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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第23話 王太子殿下、待った後の一言を選ぶ


 待つことは難しい。


 けれど、待った後もまた難しいのだと、私はその日知りました。


 会いたい人を休ませるために、会いに行かない。


 それは確かに立派です。


 けれど翌日、相手が再び目の前に現れた時。


 待っていた分の感情が一気にあふれそうになる。


 心配だった。

 会いたかった。

 無事でよかった。

 昨日は眠れただろうか。

 蜂蜜菓子は食べただろうか。

 僕は君のことをずっと――


 そこまで出たら終わりです。


 特に、王太子殿下の場合は。


 ですので、その朝の開放学習室で、私は殿下へはっきり申し上げました。


「殿下。本日の最重要課題は、再会の第一声です」


 殿下は真剣な顔で頷きました。


「分かっている」


 その隣で、レオン様がいつものように資料を整えています。


 エレナ様は扇で口元を隠しながら、少し楽しそうにこちらを見ていました。


 机の上には、殿下の心得紙。


 もはや何枚目か分からないそれには、これまでの努力の跡がびっしりと書かれています。


『待つ』

『焦らない』

『任せる』

『追い詰めない』

『呼吸』

『前に出ない勇気』

『場を支配しない』

『逃げ道を塞がず、事実を見る』

『休ませることも守ること』

『勝っても追わない』


 そして今日、新しく書くべき項目は。


『待った後に走らない』


 私はそう提案しました。


 殿下はしばらく文字を見つめ、静かに頷きました。


「その通りだ」


「はい」


「昨日、ナリアは休んだ」


「はい」


「僕は会いに行かなかった」


「よく我慢されました」


「……とても難しかった」


「存じております」


 レオン様が淡々と付け加えました。


「殿下は昨日、控室の中を合計三十七往復されました」


「レオン」


「記録しました」


「なぜだ」


「必要になると思いましたので」


「ならない」


 殿下は少し赤くなりました。


 エレナ様は完全に笑っています。


「三十七往復で済んだのですから、殿下は頑張られましたわ」


「それは褒めているのか?」


「もちろんです」


「本当か?」


「半分くらいは」


「半分……」


 殿下は肩を落としました。


 ですが、場の空気は少し和らぎました。


 昨日は事件の余波で、誰もが疲れていました。


 ナリア様は研究会を休み、殿下は会いに行かず、私たちも少し息を整えました。


 そして今日。


 ナリア様は研究会へ戻る予定です。


 ただし、戻ってきたからといって、殿下が昨日の心配を全部ぶつけてよいわけではありません。


「殿下」


「はい」


「ナリア様がいらしたら、まず何と言いますか」


 殿下は姿勢を正しました。


「ナリア、来てくれてありがとう。昨日は休めただろうか」


 私は頷きました。


「良いです。短く、心配が伝わり、重すぎません」


 エレナ様も微笑みます。


「自然ですわ」


 レオン様が補足しました。


「その後、ナリア様が『休めました』と答えた場合」


 殿下は少し考えました。


「なら、よかった」


「良いです」


「その後は?」


「続けないでください」


「……やはりか」


「はい」


 私は紙に書きました。


『来てくれてありがとう。昨日は休めただろうか』

『休めたならよかった』


「これで止めます」


「止める」


「はい」


「もしナリアが、殿下も休めましたか、と聞いたら?」


 エレナ様が楽しそうに尋ねました。


 殿下は一瞬固まりました。


 明らかに想定していなかった顔です。


 私は嫌な予感がしました。


「どう返しますか、殿下」


 殿下は喉を動かしました。


「僕は……君を案じて三十七往復したが、君が休めたならそれで――」


「駄目です」


「まだ最後まで言っていない」


「最後まで聞かなくても駄目です」


 レオン様が静かに記録しました。


「重すぎる表現候補、追加」


「レオン、記録するな」


「必要です」


 エレナ様は扇の陰で肩を震わせています。


 私は深く息を吸いました。


「殿下、ナリア様に三十七往復を伝えないでください」


「だが、事実だ」


「事実だからといって伝えてよいとは限りません」


「……そうだった」


「その場合は、『少し心配だったが、休めた』で十分です」


 殿下は復唱しました。


「少し心配だったが、休めた」


「本当に休めましたか?」


 エレナ様が尋ねました。


 殿下は黙りました。


 レオン様が淡々と言いました。


「殿下は夜、ナリア様へ見舞いの文を書きかけて破棄されました」


「レオン」


「三通」


「レオン」


「うち一通は『君のいない研究会は季節を失った庭のようで』から始まっていました」


「レオン!」


 殿下の顔が真っ赤になりました。


 私は扇で顔を隠しました。


 これは危険です。


 非常に危険です。


 もしその文がナリア様に届いていたら、研究会はまた別の意味で混乱していたでしょう。


「殿下」


「はい……」


「見舞いの文を送らなかった判断は正解です」


「そうか」


「はい。内容も含めて」


「……忘れてくれ」


「努力します」


「努力ではなく実行してほしい」


 その言葉、どこかで聞いたような気がします。


 立場が逆になっていますね。


 殿下は恥ずかしさを押し込めるように咳払いをしました。


「とにかく、今日は穏やかに迎える」


「はい」


「心配を伝えすぎない」


「はい」


「休めたことを喜ぶ」


「はい」


「三十七往復は言わない」


「最重要です」


 殿下は真剣に頷き、心得紙に書き足しました。


『三十七往復は言わない』


「そこまで書かなくても」


 思わず言うと、殿下は真面目な顔で答えました。


「書かないと出るかもしれない」


「……書いておきましょう」


 その方が安全です。


 午前の学園は、昨日より少しだけ柔らかい空気に包まれていました。


 とはいえ、ベアトリス様の件が終わったわけではありません。


 むしろ、処分や説明書面を待つ間の不安定な時間です。


 廊下には、まだ多くの囁きが落ちています。


「ダルモア様、今日もお姿は少ないですわね」

「書面を書いていらっしゃるのでは?」

「イレーヌ様はまだ登校されないとか」

「セシリア様は別室で授業を受けているそうです」

「ナリア様は今日は登校されているの?」

「ええ、お見かけしましたわ。少しお疲れでしたけれど」


 その声を聞きながら、私はナリア様の姿を探してしまいました。


 朝、少しだけ見かけました。


 礼法研究会の令嬢たちと共に歩いていましたが、昨日より顔色は良いようでした。


 それでも、まだ疲れは残っています。


 当然です。


 一日休んだからすべて回復するほど、心は単純ではありません。


 私たちも、殿下も、それを忘れてはいけません。


 昼休み。


 ナリア様は今日は食堂へ来ました。


 礼法研究会の令嬢たちと一緒でしたが、少しして私たちの席へも挨拶に来てくださいました。


「ルイート様、バートン様」


「ナリア様。ごきげんよう」


「ごきげんよう。昨日は失礼いたしました」


「失礼などではありません」


 私はすぐに言いました。


「休めましたか?」


 ナリア様は少し微笑みました。


「はい。おかげさまで」


 エレナ様がにこりと笑います。


「蜂蜜菓子は役に立ちましたか?」


「はい。とても」


「それはよかったですわ」


 ナリア様は小さな包みを大切そうに持っていました。


「実は、母にも少し分けました。とても美味しいと」


「まあ。それなら次は少し多めにお持ちしますわ」


「そんな、申し訳ありません」


「必要経費です」


 エレナ様の甘味に関する自信はどこから来るのでしょう。


 ナリア様が少し笑いました。


 その笑みは、昨日より自然でした。


 私はほっとしました。


「今日の研究会には?」


 私が尋ねると、ナリア様は頷きました。


「伺います。ただ、少し短めにしていただけると助かります」


「もちろんです」


「殿下にも、そうお伝えした方がよろしいでしょうか」


「はい。ですが、グラシア様からも共有されていると思います」


 ナリア様は少しだけ恥ずかしそうに視線を伏せました。


「殿下は……昨日、心配してくださったのですよね」


「はい」


「でも、直接いらっしゃらず、休ませてくださいました」


 ナリア様の声は静かでした。


 けれど、温かいものが含まれています。


「それが、嬉しかったです」


 私はその言葉を聞いて、すぐに殿下に伝えたい衝動に駆られました。


 しかし、伝えたら危険です。


 間違いなく燃え尽きるか、三十七往復が七十四往復になります。


「……殿下には、ほどよくお伝えします」


 私が言うと、ナリア様は首を傾げました。


「ほどよく?」


「殿下の呼吸に支障が出ない程度に」


 ナリア様は一瞬きょとんとしました。


 それから、くすりと笑いました。


「では、お願いいたします」


 その笑顔はとても柔らかく、私は心の中で思いました。


 殿下、見ていなくてよかったですね。


 見ていたら本当に呼吸が止まっていました。


 放課後の開放学習室。


 殿下はいつもより早く来ていました。


 机の上には資料。


 心得紙。


 そしてなぜか、蜂蜜菓子の小さな包み。


 私はそれを見て、眉を上げました。


「殿下」


「何だ」


「これは?」


「見舞いではない」


「まだ何も言っていません」


「研究会の茶菓子だ」


「そうですか」


「皆で食べるものだ」


「はい」


「ナリアだけに渡すものではない」


「分かりました」


 殿下は非常に早口でした。


 分かりやすいです。


 レオン様が静かに言いました。


「殿下は昨日、見舞いの文を送らない代わりに、蜂蜜菓子を用意されました」


「レオン」


「皆で食べるものとして」


「強調しなくていい」


「重要ですので」


 エレナ様は楽しそうに微笑みました。


「殿下、素晴らしい判断ですわ。個別の贈り物ではなく研究会全体への茶菓子なら自然です」


「そうだろう」


「ただし、ナリア様に『君のために選んだ』と言ってはいけませんわ」


「言わない」


「本当に?」


「……言わない」


 少し間がありました。


 危険です。


 私は心得紙に指を置きました。


『三十七往復は言わない』


 殿下はなぜかその下に書き足しました。


『蜂蜜菓子も重くしない』


 良い判断です。


 しばらくして、ナリア様が来ました。


 入口に立った彼女は、昨日より少しだけ顔色が良く、けれどまだ疲れを残していました。


 殿下が立ち上がります。


 私も、エレナ様も、レオン様も、全員が一瞬だけ殿下を見ました。


 第一声。


 今日の最重要課題です。


 殿下は息を吸いました。


 吐きました。


 そして、穏やかな声で言いました。


「ナリア、来てくれてありがとう。昨日は休めただろうか」


 完璧です。


 私は心の中で拍手しました。


 ナリア様は少し目を見開き、それから微笑みました。


「はい。おかげさまで休めました」


 殿下の表情が、心底安心したものに変わりました。


「休めたならよかった」


 そこで止まりました。


 素晴らしいです。


 殿下は止まりました。


 三十七往復も言いません。


 季節を失った庭も出ません。


 蜂蜜菓子もまだ重くしていません。


 よくできました。


 ナリア様は、少しだけ頬を赤くしました。


「殿下も、昨日は休めましたか?」


 来ました。


 朝に想定した問いです。


 殿下の肩が一瞬だけ揺れます。


 しかし、すぐに心得紙を見ました。


 そして言いました。


「少し心配だったが、休めた」


 ……三十七往復はどこに含まれるのでしょう。


 ですが、言いませんでした。


 勝利です。


 ナリア様は、優しく微笑みました。


「心配してくださって、ありがとうございます」


 殿下の顔が赤くなりました。


 危険。


 しかし、彼は口を閉じました。


 呼吸。


 できています。


「……君が休めたなら、それでいい」


 少し甘い。


 けれど重すぎません。


 ナリア様の頬がさらに赤くなりました。


 学習室の空気が、ふわりと温かくなります。


 エレナ様が扇で口元を隠しています。


 レオン様は目を伏せています。


 私は咳払いすべきか迷いましたが、今回はしませんでした。


 これくらいなら、許容範囲です。


「それと」


 殿下が言いました。


 私は少し身構えました。


「今日は、研究会の茶菓子を用意した。皆で食べよう」


 よろしい。


 個別ではありません。


 皆です。


 ナリア様は蜂蜜菓子を見ると、少し目を輝かせました。


「まあ。ありがとうございます」


「バートン嬢が、疲れた時には甘いものがよいと言っていたから」


 殿下は自然に言いました。


 エレナ様が微笑みます。


「殿下、よく覚えていらっしゃいましたわね」


「役立つと思った」


 殿下の視線が一瞬だけナリア様へ向きます。


 すぐ戻りました。


 見すぎません。


 成長です。


 研究会は、今日は短めに行われました。


 議題は、ベアトリス様の書面提出までの間、学園内で噂を広げないための対応です。


 難しい話ですが、全員疲れているため、重くなりすぎないようレオン様が調整しました。


「教師側からも、生徒に対して不用意な憶測を控えるよう注意が出ます」


 レオン様が言いました。


「私たちは、どう振る舞えばよいでしょうか」


 ナリア様が尋ねます。


「通常通りが一番です」


 私は答えました。


「必要以上に隠れない。必要以上に騒がない。聞かれたら、学園側が確認中です、とだけ」


 エレナ様も頷きます。


「それ以上の話はしない方がよろしいですわね」


 殿下は少し考えて言いました。


「僕が何か言う必要がある場面は?」


「現時点ではありません」


 レオン様が即答しました。


「殿下が発言されると、それだけで大きな意味を持ちます」


「分かった。控える」


「ただし、ナリア様やルイート嬢たちへの直接的な中傷があれば別です」


「その時は?」


 殿下が尋ねます。


「まず、止める。ただし、怒鳴らない」


 私が言うと、殿下は苦笑しました。


「怒鳴らない」


「はい」


「事実確認中であり、憶測で人を傷つけるのは控えるように、と」


「完璧です」


 エレナ様が微笑みました。


「殿下、本当に安定してきましたわね」


 殿下は少しだけ照れたように視線を逸らしました。


「まだ、安定とは言えない」


「そうでしょうか」


「ナリアが来た時、かなり危なかった」


 自白しました。


 ナリア様が驚いたように殿下を見ます。


「危なかったのですか?」


 殿下は固まりました。


 しまった、という顔です。


 私は咳払いをしました。


「こほん」


 殿下は口を閉じました。


 エレナ様がすかさず言いました。


「殿下は、ナリア様がお元気そうで安心されたのですわ」


「そ、そうだ」


 殿下が頷きます。


「安心した」


 ナリア様は少し赤くなり、それから小さく笑いました。


「ありがとうございます」


 殿下はもう一度赤くなりました。


 このままでは赤くなり続けるだけです。


 レオン様が淡々と蜂蜜菓子を配りました。


「糖分を取りましょう」


 正しい判断です。


 研究会の終わり頃。


 ナリア様は蜂蜜菓子を少し食べ、表情が柔らかくなっていました。


 疲れはまだありますが、朝より元気そうです。


 殿下はそれを見て、心底安心しているようでした。


 ただし見すぎないよう、かなり努力しています。


 時々資料を凝視していました。


 資料がかわいそうになるほど見ています。


 帰り際、ナリア様が殿下へ言いました。


「殿下」


「はい」


「昨日、休ませてくださってありがとうございました」


 殿下の表情が揺れました。


「僕は、何もしていない」


「会いに来ずにいてくださったでしょう?」


 殿下は言葉に詰まりました。


 ナリア様は、少し恥ずかしそうに続けます。


「以前の私なら、殿下が来てくださらなかったら、不安になっていたかもしれません」


 殿下の顔が痛ましげになります。


 しかし、ナリア様は微笑みました。


「でも昨日は、休ませてくださったのだと分かりました」


 殿下は、静かに息を吸いました。


 そして言いました。


「君がそう受け取ってくれたなら、よかった」


 短く、温かい言葉。


 ナリア様は頷きました。


「はい」


 そのやり取りを見て、私は胸の奥がじんわり温かくなりました。


 会いに行かないことが、伝わる。


 黙って待ったことが、優しさとして受け取られる。


 二人の間に、そういう小さな信頼が生まれ始めています。


 まだ細い糸です。


 でも、確かにつながっている。


 研究会が終わり、ナリア様はエレナ様と私と共に先に学習室を出ました。


 廊下は夕方の光で柔らかく染まっています。


 ナリア様は少し歩いてから、小さく言いました。


「今日、研究会に来てよかったです」


「無理はありませんでしたか?」


「少し疲れました。でも、安心しました」


「安心?」


 エレナ様が尋ねます。


 ナリア様は、照れたように笑いました。


「殿下が、いつも通りでいてくださったので」


 いつも通り。


 それは、以前の冷たいいつも通りではありません。


 今の殿下の、少し不器用で、でも丁寧に言葉を選ぶいつも通りです。


 そのいつも通りが、ナリア様にとって安心になり始めている。


 私は思わず微笑みました。


「殿下にお伝えしても?」


 ナリア様は少し考えました。


「……少しだけ」


「少しだけですね」


「はい。呼吸に支障が出ない程度で」


 ナリア様がそう言って笑ったので、私とエレナ様も笑ってしまいました。


 殿下の呼吸問題は、ついにナリア様にも定着してしまったようです。


 その日の夕方。


 校舎を出ると、空は淡い金色に染まっていました。


 中庭の花壇では、風に揺れる花びらが光を受けてきらめいています。


 遠くで、殿下とレオン様が歩いているのが見えました。


 レオン様が何かを言い、殿下が少し赤くなっています。


 おそらく、今日の反省でしょう。


 私はその姿を見ながら、静かに息を吐きました。


 事件はまだ終わっていません。


 ベアトリス様の説明書面も、処分も、これからです。


 でも今日は、ナリア様が戻ってきました。


 殿下は待った後に走らず、穏やかに迎えることができました。


 休ませる優しさが、ちゃんと届いた。


 それは、とても大切な一歩です。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、待った後の一言を間違えませんでした。


 心配も、会いたかった気持ちも、全部をぶつけず、相手が受け取れる形に整えました。


 どうか明日も。


 その穏やかな一言を、大切な人の心に届く速度で渡してくださいませ。

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