-Medical Industrial Complex- 減少傾向
-Medical Industrial Complex-
前書き
この話には、悪者も、正義も、劇的な事件も出てこない。
ただ、「うまく回っているはずの世界」がある。
それは壊れてはいない。むしろ、あまりに精巧に、よく出来すぎている。
だからこそ、どこがおかしいのかを指さすことが、少しだけ難しい。
これは、その巨大な機構の中に立っている、一人の男の話だ。
第一話 減少傾向
会議室の空気は、不自然なほど乾いていた。
高性能な空調システムが、湿度を常に45パーセントに保っている。それは人間にとって最も快適な数値のはずだが、三崎にとっては、喉の奥がじりじりと焼けるような、砂漠の静寂に似ていた。
壁際の大型モニターには、精密な折れ線グラフが映し出されている。
青い線は、数年にわたってなだらかに右下へ向かっていた。急落ではない。崖から落ちるような衝撃はなく、ただ、熟練の外科医がメスを滑らせるように、丁寧に、かつ計画的に管理された下降曲線だった。
「……減少傾向だな」
会議机の端に座る課長が、小さく呟いた。
その声には、一切の感情が排されていた。売上の低迷を嘆く悲壮感もなければ、市場の変化を危惧する焦燥もない。それはただ、朝起きて窓の外が曇っていることを確認するような、事務的な「事実の追認」だった。
三崎は、その言葉を鼓膜の端で受け流しながら、手元のタブレットの隅に小さく丸を打った。意味はない。ただ、こうして指を動かしていないと、自分もこの乾いた空気の一部になって消えてしまいそうだった。
「はい。前年比で三・〇パーセント減。ただし、これはQ3(第3四半期)の予測モデルに基づいた、想定の範囲内です」
三崎の隣に座る、入社三年度目の佐伯が、淀みのない声で補足した。
佐伯はこの「システム」の申し子のような若者だ。彼のネクタイは一ミリの歪みもなく、その瞳は常に効率的な解を求めて動いている。
「原材料コストは安定しています。供給ラインの自動化により、歩留まりも向上。流通ルートの最適化も完了しています。つまり、供給側の不備ではありません」
「じゃあ、現行ラインは維持でいいな」
「はい。需要の調整フェーズに入ったと判断します」
誰も異を唱えない。拍子抜けするほど、会議は滑らかに進んでいく。
三崎は椅子の背に体重を預け、天井の埋め込み式ライトを見つめた。
(――減らないよりは、マシだ)
それが、この「メディカル・インダストリアル・コンプレックス」における暗黙の了解だった。
もし数字が減らなければ、無理にでも「増やさなければ」ならない。需要を掘り起こし、新たな「患者」や「顧客」を創出しなければならない。増やすには理由がいる。理由には膨大な説明文書が必要になり、説明には責任が伴う。
だが、減っているなら話は別だ。
「市場の成熟」「人口動態の変化」「適正化の結果」……いくらでも便利な言葉が用意されている。「仕方のないこと」として処理される下降は、この場所では、最高級の安らぎだった。
配布された資料には、「安全」「基準内」「問題なし」という言葉が、まるで呪文のように並んでいる。
そのどれもが真実だ。科学的根拠に基づき、法規制を遵守し、倫理委員会の承認を得ている。少なくとも、誰からも指を差されない程度には、正しかった。
三崎はその全てを知っていた。
現場の隠微な匂いも、数字の裏にある冷徹な計算も、報告書の行間に隠された沈黙も。
だから、三崎は何も言わなかった。
ここで声を上げれば、会議は長くなる。長くなれば、誰かの帰宅時間が遅れる。遅れた先にあるのは、「より良い世界」ではなく、ただの「調整作業」だ。
この世界において、調整は変化ではない。現状を維持するための摩擦低減に過ぎない。
会議は、予定されていた終了時刻の二分前に終わった。
誰も深いため息をつかず、誰も肩を落とさない。全員が、まるで高性能な部品のように、音もなく席を立ち、次のタスクへと吸い込まれていく。
それが、この職場の「健全さ」の証明だった。
オフィスを出ると、夕方の空気が少し湿っていた。
三崎は駅へ向かう人波に紛れながら、スマートフォンをポケットから取り出した。通知はない。妻からのメッセージも、友人からの誘いも。
帰宅路、駅前のコンビニの看板が網膜を焼いた。
無意識に、足がそちらへ向く。自動ドアが開く電子音。キンと冷えた空気。棚に隙間なく並んだ商品。
ここは、完成されている。
一歩足を踏み入れれば、自分が何を欲しているか、何を食べるべきかが、陳列によって提示される。迷うというノイズさえも、ここでは丁寧に排除されていた。
弁当の棚の前で、三崎は一瞬だけ立ち止まった。
『バランス管理栄養食:鶏肉の黒酢あんかけ』
裏面の栄養成分表示に視線を落とす。塩分、脂質、カロリー。全てが「標準」の枠内に収まっている。三崎はそれを手に取った。
「考えるのは、あとでいい……」
レジに向かうと、見慣れた店員が立っていた。
白髪の混じった、古風なほど背筋の伸びた老人だ。名札には『佐藤』とあるが、三崎は密かに彼を『観測者』と呼んでいた。
「いらっしゃいませ」
声は穏やかで、過不足がない。
三崎は弁当と、いつものラベルレスの水を差し出した。
「温めますか?」
「……お願いします」
電子レンジが唸り声を上げる。その六十秒間、店内には妙な親密さと、それ以上の断絶が流れた。
「最近、この時間、少し若い人が増えましたね」
老人が、レジの液晶画面を見つめたまま、独り言のように言った。
「そうですか」
「ええ。皆さん、あなたと同じような色のスーツを着て、同じような顔をして、同じようなものを買っていかれます」
三崎は、その言葉に潜む毒を感じ取ったのか、あるいは単なる世間話として処理したのか、自分でも分からなかった。
「……減るものもあれば、増えるものもある、ということですか」
三崎が投げやりな答えを返すと、老人はふっと口角を上げた。
「さあ、どうでしょう。ただ、私たちは、数字が増えることを『成長』と呼び、数字が減ることを『衰退』と呼びますが……中身が入れ替わっているだけかもしれませんな」
チーン、という電子音が会話を断ち切った。
温められた弁当を、老人は丁寧な手つきで袋に入れる。
「ありがとうございました。お体、大切に」
外に出ると、本格的な夜が始まっていた。
街灯はLEDの白い光を放ち、街を清潔に照らし出している。ゴミ一つ落ちていない歩道を、三崎は弁当の袋を揺らしながら歩く。
減っているのは、本当に数字だけなのだろうか。
会議室のグラフ。減少する薬品の需要。それと反比例するように増えている「何か」。
三崎は考えを振り払うように首を振った。
(――考えすぎだ)
この世界は、ちゃんと回っている。
誰も死なない。誰も飢えない。誰も苦しまない。
もし苦しみがあるなら、それは適切に「管理」され、数値化され、やがて緩やかな減少曲線を描くはずだ。
問題はない。
自分にそう言い聞かせるように、三崎は影の消えた夜の街を、一歩ずつ踏みしめて歩き続けた。
後書き
第1話では、何も起きていません。
ただ、システムの一部がほんの少しだけ摩耗した音が響いただけです。
「問題がない」ことと、「考えなくていい」ことは、同じではありません。
三崎が目を逸らし続けている「減少」の正体が、次第にその輪郭を現します。
次は、言葉だけが先に出会います。
――続きます。




