第19話 王太子殿下、裁く言葉を選ぶ
人を責める言葉は、簡単に強くなります。
怒りがある時ほど、正しさを握りしめた時ほど、言葉は鋭くなります。
お前が悪い。
許さない。
罰を受けろ。
そう言うことは、難しくありません。
けれど、正しさとは、本当にそれだけなのでしょうか。
誰かが過ちを犯した時、必要なのは感情のまま叩きつける言葉ではなく、何が起きたのかを明らかにし、誰がどこまで責任を負うべきかを見極めることです。
それは、とても面倒で、時間がかかり、時には怒りを飲み込まなければなりません。
それでも、その過程を飛ばしてしまえば、正しさは簡単に暴力へ変わります。
その日、アルノルド殿下が学ぶことになったのは、まさにその違いでした。
朝の開放学習室は、いつもより静かでした。
窓から入る光は柔らかく、机の上に並んだ資料を白く照らしています。
けれど、私たちの空気は明るくありません。
殿下、レオン様、エレナ様、ナリア様、そして私。
五人が集まった机の中央には、昨日レオン様が教師から受け取った報告の写しが置かれていました。
イレーヌ・バッセル男爵令嬢への聞き取りが行われたのです。
匿名文を書いたと、彼女は認めました。
ただし。
「イレーヌ嬢は、ベアトリス嬢から直接命じられたわけではない、と主張している」
レオン様が、淡々と報告しました。
殿下の指が、机の上でわずかに動きました。
怒りを抑えているのが分かります。
「文を書いたのは自分。掲示板へ貼ったのも自分。セシリア嬢には、周囲を見ていてほしいと頼んだ。だが、それは自分の判断であり、ベアトリス嬢は関係ない。……そう言っている」
エレナ様が眉を寄せました。
「分かりやすすぎる切り捨てですわね」
「はい」
私は小さく頷きました。
イレーヌ様がすべてを被ろうとしている。
あるいは、被らされている。
昨日セシリア様が話した内容では、ベアトリス様は直接命令こそしていません。
けれど、匿名文の内容に近い言葉を口にし、周囲が動くように誘導した。
そしてイレーヌ様が書いた。
セシリア様には見張りをさせた。
表面だけ見れば、イレーヌ様とセシリア様の行動です。
でも、その奥にはベアトリス様の影がある。
ただし、影は証拠にはなりません。
それが厄介でした。
「イレーヌ嬢は、セシリア嬢を脅したことも否定しているのか」
殿下が尋ねました。
声は低いですが、抑えています。
「はい。『協力してほしいと頼んだだけ』だと」
レオン様が答えました。
「セシリア嬢の証言とは食い違います」
「セシリア嬢は?」
「再度確認を受けています。昨日よりは落ち着いて話せているようです。ただ、ベアトリス嬢の名を出す時はまだ強く怯えています」
ナリア様の手が、膝の上でぎゅっと握られました。
それに気づいた殿下が、すぐに何か言おうとします。
けれど、口を開く直前で止まりました。
待つ。
焦らない。
任せる。
最近の心得が、ちゃんと働いています。
ナリア様は少し息を吸って、自分から言いました。
「セシリア様は、まだ怖いのですね」
「ああ」
殿下は短く答えました。
「だから、急がせてはいけない」
その言葉に、ナリア様が顔を上げました。
殿下は続けます。
「本当は、すぐにでもベアトリス嬢を問いただしたい」
声に怒りが滲みます。
けれど、続く言葉は抑えられていました。
「だが、それをすれば、セシリア嬢がさらに追い詰められるかもしれない。イレーヌ嬢も、すべてを自分の責任だと言い張るだろう」
レオン様が頷きました。
「その通りです」
「だから、証言を積み重ねる」
殿下は報告書を見つめました。
「イレーヌ嬢が書いたこと。セシリア嬢が見張りをさせられたこと。ベアトリス嬢がその前に内容を示唆する発言をしたこと。これらを一つずつ確認する」
「はい」
レオン様は少しだけ目を細めました。
「殿下、とても冷静です」
「冷静ではない」
殿下は即答しました。
「冷静でいようとしているだけだ」
その正直さに、私は少し胸を打たれました。
殿下は怒っています。
それは当然です。
ナリア様を傷つけ、私を傷つけ、セシリア様を利用したかもしれない相手がいる。
その中心にいるであろうベアトリス様は、まだ優雅な顔で廊下を歩いている。
怒らない方が難しい。
けれど殿下は、その怒りをそのまま言葉にしていません。
自分が王太子であること。
一言が相手の未来を左右すること。
それを分かり始めているからです。
「殿下」
ナリア様が静かに言いました。
「はい」
「怒ってくださっているのですね」
殿下の表情が揺れました。
「……ああ」
「私や、ルイート様や、セシリア様のために」
「当然だ」
少し強い声でした。
すぐに殿下は息を吸い直します。
「当然だと思っている。だが……怒り方を間違えないようにしたい」
ナリア様の瞳が柔らかく揺れました。
「はい」
彼女は小さく微笑みました。
「殿下がそう考えてくださっていることが、嬉しいです」
殿下の顔が赤くなりました。
危険。
と、思いましたが、殿下は口を閉じました。
そして呼吸しました。
よくできています。
エレナ様が机の下で、また小さく親指を立てています。
貴族令嬢としては褒められませんが、今日も気持ちは分かりました。
午前の授業が始まる頃には、イレーヌ様への聞き取りの噂はすでに広がり始めていました。
教師側が完全に伏せているわけではありません。
掲示板に匿名文を貼った行為は、多くの生徒が知っています。
だから、何らかの処分や聞き取りが進んでいることも自然と漏れます。
「バッセル様が呼ばれたそうですわ」
「やはり匿名文を書いたのはあの方?」
「でも、どうしてそんなことを」
「ダルモア様の周りの方でしょう?」
「まさか、ダルモア様が?」
「しっ、証拠もないのに言ってはいけませんわ」
廊下の声は、昨日よりさらに生々しくなっていました。
これまでは、ぼんやりとした噂でした。
けれど今は、名前が出始めています。
イレーヌ様。
セシリア様。
そして、ベアトリス様。
危険な段階です。
誰かを守るための調査が、別の誰かを噂で傷つける形になってはいけない。
私はそう思いながらも、胸の奥に苦い感情がありました。
では、黙っていればいいのか。
匿名文を書いた者が、何の責任も負わずに済むべきなのか。
ベアトリス様が本当に誘導したのなら、その影響力だけ守られていいのか。
答えは簡単ではありません。
「マリア様」
エレナ様が隣で言いました。
「難しい顔ですわ」
「難しいことを考えていました」
「でしょうね」
「正しく裁く、というのは難しいですね」
「ええ」
エレナ様は少しだけ目を伏せました。
「感情としては、怒りたいですわ。私も」
「エレナ様も?」
「当然です。マリア様が傷つけられましたもの」
その言葉に、少し胸が温かくなりました。
エレナ様は続けます。
「でも、怒りで動けば、相手と同じ土俵に立ってしまう場合があります」
「はい」
「だから、証拠と手続きを積み重ねる。面倒ですけれど」
「面倒ですね」
「でも、必要ですわ」
私は頷きました。
殿下だけではありません。
私たちも、怒りをどう扱うか試されているのです。
昼休み。
食堂の空気は、いつも以上にざわついていました。
イレーヌ様は姿を見せていません。
セシリア様も、今日は教師の指示で別室で休んでいるようです。
ベアトリス様はいました。
いつもの席に、いつものように優雅に座っています。
取り巻きは一人少ない。
イレーヌ様がいないからです。
それでもベアトリス様は、表面上はまったく動じていませんでした。
白い扇を開き、ゆっくりとお茶を飲み、周囲の令嬢たちへ穏やかに微笑む。
その姿だけ見れば、事件とは何の関係もない高貴な令嬢です。
けれど、周囲はもう同じ目では見ていません。
ちらちらと視線が向けられます。
誰も直接は言いません。
しかし、疑念の空気は確かにそこにありました。
ベアトリス様は、その視線を受けながらも微笑み続けています。
強い。
そう思いました。
良い意味ではありません。
自分に疑いが向いても、少しも揺らがないように見せる強さ。
それは、相手に隙を見せないための貴族令嬢としての技術です。
私も見習うべきところはあるのでしょう。
ただ、使い方は間違えたくありません。
「ダルモア様、動じませんわね」
エレナ様が小声で言いました。
「はい」
「でも、少しだけ周囲との距離ができています」
「取り巻きの方々も?」
「ええ。イレーヌ様が呼ばれたことで、皆様少し怖くなっているのでしょう」
確かに。
ベアトリス様の周囲にいる令嬢たちは、以前より少し緊張していました。
巻き込まれたくない。
そう思っているのかもしれません。
権力の近くにいることは甘い蜜ですが、責任が降りかかるとなれば話は別です。
ナリア様は、今日は礼法研究会の令嬢たちと静かに昼食を取っていました。
殿下は離れた席から、見すぎない程度に様子を確認しています。
以前なら五回は固まっていたでしょう。
今日は一回だけでした。
かなりの進歩です。
その一回も、レオン様に軽く肩を叩かれて戻ってきました。
食堂のざわめきの中で、ふとベアトリス様が立ち上がりました。
周囲の視線が集まります。
彼女はまっすぐ、こちらではなくナリア様の席へ向かいました。
私は思わず体を強張らせました。
殿下も気づいたようで、遠くの席で手を止めています。
しかし動きません。
前に出ない。
今はナリア様の場です。
ベアトリス様はナリア様の前で足を止め、優雅に礼をしました。
「ナリア様」
「ダルモア様」
ナリア様も立ち上がり、礼を返します。
食堂の空気が静まりました。
誰もが聞き耳を立てています。
ベアトリス様は、悲しげな表情を作りました。
「今回のことで、私の周囲の者がご迷惑をおかけしているようです。まだ詳細は分かりませんけれど、同じ場にいた者として、心苦しく思っております」
謝罪。
のように聞こえます。
しかし、よく聞けば自分の責任は認めていません。
私の周囲の者が。
詳細は分からない。
同じ場にいた者として。
実に巧みです。
ナリア様は、静かにベアトリス様を見ていました。
「そうですか」
短い返事。
ベアトリス様の眉がわずかに動きます。
「ナリア様も、お辛かったでしょう」
「はい」
ナリア様は否定しませんでした。
「辛かったです。私の気持ちを、勝手に使われたように感じました」
食堂の空気が、さらに静まります。
ナリア様は続けました。
「ですから、今後はそのようなことがないよう願っています」
柔らかい声。
けれど、はっきりした言葉。
ベアトリス様は一瞬だけ沈黙しました。
そして微笑みます。
「もちろんですわ」
「ありがとうございます」
ナリア様は礼をしました。
それ以上、踏み込みません。
責めすぎない。
けれど、曖昧に流さない。
その姿を見て、私は胸が熱くなりました。
ナリア様は、本当に強くなっています。
殿下は遠くの席で、じっと彼女を見ていました。
見すぎです。
と思った瞬間、レオン様が軽く咳払いしました。
殿下は慌てて視線を戻しました。
連携が広がっています。
放課後。
学術研究会には、いつもの五人だけが集まりました。
今日の議題は、王国法における「責任の範囲」。
これもまた、今の状況に重なっています。
レオン様は資料を開き、淡々と読み上げました。
「行為を直接行った者、命じた者、誘導した者、見ていて止めなかった者。それぞれの責任は異なります」
重い議題です。
けれど、必要でした。
私は続けます。
「直接行為をした者の責任が最も明確です。しかし、命令や圧力があった場合、その背景も考慮されます」
ナリア様が静かに言いました。
「見ていて止められなかった者の責任も、まったくないとは言えません。でも、その人が脅されていたなら、その事情も見なければなりません」
セシリア様のことです。
殿下は頷きました。
「責めることと、責任を明らかにすることは違うのだな」
「はい」
ナリア様が答えました。
「誰かを潰すためではなく、同じことを繰り返さないために、責任を明らかにするのだと思います」
殿下は、その言葉を静かに受け止めました。
「同じことを繰り返さないため……」
彼は少し目を伏せました。
「僕自身にも、必要な考え方だ」
ナリア様が殿下を見ました。
殿下は自分の手元を見つめながら続けます。
「僕が君を傷つけてきたことも、ただ謝って終わりではない。同じことを繰り返さないために、何が悪かったのかを見続けなければならない」
学習室に、静かな空気が流れました。
ナリア様の瞳が揺れます。
「殿下……」
「すまない。今、事件の話から逸れた」
「いいえ」
ナリア様は首を横に振りました。
「でも、そう考えてくださっていることが、嬉しいです」
殿下の耳が赤くなります。
けれど、今日は落ち着いています。
「ありがとう」
それだけ言いました。
良いです。
本当に良いです。
エレナ様が、また机の下で親指を立てました。
もう注意する気も起きません。
研究会の終盤、レオン様が新しい報告をしました。
「教師側は、イレーヌ嬢への処分を検討しています。セシリア嬢については、見張りをした事実はあるものの、脅されていた事情を考慮する方向です」
「ベアトリス嬢は?」
殿下が尋ねます。
「現段階では、直接処分は難しいでしょう」
殿下の表情が硬くなりました。
「そうか」
「ただし、教師側は彼女への聞き取りも行います。セシリア嬢の証言と、イレーヌ嬢の証言に矛盾がありますから」
「分かった」
殿下はゆっくり息を吐きました。
「焦らない」
「はい」
レオン様が頷きます。
「ですが、何も起こらないわけではありません。ベアトリス嬢は、学園内での影響力を少し失いつつあります」
エレナ様が言いました。
「取り巻きの方々が距離を測り始めていますものね」
「はい」
私は少し考えました。
「追い詰められたら、次に何をするか分かりませんね」
学習室が静まりました。
ベアトリス様がこのまま大人しくなるでしょうか。
分かりません。
むしろ、追い詰められたことで別の動きに出る可能性もあります。
殿下は静かに言いました。
「ナリア、ルイート嬢、バートン嬢。しばらくは、本当に一人にならないでほしい」
いつものような心配の言葉。
でも、今日は以前より落ち着いています。
「命令ではない。お願いだ」
その一言に、ナリア様が少し目を見開きました。
命令ではない。
お願い。
殿下が、相手の意思を尊重する言い方を選んだのです。
ナリア様は柔らかく微笑みました。
「はい。気をつけます」
私とエレナ様も頷きました。
「ありがとうございます、殿下」
「私も気をつけますわ」
殿下は少しだけ安心したようにしました。
その日の帰り道。
私はナリア様とエレナ様と三人で廊下を歩きました。
夕方の光が長く伸び、窓の外の空は淡い橙色に染まっています。
ナリア様は少し疲れているようでしたが、表情は穏やかでした。
「ナリア様、今日の食堂でのご対応、とても立派でした」
私が言うと、ナリア様は少し頬を赤くしました。
「怖かったです」
「そう見えませんでしたわ」
エレナ様が言うと、ナリア様は小さく笑います。
「見えなかったなら、よかったです」
少し沈黙が落ちました。
それからナリア様は、窓の外を見ながら言いました。
「私、以前なら何も言えなかったと思います」
「ナリア様……」
「可哀想だと言われたら、そうなのかもしれないと俯いていたかもしれません。でも今は……少し違うのです」
彼女は胸元に手を当てました。
「殿下が、私の言葉を聞くと言ってくださいました。ルイート様も、バートン様も、私の言葉を待ってくださいます。だから、私も自分で言っていいのだと思えます」
その言葉に、胸が温かくなりました。
殿下の変化は、ナリア様の変化にもつながっています。
そしてナリア様の変化は、殿下をさらに変えている。
きっと、人と人が向き合うとは、そういうことなのでしょう。
どちらか一方が変わるのではなく、互いの一歩が相手の一歩を支える。
「ナリア様は、十分ご自分の言葉で立っておられます」
私が言うと、ナリア様は少し照れたように笑いました。
「まだ震えていますけれど」
「震えていても、立っていればよいのではないでしょうか」
エレナ様が優しく言いました。
「私もそう思います」
ナリア様は頷きました。
「ありがとうございます」
校舎を出ると、夕方の風が頬を撫でました。
中庭の向こう、少し離れた場所にベアトリス様の姿が見えました。
彼女は一人ではありません。
けれど、取り巻きの数は以前より少ない。
イレーヌ様はいません。
セシリア様もいません。
白い扇を手にしたベアトリス様は、こちらに気づくと、ゆっくり微笑みました。
その笑みは、いつも通り美しい。
けれど、どこか冷たい。
そして、ほんの少しだけ鋭い。
まだ終わっていません。
私はそう感じました。
彼女はきっと、このまま静かに引く人ではありません。
でも、こちらも以前とは違います。
殿下は怒りを制御し始めました。
ナリア様は自分の言葉で立ち始めました。
セシリア様は話し始めました。
そして私たちは、正しい形で進むことを選んでいます。
私は夕焼けの空を見上げました。
王太子殿下。
今日のあなたは、裁く言葉を選ぼうとしました。
怒りで叩くのではなく、責任を明らかにするための言葉を。
どうか明日も。
正しさを刃にせず、大切な人たちが胸を張って立てる道を選んでくださいませ。




