第22話 王太子殿下、終わった後の沈黙を知る
大きな出来事が終わった後、人はすぐに前を向けるわけではありません。
言うべきことを言えた。
向き合うべき相手と向き合えた。
周囲も少しずつ変わり始めた。
それなら、心も晴れるはずだと、頭では思います。
けれど実際には、終わった後ほど体から力が抜けます。
張り詰めていた糸が緩み、今まで気づかないふりをしていた疲れや怖さが、遅れて胸に落ちてくる。
だから、終わった後の沈黙もまた、大切にしなければならないのです。
ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢との面談の翌日。
学園の空気は、昨日までとは少し違っていました。
騒がしさが消えたわけではありません。
噂が消えたわけでもありません。
けれど、その質が変わっていたのです。
「ダルモア様、書面で説明を求められたそうですわ」
「殿下がかなり厳しくおっしゃったとか」
「でも怒鳴ったわけではないのでしょう?」
「ナリア様も、ご自分の言葉で話されたそうですわ」
「すごいですわね」
「ルイート様も、もう悪く言われなくなるかしら」
「イレーヌ様はしばらく登校を控えるそうです」
「セシリア様は大丈夫なのかしら」
廊下に落ちる声は、昨日までのように鋭くはありませんでした。
もちろん、すべてが優しいわけではありません。
好奇心はあります。
憶測もあります。
けれど、あの匿名文が貼られた日のような、冷たい視線の波は少し弱まっていました。
代わりに、戸惑いが広がっています。
誰を責めるべきなのか。
どこまでが悪意だったのか。
誰が被害者で、誰が加害者なのか。
皆が、簡単に言い切れなくなっている。
それは、悪いことではないのかもしれません。
簡単に言い切れないからこそ、人は少し慎重になります。
少なくとも、私はそうであってほしいと思いました。
「マリア様」
隣を歩くエレナ様が、私を見ました。
「今日は少し顔色がよろしいですわね」
「そうでしょうか」
「昨日よりは」
「昨日が悪すぎたのでは」
「それは否定しません」
エレナ様は微笑みました。
その手には、今日も蜂蜜菓子の小さな包みがあります。
最近、彼女は私を甘味で管理している気がします。
ありがたいので、文句は言いません。
「ナリア様は?」
私が尋ねると、エレナ様は少し目を伏せました。
「朝、礼法研究会の方々と一緒にいらっしゃいました。お顔は落ち着いていましたけれど、少しお疲れのようでしたわ」
「無理もありませんね」
「ええ」
昨日、ナリア様はベアトリス様へ自分の言葉を伝えました。
私の気持ちを勝手に決めないでほしい。
可哀想な令嬢として扱わないでほしい。
ルイート様を傷つけるために私を使わないでほしい。
あの場で、あれだけのことを言うのに、どれほどの勇気が必要だったでしょう。
そして殿下もまた、怒りを抑え、場を支配せず、必要な言葉を選びました。
逃げ道を塞いで追い詰めたいわけではない。
けれど、事実から逃げ続けることを許すつもりもない。
あの言葉は、昨日の部屋にいた全員の胸に残ったはずです。
もちろん、ベアトリス様にも。
私は廊下の向こうに視線を向けました。
そのベアトリス様の姿は、まだありません。
昨日の面談後、彼女は教師から書面での説明を求められました。
正式な処分が決まるには、もう少し時間がかかるでしょう。
ただ、学園内での彼女の立場は明らかに変わり始めています。
以前のように、誰もが自然に彼女の周りへ集まる空気ではなくなりました。
イレーヌ様が書いた。
セシリア様が見張りをさせられた。
そしてベアトリス様の言葉が、その発端に近かった。
直接命じた証拠がなくても、その影は多くの者に見え始めています。
朝の一限目は王国史でした。
教師の声が教室に響きます。
内容は、かつて中央貴族が地方貴族へ圧力をかけ、結果として地方反乱を招いた歴史について。
最近の授業は、どうしてこうも今の状況に重なるのでしょうか。
偶然だとは思います。
けれど、やけに刺さります。
「影響力を持つ者の言葉は、命令でなくとも命令のように作用することがあります」
教師がそう言った瞬間、教室内の空気がわずかに揺れました。
多くの生徒が、同じことを思ったのでしょう。
ベアトリス様のことを。
私はノートを取りながら、殿下の昨日の言葉を思い出していました。
直接命じなければ責任がない、という話ではない。
その通りです。
けれど、それを突きつける側にも慎重さが必要です。
影響力を持つ言葉が危ういのは、殿下も同じだから。
王太子殿下の一言は、誰かの立場を変えます。
だからこそ、殿下は昨日、感情で断罪しませんでした。
それができたことは、本当に大きい。
私はノートの端に、小さく書きました。
言葉は、相手を動かす。
書いた瞬間、少し笑いそうになりました。
まるで殿下の心得紙のようです。
授業後。
廊下へ出ると、ナリア様が少し離れたところに立っていました。
礼法研究会の令嬢たちと一緒です。
彼女はこちらに気づくと、柔らかく会釈しました。
私は近づきすぎない距離で礼を返しました。
以前なら、すぐ駆け寄りたくなったでしょう。
大丈夫ですか、と。
無理していませんか、と。
けれど今は、少し待つことを覚えました。
ナリア様が必要なら、きっと声をかけてくださる。
その距離を保つことも、支えることなのです。
するとナリア様は、礼法研究会の令嬢たちに何かを告げ、こちらへ歩いてきました。
「ルイート様、バートン様」
「ナリア様」
「昨日は……ありがとうございました」
ナリア様は小さく礼をしました。
「私は何も」
そう言いかけて、止めました。
以前なら謙遜だけで流していたでしょう。
でも、昨日のナリア様の勇気を見た今、それでは足りない気がしました。
「そばにいられてよかったです」
私がそう言うと、ナリア様は少し目を見開きました。
それから、柔らかく微笑みました。
「はい」
エレナ様も言いました。
「ナリア様、とても立派でしたわ」
ナリア様は頬を赤くしました。
「怖かったです」
「はい」
「でも、言えてよかったです」
「はい」
短いやり取りです。
けれど、それで十分でした。
ナリア様は少しだけ視線を落としました。
「ただ……今日は少し疲れてしまって」
「当然です」
私はすぐに言いました。
エレナ様も頷きます。
「今日は無理せず、研究会もお休みされてもよろしいのでは?」
ナリア様は少し迷いました。
「でも、殿下に……」
その名前が出た瞬間、彼女の頬がほんのり赤くなりました。
昨日までなら、殿下に心配をかけたくないと言ったかもしれません。
今は少し違います。
殿下に伝えたい。
そういう空気でした。
「殿下には、休むとお伝えすればよいと思います」
私は言いました。
「休むことも、今は必要です」
「……そうですね」
ナリア様は小さく頷きました。
「では、今日は少し早めに帰ろうと思います」
「それがよろしいですわ」
エレナ様が蜂蜜菓子の包みを差し出しました。
「よろしければ、お持ちください」
「え、でも」
「疲れた日には甘いものです」
ナリア様は少し驚き、それから笑いました。
「バートン様は、いつも甘いものをお持ちなのですね」
「必要な方が多いので」
「……ありがとうございます」
ナリア様は包みを受け取り、大切そうに持ちました。
その姿が少し可愛らしくて、私は胸の奥が温かくなりました。
昼休み。
殿下へナリア様が今日は研究会を休む予定だと伝えたのは、レオン様でした。
食堂の端からその様子を見ていた私は、殿下の反応に少しだけ身構えていました。
以前なら。
間違いなく顔色を変えていたでしょう。
なぜだ。
具合が悪いのか。
僕が何かしたのか。
会いに行くべきか。
そういう思考が顔に出たはずです。
しかし今日の殿下は、レオン様の報告を聞くと、一瞬だけ表情を曇らせました。
心配したのは分かります。
けれど、すぐに深く息を吸いました。
そして、何か短く言いました。
レオン様が頷きます。
それから殿下は、ナリア様の席の方を見ました。
ナリア様は少し離れた席で、礼法研究会の令嬢たちと昼食を取っています。
殿下は、ほんの一瞬だけ見ました。
長く見つめません。
すぐに視線を戻し、レオン様へ何かを頼みました。
しばらくして、レオン様がこちらへ来ました。
「ルイート嬢、バートン嬢」
「グラシア様」
「殿下から伝言です。ナリア様へ、今日はよく休んでほしい、と。直接伝えるとまた注目を集めるため、可能であればお二人から自然に伝えていただきたいとのことです」
私は一瞬、言葉を失いました。
殿下。
本当に、変わりました。
直接言いたいでしょう。
心配だと伝えたいでしょう。
けれど、それをするとナリア様がまた注目される。
だから、私たちへ託した。
「承りました」
私が答えると、レオン様は少しだけ表情を和らげました。
「それと、殿下は大変心配されていますが、控えています」
「分かります」
「かなり控えています」
「分かります」
「おそらく後で反動が来ます」
「資料室で叫ばないようお願いします」
「努力します」
レオン様が真面目に言うので、少し笑ってしまいました。
エレナ様も扇の陰で笑っています。
その後、私たちは自然な形でナリア様へ伝言を届けました。
ナリア様は殿下の言葉を聞くと、少し驚き、それから目元を柔らかくしました。
「殿下が……」
「はい。よく休んでほしい、と」
ナリア様は蜂蜜菓子の包みを胸元で持ちました。
「……ありがとうございます、とお伝えいただけますか」
「はい」
「それと、明日は研究会へ伺います、と」
「承りました」
ナリア様は少しだけ恥ずかしそうに笑いました。
その笑顔を見た時、私は殿下が直接来なくて本当に良かったと思いました。
もし見ていたら、また呼吸を忘れていたでしょう。
放課後。
ナリア様は予定通り早めに帰りました。
礼法研究会の令嬢が二人付き添っています。
それを確認してから、私とエレナ様は開放学習室へ向かいました。
今日はナリア様不在の研究会です。
殿下、レオン様、エレナ様、私。
久しぶりに四人だけの机となりました。
ただし、雰囲気は以前とは違います。
最初の頃のような、殿下の恋愛特訓だけの場ではありません。
今は、事件の後処理と心の整理の場でもあります。
殿下は席についていました。
机の上には心得紙。
そしてその横に、新しい一文が加わっていました。
『休ませることも守ること』
私は思わずその文字を見つめました。
「殿下」
「何だ」
「良い心得です」
殿下の耳が少し赤くなりました。
「ナリアに会いに行きたかった」
「でしょうね」
「だが、行けば目立つ」
「はい」
「彼女は疲れている。なら、休ませるべきだ」
「はい」
「……分かっていても難しい」
「よく我慢されました」
私が言うと、殿下は少しだけ肩の力を抜きました。
「ありがとう」
自然な感謝。
以前なら「我慢ではない」と強がったかもしれません。
今は、ありがとうと言える。
その変化が、何だかとても大きく感じられました。
エレナ様が微笑みます。
「ナリア様、殿下のお言葉を聞いて嬉しそうでしたわ」
殿下の動きが止まりました。
「本当か」
「はい」
「どんなふうに」
「それは内緒ですわ」
「なぜ」
「殿下が燃え尽きるからです」
殿下は言葉に詰まりました。
レオン様が静かに頷きます。
「妥当です」
「レオンまで」
「殿下、今日は燃え尽きる日ではありません。研究会を進めます」
「……分かった」
殿下は渋々頷きました。
このやり取りが、少し懐かしくも感じます。
事件が続いて緊張していたからこそ、こうした軽い会話がありがたい。
研究会の議題は、昨日の面談の整理でした。
ベアトリス様が認めたこと。
否定したこと。
イレーヌ様の追加証言。
セシリア様の保護。
教師側の今後の対応。
レオン様が淡々とまとめます。
「ベアトリス嬢は書面での説明を求められています。提出後、教師側でイレーヌ嬢、セシリア嬢の証言と照合されます」
「処分は?」
殿下が尋ねます。
「イレーヌ嬢については、匿名文作成と掲示の実行者として処分は避けられません。ただし、ベアトリス嬢の誘導が認められれば、その重さは変わる可能性があります」
「セシリア嬢は」
「見張り行為は認めていますが、脅しと圧力を受けていた事情が大きく考慮されるでしょう。厳罰ではなく、指導と保護が中心になる見込みです」
殿下は頷きました。
「よかった」
短く、心からの言葉でした。
私は少し意外でした。
「殿下は、セシリア様のこともかなり気にかけておられるのですね」
殿下は少し考えました。
「彼女は過ちを犯した。だが、彼女だけを潰して終わりにするのは違うと思う」
「はい」
「それに、ナリアが彼女を責めずに聞いた」
殿下の声が少し柔らかくなります。
「なら、僕もその姿勢を大切にしたい」
私は黙りました。
殿下の中で、ナリア様の言葉や態度が本当に大きな意味を持っているのが分かります。
好きだから、ただ守りたい。
それだけではなく。
ナリア様の考え方を尊重し、自分もそれに近づこうとしている。
これは、恋としてとても大きな変化ではないでしょうか。
以前の殿下は、自分の気持ちに振り回されてナリア様を傷つけていました。
今の殿下は、ナリア様の言葉に学ぼうとしている。
その差は、とても大きい。
エレナ様も同じことを感じたのか、柔らかく微笑みました。
「殿下は、ナリア様のことを本当に大切に思っていらっしゃるのですね」
殿下の顔が一気に赤くなりました。
「そ、それは」
「はい。存じております」
「言わなくていい」
「言っておりませんわ。ただ確認しただけです」
「それが言っているのと同じだ」
殿下は顔を覆いかけましたが、途中で止めました。
王太子殿下としての威厳を守ろうとしたのでしょう。
少し遅い気もします。
レオン様が静かに言いました。
「殿下、呼吸を」
「している」
「少し浅いです」
「……すぅ」
「吐いてください」
「はぁ……」
私は扇で口元を隠しました。
笑ってはいけません。
ですが、こういう時間が戻ってきたことが、少し嬉しくもありました。
研究会の終盤、レオン様がふと真面目な顔になりました。
「ただ、一つ気になることがあります」
空気が少し引き締まります。
「何だ」
殿下が尋ねました。
「ベアトリス嬢がこのまま書面で全面否定した場合、教師側は一定の指導はできても、重い処分までは難しい可能性があります」
「そうだな」
「その場合、彼女は表面上処分を免れたように振る舞うかもしれません」
私は眉を寄せました。
「また周囲を動かす可能性がある、ということですか」
「はい。ただし以前ほどの影響力はないでしょう」
エレナ様が頷きました。
「取り巻きの方々も距離を置き始めていますものね」
「ですが、追い詰められた人間が何をするかは分かりません」
レオン様の言葉に、殿下が静かに頷きました。
「油断しない」
「はい」
「だが、こちらから挑発もしない」
「その通りです」
「ナリアやルイート嬢たちの安全は確保する」
「はい」
殿下は心得紙を見ました。
そして、また一つ書き足しました。
『勝っても追わない』
私はその文字を見て、少し考えました。
「殿下、それは」
「彼女を追い詰めすぎない、という意味だ」
殿下は言いました。
「事実は明らかにする。責任は問う。でも、弱ったところをさらに叩くことはしない」
レオン様が満足そうに頷きました。
「良い心得です」
エレナ様も微笑みました。
「殿下、ますます王太子らしくなってきましたわ」
「恋愛相談だったはずなのだが」
「恋愛が人を成長させたのですわ」
殿下は返す言葉に困ったようでした。
私は思わず笑いました。
しかし、その笑いはすぐに静かなものになりました。
恋愛が人を成長させる。
本当に、そうかもしれません。
ただし、殿下の場合はかなり遠回りでしたが。
その日の帰り、私はエレナ様と校舎を出ました。
空は薄く晴れ、夕焼けは穏やかでした。
中庭の花壇には、昨日より少し柔らかい光が落ちています。
遠くに、殿下とレオン様の姿が見えました。
殿下は何か言いたそうにこちらを見かけましたが、すぐに視線を戻しました。
ナリア様が休んでいることを気にしているのでしょう。
でも、会いに行かない。
休ませることも守ること。
今日の心得を守っているのです。
「殿下、頑張っていますわね」
エレナ様が言いました。
「はい」
「ナリア様に会いたくて仕方ないでしょうに」
「でしょうね」
「でも我慢している」
「はい」
「明日、ナリア様が研究会に来たら、燃え尽きませんかしら」
「可能性は高いです」
「対策が必要ですわね」
「咳払いの準備をしておきます」
私たちは小さく笑いました。
笑える。
それが、昨日よりも少しだけ嬉しい。
事件はまだ終わっていません。
ベアトリス様の書面提出も、処分も、これからです。
けれど、今日は終わった後の疲れを認める日でした。
ナリア様は休みました。
殿下は会いに行かず、待ちました。
私たちも、少し笑いました。
それは、前へ進むために必要な小休止だったのだと思います。
私は夕焼けの空を見上げ、静かに息を吐きました。
王太子殿下。
今日のあなたは、終わった後の沈黙を知りました。
すぐに言葉を重ねず、すぐに追いかけず、大切な人を休ませることを選びました。
どうか明日も。
その静けさの中で、相手がまた歩き出すのを待つ強さを持ってくださいませ。




