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境界線の上で、立つ — Standing on the Line —  作者: 和泉發仙


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第十七話 乗らない人

前書き


選ばないことは、

拒否ではない。


それは、

まだ動かないという

意思だ。




ミオは、靴紐を結び直していた。


結び目が、どうしても気に入らない。

引き締めるときつく、

緩めるとほどけやすい。


何度かやり直して、

最後は少し歪んだまま、

立ち上がった。


それでいい。


スマートフォンを開く。

通知はない。


正確には、

通知が来ないようにした。


設定画面で、

いくつかのチェックを外しただけだ。


それだけで、

世界は少し静かになる。


「……楽」


誰に言うでもなく、

ミオは呟いた。



昼。


川崎駅の少し外れた公園。

ベンチが並び、

木陰が落ちている。


人はいるが、

互いに関わらない距離。


ミオは、

ベンチの端に座った。


紙袋から、

安いパンを取り出す。

賞味期限が近い。

値引きシールが貼られている。


一口かじる。


味は、

知っている味だった。


「選んでるつもり、

なんだけどね」


ミオは、

パンを見ながら思う。


選択肢は、

多い。


でも、

選べる範囲は、

いつも同じだ。


それでも、

“乗らない”ことはできる。


全部を拒否するのではなく、

今は動かない。


それだけ。



三崎は、

その頃、

同じ公園の反対側を歩いていた。


偶然だった。


遠くに、

見覚えのある後ろ姿。


立ち止まり、

声をかけようとして、

やめる。


話しかける理由が、

見つからなかった。


助ける用事も、

説明する義務もない。


三崎は、

距離を保ったまま、

同じ空気を吸う。


それで、

十分だと思った。



エリオットは、

少し離れたカフェで、

ノートを開いていた。


書いているのは、

論文ではない。


メモだ。


数えない、という選択

=拒否ではなく

=速度の調整


彼は、

ペンを止める。


「……言葉にすると、

また速くなる」


そう思い、

ページを閉じた。



公園では、

ボランティアらしき人たちが、

チラシを配っていた。


明るい声。

揃った服。


「何かお困りですか?」


ミオの前にも、

一人が立つ。


「別に」


即答。


「今は大丈夫、

ってことですね」


その言い方が、

少しだけ引っかかる。


今は、

という言葉。


「今も、

これからも」


ミオは言った。


「大丈夫」


ボランティアは、

一瞬だけ戸惑ったが、

すぐに笑顔に戻る。


「分かりました。

何かあったら、

いつでも」


チラシを差し出す。


ミオは、

受け取らなかった。


「置いといて」


ボランティアは、

少し驚いたが、

ベンチの端に置いた。


ミオは、

それを見なかった。



三崎は、

そのやり取りを

遠くから見ていた。


介入しない。

評価しない。


ただ、

覚えておく。


エリオットは、

カフェの窓越しに、

同じ光景を見ていた。


三人は、

同じ場にいながら、

交わらない。


それは、

失敗ではなかった。



ミオは、

パンを食べ終え、

立ち上がる。


ベンチの端に置かれた

チラシを、

一瞬だけ見下ろす。


それから、

風で飛ばないよう、

少しだけずらした。


拾わない。

捨てない。


ただ、

そこに残す。


「……今じゃない」


それだけ言って、

歩き出す。



三崎は、

その背中を

追わなかった。


エリオットも、

ノートを閉じた。


選ばないこと。

乗らないこと。


それは、

世界を拒否する態度ではない。


世界に、

少し待ってもらう

態度だ。



後書き


支援に乗らない人は、

反抗的なのではありません。


ただ、

自分の速度を

失いたくないだけです。


速度は、

人を守ります。


次に起きるのは、

その速度が

ぶつかる瞬間です。


速い善意と、

遅い生活が、

同じ場所で

すれ違います。


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