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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第17話 王太子殿下、見守る場所に立つ


 見守る、という言葉は、優しく聞こえます。


 けれど実際にやってみると、これほど難しいものはありません。


 助けたいのに、手を出さない。


 止めたいのに、止めきらない。


 危ないかもしれないと分かっていても、相手が自分の意思で進もうとしているなら、その一歩を奪わない。


 それは、ただ黙っていることとは違います。


 信じて、待つことです。


 そして今のアルノルド殿下にとって、それは「好きだ」と言うより難しい訓練だったのかもしれません。


「ナリアがセシリア嬢と話す場を作る」


 朝の開放学習室で、殿下は低く繰り返しました。


 机の上には、今日の学術研究会の資料。


 その横には、殿下の心得を書いた紙。


『待つ』

『焦らない』

『任せる』

『追い詰めない』

『呼吸』


 文字だけ見れば、恋愛相談というより精神修行のようです。


 けれど、どれも今の殿下には必要なものばかりでした。


 レオン様は淡々と頷きます。


「はい。ただし、ナリア様お一人では動かしません。ルイート嬢かバートン嬢が同席する。場所は開放学習室か、図書棟横の回廊。周囲に人の気配があり、なおかつ大声で聞かれにくい場所が望ましいです」


「僕は?」


 殿下が即座に尋ねました。


 声は落ち着いているようで、少しだけ早い。


 私は扇に手を伸ばしかけましたが、今回はまだ止めません。


 殿下自身が気づくかを見たいからです。


 レオン様も同じ考えだったのでしょう。


 何も言わず、殿下を見ました。


 殿下は一瞬黙り、それから深く息を吸いました。


「……僕が近くにいると、セシリア嬢が怯えるかもしれない」


「はい」


 レオン様が静かに答えます。


「王太子殿下が近くにいるというだけで圧になります」


「だが、ナリアに何かあったら」


 殿下の声が揺れました。


 その瞬間、私は小さく咳払いをしました。


「こほん」


 殿下は口を閉じました。


 そして、自分の紙を見ます。


 任せる。


 待つ。


 焦らない。


 彼はその文字をしばらく見つめていました。


 やがて、拳をゆっくり開きます。


「……分かっている」


 小さな声でした。


「僕は、少し離れた場所にいる。見える距離ではなく、必要ならすぐ動ける距離に」


 レオン様が頷きました。


「それが妥当です」


「君も一緒にいてくれ」


「もちろんです」


 殿下はほっとしたように息を吐きました。


 けれど、その表情はまだ硬い。


 ナリア様が自分から動こうとしている。


 それを止めたくない。


 でも心配でたまらない。


 その二つが、殿下の中でぶつかっているのが分かりました。


「殿下」


 私は静かに声をかけました。


「はい」


「ナリア様は昨日、『一人では動かない』と約束してくださいました」


「ああ」


「そして、無理はしないとも」


「ああ」


「なら、その言葉を信じましょう」


 殿下は私を見ました。


 その目には、不安がありました。


「信じることと、心配しないことは違うのだな」


「はい」


 私は頷きました。


「心配してもいいのです。ただ、その心配でナリア様の意思を塞がないことが大切です」


「……難しい」


「難しいです」


 そこは否定しません。


 簡単なら、殿下は今ここで恋愛初等心得を増やし続けていません。


「ですが、ナリア様は殿下が任せてくださったことを、きっと嬉しく思っておられます」


 殿下の耳が、少し赤くなりました。


「そうだろうか」


「はい」


「……なら、耐える」


 その言い方があまりにも真剣で、エレナ様がいれば笑いを堪えたでしょう。


 今日はまだ来ていません。


 少し残念です。


「では、今日の流れを確認します」


 レオン様が資料を整えました。


「昼休み、セシリア嬢の動きを確認します。彼女がベアトリス嬢や取り巻きから離れる瞬間があれば、ルイート嬢とバートン嬢が自然に声をかける。ナリア様は後から合流する形がよいでしょう」


「なぜ後から?」


 殿下が尋ねます。


「最初からナリア様がいると、セシリア嬢が警戒するかもしれません。ルイート嬢に昨日話しかけようとした以上、まずはルイート嬢が受け止める方が自然です」


 私は少し緊張しました。


 セシリア様が何かを言いかけた時の青白い顔を思い出します。


 あれは、何だったのでしょう。


 罪悪感か。


 恐怖か。


 助けを求める気持ちか。


 まだ分かりません。


「分かりました」


 私は頷きました。


「ただし、私一人では近づきません。必ずエレナ様と一緒に」


「はい」


 レオン様は頷きます。


 殿下が少し安心したようにしました。


 その姿を見て、私はふと思いました。


 殿下は変わっています。


 以前なら、きっと「僕が直接聞く」と言ったでしょう。


 あるいは「そんな危険なことはするな」と、ナリア様の意思ごと止めたかもしれません。


 でも今は、心配しながらも、任せようとしている。


 それは、確かな成長でした。


 朝の授業が始まると、私はいつも以上に周囲を観察してしまいました。


 セシリア・モートン子爵令嬢。


 彼女は今日もベアトリス様の近くにいました。


 ただ、以前よりもさらに影が薄くなったように感じます。


 取り巻きの一人として後ろに立ち、必要な時だけ小さく頷く。


 発言はほとんどありません。


 それなのに、時折こちらを見る。


 視線が合うと、すぐに逸らす。


 その様子は、やはり何かを抱えているように見えました。


 しかし、私がそう思うのは、すでに彼女を疑っているからかもしれません。


 だから、何度も自分に言い聞かせました。


 決めつけない。


 追い詰めない。


 事実を見る。


 これは殿下だけでなく、私たち全員の課題です。


 授業の合間、エレナ様が私の隣へ来ました。


「セシリア様、今日も落ち着きませんわね」


「はい」


「昼休みが勝負かもしれません」


「勝負と言うと、緊張します」


「では、お茶会前の軽い会話だと思いましょう」


「余計に緊張します」


 エレナ様は小さく笑いました。


「マリア様は真面目ですわね」


「この状況で不真面目にはなれません」


「それもそうですわ」


 彼女は少しだけ声を落としました。


「ナリア様には、昼休み前に私から自然に伝えます。無理に近づかず、私たちが合図をしたら来ていただく形で」


「お願いします」


「合図は?」


「……咳払い?」


 自分で言ってから、私は少し嫌になりました。


 殿下の合図が染みつきすぎています。


 エレナ様は楽しそうに目を細めました。


「殿下以外にも有効か、試してみましょうか」


「やめてください」


「では、ハンカチを落とすことにしましょう」


「それも目立ちませんか」


「自然に拾えば大丈夫ですわ」


 こうして、私たちは妙に貴族令嬢らしい合図を決めました。


 ハンカチを落とす。


 ナリア様がそれを見たら、少し時間を置いて合流する。


 まるで小さな作戦です。


 いえ、実際に作戦なのですが。


 昼休み。


 食堂ではなく、中庭に近い回廊を選びました。


 セシリア様は、ベアトリス様たちと食堂へ入ったものの、しばらくして一人で席を立ちました。


 手には小さな包み。


 おそらく昼食をあまり取れなかったのでしょう。


 彼女は食堂の喧騒から逃げるように、回廊へ向かいました。


 私とエレナ様は少し距離を取りながら後を追います。


 もちろん、露骨にならないように。


 回廊には昼休みの穏やかな空気が流れていました。


 外には中庭の花壇。


 石造りの柱の間から、柔らかな風が入ってきます。


 セシリア様は柱の陰で立ち止まり、小さく息を吐きました。


 肩が震えています。


 私はエレナ様と視線を交わしました。


 今です。


「モートン様」


 私が声をかけると、セシリア様はびくりと肩を揺らしました。


 振り返った顔は、青白い。


「あ……ルイート様」


「驚かせてしまい、申し訳ありません」


「い、いえ」


 セシリア様は視線を泳がせます。


 逃げたい。


 でも、何か言いたい。


 そんな顔でした。


 エレナ様が優しく微笑みました。


「少し風に当たっていらしたのですか?」


「はい……」


「食堂は少し騒がしいですものね」


「……はい」


 会話は、当たり障りのないものから始めます。


 追い詰めない。


 セシリア様は胸元で手を握っていました。


 私は静かに言いました。


「昨日、私に何かお話ししようとしておられましたか?」


 セシリア様の目が揺れました。


 直接すぎたでしょうか。


 けれど、遠回しにしすぎても逃げられてしまいます。


「私は……」


 セシリア様の声が震えました。


「私は、何も……」


 そこまで言って、彼女は唇を噛みました。


 目元が赤くなります。


 エレナ様が一歩近づきすぎない距離で言いました。


「無理に話さなくても大丈夫ですわ」


 セシリア様が顔を上げました。


「え……?」


「でも、もし何かを話したいと思っているなら、私たちは聞きます」


 私は頷きました。


「ここで聞いたことを、勝手に広げることはしません」


「でも……」


 セシリア様は周囲を見ました。


 誰かを恐れている。


 明らかでした。


 その時、エレナ様が自然にハンカチを落としました。


 白いハンカチが床に落ちます。


 少し離れた場所にいたナリア様が、それに気づいたのが視界の端で分かりました。


 彼女はすぐには来ません。


 少し間を置き、回廊の花壇を見るふりをしながら、ゆっくりこちらへ近づいてきます。


 自然です。


 よくできています。


 セシリア様はまだ気づいていません。


「モートン様」


 私は続けました。


「昨日の掲示板の件で、何かご存じなのですか?」


 セシリア様の顔がさらに白くなりました。


「わ、私は貼っていません」


 その言葉は、ほとんど反射のようでした。


 私とエレナ様は目を合わせました。


 貼っていません。


 誰も、あなたが貼ったとは言っていません。


 でも、彼女はそう言った。


「そうですか」


 私は静かに返しました。


「では、誰かが貼ったところを見たのですか?」


 セシリア様は答えません。


 ただ、指先が震えています。


 その時、ナリア様が近くまで来ました。


「ごきげんよう」


 穏やかな声。


 セシリア様が振り返り、目を見開きました。


「ク、クラウゼン様……」


「驚かせてしまいましたか。申し訳ございません」


 ナリア様は、少し距離を取って立ちました。


 セシリア様を囲まないように。


 逃げ道を塞がないように。


 それは、昨日研究会で話した通りの動きでした。


 ナリア様も、ちゃんと考えている。


「モートン様」


 ナリア様は静かに言いました。


「私たちは、あなたを責めに来たのではありません」


 セシリア様の唇が震えました。


「でも……私は……」


「怖いのですね」


 ナリア様の声は、とても柔らかかった。


 その言葉に、セシリア様の目から涙がこぼれました。


 彼女は慌てて拭おうとしましたが、うまくいきません。


「ごめんなさい……」


 小さな声。


 謝罪。


 私は息を呑みました。


「ごめんなさい……私、止められなくて……でも、貼ってはいないんです。本当に、私は……」


「落ち着いてください」


 エレナ様が優しく言いました。


「ゆっくりで大丈夫です」


 セシリア様は震えながら、少しずつ言葉を続けました。


「前の日に……紙を、見ました。あの文を……誰かが書いていて……でも、名前はなくて……冗談だと思ったんです。貼るなんて思わなくて」


「誰が書いていたのですか?」


 私が尋ねると、セシリア様は唇を噛みました。


 怖がっています。


 言えない。


 でも、言いたい。


 ナリア様がそっと言いました。


「今すぐ名前を言えないなら、それでも構いません」


 セシリア様が驚いたようにナリア様を見ました。


「え……」


「ですが、これだけ教えてください。その方は、あなたに何かを命じましたか?」


 セシリア様は、しばらく震えていました。


 そして、ほんのわずかに頷きました。


「……掲示板の近くに、人がいないか見ていて、と」


 空気が冷えました。


 私は指先に力が入るのを感じました。


 見張り。


 つまり、セシリア様は少なくとも関わっている。


 ただし、貼った本人ではない可能性が高い。


 そして命じた誰かがいる。


「誰に命じられたのですか」


 私の声は、少しだけ硬くなってしまいました。


 セシリア様は肩を震わせます。


 しまったと思った瞬間、ナリア様が私をちらりと見ました。


 追い詰めない。


 その視線に、私は小さく頷きました。


 ナリア様はセシリア様へ向き直ります。


「今は名前を言わなくても大丈夫です」


「でも……」


「ただ、このままにすると、また誰かが傷つきます」


 ナリア様の声は震えていました。


 けれど、強さがありました。


「ルイート様も、殿下も、そしてあなたも」


 セシリア様が、はっと顔を上げました。


「私も……?」


「はい。あなたも怖い思いをしているように見えます」


 セシリア様は、とうとう両手で顔を覆いました。


 泣き声を堪えようとしています。


「言ったら……もう、学園にいられなくなるかもしれないって……家にも迷惑がかかるって……」


 胸が冷たくなりました。


 脅しです。


 誰かが、彼女を脅している。


 エレナ様の表情が、珍しく厳しくなりました。


「それを言ったのは、誰ですか」


 セシリア様は答えませんでした。


 ただ、小さく震えるだけです。


 でも、その沈黙だけで十分でした。


 今、無理に言わせるべきではありません。


 私は静かに言いました。


「モートン様。今日話してくださったことは、グラシア様を通じて教師へ伝えます」


「えっ」


 セシリア様が怯えた顔をしました。


「お名前は、必要以上に広げません。ですが、このままではあなたも危険です」


 ナリア様も頷きました。


「私も、あなたがさらに追い詰められることは望みません」


「クラウゼン様……」


「お願いです。次に何か言われたら、一人で抱えないでください」


 セシリア様は泣きながら頷きました。


 その時、遠くからベアトリス様の声が聞こえました。


「セシリア様?」


 セシリア様の体が硬直します。


 私たちも視線を向けました。


 回廊の向こうから、ベアトリス様が歩いてきます。


 今日は一人ではありません。


 取り巻きの令嬢を一人連れています。


 その微笑みは相変わらず美しい。


 けれど、目は笑っていません。


「こちらにいらしたのね」


 ベアトリス様は、私たちを順に見ました。


「皆様で、何のお話ですの?」


 セシリア様は完全に怯えています。


 ナリア様が、一歩だけ前に出ました。


 殿下なら止めたでしょうか。


 でも、殿下はここにいません。


 そしてナリア様は、自分の意思で立っています。


「少し、体調が優れないようでしたので、風に当たっていただけです」


 ナリア様は静かに言いました。


 嘘ではありません。


 セシリア様は実際に顔色が悪い。


 ベアトリス様は、ゆっくり瞬きしました。


「そうでしたの。セシリア様は繊細ですものね」


 繊細。


 その言葉に、セシリア様がまた震えました。


 ナリア様は静かに続けました。


「ご友人なら、無理をさせない方がよろしいかと」


 空気が、ぴんと張りました。


 ベアトリス様の笑みが、ほんの少し固まります。


「もちろんですわ。私はいつも、セシリア様を気にかけています」


「それなら安心です」


 ナリア様は礼儀正しく微笑みました。


 柔らかい。


 けれど、引かない。


 私はその横顔を見て、胸が熱くなりました。


 ナリア様は強い。


 怖がりながらも、ちゃんと立っている。


 ベアトリス様はそれ以上追及せず、セシリア様へ手を差し出しました。


「行きましょう、セシリア様」


 セシリア様は、迷うように私たちを見ました。


 私は小さく頷きました。


 今は、行ってください。


 でも、一人ではないと覚えていてください。


 そう伝わったかは分かりません。


 セシリア様は涙を拭い、ベアトリス様の後ろについて歩いていきました。


 その背中は、とても小さく見えました。


 放課後の学術研究会は、いつもより緊張感を帯びていました。


 私たちは昼休みの出来事を、すべて殿下とレオン様へ伝えました。


 殿下は黙って聞いていました。


 怒りがないはずがありません。


 しかし、彼は最後まで口を挟みませんでした。


 聞き終えると、深く息を吸い、吐きました。


「セシリア嬢は、見張りを命じられた」


「はい」


「名前は言えなかった」


「はい」


「脅されている可能性がある」


「はい」


 殿下の拳が握られます。


 でも、すぐに開きました。


「……僕は、今すぐベアトリス嬢を問いただしたい」


 正直な声。


 けれど次の言葉は違いました。


「だが、それはしない」


 レオン様が頷きます。


「賢明です」


「セシリア嬢を守る方が先だ」


 殿下は言いました。


「彼女が話せる場を、教師側に整えてもらう。家への影響も含めて、慎重に」


 私は目を見開きました。


 殿下。


 本当に、変わっています。


 疑わしい相手を断罪するより、脅されているかもしれないセシリア様を守ることを先に考えた。


 レオン様も少しだけ目を細めました。


「その方向で、私から教師へ話します」


「ああ。頼む」


 殿下はナリア様へ向き直りました。


「ナリア」


「はい」


「今日、君がセシリア嬢と話してくれたことに感謝する」


 ナリア様の頬が、少し赤くなりました。


「私は、少し話しただけです」


「それでもだ」


 殿下は、静かに言いました。


「君が相手を追い詰めずに聞いてくれたから、彼女は話せたのだと思う」


 ナリア様の瞳が揺れました。


「……ありがとうございます」


「だが、無理はしないでほしい」


「はい」


「任せると言った。だから、君の意思は尊重する」


 殿下は少し苦しそうに、けれどまっすぐ言いました。


「でも、心配はしている」


 ナリア様は一瞬驚き、それから柔らかく微笑みました。


「はい。心配してくださって、ありがとうございます」


 殿下の顔が赤くなりました。


 けれど、口を閉じます。


 呼吸もできています。


 よろしいです。


 エレナ様が、机の下でそっと親指を立てました。


 貴族令嬢としてはどうかと思いますが、今日は私も同じ気持ちでした。


 研究会の最後、レオン様がまとめました。


「本日の時点で確実に言えるのは、セシリア嬢が匿名文に関する何らかの事情を知っており、誰かに見張りを命じられたということです」


「はい」


「ただし、命じた相手の名はまだ出ていない。したがって、こちらから特定の人物を非難することはしません」


「はい」


「教師側には、セシリア嬢が安心して話せるよう配慮を求めます。殿下の名を出しすぎると圧になるため、私が中心に動きます」


 殿下は頷きました。


「任せる」


 その一言は、レオン様にも向けられたものでした。


 レオン様は静かに礼をしました。


「承知しました」


 夕方。


 研究会を終えて校舎を出ると、空は曇ったままでした。


 太陽は見えません。


 けれど、雲の端には淡い光が残っています。


 中庭の花壇を見ながら、私は今日のセシリア様の涙を思い出しました。


 ごめんなさい。


 貼ってはいない。


 見張っていてと言われた。


 学園にいられなくなるかもしれない。


 あの言葉の一つ一つが、胸に残っています。


 悪意の中心は、まだ見えません。


 けれど、周辺の影が少しずつ形を持ち始めています。


 エレナ様が隣で言いました。


「明日は、もっと動くかもしれませんわね」


「はい」


「セシリア様が話せれば、大きく進みます」


「でも、彼女も怖いでしょうね」


「ええ」


 私は小さく息を吐きました。


「守る相手が増えていきますね」


「そうですわね」


 エレナ様は少し笑いました。


「でも、一人ではありません」


「はい」


 その言葉が、今日も心強かった。


 王太子殿下の恋愛相談から始まったこの奇妙な関係は、いつの間にか誰かを守るための場所になっています。


 殿下は、任せることを覚え始めました。


 ナリア様は、自分の意思で立ち始めました。


 セシリア様は、ほんの少しだけ助けを求め始めました。


 そして私は、待つこと、聞くこと、追い詰めないことを学んでいます。


 私は曇り空を見上げ、心の中で静かに呟きました。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、任せるだけでなく、守る順番も間違えませんでした。


 どうか明日も。


 怒りより先に、誰が今いちばん怯えているのかを見てくださいませ。

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