第十五話 数えられない人
前書き
見えなくなる、というのは、
消えることではない。
見えなくしても、
そこにいる。
ただ、
誰も数えなくなるだけだ。
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ミオは、その夜も腹が減っていた。
空腹は、
感情よりも先に来る。
理由も、
意味もいらない。
コンビニの前を通り過ぎた。
あの明るい箱。
あそこに行けば、
とりあえず何かは手に入る。
でも、
今日は入らなかった。
理由はない。
ただ、
気分じゃなかった。
川崎の駅から少し外れた通り。
人通りは減り、
店の灯りもまばらになる。
ミオは、
スマートフォンを取り出し、
地図を見るふりをした。
行き先なんて、
決めていない。
決めない、という選択だけが、
今の彼女を動かしていた。
途中、
自販機の前で立ち止まる。
小銭を数える。
百円玉が一枚。
十円玉が三枚。
足りない。
「……ちっ」
舌打ちして、
ポケットに戻す。
そのとき、
背後から声がした。
「寒いね」
知らない声。
若くもない。
年寄りでもない。
振り向くと、
ベンチに座った男がいた。
作業着ではない。
スーツでもない。
中途半端な服装。
「別に」
ミオは答える。
男は、
それ以上踏み込まなかった。
「ここ、
あったかいんだよ」
そう言って、
ベンチの端を軽く叩く。
ミオは、
一瞬だけ迷ってから、
腰を下ろした。
距離は、
腕一本分。
「名前、
聞かないんだ」
ミオが言うと、
男は笑った。
「聞かない方が、
楽なときもある」
ミオは、
その言葉を
少しだけ気に入った。
「今日は、
何してたの」
「何も」
即答。
「何もしてない日って、
疲れるよね」
男は言う。
ミオは、
返事をしなかった。
疲れる、という言葉が、
自分に当てはまるのか
分からなかったからだ。
しばらく、
二人は黙っていた。
車が通り過ぎる音。
遠くの踏切。
誰かの笑い声。
「ここさ」
男が言う。
「前は、
人がもっといた」
ミオは、
首を傾げる。
「前って、
いつ」
「さあ」
男は肩をすくめる。
「でも、
減ったんだよ」
「別に、
追い出されたわけじゃない」
「ただ、
居づらくなった」
ミオは、
その言い方に
既視感を覚えた。
「居づらいって、
なに」
男は、
少し考えた。
「説明しなくちゃ
いけなくなる感じ」
ミオは、
鼻で笑った。
「最悪じゃん」
「だろ」
男は、
笑い返す。
「だから、
みんな散る」
「散って、
数えられなくなる」
ミオは、
空を見上げた。
街灯が、
星を隠している。
「数えられないって、
何が困るの」
男は、
すぐには答えなかった。
「困らないよ」
「ただ」
間を置く。
「助けるときに、
“想定外”になる」
その言葉に、
ミオの指が、
少しだけ動いた。
「想定外ってさ」
ミオが言う。
「便利だよね」
「何でも
そこに入れられる」
男は、
頷いた。
「便利だから、
使われる」
「使われすぎると、
中身が空になる」
ミオは、
ポケットから
飴を一つ取り出した。
いつのか分からない。
コンビニでもらったものだ。
紙を剥き、
口に入れる。
甘い。
「生きてるだけなのにさ」
ミオは言った。
「説明とか、
分類とか、
されると」
「なんか、
間違ってる気がする」
男は、
黙って聞いていた。
「私さ」
ミオは続ける。
「別に、
変えたいわけじゃない」
「ただ、
今日を終わらせたいだけ」
男は、
ゆっくり頷いた。
「それは、
贅沢な望みだよ」
「なんで」
「今日を
終わらせられる人は、
案外少ない」
ミオは、
その意味を
考えなかった。
考えないことが、
今の彼女の
唯一の余裕だった。
しばらくして、
男は立ち上がった。
「じゃあね」
「どこ行くの」
「数えられる場所」
ミオは、
それ以上聞かなかった。
男の背中が、
暗がりに溶ける。
ミオは、
一人でベンチに残った。
腹は、
まだ減っている。
でも、
少しだけ、
世界が
静かになった。
立ち上がり、
歩き出す。
コンビニの光が、
遠くに見える。
今日は、
近づかなかった。
それでも、
明日は分からない。
ミオは、
それでいいと思った。
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後書き
数えられない人は、
弱いのではありません。
ただ、
仕組みの中で
位置が定まらないだけです。
位置が定まらないものは、
扱いにくい。
だから、
視界から外される。
次は、
その“外された存在”を
再び数えようとする動きが
現れます。
それは、
善意の顔をしています。




