第27話 王太子殿下、見守られながら二人で話す
人には、近すぎると見えないものがあります。
手を伸ばせば届く距離にいるからこそ、相手の表情ばかり追ってしまう。
今、困っていないか。
今、傷ついていないか。
今、自分が何か言わなければいけないのではないか。
そう考えすぎると、相手が自分で言葉を選ぶ時間まで奪ってしまうことがあります。
だから時には、一歩引く必要があるのです。
完全に離れるのではなく。
困った時には届く場所にいながら。
それでも、相手が自分の足で立てるだけの距離を空ける。
その日の私の課題は、まさにそれでした。
そして、アルノルド殿下の課題は。
「本日は、ナリア様と殿下が少しだけ直接議論する時間を作ります」
朝の開放学習室で私がそう言った瞬間、殿下は固まりました。
はい。
予想通りです。
レオン様は静かに記録紙を開き、エレナ様は扇の陰で笑う準備をしています。
ナリア様はまだ来ていません。
ですので、今のうちに殿下の反応を整える必要がありました。
「直接議論」
殿下がゆっくり復唱しました。
「はい」
「僕と、ナリアが」
「はい」
「少しだけ」
「はい」
「他の者は?」
「同じ学習室内にはいます。ただし、少し離れます」
殿下の顔が一気に緊張しました。
「離れる」
「少しです」
「どれくらい」
「同じ室内の別机です」
「遠い」
「遠くありません」
「声は届くか」
「普通に話せば届きません。大きな声を出せば届きます」
「では、ナリアが困った時は」
「殿下」
私は静かに遮りました。
殿下は口を閉じます。
「今日の課題は、ナリア様が困る前提で考えないことです」
「……」
「もちろん、本当に困った時には私たちも気づける距離にいます。ですが、最初からナリア様が困ると決めつけてはいけません」
殿下は、机の上の心得紙を見ました。
そこには、これまでの項目に加えて昨日書いたものもあります。
『普通の日ほど丁寧に』
『見すぎない』
そして今日、追加するべき項目。
私は紙に書きました。
『相手を信じて距離を置く』
殿下は、その文字をじっと見つめました。
「相手を信じて距離を置く」
「はい」
「……難しい」
「分かっています」
「かなり難しい」
「分かっています」
「ナリアと二人で話せるのは嬉しい」
「はい」
「だが、嬉しい以上に緊張する」
「はい」
「そして、君たちが少し離れると、僕が止まらなくなる可能性がある」
自覚があります。
非常に良いことです。
レオン様が淡々と言いました。
「そのために、事前に会話の範囲を決めます」
「範囲?」
「本日の直接議論は、王国式典の誓約文における『王家側の責務』についてです。恋愛の話ではありません」
「分かっている」
殿下は真剣に頷きました。
「式典礼について、ナリアの意見を聞く」
「はい」
「感謝する」
「はい」
「重く褒めすぎない」
「非常に重要です」
エレナ様が楽しそうに言いました。
「たとえば、『君の言葉は僕の迷いを照らす灯火だ』などは避けてくださいませ」
殿下が一瞬黙りました。
私はすぐに見ました。
「殿下」
「言わない」
「思いましたか?」
「……少し」
レオン様が記録しました。
「重すぎる表現候補、追加」
「レオン、最近ためらいがないな」
「必要ですので」
殿下は肩を落としました。
ですが、以前のように完全に沈み込むことはありません。
自分でも分かっているからでしょう。
「では、代わりにどう言えばいい」
殿下が尋ねました。
これは良い質問です。
以前なら、ただ恥ずかしがるか暴走するかでした。
今は、適切な言葉を探そうとしている。
「ナリア様の意見が参考になった場合は、『分かりやすい。参考になる。ありがとう』で十分です」
「またそれか」
「はい。安定しています」
「少し味気なくないか?」
「今の殿下には、それくらいがちょうどよいです」
「……そうか」
エレナ様がにこやかに言います。
「慣れてきたら、少しずつ増やせばよろしいのですわ」
「増やす?」
「はい。たとえば、『君の視点は礼法だけでなく、人の心にも向いているから分かりやすい』くらいなら、自然ですわ」
殿下の顔が赤くなりました。
「それは……」
「言えそうですか?」
「言えない」
「では、まだ早いですわね」
「……」
殿下は少し悔しそうでした。
ですが、今言えないことを無理に言う必要はありません。
大事なのは、言葉がナリア様へ届くこと。
殿下の気持ちを詰め込みすぎることではありません。
私は今日の流れを整理しました。
「まず通常通り研究会を始めます。途中で、王家側の責務について殿下とナリア様に意見交換をしていただきます。私たちは別机で資料整理をします」
「どれくらいの時間だ」
「最初は半刻も取りません。十分から十五分ほどです」
「短い」
「最初ですので」
「……分かった」
「困ったら?」
私が尋ねると、殿下は心得紙を見ながら答えました。
「呼吸する」
「はい」
「相手の言葉を最後まで聞く」
「はい」
「すぐ助けを求めない」
「はい」
「ナリアが困っていると決めつけない」
「はい」
「重く褒めない」
「はい」
「見すぎない」
「重要です」
「……やることが多い」
「恋は大変ですね」
私が言うと、殿下は本気で頷きました。
「本当に」
その真面目さに、エレナ様がまた笑いを堪えていました。
午前の授業中、私は何度か今日の研究会のことを考えていました。
殿下とナリア様が、少し離れた場所で直接話す。
ただそれだけのことです。
普通の婚約者候補同士なら、何も特別ではないでしょう。
けれど、この二人にとっては大きな一歩です。
今まで殿下は、ナリア様の前で緊張しすぎると悪態をついてしまっていました。
ナリア様は、殿下の言葉に傷つき、聞くことを怖がっていました。
その間に私たちが入り、言葉を整え、距離を測り、少しずつ関係を作り直してきた。
でも、いつまでも私たちが間に立つわけにはいきません。
殿下とナリア様は、二人で話せるようにならなければならないのです。
もちろん、いきなり二人きりにはしません。
それはまだ早い。
殿下にも、ナリア様にも。
ですが、同じ室内で少し距離を置く。
それなら、試してみてもよい段階に来ていると思いました。
昼休み。
食堂では、学園が少しずつ日常へ戻り始めていることがよく分かりました。
匿名文事件の話題はまだあります。
けれど、今日の料理の味、次の試験、休暇中のお茶会、ドレスの流行など、さまざまな話題が重なっています。
大きな事件があっても、日常は戻ってくる。
そのことに、少しほっとしました。
ナリア様は、今日は私たちの席へ来てくださいました。
エレナ様が当然のように蜂蜜菓子を出します。
「今日もありますわ」
「バートン様、本当にいつもお持ちなのですね」
「必要ですもの」
ナリア様が笑いました。
「ありがとうございます」
その笑顔は、ここ数日で一番自然に見えました。
殿下が遠くの席から見ていたら大変です。
見ているでしょうか。
私はちらりと王族用の席を見ました。
殿下はレオン様の話を聞いているふりをしながら、こちらを見たい衝動と戦っているようでした。
目線が不自然に机へ落ちています。
見すぎない心得を守っているのでしょう。
よろしいです。
ナリア様は蜂蜜菓子を一口食べてから、少しだけ首を傾げました。
「今日の研究会は、通常議題なのですよね?」
「はい」
私が答えると、エレナ様が楽しそうに続けました。
「ただ、少し形式を変えますわ」
「形式?」
「殿下とナリア様に、短い意見交換をしていただこうと思っています」
ナリア様の手が止まりました。
顔が少し赤くなります。
「私と、殿下が……ですか」
「はい。同じ学習室内で、私たちは近くにおります」
私は丁寧に言いました。
「無理そうなら中止します。ですが、少しずつ直接話す時間を増やすのも大切かと思いまして」
ナリア様は、目を伏せました。
不安。
緊張。
でも、拒絶ではありません。
彼女はしばらく考え、それから小さく頷きました。
「……やってみたいです」
エレナ様が柔らかく微笑みます。
「無理はなさらず」
「はい」
ナリア様は少し恥ずかしそうに言いました。
「殿下と、普通に議論できるようになりたいです」
その言葉が、とても自然で。
それでいて、とても大きく感じられました。
殿下と普通に議論したい。
それは、殿下の言葉を避けたいという気持ちからは遠い場所にある言葉です。
私は胸の奥が温かくなりました。
「きっとできます」
私が言うと、ナリア様は少し笑いました。
「まだ緊張します」
「殿下もかなり緊張しています」
「そうなのですか?」
「はい。朝から」
ナリア様は目を丸くしました。
そして、ふふ、と小さく笑いました。
「殿下も緊張されるなら、少し安心します」
その言葉、殿下に聞かせたらきっと赤くなって固まるでしょう。
ですので、後でほどよく伝えることにします。
放課後。
開放学習室には、夕方の光が差し込んでいました。
机は二つ使うことにしました。
中央の長机に全員で集まり、途中から殿下とナリア様だけが窓側の小さな机へ移る。
私、エレナ様、レオン様は中央の机で資料整理。
同じ部屋です。
距離はありますが、遠くはありません。
何かあればすぐに気づけます。
殿下はすでに来ていました。
心得紙を何度も確認しています。
その姿は、試験前の生徒のようでした。
「殿下」
「ルイート嬢」
「覚えすぎるとかえって固まりますよ」
「そうなのか」
「はい」
「では、何を一番意識すべきだ」
私は少し考えました。
「ナリア様の話を最後まで聞くことです」
殿下は頷きました。
「分かった」
「それ以外は、何とかします」
「何とか……」
「はい。困ったら呼吸です」
「結局そこか」
「基本です」
やがて、ナリア様が来ました。
殿下は立ち上がります。
いつもの挨拶。
けれど今日は、少し緊張が混ざっています。
「ナリア、ごきげんよう。今日も来てくれてありがとう」
「ごきげんよう、殿下。本日もよろしくお願いいたします」
ナリア様も少し緊張しています。
でも、笑顔です。
殿下はそれを見て、ほんの少し表情を和らげました。
「こちらこそ」
良いです。
とても自然です。
研究会は通常通り始まりました。
まずは全員で王国史の資料を確認します。
今日の議題は、王家が地方式典で述べる誓約文における「守護」と「責任」の違いについて。
難しいですが、今の私たちには向いている題材でした。
レオン様が進行します。
「守護という言葉は、王家が臣民を守る立場にあることを示します。しかし責任という言葉は、守れなかった場合に何を負うのかまで含みます」
私が王国史の事例を補足します。
「百二十年前の北方水害復興式典では、王家が地方の復興遅れについて謝意と責任を明言したことで、地方貴族との関係が回復したと記録されています」
エレナ様が資料を整えながら言いました。
「つまり、王家が誤りや遅れを認めることも、信頼の一部なのですね」
「そうです」
私は頷きました。
ナリア様が静かに続けます。
「礼法上も、上位者が過ちを認める場合、言葉の選び方がとても重要になります。ただ謝罪するだけではなく、相手の立場を回復する表現が必要です」
殿下が真剣に聞いています。
見すぎてはいません。
ただ、ちゃんと聞いている。
よろしいです。
しばらく全員で議論した後、レオン様が自然に言いました。
「では、この部分について、殿下とナリア様で少し意見を整理していただけますか」
来ました。
殿下の肩がほんの少し動きました。
ナリア様も緊張したように手元の資料を持ち直します。
「はい」
殿下が答えました。
「承知いたしました」
ナリア様も頷きました。
二人は窓側の小さな机へ移動しました。
私たちは中央の机に残ります。
距離は、ほんの数歩。
けれど、その数歩が大きい。
殿下とナリア様が向かい合って座ります。
私は資料を整理するふりをしながら、視界の端で二人を見守りました。
エレナ様も同じです。
レオン様は本当に資料を整理しています。
さすがです。
窓側の机で、殿下が口を開きました。
「では……守護と責任の違いについて、君の意見を聞いてもいいだろうか」
完璧な入りです。
ナリア様は少しだけ緊張しながらも、資料を開きました。
「はい。私は、守護は意思を示す言葉で、責任は結果へ向き合う言葉だと思います」
殿下は頷きました。
「意思と結果」
「はい。たとえば、王家が民を守ると誓うことは大切です。でも、実際に守れなかった時にどうするかを言葉にしなければ、誓いが軽くなってしまいます」
「なるほど」
殿下は少し考えました。
「では、式典で責任という言葉を使うことは、王家の弱さを見せることにはならないのか」
「場合によると思います」
「場合?」
「はい。責任を認めることが、ただの失敗の告白で終われば弱さに見えるかもしれません。でも、その後にどう立て直すかを示せば、むしろ信頼につながるのではないでしょうか」
殿下は、じっと聞いていました。
遮りません。
良いです。
ナリア様は少しずつ声が安定してきました。
「礼法では、謝罪や責任の表明は、相手に頭を下げるためだけのものではありません。相手が受けた損失や痛みを、正式に認める意味があります」
殿下の表情が変わりました。
たぶん、匿名文事件や自分自身のことを思い出したのでしょう。
けれど、話を逸らしません。
議題の中に留まっています。
「正式に認めることで、相手の立場を回復する」
「はい」
「……分かりやすい。参考になる」
殿下は少しだけ間を置きました。
そして、続けました。
「ありがとう」
短い感謝。
ナリア様は微笑みました。
「お役に立てたなら嬉しいです」
今のところ、とても順調です。
私は内心で大きく息を吐きました。
しかし、安心するのはまだ早い。
殿下が資料を見ながら、次の質問をしました。
「では、王家が責任を認める時、言い訳に聞こえないためには何が必要だろう」
良い質問です。
ナリア様は少し考え込みました。
沈黙。
殿下は待っています。
急かしません。
口を開きかけてもいません。
大丈夫です。
ナリア様はやがて顔を上げました。
「相手の痛みを先に言葉にすることだと思います」
「痛みを先に」
「はい。自分の事情を説明する前に、相手が傷ついたこと、困ったこと、不安になったことを認める」
殿下は、静かに聞いていました。
「それから、自分の事情を説明する。順番を間違えると、自己弁護に聞こえてしまいます」
「……そうだな」
殿下の声が少し低くなりました。
「僕も、その順番をよく間違えた」
ナリア様が殿下を見ました。
少し緊張が走ります。
私は咳払いすべきか迷いました。
でも、止めませんでした。
二人に任せます。
殿下は、静かに続けました。
「君が傷ついたことより、自分がなぜうまく言えないかばかり考えていた」
ナリア様は、資料の端を指で押さえました。
「……はい」
その返事は、小さくても正直でした。
殿下は頷きました。
「今の君の説明で、また少し分かった気がする」
ナリア様の瞳が揺れます。
「そうですか」
「ああ」
殿下は息を吸いました。
そして、選んだ言葉をゆっくり口にしました。
「ありがとう。君の意見は、僕にも必要なものだった」
少し踏み込みました。
けれど、重くはありません。
ナリア様は頬を赤くしました。
「私も……殿下がそう受け取ってくださるなら、話せてよかったです」
殿下の顔も赤くなりました。
危険。
ですが、呼吸しています。
レオン様がこちらに目を向け、小さく頷きました。
問題なし、という合図でしょう。
エレナ様は感動しているのか面白がっているのか、扇で口元を隠しています。
二人の会話は、その後も続きました。
時間にして十五分ほど。
途中、殿下が一度だけナリア様の言葉に感動しすぎて「君は本当に――」と言いかけましたが、途中で自分で止まりました。
そして、「いや、分かりやすい」と言い直しました。
素晴らしい自己修正です。
ナリア様はそれに気づいたのか、小さく笑っていました。
その笑みが自然で、殿下はまた危なくなりましたが、資料を見て耐えました。
最終的に、二人は誓約文の一節について共同で意見をまとめました。
ナリア様が礼法の観点を。
殿下が王家の立場を。
それぞれ出し合い、一つの短い結論にしたのです。
二人が中央の机へ戻ってきた時、殿下は少し疲れていました。
しかし、晴れやかな顔でもありました。
ナリア様も同じです。
緊張は残っています。
けれど、達成感がある。
「どうでしたか?」
私が尋ねると、ナリア様は少し照れたように言いました。
「緊張しました。でも……話せました」
殿下も頷きました。
「僕も、話せた」
エレナ様がにこにこしています。
「お二人とも、とても自然でしたわ」
レオン様も頷きました。
「殿下、見すぎも少なかったです」
「数えたのか」
「はい」
「何回だ」
「七回です」
殿下は少し驚いた顔をしました。
「十回以下だ」
「目標達成です」
私は拍手したくなりました。
見すぎ七回。
普通の人なら多いかもしれません。
でも殿下としては大進歩です。
ナリア様は口元に手を当て、小さく笑っていました。
「数えていらしたのですね」
「すみません」
レオン様が真面目に答えます。
「殿下の訓練の一環です」
「訓練……」
ナリア様が殿下を見ます。
殿下は少し恥ずかしそうに視線を逸らしました。
「いろいろと、訓練中だ」
「存じております」
ナリア様が柔らかく言いました。
「でも、今日の殿下はとても落ち着いていらっしゃいました」
殿下が完全に固まりました。
褒められました。
真正面から。
これは危ない。
しかし、彼は心得紙を見ました。
呼吸。
吸う。
吐く。
「ありがとう」
短い。
耐えました。
エレナ様が机の下で何かしました。
たぶん親指です。
研究会はその後、二人がまとめた意見を全員で確認し、記録に残しました。
形式が整ってきています。
ただの恋愛相談の場ではなく、学術研究会として、本当に一つの成果が生まれ始めている。
そのことが、少し嬉しかった。
そして同時に、やはり少し寂しかった。
私がいなくても、二人は話せる。
今日、それが証明されました。
もちろん、まだ完全ではありません。
まだ見守りは必要です。
でも、確かな一歩です。
研究会の終わり、ナリア様が私のところへ来ました。
「ルイート様」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「私はほとんど何もしていません」
「だからこそです」
ナリア様は少し笑いました。
「見守ってくださったので」
私は言葉に詰まりました。
見守る。
今日の私の課題。
ナリア様には、ちゃんと伝わっていたようです。
「……うまく見守れていたでしょうか」
「はい」
「なら、よかったです」
ナリア様は窓の外を見ました。
「殿下と二人で話すのは、まだ緊張します」
「はい」
「でも、怖いだけではありませんでした」
その言葉に、胸が温かくなりました。
「それは、とても良いことだと思います」
「はい」
ナリア様は微笑みました。
「また、少しずつ話してみたいです」
私は頷きました。
「きっと殿下も喜ばれます」
「……殿下には、ほどよくお伝えください」
「はい。呼吸に支障が出ない程度に」
ナリア様は小さく笑いました。
もう定番になっています。
その少し後、殿下がレオン様と共にこちらへ来ました。
ナリア様と自然に目が合います。
殿下は少しだけ緊張しましたが、逃げませんでした。
「ナリア」
「はい」
「今日、君と直接意見交換ができてよかった」
ナリア様の頬が淡く赤くなります。
「私もです」
殿下の顔も赤くなりました。
しかし、今日は逃げません。
「また、頼んでもいいだろうか」
その言葉に、ナリア様は一瞬驚き、それから柔らかく微笑みました。
「はい。私でよろしければ」
殿下は、深く息を吸いました。
吐きました。
「ありがとう」
それだけ。
けれど、とても大切な一言でした。
私はそのやり取りを少し離れた場所から見ていました。
もう、咳払いは必要ありませんでした。
そのことが嬉しくて。
やはり少し寂しかった。
校舎を出ると、夕焼けが中庭を柔らかく染めていました。
池の水面が淡い金色に光っています。
あの池の前で始まった奇妙な相談関係は、少しずつ形を変えています。
泣き言を聞くだけの相談役から。
殿下を止める咳払い係へ。
ナリア様との橋渡しへ。
事件の中での味方へ。
そして今、少し離れた場所で見守る役へ。
私の役割も、変わっていくのです。
エレナ様が隣に並びました。
「寂しそうですわね」
「少しだけです」
「素直でよろしいですわ」
「からかわないでください」
「からかっていません。本当に」
エレナ様は、夕焼けの中庭を見ながら言いました。
「でも、マリア様がいたから、ここまで来たのですわ」
「私だけではありません」
「ええ。もちろん。でも、最初に殿下の奇行を見てしまったのはマリア様ですもの」
「それはできれば忘れたいです」
「無理ですわね」
「でしょうね」
私たちは小さく笑いました。
遠くで、殿下とナリア様が少し離れて歩いています。
レオン様も近くにいますが、以前より少し距離を取っています。
殿下は何かを話し、ナリア様が頷きました。
会話の内容までは聞こえません。
でも、二人の歩幅は以前より近く見えました。
王太子殿下。
今日のあなたは、見守られながらも、ナリア様と自分の言葉で話せました。
重くしすぎず、逃げず、相手の言葉を最後まで聞き、また頼んでもいいかと尋ねることができました。
それは、小さく見えて、とても大きな一歩です。
どうか明日も。
誰かに支えられながらでも、自分の言葉でナリア様と向き合ってくださいませ。
私も少しずつ、咳払いではなく、見守る沈黙を覚えていきますから。




