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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第24話 王太子殿下、揺らぎを見逃さない 


 人は、自分が間違えたかもしれないと思った時、すぐにそれを認められるわけではありません。


 むしろ、最初にすることは逆です。


 間違えていない理由を探す。


 仕方なかった理由を並べる。


 自分だけが悪いわけではないと、心の中で何度も繰り返す。


 それは醜いことかもしれません。


 けれど、誰にでもある弱さでもあります。


 だからといって、許されるわけではありません。


 ただ、そこを見誤れば、相手を正しく見られなくなる。


 ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢が提出した書面を読んだ時、私はそんなことを思いました。


 放課後前の短い休み時間。


 開放学習室ではなく、教師棟に近い小さな資料閲覧室。


 そこに集まっていたのは、アルノルド殿下、レオン様、エレナ様、そして私でした。


 ナリア様は礼法研究会の用事で少し遅れて合流する予定です。


 机の上には、一枚の写し。


 ベアトリス様が教師へ提出した説明書面の要約です。


 正式な文書そのものではありません。


 ですが、教師側が関係者への確認として、内容の一部を共有してくださったのです。


 レオン様が静かな声で読み上げました。


「ダルモア嬢は、匿名文の作成および掲示について、直接の指示を否定しています」


 殿下は黙っています。


 机の上で組まれた手は、少しだけ力が入っていました。


「ただし、匿名文の内容に類する会話を周囲としていたことは認めています」


 エレナ様が眉を寄せました。


「そこは認めたのですね」


「はい。ただし、あくまで一般論として話しただけだと」


 レオン様は続けます。


「ナリア様が殿下の急な変化に戸惑われるのではないか。周囲がそれを心配することは自然ではないか。そのような話をしただけであり、特定の人物を傷つける意図はなかった、と」


 私は書面の写しに目を落としました。


 整った文章です。


 責任を認めすぎず、しかし完全否定もしない。


 自分の言葉が周囲へ影響を与えた可能性には触れながら、それを「誤解」「過剰な解釈」として処理しようとしている。


 実に貴族らしい文章でした。


 綺麗で、逃げ道が多い。


 殿下が低く言いました。


「つまり、イレーヌ嬢が勝手にしたことだと?」


「表現は柔らかいですが、そういう内容です」


 レオン様が答えます。


「モートン嬢については?」


「彼女が圧力を感じていたことは遺憾だが、自分は脅す意図を持っていなかった、と」


 エレナ様が小さく息を吐きました。


「便利な言葉ですわね。意図はなかった」


「はい」


 私は頷きました。


「傷つけるつもりはなかった。脅すつもりはなかった。命じるつもりはなかった」


「でも、結果は起きている」


 殿下が言いました。


 声は静かでした。


 けれど、その奥には怒りがありました。


「ナリアは傷ついた。ルイート嬢も傷ついた。セシリア嬢は怯えた。イレーヌ嬢は匿名文を書いた」


「はい」


 レオン様が頷きます。


「だからこそ、教師側も完全な無関係とは見ていません。ただ、処分の重さは慎重に検討されるでしょう」


「……分かっている」


 殿下は目を伏せました。


 以前の殿下なら、ここで「そんな言い逃れを許すのか」と声を荒げていたかもしれません。


 いえ、たぶん荒げていました。


 けれど今は違います。


 怒っている。


 しかし、言葉を選んでいます。


 それだけでも、大きな変化でした。


 エレナ様が書面の写しを見つめながら言いました。


「ベアトリス様は、まだ自分の中心には触れていませんわね」


「中心?」


 殿下が尋ねました。


 エレナ様は扇を閉じ、静かに答えました。


「なぜ、そこまでナリア様の不安を話題にしたのか。なぜ、ルイート様の存在を周囲に疑わせるような言葉を重ねたのか。そこですわ」


 私は少し息を止めました。


 確かに。


 書面には、行動の説明はあります。


 けれど、動機の核心はありません。


 ナリア様を心配した。


 殿下の変化を不自然に思った。


 周囲も同じように感じていた。


 それらしい理由は並んでいます。


 でも、その奥にあるはずのもの。


 嫉妬。

 焦り。

 立場を奪われたくない気持ち。

 王太子妃候補としての自尊心。


 そうしたものには、一切触れていません。


「自分を守るための文章ですね」


 私が言うと、全員の視線がこちらに向きました。


 私は少しだけ指先を組み直しました。


「もちろん、誰でも自分を守ろうとします。それ自体は責められません。けれど、この書面には、傷ついた相手へ向けた言葉がほとんどありません」


 殿下の瞳が揺れました。


「傷ついた相手へ向けた言葉……」


「はい。ナリア様へ。セシリア様へ。イレーヌ様へ。そして……私へ」


 自分で言って、胸の奥が少し痛みました。


 匿名文の件で、私は傷ついた。


 そう口にするのは、まだ少し抵抗があります。


 けれど、なかったことにはできません。


「彼女は、自分に悪意はなかったと説明しています。でも、誰かが傷ついたことへの向き合い方が薄い」


 エレナ様が静かに頷きました。


「まさにそこですわ」


 レオン様も書面へ視線を落としました。


「教師側も、その点は見るでしょう」


 殿下は黙っていました。


 その沈黙は、長かった。


 怒りを飲み込んでいる沈黙ではなく、考えている沈黙です。


 そして彼は、ゆっくりと言いました。


「僕も、以前はそうだったのだろうな」


 私は殿下を見ました。


「殿下?」


「ナリアを傷つけた時、僕は自分のことばかりだった。なぜ言ってしまうのか。どうしてうまくできないのか。自分が情けない。自分が苦しい。……傷つけられたナリアのことを、本当には見ていなかった」


 資料閲覧室の空気が静かになりました。


 殿下の声は、低く、少し苦しげでした。


「ベアトリス嬢の書面を見て腹が立つ。だが、その中に以前の僕に近いものがあると思うと、ただ怒鳴ることはできない」


 エレナ様が扇を握る手を少し緩めました。


 レオン様は何も言いません。


 私は、胸の奥が静かに震えるのを感じていました。


 殿下は、自分と重ねている。


 ベアトリス様を許したわけではありません。


 でも、ただ悪として切り捨てるのではなく、自分の過去の弱さも一緒に見ている。


 それは、苦しいことです。


 けれど、きっと必要なことでした。


「殿下」


 私は静かに言いました。


「だからこそ、今の殿下には言えることがあると思います」


「僕に?」


「はい。自分を守る言葉ばかりでは、相手には届かない。傷つけた相手へ向き合う言葉が必要だと」


 殿下は私を見ました。


「……そうだな」


「それは、殿下がこれまで学んできたことです」


 殿下は少しだけ苦笑しました。


「恋愛相談だったはずなのに」


「はい」


「ずいぶん遠くまで来たな」


「本当に」


 エレナ様が柔らかく笑いました。


「でも、無駄ではありませんわ」


「そうだな」


 殿下は心得紙を取り出しました。


 最近は、どこへ行くにも持っているようです。


 そこに新しい一文を書き足しました。


『自分を守る言葉だけでは届かない』


 美しい字でした。


 内容は、少し痛い。


 けれど、大切な言葉です。


 その日の昼休み。


 食堂は相変わらずざわついていました。


 ベアトリス様は来ていました。


 ただし、以前のように取り巻きに囲まれてはいません。


 二人ほど近くに座っていましたが、会話は少なく、空気はどこか硬い。


 白い扇は開かれています。


 けれど、その扇の動きはいつもより少し遅く見えました。


 私はエレナ様と並んで食堂へ入り、少し離れた席に座りました。


 ナリア様は今日は礼法研究会の令嬢たちと一緒です。


 殿下は王族用の席でレオン様と昼食を取っています。


 それぞれが距離を保ちながら、同じ空間にいる。


 そんな昼休みでした。


 食堂の端で、誰かが小声で言いました。


「ダルモア様、少しお疲れのようですわね」


「当然では?」

「でも、あの方が本当に悪いのかしら」

「直接命じていないのでしょう?」

「けれど、イレーヌ様が勝手にあんなことをするとも思えませんわ」

「難しいですわね」


 難しい。


 その言葉が、今の学園の空気をよく表していました。


 誰かを簡単に悪者にするほど単純ではない。


 でも、何もなかったことにはできない。


 皆、その間で揺れているのです。


 食事を終えた頃、私は食堂を出るために立ち上がりました。


 エレナ様は教師へ提出する課題のことで少し席を外しており、私は一人になっていました。


 普段なら一人にならないよう気をつける場面です。


 ですが、食堂から教室へ戻るだけ。


 人通りも多い。


 そう判断してしまったのが、少し甘かったのかもしれません。


 廊下の角を曲がったところで、私は足を止めました。


 ベアトリス様が、そこにいました。


 偶然。


 そう言える位置ではあります。


 けれど、彼女が私を待っていたのかもしれないとも思える距離でした。


 白い扇は閉じられています。


 金茶の髪はいつも通り整っていますが、近くで見ると、目元にわずかな疲れがありました。


「ルイート様」


「ダルモア様」


 私は礼をしました。


 ベアトリス様も礼を返します。


 廊下には人がいます。


 けれど、この角の部分だけは少し視線が外れています。


 完全な密室ではありません。


 しかし、短い会話なら周囲に聞かれにくい。


 彼女は、ゆっくり口を開きました。


「少し、よろしいかしら」


「長くなければ」


 私が答えると、ベアトリス様は微かに笑いました。


「警戒されているのね」


「状況が状況ですので」


「当然ですわね」


 彼女は、窓の外へ視線を向けました。


 中庭には昼の光が差しています。


 花壇の花が風に揺れていました。


「私、書面を提出いたしました」


「伺っています」


「あなた方は、きっと納得なさらないでしょうね」


 私は答えませんでした。


 ベアトリス様は続けました。


「でも、私は本当に命じておりません。イレーヌ様が匿名文を書くことも、掲示板に貼ることも、私が直接指示したわけではありません」


「そう書かれたそうですね」


「事実ですわ」


「はい」


 私は静かに頷きました。


「直接指示していないことは、事実かもしれません」


 ベアトリス様の目が、ほんの少し動きました。


「かもしれない?」


「私はその場にいませんでしたので」


「では、私を疑っているのね」


「疑う、というより」


 私は少し言葉を選びました。


 ここで感情的になれば意味がありません。


 彼女もきっと、私の反応を見ています。


「ダルモア様は、ご自分を守る言葉を選んでいるように見えます」


 ベアトリス様の表情が、わずかに固まりました。


「……どういう意味かしら」


「傷つけるつもりはなかった。命じたわけではない。誤解された。過剰に受け取られた。それは、すべてご自分を守るための言葉です」


「それが悪いの?」


「悪いとは申しません」


 私は首を横に振りました。


「誰でも、自分を守りたくなります。私もきっとそうします」


 ベアトリス様は黙りました。


「けれど、それだけでは、傷ついた方へは届かないと思います」


 廊下の空気が、少し冷たく感じました。


 ベアトリス様は白い扇を握りしめました。


「あなたは、私に謝れと言いたいの?」


「謝るかどうかは、ダルモア様がお決めになることです」


「随分と余裕ですのね」


 声に棘が混じりました。


 以前のような余裕ある棘ではありません。


 少し揺れた棘です。


「王太子殿下に庇われ、ナリア様にも信じられて。今のあなたは、勝った側にいるように見えるわ」


 私は胸の奥が少し痛みました。


 勝った側。


 その言葉には、彼女の本音が少し滲んでいる気がしました。


 勝ち負け。


 立場。


 選ばれるか、外されるか。


 ベアトリス様はずっと、その中で戦っていたのかもしれません。


「勝ったとは思っていません」


「では何?」


「誰も、勝っていないと思います」


 ベアトリス様が私を見ました。


「ナリア様は傷つきました。セシリア様は怯えました。イレーヌ様は罪を犯しました。ダルモア様も、今こうして追い詰められています。これを勝ち負けで見るなら、誰も勝っていません」


 沈黙。


 ベアトリス様の指が、扇の骨を強く押さえました。


「……綺麗事ですわ」


「そうかもしれません」


「あなたは、安全な場所にいるから言えるのよ」


「そう見えるかもしれません」


「実際そうでしょう?」


 ベアトリス様の声が少し強くなりました。


「殿下はあなたの言葉を聞く。ナリア様はあなたを信じる。バートン様もグラシア様もあなた側。私は、ただ周囲の不安を口にしただけなのに、いつの間にか悪者のように扱われている」


 その言葉には、確かな怒りがありました。


 同時に、焦りもありました。


 私は黙って聞きました。


 遮らない。


 殿下に散々言ってきたことを、今度は私が守る番です。


 ベアトリス様は、一度唇を噛みました。


「……私は、間違っていない」


 小さな声でした。


「殿下が急に変わられたことは、不自然でした。ナリア様が不安に思われるのではないかと考えるのは当然です。ルイート様が近くにいれば、周囲が疑問に思うのも当然です。私は、その当然を口にしただけです」


 私は静かに言いました。


「当然の疑問を口にすることと、匿名文で人を傷つける流れを作ることは違います」


「だから、私は書いていないと」


「はい。書いたのはイレーヌ様です」


 ベアトリス様が、少しだけ息を吐きました。


 しかし私は続けました。


「でも、ダルモア様の言葉がイレーヌ様を動かした可能性はあります」


「……」


「ダルモア様がそのつもりではなくても、です」


 ベアトリス様は窓の外を見ました。


 その横顔から、表情が消えています。


 完璧な侯爵令嬢の顔。


 けれど、その奥に小さな揺れがあるのを、私は確かに見ました。


「私に、どうしろと?」


「分かりません」


 正直に答えると、彼女は少し驚いたように私を見ました。


「分からない?」


「はい。私はダルモア様ではありませんので」


「……」


「ただ、自分を守るための言葉だけではなく、傷ついた方へ向ける言葉を探された方がよいと思います」


 ベアトリス様は黙りました。


 長い沈黙でした。


 廊下の向こうから、生徒たちの声が聞こえます。


 誰かが笑いながら通り過ぎていく。


 私たちの立つ角だけ、時間が少し遅くなったようでした。


 やがてベアトリス様は、静かに言いました。


「あなたは、嫌な方ね」


「よく言われます」


「本当に?」


「いえ、あまり」


 思わず正直に答えてしまいました。


 ベアトリス様は一瞬だけ、変な顔をしました。


 笑いそうになったのかもしれません。


 けれど、すぐに表情を戻しました。


「……考えておきますわ」


 小さな声でした。


 謝罪ではありません。


 認めたわけでもありません。


 でも、初めて防御だけではない言葉でした。


「はい」


 私は礼をしました。


 ベアトリス様も礼を返します。


 そして、すれ違うように歩いていきました。


 その背中は、以前より少しだけ小さく見えました。


 私はしばらく、その場に立っていました。


 胸が重い。


 でも、少しだけ何かが動いた気もしました。


 放課後の研究会でその会話を報告すると、殿下はかなり険しい顔をしました。


「君は一人でベアトリス嬢と話したのか」


「人通りのある廊下です」


「一人で」


「短時間です」


「一人で」


 繰り返されています。


 少し怖いです。


 私は素直に頭を下げました。


「不用意でした。申し訳ありません」


 殿下は息を吸いました。


 吐きました。


 心得紙を見ました。


 そこには今日、また新しい項目が増えています。


『心配で責めない』


 どうやら今書いたようです。


 殿下は、その文字を見てから言いました。


「……無事でよかった」


 短い言葉でした。


 怒りでも責めでもなく、心配の言葉。


 私は少し驚きました。


「ありがとうございます」


「次からは、必ず誰かといてほしい」


「はい」


「命令ではない。お願いだ」


 殿下は以前と同じ言い方をしました。


 私は頷きます。


「分かりました」


 エレナ様が隣で少し怖い笑みを浮かべました。


「マリア様、私からも後でお話があります」


「……はい」


 こちらの方が怖いかもしれません。


 ナリア様は心配そうに私を見ていました。


「ルイート様、本当にお気をつけください」


「はい。反省しています」


 レオン様は静かに言いました。


「ですが、会話の内容は重要です」


 殿下も頷きました。


「ベアトリス嬢が、『考えておく』と言ったのだな」


「はい」


「それがどの方向へ向かうかは分からない」


「はい」


「だが、揺らいではいる」


 殿下は静かに言いました。


「なら、次の書面が変わるかもしれない」


 その言葉に、全員が少し黙りました。


 ベアトリス様が本当に何かを考えるのか。


 それとも、さらに自分を守る言葉を重ねるのか。


 まだ分かりません。


 けれど、少なくとも今日、彼女の完璧な仮面は少し揺れました。


 研究会の終わり、殿下は心得紙に目を落としました。


 そして、小さく呟きました。


「傷ついた方へ向ける言葉、か」


 私は頷きました。


「はい」


「僕も、忘れないようにする」


 ナリア様が、静かに殿下を見ました。


 その眼差しは柔らかく、けれど少し切なそうでした。


 殿下はそれに気づき、言葉を探しました。


 でも、すぐには言いません。


 呼吸をして、選んでいます。


「ナリア」


「はい」


「僕は、まだ足りないことが多いと思う」


「……はい」


「でも、君へ向ける言葉を、これからも間違えないようにしたい」


 ナリア様の瞳が揺れました。


「はい」


 短い返事。


 でも、温かい返事でした。


 私はそれを見て、今日の疲れが少しだけ薄れるのを感じました。


 夕方。


 校舎を出ると、空は淡い紫色に染まっていました。


 雲の隙間から、細い光が差しています。


 事件はまだ終わっていません。


 ベアトリス様の本当の言葉も、まだ見えていません。


 けれど、彼女の中で何かが揺れた。


 そして殿下もまた、自分が選ぶべき言葉を一つ増やした。


 私は夕暮れの空を見上げ、静かに息を吐きました。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、揺らぎを見逃しませんでした。


 そして、自分もまた傷ついた人へ向ける言葉を忘れないと決めました。


 どうか明日も。


 自分を守るためだけではない言葉を、大切な人へ届く形で選んでくださいませ。


★★★


人の心が揺れた瞬間というものは、目に見えにくいものです。


 声が大きく変わるわけではありません。


 涙を流すとも限りません。


 謝罪の言葉がすぐに出るわけでもありません。


 ただ、ほんの少し言葉の間が長くなる。


 視線が一瞬だけ落ちる。


 いつもなら滑らかに出るはずの言い訳が、少しだけ途切れる。


 それくらいの、小さな揺れです。


 けれど、その小さな揺れを見逃さないことが、時には大切なのだと思います。


 ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢と廊下で短く話した後、私はしばらく自分の席でぼんやりしていました。


 もちろん授業中です。


 ぼんやりしている場合ではありません。


 教師の声は聞こえています。


 板書も進んでいます。


 けれど、頭の中には彼女の最後の言葉が残っていました。


 考えておきますわ。


 それは謝罪ではありません。


 反省でもありません。


 認めたわけでもない。


 けれど、完全に跳ね返した言葉でもありませんでした。


 今までのベアトリス様なら、おそらくこう言ったでしょう。


 考えるまでもありませんわ。


 私は何も間違っておりませんもの。


 そう微笑んで、すべてを扇の奥へ隠したはずです。


 でも、彼女は言いました。


 考えておく、と。


 たったそれだけ。


 けれど、その一言がずっと胸に残っていました。


 放課後の研究会では、その話を共有しました。


 殿下は最初、私が一人でベアトリス様と話したことにかなり心配を見せました。


 いえ、心配というより、半分ほど叱られかけました。


 ですが、殿下は自分の感情をそのままぶつけることはしませんでした。


 心得紙に『心配で責めない』と書き足し、呼吸し、そして「無事でよかった」と言ったのです。


 それを聞いた時、私は少し驚きました。


 この方は、本当に日々変わっていきます。


 変化はゆっくりです。


 時々大きく後退しそうにもなります。


 でも、確かに積み重なっています。


 あの池の前で泣きながら奇声を発していた王太子殿下とは、もう別人……と言い切るには、まだ少し危ういですが。


 少なくとも、奇声を発する前に呼吸を試みる方にはなりました。


 研究会の机には、今日も資料が広げられていました。


 表向きの議題は、王国法における「影響力と責任」。


 もはや表向きとは言えないほど、現状にぴったりです。


 けれど、学術研究会として扱うには十分な題材でもありました。


 レオン様が資料を読みます。


「影響力を持つ者の発言は、命令として明文化されていなくとも、周囲に行動を促す場合がある。そのため、上位者は自らの言葉がどう受け取られるかに注意する必要がある」


 殿下が静かに頷きました。


「今の僕にも必要な話だな」


 ナリア様が顔を上げました。


 殿下は少しだけ苦笑します。


「僕は王太子だ。僕の言葉も、命令ではないつもりでも、誰かには命令のように聞こえることがある」


「はい」


 レオン様が頷きました。


「だからこそ、殿下は慎重であるべきです」


「分かっている」


 殿下は、少し間を置いてから続けました。


「以前の僕は、ナリアへの言葉すら慎重に扱えなかった」


 学習室の空気が、少し静かになりました。


 ナリア様の指先が動きます。


 殿下は彼女を見ました。


 けれど、責めてほしいわけでも、慰めてほしいわけでもない顔でした。


「だから、今さら偉そうに誰かの言葉の責任を問うことに、少し怖さもある」


 殿下の声は落ち着いていました。


 その落ち着きが、かえって胸に響きました。


「でも、怖いからといって何も言わなければ、また誰かが傷つく」


 ナリア様は、静かに頷きました。


「殿下は、昨日も今日も、言葉を選んでくださっています」


「まだ間違えるかもしれない」


「その時は、私が聞きます」


 ナリア様の声は小さかった。


 けれど、その言葉に殿下の目が見開かれました。


 私も思わず息を止めました。


 私が聞きます。


 それは、ただ受け身の言葉ではありません。


 殿下が間違えたら、自分が聞く。


 問い返す。


 向き合う。


 そういう意思を含んだ言葉でした。


 殿下はしばらく何も言えませんでした。


 頬が赤くなるでもなく、ただ、深く揺れたように見えました。


 そして、ようやく口を開きます。


「……ありがとう」


 短い感謝。


 けれど、今までのどんな甘い言葉よりも、殿下の心から出たものに聞こえました。


 ナリア様は、少しだけ頬を染めて頷きました。


 この二人の間にある空気は、まだ恋人のそれではありません。


 けれど、もう以前のような一方通行ではありません。


 殿下が言葉を選ぶ。


 ナリア様が聞く。


 ナリア様が不安を伝える。


 殿下が受け止める。


 その繰り返しが、少しずつ二人の間に道を作っています。


 エレナ様が、扇の陰で静かに微笑んでいました。


 レオン様も、表情こそ大きく変わりませんが、どこか穏やかです。


 私は、胸の奥が温かくなるのを感じながら、資料に視線を戻しました。


 研究会は続きました。


 今日の議題は、誰かを責めるためだけのものではありません。


 むしろ、自分の立場と言葉を見つめ直す時間になっていました。


「影響力のある立場の者が、意図せず周囲を動かしてしまった場合」


 私は資料を読み上げました。


「責任を問われるかどうかは、その者が結果を予見できたか、また結果が起きた後にどう対応したかによって判断される」


 エレナ様が頷きました。


「起きた後の対応も大切なのですね」


「はい。過ちそのものだけでなく、その後にどう向き合うか」


 私は言いながら、ベアトリス様のことを考えていました。


 彼女がこれからどうするのか。


 自分を守る言葉だけを重ねるのか。


 それとも、ほんの少しでも傷ついた相手へ向ける言葉を探すのか。


 それによって、周囲の受け止め方も変わるでしょう。


 ナリア様が静かに言いました。


「人は、間違えた後にも選べるのですね」


 その言葉に、殿下が顔を上げました。


 ナリア様は資料に目を落としたまま続けます。


「間違えたことは消えません。でも、その後にどうするかは、まだ選べる」


 殿下は、しばらく黙っていました。


 それから、小さく言いました。


「そうだな」


 その声には、たぶん自分自身への思いも混ざっていたのでしょう。


 殿下もまた、間違えた後に選び直そうとしている人です。


 ナリア様を傷つけた過去は消えません。


 けれど、その後にどう向き合うかは、今も選び続けています。


 だからこそ、ナリア様の言葉は殿下にも届いたのだと思いました。


「ナリア」


 殿下が、静かに声をかけました。


「はい」


「僕も、選び直せているだろうか」


 その問いは、とても小さなものでした。


 王太子としてではなく、一人の少年としての問い。


 ナリア様は少し驚いたように殿下を見ました。


 それから、ゆっくり言いました。


「はい」


 殿下の瞳が揺れます。


「少なくとも、私はそう感じています」


 ナリア様の声は震えていませんでした。


 静かで、柔らかく、確かな声でした。


「殿下は、以前とは違う言葉を選ぼうとしてくださっています。私の言葉も、聞いてくださいます」


 殿下の手が、机の上でわずかに動きました。


「だから……私は、少しずつ信じたいと思っています」


 沈黙。


 学習室の空気が、ふわりと止まりました。


 少しずつ信じたい。


 それは、まだ完全に信じているという意味ではありません。


 でも、信じたいと思っている。


 殿下にとって、これほど大きな言葉はなかったでしょう。


 案の定、殿下は固まりました。


 顔が赤くなる前に、まず呼吸が止まりました。


 私はすぐに咳払いしました。


「こほん」


 殿下の肩がびくりと動きます。


 そして、吸いました。


 吐きました。


 危ないところでした。


 レオン様が静かに言います。


「殿下、呼吸を続けてください」


「している」


「今、止まっていました」


「……少しだけだ」


「少しでも問題です」


 ナリア様が小さく笑いました。


 その笑みは、以前よりずっと自然でした。


「殿下、無理にお返事なさらなくても大丈夫です」


 殿下は、ゆっくりナリア様を見ました。


 そして、今度こそ慎重に言葉を選びました。


「ありがとう」


 また感謝。


 けれど、続きがありました。


「君がそう思ってくれることが……とても嬉しい」


 言えました。


 重すぎません。


 甘すぎません。


 でも、ちゃんと心が乗っていました。


 ナリア様の頬が、ふわりと赤くなりました。


「はい」


 それだけの返事でした。


 けれど、十分でした。


 エレナ様が机の下で何かしようとしたので、私は見ないふりをしました。


 たぶん親指です。


 もう注意する気力はありません。


 その後の研究会は、少しだけ空気が柔らかくなりました。


 事件の話をしているのに、どこか二人の関係が静かに進んだような感覚がありました。


 もちろん、すぐに恋人同士のようになるわけではありません。


 殿下はまだ「好きだ」を言えていません。


 ナリア様もまだ傷を抱えています。


 でも、「少しずつ信じたい」と言えた。


 それは、二人にとって大きな一歩です。


 研究会が終わる頃、レオン様が教師棟から戻ってきました。


 途中で呼ばれていたのです。


 彼の表情はいつも通り落ち着いていましたが、少しだけ緊張を帯びています。


「教師側から連絡がありました」


 全員の視線が向きました。


「ベアトリス嬢の書面提出を受け、明後日までに正式な判断が出る見込みです」


 明後日。


 思ったより早い。


 私は背筋を伸ばしました。


 殿下も表情を引き締めます。


「処分内容は?」


「まだ共有されていません。ただ、イレーヌ嬢、セシリア嬢、ベアトリス嬢、それぞれ別の形になるようです」


「別の形」


「はい。実行者、圧力を受けた協力者、影響力を持つ発言者。それぞれの責任を分ける方針だと」


 殿下は静かに頷きました。


「妥当だ」


「また、ベアトリス嬢には処分とは別に、関係者へ向けた言葉を考えるよう教師から促されたそうです」


 私は息を止めました。


 ベアトリス様へ。


 傷ついた相手へ向ける言葉を。


 それは、前半で私が彼女へ伝えたことと重なります。


 もちろん、教師側も同じことを考えたのでしょう。


 自分を守る書面だけでは足りない。


 傷ついた相手へ向き合う言葉が必要だと。


 ナリア様が小さく呟きました。


「ダルモア様は……考えてくださるでしょうか」


 誰もすぐには答えられませんでした。


 殿下も、静かに目を伏せます。


「分からない」


 殿下は正直に言いました。


「だが、考える機会は与えられた」


「はい」


「その機会をどう使うかは、彼女が選ぶことだ」


 ナリア様は頷きました。


「そうですね」


 殿下は続けました。


「僕たちは、彼女が何を言うかを待つ」


「待つ」


 ナリア様が繰り返しました。


 殿下は少し苦笑しました。


「また、待つことになった」


「殿下、待つことがお上手になりましたね」


 ナリア様がそう言った瞬間、殿下の顔が赤くなりました。


「そ、そうだろうか」


「はい」


 ナリア様は柔らかく微笑みました。


「以前より、ずっと」


 殿下は完全に言葉を失いました。


 しかし、今度は呼吸を忘れませんでした。


 少し浅いですが、しています。


 レオン様も何も言いません。


 私は心の中で大きく頷きました。


 殿下、耐えました。


 研究会が終わり、私たちは順に学習室を出ました。


 廊下には夕方の光が差し込んでいました。


 窓の外の空は、淡い紫と橙が混ざっています。


 最近、夕方の空を見るたびに、何かが一つずつ終わり、また次へ続いていくような気がします。


 事件はまだ終わっていません。


 でも、終わりへ向かってはいます。


 それが良い形になるかどうかは、まだ分かりません。


 ベアトリス様がどんな言葉を選ぶのか。


 教師側がどんな判断を下すのか。


 学園の空気がどう変わるのか。


 まだ不安はあります。


 それでも、以前より怖くはありませんでした。


 一人ではないからです。


 エレナ様が隣にいて、レオン様が整えてくれて、ナリア様が自分の言葉で立ち、殿下が言葉を選ぶ。


 それだけで、随分と違います。


 廊下を歩いていると、前方にベアトリス様の姿が見えました。


 彼女は一人でした。


 珍しいことです。


 いつもなら誰かが近くにいるのに、今日は本当に一人で窓の外を見ていました。


 白い扇も開いていません。


 金茶の髪が夕方の光を受けて、少し柔らかく見えます。


 私たちは足を止めました。


 ナリア様も、殿下も、レオン様も、エレナ様も。


 ベアトリス様はこちらに気づきました。


 一瞬、表情が硬くなります。


 けれど、すぐにいつもの礼をしました。


「ごきげんよう」


 ナリア様が、静かに礼を返しました。


「ごきげんよう、ダルモア様」


 殿下も短く頷きました。


「ダルモア嬢」


 それ以上の会話はありませんでした。


 ベアトリス様も、何も言いません。


 ただ、すれ違う時。


 ほんの一瞬だけ、彼女の視線が私へ向きました。


 考えておきますわ。


 その言葉を思い出しました。


 彼女は何を考えているのでしょう。


 自分を守ることか。


 責任から逃げることか。


 それとも、傷つけた相手へ向ける言葉か。


 分かりません。


 けれど、彼女の目は昨日より少しだけ疲れていました。


 そして、少しだけ迷っているようにも見えました。


 すれ違った後、ナリア様が小さく息を吐きました。


 殿下がすぐに尋ねます。


「大丈夫か」


「はい」


 ナリア様は頷きました。


「少し緊張しましたが、大丈夫です」


「そうか」


 殿下はそれ以上、何も言いませんでした。


 手を伸ばすこともありません。


 ただ、少しだけ歩く速度を落としました。


 ナリア様が無理なく歩けるように。


 そのさりげなさに、私はまた胸が温かくなりました。


 以前の殿下なら、心配のあまり大げさに声をかけていたでしょう。


 今は違います。


 相手の歩幅を見ることを覚えています。


 校舎を出ると、夕風が頬を撫でました。


 中庭の花壇では、紫の花が淡い光の中で揺れています。


 空は少しずつ夜へ向かっていました。


 ナリア様はその空を見上げ、小さく言いました。


「明後日、決まるのですね」


「はい」


 私が答えました。


「怖いです」


 ナリア様は正直に言いました。


 殿下が少しだけ顔を向けます。


 でも、すぐには言いません。


 ナリア様は続けました。


「でも、早く終わってほしいとも思います」


「そうですね」


「終わったら……少し、普通に研究会をしたいです」


 その言葉に、全員が少しだけ笑いました。


 普通に研究会。


 王国史や礼法を学び、殿下が時々呼吸を忘れかけ、ナリア様が意見を述べ、エレナ様が蜂蜜菓子を配り、レオン様が記録を取る。


 それが普通かどうかは、かなり疑問です。


 でも、私たちにとっては、もうそれが日常になり始めていました。


 殿下が静かに言いました。


「そうだな。普通に研究会をしたい」


 ナリア様が微笑みました。


「はい」


 殿下も、少しだけ微笑みました。


 その笑みは、まだ控えめです。


 けれど、とても穏やかでした。


 私はその光景を見ながら、心の中で呟きました。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、揺らいだ相手をすぐに責めず、待つことを選びました。


 ナリア様の言葉を聞き、自分の言葉を見つめ直し、また一つ前へ進みました。


 明後日、きっと一つの区切りが来ます。


 その時どうか。


 誰かを追い詰めるためではなく、皆が少しでも前を向けるような言葉を選んでくださいませ。

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