第28話 王太子殿下、褒められた後に浮かれない
褒め言葉というものは、思っている以上に危険です。
人を励ますこともあります。
背中を押すこともあります。
今まで怖くて踏み出せなかった一歩を、そっと支えてくれることもあります。
けれど、受け取る側が慣れていないと、褒め言葉は時に人を浮かれさせます。
少しできた。
認められた。
なら、次はもっとできるのではないか。
もっと話してもよいのではないか。
もっと近づいてもよいのではないか。
そう考えてしまうのです。
そして、アルノルド殿下は。
残念ながら、褒められることに慣れておりませんでした。
いえ、王太子殿下として褒められることは多かったはずです。
成績が優秀だとか。
所作が美しいとか。
王族として立派だとか。
そうした言葉は、きっと幼い頃から浴びるほど受けてきたでしょう。
ですが。
ナリア様から褒められること。
これは別です。
まったく別です。
しかも昨日、ナリア様は言いました。
『今日の殿下はとても落ち着いていらっしゃいました』
この一言。
この、たった一言が。
殿下の中で、とんでもない威力を発揮しておりました。
「ルイート嬢」
「はい」
「昨日、ナリアは僕を落ち着いていたと言った」
「はい」
「つまり、以前より安心して話せたという意味だろうか」
「おそらく、そうだと思います」
「では、今日も少し長めに話してもよいだろうか」
「早いです」
朝の開放学習室。
私は即答しました。
殿下は固まりました。
レオン様はすでに予想していたのか、静かに記録紙を開いています。
エレナ様は扇を半分だけ開き、楽しそうにこちらを見ています。
ナリア様はまだ来ていません。
ですので、今のうちに殿下を鎮める必要がありました。
昨日、殿下とナリア様は同じ学習室内で、私たちが少し離れた場所にいる状態で直接議論をしました。
議題は、王家の誓約文における守護と責任。
殿下は見すぎ七回に抑え、重すぎる褒め言葉も未遂で止め、ナリア様の言葉を最後まで聞きました。
かなりの進歩です。
ナリア様も緊張しながら、きちんと自分の意見を伝えました。
そして最後に、殿下を褒めたのです。
落ち着いていらした、と。
その場では殿下も呼吸を整え、感謝だけで済ませました。
しかしどうやら、一晩置いてから効いてきたようです。
「早いか」
殿下が少ししょんぼりしました。
「早いです」
「昨日はうまくいった」
「はい」
「ナリアも、また話してみたいと言ってくれた」
「はい」
「なら、今日も」
「殿下」
私は心得紙を指しました。
殿下の机の上には、もはや常備品となった恋愛心得紙があります。
昨日新たに書き足した言葉。
『相手を信じて距離を置く』
『見守られながら二人で話す』
そして今日、必要になる言葉。
私は新しい一文を書きました。
『褒められた後ほど慎重に』
殿下は、その文字をじっと見ました。
「褒められた後ほど慎重に」
「はい」
「なぜだ」
「浮かれるからです」
「……僕は浮かれているだろうか」
「はい」
殿下はレオン様を見ました。
レオン様は静かに頷きました。
「浮かれています」
殿下はエレナ様を見ました。
エレナ様はにこやかに頷きました。
「とても」
殿下は少しだけ机に手を置きました。
「そうか……」
「自覚することが第一歩です」
私は言いました。
「昨日うまくいったのは、殿下が慎重だったからです」
「はい」
「ナリア様の話を最後まで聞いたからです」
「はい」
「見すぎないよう努力したからです」
「はい」
「重すぎる言葉を止めたからです」
「……はい」
「そこで『うまくいったから次はもっと』と考えると、また速度が合わなくなります」
殿下は黙りました。
昨日までの学びを、今日も思い出していただかなければなりません。
恋は階段ではなく、ぬかるんだ庭道のようなものです。
一歩進めたからといって、次も同じ幅で進めるとは限らない。
足元を見ずに走れば、転びます。
そして殿下の場合、転ぶ時はだいたいナリア様も巻き込みます。
「では、今日は昨日と同じくらいか」
「いえ」
私が言うと、殿下が少し不安そうにしました。
「少し短めでもよいと思います」
「短く?」
「はい。昨日は大きな一歩でした。今日はそれを日常に馴染ませる日です」
レオン様が頷きました。
「私も賛成です。昨日成功した形式を、無理に拡大せず安定させるべきです」
「安定」
殿下は少し考えました。
「つまり、成功を重ねる」
「そうです」
エレナ様が言いました。
「殿下、恋における成功は大きさより継続ですわ」
「継続」
「はい。昨日だけ落ち着いていたのではなく、今日も明日も落ち着いていられることが大切です」
殿下は深く頷きました。
「分かった」
そして心得紙に書き足しました。
『大きさより継続』
どんどん立派になります。
もう本当に製本した方がよいかもしれません。
ただし、題名だけは本人に任せない方がいいでしょう。
おそらく非常に重い題名になります。
「今日の直接会話は、十分以内」
私は言いました。
「議題は昨日の続き。責任表明の後、信頼を回復するために必要な言葉について」
「信頼を回復するために必要な言葉」
殿下が復唱しました。
「はい。かなり今の殿下にも関わる内容ですが、学術議題として扱います」
「分かった」
「個人的な反省へ寄せすぎない」
「……難しい」
「分かっています」
「ナリアの言葉が刺さる」
「刺さっても、その場で深掘りしすぎないでください」
「分かった」
「感謝は短く」
「はい」
「見すぎない」
「はい」
「褒められても浮かれない」
「努力する」
努力。
少し危険な返事ですが、正直でよろしい。
午前の授業では、学園全体の空気がさらに少し変わっていることを感じました。
匿名文事件の話題は、まだ完全に消えていません。
けれど、刺々しい噂話ではなく、「あの件から何を学ぶべきか」という方向へ少しずつ変わってきています。
王国法の授業で教師が名誉と発言責任について触れたこともあり、生徒たちの間でも軽率な発言を控えようという空気が出始めていました。
「匿名の文なんて、やはりよくありませんわね」
「直接言えないことなら、書くべきではないのかもしれませんわ」
「でも、心配を口にすること自体は悪くないでしょう?」
「それなら本人へ丁寧に聞くべきですわ」
「難しいですわね」
難しい。
最近、その言葉をよく聞きます。
でも、それでいいのかもしれません。
簡単だと思うから、人は簡単に誰かを傷つけます。
難しいと分かれば、少しは慎重になります。
私は廊下を歩きながら、昨日のベアトリス様の謝罪を思い出していました。
彼女は今日、登校していました。
ただし、食堂にはまだ姿を見せていません。
廊下で一度だけ見かけました。
取り巻きはいませんでした。
一人で歩くベアトリス様の背筋は伸びていましたが、以前のような華やかな圧は少し薄れていました。
周囲の生徒たちは、彼女を遠巻きに見ています。
悪意というより、どう接すればよいのか分からないという戸惑いです。
ベアトリス様はそれに気づいているでしょう。
けれど、顔を上げて歩いていました。
彼女もまた、区切りの後を歩き始めているのだと思いました。
昼休み。
ナリア様は今日は私たちの席へ来てくださいました。
エレナ様が当然のように蜂蜜菓子を出します。
「本日は柑橘の香りつきですわ」
「種類があるのですね」
ナリア様が少し驚いたように言いました。
「もちろんです」
エレナ様が誇らしげに答えます。
「疲れた日には蜂蜜。緊張する日には柑橘。落ち込んだ日には少し濃い甘み。使い分けが大切ですわ」
「お菓子にも礼法のようなものがあるのですね」
「あるのです」
本当にあるのでしょうか。
でも、エレナ様が言うと妙に説得力があります。
ナリア様は蜂蜜菓子を一口食べ、嬉しそうに微笑みました。
「美味しいです」
その笑みを見て、私は思いました。
殿下が見ていなくてよかった。
……と思った瞬間、遠くの王族用席から小さな物音がしました。
見ると、殿下が水杯を置き損ねたようです。
見ていました。
レオン様が即座に布で机を拭いています。
エレナ様が扇の陰で肩を震わせました。
ナリア様は何があったのか気づいていないようです。
幸いです。
「今日の研究会では、昨日より少し短めに直接議論をお願いする予定です」
私はナリア様へ伝えました。
彼女は少し頷きました。
「はい。昨日は緊張しましたが……今日は少し落ち着いて話せる気がします」
「無理はしないでくださいね」
「はい」
ナリア様は少し考えてから言いました。
「でも、昨日は嬉しかったのです」
「嬉しかった?」
「殿下が、私の話を最後まで聞いてくださったことが」
その言葉は、静かで、柔らかでした。
「以前なら、殿下の前で意見を言うのは怖かったです。何か間違えれば冷たくされるのではないかと考えてしまって」
「はい」
「でも昨日は、殿下が待ってくださいました。だから、私も最後まで話せました」
私は胸の奥が温かくなりました。
殿下の努力は、ちゃんと届いています。
言葉を止めること。
急かさず聞くこと。
見すぎないこと。
それらは地味です。
でも、ナリア様にとって確かな安心になっている。
「そのこと、殿下へお伝えしても?」
私が尋ねると、ナリア様は一瞬で頬を赤くしました。
「えっ」
「ほどよく」
「……ほどよくなら」
「はい。呼吸に支障が出ない程度に」
ナリア様は小さく笑いました。
「お願いします」
これは、殿下へ伝えるべきです。
ただし慎重に。
直接言えば浮かれます。
間違いなく。
放課後の開放学習室。
殿下は今日も早く来ていました。
心得紙を確認しています。
そこに新たな一文が増えていました。
『褒め言葉は受け止める。走らない』
良いです。
かなり今日の危険性を理解しています。
私は昼休みのナリア様の言葉を、かなり慎重に伝えました。
「殿下」
「何だろう」
「ナリア様が、昨日は殿下が最後まで話を聞いてくださったことが嬉しかったとおっしゃっていました」
殿下が完全に停止しました。
予想通りです。
レオン様がすぐに言いました。
「殿下、呼吸を」
殿下は吸いました。
吐きました。
しかし顔は真っ赤です。
「ナリアが」
「はい」
「嬉しかったと」
「はい」
「僕が、最後まで聞いたことを」
「はい」
殿下は心得紙を見ました。
『褒め言葉は受け止める。走らない』
実に的確です。
殿下は紙を見ながら、深く息を吐きました。
「……嬉しい」
「はい」
「だが、走らない」
「はい」
「今日も、最後まで聞く」
「それで十分です」
殿下は大きく頷きました。
かなり危なかったですが、持ち直しました。
成長です。
少しして、ナリア様が到着しました。
殿下は立ち上がります。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
挨拶は自然です。
殿下は嬉しさを抑えています。
少し目元が明るいですが、許容範囲です。
研究会は通常通り始まりました。
今日の議題は、信頼回復のために必要な言葉。
昨日の続きです。
最初は全員で資料を確認します。
レオン様が進行しました。
「信頼が損なわれた場合、回復には三つの要素が必要とされています。一つ、損なった事実の認識。二つ、相手の受けた痛みへの言及。三つ、今後の具体的な行動」
エレナ様が頷きました。
「謝罪だけでは足りない、ということですわね」
「はい」
私は補足しました。
「歴史上の和解文でも、ただ謝意を示すだけでなく、今後どのように対応を改めるかが記されています」
ナリア様が資料を見ながら言いました。
「礼法上も、謝罪の言葉は終わりではなく、関係を整え直す始まりとされます」
殿下が静かに聞いています。
かなり刺さっているはずです。
しかし、顔には出しすぎていません。
よろしい。
しばらく全員で議論した後、昨日と同じように、殿下とナリア様が窓側の小さな机へ移動しました。
今日は十分以内。
見守りは少しだけ離れた中央机。
昨日と同じ形式です。
ただし、今日は二人とも昨日より少し落ち着いて見えました。
殿下が口を開きます。
「信頼回復に必要な言葉について、君の意見を聞いてもいいだろうか」
「はい」
ナリア様は資料を開きました。
「私は、言葉そのものよりも、順番が大切だと思います」
「順番」
「はい。まず、相手が傷ついたことを認める。次に、自分が何をしたかを認める。それから、今後どうするかを伝える」
殿下は頷きました。
「自分の事情は?」
「その後だと思います」
「後か」
「はい。先に事情を説明すると、言い訳に聞こえやすいので」
殿下は深く頷きました。
「……よく分かる」
実感がこもっています。
ナリア様も少しそれに気づいたようでした。
けれど、今日は怯えません。
静かに続けました。
「事情があること自体は、悪いことではありません。でも、相手が傷ついたことより先に事情を出すと、相手の痛みが後回しにされたように感じるのだと思います」
「そうだな」
殿下は少し目を伏せました。
「僕は、それをずっと間違えていた」
ナリア様の手が、資料の端に触れました。
沈黙が落ちます。
私は中央机で資料を整理しながら、二人を見守りました。
咳払いはしません。
殿下の声は落ち着いています。
ナリア様も逃げていません。
殿下は続けました。
「君が傷ついたことより、僕がなぜそうしてしまうのかを説明したくなっていた」
「はい」
ナリア様は、静かに頷きました。
その「はい」は、責めるものではありません。
事実を受け止める返事でした。
「でも今、殿下は先に私の気持ちを聞こうとしてくださっています」
殿下が顔を上げました。
「そうできているだろうか」
「はい」
ナリア様は柔らかく言いました。
「昨日も、今日も」
褒め言葉です。
危険です。
殿下は一瞬止まりました。
しかし、心得紙はここにはありません。
中央机に置いてあります。
大丈夫でしょうか。
殿下は、目を閉じました。
そして深く呼吸しました。
自力です。
見事です。
「ありがとう」
短く言いました。
「君にそう言ってもらえると、嬉しい」
ナリア様の頬が赤くなりました。
「はい」
ここで止めました。
殿下、完璧です。
レオン様が中央机で小さく何かを書きました。
たぶん良評価です。
エレナ様は今日も扇の陰で微笑んでいます。
二人の議論は、さらに続きました。
ナリア様は信頼回復において、「繰り返し」が大切だと言いました。
一度謝るだけではなく、同じ間違いをしない行動を積み重ねること。
殿下はそれを真剣に聞きました。
「言葉より行動か」
「どちらも必要だと思います」
「言葉がなければ伝わらない」
「はい。でも、行動がなければ信じ続けられない」
殿下は、少しだけ笑いました。
「難しいな」
「はい」
ナリア様も笑いました。
「でも、殿下は少しずつ両方をしてくださっています」
また褒めました。
ナリア様、今日はかなり攻めています。
無自覚でしょうか。
たぶん無自覚です。
殿下はまた少し赤くなりました。
しかし、今度も耐えました。
「……そうありたいと思っている」
良いです。
とても良い。
その後、二人は短い結論をまとめました。
信頼を回復する言葉には、相手の痛みの認識、過ちの認識、今後の行動への約束が必要である。
そして、それを一度で終わらせず、行動で重ねること。
学術的にも、今の二人にも、とても意味のある結論でした。
中央机へ戻った時、殿下は昨日よりさらに落ち着いていました。
もちろん顔は少し赤いです。
でも、燃え尽きていません。
ナリア様も、緊張より安心の方が強い表情でした。
レオン様が言いました。
「本日は見すぎ五回です」
殿下が驚いたように顔を上げました。
「減った」
「はい」
エレナ様が拍手しそうになって、上品に手を重ねました。
「素晴らしいですわ」
ナリア様が少し笑いました。
「見すぎ、という項目が本当にあるのですね」
殿下が恥ずかしそうに視線を逸らしました。
「ある」
「殿下は、たくさん努力されているのですね」
殿下がまた止まりました。
今日三度目です。
しかし、止まっただけです。
呼吸はしています。
「……必要な努力だから」
殿下は言いました。
「君に安心して話してもらいたい」
少し踏み込みました。
でも、とても自然でした。
ナリア様は一瞬、目を見開きました。
それから、柔らかく微笑みました。
「ありがとうございます」
それだけ。
けれど、それで十分でした。
研究会の終わりに、今後の進め方を話しました。
直接議論の時間は、しばらく短めに続けること。
議題は必ず学術内容にすること。
私たちは同じ室内で見守ること。
殿下が浮かれたらレオン様が記録すること。
最後の項目に殿下は不満そうでしたが、必要です。
「ルイート嬢」
殿下が言いました。
「はい」
「今日、君はほとんど咳払いをしなかったな」
「はい」
「必要なかったか?」
その問いに、私は少しだけ考えました。
そして、微笑みました。
「必要ありませんでした」
殿下は、少し驚いた顔をしました。
それから、静かに嬉しそうにしました。
「そうか」
「はい」
「……少しは、成長できているだろうか」
私は頷きました。
「かなり」
殿下は、照れたように視線を落としました。
「ありがとう」
ナリア様がそのやり取りを見て、柔らかく微笑んでいます。
その表情が、とても穏やかだったので。
私は胸の奥に、また少しの寂しさと、大きな安心を感じました。
校舎を出ると、夕暮れの空は薄桃色に染まっていました。
中庭の池に、その色が静かに映っています。
風は穏やかで、花壇の花もゆっくり揺れていました。
事件の後に戻ってきた普通の日。
その二日目。
殿下は褒められて浮かれかけましたが、走りませんでした。
ナリア様は、殿下の努力を自然に言葉にしました。
私は、咳払いをほとんどしませんでした。
小さなことばかりです。
けれど、この小さなことこそが、二人の関係を作っていくのでしょう。
王太子殿下。
今日のあなたは、褒められた後に浮かれすぎませんでした。
嬉しさを受け止めながら、走らず、ナリア様の言葉を最後まで聞くことができました。
どうか明日も。
褒め言葉に舞い上がるのではなく、その言葉にふさわしい行動を一つずつ重ねてくださいませ。
きっとその積み重ねが、いつかナリア様の「信じたい」を、「信じています」へ変えていくのですから。




