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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第21話 王太子殿下、向き合う前に言葉を整える



 大切な場面ほど、人は言葉を失います。


 怒っている時。

 怖い時。

 相手に分かってほしい時。

 もう間違えたくない時。


 胸の中には言いたいことが山ほどあるのに、いざ口にしようとすると、どれも違う気がしてしまうのです。


 強すぎれば、相手を潰す。

 弱すぎれば、伝わらない。

 遠回しにすれば、逃げ道になる。

 真っ直ぐすぎれば、刃になる。


 だから、言葉は整えなければなりません。


 特に、王太子殿下の言葉は。


 翌朝の学園は、静かでした。


 けれどその静けさは、穏やかさではありません。


 嵐の前に風が止まるような、重い静けさです。


 イレーヌ・バッセル男爵令嬢が追加証言をした。


 ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢が匿名文の内容を誘導した可能性が高い。


 その話は、まだ表向き大きく広がってはいません。


 教師側が慎重に扱っているからです。


 けれど、空気は確実に変わっていました。


 誰もはっきりとは言いません。


 でも、誰もが何かを知っている顔をしている。


 廊下の端で囁く令嬢たち。

 こちらを見るとすぐ視線を逸らす男子生徒たち。

 掲示板の前を通る時、ほんの少し足早になる生徒たち。


 あの匿名文は、もう掲示板にはありません。


 それでも、学園の空気にはまだ貼りついているようでした。


「マリア様」


 隣を歩くエレナ様が、いつもより少し低い声で言いました。


「今日の放課後、教師立ち会いでダルモア様への再確認があるそうですわ」


「はい。グラシア様からも聞きました」


「殿下も同席されるのですね」


「その予定です」


「ナリア様も」


「はい」


 エレナ様は小さく息を吐きました。


「大きな場になりますわね」


「そうですね」


 私は廊下の窓へ視線を向けました。


 外の空は薄曇り。


 朝の光は柔らかいのに、心の中は妙に落ち着きません。


 今日、ベアトリス様と向き合う場が設けられます。


 大勢の前ではありません。


 教師、レオン様、殿下、ナリア様、私、エレナ様。


 そしてベアトリス様。


 必要に応じて、イレーヌ様やセシリア様の証言は書面で扱われる予定です。


 直接対面させるのは負担が大きいためです。


 殿下は昨日、言いました。


 怒りで場を支配しない。

 ナリア様たちの言葉を奪わない。

 正しい形を保つ。


 それは立派な決意です。


 けれど、実際の場でそれを貫けるかどうかは別問題です。


 相手が逃げるかもしれない。


 責任を押しつけるかもしれない。


 ナリア様の傷を軽く扱うかもしれない。


 その時、殿下がどれほど耐えられるか。


 正直、不安はあります。


 かなりあります。


 でも、以前より信じてもいます。


 あの池で泣いていた王太子殿下とは、もう違うのです。


 ……いえ、泣くところは今もありそうですが。


 少なくとも、言葉を選ぼうとする方にはなりました。


 午前の授業前。


 開放学習室には、いつもの五人が集まっていました。


 殿下、レオン様、ナリア様、エレナ様、私。


 表向きには、昨日の研究会の資料確認です。


 しかし本当の目的は、放課後の場へ向けた言葉の整理でした。


 机の上には、王国法の教本。


 その隣に、殿下の心得紙。


『待つ』

『焦らない』

『任せる』

『追い詰めない』

『呼吸』

『前に出ない勇気』

『場を支配しない』

『逃げ道を塞がず、事実を見る』


 増えました。


 本当に増えました。


 王太子殿下の恋愛相談から始まったはずなのに、今や半分は統治者心得です。


 殿下はその紙を見つめ、真剣な表情をしています。


「今日、僕が最初に話すべきではない」


 殿下は言いました。


 レオン様が頷きます。


「はい。まずは教師が場を整えるべきです」


「次に事実確認」


「はい」


「ベアトリス嬢が否定した場合は?」


「証言と時系列を確認します。殿下が感情で問い詰める必要はありません」


 殿下は少しだけ苦い顔をしました。


「必要はなくても、言いたくなると思う」


「でしょうね」


 レオン様は否定しません。


 エレナ様が柔らかく言いました。


「殿下、言いたくなった時は?」


「息を吸う」


「それから?」


「吐く」


「それから?」


「……すぐには言わない」


「よろしいですわ」


 殿下は少し疲れた顔をしました。


「僕は本当に呼吸から離れられないな」


「大切です」


 私が言うと、ナリア様が小さく微笑みました。


「でも、殿下が呼吸を整えてくださると、私も落ち着きます」


 殿下の顔が一瞬で赤くなりました。


 危険です。


 しかし、彼は心得紙を見て口を閉じました。


 呼吸。


 できています。


「……そうか」


 それだけ言いました。


 よろしい。


 ナリア様の方も、今日はかなり緊張しています。


 膝の上で手を重ね、時折指先を握り直していました。


 無理もありません。


 今日、彼女はベアトリス様へ自分の言葉を伝えるつもりなのです。


 自分の気持ちを勝手に使われたこと。

 可哀想な令嬢として扱われたこと。

 殿下の言葉を自分で聞くと決めたこと。


 それを、本人へ向けて伝える。


 怖くないはずがありません。


「ナリア様」


 私は声をかけました。


「はい」


「今日、無理にすべて言おうとしなくても大丈夫です」


 ナリア様は私を見ました。


「でも、言わなければ」


「言うべきことと言わなくてもよいことは、分けて大丈夫です」


 エレナ様も頷きました。


「そうですわ。全部を抱えて立とうとすると、苦しくなります」


 ナリア様は少し目を伏せました。


「私は……何を言うべきなのでしょう」


 その問いに、すぐには誰も答えませんでした。


 答えを渡しすぎてはいけない。


 ナリア様自身の言葉でなければ意味がないからです。


 殿下も何か言いたそうにしましたが、ぐっと堪えました。


 よく堪えました。


 レオン様が静かに言いました。


「ナリア様が一番伝えたいことは何ですか」


 ナリア様は、ゆっくり息を吸いました。


「私の気持ちを、私以外の方が勝手に決めないでほしい、ということです」


「はい」


「私は傷つきました。でも、誰かに可哀想だと掲げられたいわけではありません」


「はい」


「殿下の言葉を聞くかどうかは、私が決めたいのです」


 殿下の瞳が揺れました。


 ナリア様は続けます。


「そして、ルイート様を傷つけるために私を使わないでほしい」


 その言葉に、胸が詰まりました。


「ナリア様……」


 彼女は少しだけ微笑みました。


「それが、一番言いたいことだと思います」


 私は頷きました。


「十分です」


 エレナ様も言いました。


「とても明確ですわ」


 殿下は、静かに言いました。


「君の言葉だ」


 ナリア様が殿下を見ます。


「はい」


「僕は、その言葉を奪わない」


 殿下の声は、真剣でした。


「君が言うべき時に、君が言えるように、場を守る」


 ナリア様の瞳が揺れました。


「ありがとうございます、殿下」


 殿下の耳が赤くなります。


 しかし今日は、赤くなっても逃げません。


 ただ、小さく頷きました。


「僕も、言うべきことを整理する」


 殿下は紙に視線を落としました。


「僕が言うべきことは……」


 少し沈黙。


 考える沈黙です。


「匿名文によって、ナリア、ルイート嬢、セシリア嬢が傷ついたこと」


「はい」


「ベアトリス嬢が直接命じていなくても、自分の言葉が周囲を動かしたなら、その責任から目を逸らすべきではないこと」


「はい」


「ただし、僕は怒りで断罪するためにいるのではなく、事実を明らかにするためにいること」


 レオン様が頷きました。


「良いと思います」


 私は少しだけ胸を撫で下ろしました。


 殿下の言葉が、以前よりずっと整理されています。


 怒りはある。


 でも、怒りだけではない。


 責任を問う言葉になっています。


 エレナ様が微笑みました。


「殿下、本当にご成長なさいましたわね」


 殿下は少し困った顔をしました。


「まだ、本番でできるか分からない」


「できるよう、今練習しているのです」


「そうだな」


 殿下は再び深く息を吸いました。


 吐きました。


 今日の呼吸は、いつもより重いように聞こえました。


 昼休み。


 食堂の空気は張り詰めていました。


 ベアトリス様は来ていません。


 イレーヌ様も、セシリア様もいません。


 その空席が、かえって多くを語っています。


 生徒たちは小声で話し、教師の姿がいつもより多く見えました。


 学園側も、これ以上噂が暴走しないよう気を配っているのでしょう。


 ナリア様は私たちと同じ席に座っていましたが、あまり食が進んでいませんでした。


 殿下も離れた席で、ほとんど食べていないように見えます。


 レオン様が何か言い、殿下が渋々パンを口に運んでいました。


 少し笑いそうになりました。


 王太子殿下も、食べなければ午後を乗り切れません。


「ナリア様」


 エレナ様が、小さな包みを差し出しました。


「蜂蜜菓子ですわ」


「え?」


「緊張する日は甘いものです」


「でも……」


「私の持論です。受け取ってくださいませ」


 ナリア様は少し驚いた後、柔らかく笑いました。


「ありがとうございます」


 その光景を見て、私は以前のことを思い出しました。


 殿下が蜂蜜菓子を持ってきた日。


 謝罪の練習。


 ごきげんよう。


 ありがとう。


 呼吸。


 あれから随分遠くへ来たようで、まだ少ししか進んでいないようにも感じます。


 けれど、確かに変わりました。


 ナリア様が蜂蜜菓子を一口食べると、少しだけ表情が緩みました。


「甘いです」


「でしょう?」


 エレナ様は満足そうです。


 私も一ついただきました。


 甘さが舌に広がり、固まっていた肩が少しだけ下がります。


 放課後まで、あと少し。


 その時間が近づくほど、廊下の空気は重くなりました。


 授業が終わり、生徒たちが教室から出ていきます。


 いつもなら放課後の解放感が漂う時間です。


 けれど今日は、誰もがどこか慎重でした。


 図書棟横の面談室。


 今日の場は、そこで行われます。


 開放学習室ではありません。


 大勢に見せるための場ではなく、事実を確認するための場だからです。


 私たちが向かうと、すでにレオン様が扉の前にいました。


 殿下は少し離れた場所に立っています。


 姿勢は整っています。


 けれど、手は軽く握られていました。


 ナリア様を見ると、殿下は一瞬だけ表情を和らげました。


「ナリア」


「殿下」


「……無理はしないでほしい」


 短い言葉。


 ナリア様は頷きました。


「はい。でも、言いたいことは言います」


 殿下の瞳が揺れます。


 それから、彼は小さく頷きました。


「分かった」


 そして言いました。


「君の言葉を、僕は聞く」


 ナリア様の表情が、少しだけ柔らかくなりました。


「ありがとうございます」


 面談室の扉が開きました。


 中には、王国法の教師と学年主任の教師がいます。


 重い空気です。


 机は中央に置かれ、椅子が向かい合うように配置されています。


 私たちは教師の指示に従って席につきました。


 殿下は上座ではありません。


 あえて教師の斜め横。


 王太子として場を支配する位置ではなく、立ち会う位置です。


 ナリア様は私とエレナ様の隣。


 レオン様は殿下の近く。


 しばらくして、ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢が入ってきました。


 今日も完璧な姿でした。


 金茶の髪に乱れはなく、制服の襟元も美しい。


 白い扇は持っていません。


 面談の場だからでしょう。


 それでも彼女は、扇がなくても十分に優雅でした。


「失礼いたします」


 彼女は丁寧に礼をしました。


 教師が席を示します。


「ダルモア嬢、座りなさい」


「はい」


 ベアトリス様は静かに席につきました。


 その視線が一瞬、ナリア様へ向きます。


 次に私へ。


 そして殿下へ。


 殿下は何も言いません。


 ただ、静かに座っています。


 教師が口を開きました。


「本日は、掲示板に貼られた匿名文について、追加の確認を行います。すでにバッセル嬢は文を書いたこと、掲示板に貼ったことを認めています」


 ベアトリス様は静かに頷きました。


「伺っております」


「また、モートン嬢は見張りを頼まれたことを証言しています」


「そのようですわね」


 声は落ち着いています。


 少しも崩れません。


「さらに、バッセル嬢は匿名文を書く前に、あなたから内容に近い話を聞いたと証言しました」


 ベアトリス様の表情は、ほんの少しだけ動きました。


 しかしすぐに微笑みます。


「私は、一般論を話しただけです」


 来ました。


 予想通りの答えです。


「急な変化は人を惑わせる。傷ついた方は、周囲の言葉でさらに苦しむかもしれない。そうした話はいたしました。ですが、誰かに匿名文を書けなどと命じたことはございません」


 教師は静かに聞いています。


 ベアトリス様は続けました。


「イレーヌ様が私の言葉を過剰に受け取ったのだとすれば、それは残念なことです。ですが、私に責任があると言われても困りますわ」


 綺麗な逃げ道です。


 私は胸の奥が冷えるのを感じました。


 殿下の手が、ほんの少し動きます。


 けれど、彼は口を開きません。


 呼吸しています。


 教師が言いました。


「あなたは、『名前を書かなければ問題にならない』と言いましたか」


 ベアトリス様は少し黙りました。


「そのような言葉を、冗談めかして口にしたかもしれません」


「冗談?」


「ええ。貴族社会では、直接名を挙げずに話すことも多いですから。けれど、それを実際に掲示板へ貼るとは思いませんでした」


 また逃げました。


 自分の言葉は冗談。


 実行したのはイレーヌ様。


 ベアトリス様は、そこに線を引こうとしています。


 教師がさらに問いを重ねます。


「モートン嬢は、協力しなければあなた方と一緒にいられないと言われたと証言しています」


「それも誤解です」


 ベアトリス様は、少し悲しげな顔をしました。


「セシリア様は気の弱い方です。こちらが普通に言ったことでも、重く受け取ってしまうことがあります」


 その瞬間、ナリア様の手が震えました。


 私は気づきました。


 殿下も気づいたでしょう。


 セシリア様をまた「気が弱い」と片づけた。


 自分の圧力ではなく、相手の受け取り方の問題にしようとしている。


 殿下が口を開きかけました。


 しかし、その前にナリア様が声を出しました。


「ダルモア様」


 静かな声でした。


 けれど、部屋の空気が変わりました。


 ベアトリス様がナリア様を見ます。


「何でしょう、ナリア様」


 ナリア様は、膝の上で手を握っていました。


 震えています。


 でも、顔は上げています。


「私からも、申し上げてもよろしいでしょうか」


 教師が頷きました。


「許可します」


 ナリア様は、ゆっくり息を吸いました。


「私は、あなたの言葉で傷つきました」


 ベアトリス様の表情が、ほんの少し固まりました。


「匿名文を書いたのがイレーヌ様であっても、その内容にあなたの言葉が関わっていたのなら、私はそれを悲しく思います」


「ナリア様、私はあなたを心配して」


「心配という形で、私の気持ちを勝手に決めないでください」


 ナリア様の声が、少し震えました。


 けれど止まりません。


「私は、殿下の言葉を自分で聞きたいと思いました。信じるかどうかも、迷うかどうかも、私が決めることです」


 ベアトリス様は黙りました。


「私を可哀想な令嬢として扱い、ルイート様を傷つけるために使わないでください」


 部屋に沈黙が落ちました。


 ナリア様の目元は赤くなっています。


 けれど、泣いていません。


 殿下は、じっとナリア様を見ていました。


 手は握られています。


 けれど、言葉を奪いませんでした。


 ナリア様の言葉を、最後まで聞きました。


 ベアトリス様は、ゆっくり口を開きました。


「私は、あなたを傷つけるつもりでは」


「つもりがなかったとしても、傷つきました」


 ナリア様は言いました。


「それだけは、知ってください」


 その言葉は、強い断罪ではありません。


 でも逃げられない言葉でした。


 意図ではなく、結果。


 あなたの言葉で傷ついた人がいる。


 それを、知ってほしい。


 ベアトリス様は、初めて少しだけ視線を揺らしました。


 殿下が、そこで静かに口を開きました。


「ベアトリス嬢」


 声は低く、しかし抑えられていました。


「はい、殿下」


「君が直接命じていないと言うなら、その言葉は記録される」


「はい」


「だが、自分の言葉が周囲を動かした可能性からは、目を逸らさないでほしい」


 ベアトリス様の表情が硬くなります。


 殿下は続けました。


「君は影響力を持つ立場だ。君が『誰かが問いを形にしなければ』と言えば、それを行動に移す者がいる。君が『名前を書かなければ問題ない』と言えば、それを免罪符にする者がいる」


 部屋の空気が重くなりました。


「直接命じなければ責任がない、という話ではない」


 殿下の声には怒りがありました。


 でも、その怒りは制御されていました。


「少なくとも、君の言葉は人を動かした。その結果、ナリアが傷つき、ルイート嬢が傷つき、セシリア嬢が脅え、イレーヌ嬢も罪を犯した」


 ベアトリス様は、唇を結びました。


「私は……」


「今すぐすべてを認めろとは言わない」


 殿下は言いました。


 その言葉に、私も少し驚きました。


「だが、考えてほしい。君の言葉が誰をどう傷つけたのかを」


 ベアトリス様の視線が揺れました。


 殿下はさらに続けます。


「逃げ道を塞いで追い詰めたいわけではない。だが、事実から逃げ続けることを許すつもりもない」


 静かな言葉でした。


 重く、まっすぐで、王太子としての言葉でした。


 私は胸の奥が熱くなりました。


 殿下。


 言えました。


 怒りに任せず。


 ナリア様の言葉を奪わず。


 逃げ道を塞がず、それでも逃げ続けることは許さないと。


 ベアトリス様は、しばらく何も言いませんでした。


 完璧だった笑みは、もう消えています。


 彼女は俯いているわけではありません。


 けれど、その表情には初めて迷いが見えました。


 教師が静かに言いました。


「ダルモア嬢。本日の発言は記録します。あなたには改めて、書面で説明を提出してもらいます」


「……承知いたしました」


 ベアトリス様は、静かに礼をしました。


 面談はそこで終わりました。


 完全な決着ではありません。


 ベアトリス様はすべてを認めたわけではない。


 処分もまだ決まっていない。


 けれど、今日、彼女は初めて真正面からナリア様の言葉と殿下の言葉を受けました。


 それだけは確かでした。


 面談室を出ると、廊下の空気がやけに冷たく感じました。


 ナリア様は、少しふらつきました。


 殿下が反射的に動きかけます。


 しかし、止まりました。


 代わりに、静かに尋ねます。


「ナリア、大丈夫か」


 ナリア様は、少しだけ笑いました。


「はい。少し、力が抜けただけです」


「そうか」


 殿下は手を伸ばしませんでした。


 でも、すぐそばにいました。


 必要なら支えられる距離で。


 ナリア様は、それに気づいたのでしょう。


 小さく言いました。


「ありがとうございます」


 殿下の顔が少し赤くなりました。


「君が、自分の言葉で伝えてくれてよかった」


「怖かったです」


「ああ」


「でも、殿下が聞いていてくださると思ったので」


 殿下の目が揺れました。


 言葉が出そうになります。


 でも、彼は一度息を吸いました。


 吐きました。


「聞けてよかった」


 それだけ言いました。


 ナリア様は、柔らかく微笑みました。


 その微笑みは、疲れていましたが、とても温かいものでした。


 その日の夕方。


 学園の空は、雲の切れ間から淡い光が差していました。


 面談の結果はまだ正式には公表されていません。


 けれど、何かが動いたことは、きっと学園中が感じているでしょう。


 私はエレナ様と並んで校舎を出ました。


「終わりではありませんわね」


 エレナ様が言いました。


「はい」


「でも、大きく進みました」


「はい」


「ナリア様、本当に立派でしたわ」


「殿下も」


「ええ」


 エレナ様は少し笑いました。


「今日の殿下は、かなり王太子殿下でした」


「普段も王太子殿下です」


「そうなのですけれど、残念さが少なかったですわ」


「それは同感です」


 私たちは小さく笑いました。


 少しだけ。


 本当に少しだけ、肩の力が抜けました。


 中庭の向こうで、殿下とナリア様が少し離れて歩いているのが見えました。


 レオン様も近くにいます。


 殿下はナリア様へ話しかけすぎず、ただ隣にいる。


 ナリア様も、時々小さく頷いている。


 その距離は、まだ恋人同士のものではありません。


 けれど、以前のように冷たく離れたものでもありません。


 少しずつ。


 少しずつ、二人の間に歩幅が生まれています。


 私は夕方の光の中で、静かに息を吐きました。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、ナリア様の言葉を奪わず、場を支配せず、それでも必要なことを伝えました。


 逃げ道を塞いで追い詰めるのではなく、事実から逃げない道を示しました。


 どうか明日も。


 その言葉を忘れずにいてくださいませ。


 そしていつか。


 本当に大切な言葉を伝える時にも、今日のように相手の心を見て、選んでください。

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