第33話 王太子殿下、増える視線に備える
少しできるようになると、次の不安が見えてきます。
昨日できなかったことが、今日はできた。
止まってしまった言葉を、もう一度拾い直せた。
隣の人が待ってくれていると分かって、少しだけ声を出せた。
それは確かな前進です。
けれど前へ進むと、それまで見えなかった景色も見えてしまいます。
もっと多くの人が見るかもしれない。
もっと多くの耳が聞くかもしれない。
その前で、同じように話せるだろうか。
王国史礼法研究会の小発表。
最初は、本当に小さなものになるはずでした。
希望者が数名。
興味のある生徒が少しだけ集まり、私たちが誓約文と言葉の扱いについて話す。
その程度の、ささやかな発表会。
そのはずでした。
けれど。
「見学希望者が、二十名を超えました」
朝の開放学習室で、レオン様がそう言った瞬間。
アルノルド殿下の呼吸が止まりました。
はい。
止まりました。
「殿下、呼吸です」
私が言うより早く、ナリア様が静かにそう言いました。
殿下は、はっとしたように息を吸いました。
そして吐きます。
私とエレナ様は、思わず顔を見合わせました。
今、ナリア様が自然に殿下へ呼吸を促しました。
以前なら私かレオン様の役目でした。
それが、今はナリア様から出たのです。
しかも、殿下もそれを素直に受け取りました。
朝から大きな成長を見てしまいました。
しかし、今は感動している場合ではありません。
二十名超え。
これはかなり問題です。
殿下が心得紙を見つめました。
最近、心得紙には空白がなくなりつつあります。
それでも殿下は余白を探し、新しい一文を書きました。
『増える視線に飲まれない』
美しい字です。
内容は切実です。
「二十名……」
殿下が低く呟きました。
「小発表ではないのでは」
「小発表です」
レオン様が淡々と答えました。
「学園全体からすれば、二十名は小規模です」
「僕には大規模に感じる」
「殿下は普段もっと大人数の前で話しているでしょう」
「王太子として話すのと、ナリアと並んで話すのは違う」
その言葉に、ナリア様の頬がふわりと赤くなりました。
殿下も言ってから気づいたのか、少し赤くなります。
ただし、今日はすぐに崩れません。
呼吸しています。
良いです。
エレナ様が扇の陰で微笑みました。
「殿下、そこはとても大事な違いですわね」
「大事すぎて困っている」
「でも、ナリア様と並ぶ練習は進んでいますわ」
「そうだが」
殿下は少し不安そうにナリア様を見ました。
見すぎではありません。
確認です。
ナリア様は、少し緊張した表情で資料を握っていました。
「ナリア」
殿下が静かに声をかけます。
「はい」
「見学者が増えると、不安だろうか」
良い聞き方です。
決めつけていません。
ナリア様は少し考えました。
「不安です」
「うん」
「ですが、発表をやめたいとは思いません」
その言葉に、殿下の目が揺れました。
ナリア様は続けます。
「私たちが話そうとしていることは、今の学園に必要なことだと思います。言葉が関係を作ることも、傷ついた後にどう向き合うかも」
彼女は少しだけ指先に力を入れました。
「私自身、まだ上手には話せません。でも……話してみたいです」
殿下は黙って聞いていました。
そして、静かに頷きました。
「分かった」
短い返事。
けれど、そこにはナリア様の意思を尊重する気持ちがありました。
「では、僕も逃げない」
ナリア様が、少し驚いたように殿下を見ました。
「殿下も、不安なのですか?」
「ああ」
殿下は正直に答えました。
「君の隣で間違えたくない」
学習室の空気が、少しだけ温かくなりました。
その言葉は重くなりかけました。
けれど、殿下はすぐに続けませんでした。
ちゃんと止めました。
ナリア様は頬を赤くしながらも、柔らかく微笑みました。
「では、一緒に練習しましょう」
殿下の顔が、今度こそ赤くなりました。
しかし、倒れません。
呼吸しています。
「……ああ」
よくできました。
朝の打ち合わせでは、練習内容を変更することになりました。
本来は導入を最終確認してから中盤へ進む予定でしたが、見学者が増えたことで、まずは導入をより安定させる必要があります。
声量。
間。
視線。
そして、二人の受け渡し。
特にナリア様が止まった時だけでなく、殿下が緊張で硬くなった時に、ナリア様が自然に次へ進めるか。
互いに支えられるか。
そこが今日の課題です。
「本日は、導入を通しで三回。うち一回は、聞き手役を増やした想定で行います」
レオン様が言いました。
「聞き手役を増やす?」
殿下が少し身構えます。
「はい。私たち三人だけでなく、椅子を多めに並べます。実際に人はいませんが、空席を相手に話す練習です」
「空席……」
「意外と緊張しますわよ」
エレナ様がにこりと笑いました。
「誰もいないのに見られている気分になりますもの」
「それは余計に怖いのでは」
「本番よりは優しいですわ」
殿下は少し遠い目をしました。
ナリア様も少し緊張しているようですが、それでも頷きました。
「やってみます」
その言葉に、私は胸の奥で静かに頷きました。
ナリア様は、本当に変わりました。
怖い。
不安。
でも、やってみる。
その繰り返しが、彼女の声を強くしているのです。
午前の授業の間も、小発表の話は広がっていました。
「二十名以上希望があるそうですわ」
「そんなに?」
「言葉の扱いについての発表でしょう? 匿名文の件の後だから、興味がある方も多いのでは」
「ナリア様がお話しされるなら聞きたいです」
「殿下と並んで発表されるのかしら」
「最近のお二人、以前よりずっと自然ですものね」
自然。
その言葉が、また耳に残ります。
殿下とナリア様が自然に見える。
それは良いことです。
でも、見られていると知れば、自然でいるのは難しくなります。
見られていないから自然にできることがあります。
見られていると意識した瞬間、歩き方さえ分からなくなることがある。
小発表は、二人にとって試験のようなものになるかもしれません。
ただし、失敗してもよい試験です。
むしろ、失敗しても戻れることを学ぶ場。
そう思うことにしました。
昼休み。
ナリア様は、いつもより少し緊張した様子で私たちの席へ来ました。
エレナ様は今日も蜂蜜菓子を出します。
「本日は大人数対策の蜂蜜菓子です」
「もう何でもありますね」
私が言うと、エレナ様は穏やかに微笑みました。
「心に必要な菓子は常にありますわ」
ナリア様は少し笑いました。
「いただきます」
蜂蜜菓子を一口食べると、緊張していた表情が少し緩みました。
「美味しいです」
「よかったですわ」
私はナリア様へ尋ねました。
「見学希望者が増えたことで、不安が強くなりましたか?」
ナリア様は正直に頷きました。
「はい。少し」
「はい」
「でも、以前とは違う不安です」
「違う?」
「前は、殿下の隣に立つことそのものが怖かったのです。今は、人前でちゃんと話せるかが不安です」
その違いは、とても大きい。
私はしばらく言葉を失いました。
ナリア様は少し照れたように続けます。
「殿下の隣が怖い場所ではなくなってきたのだと思います」
エレナ様が扇で口元を隠しました。
私も、胸が熱くなりました。
殿下に伝えたい。
でも、これは危険です。
非常に危険です。
呼吸どころでは済まない可能性があります。
「……殿下には」
私が言いかけると、ナリア様は慌てました。
「そ、そのままは」
「もちろんです。ほどよく」
「本当にほどよくでお願いします」
ナリア様の頬は赤い。
けれど、表情は明るい。
それが嬉しかった。
放課後。
開放学習室の扉を開けた瞬間、いつもと違う配置が目に入りました。
レオン様がすでに椅子を並べていたのです。
聞き手役として、十数脚の椅子が等間隔に置かれています。
誰も座っていません。
空席です。
けれど、その空席が不思議な圧を持っていました。
殿下はそれを見て、少し固まりました。
「……人がいないのに、緊張する」
「そうでしょう」
レオン様が冷静に答えました。
ナリア様も小さく息を吸いました。
「本番は、ここに人が座るのですね」
「はい」
私は言いました。
「ですが、今日は椅子だけです。椅子は噂をしません」
エレナ様が頷きました。
「椅子は匿名文も貼りませんわ」
「その言い方はどうかと思います」
でも、ナリア様が少し笑いました。
殿下も少しだけ肩の力が抜けたようです。
練習前、殿下に昼休みのナリア様の言葉をかなり薄めて伝えました。
「殿下。ナリア様は、殿下の隣で話すことに少しずつ慣れてきているようです」
殿下が止まりました。
ただし、完全停止ではありません。
少しの停止です。
「……そうか」
「はい」
「怖くなくなってきた、ということだろうか」
「少なくとも、怖いだけではないようです」
殿下は心得紙を見ました。
『増える視線に飲まれない』
『褒め言葉は受け止める。走らない』
『隣の声を待つ』
そして、深く息を吸いました。
吐きました。
「嬉しい」
「はい」
「だが、走らない」
「はい」
「今日も、待つ」
「はい」
殿下は頷きました。
その顔には、確かな喜びと、それを大切に扱おうとする慎重さがありました。
本当に、成長しました。
練習が始まりました。
一回目は、いつもの配置。
聞き手役は私たち三人だけ。
殿下とナリア様は窓側に並びます。
もう立ち位置はかなり自然です。
殿下は前に出すぎない。
ナリア様も後ろに下がりすぎない。
二人の肩の位置が、ほぼ揃っています。
「本日は、王国史礼法研究会の小発表に向けた導入案を確認する」
殿下の声は、少し硬いながらも安定しています。
ナリア様への受け渡しも自然。
「言葉は、関係を作るものです」
ナリア様の声も、昨日よりしっかりしています。
途中で止まりませんでした。
ただ、一文だけ少し早くなりました。
殿下はそれに気づいたのか、次の自分の一文を少しゆっくり話しました。
すると、ナリア様の次の言葉も落ち着きました。
これは良い。
隣の速度に合わせるだけではなく、自分の速度で相手を戻す。
殿下は、自然にそれをしました。
終わった後、レオン様がすぐに指摘しました。
「殿下、ナリア様が少し早くなった後、ご自分の速度を落としましたね」
「ああ。昨日、つられそうになったから」
「良い判断です」
ナリア様が殿下を見ました。
「私、早くなっていましたか?」
「少しだけ」
殿下は優しく答えました。
「でも、言葉はきちんと聞こえていた」
ナリア様の頬が赤くなります。
「ありがとうございます」
殿下も少し赤くなりました。
でも、会話は自然です。
二回目。
空席を並べた状態で練習します。
誰も座っていない椅子。
けれど、そこに誰かがいると想像して話す。
これは思った以上に難しかったようです。
殿下の声は少し王太子らしく硬くなりました。
ナリア様の声も最初の一文で少し震えました。
「言葉は、関係を作るものです」
言えました。
けれど、次の文へ進む時、視線が迷いました。
目の前の空席を見るべきか、資料を見るべきか、殿下を見るべきか。
その迷いが声に出ます。
殿下が動きかけました。
助けたい。
けれど、待つ。
ナリア様は一瞬、殿下を見ました。
殿下は小さく頷きました。
昨日と同じです。
急がなくていい。
そう伝える小さな頷き。
ナリア様は、息を吸いました。
そして空席の方を見ました。
「王家と貴族、貴族と貴族、そして人と人。どの関係においても、言葉は相手を尊重するためにあります」
今度は、まっすぐ空席へ向けて言えました。
私は思わず手を握りました。
できました。
空席相手に。
つまり、本番の視線へ向けて一歩進みました。
殿下も、嬉しそうです。
でも、発表中なので表に出しすぎません。
よく耐えました。
二回目が終わると、ナリア様は少し肩で息をしました。
「緊張しました……」
「でも、できていました」
私はすぐに言いました。
「途中で視線が迷いましたが、戻せました」
エレナ様も頷きます。
「空席を見て言えたのは大きいですわ」
殿下が静かに言いました。
「君の声は、後半の方がよく届いていた」
ナリア様が殿下を見ます。
「本当ですか?」
「ああ。最初は少し震えていた。でも、途中からまっすぐになった」
殿下は言葉を選んでいます。
褒めるだけではなく、変化を伝えています。
ナリア様は、それをとても嬉しそうに受け取りました。
「ありがとうございます。殿下が待ってくださったので、落ち着けました」
殿下の顔が赤くなります。
しかし、今日も呼吸。
「君が自分で戻ったからだ」
良い返しです。
ナリア様の頬がさらに赤くなりました。
私たちは見守りました。
もう咳払いはいりません。
三回目。
今度は、私たち三人が空席の一部に座り、本番に近い形を取ります。
人数は少ない。
けれど、実際の視線があります。
殿下とナリア様は並んで立ちました。
最初の一文。
殿下の声は、硬すぎませんでした。
王太子としてではなく、研究会の一員として話そうとしているのが分かります。
ナリア様も、受け渡しを受けて話します。
「言葉は、関係を作るものです」
今日一番、よく響きました。
私は胸の奥が熱くなりました。
この言葉を、彼女が言うことに意味があります。
言葉に傷つけられた彼女が。
自分の気持ちを勝手に語られた彼女が。
今、言葉は関係を作るものだと語っている。
その強さが、静かに伝わってきました。
殿下も、それを感じているようでした。
けれど発表中です。
聞く。
待つ。
自分の番で話す。
それを守っています。
三回目の導入は、最後までほとんど止まらずに通りました。
終わった瞬間、少し沈黙が落ちました。
誰もすぐに言葉を出さなかったのは、悪かったからではありません。
良かったからです。
エレナ様が、静かに拍手しました。
レオン様も頷きます。
「導入は、これで十分本番に出せる段階です」
ナリア様が目を見開きました。
「本当ですか?」
「はい」
レオン様は真面目に答えます。
「改善点はありますが、導入として必要な安定感があります」
私も頷きました。
「お二人の受け渡しが自然でした。特に、ナリア様の最初の一文がとてもよかったです」
ナリア様の頬が赤くなります。
「ありがとうございます」
殿下は少し誇らしそうでした。
でも、ナリア様を自分の成果のように語ることはしません。
ただ、静かに言いました。
「僕も、今日の導入は良かったと思う」
ナリア様が殿下を見ました。
「殿下も、とても落ち着いていらっしゃいました」
褒め言葉。
殿下は赤くなりました。
でも、浮かれません。
「ありがとう。君が隣にいたから、落ち着けた」
また、自然に言いました。
ナリア様は一瞬、言葉を失いました。
それから、小さく笑いました。
「私もです」
私もです。
たったそれだけ。
けれど、その一言で、学習室の空気がとても柔らかくなりました。
エレナ様が扇で口元を隠しました。
レオン様は記録紙を見つめています。
私は、もうどうにも胸がいっぱいでした。
研究会の最後、今後の予定が決まりました。
次回から中盤練習へ入ります。
見学希望者が増えたため、発表場所は開放学習室ではなく、小講義室へ変更される可能性があること。
教師側が調整中であること。
人数が増えても、発表内容は広げすぎないこと。
初回はあくまで短く、言葉の扱いについて考えるきっかけにすること。
殿下はそのすべてを聞き、心得紙に新しく書きました。
『場所が広くなっても、声は急がない』
良い心得です。
ナリア様もそれを見て、微笑みました。
「私も覚えます」
殿下が少し驚きました。
「君も?」
「はい。場所が広くなると、きっと焦って早口になってしまうので」
殿下は、少しだけ嬉しそうにしました。
「では、一緒に覚えよう」
「はい」
自然です。
本当に自然です。
私は心の中で、何度目か分からない拍手を送りました。
帰り道。
夕暮れの校舎を出ると、空は淡い青紫に染まり始めていました。
池の水面には、空の色が静かに映っています。
風が花壇を揺らし、花びらが小さく震えました。
殿下とナリア様は、少し前を並んで歩いています。
今日は昨日より、さらに自然な距離です。
何かを話しているわけではありません。
ただ並んで歩いている。
それだけで、以前とはまったく違う光景でした。
エレナ様が隣で言いました。
「導入、完成しましたわね」
「はい」
「次は中盤です」
「はい」
「そして見学者二十名以上」
「……はい」
考えると少し胃が痛くなります。
ですが、二人ならきっと進める。
そう思える日でもありました。
王太子殿下。
今日のあなたは、増える視線に備えました。
空席にも、緊張にも、ナリア様の声の揺れにも飲まれず、隣で待つことができました。
どうか次も。
場所が広くなっても、人が増えても、ナリア様の声を急がせず、同じ歩幅で進んでくださいませ。
あなたが待つ限り、ナリア様の言葉はきっと、もっと多くの人へ届いていくのですから。




