第25話 王太子殿下、区切りの日に立つ
区切りの日というものは、思っているほど劇的ではありません。
鐘が鳴り響くわけでもなく。
空が晴れ渡るわけでもなく。
誰もが納得する言葉が、綺麗に並ぶわけでもない。
ただ、昨日まで保留されていたものに、ひとまずの形が与えられる。
それだけです。
けれど、その「ひとまず」が、人の心を少しだけ前へ押すことがあります。
匿名文の件について、学園側の正式な判断が出る日。
朝のアルスード学園は、妙に静かでした。
廊下を歩く生徒たちの声はいつもより小さく、掲示板の前を通る者は、自然と足を速めます。
あの紙はもうありません。
けれど、誰もが覚えている。
王太子殿下の心変わりは本物なのか。
傷ついた婚約者候補を支えるふりをして、殿下のそばに立つ者がいる。
真にお可哀想なのは誰なのか。
あの匿名文は、ただの紙ではありませんでした。
ナリア様の心を勝手に使い、私を疑わせ、殿下の変化を歪め、セシリア様を怯えさせ、イレーヌ様に罪を犯させた。
そして、ベアトリス様自身もまた、自分の言葉の影響力から逃げられなくなった。
その区切りが、今日つけられるのです。
開放学習室には、いつもの五人が集まっていました。
殿下。
レオン様。
ナリア様。
エレナ様。
そして私。
机の上に資料はあります。
ですが、誰も最初からそれを開こうとはしませんでした。
今日ばかりは、学術研究会というより、ただ互いの呼吸を確認するために集まったような空気でした。
殿下は、心得紙を見つめています。
『待つ』
『焦らない』
『任せる』
『追い詰めない』
『呼吸』
『前に出ない勇気』
『場を支配しない』
『逃げ道を塞がず、事実を見る』
『休ませることも守ること』
『勝っても追わない』
『自分を守る言葉だけでは届かない』
『心配で責めない』
『待った後に走らない』
ずいぶん増えました。
恋愛相談役として初めて殿下と向き合った時、まさかここまで項目が増えるとは思ってもいませんでした。
しかも半分以上が、もはや恋愛ではなく人生訓か王太子教育です。
殿下はその紙の一番下に、今日のための新しい一文を書きました。
『区切りは終わりではない』
私は、その文字を見つめました。
殿下の字は、いつも通り美しい。
けれど、その一文にはどこか重みがありました。
「殿下」
ナリア様が、静かに声をかけました。
「はい」
「今日は、怖くありませんか」
殿下が少し目を見開きます。
それから、ゆっくり頷きました。
「怖い」
正直な返事でした。
「僕が何を言うべきか、まだ迷っている」
「殿下も?」
「ああ」
殿下は紙を見下ろしました。
「ベアトリス嬢に責任があることは確かだと思う。だが、彼女をただ追い詰めたいわけではない。イレーヌ嬢も、セシリア嬢も、君も、ルイート嬢も……皆が傷ついた。だから、今日の言葉を間違えたくない」
ナリア様は、静かに聞いていました。
以前なら、殿下が怖いと口にする姿に驚いたかもしれません。
でも今のナリア様は、殿下の弱さを聞いても逃げません。
「私も怖いです」
ナリア様は言いました。
「ダルモア様が何をおっしゃるのかも、学園がどう判断するのかも」
「ナリア……」
「でも、昨日よりは落ち着いています。殿下が私の言葉を聞いてくださると、分かっているので」
殿下の顔が赤くなりかけました。
しかし、今日はすぐに心得紙を見ました。
呼吸。
吸って、吐く。
よくできています。
「僕は聞く」
殿下は静かに言いました。
「君の言葉を、最後まで」
ナリア様は、柔らかく頷きました。
「はい」
そのやり取りだけで、私は胸の奥が温かくなりました。
最初の頃なら、殿下はきっとこうは言えなかったでしょう。
ナリア様も、こうは返せなかったでしょう。
傷はまだあります。
不安も残っています。
でも、二人はもう、互いの言葉を避けてはいません。
レオン様が時計を確認しました。
「そろそろ時間です」
今日の正式判断は、教師棟の面談室で伝えられます。
大勢の前ではありません。
関係者が呼ばれ、学園側の判断を受ける形です。
イレーヌ様、セシリア様、ベアトリス様にはそれぞれ個別に話がされ、私たちにはその後、関係者として説明がある予定でした。
けれど、ベアトリス様が「関係者へ向けて一言伝えたい」と申し出たため、最後に短い場が設けられることになりました。
彼女が何を言うつもりなのかは、誰も知りません。
それが、一番不安でした。
面談室前の廊下は、いつもより冷たく感じました。
窓から差し込む光は明るいのに、空気は重い。
先に来ていた教師が、私たちを中へ案内しました。
部屋にはすでに、学年主任と王国法の教師がいます。
レオン様が殿下の少し後ろへ立ち、私とエレナ様はナリア様の近くへ座りました。
殿下は上座ではなく、またしても教師の斜め横。
場を支配しない位置です。
その選び方だけで、殿下が今日も言葉を選ぼうとしているのが分かりました。
教師が静かに口を開きました。
「掲示板の匿名文に関する一連の件について、学園としての判断を伝えます」
部屋の空気が張り詰めます。
「まず、イレーヌ・バッセル男爵令嬢について。匿名文を書き、掲示板へ貼った実行者であることを本人が認めました。学園の秩序を乱し、特定生徒の名誉を傷つける行為であったため、一定期間の登校停止および反省文、保護者への通知、再登校後の指導対象とします」
私は静かに息を吸いました。
予想された処分です。
重すぎるわけではありませんが、軽くもありません。
教師は続けました。
「次に、セシリア・モートン子爵令嬢について。見張りに協力した事実はあります。しかし、圧力を受けていたこと、本人が自ら事情を話したことを考慮し、処分ではなく厳重指導および保護的観察とします」
ナリア様の肩が、少しだけ緩みました。
私もほっとしました。
セシリア様が潰されずに済んだ。
それは本当に良かったと思います。
そして。
教師の声が、少しだけ重くなりました。
「最後に、ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢について」
部屋の空気がさらに静まりました。
「匿名文の作成および掲示を直接命じた証拠は確認できませんでした。しかし、複数の証言から、匿名文の内容に強く影響する発言を繰り返し、周囲の生徒が行動に移す土壌を作ったことは否定できません」
殿下は黙っています。
ナリア様も、手を握りしめています。
「また、発言の内容は、クラウゼン嬢の心情を本人の許可なく推測し、ルイート嬢への不信を周囲に広げるものでした。よって、ダルモア嬢には正式な懲戒ではなく、厳重注意、保護者への報告、学園内での指導活動への参加停止を一定期間命じます」
指導活動。
つまり、礼法や生徒代表に関わる活動から外されるということでしょう。
侯爵令嬢であり、王太子妃候補にも名が挙がった方にとって、これは小さくない処分です。
さらに教師は続けました。
「加えて、本人には自らの言葉が与えた影響について、関係者へ向けた説明と謝意を述べる機会を与えます」
謝罪ではなく、説明と謝意。
言葉が慎重です。
学園側も、彼女に強制的に謝らせるのではなく、自分の言葉で向き合う機会を与える形にしたのでしょう。
部屋の外で、足音がしました。
扉が叩かれます。
「入りなさい」
教師の声で扉が開き、ベアトリス様が入ってきました。
今日の彼女は、いつもと同じように美しかった。
けれど、いつもと同じではありませんでした。
白い扇は持っていません。
金茶の髪は整っています。
制服も乱れていません。
しかし、表情には疲れがありました。
そして、ほんの少しだけ、迷いの跡が見えました。
彼女は部屋の中央で立ち止まり、深く礼をしました。
「このたびは、私の発言と振る舞いにより、多くの方にご迷惑とご不快な思いをさせました」
声は静かでした。
震えてはいません。
けれど、以前のような滑らかな余裕はありませんでした。
「私は、匿名文を書くよう直接命じたつもりはありませんでした」
その言葉に、一瞬空気が硬くなります。
しかし、彼女は続けました。
「ですが、私の言葉が、イレーヌ様をその行動へ向かわせたことは否定できません」
私は息を止めました。
ベアトリス様が、認めました。
直接命令ではない。
けれど、自分の言葉が動かしたと。
彼女は視線を少し落としました。
「私は、自分の立場が揺らぐことを恐れていました」
部屋の空気が変わりました。
ナリア様が、ベアトリス様を見つめます。
殿下も、静かに聞いていました。
「殿下がナリア様へ向き合われるようになり、ルイート様がその近くにいらっしゃることを見て、私は焦りました。自分がこれまで築いてきたものが、知らないところで崩れていくように感じました」
ベアトリス様の手が、わずかに震えています。
「だから、私は周囲へ言葉を投げました。ナリア様は不安なのではないか。ルイート様は近すぎるのではないか。殿下の変化は本物なのか。……私は、それを心配という形にしていました」
彼女は一度、唇を噛みました。
「ですが、本当は違いました。私は、ナリア様を心配していたのではなく、自分の不安をナリア様の名で語っていました」
ナリア様の瞳が揺れました。
私も、胸の奥がきゅっと痛みました。
ベアトリス様は、初めて自分の中心に触れました。
自分を守る言葉ではなく。
自分の弱さを認める言葉です。
「ナリア様」
ベアトリス様は、ナリア様へ向き直りました。
「あなたの気持ちを、勝手に使いました。可哀想だと語ることで、あなたをさらに傷つけました。申し訳ございません」
ナリア様は、すぐには答えませんでした。
その沈黙を、誰も急かしません。
殿下も。
私も。
エレナ様も。
ナリア様は、少しだけ息を吸いました。
「……私は、傷つきました」
静かな声でした。
「はい」
ベアトリス様は頷きました。
「でも、今のお言葉は、受け取ります」
ナリア様の声は震えていました。
けれど、まっすぐでした。
「許すかどうかは、まだ分かりません。すぐには言えません」
「当然です」
「でも、私の気持ちを私のものとして扱ってくださったことには、感謝します」
ベアトリス様の顔が、ほんの少し歪みました。
泣きはしません。
けれど、泣きそうにも見えました。
「ありがとうございます」
次に、ベアトリス様は私を見ました。
「ルイート様」
「はい」
「あなたを、殿下とナリア様の間に入り込む方のように周囲へ印象づけました」
私は黙って聞きました。
「あなたは何度も、ナリア様を傷つけないとおっしゃっていたのに、私はその言葉を信じませんでした。いいえ、信じたくありませんでした」
彼女の声が、少しだけ揺れます。
「申し訳ございません」
私は、すぐには返事ができませんでした。
傷ついた。
確かに傷つきました。
怖かった。
机に置かれた警告文も、掲示板の匿名文も。
けれど、今の彼女の言葉もまた、簡単に無視できるものではありませんでした。
「……私も、すぐに何もなかったことにはできません」
「はい」
「ですが、謝罪は受け取ります」
そう言うと、ベアトリス様は深く頭を下げました。
そして最後に、殿下へ向き直りました。
「アルノルド殿下」
「はい」
「私は、殿下のお心がナリア様へ向いていることを認めたくありませんでした」
殿下の表情が、わずかに変わります。
ナリア様の頬も少し赤くなりました。
しかし、誰も止めません。
「王太子妃候補として名前を挙げられたこともあり、私は自分にも可能性があると思っていました。ですが殿下は、ずっとナリア様を見ていらした」
その言葉に、殿下は目を伏せました。
ずっと見ていた。
でも、伝えられなかった。
傷つけていた。
その事実が、きっと殿下の胸にも刺さったのでしょう。
ベアトリス様は続けました。
「そのことを認めるのが悔しかったのです。だから、ナリア様の不安を利用し、ルイート様への疑念を広げました」
彼女はもう一度、深く礼をしました。
「申し訳ございませんでした」
部屋に、長い沈黙が落ちました。
殿下は、すぐには答えませんでした。
感情を整えている。
言葉を選んでいる。
私は、それが分かりました。
そして殿下は、静かに言いました。
「君の謝罪は聞いた」
声は低く、落ち着いていました。
「したことが消えるわけではない。ナリアも、ルイート嬢も、セシリア嬢も、イレーヌ嬢も傷ついた」
「はい」
「だが、今、自分の言葉で認めたことは受け止める」
ベアトリス様が顔を上げました。
殿下は続けます。
「君の立場への不安は、理解できる部分もある。だが、それを他者を傷つける形にしたことは間違いだ」
「はい」
「今後、君がどう振る舞うかを見る」
その言葉は、罰ではありません。
許しでもありません。
見ている。
これからの行動で示せ。
そういう言葉でした。
ベアトリス様は、静かに頷きました。
「承知いたしました」
教師が面談を締めました。
正式な処分と指導は後ほど各家へも通知される。
この件について、関係者以外が不用意に噂を広げることは改めて禁じられる。
そう告げられ、場は終わりました。
部屋を出た後、廊下には奇妙な静けさがありました。
誰もすぐには話せませんでした。
ナリア様は少し疲れた顔をしていましたが、倒れそうではありません。
殿下が、静かに尋ねました。
「大丈夫か」
ナリア様は頷きました。
「はい。少し疲れました。でも……言葉を聞けてよかったと思います」
「そうか」
「殿下は?」
ナリア様が尋ね返しました。
殿下は少し驚いた顔をしました。
「僕は……」
彼は少し考えて、言いました。
「怒りが完全に消えたわけではない。でも、彼女が自分の言葉で認めたことに、少し安心もしている」
「はい」
「複雑だ」
「私もです」
二人は、少しだけ笑いました。
複雑。
それが一番正しい言葉かもしれません。
すっきりした解決ではありません。
全員が笑って終わるわけでもありません。
でも、少なくとも今日、ベアトリス様は自分の言葉で向き合いました。
ナリア様も、それを受け止めました。
殿下も、怒りに任せず区切りの言葉を選びました。
それだけで十分ではないでしょうか。
放課後の研究会は、短く行われました。
今日は事件の整理ではなく、本当に久しぶりに普通の議題を扱いました。
王国式典における誓約文の変遷。
以前からの続きです。
ナリア様が資料を開き、殿下が質問し、レオン様が補足し、エレナ様が蜂蜜菓子を配り、私が王国史の年表を広げる。
何も特別なことはありません。
けれど、その普通がとてもありがたく感じられました。
「この誓約文では、王家側の責任が以前より明確になっています」
ナリア様が説明します。
殿下は真剣に聞いていました。
「責任を明確にすることで、信頼を保つのだな」
「はい」
「……今日の件にも通じる」
殿下がそう言うと、ナリア様は静かに頷きました。
「そうですね」
「ナリア」
「はい」
「今日は、よく頑張った」
殿下は言いました。
短い言葉。
でも、温かい言葉。
ナリア様は少し驚き、それから微笑みました。
「殿下も」
殿下の顔が赤くなりました。
しかし、今日は口を閉じませんでした。
ちゃんと言葉を選びました。
「ありがとう」
自然な感謝。
もう、この言葉は殿下の中にかなり馴染んできたようです。
研究会が終わる頃、窓の外には夕焼けが広がっていました。
薄い金色の光が机の上に落ち、蜂蜜菓子の包みが小さく輝いています。
事件は、ひとまず区切りを迎えました。
完全に終わったわけではありません。
傷も、噂も、後処理も残っています。
でも、区切りはつきました。
ナリア様は帰り際、私に言いました。
「ルイート様」
「はい」
「少しだけ、普通に戻れそうな気がします」
私は微笑みました。
「はい」
「まだ全部ではありませんけれど」
「少しずつでいいと思います」
ナリア様は頷きました。
「はい。少しずつ」
その言葉は、今まで何度も出てきた言葉でした。
少しずつ。
殿下も。
ナリア様も。
私たちも。
全部、少しずつです。
校舎を出ると、夕方の風が柔らかく吹いていました。
中庭の花が揺れています。
遠くで、ベアトリス様が一人で歩いているのが見えました。
彼女の周りには、以前のような取り巻きはいません。
けれど、背筋は伸びていました。
その姿を見て、私は思いました。
彼女もまた、これから選び直すのでしょう。
正しくできるかは分かりません。
でも、少なくとも今日、その機会は残されました。
殿下が隣で静かに言いました。
「区切りは、終わりではないな」
私は頷きました。
「はい」
「ここから、どうするかだ」
「その通りです」
ナリア様が、少しだけ笑いました。
「では、明日からは普通の研究会ですね」
殿下が少し表情を和らげました。
「ああ。普通の研究会だ」
レオン様が淡々と言いました。
「殿下の呼吸訓練も継続します」
「レオン」
「必要です」
エレナ様が笑いました。
ナリア様も、小さく笑いました。
私も、つられて笑ってしまいました。
普通の研究会。
呼吸訓練つき。
それが私たちの日常です。
私は夕焼けの空を見上げ、心の中で静かに呟きました。
王太子殿下。
今日のあなたは、区切りの日に立てました。
怒りを刃にせず、謝罪を受け止め、これからを見ると言えました。
どうか明日からも。
終わったことにせず、少しずつ選び直していってくださいませ。
ナリア様の隣を、いつか自然に歩けるようになるまで。




