、私とナリア様が一緒にいるだけで、何か含みのある視線が向けられていたのに。


 これもまた、変化です。


「ナリア様」


 エレナ様が今日も蜂蜜菓子を出しました。


「今日は控えめな甘さですわ」


「毎日違うのですね」


 ナリア様は楽しそうです。


「研究会の議題に合わせております」


「今日の議題は何でしたか?」


「式典後の礼状です」


「では、控えめな甘さなのですね」


「そうですわ」


 本当でしょうか。


 しかしナリア様が笑っているので良しとします。


 私は、昼休みのうちにナリア様へも周囲の噂について少し伝えるか迷いました。


 良い噂とはいえ、意識しすぎると緊張させてしまうかもしれません。


 ですが、ナリア様も自分が見られていることは感じているはずです。


 何も言わないより、少し共有した方がよいでしょう。


「ナリア様」


「はい」


「今朝、廊下で殿下とナリア様が自然にお話しされるようになった、という声を聞きました」


 ナリア様の頬が、ふわりと赤くなりました。


「そ、そうなのですか」


「はい。好意的な声でした」


「……少し恥ずかしいです」


「そうですね」


「でも……」


 ナリア様は手元の蜂蜜菓子を見ました。


「以前のように、お可哀想だと言われるよりは、ずっと嬉しいです」


 その言葉に、私は静かに頷きました。


「はい」


「殿下が頑張ってくださっていることを、周りの方にも少し見ていただけているのなら……それも嬉しいです」


 ナリア様の声は柔らかでした。


 殿下に聞かせたい。


 でも聞かせたら危険。


 この判断が最近ますます難しくなっています。


 エレナ様が微笑みました。


「殿下へ、ほどよくお伝えしますわ」


 ナリア様は少し慌てました。


「ほどよくでお願いします」


「もちろんです。呼吸に支障が出ない程度に」


 この表現もすっかり定着しました。


 午後。


 開放学習室へ向かう前、私は廊下で一つ気になる光景を見ました。


 ベアトリス様が、セシリア様と短く話していたのです。


 セシリア様はまだ別室対応が続いていますが、教師に付き添われながら少しずつ通常の授業へ戻る準備をしています。


 その廊下の端で、二人は向かい合っていました。


 距離はあります。


 教師も近くにいます。


 声は聞こえませんでした。


 けれど、ベアトリス様は深く頭を下げていました。


 セシリア様は、泣きそうな顔でそれを見ていました。


 長い会話ではありません。


 すぐに教師が促し、二人は別々の方向へ歩いていきました。


 私はその光景を、ただ見ていました。


 ベアトリス様は、昨日の言葉を行動に移そうとしているのかもしれません。


 謝って終わりではなく、傷つけた相手へ向ける言葉を探している。


 それが本当に続くかどうかは分かりません。


 でも、少なくとも一歩は踏み出していました。


 放課後の研究会で、そのことを簡単に共有しました。


 殿下は静かに聞き、頷きました。


「そうか」


「はい」


「セシリア嬢は?」


「泣きそうでしたが、逃げてはいませんでした」


「……そうか」


 殿下は少し目を伏せました。


「ベアトリス嬢も、選び直そうとしているのかもしれない」


 ナリア様が静かに言いました。


「そうだといいですね」


「ああ」


 殿下は頷きました。


「ただ、僕たちがそれを急かすことではないな」


「はい」


 ナリア様が微笑みました。


「待つのですね」


 殿下は少し笑いました。


「また待つ」


「殿下は待つのがお上手になりましたから」


 来ました。


 褒め言葉です。


 殿下は一瞬固まりました。


 しかし、心得紙を見ました。


『良い噂にも浮かれない』

『褒め言葉は受け止める。走らない』


 完璧な備えです。


 殿下は呼吸しました。


「ありがとう」


 短く返しました。


 成功です。


 研究会は、今日も穏やかに始まりました。


 議題は式典後の礼状。


 地味です。


 でも、地味な議題を普通に話せることが、今はとても大切でした。


 レオン様が説明します。


「式典後の礼状は、単なる形式ではありません。相手の協力や参加を正式に記録し、関係を継続する意思を示すものです」


 エレナ様が資料を開きました。


「つまり、式典が終わった後こそ大切なのですね」


「はい」


 私は王国史の例を示しました。


「過去には、式典そのものは成功したにも関わらず、後日の礼状が遅れたことで地方家が軽んじられたと感じ、関係が悪化した例があります」


 ナリア様が頷きました。


「礼法でも、終わった後の言葉はとても大切です。出来事が終わったからといって、関係が終わるわけではありません」


 殿下が、その言葉を静かに受け止めました。


「区切りは終わりではない、か」


 以前、殿下が心得紙に書いた言葉です。


 ナリア様もそれを覚えていたようで、柔らかく頷きました。


「はい」


 しばらく全員で議論した後、今日も殿下とナリア様が窓側の小さな机へ移動しました。


 直接議論は十分以内。


 私たちは少し離れて見守ります。


 今日の殿下は、昨日より落ち着いているように見えました。


 ただし、周囲から見られていることを意識しているのか、姿勢が少し硬い。


 見られていても普段通り。


 今日の課題です。


 殿下が口を開きました。


「礼状について、君の考えを聞いてもいいだろうか」


「はい」


 ナリア様は資料を開きました。


「礼状は、相手に対して『あなたの存在をきちんと受け止めました』と伝えるものだと思います」


「存在を受け止める」


「はい。参加してくださったこと、協力してくださったこと、時間を使ってくださったこと。それを形式として残すことで、相手が軽んじられていないと示します」


 殿下は頷きました。


「なるほど。式典中の礼だけでは足りないのだな」


「はい。終わった後に何もなければ、その場だけのものだったように感じる場合もあります」


「関係を続けるための言葉か」


「そうです」


 ナリア様は少し考えてから続けました。


「人と人の関係も、似ているかもしれません」


 殿下の表情が少し変わりました。


 しかし、すぐに前のめりにはなりません。


 待っています。


「大きな出来事があった時だけ言葉を交わすのではなく、その後も小さな言葉を重ねることが大切なのだと思います」


 殿下は静かに聞いていました。


「小さな言葉」


「はい。ありがとう、とか。今日は来てくれて嬉しい、とか。休めてよかった、とか」


 ナリア様は言ってから、少し頬を赤くしました。


 それは最近、殿下がナリア様へ言ってきた言葉たちです。


 殿下も気づいたのでしょう。


 顔が赤くなりました。


 けれど、逃げません。


「それは……届いているだろうか」


 少しだけ不安そうな声でした。


 ナリア様は、資料から顔を上げました。


「はい」


 短く、はっきりした返事でした。


 殿下が息を止めかけます。


 しかし、何とか呼吸しました。


 ナリア様は続けました。


「届いています。少しずつですが、ちゃんと」


 殿下の手が、机の上でわずかに動きました。


 嬉しさ。


 驚き。


 安心。


 それらが全部顔に出そうになっています。


 危険ですが、今日は止めません。


 殿下は自分で言葉を選びました。


「ありがとう」


 そして、少しだけ続けました。


「これからも、ちゃんと届くようにしたい」


 重くありません。


 自然です。


 ナリア様は、穏やかに微笑みました。


「はい」


 私は中央机で、その光景を見守っていました。


 もう、私が入る余地はほとんどありません。


 寂しい。


 でも、それ以上に嬉しい。


 二人の言葉が、ちゃんと二人の間で行き交っています。


 研究会後、レオン様が発表しました。


「本日の見すぎ回数は四回です」


 殿下が少し誇らしそうにしました。


「減った」


「はい」


 ナリア様が笑いました。


「殿下、本当に努力されているのですね」


 殿下はまた赤くなりました。


 ですが、今日はすぐに答えました。


「君に安心して話してほしいから」


 部屋が静かになりました。


 今の言葉は、少し踏み込みました。


 けれど、あまりにも自然でした。


 ナリア様の頬が赤くなります。


 エレナ様が扇で口元を隠し、レオン様が珍しく少しだけ目を細めました。


 私は咳払いをしませんでした。


 必要ないと思ったからです。


 ナリア様は、小さな声で言いました。


「……安心しています」


 殿下の顔がさらに赤くなりました。


 しかし、今度も言葉を重ねませんでした。


 ただ、深く頷きました。


「よかった」


 それだけ。


 本当に、それだけ。


 でも、その一言がとても温かく響きました。


 帰り道。


 私はエレナ様と並んで校舎を出ました。


 夕方の空は淡い橙色で、中庭の池にその色が揺れています。


 殿下とナリア様は少し前を歩いていました。


 レオン様も近くにいますが、以前より距離を取っています。


 二人は何かを話しているようでした。


 聞こえません。


 でも、聞こえなくていいのだと思いました。


「マリア様」


 エレナ様が言いました。


「今日は咳払い、ありませんでしたわね」


「はい」


「寂しいですか?」


「少し」


「嬉しいですか?」


「かなり」


 エレナ様は満足そうに笑いました。


「それでよいと思いますわ」


 私は中庭の池を見ました。


 すべての始まりの場所。


 泣いていた王太子殿下。


 池に落ちた王太子殿下。


 残念で、ヘタレで、でも必死だった王太子殿下。


 その殿下が今、ナリア様と普通に話しています。


 周囲からも、それが見え始めています。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、見られていることを知っても普段通りを保ちました。


 良い噂にも、褒め言葉にも浮かれすぎず、ナリア様の小さな言葉をちゃんと受け止めました。


 どうか明日も。


 周囲の目に振り回されず、ナリア様へ届く小さな言葉を重ねてくださいませ。


 その積み重ねは、もう私たちだけでなく、学園の空気さえ少しずつ変え始めているのですから。

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