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境界線の上で、立つ — Standing on the Line —  作者: 和泉發仙


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境界線の外側


第2話:境界線の外側


「それは、誰のための『安全』ですか?」



画面に躍ったその一文字一文字が、網膜に焼き付いて離れない。


三崎は、昨夜のやり取りを反芻しながら、午後のオフィスで冷めきったコーヒーを口にした。


事務用品メーカーの営業推進部。


日々、膨大な「規格」と「エビデンス」に囲まれて働く三崎にとって、数字は絶対的な味方のはずだった。


JIS規格、ISO、社内規定。それらを満たしていれば、胸を張って「問題ない」と言える。


だが、昨夜のあの掲示板の主――「元医者」と名乗る人物の言葉は、その盤石だったはずの足場を、音もなく砂のように削り取っていく。




1. 現場の「沈黙」と、見えないコスト


「三崎さん、例の新製品のリーフレット、文言の最終確認お願いします」


後輩の佐藤が、校正紙を持ってデスクにやってきた。

今回の目玉は、子ども向けの学習デスク『リトル・ガーデン』。表面加工に、最新の防汚・抗菌剤を使用している。


「ここ、『人体への影響を最小限に抑えた安心設計』で通しますよね?」


佐藤の言葉に、三崎の指が止まる。


「最小限」という言葉の裏側に、どれだけの「許容範囲」が含まれているのか。かつてなら気にも留めなかった。しかし、昨夜の掲示板の「短期的な安全性と長期的な影響は同じではない」という言葉が、呪いのように耳の奥で鳴っている。


「……これ、旧来の基準と比べて、どういう風に『最小限』なのか、もう少しだけ詳しく注釈を入れられないかな。例えば、経皮吸収のデータとか」


三崎の問いに、佐藤はあからさまに困惑した顔を浮かべた。


「えっ、でも公的機関の試験データはクリアしてますし、これ以上細かく書くと逆にユーザーが不安になるって、販促チームが……。今のままで『問題ない』はずですよ」


佐藤の背後では、電話のベルとタイピング音がせわしなく交差している。


一秒でも早く承認を出し、印刷機を回さなければならない。説明を増やすことは、コストを増やし、売上を下げるリスクを負うことと同義だ。


「……そうだよな。問題、ないよな」


三崎は自分に言い聞かせるように頷き、承認の印を力なく突いた。



現場は止まれない。


説明しすぎることは、この場所では「不親切」や「ノイズ」として処理されるのだ。


2. 傍観者の迷い:ベテラン広報・野村の視点

デスクを離れる佐藤の背中を、向かいの席からベテラン広報の野村が、眼鏡を指で押し上げながら眺めていた。


彼女はこの会社で20年、数々の不祥事やリコール、そして「安全宣言」の裏側を見てきた。


野村は三崎の迷いに気づいていた。

彼女は知っている。言葉を削ぎ落とせば落とすほど、製品は美しく、そして「無菌」に見えるようになることを。



「三崎君、冷めたコーヒーは体に良くないわよ。淹れ直してくれば?」


野村の短い言葉に、三崎はハッとして顔を上げた。

「……あ、すみません。そうですね」

「説明しきれないことは、この世の中に山ほどあるわ。でも、それを『無い』ことにしちゃいけないのよね」


野村はそれだけ言うと、再びパソコンの画面に向き合った。彼女もまた、組織の中で「言わないこと」を選択し続けてきた一人だった。




3. 新しい声:ID「境界の観測者」

帰宅後、三崎は吸い寄せられるように再びパソコンを開いた。

昨夜のトピックには、さらに書き込みが増えていた。

その中で、ひときわ異質な空気を纏った投稿が目に留まる。



IDは、「境界の観測者」。


欧州のある国では、添加物の認可にあたって『予防原則』という考え方が徹底されています。

「安全が証明されていないものは使わない」のではなく、

「疑わしいものは、安全が証明されるまで市場に出さない」というスタンスです。


三崎は、乾いた唇を噛みながらキーボードを叩いた。


日本の基準が甘いということでしょうか?

一分もしないうちに、レスポンスが返ってくる。


甘いか、厳しいかの二択ではありません。

思想の違いです。

日本は『経済の循環』を止めないための安全を選び、

欧州の一部は『生命の蓄積』を優先する安全を求めている。


どちらも嘘ではありませんが、見ている時間軸が違います。



三崎は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

時間軸。


今日一日を無事に過ごすための「安心」と、数十年後の健康を保障しようとする「安全」。

テレビの専門家が語っていたのは、間違いなく前者だった。




4. 誰がための「安心」か


三崎は、自分が承認したばかりのリーフレットのPDFを画面に表示させた。



『安心設計』


その美しいフォントが、急に薄っぺらな皮膜に見えた。


自分は今日、後輩の佐藤に、そして顔も見えない多くの子どもたちに、どちらの時間軸を売ったのだろうか。



画面の端には、相変わらず元医者からの返信が静かに残っている。


現場では、説明する時間が取れなかった。



その「時間」を作らないように設計されているのが、今の社会なのだ。


三崎はノートパソコンを閉じ、真っ暗な部屋で独り、深く息を吐いた。





後書き


安心は、誰かが考えるのをやめた場所に生まれる。

三崎は今日、その「やめた側」の人間として印鑑を突きました。


それは組織人としての正解であり、一人の人間としての、小さなしこりです。



「境界の観測者」が投げかけた、異なる国の時間軸。

次は、その思想が三崎の日常を、さらに揺さぶり始めます。



――続きます。

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