第20話 王太子殿下、逃げ道を塞がず道を示す
人は、追い詰められると逃げ道を探します。
それは自然なことです。
誰でも、怖い時には逃げたい。
責められそうになれば身を守りたい。
自分が間違えたと分かっていても、すぐに認められる人ばかりではありません。
けれど、逃げ道の作り方を間違えれば、さらに多くの人を傷つけることになります。
誰かに責任を押しつける。
知らなかったふりをする。
曖昧な言葉で、自分だけ安全な場所へ退く。
そうして逃げた先に残されるのは、踏みつけられた人の痛みです。
だからこそ、逃げる相手をただ怒りで追い詰めるのではなく、何が間違っていたのかを見える形にしなければなりません。
その朝、学園の空気は昨日よりもさらに張り詰めていました。
イレーヌ・バッセル男爵令嬢が匿名文を書いたことを認めた。
セシリア・モートン子爵令嬢が見張りを命じられていた。
その話は、教師たちが抑えていても完全には隠せませんでした。
廊下を歩けば、扇の陰で声が落ちます。
「バッセル様が認めたそうですわ」
「では、掲示板の文は本当に……」
「セシリア様も関わっていたとか」
「でも、脅されていたのでしょう?」
「では、誰が命じたの?」
「ダルモア様のお名前が出ているとか」
「でも証拠はないのでしょう?」
「怖いですわね」
声は小さい。
けれど、確かに聞こえます。
昨日まで中心にいたのは、私とナリア様でした。
今は違います。
噂の中心は、少しずつベアトリス・ダルモア侯爵令嬢へ移っていました。
それは当然の流れとも言えます。
けれど、私は素直には喜べませんでした。
疑いが向かうことと、事実が明らかになることは違います。
もしここで周囲が憶測だけでベアトリス様を責め始めれば、彼女は「根拠なく疑われた被害者」として振る舞える。
そして本当に明らかにすべきことが、また曖昧になるかもしれません。
面倒です。
本当に面倒です。
けれど、正しい形で進めるためには、その面倒を避けてはいけないのでしょう。
「マリア様」
隣を歩くエレナ様が、私の顔を覗き込みました。
「また眉間にしわが寄っていますわ」
「寄っていましたか」
「ええ。王国法の試験問題を見た時より険しいです」
「それは相当ですね」
「相当ですわ」
エレナ様は少し笑いました。
しかし、その目は周囲の様子をしっかり見ています。
昨日より、ベアトリス様の周辺にいる令嬢たちの距離が変わっていました。
完全に離れたわけではありません。
ですが、以前ほど密集していない。
取り巻きというより、様子を窺っている者たちに見えます。
イレーヌ様は今日も姿を見せていません。
セシリア様も教師の配慮で授業は別室対応になると聞いています。
残った者たちは、次に誰へ責任が及ぶのかを恐れているのでしょう。
「ダルモア様は?」
私が小声で尋ねると、エレナ様は目線だけを廊下の奥へ向けました。
「いらっしゃいますわ」
廊下の先。
白い扇を手にしたベアトリス様が歩いていました。
今日も美しい姿です。
金茶の髪は乱れなく結い上げられ、制服も完璧に整っています。
表情には少しの動揺も見えません。
けれど、周囲が変わっていました。
昨日まで自然に隣を歩いていた令嬢たちが、半歩ほど距離を置いています。
それだけで、彼女の置かれた状況が少し変化したことが分かりました。
ベアトリス様はこちらに気づくと、いつものように微笑みました。
「ごきげんよう、ルイート様。バートン様」
「ごきげんよう、ダルモア様」
礼を返します。
彼女は扇で口元を隠しました。
「最近、学園が少し騒がしいですわね」
「そうですね」
「匿名文などという品位のない行いのせいで、関係のない者まで疑われるようなことがあっては困りますわ」
関係のない者。
自分のことを言っているのでしょう。
あるいは、周囲にそう聞かせたいのでしょう。
私は静かに答えました。
「だからこそ、憶測ではなく事実が大切ですね」
ベアトリス様の目が、ほんの少し細くなりました。
「ええ。本当に。事実だけを見ていただきたいものですわ」
「はい」
「誰かが勝手に動いたことまで、周囲の者に責任があると決めつけられてはたまりませんもの」
来ました。
自分は直接関わっていない。
そういう逃げ道を、今から周囲へ作っている。
私は微笑みを崩しませんでした。
「責任の範囲は、慎重に見極めるべきだと思います」
「さすが、ルイート様は冷静ですわね」
「そうありたいだけです」
ベアトリス様は少しだけ笑いました。
「では、失礼いたします」
彼女が去っていきます。
香水の甘い匂いだけが残りました。
エレナ様が小さく息を吐きます。
「完全に防御に入っていますわね」
「はい」
「『勝手に動いた』という形にしたいのでしょう」
「そのようです」
「でも、セシリア様の証言では、ダルモア様の言葉が発端に近い」
「はい。ただし、直接命じたわけではない」
「そこが厄介ですわ」
本当に厄介です。
直接命じずに誘導する。
相手が勝手に動いた形にする。
いざとなれば、私はそんなつもりではなかった、と言える。
貴族社会では珍しい手法ではないのかもしれません。
しかし、だからといって許されるものではありません。
私は廊下の窓へ視線を向けました。
外の空は薄曇り。
朝の光がぼんやりと校舎を照らしています。
今日もまた、長い一日になりそうでした。
午前の授業が終わる頃、レオン様から短い伝言が届きました。
昼休み後、教師側がベアトリス様へ聞き取りを行う予定。
殿下には事前に伝達済み。
関係者は放課後の研究会で情報共有。
それだけの内容でした。
簡潔です。
しかし、重い。
ついにベアトリス様への聞き取りが始まります。
ただし、ここで彼女が素直に認めるとは思えません。
むしろ、今朝の様子を見る限り、責任を周囲へ逸らす準備をしている。
昼休みの食堂は、その話で静かにざわついていました。
ベアトリス様は食堂にいません。
おそらく、教師側に呼ばれているのでしょう。
その不在が、かえって噂を強めます。
「ダルモア様、今日はお見えになりませんわね」
「教師に呼ばれたのでは?」
「やはり何か」
「でも、あの方が直接なさるとは思えませんわ」
「直接でなくても、周囲があれほど動いたのなら……」
「怖いですわね」
ナリア様は、私たちと同じ卓に座っていました。
最近、少しずつそういう場面が増えています。
最初は周囲の目を避けるために距離を取っていた私たちですが、今は逆に、自然な形で一緒にいることが必要になっていました。
隠れていない。
疚しいことはない。
その姿勢を見せるためです。
ナリア様は静かに昼食を取っていましたが、やはり落ち着かない様子です。
「ナリア様」
私が声をかけると、彼女は顔を上げました。
「はい」
「ご無理なさらないでくださいね」
ナリア様は少し微笑みました。
「ありがとうございます。大丈夫です」
少し間を置いて、彼女は続けました。
「ただ、ダルモア様が何をおっしゃるのか、気になってしまって」
「当然ですわ」
エレナ様が優しく言いました。
「ナリア様も当事者ですもの」
「……はい」
ナリア様は膝の上で手を握りました。
「私は、ダルモア様を責めたいわけではないのです」
その言葉に、私は少し驚きました。
「責めたくない?」
「いえ、まったく怒っていないわけではありません」
ナリア様は小さく首を横に振りました。
「私の気持ちを勝手に使われたことは、嫌でした。ルイート様が傷つけられたことも、セシリア様が怯えていたことも、許していいことではないと思います」
「はい」
「でも、ただ責めて終わりにしたいわけではないのです。なぜ、そこまでされたのか……知りたいと思ってしまいます」
なぜ。
その言葉が、胸に残りました。
ベアトリス様は、なぜここまでしたのでしょう。
王太子妃候補としての立場。
家の期待。
ナリア様への嫉妬。
私への警戒。
理由は想像できます。
でも、想像と本人の真実は違います。
殿下も、以前は周囲から「冷たい王太子」と見られていました。
実際、冷たい言葉を言っていたのは事実です。
けれど、その裏には不器用で情けないほど必死な恋心がありました。
だからといって傷つけたことが許されるわけではありません。
ただ、理由を知らなければ、向き合い方を間違える。
ナリア様は、それを感じているのかもしれません。
「ナリア様は、お優しいですわね」
エレナ様が言いました。
ナリア様は少し困ったように笑いました。
「優しいのではなく、怖いのかもしれません」
「怖い?」
「誰かが悪い人だと決めつけてしまえば、楽なのかもしれません。でも、それで本当に終わるのか分からなくて」
ナリア様は視線を落としました。
「私も、殿下の冷たい言葉だけを見て、すべて嫌われているのだと思っていました。でも、今は……少し違うことを知りました」
その言葉に、私は何も言えませんでした。
殿下の件が、ナリア様に別の視点を与えている。
傷つけられた過去が、誰かを簡単に断罪しない強さにつながっている。
それは、あまりにも優しくて、少し苦しいことでした。
「だからといって、悪いことを曖昧にしてはいけません」
ナリア様は顔を上げました。
「でも、何が本当に悪かったのかは、きちんと見たいです」
私は静かに頷きました。
「はい」
殿下にも聞かせたい言葉だと思いました。
きっと、放課後に伝わるでしょう。
午後の授業が終わり、開放学習室へ向かう頃には、ベアトリス様への聞き取りが終わったという噂が広がっていました。
彼女は、何も認めなかったらしい。
イレーヌ様が勝手に過剰に受け取っただけ。
セシリア様への圧力も知らない。
自分はただ、一般論として「急な変化は人を惑わせる」と話しただけ。
そのように説明したと、誰かが囁いていました。
予想通りです。
けれど、予想していても胸が重くなります。
学習室には、殿下が先に来ていました。
椅子に座り、机の上の心得紙を見つめています。
いつもの項目に、今日また新しい言葉が増えていました。
『逃げ道を塞がず、事実を見る』
私はその文字を見て、少しだけ息を止めました。
殿下も、今日の難しさを理解しているのです。
「殿下」
「ルイート嬢」
殿下は顔を上げました。
表情は落ち着いているように見えます。
けれど、目の奥には疲労と怒りがありました。
「聞き取りの内容は?」
私が尋ねると、レオン様が答えました。
「概ね予想通りです。ベアトリス嬢は直接関与を否定。イレーヌ嬢が自分の言葉を過剰に解釈したのだと主張しています」
「セシリア様の証言は?」
「『誤解ではないか』と」
エレナ様が静かに眉を寄せました。
「逃げましたわね」
「はい」
レオン様は続けました。
「ただし、教師側も完全に信じてはいません。複数の生徒が、ベアトリス嬢が匿名文に近い内容を繰り返し話していたことを聞いています」
「証言が増えているのですか」
「はい。イレーヌ嬢が一人で考えた文にしては、周囲での発言と一致しすぎている」
殿下は静かに言いました。
「だが、それでも直接命令の証拠ではない」
「はい」
沈黙。
ナリア様も席に着き、静かに聞いていました。
殿下は、彼女へ視線を向けます。
「ナリア」
「はい」
「君は、どう思う」
ナリア様は少し驚きました。
けれど、すぐに考え込みました。
殿下は待っています。
急かしません。
ナリア様が言葉を探す時間を、そのまま置いています。
やがて、ナリア様は言いました。
「ダルモア様は、逃げているのだと思います」
静かな声でした。
「ですが、完全に逃げ道を塞いでしまえば、さらに誰かに責任を押しつけるかもしれません」
殿下は真剣に聞いています。
「では、どうすればいいと思う」
「逃げ道をなくすのではなく……自分で認める道を残すべきではないでしょうか」
私は胸の奥が震えました。
自分で認める道。
それは、とてもナリア様らしい言葉でした。
エレナ様も静かに息を呑んでいます。
ナリア様は続けました。
「もちろん、何もなかったことにはできません。イレーヌ様もセシリア様も、私たちも傷つきました。でも、ダルモア様がすべてを否定し続ける限り、きっと誰も前へ進めません」
「……」
「だから、認める機会を与える。それでも否定するなら、その時は証言と事実で示す。私は、そう思います」
殿下は長く黙りました。
怒りを抑えているのではありません。
考えている沈黙です。
やがて、彼はゆっくり息を吐きました。
「君は、すごいな」
ナリア様の頬が赤くなりました。
「そ、そんなことは」
「すごい」
殿下は、もう一度言いました。
今度は少しだけ柔らかく。
「僕は、追い詰めることばかり考えていた。だが、君は認める道を残すことを考えた」
ナリア様は目を伏せました。
「私も、怒っていないわけではありません」
「ああ」
「でも、誰かをただ潰して終わりにしたくないのです」
「……分かった」
殿下は頷きました。
「その考えを、僕も採りたい」
ナリア様が顔を上げました。
「殿下」
「ベアトリス嬢に、直接断罪を突きつけるのではなく、事実を整理し、自分の言葉で説明する機会を与える」
レオン様が頷きました。
「妥当です」
「ただし、逃げ続けるなら、証言を積み重ねる」
「はい」
「イレーヌ嬢やセシリア嬢だけに責任を押しつける形にはしない」
「そのための準備を進めます」
殿下は、もう一度ナリア様を見ました。
「ありがとう。君の言葉で、怒りが少し整理された」
ナリア様の目が揺れました。
「お役に立てたなら、嬉しいです」
そのやり取りは、以前よりずっと自然でした。
殿下がナリア様を頼り、ナリア様が自分の考えを伝える。
その間に、怯えだけではない信頼が少しずつ生まれ始めている。
私はそれを見て、胸の奥が温かくなりました。
研究会の後半は、実際に「説明する機会」について話し合いました。
教師側主導で、関係者の前でベアトリス様に改めて説明を求める。
ただし、大勢の生徒の前では行わない。
その場にいるのは、教師、レオン様、必要なら殿下、ナリア様、私、エレナ様。
セシリア様とイレーヌ様は、それぞれの状態を見て判断。
直接対面させると負担が大きい可能性があるため、慎重にする。
「殿下は同席されますか?」
私が尋ねると、殿下は少し考えました。
「僕がいると、ベアトリス嬢は王太子への返答として構えるだろう」
「はい」
「だが、僕がいないと、彼女はナリアや君たちを軽く扱うかもしれない」
レオン様が頷きます。
「難しいところです」
ナリア様が静かに言いました。
「殿下には、いていただきたいです」
殿下が驚いたようにナリア様を見ました。
「僕が?」
「はい」
ナリア様は少し緊張しながらも続けます。
「ただし、私たちの代わりに怒るためではなく……その場を正しい形に保つために」
殿下は、はっとしたような顔をしました。
「正しい形に保つため」
「はい。殿下が怒りに任せず、事実を見ようとしてくださるなら、その場にいてくださることは力になると思います」
殿下は、しばらく何も言えませんでした。
それから、静かに頷きました。
「分かった」
声は低く、真剣でした。
「僕は、その場にいる。だが、怒りで場を支配しない。君たちの言葉を奪わない」
「はい」
「正しい形を保つ」
殿下は心得紙に、また一つ書き足しました。
『場を支配しない』
もはや本当に冊子ができそうです。
けれど、その一つ一つが殿下の成長の跡でした。
その日の研究会が終わる頃、レオン様に教師から呼び出しがありました。
少しして戻ってきた彼の表情は、いつもより硬いものでした。
「どうしました?」
私が尋ねると、レオン様は静かに答えました。
「イレーヌ嬢が、追加で証言しました」
全員の空気が変わりました。
「何を?」
殿下が尋ねます。
「匿名文を書く前、ベアトリス嬢から『王太子殿下のお心が誰にあるのか、皆が疑問に思っている。誰かが問いを形にしなければ、ナリア様は気づけないかもしれない』と言われたと」
ナリア様の顔色が変わりました。
私も息を呑みました。
それは、ほぼ誘導です。
直接命令ではない。
でも、明らかに書かせる方向へ導いている。
レオン様は続けました。
「さらに、『名前を書かなければ問題にはならない』とも」
殿下の手が、机の上で強く握られました。
けれど、彼は叫びませんでした。
怒りを飲み込みました。
そして言いました。
「その証言は、教師側で正式に記録されたのだな」
「はい」
「なら、次に進める」
低い声。
静かな怒り。
でも、制御されています。
ナリア様は小さく震えていました。
殿下はそれに気づき、何かを言いかけて止まりました。
そして、慎重に言いました。
「ナリア」
「はい」
「……今の話は、辛かったと思う」
ナリア様の瞳が揺れます。
「はい」
「君の気持ちを、気づかせるためという名目で利用した。僕は、それが許せない」
殿下の声に怒りが滲みます。
けれど、ナリア様に向ける声は優しい。
「だが、君が言った通り、認める道は残したい」
ナリア様は、震えながら頷きました。
「はい」
「その上で、事実から逃がさない」
「……はい」
殿下は深く息を吸いました。
「僕は、君の言葉を忘れない」
ナリア様の頬に、少しだけ赤みが戻りました。
「ありがとうございます」
夕方。
学習室を出る頃には、空は夕焼けに染まっていました。
昨日よりも赤い夕焼けです。
雲の端が燃えるように光り、校舎の窓がそれを映しています。
私は廊下を歩きながら、今日の出来事を思い返しました。
ベアトリス様は逃げ道を作ろうとした。
けれど、イレーヌ様の追加証言によって、その道は少しずつ狭まっています。
まだ終わりではありません。
次は、ベアトリス様自身がどう向き合うか。
そして殿下が、その場でどう言葉を選ぶか。
そこが大きな山になるでしょう。
ナリア様が隣で、小さく言いました。
「少し、怖いです」
「はい」
「でも、今度は目を逸らしたくありません」
「ナリア様……」
「私の気持ちを勝手に使われたことを、私自身の言葉で伝えたいです」
その声は震えていました。
けれど、逃げていませんでした。
私は頷きました。
「はい。きっと伝えられます」
エレナ様も微笑みました。
「私たちもそばにいますわ」
ナリア様は、小さく笑いました。
「ありがとうございます」
廊下の先で、殿下とレオン様が少し離れて歩いていました。
殿下は振り返りたいのを堪えているようでした。
何となく分かります。
でも、振り返りませんでした。
ナリア様が自分の言葉で立つ時間を、邪魔しないためでしょう。
本当に、変わりました。
あの池で泣いていた方が。
私は夕焼けの光の中で、心の中に呟きました。
王太子殿下。
今日のあなたは、逃げ道を塞いで追い詰めるのではなく、自分で認める道を残すことを選びました。
それは、とても難しい選択です。
でも、正しい形で向き合うためには、きっと必要なことです。
どうか次の場でも。
怒りに任せた断罪ではなく、誰もが事実から逃げずに立てる言葉を選んでくださいませ。




